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人災派遣会社シリーズ   製作者:紫電改


小説 『人災派遣のフレイムアップ』 
第3話 『中央道カーチェイサー』


 

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◆◇◆ 10 ◇◆◇

 
 
  状況は混戦の態を示しつつあった。
  勝利条件である前後編の原稿を揃え、現在進行形でゴールに向かって走行しつつある、『包囲磁針』なるエージェントの乗ったクラウン。大きく引き離されながらも、追跡する玲沙さんとおれの『隼』。そして足止めに徹している『貫影』と、バイクの運転手。おれ達に指揮しつつ現場に向かってくれている見上さん。現在両チームとも三人ずつのエージェントが舞台にあがっている。そしておれ達は、最後のカードをここで切った。
「予定が変更になった!とにかくその槍使いを何とかしてくれ!」
  メット越しのおれの台詞は、ただいまローラーブレードで中央道を疾走する女子高生……我がアシスタント七瀬真凛の耳につけた小型インカムに伝わっている。
『いいよ、ボクとしてはこっちの方が大歓迎だからね!』
  言うや、自らの手に巻きつけた革紐をぐい、と引く。そのもう一方の先端を巻きつけられた『貫影』は、真凛がどういうモノなのかを即座に認識したらしく、革紐をこちらも強く引き、油断なくバイク上で槍を構えなおす。ピンと張り詰める、紐と緊張。時速百キロ超で後方に流れるアスファルトの上、槍使いと殺捉者は、危険というのも馬鹿らしい程物騒なチェーン・デスマッチを開催しようとしていた。
 
  本来真凛がここに待ち伏せしていたのは、おれ達が原稿を奪取した後、しんがりとして追っ手を確実に封じ込めるためである。そういう意味では、原稿を奪って先行逃げ切りという作戦は敵味方共通していたわけだ。だが、初戦で先方に軍配が上がってしまった以上、何とかしてここで挽回しなければならない。手持ちのカードを出し惜しみしている余裕はおれ達にはなかった。
  あいつが免許さえ持っていれば、直接クラウンを襲わせるという手があった。だが、機械オンチの暴力娘が停めようにもブレーキがどこかわからない、などと抜かしたため、結局それは断念せざるを得なかったのである。
  戦いの舞台の加速はもはや留まらず、猛禽と甲虫と女子高生は睨みあいながら無数の車両を振りちぎってゆく。抜かれる車の中から注がれる脅威の眼差しなどどこ吹く風といった態で、白兵戦の練達者同士の戦いの火蓋は切って落とされた。
  ローラーブレードが保つ慣性と己の鋭い踏み込みを利して、文字通り滑るように真凛が間合いを詰める。迎え撃つは槍使い。二輪車の上とは到底信じられぬどっしりとした構えから、最短最速の軌道で穂先を突き込む。それを払おうとする真凛、だが穂先は敵の強靭な手首にたぐられ、軌道を変じて腕を弾く。たまらず姿勢を崩す真凛。追い撃つように返しの払い。咄嗟、身を沈めて交わす。一転して好機。まだ死んでいない踏み込みの勢いを利し、さらに一足を滑り込ませ間合いを詰める。と、翻って頭上より落ちかかるは石突。額を撃ち割らんとするそれを身を開いてかわし、結果、詰めた間合いを渋々放棄することになる。車上の『貫影』、悠々。穂先を突きつけ、不動の構え。
  それは現代の騎兵と歩兵の戦いだった。しかもこちらは無手、あちらは槍である。まあ何だ、純粋などつきあいに限定すれば、あのお子様の白兵戦の戦闘力は業界でも特一線級のシロモノだ。道場で一対一の試合であれば、おそらく真凛は『貫影』に遅れをとることはあるまい。だが、この位置の高さと得物の有利は、多少の腕の差など容易く覆す。凶悪無比の真凛も、冷静に槍を捌く『貫影』の猛攻に攻めあぐねているように思えた。
「あのバカ……」
  おれは舌打ちする。真凛はここで大きなミスを犯している。そもそもこのゲームで戦闘に勝利する必要はない。相手を無力化すればいいのだ。極端な話、革紐を巻きつけた時点で相手をバイクから引きずり下ろせばそれで良かったのに。どうやら相手が騎兵と聞いて、正面から打ち破る気になったらしい。
『亘理さん、あれを!』
  玲沙さんのコメントが耳に飛び込み、おれは我に帰った。慌てておれは前方を見やり、前方の路肩――あっという間に視界の前方から後方へ過ぎ去ってしまったが――に、見覚えのあるシルエットを発見した。
「乗り捨てか……?」
  おれは呟く。そこに停めてあったのは確かに、この『カミキリムシ』を載せて走っていたはずのトレーラーだった。このゲームに参加できるのは四人。となれば当然、このトレーラーの運転手が敵の四人目のエージェントでなければならない。おれはそう踏んでいたのだが。
「無人……か」
  すれ違い様に眺めた程度なので確かな事は言えないが、車内はからっぽのようだった。すでに運転手は降りたのか。咄嗟に、待ち伏せしたエージェントの襲撃を予測したが、それは外れた。そのまま何もなく『隼』と『カミキリムシ』、そして真凛は高速道路を疾走してゆく。おれはとりあえず胸を撫で下ろした。どれほど高い攻撃力を持つエージェントでも、十キロと離れればそうそう手の打ち様はないはずだ。さっきの『包囲磁針』のような化け物はさておいて。
『亘理君、聞こえるか』
  友軍の声におれは応える。
「見上さん、こっちはまだ何とか。今、真凛の奴がバイクを引き剥がしにかかっています」
『そうか。すまない、こちらは境川で敵のクラウンを張っていたのだが、強行突破されてしまった』
  くそ、二枚目の伏兵は通用しなかったか。だが仕方がない。もともと見上さんは『遠隔視』を除けばあくまで身体能力的には普通の人の範疇なのだから。
『奴め、運転技術も相当なものだ。今からでも追いつけるのは君達しかいない。私も速度を落として君達を待つ』
『やってみます。合流方法については……ええ。そんなものでいいでしょう』
  玲沙さんの返答。だが、敵のライダーもさるもの。真凛に張り付かれてなお、まだラインを明け渡そうとはしない。くそ、これ以上離されたら取り返しがつかないっていうのに!そんなおれの煩悶を見て取ったか。間合いを離した『貫影』が、右手に握った槍を肩に担ぐ。咄嗟、よぎるイヤな予感。――そこから導かれる次の攻撃は。
「やば……っ!」
  真凛にではなく、自分自身と玲沙さんに向けておれは叫んだ。戦場にて、騎兵は群がる歩兵を一々突き刺したりはしない。彼等に必要なのは敵陣を貫く『突進』と、雑魚を一掃する――『払い』!
  二メートル以上はあるはずの槍。その根元、ほとんど石突の辺りを両の手で握り、己の膂力に任せて『貫影』が振りぬいた。その腕の長さと合わせて半径三メートル以上に達する暴風圏は、真凛のみならず、おれ達の『隼』をも容易く捕らえる。真凛を牽制しつつおれ達を跳ね飛ばせる、一石二鳥の手だ。慌てて真凛がローラーブレードを駆って間合いを離す。そうすれば必定、その穂先はおれ達の方に飛んでくる事になる。当たればバッサリ。だが、無理にかわそうとして転倒でもしてしまえば、もはや『カミキリムシ』を追い抜くのは不可能に近い。
『離さないで』
  玲沙さんの台詞は、字面だけなら涙を流して喜びたいところだが、
「と、とととととぉぉっ」
  当然そんな余裕はない。飛んでくる穂先を、ラインを維持したまま極限まで車体を傾けてやり過ごす。いわば二輪で行うスウェーだ。必死に玲沙さんにしがみつくおれの耳元をメット越しに穂先がかすめる。どうにか、かわしきれたか!?
  その時。車体から突如伝わる、がくん、という嫌な感触。車体の角度が限界を超え……タイヤが横滑りを起こしたのだ!十分の一秒ほどの一瞬、時間の歩みが止まり、脳裏で走馬灯がくるくると周る。……もはや抗いようもない。次の瞬間には、おれ達は高速で流れ去るアスファルトに飲み込まれて消え去るのみだった。
 
  そう、『貫影』が思っていたのであれば、さぞかし当てが外れたことだろう。
 
  必殺の『払い』で目的を果たした安堵か、振りぬいた槍を本来の構えに戻すのが遅れたその一瞬。
『しゃあッ!』
  真凛の快哉を含んだ雄叫びが響く。殆ど地面と並行に傾いたおれを飛び越えて、ローラーブレードを履いた真凛が『カミキリムシ』に襲い掛かった。真凛は先程の『払い』を回避しつつ、『隼』の車体を利用して『貫影』の死角に周り込んでいたのだ。その意図に気付いた玲沙さんが咄嗟に仕掛けてのけたのが、この命がけのフェイントということ……らしい。そんな事にも気付けなかったおれは、臨死体験に心臓が飛び出そうだったが。
  陸上選手のハードル走のような低く無駄のない軌道で、傾いた『隼』を飛び越えざまに右腕を繰り出す。虚を衝かれた格好の『貫影』が慌ててもう一度『払い』を放つ。それでも充分に威力のある一撃だったが、さすがに真凛に繰り出すにはお粗末に過ぎた。
  エンジン音と風鳴りに紛れて、乾いた音が確かに鳴った。真凛が『貫影』の突き出した長柄をつかみ、その握力にモノを言わせてへし折ったのだ。
「よっしゃ!」
  芸術的なカウンターを当てて再び体勢を立て直した『隼』の上でおれはガッツポーズ。こうなれば形勢は一気にこちらへ傾く。三分の一ほど間合いを穂先ごと失った槍では、続く真凛の猛攻を防ぐにはいささか荷が重すぎたようだ。それから数合を経て、たちまち『貫影』はたじたじとなった。ここで真凛が仕留めにかかる。一気に踏み込み加速。懐に滑り込んだ状態から、剣の如く上段回し蹴りを振るった。剣の如く、とは誇張ではない。それはローラーブレードによる斬撃。摩擦で十二分に加熱された強化セラミックのホイールが刃と化して、『貫影』のライダースーツを切り裂いた。たまらず傾ぐ敵の体。確実に獲った!とおれは再び心の中でガッツポーズ。……唐突に、自分の格好が先程の『貫影』と良く似ている事に気がつき、ぎょっとする。
 
  ――真凛に油断があったとは言わない。だが、強者との戦闘を目的とするあいつ自身の趣向が、判断を誤らせたのは事実だろう。敵はあいつよりはプロ意識があるようだ。すなわち、勝てない相手なら、相打ち覚悟でも排除しておくことが、全体の勝利につながる。
  『貫影』の体が傾いたのは、態勢を崩したからではなかった。むしろその逆。態勢を整えたのだ、跳躍するために。――おりしもそこには、我々がラインをせめぎあいながら今まさに追い抜こうとしている大型タンクローリーがあった。『カミキリムシ』が大きく沈みこみ、『貫影』の跳躍の反動を受け止める。高々と空を舞った奴は、そのまま危険な液体が満載されたタンクの上に危なげなく着地した。チェーン・デスマッチを挑んだ以上、真凛に可能な行動はひとつしかなかった。張り詰める革紐の方向に合わせて跳躍。だが、あいつの履いた十分に加熱されたローラーブレードは、タンクの上に着地するのは危険すぎる。空中で一回、タイヤの泥除けを蹴って距離をとり、こちらは運転席上の屋根に着地した。
『……ごめん陽司。のせられたみたい』
  デスマッチはまだまだ終わらない。だが、たかだか時速百キロ程度で走るタンクローリーは、加速し続ける『隼』と『カミキリムシ』に抜き去られ、すでにはるか後方にあった。あのまま戦い続けても『貫影』は真凛に勝てないかもしれない。だがゲームの上ではまさしく相討ち。二人とも今夜中にこの舞台に戻ってくる事は出来ないだろう。『貫影』はいともあっさりと、うちの切り札を見事に無効化したのだ。
「まだまだまだ正調査員への昇格は遠い。戦闘中に優先順位を見失うようじゃ、な」
  おれは独創性あふれるコメントを返す。
『ごめんなさい……』
「でもま、良くやったさ。まだカードはお互い三枚ずつ。後はおれ達に任せとけ」
  ヤセ我慢ヤセ我慢。実際のところ、戦闘能力に乏しいおれと見上さんで玲沙さんのフォローをやりきれるか、と問われれば返答に詰まる。だが一度オカネをもらってしまった以上、その程度の悪条件で降りるわけにもいくまいて。それに、もうちょいキツイ条件で仕事をこなしたことも無いわけではないのだ。『人災派遣』は伊達じゃない、ってところか。まったく困ったものである。
『……わかったよ。じゃあまた後で』
「おう、お前もきっちり勝負つけてこい。おれ達が勝った後、お前だけひとり負けなんて認めねーかんな」
『りょーかい!『人災派遣』のアシスタントが伊達じゃないってところを見せてあげるよ!』
  それで通信が切れる。おれはメットの中で苦笑した。
『いいコンビですね』
  通信を聞いていた玲沙さんが苦笑混じりにコメントする。
「お恥ずかしい。どうにも詰めが甘いアシスタントなモノで。ご迷惑をおかけしますよ」
  それを聞いた玲沙さんが堪えきれないと言った態で笑い出す。
「な、なんかヘンな事言ったっすかね、おれ?」
「い、いえ……。ただ、任務の開始前に七瀬さんを配置場所に送ったとき、『どうにも詰めが甘いウチの担当がご迷惑をかけると思います』って言ってたものですから」
  憮然とした表情で頬をかく、のはメットをかぶっていたので出来ず、おれは微妙な沈黙を保つより他なかった。咳払いを一つ、気持ちを切り替える。
「……えー、おほん、さて」
『ええ』
「『このまま一気に勝負をかけましょう!』」
  ここで急加速。保っていたラインを一気に詰める。再び先程同様の激しいラインの鬩ぎ合いが繰り広げられる。だがもはや妨害をしかけてくる『貫影』はいない。必定、おれと玲沙さんの注意は残り一人、『カミキリムシ』を駆るライダーへと向く。おれは『隼』から振りおとされないように務めつつ、隙あらばパンチの一発でも叩き込んでやろうと身構えた。
  と、敵のライダーが唐突に間合いを取った。敵意のなさを表すかのように、左手を上げてこちらに顔を向ける。……何か仕掛けてくるのか?緊張するおれの視界の中、やつは大胆にもバイクから身を乗り出してこちらを覗き込んでくる。暗闇と水銀灯に照り返されたフルフェイスヘルメットでは中の表情など見分けがつくはずもないが、やがてその仕草、体型から、おれの脳が一人の気に食わない人物の名前を思い浮かべた。
「おまえ……!?」
『真凛くんが居たからまさかとは思ったが。貴様とはな』
  突如メットの中に響き渡る、ノイズキャンセリングされたクリアな音声。もう一つの『アル話ルド君』から繋がれた敵の声は、まさしくウチの同僚、笠桐・R・直樹のキザったらしいそれだった。
 
 
 
 

   ◆◇◆ 11 ◇◆◇

 
 
  絶句、という言葉を久しぶりにまざまざと味わっていたおれがふと我に返った時には、やつはまたもラインを阻止する軌道に戻っている。先ほど奴から繋げられた通話がまだ生きている事を確かめると、おれは唸った。
「……は。いいバイクじゃないか。お前にしちゃ趣味がいい投資だな」
  たっぷり皮肉をまぶしたコメントは、同じ類のコメントで迎撃された。
『たわけ。借り物に決まっているだろう。こんなものを買う金があれば、アメージングフェスティバルでアラサキの新作をその場で買い占められるわ』
「なんだそのアラサキって」
  『隼』の軌道に被せるように車線を変更する『カミキリムシ』。
『フィギュア造型の第一人者に決まっているだろう』
  さいですか。ンな向こう側の常識はどうでもいい(っていうか買い占めるのに新型リッターバイクと同じくらいの金が必要なのか?)。
「で。……何故こんな所にいる?」
  おれは冷たいものを潜ませて声を放った。仮にこいつと本気で殺し合いが出来る可能性があるのなら――機会を逃すつもりは毛頭ない。
「あ。もしかしてあの所長、ついに依頼の二重取りに手を染めやがったか?」
  ひとつの派遣会社が敵対する双方の組織にエージェントを派遣するのは『二重取り』と呼ばれる。派遣会社は一件で二人を派遣出来る代わりに、依頼人は常に、エージェント同士で情報が漏れているのではないか、という疑いに苛まれることになるため、業界全体の信用を落とすとして忌み嫌われるやり口である。
『そうではない。これは俺が個人的に、今回限りで引き受けた仕事だ』
「へぇ?友達の居ないお前に頼みごとをするような伝手があったっけ?」
『『あかつき』の伊嶋編集とは、イベントでな』
  何のイベントだ。威嚇するかのようにウィリーする『隼』、振り下ろされる前輪を、冷静に最小限の動きでかわす『カミキリムシ』。
『今回は彼のたっての頼みということで引き受けた。うちは他の派遣会社への二重登録は禁止だが、別のバイトの掛け持ちは禁止されていないはずだ』
「そりゃまあそうだが……」
  そこまで言って、唐突にひらめいた。
「待て、お前、報酬は何を持ちかけられた?」
  奴は誇らしげに答えたものだ。
『第十二堕天使サルガタナスたん役の声優、七尾朝美さんの目覚ましCDを……な』
  語尾の「……な」に、万感の思いが乗せられている模様。
「良くわからんが、それって店で売ってるんじゃねえのか?」
『阿呆!俺の為に特別に収録してくれるのだぞ?サルガタナスたんが『さっさと起きなさいよ、このバカ直樹!』と毎朝叫んでくれるのだぞ?ならば命を懸けるしかないではないか!』
  仕える女王の賜う杯のために命を懸けた騎士は知っていたが、アニメキャラが罵倒するCDのために命を懸ける吸血鬼を、幸運にしておれはまだ知らなかった。というか生涯知りたくもなかったのだが。いずれにしても、確かなことはひとつ。奴はこの任務で退くつもりは毛頭ないということだ。
「――いずれはと思っていたが。意外と早かったな」
  もはや何度目か、
  おれは意識を飛ばし、鍵を取り出す。それを察して向こうの声にも霜が降りた。
『修理中の骨董品に負けてやるほど落ちぶれてはいないつもりだがな』
  直樹と『カミキリムシ』の姿が白く曇ってゆく。己の能力と本性を開放した吸血鬼が作り出す冷気の渦が、高速で流れる周囲の空気と混じり白い霧を作り出している。
  ははん。いきなり本気ってワケね。じょーとー上等。ならこちらも出し惜しみはやめようか。おれは取り出した鍵を持ちかえた。周囲の世界ではなく、古ぼけた抽斗の鍵穴に――

『すまん、遅くなった!』
  意識が途端に引き戻される。前方から響く急ブレーキの音についで、質量を備えた鋼鉄の箱が空間をえぐってゆく。強烈な既視感を覚える光景だが、今度登場したのは頼もしい味方だった。
「見上さん!」
  境川PAを出発してから、機をはかっていたのであろう。見上さんの駆る業務用のカローラが、直樹の『カミキリムシ』とおれ達の『隼』に向けて突っ込んできた。先程玲沙さんと見上さんが連絡した際に作り上げていた仕掛けだろう。この機を待ち構えていた玲沙さんに対して、おれとの駄弁りに興じていた直樹は反応が一瞬遅れた。バランスがくずれ、大きすぎる回避運動をとってしまう。ラインが……開いた。
『行きます』
  もはや言われずともわかっている。玲沙さんの掌が翻り、アクセルが開放される。待ち望んでいたかのように周囲を圧して轟く『隼』のエンジンの咆哮。開いたラインに強引な割り込みをかけ、そして一気に――抜いた。『カミキリムシ』の周到な妨害を突破したのだ。一度枷を解かれてしまえば、猛禽の王に追随する者があろうはずもない。例え直樹の人外の反射神経と『カミキリムシ』の性能があったとしても。
『最速で、獲ります』
  この、『薄皮を剥くように』最適最短の道を疾走する最高のライダーに、つけいる隙はもはやない。カーブを曲がるたび、前方の車両を抜き去るたびに、少しずつ、だが確実に開いていく両者の差。役目を終えた見上さんの車が路肩に緊急停止する頃には、『隼』は『カミキリムシ』に十メートルの――わずかだが決して埋めることの出来ない十メートルの差をつけていた。さぁて、そろそろかな。意識を再び内面へ。おれはぶら下げたままの鍵を、またも持ちかえなおした。
 
『亘理陽司の』『指差すものは』
 
  俺は上半身を捻り、『真紅の魔人』を指差す。奴の名前を直接文言に織り込むのは今の俺には危険に過ぎた。追いつけないと判断した奴が最後の一撃を仕掛けてくるのは、まさにこの時機を置いて他にない。
 
『亘理陽司に』『触れる事はない』
 
  果たして、大気を裂いてこちらに飛来するのは……奴が己の冷気で作り出した氷の投槍。飛び道具に絞った俺の判断は正鵠を得た。奴の投じた必殺の一撃は、だが強烈な向かい風に狙いを外され、地面に飲み込まれて砕けた。
 
「……って、あいつがこの距離で槍を外す確率なんて、考えるだけでも悲しくなるほど低いんだがな」
  おれは頭痛に泣きそうになる。起こりやすい事象であればあるほど、因果を捻じ曲げるには強力な『鍵』が必要になる。素人が三十メートル先から撃った銃弾が自分に『当たらない』ようにするのはおれにとっては容易だ。というか、そもそも当たる確率の方が低いだろう。十回中一回しか当たらないとすれば、おれは『当たってしまう一回』に鍵をかければ良い。
  だが、例えば一メートルと離れていない距離から凄腕の殺し屋が放った弾を『当たらない』ようにするのはとんでもなく大変だ。弘法も筆の誤り、千回に一回くらいはミスしてくれるかもしれない。だが、おれが『それをモノにする』ためには、当たってしまう『九百九十九回』全てに鍵をかけてまわらなければならないのだ。強力で正確無比な吸血鬼の攻撃を『外す』のは並大抵の仕事ではない。表面には何の兆候も現れないものの、おれの中に蓄えられた見えないコインがごっそりと持っていかれたのを感覚する。だが、それだけの成果はあった。槍を作り出し投げるという行動は、一秒の奪い合いとなるこのスピードの世界では致命的だった。一気に二十メートル以上離される直樹。やがて、直線を抜け、勝沼を過ぎ、トンネルを抜けて初狩に至る頃には、直樹の姿はバックミラーから完全に消え去っていた。
『むぅ……。さすが『剃刀』。力任せの運転ではこれが限界か』
「はっはっは、ざまぁ見さらせ。せいぜいアニメ内の台詞を脳内で自分の名前に置き換えて楽しむ人生を送るんだな」
  追跡の間中ずっと罵詈雑言を言い合っていた直樹に一方的に勝利宣言をすると、おれは『アル話ルド君』を切断した。決着をつける事は出来なかったが、まあ焦る事は無い。いずれは否応なしに通る道だ。と、新たな回線が開いて、今回のMVP……勝てればだが……に繋がった。
『指示役以外にも活躍出来たみたいでよかったよ』
「ホンッッットありがとうございました見上さん!」
  率直な賞賛の念を込めておれは礼を述べた。本来は戦力外と考えていた見上さんのおかげで、直樹を実質無力化できたのである。これで大きく天秤をこちら側に傾けることができた。
『私は近くのPAに移動して、そこでまたクラウンの位置を確定する。都内に入られると何かと行動が制限されるから、それまでになんとしても奴に追いついてくれ』
『わかりました。時間としては、まだ何とか可能なはずです』
 
 
 
  闇を切り裂いて疾走する『隼』のタンデムシートに跨りつつ、おれは自分の中の残ったコインをかき集めてみる。だが、やはり随分無理をしたのが祟ったのか、当分は『鍵』を引っ張り出すのは無理のようだ。先程の直樹の追撃を防いだ時点で、おれの札は打ち止めだった。ここから先はスピード勝負になる以上、もう無用な荷重でしかないおれを降ろしていくべきだろうとも思ったのだが、
『いや、亘理君は引き続き乗っていくべきだ。ただのレースならともかく、原稿を奪還するには二輪の運転手が一人では何かと不利だからな』
  という見上さんの判断により、おれも引き続き追跡にあたっている。残るは、二対二。いよいよ大詰めだ。だが緊張とは裏腹に、タンデムシートに跨る身では出来る事など大してない。おれは気分転換のため、ちょいと話しかけることにした。
「……玲沙さんって、お住まいはどちらで?」
『え、と。調布です』
  やはり玲沙さんも幾分緊張していたようだ。
「じゃあ、自宅の前を通ることになるんですね」
『自宅って言っても、会社が借り上げたアパートですよ』
「てことは、仕事三昧の日々?メシなんてどうしてるんですか?」
『えっと、朝は自炊、昼はお弁当で。夜は……近所のコンビニのお弁当になりますね。今日みたいな深夜の仕事があると、どうしても生活が不規則になりがちですし。知らないお店に入るのは怖くって……。毎日都内を走り回ってるのに、交差点と抜け道しか知らないんですよ』
  ちょっと寂しそうな玲沙さんの声であった。
「神田の『古時計』の近くに、『椋鳥』って喫茶店があるんですよ。良く神田に本を買いに行くときはそこのお世話になるんですが。あそこね、コーヒーもたいしたものですが、何故か喫茶店のくせに和食のメニューを出してくれるんすよ。そしてそれがまたやたらうまい。焼き鮭と卵で三杯はいけますね」
『はあ……』
「えっと、だから、まあ。今日の朝飯は、そこできちんと食べましょうって事です。勝利をおかずにして」
  我ながら胡乱な物言いだな。
「あと、まあこう見えても暇な大学生ですから。池袋、新宿、神田あたりの食い物なら多少知ってます。昼に弁当以外を食べたくなった時は電話ででも聞いてください」
  玲沙さんからコメントが返ってくるまでにはちょっと間があった。
『そうですね、さすがに休憩なしでずっと走っているとお腹が空いてしまいますしね』
「そういうこと。それじゃあ、」
『「もうひと踏ん張りがんばりましょう!!」』
  気合をひとつ入れると、おれは彼女の腰にしがみつき、荷重に徹して彼女の妨げにならないよう努めた。見上さんから送られてくる敵の位置と道路状況を参照しつつ、はるか上空から見つけた獲物めがけて落下する隼のように、前方の車両を抜き去り、談合坂を越え、闇に浮かぶ灯火に縁取られた相模湖に目もくれることなくただただひた疾走る――。
  ……ついに前方にトヨタ・クラウンアスリートを捉えた時。
  おれ達は神奈川県を抜け、八王子の市内に到達していた。
 
 
 
 

  ◆◇◆ 12 ◇◆◇

 
 
「エージェント1号より連絡あり。原稿を確保したまま、東京都内に到達した模様です」
  手を打ち鳴らし快哉を叫ぶ伊嶋氏とは対照的に、テーブルを叩きつけて立ち上がるのは現編集長。
「馬鹿野郎!高い金を払って雇っているというのに、何をやっているのだ!」
  先ほど相手を役立たず呼ばわりしたことは綺麗に頭の中から消えているらしい。視界の隅に、ささやかに喜色をにじませる瑞浪氏を捕らえ、見境なしに噛み付く。
「何を笑っているんですか!」
  身を竦ませる瑞浪氏、冷然と二人の間でコーヒーを堪能する弓削氏。その様子も気に入らなかったのか、編集長はまた何やら聞き取りがたい言葉で喚いた。
  深夜の京浜東北線でもああいうオヤジって居るわよねー、などという率直な感想をおくびにも出さず、浅葱所長は淡々と四杯目のコーヒーと、レアチーズケーキを注文した。夜間の食事は体、主に体重の天敵だが、夜通し起きて脳を活性化させているととにかく腹が減るものだから。
「気にすることはないよ瑞浪君。もうすぐ君はあの『あかつき』から解放される。また前みたいな雰囲気で、僕らと一緒に描けるんだよ」
「ありがとうございます、でも……」
  瑞浪さんはちらりと現編集者を見やる。何を思うのか、弓削さんは端然とコーヒーを手にしたまま無言だった。
「新連載については心配しないでくれ。可能な限り『えるみか』に近づけられるように努力するから」
 
「……あの。やっぱり、『えるみか』じゃなければいけないんですか」
 
  瑞浪さんは、確かにそう言った。
「当たり前じゃないか。あれほどの良作、ここで打ち切りになんかさせるものか。商標こそ、アニメ会社、グッズの会社……いろいろあって、『えるみか』の名前を使うのは無理だったけど、でも、基本的には中身は変えさせないから」
  伊嶋氏はコーヒーを飲み干し、瑞浪さんの両肩に手を置く。手の掛かる子供を宥めるように。
「わかってます、わかってますけど!『ミッドテラス』に行ったら、『えるみか』は『えるみか』でなくなってしまうんです!」
「瑞浪君……」
「『えるみか』は私だけの力で出来たものではないんです。だから……本当は、怖いんです。『ミッドテラス』で、ちゃんと続編が書けるかどうか。ううん、描ける筈が無いです!だって、私の思い付きを弓削さんがきちんとしたストーリーに仕立ててくれたからこそ、四十話もやってこれたんですから!」
 
 
  漫画家、とくに若手に対する編集者の存在は非常に重要である。親密になって漫画家のネタ出しにつきあい、編集部の意向を作品に反映させ、時にはストーリーを主導する。編集者が異動になった途端につまらなくなったマンガ、などというものは星の数ほど世の中に存在するのだ。
  そして、知る人ぞ知る、人気作品『えるみかスクランブル』の影の立役者であり、実質的なシナリオライターだったのが彼女、連載開始時から編集者としてコンビを組んできた弓削かをる女史であった。そしてこれも、『えるみか』を『ミッドテラス』が引き抜けない大きな要因のひとつとなっていた。
「……たしかに、君達は二人でよくやってきたと思う。だが、瑞浪君。君ももう五年目だ。そろそろ弓削君以外の編集者ともやっていけるようにならなくては。そうだろう?」
「でも、それなら『えるみか』はもう描けません。弓削さんのシナリオがなかったら、私の絵はただの止め絵になってしまうんです。そんな『えるみか』の続きを書かなきゃいけないなら、いっそ」
「瑞浪君……!」
  伊嶋編集長が何とか椅子に彼女を座らせる。
「どうぞ」
  おりしもそこにマスターが、英国の執事めいた物腰で二杯目のコーヒーを運んできた。えも言われぬ芳香がテーブルに現れ、座が少しだけ落ち着いた。
「弓削さん」
  それまで事務的な報告に徹していた浅葱所長が声をあげた。
「貴方個人としての意見はどうなんでしょう?」
  一同が驚愕する。
「何を言っているのかね!?弓削はうちの社員だぞ、だいたい……」
「お静かに」
  ぴしゃりと編集長の言葉を封じるその様は、弓削さんですら恐らくは及ばないだろう。彼女、嵯峨野浅葱は年こそ若いが、今までの人生において無数のハードネゴシエイトを行ってきた。秤にかけてきたものの重さ、対峙する相手の力量、ともにこの男のそれを百倍かき集めても及ぶものではない。状況に応じた語調の使い分けなどは初歩の初歩だ。
「たいしたお話ではありません。私個人が、いち個人としての弓削かをるさんの意見に興味を持っているというだけのことです」
  対する弓削さんは、冷めてしまったコーヒーに口をつける。鉄仮面ぶりは相変わらずのようだった。
「繰り返しになりますが。作家にとってベストの環境を確保する。それが編集者の仕事だと私は信じています。だから今回もベストの選択をしたつもりです」
「弓削さん……!!」
  瑞浪さんが悲鳴寸前の声をあげる。
  その様を見やって、浅葱所長はぽつりと述べた。
「ホーリック側が勝つといいですね」
「な、何を!?」
「嵯峨野さん!」
  伊嶋氏と瑞浪さんが驚愕の声を上げる。
「……貴方は中立の立場だと思っていたんですがね」
  伊嶋氏の声には明らかな失望と怒りがあった。
「いえ、これはあくまで私個人の意見ですから。公人としてはあくまで中立の姿勢は変わりありません。ご心配なく」
「本当ですかね」
  剣呑な雰囲気は、だが、そんなものはおかまいなしとレアチーズケーキの最後の一欠片を腹に収めた浅葱所長の声によって破られた。
「ホーリック側が、ミッドテラス側を再び捉えたようです」
 
 
 
 

  ◆◇◆ 13 ◇◆◇

 
 
  後ろから眺めやっても、クラウンの暴走っぷりは凄まじいものだった。『隼』と違って小回りが効かない分、強引な割り込みでそれを補っている。いくら今回の件が依頼人の要請に基づくものであり、オービスについてもお目こぼしをもらっていると言っても、さすがにこれでは苦情を覚悟せねばならないだろう。こちらから仕掛けるとしても、厄介なことになるのは明白だ。時刻はまだ深夜の域を出てはいないが、休憩もなしにひたすらバイクを飛ばしているこちらは体力的にもかなりキツイ。さっきからこれだけは口にしないようにしていたが、おれの尻と尾てい骨はガタガタでとっくに泣き喚いている。痔になりたくないということもあり、八王子を越えて都心に入り込まれる前にカタをつけたかった。
  おれ達が後ろにつけたとき、前方のクラウンの挙動はむしろ静かなものになっていた。こちらが追跡しているだろうことは、直樹なり『貫影』なりの連絡で予想がついているはずだ。猛追してくる二輪があれば迎撃の準備を取っていてしかるべきはずなのだが――と思っているところにそれは来た。
「おふっ!」
  急な横方向への揺れに肺の中の空気がかきだされる。傾く車体は、だが、玲沙さんが絶妙のタイミングで当てたカウンターに相殺される。先ほどと同様、奴が磁力を使ってこちらの車体を揺さぶりにかかっているのだ。運転席の窓から覗くのは、奴の右腕。
『やはり亘理さんの読みどおりのようです!』
「ですね。よし、何時までも一発芸が通じると思うなよっ!」
 
 
 
「これは予測なんですが」
  ここに至るまでに玲沙さんと交わした会話をおれは振り返る。
「『二つ名』からして、あいつが磁力を操る能力者だってのは間違いないと思うんです。そうなると、『どういった磁力使いなのか』が問題になってきます」
  超能力か魔術か精霊の力か知らないが、炎使い、雷使い、水使い、といったエージェントは比較的数多い。そしてひとえに炎使いといっても、掌から炎を放つ者、敵を見るだけで発火させる者、まるで生き物のように炎を操る者、さまざまだ。そして奴も、様々な種類が存在する磁力使いの中でもどのタイプかに該当する、という事になる。
「多分、腕から磁力を放射する、って感じでしょう。となれば、当然『引き寄せる』事があいつの得意技となる」
  磁石が『反発』するのはあくまで磁石同士だ。奴は恐らく、『鉄を引き寄せる』事のみに一点特化したエージェントと見るべきだろう。能力を一点に絞って鍛え上げた者は、状況しだいでは恐るべき力を発揮するのだ。
『でも、さっきのベアリングは……』
「おそらく、あいつが瞬間的に磁化したんでしょう。『隼』に吸い寄せられる形で飛んできましたからね」
『なるほど……。わかりました。それなら、手はあると思います』
 
 
  距離を詰めるたびに、磁力の干渉は厳しくなってくる。右に、左に。磁力の攻撃は、いうなれば透明なロープで引っ張られるという妨害の中で走行を維持する事だった。引き倒されない玲沙さんのドライビングテクニックに、改めておれは舌を巻く。
  奴は作戦を誤った。おれ達を仕留めたければ、先ほどのように至近距離から最大威力の磁力で一撃で引き倒すべきだったのである。クラウンが先方を走るトラックを抜いたとき、おれ達は仕掛けた。
  トラックがクラウンとおれ達の間に挟まれ、磁力の途絶えたそのわずかな時間の間に、玲沙さんは完璧なライン取りで、奴の左後方に回り込んだのだ。奴の右腕の届かない死角。ここでおれ達は一気に距離を詰めた。たちまち視界に広がるクラウンのナンバープレート。リアウィンドウを通して、バックミラーを見る奴と目が合った、ような気がした。奴の表情には、焦燥。慌てて左車線へとシフトする。それこそが、玲沙さんの狙いであった。
『――――』
  玲沙さんは身を極端に伏せる。事前に指示を聞いていたおれもそれに倣い、両手をその腰ではなく、タンクの両側に取り付けられたフックをしっかりと握る。段差のあるタンデムシートに玲沙さんの双丘が突き出される形になり、おれは危うく悶死しかけたが、錯乱する思考を小脳から吸い上げて一時保管し脳内の奥底に放り込む。後でゆっくり解凍しよう。
  玲沙さんが『隼』のパネルに指を這わせる。イグニッションの下にある、改造で後付されたと思わしきスイッチをはね上げた。そして、『隼』にアクセルを叩き込む。
 
  その瞬間、世界が停止した。
 
  爆発的な加速。
  供給されたありえない量の亜酸化窒素をたらふく喰らいこんだ猛禽がその翼を広げ猛加速。そして押し寄せる膨大な空気の塊をその肺腑に貪欲に取り込み、圧縮。噴射されたケロシンと化合させ燃焼。その凄まじい心臓の鼓動をシャフトを介して推進力へと転化。風を切裂くというよりは撃ち抜くこの感覚。この時、猛禽は天空から降り注ぐ一粒の弾丸となり、音を追い抜いたのだ。
  周囲に居た者は隼のいななきにも似た甲高い音を耳にし――そしてそんな認識を、続いてやってきた衝撃波に吹き飛ばされた。あたかも見えない巨人が、直径一メートル以上ある太い鞭を振るったかのごとく、爆音が帯状に路面に弾けた。
  前方にあったはずのトヨタ・クラウンアスリートは、またたきする間もなく視界の後方へと吹っ飛んでいった。意識が数秒トんだのか。ワープでもしたのか、というくらい不自然な景色の切り替わり。魂だけが抜き出て肉体を置き去りにしてしまったのではないかと不安になるほどの超加速。
  これが『剃刀』鹿毛玲沙の裏十八番だった。おれ達にも、飛び込みに失敗し無様に着水したときのような衝撃が全身に弾ける。生身だったらそのまま身体が消し飛んでいただろう。おれにやたらと高性能のライダースーツが事前に支給された理由は、まさにここにあった。過剰なまでに耐ショック構造を組み込んであるはずなのに、それでも内臓を落っことしたんじゃないかと思うほどの衝撃が突き抜ける。フックを掴んだ腕と肩が引っこ抜けそうになった。事前に玲沙さんに厳重に注意されていなければ、容易く後ろに吹っ飛んでいただろう。
  公式には記録されていない二輪車での音速突破を、実に一秒に満たない加速時間で為してのける車体など存在するはずがない。まして通常走行用のエンジンと並行してもう一つの加速装置を改造して取り付けるなど技術的に可能なはずはない。ついでに言うなら、そんな加速をして搭乗者が無事で済むはずはない――はずはない、等という言葉は、この業界では口に出すだけ虚しいものではあるが。風の噂では、真の拳法使いには軽功によって音速を超える者もいるらしいし。
  時間では二秒足らず。だが、距離にして六百メートルを疾走し、『隼』は通常走行に戻った。スピードを落とし、追い抜いたクラウンに併走する。巨大な鞭に打たれたようにへこんだ車体。そして開け放たれた運転席の窓の向こうには、ハンドルに突っ伏した男が居た。天空から襲いかかる隼に蹴落とされた受けた獲物は、抵抗すら許されず即死、あるいは気絶する。
  それを彷彿とさせる、居合いの一閃。音速から放たれた衝撃波は、『包囲磁針』に本来の恐るべき力を振るう間も無く失神させていたのだ。まともに戦えばただではすまなかっただろう。
「すごい威力ですね……」
『本当は、どうしても荷物が間に合わないときの業務用の装備なんですけど』
  ……さいでっか。きっとメカニックにB級映画の信奉者でもいたに違いない。くれぐれも世のビジネスマンは、あまりにも無謀な催促をメール便にするべきではないなとおれは思った。
 
 
 
「っとと、よよっと……のわぁっ」
  ひときわ無様な声を上げて、おれはクラウンの運転席にもぐりこんだ。巧みにスピードと位置を合わせてくれた玲沙さんのおかげで、作業自体は中学でやった器械運動よりもたやすかったが。気絶している『包囲磁針』の太ももに顔を埋めそうになって慌てて態勢を立て直す。ハンドルをとり、徐々に路肩に寄りつつあった車体を中央に復帰させた。
「ふう」
  四苦八苦して『包囲磁針』の体を助手席に押しやる。メットを脱ぎ捨て、ツナギのファスナーを開く。内ポケットに入っていた小型の七つ道具を取り出すと、そのうちのひとつ、即効性の催眠スプレー『春シオン君』を助手席の『包囲磁針』に吹き付けた。これで半日はどうやっても目を覚まさないだろう。あとはこのクラウンを適当な場所で停めて、玲沙さんが原稿を持ってゴールに駆け込めば万事OKである。路肩に停めてもいいんだが、さてどうするか。
  ポーン。
『石川PA、まで、あと五キロ、です』
  と、カーナビが事務的な口調で告げる。ふむ。路肩に停めるとあとあと面倒だし、PAで車ごと放り出すのが妥当なところかな。おれは並走する玲沙さんにその旨を伝えた。
「念のためっすから、先行してガス入れておいてください」
『わかりました。軽く点検もしておきたいですし』
  あの大技は多分車体に凄まじい負担をかけるのだろう。ここまで来てエンストなんて事にはなって欲しくはない。原稿を再度車体に括りつけなおすのも、金具が壊れた今となっては容易ではないのだ。おれが玲沙さんにひとつうなずくと、たちまち彼女はおれの視界を前方へと突っ切っていった。……さて。
「ふっふーん♪」
  おれはいささか上機嫌の態でハンドルを握った。何しろクラウン・アスリートとくれば親がカネモチでもない限り学生が運転できる代物ではない。入り込んできた運転席の窓を閉めてしまえば、先ほどまでの滝の中のような騒音は掻き消え、驚くほど静かな空間が広がってきた。敵が磁力を放出するために全開にしていたのが幸いして、窓も割れていなかった。『アル話ルド君』からコネクタを引き出してカーナビに接続すると、たちまち車内は豪勢なステレオサウンドで満たされる。
  ポーン。
『石川PA、まで、あと三キロ、です。シートベルトの着用を、お願いします』
  とっとと。いかんいかん。おれは慌ててシートベルトを着用すると、夜の闇の中、カーナビの表示と高速の標識を頼りにクラウンを走らせてゆく。
  ポーン。
『左、石川PA、です』
  おれは高速を一旦降りるべく、ウィンカーを出してハンドルを左に切った。だが、車は直進を継続している。高級車のくせにハンドルの反応が鈍いとは。おれは舌打ちすると、ハンドルをやや大きく切る。
 
  直進のまま。
 
  おれの胃の辺りに冷たい塊が落ちてくる。慌ててハンドルを左右に振るが、反応なし。おいおいおい、まさかさっきの衝撃で壊れたとか言うんじゃないだろうな!?
  そうこうするうちに、PAの入り口は後方に過ぎ去ってしまった。半ばパニックになりかけてブレーキを踏むが、……これも反応なし!
  ポーン。
『石川PAを、通過しました』
  やたらと事務調なカーナビの音声が気に障る。しばらくハンドル、ブレーキ、アクセルを弄繰り回してみたが、効果は無し。なんとか玲沙さんに連絡をとらないと。そう思って『アル話ルド君』に手を伸ばした。
  ポーン。
『石川PAまで、マイナス一キロ、です』
  ――伸ばしたおれの左手が凍りつく。石川PAを目的地にでもしていればいざ知らず、カーナビは通常こんなアナウンスは、しない。そして、おれはもうひとつ事態に気がついていた。ハンドルも、ブレーキも、アクセルもきかないのに……なぜこの車は、正確なまでに車線の中央を維持しているんだ!?
  ポーン。
『石川PAまで、マイナス三キロ、です。お、仲間との、合流は、諦める、べきですね』
  台詞を組み合わせた無機質な電子音声にぞっとする。遠隔操作、いや、こいつは!
  ポーン。
『高井戸ICまで、あと二十キロ、です。しばらくは、お付き合いください』
  咄嗟、シートベルトに手をかける。だが、いくらボタンを押しても、外れることは無かった。
  ポーン。
『その操作は、受け付けておりません』
  日ごろは何気なく聞き逃せるエラー音声だが。こうして聞くと感情がこもっていない分空恐ろしい。おれはようやく事を理解していた。
「……なるほど。アンタがそっちの最後のカード、ってわけだ」
  とたん、車載スピーカーから滑らかな音声が流れ出す。
『はじめまして。多機能型カーナビゲーションシステム試作機、型式番号『KI2K』。まだ二つ名は頂いておりませんので、実名で失礼いたします』
「……四”人”って言ったじゃないかよ……」
  おれは苦虫をすり潰したジュースを飲み込んだようなツラで、このカーナビの奥に収まっている高度な人工知性体を睨みつけた。
 
 
 
 

◆◇◆ 14 ◇◆◇

 
 
  カーナビが爆発的に普及し始めた二十一世紀の始め。各電機メーカーの技術者達の間では、夢の『喋る車』を実現すべく、様々なプロジェクトが立ち上げられた。車に好きなキャラクターの声で喋らせてみたり、状況に応じて気の利いた台詞を言わせてみたり。だが結局のところ、それらはおまけ機能的なものの領域を出ることは無かった。少なくとも、そういう事になっている。
  しかし。業界にはひとつ、噂があったのである。とある大手の車用電装品メーカーの技術者が、ある科学者と共同でプロジェクトを立ち上げ、心血を注いで試作を完成させた、二つの『知性をもったカーナビ』がある、と。
  当の技術者が直後に過労死したため(労災は下りなかった)、真相は闇に葬られた。というより、この噂自体、報われなかった技術者への判官びいきから生まれたのだろうと思われていたのだが。
「まさかそのうちの一台がこんな車に搭載されていたとはね」
『今回はたまたまです。個人的にはトランザムのフロントパネルが一番居心地がいい』
「……おれをどうするつもりだい?」
『このまま東京神田の『古時計』に向かってもらいます。私の自動運転は完璧ですが、無人では都内は走れませんから』
  おれは態の良い人形役か。
「はん、だがまさしくこれなら獅子身中の虫。拳一発でアンタをぶっこわすことだって――ぐくっ!?」
  尻のあたりに何かがはじけ、おれはシートの上で飛び上がった。
『私には盗難防止システムが備え付けられておりまして』
  にしちゃぁ過激だね。シートにスタンガン装備ってのは。ふと、おれは思いついた。
「そういえば。トレーラーを遠隔操作していたのもあんただったってわけだな」
『ええ。自身を含めて四台程度までなら通常走行を並行して維持出来ます』
  と、そこで『アル話ルド君』が着信音を鳴らす。先ほどバイク上で使っていたため、自動的に通話状態になる。
『亘理さん、どうされました!?』
  玲沙さんだ。
『亘理君、玲沙君とは離れてしまったのかね?』
『こちら真凛。『貫影』はどうにか倒せたけど、そっちは?』
  おれに繋がったのを知って、三者が三様にまくしたてる。
「おい……喋ってもいいのかい」
『どうぞ』
  先方が寛大に許可してくれたので、おれはカーナビ越しに手短に状況を説明した。想像もしなかった四人目の正体にさすがにみんな絶句していたが、
『とにかく、そっちへ向かいます』
  言うや否や玲沙さんの通信が途絶える。恐らく石川PAを再出発したのだろう。
「見上さん、すいませんが位置のフォロー頼みます。真凛、所長に連絡してくれ。最寄のSAで時間を潰してれば桜庭さんか須江貞さんが回収してくれるはずだ」
『うん、わかった。……でも今回は本当に役立たずだったね、ボク』
「暴れられたからいいじゃないか。次回はきちんと活躍できるだろうから心配すんな」
  そこまで言って、通信を切る。ふぅ、と一息をつき。そのままフックをフロントパネルに向けて繰り出した。
「ぐかかっ!!」
  拳が届く前に先ほどより強烈な電撃が走り、意識が遠のきかけた。たまらず崩れ落ちるおれの耳に、無機質なカーナビの音声が響く。
『あまり無謀な振る舞いはお勧めできません。あなたの反射神経よりは私の反応のほうが、失礼ながら数百倍は早いし、私の本体はそこではない』
  しばし、フロントパネルをにらみつける。……十秒ほど、勝てるはずの無いにらめっこを続けた挙句、おれは肩をひとつすくめた。
「……んじゃ、神田まで。安全運転でね。深夜料金つかないよね?」
  観念した態で両手をあげる。
『素敵な、ドライブになると、いいですね』
  起動時の業務用の台詞を吐いて、クラウンは自動操縦に移行する。どうせ手を離しても勝手に進んでいくんだ。おれはシートにくくりつけられた体制のまま、次々と暇つぶしをはじめた。まず、起きられては元も子もないので、『包囲磁針』の親指を手にしたプラスチックのバンドで縛り上げる。奴のネクタイとハンカチで目隠しと猿轡をかます。上着を脱がせてかぶせ、深夜ドライブで眠ってしまったように装い――こういう手口ばかり巧妙になるのはいかがなものか――ヤケクソ気味にプラグが繋がったままの『アル話ルド君』を操作し、サウンドを車内にたっぷりと響かせる。その上で放り出されていた原稿のボックスを拾い上げ、しっかりと懐に抱え込む。
『神田についたら、すいませんがあなたには気絶してもらいます。そこで私がゴールインすれば、ゲームは終了となる』
  ……ゲームの解釈としてはそうなるんだろうな。
「だけど、そうそううまくいくかな?」
  バックミラーから急速に迫りくる『隼』の姿のなんと頼もしいことか。
『うまくいきますとも』
  言うや、猛加速するクラウン。先ほどまでも十分に味わっていた感覚だが、今度はおれの体は柔らかなシートにしっかりと受け止められていた。
「この……」
  まさしく機械仕掛けの正確無比なライン。だが、それでも、おれは技量においては玲沙さんが勝っていると断言することが出来た。両方に乗った人間の言うことだから間違いは無い。それに四輪と二輪では小回りの性能が違いすぎる。徐々に近づいてくる玲沙さん。おりしも前方には走行車線、追い越し車線ともに車両でふさがっていた。ゲームセット、と思ったそのとき。
「……っ」
  今日何度も体験している、内臓にダイレクトに伝わる加速の感覚。だが、それは今までのような前から後ろにではなく、上から下。それはすなわち。
「飛んだ……!?」
  そう。
  嘘偽り無く。
  この車は空を飛んだのだ。
  正確には大ジャンプか。両車線を遮る車を追い越した。それも、上から。おれは運転席の窓からありえない光景を見やりつつ――続く落下の恐怖を存分に味わった。どずん、という鈍い衝撃。しかし高級なサスペンダーは驚くほどその威力を吸収し、おれにはほとんど被害がなかった。そう、おれには。
  たった今おれ達が飛び越した車にしてみれば、天からいきなりクラウンが降ってきたようなものだ。たまらず二台とも急停止し、制御を失い……結果、玲沙さんとおれ達の間に壁となって立ちはだかることとなった。たちまち後方で響き渡る甲高いブレーキ音。
『ああ、もう!……すいません、亘理さん!塞がれました!』
「玲沙さんと、飛び越された車の人たちに怪我は!?」
『どちらも大丈夫です。でも、今のでギアに異音が入りました。多分……これ以上の追跡は無理です』
  そうか。やっぱりさっきの超加速とかでかなり無理させたものな。言葉の間に、かなりの葛藤があったということは、目的意識と現状分析の間で下された、冷静なプロとしての判断というべきだろう。
「わかりました。無理しないでいいんで、そのままゴールまで向かってください」
  おれはひとつ息をついた。
『そうですか……。『椋鳥』での朝ご飯、ご一緒出来そうにないですね』
  玲沙さんの声は気落ちしていたようだ。
「そうでもないですよ。もともと勝ち負けに関係なくお誘いするつもりでしたし、それに」
  おれは運転席でのんびりと頭の後ろで手を組み、足も組んで伸ばした。高速道路では通常ありえない態勢だ。
「ちゃんとおれ達が勝ちますしね」
 
 
 
  国立府中、調布、高井戸。
 
  順調にインターを通過する。隣で相変わらずつぶれたままの『包囲磁針』の財布からチケットとついでに現金も取り出し(乗った奴が払うのは当然だろう?)、おれはクラウンに乗って悠々と中央道を降りた。そのまま甲州街道をひたすら西へ。途中何度か裏道を出入りをするあたりはさすがカーナビの面目躍如といったところか。おれ達はろくに渋滞にも遭遇せず、神田の古書店街の一角へとたどり着いていた。不夜城東京といえどもこの辺りはさすがに終夜営業の店も少なく、落ち着いたものである。それでも、ずっと闇の中を疾走していたおれの目にはずいぶん眩しく映ったものだが。
  ポーン。
『目的地まで、あと、10分です』
  こんなときにわざとらしくカーナビ口調で話してくるあたり、こいつも相当いい性格をしていると見るべきだろう。おれは仏頂面でハンドルを握っていた。
『この期に及んでまだ何か仕掛けられるとでも?不審な合図、不審な行動があれば即座に行動を抑制させていただきますが』
  やれやれ。確かにおれの『鍵』も、序盤でハッスルした分二発で打ち止めだが。
「いや、まあとっくに勝負はついてたんだけどね」
  おれは言う。
「今まで散々寒くて尻が痛い思いをしてきたわけだから、最後くらいクラウンのシートの、しかも自動操縦で送ってもらえたらうれしいなー、なんて思ってたもんでさ」
『何を……』
  おれの態度に、初めて奴が機械らしくない声を上げた。
「最近の携帯電話って奴は多機能でね」
  コードで繋がれ、サイドブレーキの側に転がっている『アル話ルド君』を見やる。
「カメラ、GPSなんて機能もついてて……ついでにこいつはさらに特別製なんだ。音楽もアホみたいな量が入るし……データの持ち運びなんかも出来るんだよな。文書ファイル、画像ファイル、それから、プログラムとか」
  沈黙。機械でも判断するのに時間が掛かることがあるのかね。
『まさか』
「石動研究所特製、自律システム解析型ウィルスベクター『輸ネちゃん』。たいがいのシステムの奥底まで解析し、ウィルスを送り込むっつうシロモンだよ。準備は周到に、ってわけだな」
  実際は前の任務で使った後消し忘れていただけだが。
『そん……な……!……!?』
「あーそう。変なことしない方がいいぜ。ウィルス発動のキーは、そのウィルスを検索しようとすることだから……って、やっちまったか」
  ほんの一瞬、ぐちゃぐちゃの地図が表示され――ブラックアウトした液晶画面を見ておれはつぶやく。
「安心しなよ。ちょっとシステムがダウンするだけだ。あんたはそれほどヤワじゃないはずだし、壊しちまったら色々なところから悲しまれちまうからね」
  このウィルスの作成者にして、かつて技術者とともにこのカーナビの開発に関わったといううちのマッドサイエンティストの顔を思い出し、おれはもう一度、今夜最後のため息をついた。
 
 
 
 

◆◇◆ 15 ◇◆◇ 

 
 
  おれが『古時計』の重厚なドアを押し開けると、澄んだドアベルの音が店内に鳴り響いた。
  おれの顔を見て、露骨に落胆した人が一名。この人が伊嶋さんだろう。そして満面の笑みを浮かべる脂ぎった中年のオッサンが一名……オッサンの笑顔など見たくも無いのでその場で脳裏に保存せず消去……そして相変わらず鉄仮面顔の弓削さん。同じテーブルに着いて本当に泣きそうな顔をしている眼鏡の女の子は、はて誰だろう。何気に結構可愛いと思うのだが。今日は本当に美人に縁のある日だ。玲沙さんもすでに甲州街道に下りたらしいし、あと何時間後かの朝飯におれは思いを馳せつつ店内に足を踏み入れる。
「勝負の結果は?」
  冷たいとも言える言葉がおれを現実に引き戻した。見れば、浅葱所長がおれを見据えている。ここでの彼女の役割はおれ達の所長ではなく、このふざけたゲームの立会人なので、それは至極まっとうな反応だった。おれは報告する。
「ホーリック代理人の亘理陽司です。『ミッドテラス』のエージェントを三人と一台を排除し、ここに辿り着きました。こちらも三名が途中でリタイヤしましたがね」
「原稿は?」
「こちらに」
  言っておれは、血と汗と涙の結晶である二つのキャリーケースを、衆人環視の元で弓削さんに手渡した。
「確かに、中身に間違いはありません」
  封を開けて中を確かめた弓削さんが言い、中を見た瑞浪さんも首を縦に振った。
「では、立会人として……今回のゲーム、ホーリック社の勝利を宣言いたします」
  狂喜乱舞するのは中年オヤジのみで、他はいずれも沈みきった、もしくは冷めた反応だった。かくいうおれ自身も、目標を達成した以上の感慨は無く、黙って手近な席に腰を下ろす。マスターにコーヒーを一杯注文した。
「お疲れさま、亘理クン」
  ここでようやく浅葱『所長』がおれにねぎらいの声をかけてくれた。だがおれはそれに軽く手を振ったのみ。
「あの眼鏡の子、誰ですか?」
  それに対する答えにおれはさすがに驚いた。まさか『えるみか』の作者が女の子だったとは。……だが、それもおれに取ってあまり嬉しいニュースにはなり得なかった。
「用件はこれで終わりっスよね?コーヒー飲んだら帰らせていただきますよ」
  店内の雰囲気だけでも、だいたいどのようなやり取りが成されたかわかってしまうという物だ。これ以上ここで繰り広げられる出来の悪いコメディに付き合う気分ではなかった。直樹の野郎へのイヤがらせのため瑞浪さんにサインでもねだろうか、と思ったが、敵側の選手で、しかも勝たせてしまった人間がでしゃばったらどうなるか、という事がわからぬ程阿呆ではないつもりだ。
「そう言わないで。自分の仕事を確かめるためにも、もう少し見ていったら?」
  浅葱さんにそう言われ、おれはつまらなさげな表情を作って、運ばれてきたコーヒーを呷った。確かにまあ、玲沙さんとの朝飯の約束にはまだ十分時間が合ったのだが。
 
 
「それでは、契約書のとおりに」
「はい、契約書のとおりに」
  弓削さんはそう答えると、原稿をテーブルの上に積んだ。そして立会人である浅葱所長の目の前で、複写式になっている契約書におれ達が勝利した旨の文章を書き込んでゆく。何気なく契約書の文書の内容を追っていったとき、おれの頭の中にピンとひらめくものが合った。……ああ。なるほど、そういう事ね。
「よくやったぞ、弓削!!」
  中年ががなり立てる。……このオッサンが今回一番の迂闊者だな、間違いなく。
「それではすべて、契約書のとおりに。このレースに勝利した側の編集”者”……弓削かをる氏が、『えるみか』と瑞浪の身を預かることとなりました」
  浅葱さんの宣言に、中年オヤジの動きがぴたりと静止した。動作の途中で静止画にされると、人間ってホント変てこなポーズになるよなあ。
「浅葱さん。よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「では。私、弓削かをるは、所有する『サイバー堕天使えるみかスクランブル』の連載権と、委託されている『瑞浪紀代人』の所属を、株式会社『ミッドテラス』に移管することをここに宣言します。契約書の作成をお願いできますか?」
「弓削君!」
「弓削さん!」
「ば――馬鹿なことを言うな!!そんな口約束、通るわけが無いだろう!」
「生憎と、この契約書は『ミッドテラス』社長と、『ホーリック』社長代理のあなたの印で作成されています。当然、印鑑を押されたということは文面は理解されておられましたよね」
  ことさら語尾を下げ、疑問形にしないところが意地が悪い。
「……な、しかし、そんな……」
「である以上、この契約書に従えば公式に権利は弓削さんのものになる。そしてその弓削さんがその場で譲渡を宣言した以上、『えるみかスクランブル』と『瑞浪紀代人』は公式に『ミッドテラス』のものとなる。もちろん題名の変更等の不自然な修正も無しに。おわかりですか?」
「こ――これは、詐欺行為だ!第一、そんな口約束で物事を決められてたまるか!そ、そうだ、それこそもう一度契約書を書け。弁護士の立会いの下で。いや、弓削、その前にお前はもう一度社に戻って」
「その必要はありませんな」
  突如割り込んだ第三の男の声に、ぎょっとして振り向く中年。見れば喫茶店のマスターがトレイを持って立っていた。
「なんだあんたは!これはウチの問題だからでしゃばっ」
「それならば今契約書を作成すれば良い。そうですね、みなさん」
「「はい」」
  浅葱さんと弓削さんが唱和する。
「言うのを忘れていましたが、こちらのマスター、本業は弁護士です。こう言った民事関係のトラブルの草分け的な存在なんですよ」
  所長の満面の笑みに、ようやく哀れな中年は、これが最初から最後まで筋書きの仕組まれた陰謀だったということに気がついた。
「ゆ、弓削……この、貴様、恩を仇で返すとは……!クビだ、クビ!もう二度とウチに顔を出すな!」
「確かにその言葉、伺いました」
「……ん?」
  己が口走った言葉の重大さに、中年が青ざめたその時。
「弓削さああん!!」
  感極まった態の瑞浪さんが抱きついた。
「弓削さん、ありがとうございました、やっぱり弓削さんは最高です!」
「……俺たちみんな、手玉に取られたか。たいしたもんだよ、お前は。……これで、いつでもうちに来てくれるな」
「作家にとってベストの環境を確保する。それが編集者の仕事ですから」
  半ばあきれ顔を浮かべる伊嶋編集と対照的に、中年の顔は蒼白を通り越して土気色になっていた。
「弓削さん、弓削さん……」
「紀ちゃん、ごめんね、一連のごたごたで随分つらい目に合わせちゃったね。でも、もう大丈夫だから」
  涙でぐしゃぐしゃの瑞浪さんの顔をハンカチでぬぐってやる弓削さんの顔を見ながら、おれは我知らず呟いていた。
「……おれも、佳い女センサー装備しようかねえ」
  初めて、鉄仮面の下の素顔を、見た。
 
 
「ごちそうさんでした」
  もう勝負のついた騒動を尻目に、おれは席を立った。今度こそ、これ以上先を見る必要は無い。と、今夜は大活躍だったおれの携帯が、再び銭形警部のテーマを奏でた。
『亘理さん、こちら玲沙です。今、神田のJR駅前につきました』
「はいはい、今迎えに行きますよー」
  おれは、徹夜明けの空腹を満たすべく、『古時計』のドアを押し開けた。
  ビルの谷間から昇るすがすがしい朝の陽光が、騒がしい夜の終了を告げていた。
 
 

[了]ID:SFN0003v102

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