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人災派遣会社シリーズ   製作者:紫電改


小説 『人災派遣のフレイムアップ』 
第2話 『秋葉原ハウスシッター』


 

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◆◇◆ 1 ◇◆◇

 
 
  暑い。
 
  視界の中で街路樹が急速に接近しては後方へと流れてゆく。じりじりと天に昇っていく太陽の下、遠近法のお手本のような風景を次々と突っ切りながら、おれは必死に自転車のペダルをこぎ続けた。
 
  暑い。
 
  八月に突入すると、東京に居を構えている己の迂闊さというモノを時々深刻に呪いたくもなってくる。毎日毎日丹念に、アスファルトとコンクリに塗りこめられていく赤外線。それは毎夜の放熱量を徐々に上回り、次第にこの世界をもんわりとした湿気と、縦横に交叉する熱線で築かれた狂気の檻じみたものへと変えていくのである。特に今年は例年にない異常気象……なんか毎年そんな事を言っているような気もするが……とのことらしく、もはや沸き立つ熱気が視覚に捉えられるほどである。そう、ここはまさに牢獄。地獄巡りナンバー4、焦熱地獄。ゲェ――ッ、このロープ蛇の皮で出来ている――っ。
 
  暑い。
 
  ……いかん。少し気を抜くと思考がどんどん横道に逸れていく。おれは自転車の籠に放り込んであるペットボトルを取り出し、少量口に含んだ。一応防熱素材で覆っているはずなのに、すっかり温くなってしまっている。ただいまおれに携帯が許された水分はこのペットボトル250ml一本のみ。それももはや過半を使いきり残りはごくわずか。必死に自転車を漕ぐおれの背中に、近頃の環境汚染のせいか、イロイロとヤバイ種類の波長を含んでいそうな太陽光線がざすざすと突き刺さってゆく。Tシャツに覆われた胴はひたすらに熱が篭り、覆われていない二の腕から先はむしろ塩を擦りこまれているがごとき痛みだった。
 
  暑い。
 
  街道沿いにいくつも見かけるコンビニが、涼んでいけよ、冷たい飲み物もここにあるぞ?と脳内のエセ天使どものごとき誘惑を投げかけてくるのを必死に振り払い、ペダルを踏み込んでゆく。一度コンビニに入ってしまったら再び気力を奮って自転車に跨れる自信はまったくなかった。それにどのみち、コンビニで飲み物を買えるほど財政に余裕があるなら、最初から私鉄に乗って悠々と冷房の効いた車内を満喫している。目下のおれの所持金は六十五円……あと十五円あれば小ぶりの紙パックのジュースが買えると言うのに……そんな思考すらも振り捨てて、必死に新宿は高田馬場を目指して自転車は進んでゆく。
 
  暑い……。
 
  体内物質の残量を管理することは、おれにとっては容易い。しかし忌々しいことに、把握できているからこそ、今おれの体内に残留している水分がかなり危険な数値まで減少している、という事態が極めてリアルに理解できてしまう。猶予は無い。そして何よりも、あの忌々しい事務所にたどり着けなければ生き延びることが出来ないという状況こそが最も忌々しい。そんな思考を神経に巡らせる脳内放電すら惜しみ、おれは疾走した。
 
 
 
  ――そもそもの事の起こりはといえば、八月の頭にちょっとした個人的な事件に遭遇し、その際に(おれにとっては)大量の経費を必要としたのが原因である。ついでにその後遺症で、アパートの自室で二、三日寝込み、食事もままならない状態になっていたりしたわけである。寝込んでいれば少しは体調は良くなるとタカをくくっていたが、じりじりと上昇しつづける室温はおれの体力をむしろ奪っていった。ちなみにエアコン付きの部屋などというものはおれの入居時の選択肢には存在していなかった。
  三日目。事ここに来て、ようやく今の状況は、援軍の無い篭城戦に過ぎないと事態を認識した。そして死力を振り絞ってどうにか起き上がってみれば、元々乏しかった財布の中身はエンプティ、冷蔵庫の中身はスティンキィ、おれの腹はハングリィ、と綺麗に韻を踏んでいたのだった。とにもかくにも、生命活動を維持しなければならない。これでも死んでしまうと色々と彼方此方から文句を言われる身である(文句を言う奴ほどおれの生活を援助してくれないのだが)。そして何はともあれ外に出ようとしてアパートの扉を開き、周囲に広がっているこの焦熱地獄を改めて認識した、とまあこういうワケである。このまま資金もなく外に出ては半日も立たずに死亡が確定するだろう。熱波という兵力にぐるりと包囲されての兵糧攻め。ついでにいうなら保険証は学友に借金のカタに貸し出し中のため病院も不可。進退窮まったおれに、まだ止められていなかった携帯電話からメールの受信音が鳴り響いた。
『仕事。即日。前金。』
  ……差出人は言うまでもないがウチの所長である。たった六文字三単語は、まるでこちらのシチュエーションを全て把握しているかのような三点バーストでおれを貫いた。おれは時計を見やる。電車に乗るカネもない。しかし残された僅かな余力をかき集めればなんとかここから高田馬場までの自転車通勤は可能である。というか、他に取り得る手が無かった。
  そんなワケで、おれに選択権は無かったのである。……いや、まあ。いっつも無いんだけどね。
 
 
「で、丸一時間かけてこの炎天下を走ってきた、と」
  今日もサマースーツを颯爽と着込んだ所長が、呆れ顔で見下ろしている。
「君って間抜けなようで計算高いようで、時々とんでもなく間抜けよねぇ」
  電話くれれば迎えに行くぐらいはしたわよ?と所長は述べる。
「……」
  事務所の床に大の字にひっくり返っているおれにはもはやコメントを返す気力も無い。そもそもこんな行動を選択する時点で充分脳がやられていたと思われる。
「っていうか、よくこんなになるまで部屋で寝てられたよね」
  炊事場から戻ってきた真凛が、水で濡らしたタオルをおれの顔に乗せる。こ奴もここにいるという事は、今回もコンビを組むことになったようだ。
「……鼻と口を……塞ぐな……それから……タオルはちゃんと絞れ……」
  とはいえ、タオルごしに吸い込む水蒸気でも今のおれにはありがたい。
「水も持ってきたんだけど、文句言えるくらいなら要らないよね」
「……嘘ですゴメンナサイ……申し訳アリマセンでした真凛サマ……」
  はいはい、と手渡されたグラスの水を少しずつ含み(すでに一気に摂取すると逆に危険な状態だった)、おれは全身の調節機能を徐々に回復させ、水分を体内に染み渡らせていく。しょうがないなあ、とか言いつつ、真凛が机にあった下敷きで仰ぐ風が心地よい。
「でもさ。いくら何でももうちょっと早く誰かに連絡するなりしなかったの?」
「そう言わないであげなさい真凛ちゃん。男の一人暮らしなんて一歩間違えれば、それはもう都会の孤島、コンクリートジャングルの哀れな被捕食動物に過ぎないんだから」
  亘理君は友達もいないしねえ、とつけ加える所長。
「……ひどい言われようですが、概ね正しいですよ」
  半身を起こし、真凛から再度グラスを受け取って今度は一気にあおる。開いた血管に急速に水分を補充してゆく。視界がブラックアウトしかけたが、それを乗り切ると見違えるように気分が良くなってきた。
「頭痛はどう?亘理君」
「おかげさんで吹っ飛びましたよ」
  三日も経てばそろそろ収まってくれないと困る。
「ついでにその、カロリーの類も補給させていただけると誠にありがたいのですが」
「じゃあ頑張って仕事しようね」
  鬼。
「一人暮らしって大変なんだねえ」
「ウム。自宅通学のお前にはこの苦労はわかるまい」
「今度なんか作りにいってあげよっか?」
「……おれお前に殺されなきゃならないほど恨まれてたっけ?」
  致死劇物を食わされてたまるか。ぐあっ。下敷きで縦に殴るな、っていうかお前が振り下ろすとむしろ斬撃だ。
「して。そのまあなんというか」
  おれは携帯を弄び、言葉を濁す。
「安心しなサイ。寛大な依頼人に感謝することね」
  用意していたのだろう、所長は内ポケットから封筒を抜き出すと、おれにぽん、と手渡した。
「おっおおうっおおおぅっ」
  何だかあんまり他人には聞かせられないような喘ぎ声を漏らしてしまったが、久しぶりに見る諭吉先生はおれのココロを絶頂に導くに充分であった。
「今日のお昼はちゃんと食べなさいよ?まずは体力をつけないとね」
「あっありがとうございます所長ぅっ」
  力士宜しく手刀を切って封筒を押し頂くおれ。ああ何とでも言うがいい、貧乏の前には誇りなど二束三文で売ってみせるともさ。
「じゃ、亘理君。オーダーよろしく!夜から直樹君も合流するから頑張って!」
  所長はおれが前金を受け取るや否や、さっさとジャガーのキーを引っ掛けて上機嫌で外に出て行こうとする。そのあまりの上機嫌っぷりに、おれの心にふと疑念の黒雲が沸いた。
「あのう、所長……またなんか企んでたり、しませんよね?」
  このコメントに対する我らが嵯峨野浅葱所長の回答は以下の通り。
「なんか企んでたら前金返す?」
「まさか」
  じゃあどっちでもいいでしょう、と言い残して、所長はとっとと去っていった。おれに残されたのは前金と、そしてその封筒から出てきたオーダーシートと、何かのカギのみ。
  ……時に思う。超能力やら格闘技やら人間外の遺伝子やらがあるだけで白飯が食っていけるのなら、世の中苦労はしないよなあ、と。
 
 
 
 

◆◇◆ 2 ◇◆◇

 
 
  涼しい。
 
  涼しい。なんていい言葉だろう。だいたい字面からして良い。水と京という清爽なイメージがまた素敵だ。清涼、涼風、涼雨。女性の名前でも涼子ってのがあるし。おれは前金を崩して買い込んだハーゲンダッツのアイスクリームの裏ぶたを舐めまわしつつそんなことを思考した。ただいまエアコンの設定温度は18℃。電気会社のマスコットキャラクターに怒られそうな最大出力である。
「なんかビンボーくさいなあ」
  そんなおれの様子を眺めやってつぶやくは真凛。いやまて、みんなやるだろう?ショートケーキの周囲を覆っているフィルムに付いてるクリームを舐めたりとかさ。
「やんないと思うなあ」
  馬鹿な。人としてのごく自然な所作のはずなのに。
「じゃあせめてフタをスプーンで掬ったりとかは」
「五十歩百歩だと思うなあ」
  そんな会話を応酬しながらフローリングの床に座り込み、ハーゲンダッツのバニラをひょいひょいと口の中に放り込む。胡座をかくおれとは対照的に、対面の真凛はフローリングに直に正座している。さすがに夏休みにまで制服は着ていないようで、本日の服装はサイズの一回り大きいワンポイント入りTシャツとショートパンツ。ストリートバスケに向かう中学生のような出で立ちはますます性別の判定を困難に……まあ、視線がなんか冷たいので省略。ともあれ、アイスクリームが体内に残留している熱気を次々と討伐してゆく様を味わいながら、おれは至極幸せな気分に浸っていた。近場の学生向けの食堂でがっちり巨大メンチカツセットを平らげてきた今、エネルギー充填も完璧である。
「で。とりあえずはこの快適な部屋の中で居座っていればいいってわけだな」
  おれは周囲……とあるマンションの一室……を見回した。
「快適な部屋、って言っていいのかなあ」
  こちらはハーゲンダッツのチョコレートを口に運びつつ、真凛が呟く。
「まあいいんじゃないか。少なくともこいつらのおかげで冷房つけっぱなしなわけだし」
  おれは手元にあった丸いものをぽむぽむ、と叩く。それは、バスケットボールほどの緑の玉に黒いスジが入った果物。いわずとしれた夏の名物、スイカである。夏の部屋にスイカ。珍しくも何とも無い光景である、本来は。
 
  問題が二つ。
  一つは、それが冷蔵庫に入っているのでもテーブルに乗っているのでもなく――床に無数に置かれたプランターから『生えて』いるということ。
  二つ目は、その数であった。

「七十はあると思うけど。ちょっと数えられないよ」
  空になったアイスクリームのカップを、持参したコンビニの袋にしまいこんで一つ息を継ぐ。真凛が言うのもムリは無い。煌々と照らされるライトの下、おれの手前にはスイカ。右にもスイカ。左にもスイカ。真凛の周りにもスイカスイカスイカ。視界上下左右、全てスイカ。床一面を埋め尽くし、さらに層をなして山となっている無数の大玉のスイカたち。おれ達は今、マンションの一室の中ではなく、スイカの海の中に居るのだった。
「なんていうか。こうも現実離れしてると快不快の問題じゃないような気がするよ」
  確かに。おれは空カップをコンビニ袋に放りつつ頷く。至近距離からのシュートだったのだがあっさり外れて、隣のスイカにぺこん、とぶつかった。シュール極まりない光景を見るにつれ、改めて何でこんなことになったのやら、と思い返さざるを得ない。
 
 
 
『東京都千代田区のマンションの一室にて、依頼人『笹村周造』氏が帰宅するまで留守を預かるべし』
  オーダーシートにはその一文と、依頼人の名前とマンションの詳細な住所、そして合鍵が同封されていた。おれ達は昼を高田馬場で済ませたあと、高田馬場から地下鉄を使って指定の住所にやってきたのだ。
 
  そこは秋葉原に程近い、千代田区外神田にあるオートロック式の新築高級マンションだった。外壁はぴかぴか。塗料の匂いが漂ってくるほど真新しい。
  今回おれ達が受けた仕事は『留守番』である。その仕事は文字通りの『留守番』。つまりは人が家や部屋を空ける時に代わりに居座って番をする、というものだ。何をしょうもないことを、と仰る向きもおられるかと思うが、おれ達の業界ではこれがなかなかどうして需要が多い。一番良くあるのは、ペットを室内で飼っているのに長期に部屋を空けなければならない一人暮らしの方の代理。この場合はペットの世話も必要になる(そう言えば、クロコダイルに毎日生肉をあげるハメになった奴もいた)。そして次に多いのが、空き巣や下着泥棒退治。依頼人には部屋を離れてもらい、ノコノコ部屋にやってきた犯人をとっちめる、というワケ。そして、その次に多いのが……アリバイ作り。
「それってもしかして、犯罪に使われたりとかするわけ?」
「いやあ。単身赴任の旦那さんが浮気で外に出ている間、ご近所に部屋にいるように見せかけたりとか。ウソの住所を彼氏に教えてる女の子の兄貴の役を演じたりとか」
「……密室トリックの偽証とどっちがいいか迷うよね、そういうの……」
  道中、真凛が心底情けなさそうな表情で感想を述べたものだ。いい加減おれ達の仕事がそうそう格好良いモノではないという事がわかってきた模様。ザマを見さらせ。
「まっ。数ある仕事の中でもダントツに楽な部類に入るのは確かなことだぜ」
  何せ部屋の中でごろごろしてれば金がもらえるわけだからな。熱中症でぶったおれていようが健康体であろうが、部屋の中にいればごろごろするだけ、というおれとしては願ったりかなったりの仕事である。間取り図にあるダイニングと部屋が引き戸で区切られた1DKの部屋は、おれと真凛が手足を伸ばしても充分過ぎるスペースがあるはずだった。その上新築で冷暖房完備とあれば言う事は無い。所長もたまにはいい仕事を回してくれるものである。おれはそんなことを考えつつ、鼻歌交じりで渡された合鍵でドアを開け……そして、絶句したのだった。
  おれ達を出迎えたのは、ダイニングと部屋にあふれる生い茂ったスイカの山、山、山。ごろごろするどころか、ごろごろしている。
「……何これ?」
  真凛の率直極まりない疑問にもおれは返す言葉がない。最初は本気でここは八百屋かと思ったほどだ。もしくは野菜冷蔵室か。ところがここは都内の高級マンションの一室に相違なく、部屋にあるのはただ無数のスイカと、それを冷やすためだろうか、全開で稼動しているエアコンのみ、だった。
 
 
 
  それでも、こんな異様な光景も三十分ほど過ぎるとそれなりに慣れてしまったりするあたり、自分が怖い。文字通りのハウス栽培のせいか、スイカの蔓には虫などもついていないようだ。で、今おれ達は周囲のスイカどもをかき分けてスペースを作り、どうにか居場所を確保しているというわけである。アイスクリームを片付けてしまったおれはザックを枕にして横になった。
「……良くこんな所で寝れるよね」
「タフだと言ってくれタマエ」
「いつもごちゃごちゃした部屋に住んでるからじゃないの?」
「失礼な。おれの部屋は結構キレイだぞ?」
  これはそれなりに自信がある。意外に思われるが、おれは割と部屋は片付いているほうだったりする。もっとも、ごちゃごちゃモノがあるのは好きなほうではないので、散らかっていないというよりは不要なものはさっさと捨ててしまう、という方が正しいのだが。
「むしろお前の部屋の方が散らかったりしてるんじゃないか?」
  日ごろのガサツっぷりを拝見するに。
「えっと。お手伝いさんが時々掃除に来てくれるから」
  ……このお子様に世間の荒波を今すぐ叩き込んでやりてぇ。
「で。この部屋の持ち主……ええっと。笹村さんってどんな人なの?」
「どっかの会社の研究員らしいけど」
「ってことは。このスイカと関係が?」
「さあ。知らね」
  率直過ぎるおれの返答を受けた真凛がのけぞる。
「し、知らないって、いくらあんたでも無責任すぎない?」
「無責任も何も。『依頼人の素性には関与しないこと』ってのがこの依頼の条件だからな。むしろおれは立派に責務を果たしているぜ?」
  事実である。この手の留守番の仕事にはとかく後ろめたい依頼人が多かったりするので、素性や依頼の理由については知らされない事の方がむしろ多いのだ。もちろん、情報ゼロで契約を結ぶほどこの業界は阿呆ではない。『危険はない』事を示す高額の保証金を預かるかわりに、一切素性や理由に干渉しない、とか。あるいは依頼人と派遣会社の間でのみ守秘契約が結ばれており、おれ達のような下っ端実働部隊には詳細が知らされていない、とかが良くあるパターンだ。
「それって、実はすごく危険な任務なんじゃない?」
  だからどうしてお前はそういう台詞を凄く嬉しそうに言うのか。
「スイカの番をするのが?」
「うぐ……」
  とはいえ、確かに異常な状況ではあるのだが。
「高級マンションの室内で野菜を栽培するなんてのは、今日び珍しくない趣味だしな」
「趣味、なのかなあ」
「数が桁違いに多いことを除けば、な」
  とはいえおれ自身も本当にそれで納得したわけは無いが。
「まあ、本当に危険な状況だったら留守をどこの馬の骨とも知れない派遣社員なんかにゃ任せないよ。警備なら警備で、こないだ会った門宮さん達の仕事になるさ」
  例え何か途方も無い陰謀があったとしても、『何かをしなければいけない』のではなく、『何もなければそれでいい』のだ。そういう意味でも『楽な仕事』ということ。おれは寝そべったまま、ザックから雑誌や文庫を取り出す。これもハーゲンダッツと一緒にコンビニで買った物だ。何冊かと事務所から持ち出してきたクッションを真凛に放りやると、おれはこの間門宮さんから教えてもらったファンタジー小説を読み始めた。何でも異世界を舞台にして戦士、忍者、魔術師、武道家が戦う、というモノらしい。ジュースやスナック菓子も引っ張り出して完全にカウチポテトを決め込む。ちなみに水や電気は常識的な範囲内では自由に使ってよいとのお触れも頂いている。周囲から無言のプレッシャーを加えてくるスイカ君たちとその甘い香りにさえ慣れてしまえば、まったく天国のような仕事だった。ところが真凛はお悩みのご様子。
「うーうーうぅ。でもなあ、それだとあんまり意味がないって言うか」
  そんなにこないだみたいなバケモノとガチやりたいのかねこのお子様は。
「それはそうだよ。フレイムアップと関わって、自分が今までいた世界よりはるかに強い人たちがいる領域を知ったからこそ、このお仕事を始めたんだから」
  それまでは新宿ストリートでも実家の交流試合でもほとんど負けなしだったのだから、真凛にとってはそれは人生を一変するほどの一大事だったのだろう。かくて『ボクより強い奴に会いに行く』理論のもと、七瀬真凛はウェイトレスもレジ打ちもやらず、はたまたショッピングや部活動に明け暮れることもなく、女子高生としての夏休みをこんな所でスイカに埋もれて過ごしている。金に困っているわけではないのに。そういう屈託のなさが、少しばかりおれには好ましく、そして羨ましい。
「そう言えばさ」
  難儀な顔をして文庫版『ガラスの仮面』を読んでいた真凛が顔を上げる。
「あんたは何でこんな仕事始めたの?」
  あれ?言ってなかったっけか。
「よくあるだろ?社会勉強を通じた自分探しの旅だよ」
  は?と真凛が呆け面をする。
「『おれがこの世に生まれてきた理由』を見定める、って奴さ」
「……冗談だよね?」
「冗談だよ」
  カッコつけすぎ、と真凛は文庫本に視線を落とす。実際、仕送り無しの学生は何かにつけて金がいる。花の東京一人暮らし、決して楽ではないのだ。と、真凛が文庫を読み進めながら、でもそれならわざわざこの仕事でなくてもよかったんじゃない?などと問いかけてきた。
「まあ、出来ることから逆算してったらこうなったんだよ」
  おれは素っ気無く答えてチョコレートに手を伸ばそうとして、その手は空中に止まることになった。
 
  部屋の電話が、鳴り出したからだ。
 
 
 
 

◆◇◆ 3 ◇◆◇

 
 
「ふむ」
  規則正しく鳴りひびく電子音は、携帯電話の着メロに囲まれて暮らしている学生からすると随分と新鮮に感じる。電話はおれ達が今いるベランダ側とは反対の、入口側にあった。直線距離で大股三歩だが、このスイカの海を掻い潜ってたどり着くのは容易なことではない。
「こういう場合はどうすればいいの?」
「依頼人の希望に従うとするさ」
  おれは焦らずオーダーシートを取り出す。留守番任務なのだから、当然、依頼人には来客や電話があった時の対応の仕方は確認している。
「電話があった場合は出て、必要なら伝言を受けておくこと、だとさ」
  よっこらせ、とおれはスイカの海を踏まないよう慎重に歩を進め、受話器をとりあげる。ふと、今この部屋で地震が起きたらおれ達は間違いなくスイカで圧死できる事に気が付いて愕然とした。
「もしもーし」
  いかんいかん、ついつい自宅の調子になっちまう。
『…………』
  受話器の向こうから返ってきたのはステキな沈黙。
「もしもし。ちょっとお電話遠いようですが?」
『…………』
  どうやら電話機のトラブルではないらしい。しかたない。こちらから話しかけてみるとするか。
「やあハニー。シャイなハートが君のチャームなポイントだが、エニイタイムシークレットもミーにはノットソーグドですヨ?サムタイムにはアグレッシブなパッションでメルティナイトをエンジョイハッスルで如何ですカ?トゥデイのアンダーウェアはレッドオアブラック?ハァハァ」
『…………』
  ぶつ、と回線が切られ、あとは無機質なトーン音へと切り替わった。
「……」
  発信は当然非通知だった。
「誰からだったの?」
「三つ編みお下げが似合う純朴女子中学三年生。好きな人の前では上がっちゃって声が出せない性格なんだろうなあ」
  投げやりに答えて受話器を置く。モジュラージャックに高速逆探知システム『追ッギーくん』でもかましてやろうかとも考えたが止めた。そこまでの金はもらっていないはずだ。この手の任務で脅迫電話や無言電話にいちいち取り合っていたらキリがない。社長がヤミ金融に金を借りて遁走した会社の留守番を勤めたときなんぞ、脅迫電話の度に受話器を取っていたらやっていられないので、車載用のハンズフリー器具をセットしたものだ。おれは再び元の位置に戻り、何事もなく再び文庫本を広げた。
 
 
「ちょっと冷房強すぎないかな」
  おれは顔を上げた。物語は佳境に入っており、全ての黒幕だった邪悪な少女の振るう鉄槌に主人公達が次々と撲殺されているところだった。ふと時計を見れば、もう夕方に差し掛かっている。さすがにいつまでも18℃でエアコンを回していると寒さを感じる。おれは温度設定を25℃まで引き揚げてやった。
「むう。困ったなあ」
「どうしたの?」
「いや。実はな。オーダーシートに明記してあるんだ。『エアコンは決して切らない事』、ってな。温度は25℃以下に保たなければいかんそうだ」
  つまり、エアコンをつけっぱなしで数日過ごすわけだ。涼しいのは大好きだが、寒いとなるとまたちょっと話は別である。
「結局、依頼人が帰ってくるのは明後日なんだよね?」
「ああ」
  オーダーシートにはきっちりその旨が明文化されている。おれ達の仕事はそこまで。仮にその時刻まで依頼人が戻ってこなくても知ったことではない。あるいは別料金で延長分を引き受けるか、だ。
「ん〜。じゃあしょうがないか」
  真凛はすい、と立ち上がる。と呼吸を整え、
「へえ……」
  七瀬の流派だろう、型を演じ始めた。別に真凛が急におれに踊りを見せたくなったわけではない。古武術ではウェイトトレーニングで局所的に筋肉を鍛えるより、己の理想とする動きをイメージしつつ地道に型を繰り返すほうが、その動きに必要な筋肉を効率よく鍛錬出来る、とかどこかで聞いたことがある。ヒマを持て余した真凛が鍛錬を始めたのだろう。その証拠に、冷涼な室内にも関わらず五分もするとたちまちその額に汗が浮き始めた。その型は極めて緩やかだったのだが、間合いに踏み込んだが最後、どんな体勢からでも反撃を繰り出してきそうな雰囲気を醸し出している。
  その様を何となく眺めていると、ひとつ大きなくしゃみが飛び出て身震いした。いかん。さすがにこのまま夜を過ごすとなると、今度は風邪を引くハメになりかねん。一度自宅に着替えを取りに戻るか。そんな事を考えたとき、
  ぴんぽーん、と間抜けな音共に今度はインターホンが鳴った。
「はい」
  ちなみにこういう場合はあまり不必要なことを喋る必要はない。相手が依頼人の知人だった場合に、変に誤解されて警察でも呼ばれると何かと対応がやっかいだ。さすが高級マンション、新聞勧誘や訪問販売の類はホールでシャットアウトしてくれる。先ほど同様にスイカの海を泳ぎインターホンにたどり着く。ホールの監視カメラが捕らえた映像がそこに映し出される。カメラの向こうに居るのは荷物を小脇に抱えた宅配便のおっちゃんであった。カメラの向こう側でごくメジャーな宅配便会社の名前を名乗る。
『お荷物をお届けに伺いましたっ!』
「ありがとうございます」
  それにしても宅配便の人というのはどうしてこうヤケっぱち気味にテンションが高いのか。やっぱりテンションを上げていかないと務まらないほど辛い業務……げふんげふん。ともあれ、おれは手元のオーダーシートをめくった。しがない派遣社員はマニュアルに従いますともさ。
『玄関を開けていただけますか?』
「すみませんが本日特に荷物が届く予定はありませんが?」
  おっちゃんはちょっと面食らったようだった。
『特急便ですので。まだ御宅に連絡が行っていないのかもしれません』
「申し訳ありませんが後日改めて連絡させていただきますので、本日はお引取りお願いできますか」
『は。しかし特急便ですのでお早い方が……』
「いえ。特急便を遅く受け取ったことによる損害はこちらの責任です。そちらにはご迷惑はおかけしませんので」
  一瞬の沈黙があった。
『わかりました。それではまた後日お伺いいたします。お騒がせしました!』
  映像の向こう、宅配便のおっちゃんは去っていった。おれはポケット手帳にオーダーシートを仕舞いこむ。
「まあ、ナマモノでもなかろうし気にすることもないだろ」
  おれは特に気にも留めなかった。損害は依頼人のせいなわけだし。
 
 
 
 

◆◇◆ 4 ◇◆◇

 
 
  時刻も午後七時を回ると、真夏とは言え辺りは暗い。散々日本全土に熱線をばら撒いた太陽が退場しても、熱気どもは相変わらず傍若無人の限りを尽くしている模様だ。
「さて。そろそろ交代だな」
  おれは呟く。もともとこんな留守番の任務を一人二人で延々とこなしていては気が詰まってしまう。昼夜交代で張り込むというのが典型的なパターンだ。もっとも、おれのように自室より居心地が良かったりする場合はまた別なのだが。
「もうそんな時間かぁ」
  ようやく『ガラスの仮面』を読み終えた真凛が肩をまわす。この部屋に入ったのは午後三時ごろだから、おれ達は他愛ない話と文庫本で四時間をつぶしたことになる。
「おなかすいたなあ」
「夕飯は実家だったか?」
「そうだよ。陽司の麻婆豆腐が食べられないのはザンネンだけど」
「抜かせ。お前の家なら豪華和食がてんこ盛りじゃないか」
  一度事務所の冷蔵庫の残りもんを処分するために麻婆豆腐を作ったことがあるのだが、どうもウチの連中には好評だった模様。中華は一人暮らしの強い味方です。……炒めれば多少食材が古くたってわからないしね。それはさておき、未成年を泊り込みで働かせるのは何かと不味いので、真凛はここで交代。明日の朝に再合流ということになる。
「最近は変なのが多いからな。気をつけて帰れよ」
「心配しなくても大丈夫だよ。ここからなら地下鉄で一本だし」
「そうか。もし変なのにからまれても、病院送りまでに留めとけよ」
「ボクは今リアルタイムでからまれてるわけだけど、病院送りでいいのかな?」
  おれ達がそんなくだらないやり取りをしていると、玄関のインターホンが再度鳴った。どうやら交代要員が到着したらしい。
 
 
「で、だ。当然予想は出来たことだが。いい加減に何とかならんのか、それ」
  おれは部屋に入ってきた男を一瞥するなり、初弾を放って迎撃した。
「ふむ。雅を解さぬ貴様には到底理解は出来ぬであろうな」
  腹の立つ男だ。歳の頃は二十歳前後、というか十九歳。すらりとした長身。華奢といってもいい体格だ。そしてモデルのような小さな顔、シャープな輪郭と白い肌。なにより印象を決定付けるのが、星が流れるかのような長い銀髪と、インペリアルトパーズを思わせるやや吊り気味の茶色の瞳。ついでに鼻に乗せてるメガネが理知的なイメージをより強化している。要するに非の打ち所のない色男というわけだ。っていうかムカツク。服装はというと、薄手とはいえこのクソ暑いのに長袖のタートルネックなんぞを着込んでいる。
  笠桐かさきりリッチモンド直樹なおき。自称日英ハーフのこの男が、おれ達『フレイムアップ』のメンバーの一員にして、今回のミッションの三人目のメンバーなのだった。十人近く居る事務所のメンバーの中でも、こいつとは特に昔から因縁が深い。とにかく一緒に並んで街を歩きたくない男なのである。老若の女性をひきつけてやまない顔立ちもそうだが、主だった原因は、
「それにしても何なんだその馬鹿でかい箱は。というかてめえ、そんなものをどこから持ち込んできやがったんだ」
  玄関口からスイカの海を乗り越えてきた直樹が右手にぶら下げているのは、長期海外旅行用のスーツケースに匹敵するほどの馬鹿でかい箱である。大手電気店兼サブカルチャー品取扱店の包装紙で厳重に梱包されており、『そういった類』のものであることを雄弁に物語っている。
「同時に二つの質問をするとは、相変わらず性急な男だな貴様は。順番に答えよう。まず一つ目、この箱の中身だが――」
「あ、いいやっぱ聞きたくねえ」
「――明日発売、『サイバー堕天使えるみかスクランブル』DVDBOXと、初回特典のコンプリート・フィギュア・十三体コレクションだ。DVDの方は放送時にカットされた映像の完全収録。フィギュアは長いこと立体化が望まれていた第十一堕天使サリエルたんと第十二堕天使サルガタナスたんがついに出揃っている。当然ながら凄まじい人気でな。予約を逃したために本日開店前から並ぶ羽目になった」
  ワケの解らない単語を並べるな。っていうかクソ真面目な顔をして「たん」って言うな。そもそもどこが当然なんだ。
「で、てめえはそれを買うために夏の朝っぱらから秋葉原の店頭に並んでいた、と」
「朝ではない。昨夜からだ。さすがに日差しがきつくなってくると堪えたが、何、苦労に見合うだけの成果はあった」
  阿呆だ。阿呆がここにいる。
「そして二つ目の質問だが――。包装紙から判るように秋葉原の某大手電気店ということになる。そしてここは同じ千代田区。購入後ここまで歩いてくることなど造作も無い」
「物理的には造作も無いだろうよ。で、お前はそんなもんぶら下げて天下の公道を歩いてきたというわけだ」
「正確には日没まで一日中秋葉原を散策していたわけだがな。戦利品も中々のものだぞ」
  良く見れば左肩に下げた鞄はみっちりと膨れている。おれには良くわからんが本やらポスターやらをまたぞろ大量に買い込んだのだろう。そう、これがコイツと並んで街を歩きたく無い理由。ほとんどの女性が嘆息する外見とは裏腹に、コイツはアニメや漫画、ゲームの美少女にしか興味がないのであった。
  おれ以上に稼いでいるくせに、こいつの生活レベルはおれより低い。そうして捻出した資金を、こいつは惜しげもなくこの手のグッズに投入しているのだった。
「お前の戦果報告なんぞどうでもいい。そんなもん職場に持ち込むなよてめえ」
「留守番任務に関しては、私物の持ち込みは認められているだろう。始終小物を事務所に置きっぱなしにしている貴様には言われたくないな」
「おれが持ち込んでいるのはせいぜいが健康グッズの類だ。ちゃんと職場にだって貢献しているだろうが」
  しがない貧乏人たるおれのささやかな趣味は健康グッズの収集である。足のツボを刺激するサンダルとか、目元を冷やすジェル型のシートとか、そういったものをときどき買い込んでは事務所に並べている。人間健康第一デスヨ?小うるさいコイツや、もともと健康馬鹿の真凛あたりには事務所が散らかると不評なのだが、他の連中には概ね好評なのだった。ちなみに「腕の引き締め」「肌をキレイに」などとサブタイトルがついているグッズはだいたい一週間を過ぎた辺りで行方不明になる。現場をつかんではいないが、所長あたりが持ち帰っているだろう事は想像に難くない。
「とにかく。次の交代の時には自分の部屋に持って帰れよ」
  このスイカの海にそんなクソでかい箱と何かがみっちり詰まったバッグを置かれては、ますます足の踏み場も無い。ていうかそんな密室状態でこいつと同じ部屋に居たくねえ。
「了解した。俺としても大切な姫君たちをこのようなスイカの海に眠らせておくのは忍びない」
  うげ。姫君ってまさかその人形の事か。
「直樹さん、お久しぶりです」
  帰り支度をしていた真凛がおれ達のほうにやってくる。
「やあ真凛君。先日貸した『決戦竜虎』は読み終わったかい?」
「うん。凄く面白かったですよ〜。ボクはやっぱり竜の英俊さんですね。虎の涯もかっこいいけど」
  ……スイマセン、単語が理解デキマセン。
「あ、『サイバー堕天使』のDVD買ったんですね。これってひょっとしてラファエルの最終奥義発動のシーンも入ってます?」
「無論。この話だけちゃんと延長されているそうだ」
「わかってるなあスタッフ」
「……あの。それってそんなにメジャーなアニメのか?」
  おれは恐る恐る尋ねる。
「「常識だ(だよ)」」
  ソウナンデスカ。何時の間におれは世間の常識人から外れてしまったのだろう。ちなみにそれから四十分ほど、真凛と直樹の二人がかりで『サイバー堕天使』のシナリオとキャラクターの魅力について懇々と諭されてしまった。結果、そのアニメに登場する十三体のロボットの形をした堕天使と、それぞれを守護天使に持つ女の子の名前を覚えた事が、本日唯一のおれの成果であった。
 
 
 
 

◆◇◆ 5 ◇◆◇

 
 
  あれやこれやで真凛が帰ってしまうと、あたりはすっかり夜になってしまった。この部屋にはテレビがないので、おれは違法改造携帯『アル話ルド君』にぶちこんだ音楽を鑑賞しつつ、相変わらずエアコンの稼動する部屋の中で小説を読みふけっている。直樹はといえば買い込んだ本を読み漁るのに忙しいらしく、こちらの方を見向きもしない。典型的な、学生が友人宅でまったりする時のモードだった。直樹はすでに夕飯を済ませていたので、おれだけがコンビニで買い込んであった弁当を、部屋にあった電子レンジで加熱して食べた。わびしい食事だが、一人暮らしなんて所詮はこんなものである。ああ、どこかにおれに夕ご飯を作ってくれる優しいお姉さんは落ちてないかしら。出来れば黒髪ロングのストレートで細面だとなお良し。
「お前のところはいいよなあ。美人のお姉さんと二人暮しでよお」
  こいつにはお姉さんが一人いて、名を笠桐・R・来音さんという。こちらは弟以上の超美人、しかも頭も良くて気立ても良し、さりげなく男を立てるという、おれ的に嫁にしたい度数ぶっちぎりトップのステキな女性なのだ。ちなみにここ最近は別件で席を外しているが、普段は浅葱所長の秘書として事務所で辣腕を振るっておられる。
「貴様はアレの本性を知らないからそういうことが言える」
「身内だからといって不当に評価するのは良くないぜ?」
「そういう事ではなくてだな……」
  そんな会話を続けながら、さらに時間は過ぎてゆく。部屋に帰るまで待ちきれなくなったのか、直樹がノートPCを引っ張り出してきて、『サイバー堕天使』を再生し始めた。おれは最初は横目に見つつ小説を読んでいたのだが、だんだんそっちの方に興味が移ってきて、結局二人して各所にツッコミを入れつつ鑑賞してしまった。気がついてみれば、すでに時計の針は午前1時を周っていた。
「さあて」
  事ここに到るまで先送りにしていた問題を解決せねばならない。つまるところどうやって寝るか、という事である。交代制とは言え三日間も続く任務となれば、仮眠を取ることを考えざるを得ない。一応アウトドア用の防寒シートを持参しており、床で寝るくらいは大した労ではないのだが、このスイカの海の中ではろくにそれを広げる場所も無い。
「というか、貴様と添い寝なぞ死んでも嫌だぞ」
「そういう思考が湧き出てくるてめえと一緒の部屋に居ること自体おれは嫌だ。だいたいてめえはもともと夜型だろうが。なんで夜寝るんだよ」
「つい昼ぶかしをしてしまうのでな。学生生活の悲しいサガというものよ」
  こいつは某PC関係の専門学校生でもある。卒業の暁には晴れて姉と共にフレイムアップの正社員に就職するのだとか。
「知ったことか。だいたいおれは朝から調子が良くないんだ。さっさと寝させてもらうぞ」
「たわけめ。どうせ今日一日部屋の中で呆けていたのだろう。たまには働け」
  おれ達があーだのこーだの騒いでいると。
  とんとん、と。
  間抜けなノック音が、深夜のマンションに響き渡った。
 
 
「…………」
  おれ達は顔を見合わせると、声を消した。おれは抜き足差し足でインターホンまで移動し、画面を確認する。エントランスに人影は……なし。直樹に合図を送る。直樹は一つ頷くと、玄関に向かって歩を進めた。
  オートロックマンションとはいえ、本気で忍び込もうとすればエントランスを潜り抜ける方法はいくらでもある。今も昔も防犯装置の真の役目は『その気にさせない』事にあるのだ。という事は、この玄関までたどり着くこと自体、明確な意図を以ってなされたことになる。直樹、気をつけ――
  ドアに接近するまで、直樹とて充分に警戒していたはずだ。いきなりドア越しに消音銃を叩き込んでくるような輩もいないわけではない。その直樹にして、完全に不意をつかれた。
「……ちぃっ!!」
  直樹が飛び退る。いや、あれは飛び退ったのではない。半ば吹き飛ばされたのだ。華奢とはいえ、長身の直樹を吹き飛ばすなど並大抵の衝撃では不可能のはず。それに妙だ。扉には何の衝撃も音も無かったというのに……!たたらを踏んで留まる直樹。スイカの海にダイブすることだけは辛うじて避けたようだ。がちゃり、という音がしてドアが開く。これも扉の向こう側からカギをこじ開けたのではない。例えて言うなら自然に開いたかのような。しかしその時はそれを気にとめる余裕も無かった。ドアが開き、侵入者が姿を露わにする。
  明かりの元に踏み込んできたその姿は、このクソ暑い熱帯夜にも関わらず、黒いハーフコートを羽織っていやがった。ズボンも黒。ついでに目深に被ったハンチング帽、両手にはめた皮手袋も黒。顔は陰になって確認できないが、恐らくは何がしかの覆面を被っているだろう、とおれは当たりをつけた。体格は恐らく男。長身の直樹にも勝るとも劣らない上背も相まって、異様な迫力を醸し出していた。
  男が歩を詰める。突進先は言うまでもなく直樹だ。恐らくは、先ほどのドア越しの先制攻撃で手ごたえを感じなかったのだろう。トドメを刺す気だ。男が手袋に包まれた右手を振り上げる。
「注意一秒怪我一生」
  おれの声に男は一瞬気を取られた。事前にあれだけ騒いでいたのだ、二人目が居る事は奴も当然予想していただろう。問題はおれの声の方向にあった。すでにその時、おれはとっくにインターホンの前から移動し、ドアの脇に回りこんでいたのである。金と力が無いのは抜け目の無さでカバー。玄関口に掃除用具が収納されていたのは確認済みデスヨ?
  おれの得意コース、内角低目から三遊間をぶち抜くライナーの要領でフローリング用のモップをフルスイング。ステキな音を立てて男の胴に打撃が叩き込まれた。が、
「……頑丈なお体ですこと」
  おれの手に帰ってきたのは、電信柱をぶったたいたような硬質の手ごたえだった。ましてやプラスチックの柄の破壊力などたかがしれている。男はおれに振り向き、今度は左手を掲げる。ちっとこれは、ヤバイかな?自分でも顔が引きつるのが判る。帽子の奥から男の視線がこちらの眉間の辺りを捉えているのが感じられた。男が左の指先をこちらに向ける。その時、素人のおれでもはっきりと感じとれた。男の掌から、何か異様な殺気が放射されるのを。男は素手ではない。なにか、この体勢から『放つ』武器を持っている……?
  が。
「全身が鉄壁という男はな。この世に俺が知る限り一人しか居ない」
  強弓から放たれた矢のような一撃が、横合いから男の喉に突き込まれ、そのまま部屋の隅へと弾き飛ばす。プラスチックの柄とはいえ、人体の急所を狙った突きであればその破壊力はあなどれない。男の横合いから攻撃をしかけたのはもちろん直樹。ベランダ掃除用のブラシを構え、一歩前に進み出る。
「さっさとしやがれ、ビビッたじゃないか」
  おれは憎まれ口をたたき、モップを放り捨てて直樹の後ろに周る。
「精神年齢を若く保つコツは、刺激のある毎日を送ることだそうだぞ」
  言いつつも、倒れた男から目を離さない。
「……大丈夫かよ」
「かすり傷、というには少々きついがな。致命傷ではない」
  シャツの一部が破れ、赤いものがにじんでいるのが認められた。だが今はそんなことにかまっている暇は無かった。男が恐ろしい勢いで腹筋を爆発させ跳ね起きると、直樹に向かって右手を振りぬいたのだ。先ほど扉越しに直樹を打ち抜いたあの技か。だが一撃目と異なり、今度は直樹の方にも準備が十分出来ていた。何かはわからないが、右手から一直線に放たれた攻撃をかわし、すでに懐に入り込んでいる。両手に短く握ったブラシの柄が、男の鳩尾に深々と食い込む。そして開いた間合いにねじ込むように、逆手を振りぬく。ブラシがさながら槍の石突のごとく撥ね上げられ、男の顎に叩き込まれた。さらに開く間。すでにその時、直樹は魔法のようにモップを持ち替えている。サーベルのごとく長く構えられたブラシが一閃。再び刺突が男の喉を抉る。ど派手な音がして、男がキッチンになだれ込んだ。深夜のマンションで騒ぐと近隣からの苦情が怖いんだがなあ。
「お前いつのまにそんな技マスターしてたんだよ」
「杖術など紳士の嗜みの一つに過ぎん」
  男が再び起き上がった。強烈な突きを二発喉に喰らってなお、呻き声一つ上げない。こいつ本当に人間か。そう思う間もなく、男の左手が空を切った。その狙いはおれ達ではなく……天井の照明!けたたましい音と共にガラスが砕け、あっという間に周囲に闇が満ちる。
「気をつけろ、来るぞ」
  直樹の押し殺した声とほぼ同時に、じゃ、と風が闇を裂く。かろうじて間に合ったのか、直樹のブラシと何かが衝突する音が響く。攻撃が来た方向に直樹がブラシを振るうが、すでに相手はそこには居ない。またしても攻撃。男は暗闇の中の戦闘に慣れているのか、音も立てず移動しこちらの死角から攻撃をしかけてくる。流石の直樹も、相手が攻撃をしかけてくる方向が読めない以上、一拍以上の遅れが出ることになる。カウンターを取るどころの話ではない。四度、五度と攻撃が繰り返されるうち、次第に直樹が劣勢になってきた。六度目の攻撃を捌ききれず、直樹の右手がブラシから弾き飛ばされる。がら空きになった直樹の胴に迫る七撃目!
  ずるん、べったん。
  擬音で表現するとこんなところか。男が派手な音を立ててスッ転んだ。
「もう少し早く出来んのか。流石に焦ったぞ」
  ブラシをたぐりよせつつ直樹がぼやく。
「精神年齢を若く保つコツなんだろ?」
  おれは空になったフローリング用のワックスの缶を放り投げた。男は慌てて起き上がろうとして手をつくが、すでにそこもワックス塗れ。無様にもう一度地面に這った。闇の中とはいえ、その隙はあまりに致命的だった。
「……!!」
  鈍い音が一つ。闇の中、共用廊下の僅かな明かりでも直樹の刺突は狙いを外さなかった。男は今度は玄関まで吹き飛ぶ。
「裏事情をきりきり吐いてもらわんとな」
「この床もきっちり後始末してもらわねえとな」
  ここが勝機。逃すわけにはいかない。おれ達は間合いを詰める。男はすでに起き上がっていた。にらみ合いが三秒ほど続く。だが、三度目の突きを喰らい、流石に体力も限界に達していたのか。男はくるりと踵を返すと、共用廊下の向こうに姿を消した。
「待てっ!」
  直樹が追う。しかしそこで奴が見たのは、廊下の手すりを軽々と飛び越え、五階の高さから真っ逆さまに落ちてゆく男の姿だった。その時にはおれも直樹に追いつき、二人そろって下を覗き込む。男はまるで、何事も無かったかのようにマンション前の道路を走り、闇夜の中に消えていった。
  十秒ほど間抜けな顔をしておれ達は階下を見詰めた後、どちらともなく口を開いた。
「「知ってたか?」」
  そして互いの顔を見やり、深々とため息をつく。
「ああ、結局こうなるのかよ!今回こそは冷房の効いた部屋で寝て金が貰えると思ったのに!」
「『あの所長が持ってくる仕事はまともだったためしがない』か。一体何時までこの言葉は継続されるのやら」
「おれ達の任務達成率が百パーセントを割るときじゃないのか?」
「……何はともあれ、だ」
「ああ……」
  おれ達は後ろを振り返った。そこに広がるは、照明を砕かれて闇に満ちた室内と、ぶちまけられた大量のワックスであった。
「一体どうしたものやら」
 
 
 
 

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