小説 『人災派遣のフレイムアップ』 
第3話 『中央道カーチェイサー』


 

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◆◇◆ 5 ◇◆◇

 
 
「……っと」
  射竦められる、という表現がまさしく正しい。戦うために純化してきた生命体が、獲物に向ける無慈悲な視線。大型トラックやらスポーツカーが何台も集まっているこの駐車場でも一際存在感を放っている、蒼い猛禽類の姿がそこに在った。
 
  GSX1300R『隼』。
 
  車とバイクについては乗れればいいや、というレベルの知識しかないおれでも存在を知っている、特徴的なフォルムを持った自動二輪である。おれが先程双眸と見間違えたウィンカー、誰が見ても嘴を連想するであろうフロントカウル。爆発的な加速を期待させてくれるエンジン。一度火を入れれば、容易く時速百キロ以上の世界まで加速してのけるだろう。そして官能的なフレームを挟みこむ、細い脚。
  脚?ってそりゃそうだ。バイクがあるなら乗り手が居るわな。脚を辿って視線を上に移動させたおれは――二秒前にこれほど衝撃を受けたはずの隼のフォルムを、綺麗に脳裏から吹き飛ばされていた。
「……やっぱ実地で成果を出せないセンサーなんて何の意味も無いよなあ」
「あの、何か?」
  まあ落ち着けおれ。一つ深呼吸。はあ、すぅ。大丈夫。もういいぞ遠慮するな。
  ……オウ、イェ、AHHHHHHHHH!!
  極上の美女が、『隼』に跨っていた。
  いやもうなんてぇか!『隼』を従えるそのスラリとした長身とか!プロテクター入りの無骨な皮のジャケットの下から脳内補完で浮かび上がるメリハリの効いたボディラインとか!腰まで届く長い黒髪とか!モデルか女優で通りますって顔とか!それでいて隣のお姉さん的な気さくな雰囲気とか!!……ああ、なんつうかもうこれは凶器ですよ先生!?おれ・的・直・球!!そりゃカウント2−0でも迷わず振りに行きますわ!!呼吸の度に叫んでやるさ、オウ、イェ、AHHHHHHHHH!!
「……楽しそう、ですね」
  深夜のサービスエリアで奇声を絶叫するおれに、おねいさんは呆気に取られた態。そんな表情もまた悩ましい。ちなみに、そんなおれの奇行も人目を引く事は無かった。おねいさんが周囲の視線を充分以上に引き付けまくっていたので。
「あ、あの……亘理さん、ですよね?」
「Yes!Iam!!」
  どこぞのエジプト人張りに力強く応えて前進、おねいさんの両手をとる。おねいさんが怯えたように身を竦ませる、その大人びた表情と初々しい反応とのギャップががが、もう、ぐふっ。
「派遣会社フレイムアップのエージェント、亘理陽司です。今回はご一緒できて光栄です」
  破綻した人格を強制シャットダウンして非常用のバックアップでどうにか対応する。バックアップのバックアップとは笑い話にもならんが、この際そんな事はどうでもいい。
「……は、はい。鹿毛かげ玲沙れいさと申します」
「OH!玲沙サン。イイ名前デス!」
  ガイジン口調でトークするおれ。ん?レイサ?どっかで聞いたような……?
オーストリッチ・メッセンジャーサービスO・M・Sから派遣されてまいりました。今日は……」
「おおう!あの国内どこでも最速確実にメッセージを届けるバイク便の!いやいやこちらこそよろしくお願いします」
  馴れ馴れしさMAXで手をぶんぶんと振る。ていうか、これはアレだ。先生、アレを期待してイインデスヨネ?ヨネ?
「その……じゃ、じゃあ、行きましょうか。時間も無い事ですし」
  言うや、『隼』のタンデムシートに視線を注ぐ。おれはメットをかぶり、躊躇せず跨る。もともとこのキャリングケースはOMSのものらしく、『隼』の後部に取り付けてあった金具に容易く取り付けることが出来た。そして期待通りふふふふふあははははははははははは!!
「あの。じゃあ、出発しますから。つかまっていてくださいね」
「はい!それは!もう!!非才なる身の全力を持って!つかまらせて頂きます!!」
  垂れ落ちそうになる顔面筋を必死に維持しつつ、その信じられないくらい細い腰に手を回し、メット越しに髪から香るコロンを過呼吸になりそうな勢いで嗅ぎ集める。そんなおれの様子に戸惑いながらも手馴れた様子で髪をまとめてメットをかぶった玲沙さんはキーを捻り、その獰猛なしもべに火を入れる。
「…………っ」
  流石に浮かれた気分が一瞬吹き飛ぶほど、重い唸りが鼓膜と腹から伝わってくる。あれ、ちょっと、
「行きますよ」
  ギアが跳ね上げられ、クラッチがつながれる。心臓で生み出された膨大なエネルギーを丸い翼に叩きこまれ、猛禽は狩りに向けて羽撃たく。
「こ、れっ!」
  芸術的な加速に、準備していたにも関わらず首が後ろに持っていかれそうになる。反射的に強く腰にしがみつく、その感覚を堪能する間もなく、視界が転回する。素晴らしく小さな内径でターンを一つ、おい、遠心力で一瞬腰が浮、そのまま出口に向けて、弾丸は放たれた。
「は、や、す、g」
  ぎ、の文字は凄まじい勢いで後方に流れる側壁に千切れて消えた。ヌルさを急速に空冷されていった脳が、業界に伝わる一つの『二つ名』を今更ながらに思い出していた。
  レイサ。『剃刀レイザーエッジ』。
  林檎の皮を剥くが如く、死線の直前にある最短のラインを削いでゆく、最速のバイク使い。東名高速を二時間で走破したという噂もある。ホーリックの編集者もとんでもない伝手を持っていたものである。暗闇の中に飛び込んでゆく片道切符の弾丸に乗ってしまった、という現実から逃避するためか。そんな情報を、おれの脳の一部がいやに遠くの視点から冷静に思考していた。
 
 
 
 

 ◆◇◆ 6 ◇◆◇

 
 
  慣性の法則とはありがたいものだ。どれだけ速く移動しようと、一定の速度で移動している限りはとりあえず体に負担はかからない。前方の玲沙さんの体の傍から吹き抜ける嵐のような風の壁がなければ、だが。殺人的な急加速が収まった後、おれはどうにか自分の状況を落ち着いて確認することが出来た。
  おれの今見ている光景を何と説明したものか。
  理性ではわかっている。おれは今、中央高速道の上り車線を、ステキな美女とタンデムで疾走している。それは間違いない。だというのに。
  何で次々と『対向車』が向かってくるのか。それも『後ろ向き』に。それをごく僅かに重心をシフトするだけで次々とかわしてゆく玲沙さん。なるべく考えないようにしていた質問を、おれはついに口にした。
「あの……!これ何キロ出てるんですか……!!」
  ヘルメット内には『アル話ルド君』と直結した、ノイズフィルタリングをリアルタイムで施すヘッドホンが内蔵されており、滝の中にいるようなこの轟音の下でも驚くほどクリアな通話が可能だ。
『私、その。子供の頃ヒーローに憧れていたんです』
  メット越しに帰ってきたコメントは、おれのHowManyの質問への回答ではなかった。その質問に何か言い知れぬ不吉な影をひしひしと感じつつ、おれは耳を澄ます。
『女の子がヒーロー好きって、ヘンですよね』
「いえいえゼンゼンそんなことナイッス」
  メットから聞こえて来たのは苦笑、だろうか。
『特にバイクに乗ったあのヒーローが大好きでした。いっつもお兄ちゃんの持っていたマンガ雑誌を何度も繰り返して読んでいたんです』
  すっ飛んでくるタンクローリーを軽やかに回避。
『そこに出てくるバイクが本当に大好きでした。ずっと思っていたんです。百キロとか百五十キロとかじゃなくて、マンガに書いてあるくらいの速度で疾走ってみたらどんなに胸が熱くなるだろう、と』
  待ってください。それってまさか、
『結局、夢を叶えるためにこの仕事を選びました』
  現在進行形で叶えているってわけデスカー!?
  答えは前方に迫ってくる業務用の大型トラック。相対速度で考えれば、並走する車と百キロ以上の速度差があればこういう現象も出現しうるのかもしれないが、いやしかし、
『『追跡者』より『剃刀』へ。どうだ、調子は?』
『こちら『剃刀』。諏訪SAを出発して今、諏訪ICを通過しました』
「……お久しです、見上さん」
『やあ、亘理君か。元気でやってるみたいだな』
  ヘルメットから響いて来たのは、今回の作戦に参加しているうちのチームの四人目の声だった。出版業界専属のエージェント、『机上の猟犬ハウンド・オン・テーブル見上みかみ柏錘はくすいさんだ。この人とはおれはかつて、ある遅筆で有名なベストセラー小説家の失踪事件が発生した時、一緒に仕事をしたことがあった。この度はその能力を買われ、おれ達のチームの指揮役を務めている。
「どうも。そっちも相変わらず、小説家と漫画家の恐怖の対象のようで」
  ここで減らず口を叩くのは最早おれ自身の意地である。
『ウム。俺の『遠隔視』ある限り、何人たりとも〆切から逃れる事は出来ん』
  過去数多の作家の一縷の望みを断ち切ってきた重々しい断言を電波に乗せる。
  見上さんの能力は『遠隔視』。テレビの特番なんかでよくあるあれだ。世界最高の超能力者とか肩書きのついた外国人のオジサンオバサンが、自宅に居ながらにして過去の殺人事件の現場や行方不明者の居場所を霊視(番組によっては透視とも言うかな)して、スケッチしたりするって奴。ああいう番組に出演する能力者もイカサマ師から本物まで玉石混合だが、見上さんのは正真正銘の本物。特定した対象の現在位置を、まるでGPSのように正確に把握することが出来る。どうやって把握しているのかはおれも知らない。見上さん曰く、訓練や怪しげな魔術ではなく、先天的に生まれ持った能力、とのことだ。そして、それを他人に説明するのは非常に難しいらしい。こういう言い方はちと良くないが、生まれつき目が見えない人に、”色”という概念を説明するようなものなのだそうだ。
  彼がエージェントとしての経験も長く、修羅場でも冷静な判断が出来る事をおれは知っていた。今回のような彼我の位置関係が重要な任務に、見上さんが司令塔として控えてくれているのはとても心強い。
「先方に動きはありましたか?」
『ああ。敵サンはルールどおり、君達より大分前に諏訪ICから上がっている』
『車種はわかりますか?』
  玲沙さんが会話に加わる。
『そこまでは俺にも視えん。だが四輪なのは間違いない』
『加速と小回りより堅実性を重視してきましたか。いずれにしても、じきに接触することに、』
  そこまでで玲沙さんは一旦コメントを切った。
『亘理さん』
  おれには首を上げる余裕などなかったが、それでも何が起こりつつあるかは容易に推測できた。ついに戦端が開かれたのだ。
 
 
 
  追い越し車線を維持していた玲沙さんの『隼』が、突如車体を倒し、右も右、中央分離帯に接触するギリギリのところまで一気に寄せた。近づいたせいで先程より尚凄まじい体感速度で後方に放たれていく灯りと、最早閃光としか認識できない対抗車線のヘッドライトが、おれの脳をかき乱す。前方以外はなるべく見ないようにしているはずなのに、大きく体が斜めに傾いだことで、超高速で疾走するアスファルトが視界に嫌でも飛び込んでくる。
  もみじおろし。
  そんな言葉が脈絡もなく脳裏に浮かんで途端に泣きたくなった。だが勿論涙腺から体液を分泌するような悠長な時間は与えられなかった。『隼』が空けた空間を、けたたましいブレーキ音を響かせて鋼鉄の分厚い箱がえぐってゆく。先行していた敵さんの車が、おれ達をバックミラーに捕らえると同時にブレーキを踏んで衝突を狙ってきたわけだ。向こうはムチ打ち、こちらはもみじおろし。それで全ては決着ってとこか。ったく、随分と思い切りのいい野郎だな!怒りが一瞬恐怖を退け、おれは敵を見やった。
  トヨタ・クラウンアスリート。
  それだけでおれは、まだ顔も見ない敵を嫌いになる事に決めた。玲沙さんが回避に入った時点ですでに再加速に移行していたのだろう、たちまち加速は負から正へと転換。丁度おれ達と何秒間か並走する形になった。クラウンの運転席の窓は……開いている!
  烈風吹き込むはずの車内。その助手席には、『隼』の後部に取り付けているものと同じケースが確かにあった。そして、窓からおれ達を見やる運転手――壮年の男――の顔は……笑っていた。猛烈にイヤな予感。そしてそんな予感はバッチリハズレるわけがない。運転席から男の右手が伸び、その手にあるものをこちらに見せ付ける。
「ベアリング!」
  もちろんそれは精密工業用品としての意味合いではない。その技術を応用して地雷に混ぜ込み、人を殺傷するためだけにばらまかれるロクデナシの鉄球のことだ。こういう時に途端にピンと来てしまう自分の人生にちょっと落ち込む。おれの叫びを耳にしたのだろう、玲沙さんが『隼』を立て直すと再び一気に加速する。
 
 
  ……お初にお目にかかる。『包囲磁針マッド・コンパスかずら 剛爾ごうじ
 
 
  男の唇が確かにそう動いた。途端、男の手から無数のベアリングが掻き消える。その行く手は。
「追ってくる!」
  悪夢のような光景だった。失禁寸前の速度でぶっ飛ばしているはずのこのバイクに、まるで砲丸のような速度で宙を飛び喰らいついてくる、黒焼きの入ったベアリング。相対速度を考えれば、こいつらはとんでもない早さですっ飛んでいる勘定になる。夜の闇の中、視認する事さえ至難の刺客の襲撃だった。
  だがおれの絶叫など聞く前に玲沙さんは行動に移っている。その細い右腕から叩きこまれたアクセルに『隼』が雄叫びを上げ、一段と羽撃きが力強さを増した。おれはもはや色欲を彼岸の彼方に投げ出した態で玲沙さんの腰にしがみつく。玲沙さんのテクニックは極上だった。吸い寄せられるように飛来してくるベアリングを、ぎりぎりまで引き付けてスラロームの要領で回避。慣性を殺しきれなかったベアリングは、あるものはアスファルトに、あるものは側壁に叩き漬けられて四散する。闇に沈んだ中央道に一瞬青白い火花が散ったはずだが、それすらも認識する余裕などおれ達には許されない。視界いっぱいに広がる前方のダンプカーを『薄皮を剥くように』回避する。たちまち開く相対距離。おれは振り返り、トヨタクラウンが後方に小さな姿となった様を確認し安堵した。
  とりあえずは距離は取れた、はずだが。
『原稿の前半部分はその車の中にあるはずだ。何としてもそこから奪取するんだ』
  無情に響く指揮者殿の声。確かにこのまま逃げ切ったところで勝利はない。では、どうすればいい?
『亘理さん、お願いします』
  ……ま、そうなるんだろうな。指揮者と運び屋がそれぞれの役割を果たしている以上、『万能札』としても期待に応えねばなるまい。例えそれが回数制限付きだとしても。
  意識を内面に飛ばし、抽斗から古ぼけた鍵を引っ張りだす。悪いが今回ばっかりは先行逃げ切り。出し惜しみなし!
 
『亘理陽司の』
 
  ふん。俺は嘲弄する。跨った鉄馬から上半身を捻り、猛追してくる鉄の箱を視界に収める。鉄馬の騎手は俺の意志を汲み取ったのだろう、速度を落として奴の接近を促した。
 
『視界において』
 
  瞬くうちに距離が縮まり、鉄箱に収まった男の顔と視線が合う。不遜な男だ。俺は唇を吊り上げた。そのままその横、鉄箱の中の箱に目を移す。
 
『四角き双子の』
 
  捻った左の掌を、鉄馬の後部の箱に添える。速度、状況。ここまで状況が困難を極めていると、枝葉を禁じて都合の良い因果を導くのは容易ではない。だが、
 
『離別を禁ずる』
 
  単語の方が強力に限定出来たため、俺は十二分に強固な鍵をかける事が出来た。男が驚愕した。突如路面に現れたのは、朽ち果てた角材。恐らくは前を走る鉄の箱が落としていったものだろう。俺に気を取られていた男はそれを回避する事が出来なかった。たまらず乗り上げ、箱が大きく右へと傾ぐ。それでも即座に体勢を立て直した所は褒めてやろう。だが、慣性に従って飛び出した箱にまでは気が周らなかったようだな。
  それはまるで、意志をもった小動物のように鉄の箱の中から飛び出し、主人の懐に飛び込むかのように俺の右の掌に収まった。無論それは小動物でもないし、ここは愛玩動物と戯れる平穏なる庭先ではない。百万回やったところで成功するはずのない曲芸。だが、例えば一千万回挑戦すれば一回成功しうる可能性があるのならば――その為しえる『一回』以外の世界を全て封殺してのけるのが、この力。『鍵』のまずは小さな使い途だ。そして大きな
「……〜〜痛ぅ。出し惜しみなしったって、お前が好き勝手しゃべっていいってわけじゃなんだがな」
 
  おれは仏頂面で、襲ってくる極大の歯痛にも似た苦痛に耐えた。途端に崩れそうになる姿勢、だがまるで後ろに目がついているかのような玲沙さんのバイク捌きがおれを補佐した。背骨を限界までねじり、後部に取り付けられたケースの上に、もう一個のケースを固定する。金具が音を立ててはまり、おれは一つ、車上で大きく息をついた。みるみるうちに男の乗ったクラウンはおれ達から離れてゆく。
「勝利条件その一ゲット。このまま一気に逃げ切りましょう」
 
 
 
 

 ◆◇◆ 7 ◇◆◇

 
 
  おれ達が夜の中央道で、本人達は至って真剣な、そして傍から見れば迷惑かつ滑稽極まりない戦いを繰り広げていた頃。
 
  その目標地である東京千代田区神田の喫茶店、『古時計』では、一見西洋人と見まがうばかりの見事な銀髪と彫りの深い顔立ちのマスターが、熟練の手さばきでコーヒーを淹れていた。神田と言えば書店街が有名である。ここも普段は、近くの書店で買った本をじっくりとコーヒー片手に読み耽るお客のために開かれている店だが、いまこの時は若干様相が異なっていた。本来は閉店している時間だが、今夜だけは特別に早朝まで営業を続ける事になっている。落ち着いた雰囲気の店内で、それぞれ一杯目のコーヒーを飲み干そうとしているのは、二人の男と一人の女性だった。
「……で、今のところどちらが優勢なのかね」
  ゆるやかな時間を楽しむための店内で、こつこつと忙しなくテーブルを叩き野暮な雰囲気を作り出しているのは、五十過ぎの中年の男だった。深夜を過ぎてもスーツ姿なのは、職場ではともかく今この場では随分と浮いて見えた。
「連絡によれば、そちらのエージェントが原稿を両方とも所持されているとか」
  淡々とコーヒーを味わいながら、『フレイムアップ』の嵯峨野浅葱所長は答える。本来片方のチームにメンバーを派遣している身として中立の立場ではないのだが、この度、両サイドの当事者から請われたため、立会人としてここに居るのだ。
「そうか、それはでかした!『ミッドテラス』め、役立たずがが雇ったのはやはり役立たずだな!」
  下品な笑い声に、マスターがわずかに顔をしかめた。わかりやすいと言えばわかりやすい反応を示すこの中年男は、ホーリックの現編集長である。造反して『ミッドテラス』を立ち上げた先代の編集長に替わって就任した男で、もとはビジネス誌を担当していた。もっとも、経済に対するセンスなど皆無で、その昇進の理由はひたすら社長に対して言ったイエスの回数と下げた頭の回数に拠る。そんな情報を脳裏に納めつつも、浅葱所長はあくまでも業務用の表情を崩さない。
「なあに、安心しろ伊嶋ァ。俺が勝ったら、ちゃんと『えるみか』はお前達のところに渡してやるさ。ロイヤリティつきで、な」
  俺達、ならまだしも俺、という一人称に、この男の器が良く現れている。
「いつまでも上司面はやめてください。かつてはともかく、今は同じ編集長ですからね」
  対するもう一人は、いかにも普段私服で仕事をしているといった雰囲気の三十代の男だった。伊嶋勝行。かつて、何人もの有望な新人を発掘し、『あかつきマンガ』の立役者となった男だ。『えるみか』の作者、瑞浪紀代人も彼が発掘したのである。
「裏切り者がでかい面をしおって。あの気持ち悪いマンガを売り払ったら、お前達なぞ……」
  それ以降の罵倒はさっさと耳から遮断し、浅葱所長はコーヒーのお代わりを頼んだ。
  今回の勝負で、彼女達『フレイムアップ』が協力しているホーリックが勝利した場合。『えるみかスクランブル』の著作権はこれまで通り、すべてホーリックに帰順する。だが、誰にも未だ知られていないことだが、それから数ヶ月後には『えるみか』は『あかつき』ではなく『ルシフェル』に掲載されることになるのだ。ただし、あくまでも『ホーリックの作品を、ミッドテラスが掲載する』という形で。そこには膨大なロイヤリティが発生するはずで、結果、邪魔者を追い出しつつ利益を確保できるホーリックは万々歳、ということになる。
「まだ勝負はこれからだ。瑞浪のためにも、あんた達のやり方の下でいつまでも『えるみか』を描かせ続けるるわけにはいかない」
「ふん、どうせ勝てたところで、『えるみか』から名前を変えるんだろうが」
  編集長の指摘に、伊嶋が歯をきしらせる。
  『ミッドテラス』が勝利した場合、瑞浪紀代人氏は晴れて自由の身となり、『ルシフェル』で描くことも出来るようになるだろう。だが、すでにアニメ化され、単行本も無数に出ている『えるみかスクランブル』という商標は動かすことが出来ない。『あかつき』で露骨に打ち切られた他の連載も、『ルシフェル』で再開させるに当たっては、タイトル名を変えたり、一部設定を変えたりするような苦しい措置を取らされているのだ。人気作品である『えるみか』に取って、その手の『世界観が壊れる』ような真似は読者離れを招きかねない。出来ればやらせたくないと言うのが、伊嶋の本音ではあった。だが。
「そろそろ来たようですね」
  浅葱所長のコメントに、男二人の視線がドアに向く。ドアベルが済んだ音を立てて、そこに二人の女性が入ってきた。
「遅いぞ、弓削!」
「失礼しました」
  先日と変わらない鉄仮面で上司の罵倒すら跳ね返し、続く女性に声をかける。緊張した面持ちで入ってきたのは、まだ二十代前半の、世間慣れしていなさそうな女性だった。
「瑞浪くん……ひさしぶりだね」
「は、はい。お久しぶりです、伊嶋編集」
  彼女、人気漫画『えるみかスクランブル』の作者瑞浪紀代人……本名水野紀子が、眼鏡の奥から上目遣いにかつての編集者を見やる。
「瑞浪先生、会社を辞めた奴を編集と呼ぶ必要はない!」
  一応『先生』と敬称をつけているが、小娘を怒鳴りつける中年の横暴さそのままだ。すくみ上がる瑞浪さん。
「こちらへ」
  そんな情景をまるきり無かったかのように、弓削かをる女史は瑞浪さんをテーブルに着かせた。浅葱所長が二人にお絞りを手渡しながら聞いた。オーダーを聞いたマスターが手際よく珈琲を淹れる。新たな豆の香りが店内に加わった。
「松本からどうやってここまで?」
「タクシーと長野新幹線の終電を使いました。それにもともと、原稿を仕上げてから競争の開始まで、鶫野さんに二時間ほど待ってもらいましたから」
「今、彼らは小渕沢を過ぎたあたりで、原稿は、ホーリック側に両方あるようです」
「そう……ですか」
  答えたのは瑞浪さんだった。明らかに気落ちしており、彼女がどちらの出版社で働きたいのか、という本音を雄弁に物語っている。
「改めて確認します。このレースに勝利した側の編集者が、『えるみか』と瑞浪の身を預かる。それでよろしいですね?」
  浅葱所長がうなずく。ホーリック編集長がニンマリと笑い、最後の一人の伊嶋編集長が、不承不承、という態でうなずく。そして、
「弓削君」
  たまらず声をかける。
「君は本当にそれでいいのか。君の希望は」
「作家にとってベストの環境を確保する。それが編集者の仕事と教えてくれたのはあなたです」
  ぴしりと言い放つ。背後の瑞浪さんが、本当に泣き出しそうな顔で担当編集の背中を見つめた。
  マスターが次のコーヒーをじっくりと淹れる音だけが、店内に響いていた。
 
 
 
 

  ◆◇◆ 8 ◇◆◇

 
 
『よくやった亘理君!玲沙くんはゴールまで一気に向かってくれ。私も車で合流する』
『了解しました』
  例え依頼人や依頼内容が気に食わないとしても、一度現場に出ればあとは任務達成に向けてやるべき事をやるのが派遣社員と言うもの。まったく、給料の給の字に入っている”糸”は、しがらみの意味ではなかろうか。
  ともあれ。一旦こうなってしまえば、加速に勝るバイクの有利が効いてくる。もはや奴はおれ達に追いつけないし、残り三人のエージェントも、数百キロで移動するバイクにはおいそれと手が出せるものではないはずだ。このまま一気に勝負を決めてしまう事は充分に可能なはず。再びかかるG。いささか余裕を取り戻したおれは、玲沙さんの腰にがっちり腕を廻して密着姿勢の維持につとめた。
『噂には聞いていましたけど、凄いんですね』
  玲沙さんの声が、背中とメット越しに伝わってくる。
「なははははは!この程度、ビフォアブレックファストってヤツッスよ!ちなみに本気になればこの三倍くらいは容易く」
『でも。……なんだか凄く辛そうでした』
  おれはいつものコメントで取り繕おうとして失敗し、間の抜けた沈黙を晒す事になった。
「……いやまあ。ケチってるわけじゃないんすけどね。乱発するといつか手痛いしっぺ返しが来るっていうか、なんていうか」
『すいません、私、変な事言ってしまいました』
「いやいやいや、別にぜんぜん構わないですよ。おれが自分でやってることですし」
  それきり妙に言葉が続かなくなってしまった。気がつけば小渕沢ICを通り過ぎていた。おれ達はいつの間にか長野から山梨県へと入り、先程諏訪湖から眺めた八ヶ岳の麓にさしかかりつつあった。
 
 
  ふと、違和感を感じた。
 
 
  具体的な兆候に気付いたのは、玲沙さんだった。唐突に二度、アクセルを叩きこむ。
「どうしました!?」
  背中越しのおれの声に、緊張をはらんだ声が応える。
『スピードが落ちています!!』
  確かに、それはおれも感じていた。心なしか風景の流れる速度が緩やかになった気がしていたのだ。もちろんそれでも十二分に殺人的だったのだが。
「もしかして、故障とか……?」
  先程までの人外の領域の速度にあれほど恐怖を感じていたと言うのに、減速した途端に不安を覚えると言うのも我ながら理不尽だ。唐突に違和感の正体に思いあたる。右手首への妙な感覚。まるで誰かに手を触れられているような。……そこまで来て、ようやくおれの緩んだ脳ミソが覚醒した。
「……ちぇ、おれも迂闊になったもんだ!」
『きゃ、な、なんですか!?』
  突如自分の腹の辺りでおれが両手をもぞもぞと動かしたため、玲沙さんが驚く。
「相互理解を深めるための前哨戦――と言いたいところなんですがね!」
  ええいもどかしい。四苦八苦の末、右腕から半ばむしりとるように、支給されたダイバーズウォッチを引き剥がす。その頃にははっきりと解る程スピードが落ちており、おれは盤面を見やることが出来た。案の定、それは十分ほど前の時刻で停まっていた。
「どうせならチタン製を支給してくれればよかったのに」
  ぼやくと同時に、後方に向かって時計を放り投げる。それが猛烈な勢いで後方にすっ飛んで行ったのは、もちろんおれにプロ捕手ばりの強肩があったから、ではない。
「追ってきてます!!」
  時計が吸い込まれて行った遥か後方、巧みに車線変更しながらこちらに迫ってくるその姿はまぎれもなく、先程のクラウンアスリートだった。
「”包囲磁針”……磁力使いね。ったく、電磁波で脳に悪影響でも出たらどうするよ」
  今やこちらは時速百キロも出ない状態だった。豆粒ほどだったクラウンはあっという間にその大きさを増し、今や運転手の顔も識別出来る。『包囲磁針』とか言うエージェントは、右腕を窓から突き出し、こちらに向けたまま距離を詰めてきているのだ。
『…………まさか、車体を磁力で引き寄せているんですか?』
「みたいっすね」
  返答に芸がかけたのは勘弁して欲しい。キロメートル単位で離れた場所をかっ飛ばす、時速百キロオーバーのバイクに干渉し運動量を抑止する、なんて、並レベルの能力者に可能な芸当ではない。対策を考える間もなかった。みたび並んだ両者。まずい、まずすぎる。今の状態で先程のようなベアリング攻撃をされたら……!
 
 
  そう、考える辺りが若さか。
 
 
  運転席の『包囲磁針』が嘲笑を浮かべた。そのまま、突き出した右手をひねる。
「しまった!」
  意図に気付いたときには遅きに失した。べきぃん、という金属のへし折れる硬質な音。『えるみか』の原稿、前編と後編を修めた二つのケースは、男の手から放たれる見えない磁力の帯に絡め取られ、固定した金具ごと男の掌の中に納まっていた。
「戦闘中に優先順位を見失うようでは、まだまだ修行が足らぬ」
  男は自分の車内にケースを放り出すと、再び右手を掲げる。
『!』
  玲沙さんの判断は的確だった。一瞬にして動から静へのフルブレーキング。おれは玲沙さんの背中に強く胸を打ちつける形になった。事前に支給されたスーツが、さる事情から耐衝撃性を極限まで高めた特注品で無ければ、冗談抜きにおれの胸骨と彼女の背骨はやられていたほどだ。だがこれがなければ、『隼』はたまらず奴の磁力に引き倒されてアスファルトの染みに化けていただろう。
  ……危機を脱する代償は手痛かった。加速する奴と、フルブレーキのおれ達。当然ながら、そこには距離という、深い深い溝が刻まれる事になった。
 
 
『まだです、まだ間に合います!最高速度ならこちらが上なんですから!」
「ええ!追いましょう!」
  『アル話ルド君』の音声にわすかにノイズが混ざる。オーディオ機器の数十倍の防磁シールドを内蔵しているこの機械にダメージを与えるとは、どれほどの磁力か。本当に電磁波で脳とかやられてないだろうな?幸い、『隼』は玲沙さんの趣向だろう、電装系にはさほど重きを置らず、性能的には問題ないようだった。さっきの急減速の衝撃が内臓にズンと堪えているが、流石にここで泣き言を言うほど修羅場知らずの坊やではいられない。第一、慣性の関係上おれに背中から追突される形になった玲沙さんの方が、体内へのダメージは大きいはずなのだ。再び隼が咆哮し、悪夢のような急加速。だが。
『トレーラー?』
  クラウンとの間に開いた空間に、コンテナを背負ったトレーラーが走っていた。威圧感すら感じさせる大型のトレーラー。それは、今まで似たような車を何台も追い抜いてきたおれ達にとって、ただの障害物のはずだった。だが。先行車両に過ぎなかいはずのトレーラーは、まさにおれ達の進路を塞ぐように割り込んでくる。……おい、ってことは、まさか。
『気をつけろ!そのトレーラーは須玉ICから上がってきている。敵の増援の可能性が高い!』
  見上さんの声に、おれは気のない返事。
「……高いも何も。たった今ゼロサムで証明されましたよ」
  さもありなん。何せ、おれ達の目の前で、ばかんと音を立ててコンテナの扉が開いたのだから。『隼』のヘッドライトが照らしたその中には。
  がらんとしたコンテナの中、不敵な表情を浮かべているに違いない、バイクに跨った二人組の姿があった。
 
 
 
 

  ◆◇◆ 9 ◇◆◇

 
 
  トレーラーの速度に強制的に合わせられる形で、『隼』は時速八十キロ程度まで減速させられていた。そのはるか向こうにいるはずのクラウンとの相対距離が離れれば離れるほど、おれと玲沙さんの胸中には焦りが降り積もってゆく。八ヶ岳の麓、昼ならさぞかし美しい夏の緑を堪能出来たであろう中央道の上で、金で雇われた四人のエージェント達は対峙していた。
  玲沙さんにしてみればトレーラーを追い抜くのは容易い。だが、当然相手がそれを見過ごしてくれるとは思えない。しかし時間が経てば立つほどこちらは不利になる。進むべきか、待つべきか。
  と、そんなおれの逡巡を切り裂いて轟く、鋼鉄の唸り声。おれは咄嗟に視線を上空へ向ける。人間が幾ら速く地を走ろうと、ただ空に動かず在る月を横切って――バイクが宙に舞った。異様な光景に音が消えたような錯覚を覚えた後。後方にどず、と鈍い音。そして、急速に迫り来る硬質のエンジン音。
 
  敵の跨ったバイクが、トレーラーのコンテナに停止した状態から急加速してジャンプ、なおかつ空中でターンを決めながらシフトアップして着地したときには既にこちらを追跡する加速体勢に入っている――おれが今見た光景を第三者的に分析するならそういう事だ。だがしかし、敵は二人乗り。しかもアレはジャンプに適したモトクロス用なんかじゃ断じて無い。水銀灯を反射して艶めかしく輝く、紅と緑の斑に塗装された車体。小さな頭部状のフロントカウルから突き出す大きな一つ目のヘッドライト。剥き出しの骨格を思わせるフレーム。おれはなぜか南に棲む獰猛なカミキリムシを連想させられた。
 
  YAMAHA XJR1300。
 
  その型番を知る由もなく、考える暇はさらになく。おれ達はたちまち迫り来る新手、フルフェイスヘルメットとライダースーツに身を包んだ二人組との死闘を演じる事となった。
「……っと!」
  『カミキリムシ』が突如その釜首をもたげた。前輪を引き上げる、いわゆるウィリー走行という奴だが、おれの目にはまさしく、腹を空かせた虫が獲物を捕食せんとする様に見えた。その前輪で押しつぶすつもりかよっ!?
  咄嗟に『隼』は身をかわす。ギロチンさながらの勢いでおれの傍らを落下してゆく前輪。だが、奴らの狙いは最初から直接の攻撃ではなかった。
「くそっ!」
  おれは悪態をつく。回避のために体勢を崩した『隼』の隙に漬けこみ、あっという間に『カミキリムシ』が前方に割り込んだのだ。
  ラインを塞いだ途端にスピードを落とす『カミキリムシ』。それに衝突されるのを嫌って『隼』もスピードを落とさざるを得ない。
  物騒極まりない積荷を路上に放り出したトレーラーがゆっくりと、だが確実に加速してゆく。時速百キロオーバーとはいえ、先程までのおれ達のスピードに比べれば他愛も無いものだ。だが、今の『隼』は、前方を塞いだ『カミキリムシ』に完全にその翼を殺されていた。たちまち、前方へと流れてゆくトレーラー。
 
 
  『隼』の走行を遮る位置をキープし、時速百キロ未満の速度で車体を小刻みに揺らす『カミキリムシ』。連中の意図がおれ達の足止めに在る事は明確だったが、だからと言って容易に突破させてくれるものでもない。
「このっ……」
『しゃべらないで』
  簡潔極まりない玲沙さんの指示の後、怒涛の如くに視界が傾いた。
「……っ」
  たちまち彼女の指示の理由を明確に理解する。迂闊に口を開けば舌を噛み千切りかねない。まるで難破船から嵐の海に投げ出されたようなとんでもない左右の揺れ。玲沙さんがアスファルトすれすれどころか皮一枚まで身を乗り出す無謀なまでの体重移動で、右から左からラインを伺う。だが敵もさるもの、巧みにこちらもラインを塞いで、決して前を譲ろうとはしない。さながら剣豪の鍔迫り合いの如く。甲虫と猛禽は見えない一本の線を巡り火花を散らした。互いの爪を、牙を掻い潜る。ひとたび動作を誤ればたちまち路面に呑まれて消える物騒な狩場で、捕食者達は互いの存在意義をかけて戦い続けた。
  相手のドライバーも相当な腕だ。……いや、違うか。不幸にも多くの規格外の人間を見てきたおれにはなんとなくわかる。あれは操縦が上手いのではない。操縦者本人の反射神経と腕力とで無理矢理車体を振りまわしていると言った方が正しい。『隼』を手足のように使いこなす玲沙さんとはそこが決定的に異なっていた。腕だけなら間違いなく玲沙さんが上だろう。だが悲しいかな、今は体重移動の手伝いも出来ない余計な荷物が彼女の腰にぶら下がっている。
  切り返し、加速、急減速。ウィリー。
  韮崎ICの看板が過ぎ去る。車線を変え、速度を変えながら続けられた現代の早駆けは、既に距離にして二十キロに達しようとしていた。無言のまま極限まで集中を高め、アスファルト上にある蜘蛛の糸のような理想のラインを辿る玲沙さんにおれがしてやれる事は、余計な計算要素を増やさないよう、せいぜいしっかりしがみついて荷重に徹する事だけだった。
  前と左右への激烈かつ連続した移動に、三半規管は先程から絶叫しっぱなしだ。だが悠長に乗り物酔いを発症させてやるほどおれの神経系に余裕は無かった。面倒な生理作用は全て副交感神経に一手に押し込め――全部終わったら盛大にゲロ吐いてすっきりしよう――おれはもう一人の敵、タンデムシートに座ったもう一人から目を離さないように務めていた。馬と騎手の性能がほぼ互角であれば、乗せられている人間の性能に全てがかかってくる。ここからは華麗なドライビングテクニックではなく、珍走団よろしい車上の殴り合いがものをいう世界になる。だが。頭にちりちりと走る不快な疼き。くそっ、さっき車の中から原稿を奪い取るためにおれは景気良くカードを切りすぎていたようだった。霞む目でどうにか敵を見据える。と、
 
  後部座席の敵が、立ち上がった。
 
  文法的に何ら間違っていない。立ったのだ。取り付けられたタンデムステップに両足を乗せたまま、両足で車体を締め付けるようにして。もちろん『カミキリムシ』は停まってなんかいない。トレーラーがはるか前方に過ぎ去った後、徐々に加速し、今や時速百キロ以上で激しくおれ達とラインを鬩ぎあっている、その中で、である。激しく左右に傾ぐ車体に、まるでスノーボードを楽しむかのようにぴたりと脚を吸いつけている。……おいおい。いくらなんでも船頭さんが揺れる船の上で立っていられるのとは次元が違うんだがなあ。
  出来損ないの特撮じみた光景。そんな中、おれは今更ながら、男が何か細長い筒を背負っている事に気がついた。建築デザイナーが図面を納めて持ち歩くような筒。と、おれの視界の中で奴は悠々とその蓋を開け、手を突っ込み……三本の棒を取り出した。そして、それぞれをねじ込んでつなげてゆく。おれは玲沙さんの激しいライン取りに視界を激しく揺らされながらも、その光景からは目が離せなかった。
  やがて。
  男の両手には、長さ二メートルを越える『槍』が握られていた。比喩表現ではない。本当に、大河ドラマで大鎧を着た武将が振り回すかのような、一本の槍。
 
 
『気をつけてくれ亘理君!!そいつは多分『貫影』という槍使いだ!馬上槍を専門として扱う流派で、馬上、船上、殿中何処でも必殺の一撃を繰り出してくるぞ!』
「玲沙さん!」
  その言葉を情報として脳で咀嚼すると同時におれは叫ぶ。そして無理な姿勢からありったけの力をかけて首を沈めていた。メットから響く乾いた音。狙われたのはおれの方。槍の穂先がかすめたのだ。
  続く第二撃を予想し全身を強張らせる。だが衝撃は来ず、事態に気付いた玲沙さんが咄嗟に減速し、左車線をキープする。今まで玲沙さんが芸術的なラインで少しずつ詰めてきた距離を、一気に放棄して、だ。おれは歯噛みして槍使い――『貫影』に目を向ける。奴はあろう事か、やはり立ったまま、槍を担いだ状態で、肩を竦めてみせた。
  ンの野郎。っと、いい加減ぶつんと行きそうになるのを必死に押さえ込む。一人ならともかく、今のおれは安い挑発に乗るわけにはいかないのだ。おれの態度が気に食わなかったのか、一撃で仕留められなかったのが気に入らなかったのか。『貫影』は一つ息をつくと、今度はおれ一人を狙って槍を突き出してきた。
「このっ……」
  唯一自由になる右手でなんとか槍を払おうとするが、そんなものバイクの上で直立するなんて離れ業をやってのける達人に通じるはずもない。防御を掻い潜って面白いようにおれのわき腹やメット、肩に穂先が当たる。ライダースーツがなければ血だるまになっているところだ。おれはバランスを崩しそうになるのを必死にこらえる。だがおれは串刺しにされているわけではなかった。例え石突で突くだけでも、本気でおれを弾き飛ばせば『隼』も玲沙さんもまとめて転ばせることが出来ると言うのに、奴はそれをしなかった。……野郎はおれを『小突きまわして』いるのだ。ライダーが女性と見破っておれ一人を道路につき落とそうという魂胆か。まったくいい性格してやがる。だがまあ、女性よりおれを優先したという事実だけは褒めてやらんでもない。
  ……そして、そのせいで決定的な勝機を逸した事実は、大いに嘲笑ってやるとしよう。
 
 
  おれを小突くのに飽きたか、あるいはおれの粘りに痺れを切らしたか。奴が槍を構えなおし本格的な刺突の体勢に移行したのは、まさしく双葉サービスエリアの標識の真下を通過したその時だった。
  だが。
「……!!」
  メットをかぶった『貫影』の余裕に初めてほころびが生じた。突如標識の上から飛来した革紐が、奴の手首に巻きついたのである。咄嗟に奴は引きずられまいとして両脚でしっかと車体を締め付け、『カミキリムシ』の加速を利用して革紐を逆に強く引く。だがそれこそが狙いだった。引っ張られる力を逆利用して、標識の上から人影が高々と跳躍する。月を背負い、空から今度降って来たのは……。
「退屈をガマンして看板の上でずいぶん待ったんだから!ちゃんと強い人とやらせてくれるんだよね!?」
  うちの押さえの切り札だった。その両足が軽やかにアスファルトに接地する。
  とたんに、履いたローラーブレードが鮮やかに夜の中央道に火花を撒き散らした。
 
 
 
 

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