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人災派遣会社シリーズ   製作者:紫電改


小説 『人災派遣のフレイムアップ』 
第2話 『秋葉原ハウスシッター』



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◆◇◆ 11 ◇◆◇

 
 
「先ほどもご説明したとおり、侵入者騒ぎがあったわけですが」
  おれはお茶を飲み干し、口の中を潤した。
「我々としても依頼を受けた以上、スイカの番は責任を持って果させていただきます。そのためにもこのご依頼についての確認をしておく必要があると思うのです。改めて二つ質問があります。一つ。笹村さんが開発されたスイカの研究データは、今どちらにあるのですか?」
「研究データはここ、私の個人用のノートPCですね。いつもあの部屋に置きっぱなしだったんですが、作業に備えて持ってきました」
「了解しました。で、二つ目。これが肝心な質問なのですが」
  おれは一つ間を置いた。
「そもそもあのスイカには、いったいどんな秘密が隠されているのですか?差支えが無ければ教えていただけませんか」
  ついに核心に切り込んだ。しばしの沈黙が、辺りを満たす。おれが笹村氏の表情をみやると彼は――きょとんとしていた。ついで、堰を切ったように笑い出す。
「な、なんかヘンなこと聞いたっすかねおれ?」
  思わず口調が素に戻ってしまう。
「い、いえ別に。ただ、秘密なんて。そんな大真面目な顔をしておっしゃらなくても」
  ちょっと傷つくなあ。直樹が引き継ぐ。
「しかし、長い間の研究の成果でしょう?例えば凄く味が良いとか、色が赤くて通常の三倍収穫出来る等といったものではないのですかな」
  そんな便利なものじゃありませんよ、とのたまう笹村氏。笑いが落ち着いたのだろう、彼はお茶のお代わりと、煎餅が尽きたのか草餅をおれに勧めてくれた。とりあえず頂く。
「だいたい、そもそもがこのスイカは職務で作ったものではないんですよ。あくまで個人的な研究だったんです」
  草餅をほお張りながら笹村さんは述べた。だから、職場の方にもデータとかは持っていっていないんですよ、とも。
「……例えば、クランビールの時期主力商品の素材になるとか、ではないのですか?」
  そうなればちょっとした価値モノだ。産業スパイが然るべきルートで捌けばそこらの美術品並みの値になる。しかし、
「そんな大層なものではありませんよ」
  にこやかに笹村さんは笑う。
「これはね、まあ妻に頼まれたものですから」
「奥さんとの約束?しかし、奥さんはすでに……」
  っとと。我ながらつまらん事を言ったな。
「ご存知ですか。ええ、三年前に死別しましてね。ちょうど今ごろ、お盆の時期でしたよ。仕事先の西アジアから久しぶりに帰省して、みんなでお墓参りに行こうということになっていました」
  しかし、帰国時の飛行機は不幸な事故に遭い、笹村氏の奥方は生きて日本の土を踏むことは無かった。羽美さんと調べた情報はほぼ正鵠を得ていたことになる。当たっても大して嬉しくも無いが。
「妻はね。どうもあそこら辺の国が好きだったみたいです。商社の仕事も、どちらかと言えばあっちの国で働きたいために就職したようなところもありましてね」
「そういうものですか……」
  おれは一つ首を捻った。実はおれや直樹もそこらへんの国を訪れたことがあったりもするが、政情不安定な場所もあったりして、出来得るならば通らずに済ませたいところ、などといった印象しかない。
「実を言うと私たちが初めて出会ったのもそこだったんですよ」
  笹村さんが挙げた地名は、日本ではあまり有名ではない国の名だった。
「ああ、そこでしたか」
  直樹が言う。
「かなり北に位置しながら内陸の気候の都合上砂漠が多い土地柄ですな。ついでに言うならお世辞にも国土は豊かとはいえない」
  もうちっと言葉を選べよ、と思いつつもおれも同感だ。
「私は学生時代に農学部に所属していた、というお話はしましたよね。実は一年ほどそこの研究生達で、ボランティアとして各国へ技術協力をしにいったことがあるんです。そこは見渡す限りの砂漠でしてね。その過酷な条件でも作物を栽培出来るようにするのが私たちの仕事だったんです。そこで同じくボランティアの通訳として来ていたのが瑞恵……妻だったのですよ」
  同じ目的を持つ二人はたちまち意気投合したのだという。
「砂漠にもっとも適しているのはスイカ、メロンなどの瓜類なんです。そもそもがアフリカの砂漠のオアシスが原産地ですし。中国の内陸部なんかでは、売り物にもなるし、持ち運びが出来る手軽な水分としても非常に重要な役割を果している。経済と食糧事情の双方に改善効果があるわけです。どちらで行くか試行錯誤したのですが、我々はスイカを選ぶことにしました。過去、実績もありましたしね」
  笹村氏には自信も熱意もあった。そして後に奥方となる女性の支えもあったのだが、結果として、一年をかけたこの試みは失敗に終わったのだという。
「気温が低かったんです」
  とは、笹村氏の弁だ。
「砂漠ですから当然、日夜の温度差が激しいことは覚悟していました。しかし、肝心の日中の気温が、アフリカや中東の砂漠とは大きく異なっていたのです。結果として私たちの持ち込んだ品種は、ろくな実をつけることはありませんでした」
  口惜しかったですね、と笹村氏は言った。きっと本当に口惜しかったのだろう。今その言葉を口にした時も、その表情は苦かった。
「日本に引き揚げて妻と結ばれてからは私は外国に出ることはありませんでした。妻はあちこち飛び回っていましたがね。でも、あの時の悔しさは妻も同じだったのだと思います」
  いつかあの国に、もう一回スイカを作りに行こう。それが奥さんの口癖だったのだと言う。だからもっと低い気温でも実る強いスイカを生み出してくれ、私も手伝う。そんな事を言っていたのだそうだ。
「私もその思いは一緒でしたよ。でもやはり就職してからは忙しくて、正直それどころではなかった。気がつけば十年も経ってしまっていましたよ。あいつが死んで、ようやく本気で作る気になったなんて、馬鹿な話です」
  視線はおれに向けられてはいない。その先にあるものはまた、別の風景か、人物なのか。
「だから、このスイカは、味も収穫量も、現行の品種と大差はありません。しいて言えば、冷夏でも実る。それがこのスイカに隠された秘密です」
「冷夏でも実るスイカ、ねえ」
  おれは首を傾げた。んなもんあんなブッソウな奴を雇ってまで奪いに来るものかねえ?
と、そんな思考は背後からの声に遮られた。
「おい、亘理、携帯が鳴っているぞ」
「おっとと」
  慌てて携帯を取り出す。相手は……真凛か。
「真凛か。どうした?」
『陽司?あのねえ。たしかあの宅配便のおじさんの会社ってあそこだったよね?』
  真凛が大手の名前を挙げる。たしかにそのとおりだ。
『今、ここから外を見てるんだけど。荷物を配っているにしては不審な動きの人が、それぞれ三人。なんかここを取り囲んでるみたいだよ』
  ふむ。どうやらあちらさんもだんだん手段を選ばなくなってきたってことかな。どうやらあまりここに長居をしているわけにもいかないようだった。
「了解。おれ達もすぐにそっちに行く」
 
 
 
 

◆◇◆ 12 ◇◆◇

 
 
  地下鉄が駅に到着すると、おれは一人改札を抜けマンションへと急いだ。駅でも何らかの待ち伏せがあるかと思ったが、幸か不幸かそういったものはなく、おれは至極あっさりと地上に出ることが出来た。すでに日は落ちており、蒸し暑い夜の空気の中、おれはひたすら走ってゆく。と。
「!!」
  全く反応は出来なかった。それでもその攻撃が当たらなかったのは、向こうがあえて外していたからに他ならない。おれの目の前を槍のように何かが通り過ぎかすめていったのだ。攻撃のあった方を振り向くと、そこには脇道が口を開けている。しかし、その『何か』を飛ばしてきた相手の影は無い。
「ご招待、ってわけか……」
  ヘタに断ったら背中からぶっすりやられかねない。おれはしぶしぶ、そちらの道に向かった。道なりに二回も角を曲がれば、まだ建設中なのだろうか、絶望的なまでに静かな工事現場が広がっている。お盆休みだからかどうかは知らないが、駅前に程近いと言うのに通行人は絶無だった。さながら絶壁のごとく両側に聳えるビルの隙間から、騒音を撒き散らしながら走り往く総武線が視界の端によぎる。上空には満月から下弦に傾きつつある月。蒸し暑い夏の夜だと言うのに、その男は黒いハーフコートを着込んでいた。
「どうもこんばんわ。あんたと会うのは二度目、いいや三度目だったかな」
  おれは男の顔を見やる。初老とも言えるその顔は、確かにあの時おれ達の部屋を訪れた宅配便のオジサンであった。
「変装も潜入も偽装も一人でこなす、と。まったく人手不足だと大変ですねえ」
「ご心配痛み入ります。されどそういう事が生業ですのでお構いなく」
  ほほ、と男が丁寧に一礼する。その姿からは、威勢のよい宅配便業者のイメージを思い出すのは難しかった。
「んで、何の用かな?悪いけどおっさんとお茶を飲む趣味は無いんだけどね」
「いえいえ。そろそろお互い膠着状態にも飽きが来たのではないかと思いましてな。決着をつけようかと思い立ちまして、ハイ。ああ、ワタクシこういう者です」
  男の手から放たれた紙をおれは受け取る。そこに記載されていた社名は、
「国際人材派遣会社海鋼馬公司ハイガンマーコンス……別名『傭兵ギルド』だったかね」
「ご存知のようで光栄です。皆からは『リーチャー』と呼ばれております。前職では主に政府筋で人事関係の仕事をしておりました」
「やだやだ。公務員が民間に再就職すると、ろくなことがないね」
「そういう物言いは物議を醸すのではないですかな?」
「なあに、お役所のやり方を持ち込むと、って意味さ」
「人事はなるべく公平を心がけておるつもりなのですがねえ」
  はん。おれは嘲笑する。
「テロリストへの内通者が潜伏している村の人間を、「疑わしい」という理由だけで全員殲滅して回るのも平等主義ってワケだね」
  『蛭』の雰囲気がわずかに変わる。
「ほほ、お若いのに博識でいらっしゃる」
「幸か不幸か、この業界長いもんでねぇ」
  おれは投げやりにコメントすると、わずかに足を引いた。
  国際人材派遣会社海鋼馬公司。中国を拠点とする企業で、社名だけならまっとうな会社に見えなくも無いが、その実態は冷戦終了後の政治崩壊で職を失った各国のエージェントを雇い、世界各国へ派遣する、いわばおれ達の同業者だ。だが問題が一つある。この雇われる連中というのは、大概が政治崩壊後、まともな職に就けなかった政府、軍隊関係の連中なのだ。敗走した政府軍、旧特殊部隊くずれ、元秘密警察。そんな連中が得意とする仕事と来れば、どうしても拉致、拷問、脅迫、爆破と言った後ろ暗いジャンルに偏らざるを得ない。結果として、海鋼馬のエージェントと言えば各国の犯罪組織を幇助する用心棒を指すようになる。『傭兵ギルド』の異名を取るのはそのためだ。おれも関わり合いになったことが何度かあるが、『なるべく犯罪行為にひっかからないように』仕事をするおれ達と、『なるべく犯罪行為がバレないように』の連中とはハッキリ言って反りが合わなかった。
「さて。あらためて交渉をお願いしたいところですが」
「スイカの新種登録申請のデータだったら完成したぜ」
  『蛭』の目が細まる。
「あんたらの狙いはあのスイカだってことは誰だって判ることなんだが。理由がどうしても見つからなくて困ってたんだよ。知的財産権や特許に詳しい人に情報を集めてもらって、ようやく判った」
「……」
  ギリギリ間に合った。来音さんに知り合いの弁理士に問い合わせてもらった成果である。
「つい最近成立した、『新種作物の創作権の保護』って奴だろ。あれに登録申請をされることだけは、あんたらは阻止しなければならなかった」
  本やソフトウェアに著作権が存在するように、農産物も品種改良によって創り出されたものには、創作者に一定の権利が存在すべきである、という考え方だ。とはいえ、これまではあまり徹底されておらず、日本の農家が苦労して開発した新種の苗が海外に持ち込まれ、数年後には大量に安価に逆輸入されて却って首を絞める事になった、などという事もあったとか。バイオ技術が進んでいる日本が、いわば海賊版の横行への対策として打ち出したのが『新種作物の創作権』である。これにより、先ほどのような状況に対しても特許使用料のようなものを発生させることで、創作者に利益を還元させることが出来るのだ。
「想像力のたくましい方ですね。それではまさか我々の雇い主まで見当が付いているとでも?」
  『蛭』の値踏みするような視線を、真っ向から受けて立つ。帰りの電車で大急ぎで組み立てた推理だが、それなりに自信はあった。
「憶測しかないけどね。どっかのお国直営の外資企業。それも実際はお国の命令で、大使館のバックアップまでついてます、って所じゃないか?」
「……どうしてそう思われるのですかな?」
「最初は新種登録の妨害なんてのは企業同士の諍いだと思ってたんだがね。どうにもしっくりこなかった。そろったデータを見る限り、味としては従来種とそう大きく変わりは無い。ただでさえ不確定な要素が多い農作物の特許にそこまでリスクを払うものか、ってな」
  しかし、笹村さんの話を聞いて納得がいったのだ。営利目的ではなくボランティア、それも国際貢献となればまた別の利害が色々と話が変わってくる。
「砂漠の緑化と言えば良いことづくめのように思えるが、現実問題としてはそれで損害を被る連中も存在する。例えば、その砂漠地帯の食糧事情が大幅に改善されると、そこに今まで食料を支援することで実質的に支配していた大国の立場はどうなるのか、とか。ひいてはそれが独立運動の機運に結びついたりしたらどうなるのか、とかね。それは大げさではあっても決して笑い話じゃない」
  馬鹿馬鹿しいようで、まったく笑えない話だ。食物のため。人類にとって恐らく最も原始的で切実な闘争理由だろう。
「そして、日本で公式に登録されてしまえば安易にコピー商品を作り出すわけにもいかない。ならば、登録をさせなければいい。いや。苗さえ手に入れることが出来れば、むしろ自分達が大きなアドバンテージを握ることにもなる。そう判断したからこそ、その国のお偉方は――」
「……それから先はあまり口にされない方がよろしいかと」
「ああ。おれもこれ以上くだらない内部事情に足突っ込むつもりはないよ」
「賢明ですね」
「飛行機を落とされちゃかなわないからな」
  『蛭』の目が若干の驚きに見開かれる。おれはと言えば、当たりたくも無い推理がまた当たって反吐でも吐きたい気分になった。
「彼女の場合は特別だったのですよ。それ以外にも色々と公式な影響を持つようになっていて……」
「ンな話はどうでもいい」
  要するに、だ。
「テメェをこの場できっちりノして帰ればそれでOK、ってことだろ?」
  おれは二人称と共に、脳内のモードを切り替える。
「そういう事になります。そしてそれは我々にも当て嵌まる。そこまで妄想を逞しくされては、隠密に物事が済む段階ではなくなってしまった。貴方を消してしまえば無力な依頼人などどうとでもなる」
「街中でドンパチやらかすつもりかい?」
「いやいや。二十一世紀は怖いですなあ。平和な日本で無差別テロ発生とは」
  『蛭』の気配が、ハッキリと変わる。それは一昨日の夜、おれ達を襲撃したあの怪人とまさしく同じものだった。その両腕がすい、と持ち上げられる。
「そういえば、まだあなたの二つ名を伺っておりませんでしたな」
「ああ。聞かないほうがいいと思うよ。多分後悔するだろうし」
「……おやおや。名乗りを上げる度胸も無いとは残念。では、参りますよ」
  『蛭』の姿が一瞬にして視界から消える。瞬間移動、の類じゃない。
  ――下!
  その姿は蛭というより砂漠を波打つ蛇の如く。
  地面を這うかのように『蛭』が疾走する。その両手から漲る殺気。
  空気を切り裂く二つの音。攻撃個所を予測した上で、事前に十二分に回避の用意をしていてなお、おれの皮膚に赤い筋が二本走った。更に後退。しかし学生の後退と戦闘のプロの突進の速度を比べようという考え自体がそもそも無謀だ。たちまちのうちに間合いを詰められる。必殺を期してか、目前に掌がかざされる。今度こそ見た。その五指がぐにゃり、と捻じ曲がったのを。そして、五本の指が五つの点となり、おれの視界に閃く。咄嗟に膝の力を抜いて仰向けに倒れこむおれの視界に移ったのは、鼻先をかすめて空を貫く、一メートルの長さにも延びた奴の五指だった。
  『蛭』の名は、おそらくその指にある。武術ではありえない、自在に伸縮、屈折する指。何某かの肉体改造でもしているのか。一見無手の状態から、関節構造を無視し、指一本分の隙間を潜りぬけて長剣並みの間合いで刺突を仕掛けられるとなれば、暗殺には打ってつけの能力だ。一昨日に直樹の胸板を貫いたのも、郵便受けに潜ませた五指による刺突だったのだろう。
  ――そんな思考は、背中に突き抜けた地面からの衝撃に遮断された。ピンチが迫るほど思考が加速するのはありがたい体質だが、加減を誤ると本当に機を逸しかねない。見上げるおれの視線と、見下ろす『蛭』の視線。交錯は一瞬だが永遠にも感じられた。その掌から五本の毒矢が打ち出される。それは等間隔におれの頭を貫こうとして――横合いから突き込まれたはためく布に弾かれ、逸らされていた。そこには。
「貴様の相手は俺だろう」
  このクソ暑いのにコートを着込んだ直樹が立っていた。
「……いいタイミングで出てくるじゃないか」
「何。この台詞は一度言ってみたかったのだ」
  まさか狙ってたんじゃないだろうな?
 
 
 
 

◆◇◆ 13 ◇◆◇

 
 
  身を起こしたおれの事などもはや眼中に無く、直樹と『蛭』は静かに視線を交えていた。片や黒いハーフコートを着込んだ初老の男。片や、このクソ暑いと言うのにインバネスなぞ着込んだ直樹。カメラ越しに見れば十二月のシーンに見えなくも無いが、おれの周囲にまとわりつく熱気が、これは紛れも無く八月猛暑の夜なのだと訴えてくる。
「先ほど事務所に真凛君から再度電話があってな。突入してきた連中と戦闘を開始したそうだ。どうやら海鋼馬の連中らしい。第一波は問題なく撃退できたが、そろそろ第二波が来る頃だろう」
「お前なあ。毎度毎度の事ながら準備に時間かけすぎなんだよ」
  おれはぶつぶつと呟きながらズボンを払う。
  こいつは草加の笹村さんの家を出た後、一回準備をするとか言って、高田馬場の事務所まで戻っていたのだ。
「仕方があるまい。準備が必要なのは本来貴様も同様だろう」
  その出で立ちを見て、おれは一つ息をつく。
「……本気ってことだな?」
「ああ。そういう事だから、貴様は早々に真凛君の所に駆けつけてやれ」
「あいつに援護が必要とは思えんがねえ」
「愛しい人を助けにゆくのは男の使命だぞ」
「そういうのを悪趣味な発言って言うんだぜ」
  おれは駆け出す。背を向けると同時に、待ちかねていたように直樹と『蛭』の戦闘が始まった。
 
 
  路地裏を抜けてダッシュすること三十秒。ここで息が上がって、そこから呼吸を整えつつさらに三十秒も歩き、ようやくマンションに戻ってきた。畜生、大学入ってからどんどん体がなまってきてやがるな。これで就職したらどうなることやら。
  エレベーターなんて怖くて使えない。オートロックを突破したらそのまま階段をかけあがる。ようやくお目当ての階にたどり着いた。
「真凛、大丈――」
  おれの声なんぞ遮って響き渡るけたたましい音。ドアを突破って吹っ飛んできた宅配便の制服の巨体がおれにぶつかってくる。受け止めてやる義理はないので身をかわすと、哀れ、その体は廊下の柵を越えて下へ落ちていった。ま、身体は頑丈そうだし、一階は植え込みだし。死にはしないだろう。
「戻ってくるまでもなかったかね」
  部屋の中を覗き込む。見事なものだった。スイカの生い茂る部屋の中、キレイにプランターを避けて八人ほどの男がノびている。本来三人居れば狭いはずの部屋に、パズルをはめ込むように芸術的な倒れ方をしていた。その中央に仁王立ちするのは、うちのアシスタントだった。それにしても管理人さんには何と言えばいいのやら。
「とりあえず全員片付けたよ。でも、話に聞いていたコートの人はいないみたいだね」
「ああ。あいつは直樹と交戦中だ」
「えええっ!?何でこっちに回してくれないんだよお!」
「こっちに来る途中を襲われたんだ。おれに文句を言うな」
  真凛ががっくりと肩を落す。
「ううう……ボクは何をやっていたんだろう」
「なあに。きちんと任務を果したのだから全く問題は無い」
  おれはザックの中からガムテープを取り出した。ノされた連中を見やってため息をつく。男を縛り上げるのはあまり興が乗らないなあ。
「しかしま、連中時間が無いと踏んでなりふり構わなくなりやがったな」
「結局、相手の狙いはわかったの?」
「まあな」
  後でコイツにも話してやるとしよう。直樹が『蛭』に負けるとは思えんし、おれの仕事もとりあえずこれで終わりだ。思わぬ大事になったがまあ大した仕事もせずにすんだし、結果としては良かったと言うコトにしておこう。真凛にもガムテープを放り、二人して縛り上げては玄関に放り出していく。
 
 
  と。視界の端に、小さな光がまたたいた。
 
 
  ――おれがそのマズルフラッシュに気付けたのは、完全に偶然だった。外が月夜でなければ、注視しても夜闇以外の何も見つけることは出来なかっただろう。向かいのビルのさらに奥、一際高いビル、こちらから見て丁度二階分ほど高い位置に潜んでいた海鋼馬のメンバーが、仲間を巻き添えにする覚悟で攻撃を仕掛けてきたのだ。わずかに弧を描きつつ降り注ぐ、かつて見たことのあるモノ。再び思考が加速する。それはつまり。
 
「HK69……グレネードランチャー!!」
 
  正気かよ……マンションごと吹き飛ばすつもりか!?
  すでに真凛も反応している。気付けばその反応はすぐにおれを追い抜く。今すぐ全力で脱出すれば自分は間に合うかもしれない。
  だが。
  ここは部屋、今から逃げても恐らく間に合わない。自分とおれだけなら何とかなるかもしれないが、ここにはノびた連中と、スイカがある。ましてや何も知らない隣の住民はどうなるというのか。そう考えたのだろう。そしてその迷いが、致命的な初動の遅れを招いた。
  もう、この部屋の人間は誰一人マトモにはすまない。
 
  ちっ……。
 
  あーあ。結局こうなるのかよ。加速する思考。無限に引き延ばされてゆく時間の中、おれはしぶしぶ脳裏の引出しを開けて、『鍵』を引っ張り出す。刻まれたバイパスに思考の電流が弾け、灼けつく。おれは『鍵』を放る。意識はトーンダウン。俺は鍵を受け取り施錠。閉じた扉ごとその存在をバックヤードに押しやる。
  さて。
  闇夜の中、すでにその形状すら把握できるほどの距離に迫った榴弾を俺は一瞥する。
  始めるとするか。
 
『亘理陽司の』
 
  鍵を掛ける。
  イメージするのはそれである。
 
  誰でも考えることだ。
  あの時、ああしていれば。
  あの時、ああしなければ。
  あの時、あれさえなければ。
  あの時、あれがあったら。
  今はもっと違っていたのに。
 
  人は生まれたときより無数の判断を経て現在に到る。それらが全て正しい判断だったと断定できる人間はいない。何故ならば、選ばれることの無かった選択肢は永遠のブラックボックスと化して、二度とその結果を確かめることは出来ないからだ。
 
  雨の日に、駅へ行くときに右の道を行ったら車に水を引っ掛けられた。これは不幸かもしれない。しかし左の道を行っていたらどうだったのか。何事もなく駅にたどり着けたのか。あるいは車にはねられて重症を負っていたのか?同じ日を二度経験することの無い人間には確認のしようが無い事象だ。
 
  それを運命、と言う人もいる。個々人の選択、外的な要因によって一瞬から無限に分岐し、無限からさらにまた無限の選択肢が広がる果てしの無いツリー構造。その中から選び取られるたった一つの選択肢こそが、運命なのだと。
 
  しかし、その中で与えられる選択肢にはすべて『因果』が存在する。
  世界には『原因』によって『行動』がなされ『結果』が生まれる。『結果』は新たな『原因』となり、次の『行動』を産む。雨の日に右の道を選んだのは、アスファルト舗装の右の方が砂利道の左より歩きやすいと判断したから。歩きやすい方を選択した理由は、前日に足に小さなケガをしていたから。人間の『判断』などその瞬間の外的な要因と己の現在の状態を引数として、答えを出力する一つの関数に過ぎず、それは選択ではなくて必然なのだ。
 
『視界において』
 
  鍵を掛ける。
  イメージするのはそれである。
 
  ならば。
  この世全ての『原因』を把握することが出来れば、次の『結果』を完璧に導き出すことが出来る。ならばそれは次の『原因』となり……。これを繰り返すことで未来を導き出す事が可能なのではないか。かつてそんな思想が流行したことがあった。
  これが『ラプラスの悪魔』だ。人間の脳にめぐらされたニューロンとその中を流れる電流すら計算し尽くし、感情や精神すらも式に置換し結果を予測せん。
  それは、果てしの無い無駄な作業なのだと思う。仮にもし。その行為が実ったとして。計算者に与えられるのは変化など起こり様の無い未来なのだ。それでは意味は無い。研究とは実益をもたらすものでなければならない。結局、後の世では混沌と揺らぎが生み出す事実上予測不能の世界がラプラスの悪魔を追い払った。だが、そんなものは人々は最初からあり得ないと判っていたし、彼らとてとっくに気付いてはいたのだ。
  彼らは思った。ラプラスの悪魔が存在しない以上、『結果』とは無数の選択肢から無数に派生する予測不可能なものである。選択肢が二つあれば、二つの未来が存在する。無限の選択肢があれば、無限の未来が存在する。当然のことだ。だからこそ人は欲望や目標に向かい足掻くのだ。
  しかし。それでは望むものにたどり着けないかもしれない。それもまた当然のことだ。
 
  ならば。
 
  無限の未来の中から、己の望むものへ突き進むのではなく。
  無限の未来の中から、己の気に入らないものを切り捨ててしまえばどうだろう?
 
 
『あらゆる類の』
 
  鍵を掛ける。
  イメージするのはそれである。
 
  望み得る事象を実現するために、無限の分岐へ鍵をかけてまわる。ハズレの道がすべてふさがれてしまったのなら、あとはどんなに複雑な分岐でも、開いている扉だけを選んでゆけば必ず正解にたどり着くのだ。手持ちの鍵の数はそんなに多くは無い。あまりに広すぎる事象、長すぎる時間を留めるのは亘理陽司に過度の負担がかかる。乗せられる単語の数は、限定性の高いものを十がやっと、というところか。我が師より受け継ぎしはただ一つの鍵。これによりて亘理陽司は世界すべての干渉を無価値とし、己の意に適う回答が出るまで物理法則を切り捨て続ける。
 
『爆発を禁ずる』
 
 
  割れた窓から飛び込んできた榴弾は、重い音を一つ立てて床に転がった。
「……愚か者め。近代兵器など不発を前提として戦闘するものだ」
  俺は悪意を込めて、そびえる塔の向こう、兵士に声をかけてやった。当然聞こえるはずも無いが、明らかに兵士はうろたえていた。それはそうだ。戦争ならまだしも、入念に準備を行った初弾が不発等という確率は、
「……〜〜ああ痛え。『あらゆる』、なんて景気のいい単語を乗せるなよなっとに」
  ぼやくおれの横を、疾風と化した真凛が走り抜ける。突進の速度をまったく殺さず掬い上げた榴弾を、ホレボレするほど力感溢れるオーバースローで振りぬく。報復の弾丸は五十メート以上の距離を先ほどとは逆の軌道を描いて見事、射手に命中した。たまらず崩れ落ちる射手。
「よっし、当たり!」
「当てるのは得意なんだよな、お前」
  ってかさっきは、『爆発しない』と定義しただけで、完全に不発になったかどうかはわからなかったのだが……。まあ、言わぬが花と言うものだろう。
  おれはガラスの割れたベランダに歩み寄り、千代田区の町を見下ろす。そう遠く離れてはいないところで、もう一組の戦いは続いているはずだった。
 
 
 
 

◆◇◆ 14 ◇◆◇

 
 
  月が翳り、辺りを闇が満たしてゆく。
  鉄骨の林の中、限られた空間を無数の線が貫き埋め尽くす。今やそこは、『蛭』の五指両手が織り成す蜘蛛の巣と化していた。その指はどれほど長く、迅く伸びるというのか。変幻自在に放たれ捻じ曲がる無数の槍衾の渦を、直樹はコートをなびかせながらひたすらに避ける。
「なかなか素早い。しかし、所詮人間の動きでは避け切れませんよ」
  『蛭』が言うや、さらにその攻撃の速度は上昇。もはや刺突ではなく銃弾に匹敵する速度で打ち出される攻撃を、それでも直樹はかわし続ける。
  真凛と異なり、奴には弾道を見切るなどと行った超人的な芸当は不可能だ。それでも奴が避けきれているのは奴自身の戦闘能力と、それなりに培った戦闘経験によるところが大きい。だが、それにも限度がある。
「……ちぃっ!」
  肩口を貫かんと閃いた薬指の一撃は、かわしきれるものではなかった。咄嗟にコートの裾をはねあげ、捌くようにその軌道を逸らす。胸板をすれすれにかすめていく薬指。危機が一転して好機となる。逃すものかとそのままコートの布地を巻きつけ、自由を奪い引き抜いた。力が拮抗したのは一瞬。
「何と!?」
  『蛭』が驚愕するのも無理は無い。直樹は奴の指を掴んだ左腕一本だけで、成人男性としても大柄の部類に入るはずの『蛭』の体を引っこ抜き宙に舞わせたのだ。体勢を崩したのを見逃すはずも無い。間髪居れず、こちらに飛んでくる『蛭』に向けてパンチを繰り出す直樹。だが。
「ぐうっ……」
  交差の後、吹き飛んだのは直樹の方だった。路地のゴミを舞い上げ、剥き出しの鉄骨にたたき付けられる。
「……ふん、そんなところからも出せるとはな。大した大道芸だ」
「困りますねえ。物価高のこの国では靴を調達するのも大変だと言うのに」
  それは、あまり正視したくない光景だった。『蛭』の右の革靴が破れ、さらに中から一メートル余りも延びた五本の足指が、獲物を狙う海洋生物のようにゆらゆらと直立して蠢いている。片や直樹はといえば、その新たな五指に貫かれたのであろう、腹部に幾つかの穴が穿たれ、そこから血を流していた。
「ふふ。貴方の能力は『怪力』でしょうかね。いずれにしてもその貫通創ではまともに戦えますまい」
  直樹は興味なさげに己の腹に開いた穴をみやる。それほどの負傷を追い、かつ今まであれほどの激闘を演じていたと言うのに、その額には汗一つ浮いていない。一つ小鼻を鳴らすと、インバネスのコートのボタンを外し、懐に左手を突っ込む。
「そろそろ本気で行くぞ」
  そんなコメントともに、ぞろり、とコートから何かを抜き出した。
「!?」
  『蛭』の表情が変わる。直樹がコートの中から抜き出したのは、サーベル。
  月明かりをその白刃に反射して冴え冴えと輝く、抜き身の一本の騎兵刀だった。その長さ、その大きさ。明らかにコートの中に隠しおおせるものではない。鞘も無く、剥き出しの刀身から柄まで銀一色の片手剣を、奇術師よろしく抜いた左手に構える。右手はコートの袖の中に隠したまま。先ほどの怪力に斬撃の威力が加わればどうなるか。直樹が間合いを詰める。『蛭』は咄嗟に後退。そのまま右の五指で直樹の心臓を貫きに掛かる。
  ――ずんばらりん。
  安易に擬音で表現すればそんなところか。高速で振るわれた騎兵刀の一閃は、肉をも貫く鋼の指を、五本まとめて両断していた。怯む『蛭』。追う直樹。『蛭』の左の革靴が爆ぜ、新たな五指が走る。しかし二度目の奇手は直樹には通じない。余裕を持って回避、なおかつロングコートの裾をその一指に絡める暇さえあった。捕らえられ、刀で断たれる指。しかし、それは囮に過ぎなかった。『蛭』はその一指を犠牲にして跳躍。仮組の鉄骨にその指を巻きつけ、あっという間に上へ上へと登ってゆく。たちまちその姿は月の隠れた夜の闇に隠れて見えなくなった。
「ふん。卑劣な振る舞いが身上の秘密警察崩れか。逃げの一手は常套手段よな」
  直樹の痛罵が届いたか、闇の向こうから『蛭』の声がする。
「おや。貴方のようなお若い方とは前職の時にはそれほど関わり合いになったことはございませんが」
  余裕を装っているが、自慢の両手両足の二十指のうち、六指を使い物にならなくされているのだ。指に痛覚が通っているのかどうかはわからないが、ダメージが無いとは思えない。とはいえそれも、腹に大穴が開いている直樹に比べればさしたる事は無いはずなのだが。
「ごく一般的な心情だ。人の庭先で詰まらぬ真似をされれば懲らしめてやりたくもなる」
「はて。東欧にお住まいでしたかな?」
  言葉はそこで途切れた。続けて上がる、無数の鈍い音。
「……!!」
  前後左右、そして上方から延びた十四本の『指』に、直樹が貫かれていた。
 
 
 
  鉄骨の塔から『蛭』が降りてくる。
「私の指は特別製でしてね。一度血の味を覚えれば、あとは臭いで追尾出来ます。視線の通らぬ暗闇であろうと問題はございません」
  切断された右の五指が蠢く。指先を切り落とされて怒っているのか。その掌を慈しむように見やり、
「ああ。安心しろ。お前達もすぐに元通りになるぞ。今度は男だが、若い人間の血だ。さあ、たっぷり飲んで育つがいい」
  あまり考えたくは無いが……この指は生きている。それも、まさしく『蛭』のようなものだ。直樹の全身に突き立てられた蛭どもが、その血を啜ろうというのか、一斉に身を歓喜を表現するかのごとく身をよじらせる。だが。
「……?」
  『蛭』の表情が曇る。
「ああ、つくづく嘆かわしい。かの偉大な詩人が吸血を愛の交歓にまで高めてくれたと言うのに。貴様のような奴が居るから我が品格まで疑われるのだ」
  唐突に、『蛭』の指どもが身をよじり始めた。だがそれは先ほどのような歓喜によるものではない。明らかに苦悶によるためだ。慌てて指を引き戻そうとする『蛭』。しかしその指たちは、まるで張り付いてしまったかのように直樹から離れることが出来ない。
「時間の流れと言うものは残酷なものだ。我が愛でし者、愛でし人、愛でし土地を次々と色褪せた『古き良き時代』とやら言うものに飲み込んでいってしまう。干渉をすれば互いに不幸を呼ぶだけ。止めれば止めたで、貴様らのような下衆共が我が領民の末裔を害して回る始末」
  いまや『蛭』にもはっきりと判るほど、その異変は現れていた。『蛭』が黒いハーフコートを来ていたのは、ただ隠密性を高めるためだけの理由だ。夏の暑さなど、訓練を積んだ者には不快感を催す程度のものでしかない。ところが、それが今。『蛭』は快適さを感じていた。まるで、今がこのコートを着て外出するに相応しい季節の如く。いや。むしろ、肌寒さを感じるほど。
  一際、指の蠕動が激しくなり……そして、止まった。愕然として見やるその視線の先で、直樹を貫いたはずの無数の蛭たちが、すべて、凍っていた。夜闇の向こう、十四の刺突に貫かれた男がいるはずの場所に浮かぶのは、瞳。紅玉を溶かし込んだような真紅にして、まるで溶鉱炉で燃える炎の如く、燦然と輝く黄金だった。その時、雲が去り、月明かりが再び周囲を鮮やかに蒼に染め上げる。
 
  そこに、それは存た。
 
  己の体内から吹き昇る膨大な冷気に、纏ったコートをまるで戦に望む王侯の外套のごとく靡かせ、逆巻く銀髪の元、眼鏡に覆われていないその瞳は紅き竜眼。手にし騎兵刀の正体は、その魔力で誂た氷の一片。その身に触れしものはたちまち凍てつき、無垢なる白へと存在を昇華させられ破滅する。
「吸血鬼……ですと!?」
  『蛭』が絶句する。それは彼の故郷でも、そしてこの業界でも御伽噺として一笑に付されるべき存在のはずだった。少なくとも、この業界で吸血鬼と言えば、数次感染を繰り返し、人間を多少上回る運動能力といくつかの異能、無数の弱点を引き継いだ存在に過ぎないはずだ。たしかに脅威だが、この業界では突出した存在ではない。だが、
「馬鹿な……!!『原種』が、この現代に生き残っているはずが無い!!」
  ましてや、大都会とは言えこんな東洋の一角に。そんな『蛭』の混乱など知ったことかと、直樹がどこか物憂げに、『蛭』を一瞥する。今まで袖の中に隠していたその右腕が振るわれる。全ての水分を凍結させられたおぞましい指どもは、直樹の体に傷一つつけることが出来ずに霧散した。いつのまにか、先ほど貫かれたはずの傷も拭ったように消えている。
「ぬぅっ……」
「ふん。種としての分を弁え、静かに眠りについていた我らを追い出しておいて言い草はそれか。確かに千年一日の管理者としての暮らしなど元から誰かにくれてやるつもりだった。それは許そう。しかし」
  直樹が左腕を掲げる。その腕に掲げられた騎兵刀が、恐ろしいほどの白に輝く。東京の真夏の空気が反発して嵐を引き起こす様は、異界から突如出現した絶対零度の暴君を押し返さんとする自然の抵抗にも思えた。
「仮にもこの『深紅の魔人』の領民を故なく害したとなれば、相応の罰を与えねばならん」
「ふ……ふふ」
  『蛭』が不敵に笑みを浮かべる。
「大言はほどほどにしなさい、旧種。もはや貴方達の時代は終わり。所詮は狩られる側の立場に過ぎないのですよ」
  一歩足を進める。微動だにしない直樹。
「吸血鬼の血。面白いですな。原種の血を飲めば不老不死も夢ではありません!!」
  ハーフコートが裂ける。その腹の中から飛び出してきたのは――人間の脚ほどの太さもある巨大な蛭だった。最後の一匹。これであれば凍結する前に奴の皮膚を食い破ることが出来る、と。だが。
「何度も言わせるな。吸血とは愛の交歓。貴様のような下衆な陵辱は見るに耐えぬ」
  時間にして一秒も無い。いや、触れたその瞬間には、長大な蛭はその全身を凍結されていた。愕然とする『蛭』。ありえない。いかなる理由かはわからないが、この男が冷気を操れるとしても、ここまで一方的に対象を凍らせることなど出来るものなのか。時間を止めでもしない限り――時間?
「貴様から奪って楽しいものなど一つも無い。その不快な時計を削るだけだ」
  直樹の右腕が一閃した。……そうか。局所的に時間を停止する能力……分子運動を完全に停止させられれば、全ての熱は存在し得ない。奴は冷気を操るのではなく、時間を操るのだ。思考がそこまで弾けた時点で『蛭』の下半身は吹き飛んだ。
 
 
  再び月は翳り、辺りは闇に沈む。無数の氷の欠片が大地に溶けてゆき、先ほどの光景はまさしく夢に過ぎなかったのではないかとさえ思える。
「逃げたか」
「逃がしたんだろ?」
  ようやく現場に到着したおれは、皮肉たっぷりにコメントした。直樹といえばそ知らぬ面をして、
「最近近眼でな。狙いを誤ったようだ」
  などとのたまった。ちなみにその眼は、いつものとおり黄玉のそれに戻っている。
「いいのか?能力ばらしちまってもよ。今後大変だぜ」
「何を今更。貴様と違って、俺の方はバラされる分には一向に構わんよ」
「名前が売れてると便利でいいねえ」
「貴様ほどではない」
  へいへい。しかしまあ、先ほどの寒気がウソのように、今では再び、夏の蒸し暑い空気がこの周囲を支配していた。っと。そうか、それもそのはずだ。
「夜明けだぜ。任務終了、だな!」
  おれは奴の背中を叩いた。直樹はと言えば、
「そういえば一昨日もここで日の出を見たような気がする……」
  などとこれまたのんきにのたまった。
 
 
 
 

◆◇◆ 15 ◇◆◇

 
 
「それで、結局特許は承認されたんすか?」
  受け取った封筒の感触に頬をほころばせつつ、おれは問うた。一任務終わるごとに即時現金で報酬が支給されることは、うちの事務所の数少ない長所の一つだ。迂闊に月末払いにでもされると、報酬を受け取らないうちに餓死しかねない連中も何人か所属しているので、自然とこうなったようだ。
  明日からいよいよ世間様はお盆である。ニュースでは帰省ラッシュによる新幹線乗車率がどうの、成田空港の利用者は何万人だのといった情報が垂れ流されている。二十四時間体制でろくでもない仕事を引き受けるうちの事務所も、明日からはしばらく事務所を閉めて日本の風習に倣うこととなるのだ。メンバー達はほとんどが休みを取っており、所長とおれと直樹と真凛だけがただいま事務所に残っている。直樹は盆になにやら大きなイベントがあるとかで、おれは純粋に生活資金が枯渇しているので、両者とも今日までに任務の報酬を受け取っておく必要があった。真凛はこの後すぐに家に帰って盆の準備をするのだとか。渦巻く外気温は引き続き絶賛上昇中、直樹なんぞはさすがにこのままでは日光で消滅しかねんと判断したのか、逆にサマーコートを羽織っての出勤だ。
「はいこれ。一昨日の日経産業新聞」
  応接室の雑誌ラックから所長が取り出した新聞を受け取り、ぱらぱらと広げてみる。紙面の後ろの方、衣食住あたりの企業まわりの情報を紹介する欄の片隅に、おれは小さな記事を見つけることができた。
「『クランビール、新種のスイカを登録。低温、少量の水での栽培が可能、国際協力活動への展開も』……なるほどね」
  その後には、この苗が今後数件の提携農家によって試験的に栽培される旨の記事が続いていた。
「ふむ。どうやらうまくいったようだな」
  おれが置いていったあの荷物の梱包を終え、戻ってきた直樹が言う。
  公式に登録された事により、もはやうちの業界が暗躍する余地はなくなった。ムリにでも苗に危害を加えようとすれば、確実に痕跡は残る。そうなれば当然調査はされるだろうし、関与が判明すれば外交上の交渉カードにすらなりえる。証拠を隠滅して力技で口を拭うという方法を取るにはあまりにもリスクが高い。ステージはすでに、次の段階へと移ったということだ。
「そ・れ・で・ね」
  所長が満面の笑みを浮かべる。あ、珍しく邪悪じゃない普通の笑みだ。
「……なんかヘンなこと考えなかった?」
「イエイエメッソウモゴザイマセン」
  所長はじろりとおれを一瞥したあと、気を取り直して流し台に向かう。そこには冷水が貯められており、そこに浮かぶは、
「じゃーん!笹村氏からの差し入れよ〜!」
  おれたちが守り通した、緑に黒の縞も鮮やかなあのスイカだった。
「うわ、大っきいなあ〜」 
  真凛が感嘆の声を上げる。
「日本に滞在して長いつもりだが……。これほどのものは始めて見るな」
「今回の報酬のおまけで、ぜひ食べてくれってね。君たちが来るのに朝から冷やしておいてやったのよ。感謝しなさい」
  湧き上がる喜びの声。さっそく食べよう、そうしよう、なんて言葉が飛び交う。
  何となく、おれの脳裏に一つの風景が浮かぶ。果てしなく続く荒涼とした砂漠。そこにぽつぽつと植えられていくスイカたち。しかし、そこには二人居るべきはずなのにもう一人しか居ない。それは少し、悲しい風景なのかもしれない。
「そうでもないんじゃない?」
  おれの思考を読んだかのごとく、所長が意味ありげにコメントする。おれはその意図を読み取り、新聞の記事を再度読み進めていった。記事の末尾に、それは載っていた。
「何と書いてあるのだ?」
「『……本件の登録商標は『瑞恵』。開発者である笹村氏の命名である』だとさ」
  瑞々しき恵み。不毛の地へ実りをもたらす種、か。
「ははあ。名前はもう決めてあったってわけだね」
  笹村氏がどんな顔をしてこの名前を登録したのか。想像するうちに、次第におれは爽快な気分になってきた。気合を一つ、気だるさを振りきり立ち上がる。
「おれが切りますよ、丸々一個、いいですよね?」
  いいよー、盆前に全部食べちゃうつもりだから、との所長のお言葉。となれば一人四分の一切れ。横で真凛が目をきらきらと輝かせているのがわかる。そういやガキの頃からおれもやってみたかったんだよな。でかいスイカに思いっきりかぶりつくって奴。
「じゃあ、ボクお盆とお皿出してくるね!」
「タオルと包丁と塩も頼むぞ」
「あいあいさー!」
「ふむ。では俺はテーブルを出すとするか」
「いいのかよ、日焼けすんぞ」
「なに。雅を味わうためなら些細な事よ」
  それにな、と奴は不敵に笑って見せた。
「明日より炎天下のもとに三日間曝されるのだ。今のうちに体を慣らしておかねばな」
  おれには良く意味がわからなかったが、まあ理解しても幸福になるわけでもなさそうなので突っ込まなかった。
 
 
  スイカは叩くとキレイに音波が通りそうなぎっちり実の詰まった大玉。まっかっかの果肉と黒い種がもうこれでもかっ、とばかりに己の存在をアピールしている。それをワイルドに皿に乗せ、事務所のベランダに出されたテーブルへ並べる。ちなみにテーブルの上には、スイカと一緒に送られてきたクランビールの缶が。笹村さん、やるな。
「所長、さすがに昼間からビールはいかがなものかと」
  言いつつ、しっかり缶をキープしているお前の方がいかがなものか。
「いいのよ。たった今夏季休業の報せを発信したから。今から晴れてお盆休みってワケ」
  所長は言い、プルタップを押し込んだ。おれも習い、ビールを一気にあおる。なんだか水分の取りすぎで腹を壊しそうだが、気にしない気にしない。
「こういう報酬もたまには悪くないでしょう?真凛ちゃん」
「はい、美味しいです!」
  ドラえもんの登場人物の如くうまそ感を振りまきながらスイカを食べる真凛であった。なんだかこいつもなんだかんだで上手く騙されているような。
「まあいいか。これはこれでアリだしな」
  おれはスイカにかぶりついた。それはとても冷たく汁気たっぷりで、極上の甘味だった。
  吹き込んだ風が、蒸し暑い空気を払ってゆく。風鈴の音が、ちりん、と響いた。
  今日もまた、暑くなりそうだった。
 

[了]ID:SFN0002v102

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