人災派遣のフレイムアップ 第3話 『中央道カーチェイサー』         ●1     「ぅえっくしっ!!」  おれは唐突に盛大なくしゃみを上げ、周囲の人々――長旅の疲れを癒す善良なドライバー諸氏から冷たい目を向けられた。左右に首を振りながら愛想笑いと目礼で謝る途中、もう一回大きなくしゃみをする。おれはたまらず、ささやかな夜食、たった今トレイに載せて運んできたみそラーメンに箸を伸ばした。世にラーメン数在れど、体を中から温めるという点に於いてみそラーメンに勝るものはあるまい。シャキシャキのもやしと甘いコーンが入っていれば及第点。その点、このレストランのラーメンは充分以上の出来だった。いやもうホント、どうせインスタントだと覚悟していたのだが。今日は結構ツイているらしい。立ちのぼる湯気にあごを湿らせ、幸せいっぱいに麺をすすりこむ。一気に三分の一を平らげてスープを飲み込み、熱交換を終えた肺の空気を一気に吐き出す。五臓六腑に染み渡るとはこのことだ。寒い夜のラーメンは格別である。つい先程まではアイスクリームも買おうか等と迷っていたのだが、戯けた考えを自粛して本当に良かった。    ――正直に告白しよう。八月だからと言って、Tシャツ一枚にショートパンツとサンダルという格好は、あまりにもこの時この場所をナメておりました。この窓際の席からよぉく見える、街の灯火に縁取られた夜の諏訪湖を見下ろし、おれは素直に反省した。  そう。ここは長野県。  八ヶ岳に抱かれたいにしえの湖を眼下に望む、中央高速自動車道諏訪湖サービスエリアが、只今このおれ亘理陽司の存在している場所なのだった。  とはいえ、時刻は日付も変わろうかと言う深夜。せっかくの絶景も既に闇に沈んでおり、おれの感覚を占めているのは、本当にかすかにざわめく水の音ときらめく灯り、そして店内の喧騒と、響き渡る有線の音楽だった。世間様は夏休み真っ最中だが、さすがにこの時間帯になれば、店内も観光客より地元の若者やトラックの運転手の占める割合が多くなってくる。セルフサービスの無料のお茶(ホット)の紙コップを三つほど積み上げラーメンを堪能しながら、TVで流されているニュースと画面の右上に浮かんだ時刻を見やった。ザックに仕舞い込んだ週刊誌も粗方読みつくしている。  おれがこのサービスエリア内のレストランに陣取ってから、すでに六時間以上が経過しようとしていた。もう一つ、盛大なくしゃみ。まったく、夜の高地がここまで急激に冷え込むものだとは。……まあ、半分以上は不可抗力だと思っている。何しろ夕方三時に、まるで税務署の酷吏のように住民をぎゅうぎゅうと締め上げる東京の焦熱地獄を脱出した時には、とてもこんな肌寒さを予想するどころではなかったのだから。   「ちゃらら〜ちゃちゃっちゃらちゃ〜ら〜ちゃ〜っちゃちゃ〜♪」    麺を半分ほどすすり終え、お楽しみに取っておいた大きめのナルトをいただこうとしたところで、『銭形警部のテーマ』がポケットから響き渡る。 「はいはい、亘理ッス」  それに対する返答は、受話器ではなくレストランの入り口から響いてきた。 「いたいた、おーう陽チン、待たせたな!」 「陽チンはやめてくださいって、仁サン」  おれは苦笑しつつ手を振る。玄関のドアが開き、レストランの入り口に一人の男が入ってきた。とりたてて美形と言うわけではないが、不思議と人目を引く男だ。二十代前半、長身に纏った薄手のシャツの下には、分厚い、実用的な筋肉がうねっているのがわかる。野生を感じさせるその面構えも相まって、ハードレザーでも着せて夜の街に立たせておけばさぞかし同性にモテるだろう。本人はさぞかし嫌がるだろうが。そんなおれの勝手な想像を知る余地もなく、青年はおれの視線を捕らえるとにやりと笑い、真っ直ぐ歩を進めてきた。 「都内出発から占めて九時間。随分待たせてくれるじゃないですか」 「何だお前、せっかく給料つきで自由時間くれてやったってのに、まさかただここで座ってました、なんてほざくんじゃないだろうな?」  おれの苦言などどこ吹く風。人ごみを飄々とすり抜けてこちらに近づいて来る。いつの間にかその右手にはトレイが握られ、気がつけば大盛のカツ丼とサイドメニューのうどんがそこに載り、テーブルに辿り着くまでにはデザート代わりのたこ焼きまでが載っていた。そのまま無造作にトレイを置くと、どっかりとおれの対面の椅子に腰を下ろす。いったいいつの間に食券を買って注文して、あまつさえ出来上がるまで待っていたというのか――そんな愚問はこの人にはぶつけるだけ無駄である。付き合いはそれなりに長いが、教えてもらった事は一度も無いのだ。いわく、タネをばらしたら法でなく術になってしまうのだとか。 「アルコールも無しで夕方以降の六時間をどう潰せと?」  実際、諏訪湖に降りたならまだしも、このサービスエリアの中で周れる場所などたかが知れている。最初の一時間で一通り探索を終えた後、雑誌と違法改造携帯電話兼サウンドプレイヤー『アル話ルド君』とTVのお世話になっていた次第。エリア内には温泉があったのだが、どうせこれから散々汚れる事を考えると入る気にはなれなかった。 「出会いに二時間、食事に一時間。その後もうちっとお互いの理解を深めるのに二時間ってとこだろ」  心底出来の悪い弟子を嘆くような表情でこちらを見るのはやめて欲しい。 「生憎とおれの売りはアンタと違って、手の早さよりもじっくりつきあってこそわかる篤実な人格って奴なんですよ、仁サン。だいたい車をアンタが運転していっちゃったんだから、理解を深める場所も無いじゃないですか」 「木陰があれば充分だろ」 「アンタが言うと冗談に聞こえませんね」 「たこ焼き食うか?」 「いただきましょう」    このハードゲイ、もとい好青年は鶫野《つぐみの》仁《ひとし》さん。おれ達同様、人材派遣会社『フレイムアップ』でアルバイトに励むメンバーあり、その中でも古株に属する一人だ。今では自然とアルバイト達の取りまとめ役になっており、多数のメンバーが派遣される任務の際には、社員達のバックアップを受けて前線を指揮する小隊長になる事が多い。おれや直樹あたりもこの仕事を始めた当時から何くれとなく世話になっている、頼れる先輩といったところ。今回の仕事を引き受けたおれを、都内からこの諏訪湖まで愛用の四駆で引っ張って来たのも仁さんなのである。 「と言っても、今回はただの運搬役兼準備役だ。うちからの正式な選手は、お前と真凛ちゃんの二名、という事になる」 「……こういう混成部隊で失敗しても、『任務成功率百パーセント』は維持出来ないんですかねぇ?」 「何言ってやがる、もともと失敗するつもりなんぞないくせに」  それもそうだ。そろそろ本題に入るべく、おれは話題を転換する。 「で、例のブツは?」 「あー安心しろ。お前がさみしい六時間を過ごしている間にバッチリ出来上がってんぜ」  これまた手品めいた仕草で仁サンがするり、と取り出したのは、ノートパソコンを収納するような耐衝撃性を高めたキャリーケースだった。ずいぶんと身が厚く、金槌でぶったたいても内容物に傷を負わせる事は出来そうに無い。なんでも引越し業者が精密機器の梱包に使うモノの親分筋なのだとか。 「お待ちかねの後半部分がこの中に入っている。作者から受け取ったその足でここまで運んできた。前半部分はすでに敵さんが持ち去って、ルールどおり待機してんぜ。諏訪のインターから上がってくる予定だ」 「あちらは契約どおり四人?」 「四人だそうだ。そしてこちらもお前さん以外の三人は準備OKだとよ」  マヨネーズのたっぷりのったたこ焼きと、勿論忘れずにナルトを口に放り込むと、おれはケースを手にとって眺める。ケースの口の部分には、これが『誰も開封していない』事を示す、封印の紙が貼り付けてあった。無駄だと解ってはいても、何とかしてその中身を閲覧できないか、と上下左右をこねくり回すおれに仁サンが苦笑する。 「何だ?お前その手のマンガに興味あったか?お前が好きなのは無意味に小難しいヤツか、実用一辺倒に劇画調年上陵辱系のエロスなヤツだと思ってたけどな」  ご家族連れも利用するレストランでそんな台詞を吐くのはやめて頂きたい。 「水木しげる御大も一通りは揃えていますよ。……ま、こーいうのは確かにストライクゾーンじゃないんですが。こないだDVDを全巻一気に見せられて以来、まんざらでも無くなりましてね」  おれはケースの天頂部をみやる。そこには無愛想な事務的なラベルとは対照的な、何と言うかハートフルな愛らしいフォントで、以下のような文言が刻まれていた。   『サイバー堕天使えるみかスクランブル 第42話原稿 18〜36ページ』    ふぅ、と一つ息をつく。ちょっとだけこの状況に緊張した。  そう、まさに今おれの手にあるのは、あの超人気連載マンガ『えるみかスクランブル』の原稿。それも雑誌に未だ掲載されていない、出来たてほやほやの生原稿なのだ。しかも、あの長らく待ち望まれた第42話と来ては、 「責任は重大、だよなあ……」  任務達成率百パーセント、なんて看板には未練どころか最初から執着もないが、さすがに失敗して世の熱狂的な『えるみか』ファンに八つ裂きにされるのは避けたいところだった。         ●2     『月刊少年あかつき』。    それが『えるみかスクランブル』の掲載雑誌の名前である。  決してメジャーどころではないが、タイトルは若い世代なら大抵知っているマンガ雑誌だ。ただし読んでいる人はそれ程多くなく、コンビニでもなかなか見かけない。そのくせ掲載されているマンガの中でトップの人気を誇る作品――『えるみか』はまさにその一つだ――は、誰もが一度はアニメくらいは見た事がある。そんな微妙なバランスを保ったこの月刊誌の存在が、今回のお仕事のそもそもの発端である。    『少年あかつき』を刊行しているのは、大手出版社ホーリック。実用書や文芸小説、ビジネス雑誌を中心としてシェアを確保している、いわゆる『お堅い』会社である。そんなホーリックが突如月刊の、しかも少年マンガ雑誌などと言う畑違いのジャンルに進出したのが十数年前。  噂によれば、何でも叩き上げの当代の社長が『現代の少年達が、世間に蔓延る有害な漫画に触れて育てば、必ず二十年後の国家に深刻な悪影響を及ぼす』と息巻いたのがきっかけなのだとか。おれからしてみれば、ならそんな有害なマンガなんぞに関わらなければいいじゃないか、と思うのだが、一代で出版社を立ち上げた傑物の考えることは違った。彼の出した結論とは、『然らば、我々が率先して良質な漫画を供給し、以って少年達を啓蒙し健全な精神を育ませるべし』だったのだそうだ。――世間ではこういうのを『大きなお世話』と言う。君、テストに出るから覚えておくようにね。    ……当然と言えば当然なのだが、そんな社長が提起した『良質な漫画』――お堅くて品行方正で説教臭い――ばかりが集められた創刊号は、そりゃあもう致命的なまでに売れなかったらしい。当時の業界では「殿、ご乱心」なんて陰口が無数に飛び交ったのだそうだ。だが、当の社長はそんな逆風にめげることなく、他部門の利益を注ぎ込んで販促を行い、各誌から一昔前のいわゆる『旧き良き』時代の人気作家を招聘し、この『あかつき』を保護し続けた。土が悪くても肥料と水を与え続ければなんとか苗木が育つように、『あかつき』はそれなりには雑誌として成長を遂げていったのだ。……ところが。おれは依頼を受けるに至った経緯を思い返した。       「十年前、その当時の社長が病気で引退されてから、『あかつき』の方向性は大きく変わりました」  今回の依頼人、弓削かをるさんはそう言ってアイスティーに口をつけた。東京都は高田馬場、『フレイムアップ』の簡易応接室である。節電の精神に基づいて稼動するエアコンでは降り注ぐ赤外線のスコールに抗し切れないようで、部屋の中は良く言っても『どうにか暑くない』程度だった。応接に陣取る三者のうち、おれと浅葱所長は時折扇子や書類で風を起こして涼を補っていたが、当のクライアントは汗一つ浮かべず端然としたものである。ビジネススーツに身を包んだ一分の隙も無いその姿は、ホーリックの女編集者というよりは、どこかの検事と言った雰囲気だ。それもヤリ手の。こんな人が編集についた漫画家は、そりゃもう〆切という契約の重みを身をもって味わう事になるのだろう。 「もともと社長の道楽で創めたような雑誌でしたから、編集者達もどちらかと言えば事務的に仕事を捌いていました。しかし、社長が引退したからといって即廃刊と言うわけにはいかない。当時の編集者達は四苦八苦しながら慣れないマンガ編集に携わってゆき――」 「やがて本気になった、と」  弓削さんの冷たい視線がおれの顔を一撫でする。どうやら自分の言葉に割り込まれるのはお好きではないタイプの模様。そのまま言葉を続けて頂く。 「特に若手の編集者達は、これを好機と捉えた者も多く、それぞれが独自の基準で新人や他雑誌の作家を発掘し、登用して行きました。それからさらに試行錯誤の十年を経て、今につながる『あかつきマンガ』の作風が確立されるに到ったのです」 「あかつきマンガ、ねぇ……」  おれは口の中で呟く。こりゃどう考えても、おれより直樹の野郎の領分だよなあ。確かあいつの部屋は、『あかつきコミック』が壁の一面を飾っていたはずだし。      ヤツの受け売りになるが、まあ何だ、弓削さんの言う『今につながるあかつきコミック』ってのは、若い男性向けの、繊細な絵柄の美少女、もしくは美女美少年の魅力をウリとしたマンガを指す、のだそうだ。奴等の世間ではそういうのを『萌えマンガ』と言う……らしい(正しく言葉を引用出来ている自信はおれには無い)。率直に言えば、おれにとって興味の無いジャンル、というわけ。  『えるみかスクランブル』はまさにその典型で、十数人の美少女と、彼女達を守護する天使の名前がつけられたロボット達が、魔界の侵略者から地球を守る、と言った内容である。主人公と美少女達の恋愛模様、ロボット同士のド派手な戦闘が若い世代に受けている、らしい(って言うとおれがいかにも若い世代ではないみたいだが)。  それにしても、そのあかつきコミックの起源が『世間に蔓延る有害な漫画を駆逐する』事にあったとすれば、とかく周囲から偏見の目で見られがちの今の『あかつきマンガ』の姿は皮肉としか言いようが無い。先代社長もさぞかし草葉の陰で嘆いておられる事であろう。     「そう。嘆いていたのです。だから十年の闘病生活を経て、奇跡的に病気を克服した今、現在の事態を許すはずがない」  ……おっと。病気で引退したっつっても死んだわけでもなかったか。しかし結構いい歳だろうに。 「御歳七十五。あと十五年は現役を張るつもりだそうです」  さいでっか。 「社長が奇跡的に退院し、再び現職に返り咲いたのが一年前。そこから『あかつき』の編集部内には、粛清の逆風が吹き荒れる事となりました」  掲載されているマンガには興味が無いおれも、その話は業界四方山話として知っていた。強引な上層部の方針転換に対する、作家と若手編集者達の造反。業界内で、『あかつき御家騒動』、もしくは『ルシフェル事変』と呼ばれる一連の騒動が巻き起こったのである。         ●3      社長が死神に愛想を尽かされて現職にカムバックしてからと言うもの、『あかつき』の編集部内は宗教弾圧真っ盛りの中世さながらだったそうだ。  まず最初に行われたのが、主要連載マンガ陣の打ち切りである。人気の無くなったマンガがいきなりストーリーを急速に進め、それから三、四話後に打ち切り、というパターンはどこでも良くある話だ。だが、これを『あかつき』では人気連載が唐突に行ったのである。  そして困惑する読者を尻目に次に行われたのが、同じく人気マンガの他誌への移籍。ホーリック社は『あかつき』の他に、四ヶ月に一回刊行する季刊『あかつきSEASON』を持っている。本来は新人の読み切りや『あかつき』本誌連載の外伝を掲載したりする、いわば二軍的役割の雑誌だったのだが、この『SEASON』にいきなり主力連載が移管されたのである。当然これらの処置に連載のファンと、そして当の作家達は怒り狂った……のだが、自らの信念を以って進む社長にとってはそんなものは打破すべき有害図書の怨嗟に過ぎず。ますます『あかつき』から『あかつきマンガ』は排除されていったのだった。  そしてその穴を埋めるべく大量に投入されたのが、円熟したベテラン作家による一昔、いや、三昔前の『清く正しい』王道少年漫画の群れだった。そりゃもう、スポ根、青春、熱血、努力、勝利、下手すりゃ愛国なんて言葉も大真面目に飛び出すような連載陣。それはまさに、創刊当時の『あかつき』の復刻だった。     「当然、私達編集や作家も大いに困惑したのですが、一番の被害者は読者でした」  まあ、可愛いオンナノコやカッコいいオトコノコの活躍を楽しみにページをめくった読者が、劇画調のオッサンがぎっしり詰まったコマを見せられたらそりゃ詐欺だと思うだろう。結果として、『あかつき』は十年に渡って開拓して来た読者を多く失う事になった。    社長がいない間にこの十年を築き上げてきたマンガ家達、そしてかつての若手にして今の中堅どころの編集者達の気持ちは到底収まるものではなかった。彼等はやがて一つの決断を行う。――我々が育ててきたこの『あかつきマンガ』の芽を、あの社長の独善で潰させるわけにはいかない、と。  そして叛乱が始まった。  当時の編集長が資金を調達し、出版社『ミッドテラス』を設立。そして現『あかつき』の主要スタッフと、『SEASON』に追いやられていた作家陣を引きつれ集団でホーリック社を離脱したのである。そしてミッドテラス社は月刊誌『ルシフェル』を設立。『あかつき』で辛酸を舐めた連載陣を、一部タイトル名を変えた程度でほとんどそのまま復活させたのだ。    もともとホーリックが『あかつき』を創刊し、今また強引な方針転換を推し進めたのは、社長の独善的とも言える思い込みによるものである。だが、いや、だからこそ、か。社員とマンガ家の大量離脱という裏切り行為は事態は社長にとって許せるものではなかったようだ。例えそれが『あかつき』から彼の嫌う異分子が出て行く事を意味していたとしても。  そしてホーリック社はミッドテラス社を提訴。『ルシフェル』における連載陣はすべて『あかつき』の連載の続編であり、明確な著作権違反だと指摘。対するミッドテラス社はホーリック社の横暴な振る舞いを訴え、また、自社の連載陣はあくまで同一作者の別の連載である、と主張し……作品の著作権や作家の所属、はたまた著作権の解釈そのものを巡って、両社は激しく争う事になった。半年以上経過した今もこの騒動は法廷で継続しており、時々テレビや新聞を賑わせている。      そして、半年以上継続しているこの『ルシフェル事変』において、当初から一貫して一番の台風の目だったのが、『あかつき』のトップ人気マンガ、『えるみかスクランブル』である。  主要の連載の多くが打ち切られ、また『SEASON』に移される間も、その後も、一番人気の『えるみか』だけはそういった目に遭う事が無かった。理由は簡潔。稼ぐ金が大きすぎて、ワンマン社長と言えども迂闊に手が出せなかったのである。アニメ化、CDドラマ化もなされ、フィギュア等のグッズ類が上げる利益は莫大。『あかつき』は知らなくても『えるみか』は知っている、という人々が多数居るこの御時世だ。『えるみか』の連載中止はそのまま『あかつき』の致命傷に、いや、もはや母体であるホーリック社の屋台骨にまで大きな損害を与えかねないものとなっていたのである。  反面、『ルシフェル』としては、『えるみか』とその作者『瑞浪《ミズナミ》紀代人《キヨト》』は何としてでも自社側に引き抜いておきたいカードだった。人気連載をまとめて引き抜いたミッドテラス社も、お家騒動のゴタゴタで多くの読者の離反を招いており、決して安穏と出来る状況ではなかったのである。――もっと辛辣に言ってしまえば、『えるみか』という人気作品なしに、単品で勝負出来るだけの連載が無かったと解釈する事も出来る。ミッドテラス社は設立当時から瑞浪氏に対して強い勧誘を続けていたが、先の理由によりホーリック社もこれだけは例外と断固として勧誘を跳ねつける。やがて、ミッドテラスの勧誘とそれに対するホーリックの妨害は次第に強引、強硬なものとなり、両社に挟まれた形になった瑞浪氏は執筆以外のストレスに体調を崩すようになっていった。    そして数ヶ月が経過したころには、『ルシフェル事変』は、著作権の正当性や各作家の意志という諸問題から、次第に『瑞浪紀代人はどちらで連載をすべきか』という、きわめて生臭い一点に集約していったのである。片や、専制君主の意向で切り捨てたいのに切り捨てる事が出来ない『あかつき』側と、喉から手が出るほど切実に欲しいのに、『あかつき』で連載されている限り手出しが出来ない『ルシフェル』。決め手を欠く両社が表と裏の双方の世界で暗闘を繰り広げて行くうちに、事態は深刻さを増す一方だった。  世に少年漫画雑誌は『あかつき』と『ルシフェル』だけに在らず。アニメ化される人気マンガは『えるみか』だけに在らず。両社が終わらぬいさかいを繰り返す内に、奪い合いをしているはずの読者達はどんどん他誌へと流れていった。当然と言えば当然のことではある。  ゴタゴタが続く内に当の『えるみか』も”作者都合により”休載がちになっており、殊に現在は、41話が掲載されてから既に三ヶ月連載がストップしていた。出版社間の裏事情は当の昔にあまさずネット経由で一般にもぶちまけられており、読者の怒りは頂点に達していた。    このままでは共倒れ。    その認識を持つに到った双方は、極めて合理的な問題解決方法を選択した。すなわち――ケーキの取り合いになったらジャンケンで勝負を決める。これと同様に、企業間の揉め事になったら、『異能力者達の競争』で勝負を決める。――ここ最近、企業間の裏社会で急速に広まりつつある方法を。         ●4     「ゲームの開始は深夜二十五時ジャストに決定された。ゴールは東京都千代田区神田の喫茶店『古時計』。場所は頭に叩き込んできたか?」  仁サンのコメントにおれは頷いた。東京一人暮らしもそれなりに長い。都内の地理は脳に焼きついている。 「勝利条件は二つ。その一。『ミッドテラス』社の雇ったエージェント四人を排除し、彼等の持つ『えるみか』第42話原稿の前半部分を奪い返すこと。その二、その原稿と今お前が手にしている後半部分をセットにして、ゴールまで持ち込むこと。お前達のチームが勝利すれば、『えるみか』は今までどおり『あかつき』とホーリック社で連載継続。ミッドテラスは以後一切の勧誘行為を諦めることとなる」 「……当然、敵さんの勝利条件は正反対。おれ達の原稿を奪ってゴールすること、なわけですね」 「そういう事だ。『古時計』には今回の依頼人であるホーリック編集の弓削かをる女史、ミッドテラス編集の伊嶋勝行氏、立会人としてうちの所長。それからつい数時間前、諏訪の自宅で原稿を書き上げたばかりの『えるみか』作者、瑞浪紀代人氏も合流するために出発した。お前等がゲームに突入する頃に、丁度向こうに着く勘定かな」  任務前に諸条件をお浚いしつつ、おれは何とも皮肉な表情にならざるを得ない。長引くゴタゴタを解決する方法とは、要するに、くだらないルールに基づいたゲームを行い、勝った方が権利を得るというものだった。おれ達はそのために呼び集められた態の良い代理人というわけ。派遣業界の主要なお仕事が各種代行だとは言っても、流石に古代の剣闘士の真似事までさせられるんじゃあたまらないよなあ。       「とは言え、それなりにメリットはあるのよ」  おれの不満面を読み取ったかのように、浅葱所長はのたまったものだ。 「何より、訴訟に比べてお金と時間の短縮になるのが第一ね。裁判の意味の大半は、中立の立場から主張を判定して貰うことで双方がともかく『納得すること』なわけだから。『納得すること』さえ出来るならそれこそコイントスでもジャンケンでもいいわけよ」  法治国家の根幹を揺るがしかねないコメントをさらりと述べなさる。 「すでにミッドテラス担当者と弁護士立会いの下で契約書を取り交わしました」  こちらは何時の間にやらアイスティーを飲み干した弓削さん。 「以後は、両社担当がそれぞれのコネクション、情報網を駆使して各派遣会社よりエージェントを召集することになります。今回、ルールで定められた参加人数は四人ずつ。うち、二人については私個人の伝手がありますので確保出来ました。そして残り二人を、業界屈指の名声を誇る御社より派遣していただきたいのです」 「背景はとりあえずわかりましたよ。しかし、真凛はともかく、何でおれなんですかね?」  自慢じゃないが、アクションはかなり苦手なクチなんですが。 「他のメンバーとの相性を考えた上でのベストオーダーよ。運動能力の高いメンバーを揃えてみても、相手側に妙な能力を持ったエージェントが一人居ると、簡単に戦局をひっくり返されてしまう。その点、亘理君ならどんな場面でもそれなりに動けるジョーカーだから」 「その呼び方やめてください」 「あ……、ごめん。とにかく、アクションは他の人達が補うから。亘理君はイザという時の切り札として同行して欲しいワケ」  そこまで言われれば否やはない。己の能力をかわれたなら、それに応えてみせるのが、忠誠を尽くすべき企業を持たない派遣社員のココロイキというものである、バイトとは言え。決して夏休みの無駄遣いのせいで金欠だからとか、そういう事ではゴザイマセンヨ?……きっと。多分。 「任務としては了解いたしましたよ。んで。折角ですし、お時間があれば雑談でも楽しませていただけませんかね?」  おれは弓削さんに営業用の表情で微笑みかける。 「何でしょうか」  対する彼女の表情は、冷たい鉄仮面を思わせた。 「いえ。本日はホーリックの代理人としてお越しいただいたわけですが。作者の瑞浪氏と二人三脚で『えるみか』を作り上げた、『かつての若手にして今の中堅どころの編集者』であるところの弓削かをる氏の意見はどうなのかな、なんて」  鉄仮面の奥から凍てつく眼光が放たれた、ような気がした。 「当然、作家にとってベストの環境を確保するのが編集者の仕事です」  ……他社の勧誘など、雑音以外の何物でもないわけですか。 「他に何かございますか?」  イイエ、アリマセン。       「どーにも気に入らないですねぇ」  サービスエリアの駐車場に出て軽くストレッチをする。仁サンが車に積んできたライダー用のツナギの感覚は、所々に分厚いプロテクターが仕込んであることもあって、どうにも慣れない。フルフェイスのメットもしばらくかぶる気になれず、おれは手持ち無沙汰に他のエージェントとの合流を待っていた。今回はおれ達以外の派遣会社のメンバーが『運び屋』を務めることになっている。 「あン?何がだよ」 「何ていうか、弓削サンのコメントが。正論なだけになお腹が立つっていうか」  恥ずかしながら当方、最近『えるみか』の単行本を直樹に借りて読んだ次第。そこであとがきや巻末のおまけマンガに時折登場する『編集Y女史』は、ああいう人ではなかったと思ったのだが。 「はっはっは、陽チンはまだまだ甘い。佳い女の言う事に間違いは無いのだ」  ろくに情報を持って無いくせに首から下で返答しないで頂きたい。 「あ、お前、俺の佳い女センサーを甘く見ているな?」 「表情だけでこちらのコメントを読み取るのもやめてい頂きたいですね」  くだらない掛け合いをだらだらと続けている内に、もはや時刻は深夜二十五時にさしかかろうとしていた。 「んじゃ、俺は行くぜ。後は頑張んな」  バンに乗り込み、愛車に火を入れる仁サンが運転席から挨拶を述べる。 「名古屋でしたっけ?」 「ああ。一旦諏訪で降りてな。ここまでの交通費も出てることだし、気晴らしには丁度いい」  どうせ夜の気晴らしだろうが。 「あんまり関西方面に近づくと、実家に捕捉されるんじゃないッスか?」  実は仁サンは御実家との仲がよろしくない。追い出された、と言うか追われていると言うか……まあ色々と複雑な事情があるのだ。 「居残りの三下どもじゃ俺の影も踏めんよ」 「そッスか。じゃあおれは警告したと言う事で。後で茜さんに絞られてもおれのせいにしないでくださいよ?」 「おい、お前まさか」  隣の車のクラクションを受けて、おれは離れる。仁サンは舌打ちを一つすると、車を走らせていった。やれやれ。当人が実家ともめる分には一向に構わないが、縁談だのなんだののとばっちりを飛ばされてはたまった物ではない。去りゆくバックライトを見やって肩をすくめた。と、 「亘理陽司さん、ですか?」  背後から声をかけられ、思わず背筋が伸びた。任務用に至急されたダイバーズウォッチを見やると、時刻はぴったり二十五時。振り返ると、猛々しい双眸が、こちらを睨んでいた。         ●5     「……っと」  射竦められる、という表現がまさしく正しい。戦うために純化してきた生命体が、獲物に向ける無慈悲な視線。大型トラックやらスポーツカーが何台も集まっているこの駐車場でも一際存在感を放っている、蒼い猛禽類の姿がそこに在った。    GSX1300R『隼』。    車とバイクについては乗れればいいや、というレベルの知識しかないおれでも存在を知っている、特徴的なフォルムを持った自動二輪である。おれが先程双眸と見間違えたウィンカー、誰が見ても嘴を連想するであろうフロントカウル。爆発的な加速を期待させてくれるエンジン。一度火を入れれば、容易く時速百キロ以上の世界まで加速してのけるだろう。そして官能的なフレームを挟みこむ、細い脚。  脚?ってそりゃそうだ。バイクがあるなら乗り手が居るわな。脚を辿って視線を上に移動させたおれは――二秒前にこれほど衝撃を受けたはずの隼のフォルムを、綺麗に脳裏から吹き飛ばされていた。 「……やっぱ実地で成果を出せないセンサーなんて何の意味も無いよなあ」 「あの、何か?」  まあ落ち着けおれ。一つ深呼吸。はあ、すぅ。大丈夫。もういいぞ遠慮するな。  ……オウ、イェ、AHHHHHHHHH!!  極上の美女が、『隼』に跨っていた。  いやもうなんてぇか!『隼』を従えるそのスラリとした長身とか!プロテクター入りの無骨な皮のジャケットの下から脳内補完で浮かび上がるメリハリの効いたボディラインとか!腰まで届く長い黒髪とか!モデルか女優で通りますって顔とか!それでいて隣のお姉さん的な気さくな雰囲気とか!!……ああ、なんつうかもうこれは凶器ですよ先生!?おれ・的・直・球!!そりゃカウント2−0でも迷わず振りに行きますわ!!呼吸の度に叫んでやるさ、オウ、イェ、AHHHHHHHHH!! 「……楽しそう、ですね」  深夜のサービスエリアで奇声を絶叫するおれに、おねいさんは呆気に取られた態。そんな表情もまた悩ましい。ちなみに、そんなおれの奇行も人目を引く事は無かった。おねいさんが周囲の視線を充分以上に引き付けまくっていたので。 「あ、あの……亘理さん、ですよね?」 「Yes!Iam!!」  どこぞのエジプト人張りに力強く応えて前進、おねいさんの両手をとる。おねいさんが怯えたように身を竦ませる、その大人びた表情と初々しい反応とのギャップががが、もう、ぐふっ。 「派遣会社フレイムアップのエージェント、亘理陽司です。今回はご一緒できて光栄です」  破綻した人格を強制シャットダウンして非常用のバックアップでどうにか対応する。バックアップのバックアップとは笑い話にもならんが、この際そんな事はどうでもいい。 「……は、はい。鹿毛《かげ》玲沙《れいさ》と申します」 「OH!玲沙サン。イイ名前デス!」  ガイジン口調でトークするおれ。ん?レイサ?どっかで聞いたような……? 「オーストリッチ・メッセンジャーサービス《OMS》から派遣されてまいりました。今日は……」 「おおう!あの国内どこでも最速確実にメッセージを届けるバイク便の!いやいやこちらこそよろしくお願いします」  馴れ馴れしさMAXで手をぶんぶんと振る。ていうか、これはアレだ。先生、アレを期待してイインデスヨネ?ヨネ? 「その……じゃ、じゃあ、行きましょうか。時間も無い事ですし」  言うや、『隼』のタンデムシートに視線を注ぐ。おれはメットをかぶり、躊躇せず跨る。もともとこのキャリングケースはOMSのものらしく、『隼』の後部に取り付けてあった金具に容易く取り付けることが出来た。そして期待通りふふふふふあははははははははははは!! 「あの。じゃあ、出発しますから。つかまっていてくださいね」 「はい!それは!もう!!非才なる身の全力を持って!つかまらせて頂きます!!」  垂れ落ちそうになる顔面筋を必死に維持しつつ、その信じられないくらい細い腰に手を回し、メット越しに髪から香るコロンを過呼吸になりそうな勢いで嗅ぎ集める。そんなおれの様子に戸惑いながらも手馴れた様子で髪をまとめてメットをかぶった玲沙さんはキーを捻り、その獰猛なしもべに火を入れる。 「…………っ」  流石に浮かれた気分が一瞬吹き飛ぶほど、重い唸りが鼓膜と腹から伝わってくる。あれ、ちょっと、 「行きますよ」  ギアが跳ね上げられ、クラッチがつながれる。心臓で生み出された膨大なエネルギーを丸い翼に叩きこまれ、猛禽は狩りに向けて羽撃たく。 「こ、れっ!」  芸術的な加速に、準備していたにも関わらず首が後ろに持っていかれそうになる。反射的に強く腰にしがみつく、その感覚を堪能する間もなく、視界が転回する。素晴らしく小さな内径でターンを一つ、おい、遠心力で一瞬腰が浮、そのまま出口に向けて、弾丸は放たれた。 「は、や、す、g」  ぎ、の文字は凄まじい勢いで後方に流れる側壁に千切れて消えた。ヌルさを急速に空冷されていった脳が、業界に伝わる一つの『二つ名』を今更ながらに思い出していた。  レイサ。『剃刀《レイザーエッジ》』。  林檎の皮を剥くが如く、死線の直前にある最短のラインを削いでゆく、最速のバイク使い。東名高速を二時間で走破したという噂もある。ホーリックの編集者もとんでもない伝手を持っていたものである。暗闇の中に飛び込んでゆく片道切符の弾丸に乗ってしまった、という現実から逃避するためか。そんな情報を、おれの脳の一部がいやに遠くの視点から冷静に思考していた。         ●6      慣性の法則とはありがたいものだ。どれだけ速く移動しようと、一定の速度で移動している限りはとりあえず体に負担はかからない。前方の玲沙さんの体の傍から吹き抜ける嵐のような風の壁がなければ、だが。殺人的な急加速が収まった後、おれはどうにか自分の状況を落ち着いて確認することが出来た。  おれの今見ている光景を何と説明したものか。  理性ではわかっている。おれは今、中央高速道の上り車線を、ステキな美女とタンデムで疾走している。それは間違いない。だというのに。  何で次々と『対向車』が向かってくるのか。それも『後ろ向き』に。それをごく僅かに重心をシフトするだけで次々とかわしてゆく玲沙さん。なるべく考えないようにしていた質問を、おれはついに口にした。 「あの……!これ何キロ出てるんですか……!!」  ヘルメット内には『アル話ルド君』と直結した、ノイズフィルタリングをリアルタイムで施すヘッドホンが内蔵されており、滝の中にいるようなこの轟音の下でも驚くほどクリアな通話が可能だ。 『私、その。子供の頃ヒーローに憧れていたんです』  メット越しに帰ってきたコメントは、おれのHowManyの質問への回答ではなかった。その質問に何か言い知れぬ不吉な影をひしひしと感じつつ、おれは耳を澄ます。 『女の子がヒーロー好きって、ヘンですよね』 「いえいえゼンゼンそんなことナイッス」  メットから聞こえて来たのは苦笑、だろうか。 『特にバイクに乗ったあのヒーローが大好きでした。いっつもお兄ちゃんの持っていたマンガ雑誌を何度も繰り返して読んでいたんです』  すっ飛んでくるタンクローリーを軽やかに回避。 『そこに出てくるバイクが本当に大好きでした。ずっと思っていたんです。百キロとか百五十キロとかじゃなくて、マンガに書いてあるくらいの速度で疾走ってみたらどんなに胸が熱くなるだろう、と』  待ってください。それってまさか、 『結局、夢を叶えるためにこの仕事を選びました』  現在進行形で叶えているってわけデスカー!?  答えは前方に迫ってくる業務用の大型トラック。相対速度で考えれば、並走する車と百キロ以上の速度差があればこういう現象も出現しうるのかもしれないが、いやしかし、 『『追跡者』より『剃刀』へ。どうだ、調子は?』 『こちら『剃刀』。諏訪SAを出発して今、諏訪ICを通過しました』 「……お久しです、見上さん」 『やあ、亘理君か。元気でやってるみたいだな』  ヘルメットから響いて来たのは、今回の作戦に参加しているうちのチームの四人目の声だった。出版業界専属のエージェント、『机上の猟犬《ハウンド・オン・テーブル》』見上《みかみ》柏錘《はくすい》さんだ。この人とはおれはかつて、ある遅筆で有名なベストセラー小説家の失踪事件が発生した時、一緒に仕事をしたことがあった。この度はその能力を買われ、おれ達のチームの指揮役を務めている。 「どうも。そっちも相変わらず、小説家と漫画家の恐怖の対象のようで」  ここで減らず口を叩くのは最早おれ自身の意地である。 『ウム。俺の『遠隔視』ある限り、何人たりとも〆切から逃れる事は出来ん』  過去数多の作家の一縷の望みを断ち切ってきた重々しい断言を電波に乗せる。  見上さんの能力は『遠隔視』。テレビの特番なんかでよくあるあれだ。世界最高の超能力者とか肩書きのついた外国人のオジサンオバサンが、自宅に居ながらにして過去の殺人事件の現場や行方不明者の居場所を霊視(番組によっては透視とも言うかな)して、スケッチしたりするって奴。ああいう番組に出演する能力者もイカサマ師から本物まで玉石混合だが、見上さんのは正真正銘の本物。特定した対象の現在位置を、まるでGPSのように正確に把握することが出来る。どうやって把握しているのかはおれも知らない。見上さん曰く、訓練や怪しげな魔術ではなく、先天的に生まれ持った能力、とのことだ。そして、それを他人に説明するのは非常に難しいらしい。こういう言い方はちと良くないが、生まれつき目が見えない人に、”色”という概念を説明するようなものなのだそうだ。  彼がエージェントとしての経験も長く、修羅場でも冷静な判断が出来る事をおれは知っていた。今回のような彼我の位置関係が重要な任務に、見上さんが司令塔として控えてくれているのはとても心強い。 「先方に動きはありましたか?」 『ああ。敵サンはルールどおり、君達より大分前に諏訪ICから上がっている』 『車種はわかりますか?』  玲沙さんが会話に加わる。 『そこまでは俺にも視えん。だが四輪なのは間違いない』 『加速と小回りより堅実性を重視してきましたか。いずれにしても、じきに接触することに、』  そこまでで玲沙さんは一旦コメントを切った。 『亘理さん』  おれには首を上げる余裕などなかったが、それでも何が起こりつつあるかは容易に推測できた。ついに戦端が開かれたのだ。        追い越し車線を維持していた玲沙さんの『隼』が、突如車体を倒し、右も右、中央分離帯に接触するギリギリのところまで一気に寄せた。近づいたせいで先程より尚凄まじい体感速度で後方に放たれていく灯りと、最早閃光としか認識できない対抗車線のヘッドライトが、おれの脳をかき乱す。前方以外はなるべく見ないようにしているはずなのに、大きく体が斜めに傾いだことで、超高速で疾走するアスファルトが視界に嫌でも飛び込んでくる。  もみじおろし。  そんな言葉が脈絡もなく脳裏に浮かんで途端に泣きたくなった。だが勿論涙腺から体液を分泌するような悠長な時間は与えられなかった。『隼』が空けた空間を、けたたましいブレーキ音を響かせて鋼鉄の分厚い箱がえぐってゆく。先行していた敵さんの車が、おれ達をバックミラーに捕らえると同時にブレーキを踏んで衝突を狙ってきたわけだ。向こうはムチ打ち、こちらはもみじおろし。それで全ては決着ってとこか。ったく、随分と思い切りのいい野郎だな!怒りが一瞬恐怖を退け、おれは敵を見やった。  トヨタ・クラウンアスリート。  それだけでおれは、まだ顔も見ない敵を嫌いになる事に決めた。玲沙さんが回避に入った時点ですでに再加速に移行していたのだろう、たちまち加速は負から正へと転換。丁度おれ達と何秒間か並走する形になった。クラウンの運転席の窓は……開いている!  烈風吹き込むはずの車内。その助手席には、『隼』の後部に取り付けているものと同じケースが確かにあった。そして、窓からおれ達を見やる運転手――壮年の男――の顔は……笑っていた。猛烈にイヤな予感。そしてそんな予感はバッチリハズレるわけがない。運転席から男の右手が伸び、その手にあるものをこちらに見せ付ける。 「ベアリング!」  もちろんそれは精密工業用品としての意味合いではない。その技術を応用して地雷に混ぜ込み、人を殺傷するためだけにばらまかれるロクデナシの鉄球のことだ。こういう時に途端にピンと来てしまう自分の人生にちょっと落ち込む。おれの叫びを耳にしたのだろう、玲沙さんが『隼』を立て直すと再び一気に加速する。      ……お初にお目にかかる。『包囲磁針《マッド・コンパス》』葛《かずら》 剛爾《ごうじ》。      男の唇が確かにそう動いた。途端、男の手から無数のベアリングが掻き消える。その行く手は。 「追ってくる!」  悪夢のような光景だった。失禁寸前の速度でぶっ飛ばしているはずのこのバイクに、まるで砲丸のような速度で宙を飛び喰らいついてくる、黒焼きの入ったベアリング。相対速度を考えれば、こいつらはとんでもない早さですっ飛んでいる勘定になる。夜の闇の中、視認する事さえ至難の刺客の襲撃だった。  だがおれの絶叫など聞く前に玲沙さんは行動に移っている。その細い右腕から叩きこまれたアクセルに『隼』が雄叫びを上げ、一段と羽撃きが力強さを増した。おれはもはや色欲を彼岸の彼方に投げ出した態で玲沙さんの腰にしがみつく。玲沙さんのテクニックは極上だった。吸い寄せられるように飛来してくるベアリングを、ぎりぎりまで引き付けてスラロームの要領で回避。慣性を殺しきれなかったベアリングは、あるものはアスファルトに、あるものは側壁に叩き漬けられて四散する。闇に沈んだ中央道に一瞬青白い火花が散ったはずだが、それすらも認識する余裕などおれ達には許されない。視界いっぱいに広がる前方のダンプカーを『薄皮を剥くように』回避する。たちまち開く相対距離。おれは振り返り、トヨタクラウンが後方に小さな姿となった様を確認し安堵した。  とりあえずは距離は取れた、はずだが。 『原稿の前半部分はその車の中にあるはずだ。何としてもそこから奪取するんだ』  無情に響く指揮者殿の声。確かにこのまま逃げ切ったところで勝利はない。では、どうすればいい? 『亘理さん、お願いします』  ……ま、そうなるんだろうな。指揮者と運び屋がそれぞれの役割を果たしている以上、『万能札』としても期待に応えねばなるまい。例えそれが回数制限付きだとしても。  意識を内面に飛ばし、抽斗から古ぼけた鍵を引っ張りだす。悪いが今回ばっかりは先行逃げ切り。出し惜しみなし!   『亘理陽司の』    ふん。俺は嘲弄する。跨った鉄馬から上半身を捻り、猛追してくる鉄の箱を視界に収める。鉄馬の騎手は俺の意志を汲み取ったのだろう、速度を落として奴の接近を促した。   『視界において』    瞬くうちに距離が縮まり、鉄箱に収まった男の顔と視線が合う。不遜な男だ。俺は唇を吊り上げた。そのままその横、鉄箱の中の箱に目を移す。   『四角き双子の』    捻った左の掌を、鉄馬の後部の箱に添える。速度、状況。ここまで状況が困難を極めていると、枝葉を禁じて都合の良い因果を導くのは容易ではない。だが、   『離別を禁ずる』    単語の方が強力に限定出来たため、俺は十二分に強固な鍵をかける事が出来た。男が驚愕した。突如路面に現れたのは、朽ち果てた角材。恐らくは前を走る鉄の箱が落としていったものだろう。俺に気を取られていた男はそれを回避する事が出来なかった。たまらず乗り上げ、箱が大きく右へと傾ぐ。それでも即座に体勢を立て直した所は褒めてやろう。だが、慣性に従って飛び出した箱にまでは気が周らなかったようだな。  それはまるで、意志をもった小動物のように鉄の箱の中から飛び出し、主人の懐に飛び込むかのように俺の右の掌に収まった。無論それは小動物でもないし、ここは愛玩動物と戯れる平穏なる庭先ではない。百万回やったところで成功するはずのない曲芸。だが、例えば一千万回挑戦すれば一回成功しうる可能性があるのならば――その為しえる『一回』以外の世界を全て封殺してのけるのが、この力。『鍵』のまずは小さな使い途だ。そして大きな 「……〜〜痛ぅ。出し惜しみなしったって、お前が好き勝手しゃべっていいってわけじゃなんだがな」    おれは仏頂面で、襲ってくる極大の歯痛にも似た苦痛に耐えた。途端に崩れそうになる姿勢、だがまるで後ろに目がついているかのような玲沙さんのバイク捌きがおれを補佐した。背骨を限界までねじり、後部に取り付けられたケースの上に、もう一個のケースを固定する。金具が音を立ててはまり、おれは一つ、車上で大きく息をついた。みるみるうちに男の乗ったクラウンはおれ達から離れてゆく。 「勝利条件その一ゲット。このまま一気に逃げ切りましょう」         ●7      おれ達が夜の中央道で、本人達は至って真剣な、そして傍から見れば迷惑かつ滑稽極まりない戦いを繰り広げていた頃。    その目標地である東京千代田区神田の喫茶店、『古時計』では、一見西洋人と見まがうばかりの見事な銀髪と彫りの深い顔立ちのマスターが、熟練の手さばきでコーヒーを淹れていた。神田と言えば書店街が有名である。ここも普段は、近くの書店で買った本をじっくりとコーヒー片手に読み耽るお客のために開かれている店だが、いまこの時は若干様相が異なっていた。本来は閉店している時間だが、今夜だけは特別に早朝まで営業を続ける事になっている。落ち着いた雰囲気の店内で、それぞれ一杯目のコーヒーを飲み干そうとしているのは、二人の男と一人の女性だった。 「……で、今のところどちらが優勢なのかね」  ゆるやかな時間を楽しむための店内で、こつこつと忙しなくテーブルを叩き野暮な雰囲気を作り出しているのは、五十過ぎの中年の男だった。深夜を過ぎてもスーツ姿なのは、職場ではともかく今この場では随分と浮いて見えた。 「連絡によれば、そちらのエージェントが原稿を両方とも所持されているとか」  淡々とコーヒーを味わいながら、『フレイムアップ』の嵯峨野浅葱所長は答える。本来片方のチームにメンバーを派遣している身として中立の立場ではないのだが、この度、両サイドの当事者から請われたため、立会人としてここに居るのだ。 「そうか、それはでかした!『ミッドテラス』め、役立たずがが雇ったのはやはり役立たずだな!」  下品な笑い声に、マスターがわずかに顔をしかめた。わかりやすいと言えばわかりやすい反応を示すこの中年男は、ホーリックの現編集長である。造反して『ミッドテラス』を立ち上げた先代の編集長に替わって就任した男で、もとはビジネス誌を担当していた。もっとも、経済に対するセンスなど皆無で、その昇進の理由はひたすら社長に対して言ったイエスの回数と下げた頭の回数に拠る。そんな情報を脳裏に納めつつも、浅葱所長はあくまでも業務用の表情を崩さない。 「なあに、安心しろ伊嶋ァ。俺が勝ったら、ちゃんと『えるみか』はお前達のところに渡してやるさ。ロイヤリティつきで、な」  俺達、ならまだしも俺、という一人称に、この男の器が良く現れている。 「いつまでも上司面はやめてください。かつてはともかく、今は同じ編集長ですからね」  対するもう一人は、いかにも普段私服で仕事をしているといった雰囲気の三十代の男だった。伊嶋勝行。かつて、何人もの有望な新人を発掘し、『あかつきマンガ』の立役者となった男だ。『えるみか』の作者、瑞浪紀代人も彼が発掘したのである。 「裏切り者がでかい面をしおって。あの気持ち悪いマンガを売り払ったら、お前達なぞ……」  それ以降の罵倒はさっさと耳から遮断し、浅葱所長はコーヒーのお代わりを頼んだ。  今回の勝負で、彼女達『フレイムアップ』が協力しているホーリックが勝利した場合。『えるみかスクランブル』の著作権はこれまで通り、すべてホーリックに帰順する。だが、誰にも未だ知られていないことだが、それから数ヶ月後には『えるみか』は『あかつき』ではなく『ルシフェル』に掲載されることになるのだ。ただし、あくまでも『ホーリックの作品を、ミッドテラスが掲載する』という形で。そこには膨大なロイヤリティが発生するはずで、結果、邪魔者を追い出しつつ利益を確保できるホーリックは万々歳、ということになる。 「まだ勝負はこれからだ。瑞浪のためにも、あんた達のやり方の下でいつまでも『えるみか』を描かせ続けるるわけにはいかない」 「ふん、どうせ勝てたところで、『えるみか』から名前を変えるんだろうが」  編集長の指摘に、伊嶋が歯をきしらせる。  『ミッドテラス』が勝利した場合、瑞浪紀代人氏は晴れて自由の身となり、『ルシフェル』で描くことも出来るようになるだろう。だが、すでにアニメ化され、単行本も無数に出ている『えるみかスクランブル』という商標は動かすことが出来ない。『あかつき』で露骨に打ち切られた他の連載も、『ルシフェル』で再開させるに当たっては、タイトル名を変えたり、一部設定を変えたりするような苦しい措置を取らされているのだ。人気作品である『えるみか』に取って、その手の『世界観が壊れる』ような真似は読者離れを招きかねない。出来ればやらせたくないと言うのが、伊嶋の本音ではあった。だが。 「そろそろ来たようですね」  浅葱所長のコメントに、男二人の視線がドアに向く。ドアベルが済んだ音を立てて、そこに二人の女性が入ってきた。 「遅いぞ、弓削!」 「失礼しました」  先日と変わらない鉄仮面で上司の罵倒すら跳ね返し、続く女性に声をかける。緊張した面持ちで入ってきたのは、まだ二十代前半の、世間慣れしていなさそうな女性だった。 「瑞浪くん……ひさしぶりだね」 「は、はい。お久しぶりです、伊嶋編集」  彼女、人気漫画『えるみかスクランブル』の作者瑞浪紀代人……本名水野紀子が、眼鏡の奥から上目遣いにかつての編集者を見やる。 「瑞浪先生、会社を辞めた奴を編集と呼ぶ必要はない!」  一応『先生』と敬称をつけているが、小娘を怒鳴りつける中年の横暴さそのままだ。すくみ上がる瑞浪さん。 「こちらへ」  そんな情景をまるきり無かったかのように、弓削かをる女史は瑞浪さんをテーブルに着かせた。浅葱所長が二人にお絞りを手渡しながら聞いた。オーダーを聞いたマスターが手際よく珈琲を淹れる。新たな豆の香りが店内に加わった。 「松本からどうやってここまで?」 「タクシーと長野新幹線の終電を使いました。それにもともと、原稿を仕上げてから競争の開始まで、鶫野さんに二時間ほど待ってもらいましたから」 「今、彼らは小渕沢を過ぎたあたりで、原稿は、ホーリック側に両方あるようです」 「そう……ですか」  答えたのは瑞浪さんだった。明らかに気落ちしており、彼女がどちらの出版社で働きたいのか、という本音を雄弁に物語っている。 「改めて確認します。このレースに勝利した側の編集者が、『えるみか』と瑞浪の身を預かる。それでよろしいですね?」  浅葱所長がうなずく。ホーリック編集長がニンマリと笑い、最後の一人の伊嶋編集長が、不承不承、という態でうなずく。そして、 「弓削君」  たまらず声をかける。 「君は本当にそれでいいのか。君の希望は」 「作家にとってベストの環境を確保する。それが編集者の仕事と教えてくれたのはあなたです」  ぴしりと言い放つ。背後の瑞浪さんが、本当に泣き出しそうな顔で担当編集の背中を見つめた。  マスターが次のコーヒーをじっくりと淹れる音だけが、店内に響いていた。         ●8     『よくやった亘理君!玲沙くんはゴールまで一気に向かってくれ。私も車で合流する』 『了解しました』  例え依頼人や依頼内容が気に食わないとしても、一度現場に出ればあとは任務達成に向けてやるべき事をやるのが派遣社員と言うもの。まったく、給料の給の字に入っている”糸”は、しがらみの意味ではなかろうか。  ともあれ。一旦こうなってしまえば、加速に勝るバイクの有利が効いてくる。もはや奴はおれ達に追いつけないし、残り三人のエージェントも、数百キロで移動するバイクにはおいそれと手が出せるものではないはずだ。このまま一気に勝負を決めてしまう事は充分に可能なはず。再びかかるG。いささか余裕を取り戻したおれは、玲沙さんの腰にがっちり腕を廻して密着姿勢の維持につとめた。 『噂には聞いていましたけど、凄いんですね』  玲沙さんの声が、背中とメット越しに伝わってくる。 「なははははは!この程度、ビフォアブレックファストってヤツッスよ!ちなみに本気になればこの三倍くらいは容易く」 『でも。……なんだか凄く辛そうでした』  おれはいつものコメントで取り繕おうとして失敗し、間の抜けた沈黙を晒す事になった。 「……いやまあ。ケチってるわけじゃないんすけどね。乱発するといつか手痛いしっぺ返しが来るっていうか、なんていうか」 『すいません、私、変な事言ってしまいました』 「いやいやいや、別にぜんぜん構わないですよ。おれが自分でやってることですし」  それきり妙に言葉が続かなくなってしまった。気がつけば小渕沢ICを通り過ぎていた。おれ達はいつの間にか長野から山梨県へと入り、先程諏訪湖から眺めた八ヶ岳の麓にさしかかりつつあった。      ふと、違和感を感じた。      具体的な兆候に気付いたのは、玲沙さんだった。唐突に二度、アクセルを叩きこむ。 「どうしました!?」  背中越しのおれの声に、緊張をはらんだ声が応える。 『スピードが落ちています!!』  確かに、それはおれも感じていた。心なしか風景の流れる速度が緩やかになった気がしていたのだ。もちろんそれでも十二分に殺人的だったのだが。 「もしかして、故障とか……?」  先程までの人外の領域の速度にあれほど恐怖を感じていたと言うのに、減速した途端に不安を覚えると言うのも我ながら理不尽だ。唐突に違和感の正体に思いあたる。右手首への妙な感覚。まるで誰かに手を触れられているような。……そこまで来て、ようやくおれの緩んだ脳ミソが覚醒した。 「……ちぇ、おれも迂闊になったもんだ!」 『きゃ、な、なんですか!?』  突如自分の腹の辺りでおれが両手をもぞもぞと動かしたため、玲沙さんが驚く。 「相互理解を深めるための前哨戦――と言いたいところなんですがね!」  ええいもどかしい。四苦八苦の末、右腕から半ばむしりとるように、支給されたダイバーズウォッチを引き剥がす。その頃にははっきりと解る程スピードが落ちており、おれは盤面を見やることが出来た。案の定、それは十分ほど前の時刻で停まっていた。 「どうせならチタン製を支給してくれればよかったのに」  ぼやくと同時に、後方に向かって時計を放り投げる。それが猛烈な勢いで後方にすっ飛んで行ったのは、もちろんおれにプロ捕手ばりの強肩があったから、ではない。 「追ってきてます!!」  時計が吸い込まれて行った遥か後方、巧みに車線変更しながらこちらに迫ってくるその姿はまぎれもなく、先程のクラウンアスリートだった。 「”包囲磁針”……磁力使いね。ったく、電磁波で脳に悪影響でも出たらどうするよ」  今やこちらは時速百キロも出ない状態だった。豆粒ほどだったクラウンはあっという間にその大きさを増し、今や運転手の顔も識別出来る。『包囲磁針』とか言うエージェントは、右腕を窓から突き出し、こちらに向けたまま距離を詰めてきているのだ。 『…………まさか、車体を磁力で引き寄せているんですか?』 「みたいっすね」  返答に芸がかけたのは勘弁して欲しい。キロメートル単位で離れた場所をかっ飛ばす、時速百キロオーバーのバイクに干渉し運動量を抑止する、なんて、並レベルの能力者に可能な芸当ではない。対策を考える間もなかった。みたび並んだ両者。まずい、まずすぎる。今の状態で先程のようなベアリング攻撃をされたら……!      そう、考える辺りが若さか。      運転席の『包囲磁針』が嘲笑を浮かべた。そのまま、突き出した右手をひねる。 「しまった!」  意図に気付いたときには遅きに失した。べきぃん、という金属のへし折れる硬質な音。『えるみか』の原稿、前編と後編を修めた二つのケースは、男の手から放たれる見えない磁力の帯に絡め取られ、固定した金具ごと男の掌の中に納まっていた。 「戦闘中に優先順位を見失うようでは、まだまだ修行が足らぬ」  男は自分の車内にケースを放り出すと、再び右手を掲げる。 『!』  玲沙さんの判断は的確だった。一瞬にして動から静へのフルブレーキング。おれは玲沙さんの背中に強く胸を打ちつける形になった。事前に支給されたスーツが、さる事情から耐衝撃性を極限まで高めた特注品で無ければ、冗談抜きにおれの胸骨と彼女の背骨はやられていたほどだ。だがこれがなければ、『隼』はたまらず奴の磁力に引き倒されてアスファルトの染みに化けていただろう。  ……危機を脱する代償は手痛かった。加速する奴と、フルブレーキのおれ達。当然ながら、そこには距離という、深い深い溝が刻まれる事になった。     『まだです、まだ間に合います!最高速度ならこちらが上なんですから!」 「ええ!追いましょう!」  『アル話ルド君』の音声にわすかにノイズが混ざる。オーディオ機器の数十倍の防磁シールドを内蔵しているこの機械にダメージを与えるとは、どれほどの磁力か。本当に電磁波で脳とかやられてないだろうな?幸い、『隼』は玲沙さんの趣向だろう、電装系にはさほど重きを置らず、性能的には問題ないようだった。さっきの急減速の衝撃が内臓にズンと堪えているが、流石にここで泣き言を言うほど修羅場知らずの坊やではいられない。第一、慣性の関係上おれに背中から追突される形になった玲沙さんの方が、体内へのダメージは大きいはずなのだ。再び隼が咆哮し、悪夢のような急加速。だが。 『トレーラー?』  クラウンとの間に開いた空間に、コンテナを背負ったトレーラーが走っていた。威圧感すら感じさせる大型のトレーラー。それは、今まで似たような車を何台も追い抜いてきたおれ達にとって、ただの障害物のはずだった。だが。先行車両に過ぎなかいはずのトレーラーは、まさにおれ達の進路を塞ぐように割り込んでくる。……おい、ってことは、まさか。 『気をつけろ!そのトレーラーは須玉ICから上がってきている。敵の増援の可能性が高い!』  見上さんの声に、おれは気のない返事。 「……高いも何も。たった今ゼロサムで証明されましたよ」  さもありなん。何せ、おれ達の目の前で、ばかんと音を立ててコンテナの扉が開いたのだから。『隼』のヘッドライトが照らしたその中には。  がらんとしたコンテナの中、不敵な表情を浮かべているに違いない、バイクに跨った二人組の姿があった。         ●9      トレーラーの速度に強制的に合わせられる形で、『隼』は時速八十キロ程度まで減速させられていた。そのはるか向こうにいるはずのクラウンとの相対距離が離れれば離れるほど、おれと玲沙さんの胸中には焦りが降り積もってゆく。八ヶ岳の麓、昼ならさぞかし美しい夏の緑を堪能出来たであろう中央道の上で、金で雇われた四人のエージェント達は対峙していた。  玲沙さんにしてみればトレーラーを追い抜くのは容易い。だが、当然相手がそれを見過ごしてくれるとは思えない。しかし時間が経てば立つほどこちらは不利になる。進むべきか、待つべきか。  と、そんなおれの逡巡を切り裂いて轟く、鋼鉄の唸り声。おれは咄嗟に視線を上空へ向ける。人間が幾ら速く地を走ろうと、ただ空に動かず在る月を横切って――バイクが宙に舞った。異様な光景に音が消えたような錯覚を覚えた後。後方にどず、と鈍い音。そして、急速に迫り来る硬質のエンジン音。    敵の跨ったバイクが、トレーラーのコンテナに停止した状態から急加速してジャンプ、なおかつ空中でターンを決めながらシフトアップして着地したときには既にこちらを追跡する加速体勢に入っている――おれが今見た光景を第三者的に分析するならそういう事だ。だがしかし、敵は二人乗り。しかもアレはジャンプに適したモトクロス用なんかじゃ断じて無い。水銀灯を反射して艶めかしく輝く、紅と緑の斑に塗装された車体。小さな頭部状のフロントカウルから突き出す大きな一つ目のヘッドライト。剥き出しの骨格を思わせるフレーム。おれはなぜか南に棲む獰猛なカミキリムシを連想させられた。    YAMAHA XJR1300。    その型番を知る由もなく、考える暇はさらになく。おれ達はたちまち迫り来る新手、フルフェイスヘルメットとライダースーツに身を包んだ二人組との死闘を演じる事となった。 「……っと!」  『カミキリムシ』が突如その釜首をもたげた。前輪を引き上げる、いわゆるウィリー走行という奴だが、おれの目にはまさしく、腹を空かせた虫が獲物を捕食せんとする様に見えた。その前輪で押しつぶすつもりかよっ!?  咄嗟に『隼』は身をかわす。ギロチンさながらの勢いでおれの傍らを落下してゆく前輪。だが、奴らの狙いは最初から直接の攻撃ではなかった。 「くそっ!」  おれは悪態をつく。回避のために体勢を崩した『隼』の隙に漬けこみ、あっという間に『カミキリムシ』が前方に割り込んだのだ。  ラインを塞いだ途端にスピードを落とす『カミキリムシ』。それに衝突されるのを嫌って『隼』もスピードを落とさざるを得ない。  物騒極まりない積荷を路上に放り出したトレーラーがゆっくりと、だが確実に加速してゆく。時速百キロオーバーとはいえ、先程までのおれ達のスピードに比べれば他愛も無いものだ。だが、今の『隼』は、前方を塞いだ『カミキリムシ』に完全にその翼を殺されていた。たちまち、前方へと流れてゆくトレーラー。      『隼』の走行を遮る位置をキープし、時速百キロ未満の速度で車体を小刻みに揺らす『カミキリムシ』。連中の意図がおれ達の足止めに在る事は明確だったが、だからと言って容易に突破させてくれるものでもない。 「このっ……」 『しゃべらないで』  簡潔極まりない玲沙さんの指示の後、怒涛の如くに視界が傾いた。 「……っ」  たちまち彼女の指示の理由を明確に理解する。迂闊に口を開けば舌を噛み千切りかねない。まるで難破船から嵐の海に投げ出されたようなとんでもない左右の揺れ。玲沙さんがアスファルトすれすれどころか皮一枚まで身を乗り出す無謀なまでの体重移動で、右から左からラインを伺う。だが敵もさるもの、巧みにこちらもラインを塞いで、決して前を譲ろうとはしない。さながら剣豪の鍔迫り合いの如く。甲虫と猛禽は見えない一本の線を巡り火花を散らした。互いの爪を、牙を掻い潜る。ひとたび動作を誤ればたちまち路面に呑まれて消える物騒な狩場で、捕食者達は互いの存在意義をかけて戦い続けた。  相手のドライバーも相当な腕だ。……いや、違うか。不幸にも多くの規格外の人間を見てきたおれにはなんとなくわかる。あれは操縦が上手いのではない。操縦者本人の反射神経と腕力とで無理矢理車体を振りまわしていると言った方が正しい。『隼』を手足のように使いこなす玲沙さんとはそこが決定的に異なっていた。腕だけなら間違いなく玲沙さんが上だろう。だが悲しいかな、今は体重移動の手伝いも出来ない余計な荷物が彼女の腰にぶら下がっている。  切り返し、加速、急減速。ウィリー。  韮崎ICの看板が過ぎ去る。車線を変え、速度を変えながら続けられた現代の早駆けは、既に距離にして二十キロに達しようとしていた。無言のまま極限まで集中を高め、アスファルト上にある蜘蛛の糸のような理想のラインを辿る玲沙さんにおれがしてやれる事は、余計な計算要素を増やさないよう、せいぜいしっかりしがみついて荷重に徹する事だけだった。  前と左右への激烈かつ連続した移動に、三半規管は先程から絶叫しっぱなしだ。だが悠長に乗り物酔いを発症させてやるほどおれの神経系に余裕は無かった。面倒な生理作用は全て副交感神経に一手に押し込め――全部終わったら盛大にゲロ吐いてすっきりしよう――おれはもう一人の敵、タンデムシートに座ったもう一人から目を離さないように務めていた。馬と騎手の性能がほぼ互角であれば、乗せられている人間の性能に全てがかかってくる。ここからは華麗なドライビングテクニックではなく、珍走団よろしい車上の殴り合いがものをいう世界になる。だが。頭にちりちりと走る不快な疼き。くそっ、さっき車の中から原稿を奪い取るためにおれは景気良くカードを切りすぎていたようだった。霞む目でどうにか敵を見据える。と、    後部座席の敵が、立ち上がった。    文法的に何ら間違っていない。立ったのだ。取り付けられたタンデムステップに両足を乗せたまま、両足で車体を締め付けるようにして。もちろん『カミキリムシ』は停まってなんかいない。トレーラーがはるか前方に過ぎ去った後、徐々に加速し、今や時速百キロ以上で激しくおれ達とラインを鬩ぎあっている、その中で、である。激しく左右に傾ぐ車体に、まるでスノーボードを楽しむかのようにぴたりと脚を吸いつけている。……おいおい。いくらなんでも船頭さんが揺れる船の上で立っていられるのとは次元が違うんだがなあ。  出来損ないの特撮じみた光景。そんな中、おれは今更ながら、男が何か細長い筒を背負っている事に気がついた。建築デザイナーが図面を納めて持ち歩くような筒。と、おれの視界の中で奴は悠々とその蓋を開け、手を突っ込み……三本の棒を取り出した。そして、それぞれをねじ込んでつなげてゆく。おれは玲沙さんの激しいライン取りに視界を激しく揺らされながらも、その光景からは目が離せなかった。  やがて。  男の両手には、長さ二メートルを越える『槍』が握られていた。比喩表現ではない。本当に、大河ドラマで大鎧を着た武将が振り回すかのような、一本の槍。     『気をつけてくれ亘理君!!そいつは多分『貫影』という槍使いだ!馬上槍を専門として扱う流派で、馬上、船上、殿中何処でも必殺の一撃を繰り出してくるぞ!』 「玲沙さん!」  その言葉を情報として脳で咀嚼すると同時におれは叫ぶ。そして無理な姿勢からありったけの力をかけて首を沈めていた。メットから響く乾いた音。狙われたのはおれの方。槍の穂先がかすめたのだ。  続く第二撃を予想し全身を強張らせる。だが衝撃は来ず、事態に気付いた玲沙さんが咄嗟に減速し、左車線をキープする。今まで玲沙さんが芸術的なラインで少しずつ詰めてきた距離を、一気に放棄して、だ。おれは歯噛みして槍使い――『貫影』に目を向ける。奴はあろう事か、やはり立ったまま、槍を担いだ状態で、肩を竦めてみせた。  ンの野郎。っと、いい加減ぶつんと行きそうになるのを必死に押さえ込む。一人ならともかく、今のおれは安い挑発に乗るわけにはいかないのだ。おれの態度が気に食わなかったのか、一撃で仕留められなかったのが気に入らなかったのか。『貫影』は一つ息をつくと、今度はおれ一人を狙って槍を突き出してきた。 「このっ……」  唯一自由になる右手でなんとか槍を払おうとするが、そんなものバイクの上で直立するなんて離れ業をやってのける達人に通じるはずもない。防御を掻い潜って面白いようにおれのわき腹やメット、肩に穂先が当たる。ライダースーツがなければ血だるまになっているところだ。おれはバランスを崩しそうになるのを必死にこらえる。だがおれは串刺しにされているわけではなかった。例え石突で突くだけでも、本気でおれを弾き飛ばせば『隼』も玲沙さんもまとめて転ばせることが出来ると言うのに、奴はそれをしなかった。……野郎はおれを『小突きまわして』いるのだ。ライダーが女性と見破っておれ一人を道路につき落とそうという魂胆か。まったくいい性格してやがる。だがまあ、女性よりおれを優先したという事実だけは褒めてやらんでもない。  ……そして、そのせいで決定的な勝機を逸した事実は、大いに嘲笑ってやるとしよう。      おれを小突くのに飽きたか、あるいはおれの粘りに痺れを切らしたか。奴が槍を構えなおし本格的な刺突の体勢に移行したのは、まさしく双葉サービスエリアの標識の真下を通過したその時だった。  だが。 「……!!」  メットをかぶった『貫影』の余裕に初めてほころびが生じた。突如標識の上から飛来した革紐が、奴の手首に巻きついたのである。咄嗟に奴は引きずられまいとして両脚でしっかと車体を締め付け、『カミキリムシ』の加速を利用して革紐を逆に強く引く。だがそれこそが狙いだった。引っ張られる力を逆利用して、標識の上から人影が高々と跳躍する。月を背負い、空から今度降って来たのは……。 「退屈をガマンして看板の上でずいぶん待ったんだから!ちゃんと強い人とやらせてくれるんだよね!?」  うちの押さえの切り札だった。その両足が軽やかにアスファルトに接地する。  とたんに、履いたローラーブレードが鮮やかに夜の中央道に火花を撒き散らした。         ●10      状況は混戦の態を示しつつあった。  勝利条件である前後編の原稿を揃え、現在進行形でゴールに向かって走行しつつある、『包囲磁針』なるエージェントの乗ったクラウン。大きく引き離されながらも、追跡する玲沙さんとおれの『隼』。そして足止めに徹している『貫影』と、バイクの運転手。おれ達に指揮しつつ現場に向かってくれている見上さん。現在両チームとも三人ずつのエージェントが舞台にあがっている。そしておれ達は、最後のカードをここで切った。 「予定が変更になった!とにかくその槍使いを何とかしてくれ!」  メット越しのおれの台詞は、ただいまローラーブレードで中央道を疾走する女子高生……我がアシスタント七瀬真凛の耳につけた小型インカムに伝わっている。 『いいよ、ボクとしてはこっちの方が大歓迎だからね!』  言うや、自らの手に巻きつけた革紐をぐい、と引く。そのもう一方の先端を巻きつけられた『貫影』は、真凛がどういうモノなのかを即座に認識したらしく、革紐をこちらも強く引き、油断なくバイク上で槍を構えなおす。ピンと張り詰める、紐と緊張。時速百キロ超で後方に流れるアスファルトの上、槍使いと殺捉者は、危険というのも馬鹿らしい程物騒なチェーン・デスマッチを開催しようとしていた。    本来真凛がここに待ち伏せしていたのは、おれ達が原稿を奪取した後、しんがりとして追っ手を確実に封じ込めるためである。そういう意味では、原稿を奪って先行逃げ切りという作戦は敵味方共通していたわけだ。だが、初戦で先方に軍配が上がってしまった以上、何とかしてここで挽回しなければならない。手持ちのカードを出し惜しみしている余裕はおれ達にはなかった。  あいつが免許さえ持っていれば、直接クラウンを襲わせるという手があった。だが、機械オンチの暴力娘が停めようにもブレーキがどこかわからない、などと抜かしたため、結局それは断念せざるを得なかったのである。  戦いの舞台の加速はもはや留まらず、猛禽と甲虫と女子高生は睨みあいながら無数の車両を振りちぎってゆく。抜かれる車の中から注がれる脅威の眼差しなどどこ吹く風といった態で、白兵戦の練達者同士の戦いの火蓋は切って落とされた。  ローラーブレードが保つ慣性と己の鋭い踏み込みを利して、文字通り滑るように真凛が間合いを詰める。迎え撃つは槍使い。二輪車の上とは到底信じられぬどっしりとした構えから、最短最速の軌道で穂先を突き込む。それを払おうとする真凛、だが穂先は敵の強靭な手首にたぐられ、軌道を変じて腕を弾く。たまらず姿勢を崩す真凛。追い撃つように返しの払い。咄嗟、身を沈めて交わす。一転して好機。まだ死んでいない踏み込みの勢いを利し、さらに一足を滑り込ませ間合いを詰める。と、翻って頭上より落ちかかるは石突。額を撃ち割らんとするそれを身を開いてかわし、結果、詰めた間合いを渋々放棄することになる。車上の『貫影』、悠々。穂先を突きつけ、不動の構え。  それは現代の騎兵と歩兵の戦いだった。しかもこちらは無手、あちらは槍である。まあ何だ、純粋などつきあいに限定すれば、あのお子様の白兵戦の戦闘力は業界でも特一線級のシロモノだ。道場で一対一の試合であれば、おそらく真凛は『貫影』に遅れをとることはあるまい。だが、この位置の高さと得物の有利は、多少の腕の差など容易く覆す。凶悪無比の真凛も、冷静に槍を捌く『貫影』の猛攻に攻めあぐねているように思えた。 「あのバカ……」  おれは舌打ちする。真凛はここで大きなミスを犯している。そもそもこのゲームで戦闘に勝利する必要はない。相手を無力化すればいいのだ。極端な話、革紐を巻きつけた時点で相手をバイクから引きずり下ろせばそれで良かったのに。どうやら相手が騎兵と聞いて、正面から打ち破る気になったらしい。 『亘理さん、あれを!』  玲沙さんのコメントが耳に飛び込み、おれは我に帰った。慌てておれは前方を見やり、前方の路肩――あっという間に視界の前方から後方へ過ぎ去ってしまったが――に、見覚えのあるシルエットを発見した。 「乗り捨てか……?」  おれは呟く。そこに停めてあったのは確かに、この『カミキリムシ』を載せて走っていたはずのトレーラーだった。このゲームに参加できるのは四人。となれば当然、このトレーラーの運転手が敵の四人目のエージェントでなければならない。おれはそう踏んでいたのだが。 「無人……か」  すれ違い様に眺めた程度なので確かな事は言えないが、車内はからっぽのようだった。すでに運転手は降りたのか。咄嗟に、待ち伏せしたエージェントの襲撃を予測したが、それは外れた。そのまま何もなく『隼』と『カミキリムシ』、そして真凛は高速道路を疾走してゆく。おれはとりあえず胸を撫で下ろした。どれほど高い攻撃力を持つエージェントでも、十キロと離れればそうそう手の打ち様はないはずだ。さっきの『包囲磁針』のような化け物はさておいて。 『亘理君、聞こえるか』  友軍の声におれは応える。 「見上さん、こっちはまだ何とか。今、真凛の奴がバイクを引き剥がしにかかっています」 『そうか。すまない、こちらは境川で敵のクラウンを張っていたのだが、強行突破されてしまった』  くそ、二枚目の伏兵は通用しなかったか。だが仕方がない。もともと見上さんは『遠隔視』を除けばあくまで身体能力的には普通の人の範疇なのだから。 『奴め、運転技術も相当なものだ。今からでも追いつけるのは君達しかいない。私も速度を落として君達を待つ』 『やってみます。合流方法については……ええ。そんなものでいいでしょう』  玲沙さんの返答。だが、敵のライダーもさるもの。真凛に張り付かれてなお、まだラインを明け渡そうとはしない。くそ、これ以上離されたら取り返しがつかないっていうのに!そんなおれの煩悶を見て取ったか。間合いを離した『貫影』が、右手に握った槍を肩に担ぐ。咄嗟、よぎるイヤな予感。――そこから導かれる次の攻撃は。 「やば……っ!」  真凛にではなく、自分自身と玲沙さんに向けておれは叫んだ。戦場にて、騎兵は群がる歩兵を一々突き刺したりはしない。彼等に必要なのは敵陣を貫く『突進』と、雑魚を一掃する――『払い』!  二メートル以上はあるはずの槍。その根元、ほとんど石突の辺りを両の手で握り、己の膂力に任せて『貫影』が振りぬいた。その腕の長さと合わせて半径三メートル以上に達する暴風圏は、真凛のみならず、おれ達の『隼』をも容易く捕らえる。真凛を牽制しつつおれ達を跳ね飛ばせる、一石二鳥の手だ。慌てて真凛がローラーブレードを駆って間合いを離す。そうすれば必定、その穂先はおれ達の方に飛んでくる事になる。当たればバッサリ。だが、無理にかわそうとして転倒でもしてしまえば、もはや『カミキリムシ』を追い抜くのは不可能に近い。 『離さないで』  玲沙さんの台詞は、字面だけなら涙を流して喜びたいところだが、 「と、とととととぉぉっ」  当然そんな余裕はない。飛んでくる穂先を、ラインを維持したまま極限まで車体を傾けてやり過ごす。いわば二輪で行うスウェーだ。必死に玲沙さんにしがみつくおれの耳元をメット越しに穂先がかすめる。どうにか、かわしきれたか!?  その時。車体から突如伝わる、がくん、という嫌な感触。車体の角度が限界を超え……タイヤが横滑りを起こしたのだ!十分の一秒ほどの一瞬、時間の歩みが止まり、脳裏で走馬灯がくるくると周る。……もはや抗いようもない。次の瞬間には、おれ達は高速で流れ去るアスファルトに飲み込まれて消え去るのみだった。    そう、『貫影』が思っていたのであれば、さぞかし当てが外れたことだろう。    必殺の『払い』で目的を果たした安堵か、振りぬいた槍を本来の構えに戻すのが遅れたその一瞬。 『しゃあッ!』  真凛の快哉を含んだ雄叫びが響く。殆ど地面と並行に傾いたおれを飛び越えて、ローラーブレードを履いた真凛が『カミキリムシ』に襲い掛かった。真凛は先程の『払い』を回避しつつ、『隼』の車体を利用して『貫影』の死角に周り込んでいたのだ。その意図に気付いた玲沙さんが咄嗟に仕掛けてのけたのが、この命がけのフェイントということ……らしい。そんな事にも気付けなかったおれは、臨死体験に心臓が飛び出そうだったが。  陸上選手のハードル走のような低く無駄のない軌道で、傾いた『隼』を飛び越えざまに右腕を繰り出す。虚を衝かれた格好の『貫影』が慌ててもう一度『払い』を放つ。それでも充分に威力のある一撃だったが、さすがに真凛に繰り出すにはお粗末に過ぎた。  エンジン音と風鳴りに紛れて、乾いた音が確かに鳴った。真凛が『貫影』の突き出した長柄をつかみ、その握力にモノを言わせてへし折ったのだ。 「よっしゃ!」  芸術的なカウンターを当てて再び体勢を立て直した『隼』の上でおれはガッツポーズ。こうなれば形勢は一気にこちらへ傾く。三分の一ほど間合いを穂先ごと失った槍では、続く真凛の猛攻を防ぐにはいささか荷が重すぎたようだ。それから数合を経て、たちまち『貫影』はたじたじとなった。ここで真凛が仕留めにかかる。一気に踏み込み加速。懐に滑り込んだ状態から、剣の如く上段回し蹴りを振るった。剣の如く、とは誇張ではない。それはローラーブレードによる斬撃。摩擦で十二分に加熱された強化セラミックのホイールが刃と化して、『貫影』のライダースーツを切り裂いた。たまらず傾ぐ敵の体。確実に獲った!とおれは再び心の中でガッツポーズ。……唐突に、自分の格好が先程の『貫影』と良く似ている事に気がつき、ぎょっとする。    ――真凛に油断があったとは言わない。だが、強者との戦闘を目的とするあいつ自身の趣向が、判断を誤らせたのは事実だろう。敵はあいつよりはプロ意識があるようだ。すなわち、勝てない相手なら、相打ち覚悟でも排除しておくことが、全体の勝利につながる。  『貫影』の体が傾いたのは、態勢を崩したからではなかった。むしろその逆。態勢を整えたのだ、跳躍するために。――おりしもそこには、我々がラインをせめぎあいながら今まさに追い抜こうとしている大型タンクローリーがあった。『カミキリムシ』が大きく沈みこみ、『貫影』の跳躍の反動を受け止める。高々と空を舞った奴は、そのまま危険な液体が満載されたタンクの上に危なげなく着地した。チェーン・デスマッチを挑んだ以上、真凛に可能な行動はひとつしかなかった。張り詰める革紐の方向に合わせて跳躍。だが、あいつの履いた十分に加熱されたローラーブレードは、タンクの上に着地するのは危険すぎる。空中で一回、タイヤの泥除けを蹴って距離をとり、こちらは運転席上の屋根に着地した。 『……ごめん陽司。のせられたみたい』  デスマッチはまだまだ終わらない。だが、たかだか時速百キロ程度で走るタンクローリーは、加速し続ける『隼』と『カミキリムシ』に抜き去られ、すでにはるか後方にあった。あのまま戦い続けても『貫影』は真凛に勝てないかもしれない。だがゲームの上ではまさしく相討ち。二人とも今夜中にこの舞台に戻ってくる事は出来ないだろう。『貫影』はいともあっさりと、うちの切り札を見事に無効化したのだ。 「まだまだまだ正調査員への昇格は遠い。戦闘中に優先順位を見失うようじゃ、な」  おれは独創性あふれるコメントを返す。 『ごめんなさい……』 「でもま、良くやったさ。まだカードはお互い三枚ずつ。後はおれ達に任せとけ」  ヤセ我慢ヤセ我慢。実際のところ、戦闘能力に乏しいおれと見上さんで玲沙さんのフォローをやりきれるか、と問われれば返答に詰まる。だが一度オカネをもらってしまった以上、その程度の悪条件で降りるわけにもいくまいて。それに、もうちょいキツイ条件で仕事をこなしたことも無いわけではないのだ。『人災派遣』は伊達じゃない、ってところか。まったく困ったものである。 『……わかったよ。じゃあまた後で』 「おう、お前もきっちり勝負つけてこい。おれ達が勝った後、お前だけひとり負けなんて認めねーかんな」 『りょーかい!『人災派遣』のアシスタントが伊達じゃないってところを見せてあげるよ!』  それで通信が切れる。おれはメットの中で苦笑した。 『いいコンビですね』  通信を聞いていた玲沙さんが苦笑混じりにコメントする。 「お恥ずかしい。どうにも詰めが甘いアシスタントなモノで。ご迷惑をおかけしますよ」  それを聞いた玲沙さんが堪えきれないと言った態で笑い出す。 「な、なんかヘンな事言ったっすかね、おれ?」 「い、いえ……。ただ、任務の開始前に七瀬さんを配置場所に送ったとき、『どうにも詰めが甘いウチの担当がご迷惑をかけると思います』って言ってたものですから」  憮然とした表情で頬をかく、のはメットをかぶっていたので出来ず、おれは微妙な沈黙を保つより他なかった。咳払いを一つ、気持ちを切り替える。 「……えー、おほん、さて」 『ええ』 「『このまま一気に勝負をかけましょう!』」  ここで急加速。保っていたラインを一気に詰める。再び先程同様の激しいラインの鬩ぎ合いが繰り広げられる。だがもはや妨害をしかけてくる『貫影』はいない。必定、おれと玲沙さんの注意は残り一人、『カミキリムシ』を駆るライダーへと向く。おれは『隼』から振りおとされないように務めつつ、隙あらばパンチの一発でも叩き込んでやろうと身構えた。  と、敵のライダーが唐突に間合いを取った。敵意のなさを表すかのように、左手を上げてこちらに顔を向ける。……何か仕掛けてくるのか?緊張するおれの視界の中、やつは大胆にもバイクから身を乗り出してこちらを覗き込んでくる。暗闇と水銀灯に照り返されたフルフェイスヘルメットでは中の表情など見分けがつくはずもないが、やがてその仕草、体型から、おれの脳が一人の気に食わない人物の名前を思い浮かべた。 「おまえ……!?」 『真凛くんが居たからまさかとは思ったが。貴様とはな』  突如メットの中に響き渡る、ノイズキャンセリングされたクリアな音声。もう一つの『アル話ルド君』から繋がれた敵の声は、まさしくウチの同僚、笠桐・R・直樹のキザったらしいそれだった。         ●11      絶句、という言葉を久しぶりにまざまざと味わっていたおれがふと我に返った時には、やつはまたもラインを阻止する軌道に戻っている。先ほど奴から繋げられた通話がまだ生きている事を確かめると、おれは唸った。 「……は。いいバイクじゃないか。お前にしちゃ趣味がいい投資だな」  たっぷり皮肉をまぶしたコメントは、同じ類のコメントで迎撃された。 『たわけ。借り物に決まっているだろう。こんなものを買う金があれば、アメージングフェスティバルでアラサキの新作をその場で買い占められるわ』 「なんだそのアラサキって」  『隼』の軌道に被せるように車線を変更する『カミキリムシ』。 『フィギュア造型の第一人者に決まっているだろう』  さいですか。ンな向こう側の常識はどうでもいい(っていうか買い占めるのに新型リッターバイクと同じくらいの金が必要なのか?)。 「で。……何故こんな所にいる?」  おれは冷たいものを潜ませて声を放った。仮にこいつと本気で殺し合いが出来る可能性があるのなら――機会を逃すつもりは毛頭ない。 「あ。もしかしてあの所長、ついに依頼の二重取りに手を染めやがったか?」  ひとつの派遣会社が敵対する双方の組織にエージェントを派遣するのは『二重取り』と呼ばれる。派遣会社は一件で二人を派遣出来る代わりに、依頼人は常に、エージェント同士で情報が漏れているのではないか、という疑いに苛まれることになるため、業界全体の信用を落とすとして忌み嫌われるやり口である。 『そうではない。これは俺が個人的に、今回限りで引き受けた仕事だ』 「へぇ?友達の居ないお前に頼みごとをするような伝手があったっけ?」 『『あかつき』の伊嶋編集とは、イベントでな』  何のイベントだ。威嚇するかのようにウィリーする『隼』、振り下ろされる前輪を、冷静に最小限の動きでかわす『カミキリムシ』。 『今回は彼のたっての頼みということで引き受けた。うちは他の派遣会社への二重登録は禁止だが、別のバイトの掛け持ちは禁止されていないはずだ』 「そりゃまあそうだが……」  そこまで言って、唐突にひらめいた。 「待て、お前、報酬は何を持ちかけられた?」  奴は誇らしげに答えたものだ。 『第十二堕天使サルガタナスたん役の声優、七尾朝美さんの目覚ましCDを……な』  語尾の「……な」に、万感の思いが乗せられている模様。 「良くわからんが、それって店で売ってるんじゃねえのか?」 『阿呆!俺の為に特別に収録してくれるのだぞ?サルガタナスたんが『さっさと起きなさいよ、このバカ直樹!』と毎朝叫んでくれるのだぞ?ならば命を懸けるしかないではないか!』  仕える女王の賜う杯のために命を懸けた騎士は知っていたが、アニメキャラが罵倒するCDのために命を懸ける吸血鬼を、幸運にしておれはまだ知らなかった。というか生涯知りたくもなかったのだが。いずれにしても、確かなことはひとつ。奴はこの任務で退くつもりは毛頭ないということだ。 「――いずれはと思っていたが。意外と早かったな」  もはや何度目か、  おれは意識を飛ばし、鍵を取り出す。それを察して向こうの声にも霜が降りた。 『修理中の骨董品に負けてやるほど落ちぶれてはいないつもりだがな』  直樹と『カミキリムシ』の姿が白く曇ってゆく。己の能力と本性を開放した吸血鬼が作り出す冷気の渦が、高速で流れる周囲の空気と混じり白い霧を作り出している。  ははん。いきなり本気ってワケね。じょーとー上等。ならこちらも出し惜しみはやめようか。おれは取り出した鍵を持ちかえた。周囲の世界ではなく、古ぼけた抽斗の鍵穴に―― 『すまん、遅くなった!』  意識が途端に引き戻される。前方から響く急ブレーキの音についで、質量を備えた鋼鉄の箱が空間をえぐってゆく。強烈な既視感を覚える光景だが、今度登場したのは頼もしい味方だった。 「見上さん!」  境川PAを出発してから、機をはかっていたのであろう。見上さんの駆る業務用のカローラが、直樹の『カミキリムシ』とおれ達の『隼』に向けて突っ込んできた。先程玲沙さんと見上さんが連絡した際に作り上げていた仕掛けだろう。この機を待ち構えていた玲沙さんに対して、おれとの駄弁りに興じていた直樹は反応が一瞬遅れた。バランスがくずれ、大きすぎる回避運動をとってしまう。ラインが……開いた。 『行きます』  もはや言われずともわかっている。玲沙さんの掌が翻り、アクセルが開放される。待ち望んでいたかのように周囲を圧して轟く『隼』のエンジンの咆哮。開いたラインに強引な割り込みをかけ、そして一気に――抜いた。『カミキリムシ』の周到な妨害を突破したのだ。一度枷を解かれてしまえば、猛禽の王に追随する者があろうはずもない。例え直樹の人外の反射神経と『カミキリムシ』の性能があったとしても。 『最速で、獲ります』  この、『薄皮を剥くように』最適最短の道を疾走する最高のライダーに、つけいる隙はもはやない。カーブを曲がるたび、前方の車両を抜き去るたびに、少しずつ、だが確実に開いていく両者の差。役目を終えた見上さんの車が路肩に緊急停止する頃には、『隼』は『カミキリムシ』に十メートルの――わずかだが決して埋めることの出来ない十メートルの差をつけていた。さぁて、そろそろかな。意識を再び内面へ。おれはぶら下げたままの鍵を、またも持ちかえなおした。   『亘理陽司の』『指差すものは』    俺は上半身を捻り、『真紅の魔人』を指差す。奴の名前を直接文言に織り込むのは今の俺には危険に過ぎた。追いつけないと判断した奴が最後の一撃を仕掛けてくるのは、まさにこの時機を置いて他にない。   『亘理陽司に』『触れる事はない』    果たして、大気を裂いてこちらに飛来するのは……奴が己の冷気で作り出した氷の投槍。飛び道具に絞った俺の判断は正鵠を得た。奴の投じた必殺の一撃は、だが強烈な向かい風に狙いを外され、地面に飲み込まれて砕けた。   「……って、あいつがこの距離で槍を外す確率なんて、考えるだけでも悲しくなるほど低いんだがな」  おれは頭痛に泣きそうになる。起こりやすい事象であればあるほど、因果を捻じ曲げるには強力な『鍵』が必要になる。素人が三十メートル先から撃った銃弾が自分に『当たらない』ようにするのはおれにとっては容易だ。というか、そもそも当たる確率の方が低いだろう。十回中一回しか当たらないとすれば、おれは『当たってしまう一回』に鍵をかければ良い。  だが、例えば一メートルと離れていない距離から凄腕の殺し屋が放った弾を『当たらない』ようにするのはとんでもなく大変だ。弘法も筆の誤り、千回に一回くらいはミスしてくれるかもしれない。だが、おれが『それをモノにする』ためには、当たってしまう『九百九十九回』全てに鍵をかけてまわらなければならないのだ。強力で正確無比な吸血鬼の攻撃を『外す』のは並大抵の仕事ではない。表面には何の兆候も現れないものの、おれの中に蓄えられた見えないコインがごっそりと持っていかれたのを感覚する。だが、それだけの成果はあった。槍を作り出し投げるという行動は、一秒の奪い合いとなるこのスピードの世界では致命的だった。一気に二十メートル以上離される直樹。やがて、直線を抜け、勝沼を過ぎ、トンネルを抜けて初狩に至る頃には、直樹の姿はバックミラーから完全に消え去っていた。 『むぅ……。さすが『剃刀』。力任せの運転ではこれが限界か』 「はっはっは、ざまぁ見さらせ。せいぜいアニメ内の台詞を脳内で自分の名前に置き換えて楽しむ人生を送るんだな」  追跡の間中ずっと罵詈雑言を言い合っていた直樹に一方的に勝利宣言をすると、おれは『アル話ルド君』を切断した。決着をつける事は出来なかったが、まあ焦る事は無い。いずれは否応なしに通る道だ。と、新たな回線が開いて、今回のMVP……勝てればだが……に繋がった。 『指示役以外にも活躍出来たみたいでよかったよ』 「ホンッッットありがとうございました見上さん!」  率直な賞賛の念を込めておれは礼を述べた。本来は戦力外と考えていた見上さんのおかげで、直樹を実質無力化できたのである。これで大きく天秤をこちら側に傾けることができた。 『私は近くのPAに移動して、そこでまたクラウンの位置を確定する。都内に入られると何かと行動が制限されるから、それまでになんとしても奴に追いついてくれ』 『わかりました。時間としては、まだ何とか可能なはずです』        闇を切り裂いて疾走する『隼』のタンデムシートに跨りつつ、おれは自分の中の残ったコインをかき集めてみる。だが、やはり随分無理をしたのが祟ったのか、当分は『鍵』を引っ張り出すのは無理のようだ。先程の直樹の追撃を防いだ時点で、おれの札は打ち止めだった。ここから先はスピード勝負になる以上、もう無用な荷重でしかないおれを降ろしていくべきだろうとも思ったのだが、 『いや、亘理君は引き続き乗っていくべきだ。ただのレースならともかく、原稿を奪還するには二輪の運転手が一人では何かと不利だからな』  という見上さんの判断により、おれも引き続き追跡にあたっている。残るは、二対二。いよいよ大詰めだ。だが緊張とは裏腹に、タンデムシートに跨る身では出来る事など大してない。おれは気分転換のため、ちょいと話しかけることにした。 「……玲沙さんって、お住まいはどちらで?」 『え、と。調布です』  やはり玲沙さんも幾分緊張していたようだ。 「じゃあ、自宅の前を通ることになるんですね」 『自宅って言っても、会社が借り上げたアパートですよ』 「てことは、仕事三昧の日々?メシなんてどうしてるんですか?」 『えっと、朝は自炊、昼はお弁当で。夜は……近所のコンビニのお弁当になりますね。今日みたいな深夜の仕事があると、どうしても生活が不規則になりがちですし。知らないお店に入るのは怖くって……。毎日都内を走り回ってるのに、交差点と抜け道しか知らないんですよ』  ちょっと寂しそうな玲沙さんの声であった。 「神田の『古時計』の近くに、『椋鳥』って喫茶店があるんですよ。良く神田に本を買いに行くときはそこのお世話になるんですが。あそこね、コーヒーもたいしたものですが、何故か喫茶店のくせに和食のメニューを出してくれるんすよ。そしてそれがまたやたらうまい。焼き鮭と卵で三杯はいけますね」 『はあ……』 「えっと、だから、まあ。今日の朝飯は、そこできちんと食べましょうって事です。勝利をおかずにして」  我ながら胡乱な物言いだな。 「あと、まあこう見えても暇な大学生ですから。池袋、新宿、神田あたりの食い物なら多少知ってます。昼に弁当以外を食べたくなった時は電話ででも聞いてください」  玲沙さんからコメントが返ってくるまでにはちょっと間があった。 『そうですね、さすがに休憩なしでずっと走っているとお腹が空いてしまいますしね』 「そういうこと。それじゃあ、」 『「もうひと踏ん張りがんばりましょう!!」』  気合をひとつ入れると、おれは彼女の腰にしがみつき、荷重に徹して彼女の妨げにならないよう努めた。見上さんから送られてくる敵の位置と道路状況を参照しつつ、はるか上空から見つけた獲物めがけて落下する隼のように、前方の車両を抜き去り、談合坂を越え、闇に浮かぶ灯火に縁取られた相模湖に目もくれることなくただただひた疾走る――。  ……ついに前方にトヨタ・クラウンアスリートを捉えた時。  おれ達は神奈川県を抜け、八王子の市内に到達していた。         ●12     「エージェント1号より連絡あり。原稿を確保したまま、東京都内に到達した模様です」  手を打ち鳴らし快哉を叫ぶ伊嶋氏とは対照的に、テーブルを叩きつけて立ち上がるのは現編集長。 「馬鹿野郎!高い金を払って雇っているというのに、何をやっているのだ!」  先ほど相手を役立たず呼ばわりしたことは綺麗に頭の中から消えているらしい。視界の隅に、ささやかに喜色をにじませる瑞浪氏を捕らえ、見境なしに噛み付く。 「何を笑っているんですか!」  身を竦ませる瑞浪氏、冷然と二人の間でコーヒーを堪能する弓削氏。その様子も気に入らなかったのか、編集長はまた何やら聞き取りがたい言葉で喚いた。  深夜の京浜東北線でもああいうオヤジって居るわよねー、などという率直な感想をおくびにも出さず、浅葱所長は淡々と四杯目のコーヒーと、レアチーズケーキを注文した。夜間の食事は体、主に体重の天敵だが、夜通し起きて脳を活性化させているととにかく腹が減るものだから。 「気にすることはないよ瑞浪君。もうすぐ君はあの『あかつき』から解放される。また前みたいな雰囲気で、僕らと一緒に描けるんだよ」 「ありがとうございます、でも……」  瑞浪さんはちらりと現編集者を見やる。何を思うのか、弓削さんは端然とコーヒーを手にしたまま無言だった。 「新連載については心配しないでくれ。可能な限り『えるみか』に近づけられるように努力するから」   「……あの。やっぱり、『えるみか』じゃなければいけないんですか」    瑞浪さんは、確かにそう言った。 「当たり前じゃないか。あれほどの良作、ここで打ち切りになんかさせるものか。商標こそ、アニメ会社、グッズの会社……いろいろあって、『えるみか』の名前を使うのは無理だったけど、でも、基本的には中身は変えさせないから」  伊嶋氏はコーヒーを飲み干し、瑞浪さんの両肩に手を置く。手の掛かる子供を宥めるように。 「わかってます、わかってますけど!『ミッドテラス』に行ったら、『えるみか』は『えるみか』でなくなってしまうんです!」 「瑞浪君……」 「『えるみか』は私だけの力で出来たものではないんです。だから……本当は、怖いんです。『ミッドテラス』で、ちゃんと続編が書けるかどうか。ううん、描ける筈が無いです!だって、私の思い付きを弓削さんがきちんとしたストーリーに仕立ててくれたからこそ、四十話もやってこれたんですから!」      漫画家、とくに若手に対する編集者の存在は非常に重要である。親密になって漫画家のネタ出しにつきあい、編集部の意向を作品に反映させ、時にはストーリーを主導する。編集者が異動になった途端につまらなくなったマンガ、などというものは星の数ほど世の中に存在するのだ。  そして、知る人ぞ知る、人気作品『えるみかスクランブル』の影の立役者であり、実質的なシナリオライターだったのが彼女、連載開始時から編集者としてコンビを組んできた弓削かをる女史であった。そしてこれも、『えるみか』を『ミッドテラス』が引き抜けない大きな要因のひとつとなっていた。 「……たしかに、君達は二人でよくやってきたと思う。だが、瑞浪君。君ももう五年目だ。そろそろ弓削君以外の編集者ともやっていけるようにならなくては。そうだろう?」 「でも、それなら『えるみか』はもう描けません。弓削さんのシナリオがなかったら、私の絵はただの止め絵になってしまうんです。そんな『えるみか』の続きを書かなきゃいけないなら、いっそ」 「瑞浪君……!」  伊嶋編集長が何とか椅子に彼女を座らせる。 「どうぞ」  おりしもそこにマスターが、英国の執事めいた物腰で二杯目のコーヒーを運んできた。えも言われぬ芳香がテーブルに現れ、座が少しだけ落ち着いた。 「弓削さん」  それまで事務的な報告に徹していた浅葱所長が声をあげた。 「貴方個人としての意見はどうなんでしょう?」  一同が驚愕する。 「何を言っているのかね!?弓削はうちの社員だぞ、だいたい……」 「お静かに」  ぴしゃりと編集長の言葉を封じるその様は、弓削さんですら恐らくは及ばないだろう。彼女、嵯峨野浅葱は年こそ若いが、今までの人生において無数のハードネゴシエイトを行ってきた。秤にかけてきたものの重さ、対峙する相手の力量、ともにこの男のそれを百倍かき集めても及ぶものではない。状況に応じた語調の使い分けなどは初歩の初歩だ。 「たいしたお話ではありません。私個人が、いち個人としての弓削かをるさんの意見に興味を持っているというだけのことです」  対する弓削さんは、冷めてしまったコーヒーに口をつける。鉄仮面ぶりは相変わらずのようだった。 「繰り返しになりますが。作家にとってベストの環境を確保する。それが編集者の仕事だと私は信じています。だから今回もベストの選択をしたつもりです」 「弓削さん……!!」  瑞浪さんが悲鳴寸前の声をあげる。  その様を見やって、浅葱所長はぽつりと述べた。 「ホーリック側が勝つといいですね」 「な、何を!?」 「嵯峨野さん!」  伊嶋氏と瑞浪さんが驚愕の声を上げる。 「……貴方は中立の立場だと思っていたんですがね」  伊嶋氏の声には明らかな失望と怒りがあった。 「いえ、これはあくまで私個人の意見ですから。公人としてはあくまで中立の姿勢は変わりありません。ご心配なく」 「本当ですかね」  剣呑な雰囲気は、だが、そんなものはおかまいなしとレアチーズケーキの最後の一欠片を腹に収めた浅葱所長の声によって破られた。 「ホーリック側が、ミッドテラス側を再び捉えたようです」         ●13      後ろから眺めやっても、クラウンの暴走っぷりは凄まじいものだった。『隼』と違って小回りが効かない分、強引な割り込みでそれを補っている。いくら今回の件が依頼人の要請に基づくものであり、オービスについてもお目こぼしをもらっていると言っても、さすがにこれでは苦情を覚悟せねばならないだろう。こちらから仕掛けるとしても、厄介なことになるのは明白だ。時刻はまだ深夜の域を出てはいないが、休憩もなしにひたすらバイクを飛ばしているこちらは体力的にもかなりキツイ。さっきからこれだけは口にしないようにしていたが、おれの尻と尾てい骨はガタガタでとっくに泣き喚いている。痔になりたくないということもあり、八王子を越えて都心に入り込まれる前にカタをつけたかった。  おれ達が後ろにつけたとき、前方のクラウンの挙動はむしろ静かなものになっていた。こちらが追跡しているだろうことは、直樹なり『貫影』なりの連絡で予想がついているはずだ。猛追してくる二輪があれば迎撃の準備を取っていてしかるべきはずなのだが――と思っているところにそれは来た。 「おふっ!」  急な横方向への揺れに肺の中の空気がかきだされる。傾く車体は、だが、玲沙さんが絶妙のタイミングで当てたカウンターに相殺される。先ほどと同様、奴が磁力を使ってこちらの車体を揺さぶりにかかっているのだ。運転席の窓から覗くのは、奴の右腕。 『やはり亘理さんの読みどおりのようです!』 「ですね。よし、何時までも一発芸が通じると思うなよっ!」       「これは予測なんですが」  ここに至るまでに玲沙さんと交わした会話をおれは振り返る。 「『二つ名』からして、あいつが磁力を操る能力者だってのは間違いないと思うんです。そうなると、『どういった磁力使いなのか』が問題になってきます」  超能力か魔術か精霊の力か知らないが、炎使い、雷使い、水使い、といったエージェントは比較的数多い。そしてひとえに炎使いといっても、掌から炎を放つ者、敵を見るだけで発火させる者、まるで生き物のように炎を操る者、さまざまだ。そして奴も、様々な種類が存在する磁力使いの中でもどのタイプかに該当する、という事になる。 「多分、腕から磁力を放射する、って感じでしょう。となれば、当然『引き寄せる』事があいつの得意技となる」  磁石が『反発』するのはあくまで磁石同士だ。奴は恐らく、『鉄を引き寄せる』事のみに一点特化したエージェントと見るべきだろう。能力を一点に絞って鍛え上げた者は、状況しだいでは恐るべき力を発揮するのだ。 『でも、さっきのベアリングは……』 「おそらく、あいつが瞬間的に磁化したんでしょう。『隼』に吸い寄せられる形で飛んできましたからね」 『なるほど……。わかりました。それなら、手はあると思います』      距離を詰めるたびに、磁力の干渉は厳しくなってくる。右に、左に。磁力の攻撃は、いうなれば透明なロープで引っ張られるという妨害の中で走行を維持する事だった。引き倒されない玲沙さんのドライビングテクニックに、改めておれは舌を巻く。  奴は作戦を誤った。おれ達を仕留めたければ、先ほどのように至近距離から最大威力の磁力で一撃で引き倒すべきだったのである。クラウンが先方を走るトラックを抜いたとき、おれ達は仕掛けた。  トラックがクラウンとおれ達の間に挟まれ、磁力の途絶えたそのわずかな時間の間に、玲沙さんは完璧なライン取りで、奴の左後方に回り込んだのだ。奴の右腕の届かない死角。ここでおれ達は一気に距離を詰めた。たちまち視界に広がるクラウンのナンバープレート。リアウィンドウを通して、バックミラーを見る奴と目が合った、ような気がした。奴の表情には、焦燥。慌てて左車線へとシフトする。それこそが、玲沙さんの狙いであった。 『――――』  玲沙さんは身を極端に伏せる。事前に指示を聞いていたおれもそれに倣い、両手をその腰ではなく、タンクの両側に取り付けられたフックをしっかりと握る。段差のあるタンデムシートに玲沙さんの双丘が突き出される形になり、おれは危うく悶死しかけたが、錯乱する思考を小脳から吸い上げて一時保管し脳内の奥底に放り込む。後でゆっくり解凍しよう。  玲沙さんが『隼』のパネルに指を這わせる。イグニッションの下にある、改造で後付されたと思わしきスイッチをはね上げた。そして、『隼』にアクセルを叩き込む。    その瞬間、世界が停止した。    爆発的な加速。  供給されたありえない量の亜酸化窒素をたらふく喰らいこんだ猛禽がその翼を広げ猛加速。そして押し寄せる膨大な空気の塊をその肺腑に貪欲に取り込み、圧縮。噴射されたケロシンと化合させ燃焼。その凄まじい心臓の鼓動をシャフトを介して推進力へと転化。風を切裂くというよりは撃ち抜くこの感覚。この時、猛禽は天空から降り注ぐ一粒の弾丸となり、音を追い抜いたのだ。  周囲に居た者は隼のいななきにも似た甲高い音を耳にし――そしてそんな認識を、続いてやってきた衝撃波に吹き飛ばされた。あたかも見えない巨人が、直径一メートル以上ある太い鞭を振るったかのごとく、爆音が帯状に路面に弾けた。  前方にあったはずのトヨタ・クラウンアスリートは、またたきする間もなく視界の後方へと吹っ飛んでいった。意識が数秒トんだのか。ワープでもしたのか、というくらい不自然な景色の切り替わり。魂だけが抜き出て肉体を置き去りにしてしまったのではないかと不安になるほどの超加速。  これが『剃刀』鹿毛玲沙の裏十八番だった。おれ達にも、飛び込みに失敗し無様に着水したときのような衝撃が全身に弾ける。生身だったらそのまま身体が消し飛んでいただろう。おれにやたらと高性能のライダースーツが事前に支給された理由は、まさにここにあった。過剰なまでに耐ショック構造を組み込んであるはずなのに、それでも内臓を落っことしたんじゃないかと思うほどの衝撃が突き抜ける。フックを掴んだ腕と肩が引っこ抜けそうになった。事前に玲沙さんに厳重に注意されていなければ、容易く後ろに吹っ飛んでいただろう。  公式には記録されていない二輪車での音速突破を、実に一秒に満たない加速時間で為してのける車体など存在するはずがない。まして通常走行用のエンジンと並行してもう一つの加速装置を改造して取り付けるなど技術的に可能なはずはない。ついでに言うなら、そんな加速をして搭乗者が無事で済むはずはない――はずはない、等という言葉は、この業界では口に出すだけ虚しいものではあるが。風の噂では、真の拳法使いには軽功によって音速を超える者もいるらしいし。  時間では二秒足らず。だが、距離にして六百メートルを疾走し、『隼』は通常走行に戻った。スピードを落とし、追い抜いたクラウンに併走する。巨大な鞭に打たれたようにへこんだ車体。そして開け放たれた運転席の窓の向こうには、ハンドルに突っ伏した男が居た。天空から襲いかかる隼に蹴落とされた受けた獲物は、抵抗すら許されず即死、あるいは気絶する。  それを彷彿とさせる、居合いの一閃。音速から放たれた衝撃波は、『包囲磁針』に本来の恐るべき力を振るう間も無く失神させていたのだ。まともに戦えばただではすまなかっただろう。 「すごい威力ですね……」 『本当は、どうしても荷物が間に合わないときの業務用の装備なんですけど』  ……さいでっか。きっとメカニックにB級映画の信奉者でもいたに違いない。くれぐれも世のビジネスマンは、あまりにも無謀な催促をメール便にするべきではないなとおれは思った。       「っとと、よよっと……のわぁっ」  ひときわ無様な声を上げて、おれはクラウンの運転席にもぐりこんだ。巧みにスピードと位置を合わせてくれた玲沙さんのおかげで、作業自体は中学でやった器械運動よりもたやすかったが。気絶している『包囲磁針』の太ももに顔を埋めそうになって慌てて態勢を立て直す。ハンドルをとり、徐々に路肩に寄りつつあった車体を中央に復帰させた。 「ふう」  四苦八苦して『包囲磁針』の体を助手席に押しやる。メットを脱ぎ捨て、ツナギのファスナーを開く。内ポケットに入っていた小型の七つ道具を取り出すと、そのうちのひとつ、即効性の催眠スプレー『春シオン君』を助手席の『包囲磁針』に吹き付けた。これで半日はどうやっても目を覚まさないだろう。あとはこのクラウンを適当な場所で停めて、玲沙さんが原稿を持ってゴールに駆け込めば万事OKである。路肩に停めてもいいんだが、さてどうするか。  ポーン。 『石川PA、まで、あと五キロ、です』  と、カーナビが事務的な口調で告げる。ふむ。路肩に停めるとあとあと面倒だし、PAで車ごと放り出すのが妥当なところかな。おれは並走する玲沙さんにその旨を伝えた。 「念のためっすから、先行してガス入れておいてください」 『わかりました。軽く点検もしておきたいですし』  あの大技は多分車体に凄まじい負担をかけるのだろう。ここまで来てエンストなんて事にはなって欲しくはない。原稿を再度車体に括りつけなおすのも、金具が壊れた今となっては容易ではないのだ。おれが玲沙さんにひとつうなずくと、たちまち彼女はおれの視界を前方へと突っ切っていった。……さて。 「ふっふーん♪」  おれはいささか上機嫌の態でハンドルを握った。何しろクラウン・アスリートとくれば親がカネモチでもない限り学生が運転できる代物ではない。入り込んできた運転席の窓を閉めてしまえば、先ほどまでの滝の中のような騒音は掻き消え、驚くほど静かな空間が広がってきた。敵が磁力を放出するために全開にしていたのが幸いして、窓も割れていなかった。『アル話ルド君』からコネクタを引き出してカーナビに接続すると、たちまち車内は豪勢なステレオサウンドで満たされる。  ポーン。 『石川PA、まで、あと三キロ、です。シートベルトの着用を、お願いします』  とっとと。いかんいかん。おれは慌ててシートベルトを着用すると、夜の闇の中、カーナビの表示と高速の標識を頼りにクラウンを走らせてゆく。  ポーン。 『左、石川PA、です』  おれは高速を一旦降りるべく、ウィンカーを出してハンドルを左に切った。だが、車は直進を継続している。高級車のくせにハンドルの反応が鈍いとは。おれは舌打ちすると、ハンドルをやや大きく切る。    直進のまま。    おれの胃の辺りに冷たい塊が落ちてくる。慌ててハンドルを左右に振るが、反応なし。おいおいおい、まさかさっきの衝撃で壊れたとか言うんじゃないだろうな!?  そうこうするうちに、PAの入り口は後方に過ぎ去ってしまった。半ばパニックになりかけてブレーキを踏むが、……これも反応なし!  ポーン。 『石川PAを、通過しました』  やたらと事務調なカーナビの音声が気に障る。しばらくハンドル、ブレーキ、アクセルを弄繰り回してみたが、効果は無し。なんとか玲沙さんに連絡をとらないと。そう思って『アル話ルド君』に手を伸ばした。  ポーン。 『石川PAまで、マイナス一キロ、です』  ――伸ばしたおれの左手が凍りつく。石川PAを目的地にでもしていればいざ知らず、カーナビは通常こんなアナウンスは、しない。そして、おれはもうひとつ事態に気がついていた。ハンドルも、ブレーキも、アクセルもきかないのに……なぜこの車は、正確なまでに車線の中央を維持しているんだ!?  ポーン。 『石川PAまで、マイナス三キロ、です。お、仲間との、合流は、諦める、べきですね』  台詞を組み合わせた無機質な電子音声にぞっとする。遠隔操作、いや、こいつは!  ポーン。 『高井戸ICまで、あと二十キロ、です。しばらくは、お付き合いください』  咄嗟、シートベルトに手をかける。だが、いくらボタンを押しても、外れることは無かった。  ポーン。 『その操作は、受け付けておりません』  日ごろは何気なく聞き逃せるエラー音声だが。こうして聞くと感情がこもっていない分空恐ろしい。おれはようやく事を理解していた。 「……なるほど。アンタがそっちの最後のカード、ってわけだ」  とたん、車載スピーカーから滑らかな音声が流れ出す。 『はじめまして。多機能型カーナビゲーションシステム試作機、型式番号『KI2K』。まだ二つ名は頂いておりませんので、実名で失礼いたします』 「……四”人”って言ったじゃないかよ……」  おれは苦虫をすり潰したジュースを飲み込んだようなツラで、このカーナビの奥に収まっている高度な人工知性体を睨みつけた。         ●14      カーナビが爆発的に普及し始めた二十一世紀の始め。各電機メーカーの技術者達の間では、夢の『喋る車』を実現すべく、様々なプロジェクトが立ち上げられた。車に好きなキャラクターの声で喋らせてみたり、状況に応じて気の利いた台詞を言わせてみたり。だが結局のところ、それらはおまけ機能的なものの領域を出ることは無かった。少なくとも、そういう事になっている。  しかし。業界にはひとつ、噂があったのである。とある大手の車用電装品メーカーの技術者が、ある科学者と共同でプロジェクトを立ち上げ、心血を注いで試作を完成させた、二つの『知性をもったカーナビ』がある、と。  当の技術者が直後に過労死したため(労災は下りなかった)、真相は闇に葬られた。というより、この噂自体、報われなかった技術者への判官びいきから生まれたのだろうと思われていたのだが。 「まさかそのうちの一台がこんな車に搭載されていたとはね」 『今回はたまたまです。個人的にはトランザムのフロントパネルが一番居心地がいい』 「……おれをどうするつもりだい?」 『このまま東京神田の『古時計』に向かってもらいます。私の自動運転は完璧ですが、無人では都内は走れませんから』  おれは態の良い人形役か。 「はん、だがまさしくこれなら獅子身中の虫。拳一発でアンタをぶっこわすことだって――ぐくっ!?」  尻のあたりに何かがはじけ、おれはシートの上で飛び上がった。 『私には盗難防止システムが備え付けられておりまして』  にしちゃぁ過激だね。シートにスタンガン装備ってのは。ふと、おれは思いついた。 「そういえば。トレーラーを遠隔操作していたのもあんただったってわけだな」 『ええ。自身を含めて四台程度までなら通常走行を並行して維持出来ます』  と、そこで『アル話ルド君』が着信音を鳴らす。先ほどバイク上で使っていたため、自動的に通話状態になる。 『亘理さん、どうされました!?』  玲沙さんだ。 『亘理君、玲沙君とは離れてしまったのかね?』 『こちら真凛。『貫影』はどうにか倒せたけど、そっちは?』  おれに繋がったのを知って、三者が三様にまくしたてる。 「おい……喋ってもいいのかい」 『どうぞ』  先方が寛大に許可してくれたので、おれはカーナビ越しに手短に状況を説明した。想像もしなかった四人目の正体にさすがにみんな絶句していたが、 『とにかく、そっちへ向かいます』  言うや否や玲沙さんの通信が途絶える。恐らく石川PAを再出発したのだろう。 「見上さん、すいませんが位置のフォロー頼みます。真凛、所長に連絡してくれ。最寄のSAで時間を潰してれば桜庭さんか須江貞さんが回収してくれるはずだ」 『うん、わかった。……でも今回は本当に役立たずだったね、ボク』 「暴れられたからいいじゃないか。次回はきちんと活躍できるだろうから心配すんな」  そこまで言って、通信を切る。ふぅ、と一息をつき。そのままフックをフロントパネルに向けて繰り出した。 「ぐかかっ!!」  拳が届く前に先ほどより強烈な電撃が走り、意識が遠のきかけた。たまらず崩れ落ちるおれの耳に、無機質なカーナビの音声が響く。 『あまり無謀な振る舞いはお勧めできません。あなたの反射神経よりは私の反応のほうが、失礼ながら数百倍は早いし、私の本体はそこではない』  しばし、フロントパネルをにらみつける。……十秒ほど、勝てるはずの無いにらめっこを続けた挙句、おれは肩をひとつすくめた。 「……んじゃ、神田まで。安全運転でね。深夜料金つかないよね?」  観念した態で両手をあげる。 『素敵な、ドライブになると、いいですね』  起動時の業務用の台詞を吐いて、クラウンは自動操縦に移行する。どうせ手を離しても勝手に進んでいくんだ。おれはシートにくくりつけられた体制のまま、次々と暇つぶしをはじめた。まず、起きられては元も子もないので、『包囲磁針』の親指を手にしたプラスチックのバンドで縛り上げる。奴のネクタイとハンカチで目隠しと猿轡をかます。上着を脱がせてかぶせ、深夜ドライブで眠ってしまったように装い――こういう手口ばかり巧妙になるのはいかがなものか――ヤケクソ気味にプラグが繋がったままの『アル話ルド君』を操作し、サウンドを車内にたっぷりと響かせる。その上で放り出されていた原稿のボックスを拾い上げ、しっかりと懐に抱え込む。 『神田についたら、すいませんがあなたには気絶してもらいます。そこで私がゴールインすれば、ゲームは終了となる』  ……ゲームの解釈としてはそうなるんだろうな。 「だけど、そうそううまくいくかな?」  バックミラーから急速に迫りくる『隼』の姿のなんと頼もしいことか。 『うまくいきますとも』  言うや、猛加速するクラウン。先ほどまでも十分に味わっていた感覚だが、今度はおれの体は柔らかなシートにしっかりと受け止められていた。 「この……」  まさしく機械仕掛けの正確無比なライン。だが、それでも、おれは技量においては玲沙さんが勝っていると断言することが出来た。両方に乗った人間の言うことだから間違いは無い。それに四輪と二輪では小回りの性能が違いすぎる。徐々に近づいてくる玲沙さん。おりしも前方には走行車線、追い越し車線ともに車両でふさがっていた。ゲームセット、と思ったそのとき。 「……っ」  今日何度も体験している、内臓にダイレクトに伝わる加速の感覚。だが、それは今までのような前から後ろにではなく、上から下。それはすなわち。 「飛んだ……!?」  そう。  嘘偽り無く。  この車は空を飛んだのだ。  正確には大ジャンプか。両車線を遮る車を追い越した。それも、上から。おれは運転席の窓からありえない光景を見やりつつ――続く落下の恐怖を存分に味わった。どずん、という鈍い衝撃。しかし高級なサスペンダーは驚くほどその威力を吸収し、おれにはほとんど被害がなかった。そう、おれには。  たった今おれ達が飛び越した車にしてみれば、天からいきなりクラウンが降ってきたようなものだ。たまらず二台とも急停止し、制御を失い……結果、玲沙さんとおれ達の間に壁となって立ちはだかることとなった。たちまち後方で響き渡る甲高いブレーキ音。 『ああ、もう!……すいません、亘理さん!塞がれました!』 「玲沙さんと、飛び越された車の人たちに怪我は!?」 『どちらも大丈夫です。でも、今のでギアに異音が入りました。多分……これ以上の追跡は無理です』  そうか。やっぱりさっきの超加速とかでかなり無理させたものな。言葉の間に、かなりの葛藤があったということは、目的意識と現状分析の間で下された、冷静なプロとしての判断というべきだろう。 「わかりました。無理しないでいいんで、そのままゴールまで向かってください」  おれはひとつ息をついた。 『そうですか……。『椋鳥』での朝ご飯、ご一緒出来そうにないですね』  玲沙さんの声は気落ちしていたようだ。 「そうでもないですよ。もともと勝ち負けに関係なくお誘いするつもりでしたし、それに」  おれは運転席でのんびりと頭の後ろで手を組み、足も組んで伸ばした。高速道路では通常ありえない態勢だ。 「ちゃんとおれ達が勝ちますしね」        国立府中、調布、高井戸。    順調にインターを通過する。隣で相変わらずつぶれたままの『包囲磁針』の財布からチケットとついでに現金も取り出し(乗った奴が払うのは当然だろう?)、おれはクラウンに乗って悠々と中央道を降りた。そのまま甲州街道をひたすら西へ。途中何度か裏道を出入りをするあたりはさすがカーナビの面目躍如といったところか。おれ達はろくに渋滞にも遭遇せず、神田の古書店街の一角へとたどり着いていた。不夜城東京といえどもこの辺りはさすがに終夜営業の店も少なく、落ち着いたものである。それでも、ずっと闇の中を疾走していたおれの目にはずいぶん眩しく映ったものだが。  ポーン。 『目的地まで、あと、10分です』  こんなときにわざとらしくカーナビ口調で話してくるあたり、こいつも相当いい性格をしていると見るべきだろう。おれは仏頂面でハンドルを握っていた。 『この期に及んでまだ何か仕掛けられるとでも?不審な合図、不審な行動があれば即座に行動を抑制させていただきますが』  やれやれ。確かにおれの『鍵』も、序盤でハッスルした分二発で打ち止めだが。 「いや、まあとっくに勝負はついてたんだけどね」  おれは言う。 「今まで散々寒くて尻が痛い思いをしてきたわけだから、最後くらいクラウンのシートの、しかも自動操縦で送ってもらえたらうれしいなー、なんて思ってたもんでさ」 『何を……』  おれの態度に、初めて奴が機械らしくない声を上げた。 「最近の携帯電話って奴は多機能でね」  コードで繋がれ、サイドブレーキの側に転がっている『アル話ルド君』を見やる。 「カメラ、GPSなんて機能もついてて……ついでにこいつはさらに特別製なんだ。音楽もアホみたいな量が入るし……データの持ち運びなんかも出来るんだよな。文書ファイル、画像ファイル、それから、プログラムとか」  沈黙。機械でも判断するのに時間が掛かることがあるのかね。 『まさか』 「石動研究所特製、自律システム解析型ウィルスベクター『輸ネちゃん』。たいがいのシステムの奥底まで解析し、ウィルスを送り込むっつうシロモンだよ。準備は周到に、ってわけだな」  実際は前の任務で使った後消し忘れていただけだが。 『そん……な……!……!?』 「あーそう。変なことしない方がいいぜ。ウィルス発動のキーは、そのウィルスを検索しようとすることだから……って、やっちまったか」  ほんの一瞬、ぐちゃぐちゃの地図が表示され――ブラックアウトした液晶画面を見ておれはつぶやく。 「安心しなよ。ちょっとシステムがダウンするだけだ。あんたはそれほどヤワじゃないはずだし、壊しちまったら色々なところから悲しまれちまうからね」  このウィルスの作成者にして、かつて技術者とともにこのカーナビの開発に関わったといううちのマッドサイエンティストの顔を思い出し、おれはもう一度、今夜最後のため息をついた。         ●15      おれが『古時計』の重厚なドアを押し開けると、澄んだドアベルの音が店内に鳴り響いた。  おれの顔を見て、露骨に落胆した人が一名。この人が伊嶋さんだろう。そして満面の笑みを浮かべる脂ぎった中年のオッサンが一名……オッサンの笑顔など見たくも無いのでその場で脳裏に保存せず消去……そして相変わらず鉄仮面顔の弓削さん。同じテーブルに着いて本当に泣きそうな顔をしている眼鏡の女の子は、はて誰だろう。何気に結構可愛いと思うのだが。今日は本当に美人に縁のある日だ。玲沙さんもすでに甲州街道に下りたらしいし、あと何時間後かの朝飯におれは思いを馳せつつ店内に足を踏み入れる。 「勝負の結果は?」  冷たいとも言える言葉がおれを現実に引き戻した。見れば、浅葱所長がおれを見据えている。ここでの彼女の役割はおれ達の所長ではなく、このふざけたゲームの立会人なので、それは至極まっとうな反応だった。おれは報告する。 「ホーリック代理人の亘理陽司です。『ミッドテラス』のエージェントを三人と一台を排除し、ここに辿り着きました。こちらも三名が途中でリタイヤしましたがね」 「原稿は?」 「こちらに」  言っておれは、血と汗と涙の結晶である二つのキャリーケースを、衆人環視の元で弓削さんに手渡した。 「確かに、中身に間違いはありません」  封を開けて中を確かめた弓削さんが言い、中を見た瑞浪さんも首を縦に振った。 「では、立会人として……今回のゲーム、ホーリック社の勝利を宣言いたします」  狂喜乱舞するのは中年オヤジのみで、他はいずれも沈みきった、もしくは冷めた反応だった。かくいうおれ自身も、目標を達成した以上の感慨は無く、黙って手近な席に腰を下ろす。マスターにコーヒーを一杯注文した。 「お疲れさま、亘理クン」  ここでようやく浅葱『所長』がおれにねぎらいの声をかけてくれた。だがおれはそれに軽く手を振ったのみ。 「あの眼鏡の子、誰ですか?」  それに対する答えにおれはさすがに驚いた。まさか『えるみか』の作者が女の子だったとは。……だが、それもおれに取ってあまり嬉しいニュースにはなり得なかった。 「用件はこれで終わりっスよね?コーヒー飲んだら帰らせていただきますよ」  店内の雰囲気だけでも、だいたいどのようなやり取りが成されたかわかってしまうという物だ。これ以上ここで繰り広げられる出来の悪いコメディに付き合う気分ではなかった。直樹の野郎へのイヤがらせのため瑞浪さんにサインでもねだろうか、と思ったが、敵側の選手で、しかも勝たせてしまった人間がでしゃばったらどうなるか、という事がわからぬ程阿呆ではないつもりだ。 「そう言わないで。自分の仕事を確かめるためにも、もう少し見ていったら?」  浅葱さんにそう言われ、おれはつまらなさげな表情を作って、運ばれてきたコーヒーを呷った。確かにまあ、玲沙さんとの朝飯の約束にはまだ十分時間が合ったのだが。     「それでは、契約書のとおりに」 「はい、契約書のとおりに」  弓削さんはそう答えると、原稿をテーブルの上に積んだ。そして立会人である浅葱所長の目の前で、複写式になっている契約書におれ達が勝利した旨の文章を書き込んでゆく。何気なく契約書の文書の内容を追っていったとき、おれの頭の中にピンとひらめくものが合った。……ああ。なるほど、そういう事ね。 「よくやったぞ、弓削!!」  中年ががなり立てる。……このオッサンが今回一番の迂闊者だな、間違いなく。 「それではすべて、契約書のとおりに。このレースに勝利した側の編集”者”……弓削かをる氏が、『えるみか』と瑞浪の身を預かることとなりました」  浅葱さんの宣言に、中年オヤジの動きがぴたりと静止した。動作の途中で静止画にされると、人間ってホント変てこなポーズになるよなあ。 「浅葱さん。よろしいでしょうか」 「どうぞ」 「では。私、弓削かをるは、所有する『サイバー堕天使えるみかスクランブル』の連載権と、委託されている『瑞浪紀代人』の所属を、株式会社『ミッドテラス』に移管することをここに宣言します。契約書の作成をお願いできますか?」 「弓削君!」 「弓削さん!」 「ば――馬鹿なことを言うな!!そんな口約束、通るわけが無いだろう!」 「生憎と、この契約書は『ミッドテラス』社長と、『ホーリック』社長代理のあなたの印で作成されています。当然、印鑑を押されたということは文面は理解されておられましたよね」  ことさら語尾を下げ、疑問形にしないところが意地が悪い。 「……な、しかし、そんな……」 「である以上、この契約書に従えば公式に権利は弓削さんのものになる。そしてその弓削さんがその場で譲渡を宣言した以上、『えるみかスクランブル』と『瑞浪紀代人』は公式に『ミッドテラス』のものとなる。もちろん題名の変更等の不自然な修正も無しに。おわかりですか?」 「こ――これは、詐欺行為だ!第一、そんな口約束で物事を決められてたまるか!そ、そうだ、それこそもう一度契約書を書け。弁護士の立会いの下で。いや、弓削、その前にお前はもう一度社に戻って」 「その必要はありませんな」  突如割り込んだ第三の男の声に、ぎょっとして振り向く中年。見れば喫茶店のマスターがトレイを持って立っていた。 「なんだあんたは!これはウチの問題だからでしゃばっ」 「それならば今契約書を作成すれば良い。そうですね、みなさん」 「「はい」」  浅葱さんと弓削さんが唱和する。 「言うのを忘れていましたが、こちらのマスター、本業は弁護士です。こう言った民事関係のトラブルの草分け的な存在なんですよ」  所長の満面の笑みに、ようやく哀れな中年は、これが最初から最後まで筋書きの仕組まれた陰謀だったということに気がついた。 「ゆ、弓削……この、貴様、恩を仇で返すとは……!クビだ、クビ!もう二度とウチに顔を出すな!」 「確かにその言葉、伺いました」 「……ん?」  己が口走った言葉の重大さに、中年が青ざめたその時。 「弓削さああん!!」  感極まった態の瑞浪さんが抱きついた。 「弓削さん、ありがとうございました、やっぱり弓削さんは最高です!」 「……俺たちみんな、手玉に取られたか。たいしたもんだよ、お前は。……これで、いつでもうちに来てくれるな」 「作家にとってベストの環境を確保する。それが編集者の仕事ですから」  半ばあきれ顔を浮かべる伊嶋編集と対照的に、中年の顔は蒼白を通り越して土気色になっていた。 「弓削さん、弓削さん……」 「紀ちゃん、ごめんね、一連のごたごたで随分つらい目に合わせちゃったね。でも、もう大丈夫だから」  涙でぐしゃぐしゃの瑞浪さんの顔をハンカチでぬぐってやる弓削さんの顔を見ながら、おれは我知らず呟いていた。 「……おれも、佳い女センサー装備しようかねえ」  初めて、鉄仮面の下の素顔を、見た。     「ごちそうさんでした」  もう勝負のついた騒動を尻目に、おれは席を立った。今度こそ、これ以上先を見る必要は無い。と、今夜は大活躍だったおれの携帯が、再び銭形警部のテーマを奏でた。 『亘理さん、こちら玲沙です。今、神田のJR駅前につきました』 「はいはい、今迎えに行きますよー」  おれは、徹夜明けの空腹を満たすべく、『古時計』のドアを押し開けた。  ビルの谷間から昇るすがすがしい朝の陽光が、騒がしい夜の終了を告げていた。     ●[了]ID:SFN0003v102