人災派遣のフレイムアップ 第4話 『不実在オークショナー』         ●※     15:26:25 *****16ポンド さんが入室しました******** 15:27:08 Sir Oct >きたきた 15:27:10 BadJoker@幹事 >全員そろったかな 15:27:30 16ポンド >遅くなったっス 15:27:42 Sir Oct >どーも 15:27:45 Mitsu-ME >遅いよあんた 15:28:41 16ポンド >仕事帰り。俺はお前のようなヒマ人とは違うっスよ 15:29:13 Sir Oct >現場人間の辛いところだな 15:30:01 Mitsu-ME >小者は蟻のように働いていればいいさ 15:30:32 16ポンド >何か言ったッスかー不良在庫 15:30:57 Mitsu-ME >何だとー 15:32:08 BadJoker@幹事 >やめれー。のんびり同窓会をやってる時間はないんだって。時差もあるしな 15:33:16 Sir Oct >私はあと一時間で仕事だよ 15:34:02 16ポンド >金の亡者(笑 15:34:43 Sir Oct >なんとでも言ってくれ(泣 15:36:52 BadJoker@幹事 >ということで用件のみ。14番が起きたよ 15:40:05 Sir Oct >おおー 15:42:29 Mitsu-ME >やっと起きたか 15:45:10 16ポンド >では、さっそく試してみないとっスね 15:46:32 Mitsu-ME >ネタはあるのか? 15:47:10 Sir Oct >お前もたまには自分で考えろ 15:47:15 BadJoker@幹事 >仕込んでおいたネタがあるんで展開します。メール見てね 15:47:50 Sir Oct >了解 15:52:14 16ポンド >受信完了、て、アジアってことはまた俺の仕切りっスか 15:54:27 Sir Oct >ガンバレ仕事人ー。支払いのツケはもってやるから安心しろ 15:55:18 Mitsu-ME >管理人が出張ってくるだろ 15:57:00 16ポンド >また清掃係の人に邪魔されるとかなわんっスねえ 15:59:41 BadJoker@幹事 >スタッフつけるよ。Sひとり 16:02:03 16ポンド >Sってもピンキリっスからねえ。使えるの寄越してくださいよ 16:03:39 BadJoker@幹事 >間に合いそうならもう一人つけるよ。試運転だから、使い捨てでもいいでしょ。実際14番は現地入りさせないわけだし 16:03:40 Sir Oct >ようやくゴールが見えて来たところか 16:05:11 16ポンド >いや、全員揃ってからゲーム開始っスから 16:07:35 BadJoker@幹事 >先着の人は好きにやってていいけどね 16:10:43 Mitsu-ME >レポートは何時出せるんだ? 16:13:20 16ポンド >二ヵ月後ってとこっスかねぇ 16:17:19 BadJoker@幹事 >んじゃ、そのあたりでまたここで集まりましょ。またメール投げるから 16:20:22 Sir Oct >うへぇ出勤時間だ 16:21:53 16ポンド >また株情報寄越してよー 16:23:30 Sir Oct >それはインサイダー(笑 16:26:25 Mitsu-ME >どっちも金に困ってないだろアンタら 16:26:27 Sir Oct >じゃあ落ちます。いってきまーす 16:26:28 *****Sir Oct さんが退室しました******** 16:27:18 16ポンド >いってらっしゃい。じゃあ俺も落ちます。ネムイー 16:27:23 *****16ポンド さんが退室しました******** 16:30:33 BadJoker@幹事 >うーす。じゃあお開き〜 16:31:00 *****BadJoker@幹事 さんが退室しました******** 16:37:43 Mitsu-ME >……俺にも早く出番がほしい 21:43:10 Mitsu-ME >……ひとりあそび 21:49:15 Mitsu-ME >ダレモイナイ 16:52:23 Mitsu-ME >……つまんないから戻す 16:52:59 *****Mitsu-ME さんが退室しました********         ●1     「アンタがもう少し早く気づけば、こんな事にはならなかったんだよ!」 「……あのねえ。崩れかけた足場を真っ向から無視して震脚を踏み込みまくったのはおまえだろうがよ」  湿った文句に湿った反論を返し、おれは黙々と歩を進めた。新宿から高田馬場方面へと向かう明治通りの途上である。金は無いが食い物にはうるさい学生が集うこの通りには、安くて美味い飲食店がひしめきあっており、普段なら歩いているだけでそれなりに楽しめる場所だ。だが今、衣服の裾からアスファルトへぱらぱらと茶色い粉を撒き散らしながら、肩を落として進むおれ達二人組にはそんな感性は残されていなかった。全身は泥まみれの状態のまま乾燥してしまい、さながら自分の田んぼから間違って這い出てしまった瀕死の泥田坊と言ったところか。  二人の泥田坊を容赦なく炙る陽射し。午後に入っても気温は下がらなかった。夏の間猛威を振るいに振るいまくった太陽は、九月に入っても一向に衰える気配を見せず、まだまだ都内は不快指数過剰の牢獄である。すれ違う人々の視線がとってもイタイ。いっそ本当に泥田坊よろしく腕を差し出して、田を返せえぇぇえ、とでも叫んだ方が気が楽になるかも知れない。 「あげくの果てに地下鉄では駅員さんに乗車拒否されるし。知り合いが乗ってたらどうするんだよ、ボク、毎日通学にも使ってるのに」  我がアシスタント、七瀬真凛がぎゃあぎゃあと抗議の声を上げ、泥に汚れたシャツと、全身から噴き出す汗がもたらす不快感に拍車をかけた。そろそろ政府は残暑だの立春だのという言葉の定義を変えたほうが良いのではないか。一歩踏みしめるたびに足元から這い上がってくる、靴中の泥の生ぬるい感覚と相まって、不覚ながらこのおれ亘理陽司も、いささか苛立っていた模様。 「はん。そんなら運転手に送り迎えしてもらえばいいだろうが。旧士族のオジョウサマはおれ達ショミンとは同じ土を踏みませぬわオホホ、みたいな感じでさ。もっともその様じゃー誰がどう見てもタニシ摂りの子供だけどな」 「ふんだ、ボクが居なければアンタは今そんな事も言ってられなかったくせに」 「はっ、もともとおれがあそこまで追い込まれたのも元はと言えばお前が――」  先ほどからこんな益体もない会話を延々と繰り返している。もう何巡目か考える気力も無い。      事の発端は今日、九月下旬の土曜の朝に遡る。中学や高校ではすでに二学期が始まって久しいが、おれの大学ではまだギリギリ夏休み。この休み中に引き受けてきたフレイムアップの仕事も、先日長野から都内までを一夜で駆け抜けたことでどうにか一段落がついた。おれは他の連中のアシストに入ったりしながら比較的穏やかな(あくまでも比較的、だ)日々を送っていたものだ。そんな中に舞い込んで来たのが、東京都西部の某町に頻繁に出没して店先や田んぼを荒すという猿の駆除依頼だったのである。  突拍子もないと思われるかも知れないが、こういった動物関係の依頼はおれ達にとってオーソドックスの部類に入る。浜辺に打ち上げられたイルカを助けたり、高度に統率された野犬の群れと死闘を演じたり。二十一世紀であろうと、都会を一歩離れれば、今なお動物や自然達と真っ向から向き合い戦い、あるいは共生している人がいる。これは別におれ達エージェント業界に限ったことではない。  あるものは自然のバランスの変動の影響(それを自然破壊と呼んでいいのかはおれにはわからない)で住処を追われ、あるものは無責任な人間の餌付けに味を占め、猿やカラスが人里に降りてくる。彼らのもたらす被害は全国で年々深刻化している。今回の依頼は町を荒らす猿を捕らえ、これ以上被害が広がらないよう処置を施すというものだった。  威嚇も罠も通じず、動物保護の観点から射殺も出来ない猿達。ほとほと困っていた町の人々と、彼等に協力する猟友会の皆さんと、東京にいながら連携を取り、どうにか猿の群れを追いたて一箇所に集めたのが昨日の夕方。そんで、仕上を施すべく朝一番で新宿から中央線に乗ろうとしたおれに、学校が休みだからとついてきたのがこいつ、七瀬真凛だった。そこまではまあ、いつもの事なのだが。    結果は――散々なものだった。    おれの能力で猿達を檻の中に誘い入れ、今回チームを組んだ獣医出身のエージェントに、人里に二度と近づかないように処置を施してもらう。万事うまく行っていたはずの作戦は、おれと真凛のささいな連絡の行き違いから破綻した。檻から脱出し街中を逃げ散る猿を、おれ達や猟師さん、最後には町民総出で追い掛け回すハメになったのである。そして、乱戦状態になった猿を捕まえようと真凛がその馬鹿力を解放した結果、足元のあぜ道が崩壊し、おれ達は二人揃って、まだなお水の残る晩生が植えられた田んぼに転落するハメに陥ったのだった。 「帰りの中央線の視線も痛かったな……」  どうにか仕事そのものは成功させたものの、着替えも持ってきておらず、おれ達は中央線最後尾に新聞紙を敷いて、泥だらけの身体でひたすら無言で立ち尽くしていた。心の中では『おれはオブジェです、おれは置物です、気にしないでください』と必死に訴えていたものである。おれ達の哀れっぷりに同情してくれたのか、乗客が多くなかった事も幸いしたのか。車掌さんに放り出される事も無く何とか新宿までは戻ってこれた。だが、結局都内で乗車拒否され、こうして明治通りをとぼとぼと歩き、徒歩で高田馬場の事務所まで戻っているという次第。三十分以上歩き続けているが、電車内で無言だった分、互いの罵詈雑言は尽きる事は無かった。      明治通りを右に折れしばらく歩くと、飲食店の並びはより賑やかになってくる。賑やかであればあるほどおれ達は一層身を縮め、こそこそと道の端っこを歩いた。  そしてようやく古書店『現世』の看板が眼に入る。ここから裏手に周り、スチール製の階段を昇りきれば、二階のテナントとして入居している『人材派遣会社フレイムアップ』の扉の前に辿り着くのだ。どうにかゴールしたものの、こんな格好では中にも入れない。おれはインターホンを荒っぽく押して、泥まみれの体をベランダの手すりに預けて舌打ちした。 「……だいたいなあ、お前、なんで言われもしないのについてきたんだよ」  ずるずるとおれの前に立っていた泥田坊の子供がこちらを振り返った。 「別にアンタについてきたわけじゃない。昨日の夜に浅葱さんから電話で頼まれたんだよ。アンタ一人じゃ頼りないから護衛してくれって」  おれは鼻でせせら笑った。 「護衛!護衛ね。その割には率先して猿の群れに突っ込んでったけどな」  真凛の眉が跳ね上がる。 「……ちょっと。そもそも攻撃の指示を出したのはアンタでしょ?」 「おれは足止めしてくれと言っただけなんだがな。まったくお前と来たら猪突猛進しかないっつーかケンカ馬鹿っつーか。ホント何でお前みたいにガサツな男女がおれのアシスタントなんだろね」  すると真凛は泥まみれの格好のまま腕を組み、こちらを見据えた。先ほどまでのような怒りはなりを潜め、逆にいやに冷淡な視線を向けている。 「本当、なんでボクがアンタのアシスタントなんだろう。直樹さんとか仁さんとか、須江貞さんとか、みんなきちんとした人なのに。毎回毎回ボクの仕事ってひ弱なアンタの護衛ばっかり。これじゃどっちがアシスタントかわからないよ」  いつもならコイツのこの手のコメントには冗談めかして侘びを入れるおれだが、どうしてかこの時は口が勝手に動いていた。堂々巡りの愚痴は、いつのまにかあらぬ方向へと逸脱しはじめていたようだ。 「そりゃお前の取柄なんて戦闘力だけだからな。護衛と攻撃以外に使い道が無い。だいたいそう思うなら外れりゃいいだろ。こっちだってもともとおれ一人の方が身軽なんだ。やる気の無いアシストなら要らねえよ」 「ボクだってそうしたいよ。でも残念でした、他の人はアンタと違って一人で自分の身も守れるんだって!」 「……ンだと!?」 「何だよ!?」  腰に両手を当ててキバを剥く真凛に応戦して、おれも泥まみれの袖をまくりあげる。事務所の扉の前で、三軒先まで聞こえるほどに響き渡っていた見苦しい口喧嘩は、ついに見苦しい物理戦闘へと――   「お帰りなさい。ご苦労様でした、陽司さん、真凛さん」    ――突入する寸前に、開いた事務所の扉によって遮られていた。出鼻をくじかれ、扉の反対側の真凛も気勢を削がれ立ち尽くしている。まるで計ったようなタイミングで扉を開いた人物――艶のある黒髪と知性の匂いを漂わす眼鏡が印象的なその女性に、おれは些か恥じ入って答えた。 「は、どうも。只今戻りました、来音さん」         ●2      事務所内に備え付けられたシャワー室に飛び込み、熱いお湯で頭の天辺から全身を洗い流す。事務所に買い置きしてある予備の下着と無地のTシャツ(三組で千円の奴)に換え、ロッカーに吊るしてあったカーゴパンツ(ファッションアイテムではなく純然たる米軍流出品)を履いて、ようやくおれは人心地を取り戻す事が出来た。バスタオルを右肩にかけ、サンダルをつっかけてごく小さな脱衣所を出る。と、 「……」 「何だよ」 「そっちこそ何だよ」  なんのかんのと着替えを用意するのに手間取り、おれより後の順番になった真凛が立っていた。さっぱり洗い流したはずの不快感がまたぶり返す。 「……フン!」  二人同時にそっぽを向き、真凛は脱衣所へと入っていった。おれは振り返り様に、親指を立てて下に向けてやったが、扉を閉めたあいつの目には入らなかったようだ。くそっ。    と、そんな荒んだおれの心に染み渡るような馥郁たるコーヒーの香りが漂ってきた。見れば、事務所内に割り当てられたおれ用の事務机の上にコーヒーカップが一つ置かれている。喉の奥がぐびりと鳴った。そういえば泥まみれの不快感ばかり気になっていたが、昼飯を食べて以降何も飲み食いしていない。おれはとるものもとりあえず卓上のコーヒーを流し込んだ。ホットコーヒーだが適度に冷めており、シャワーで火照った身体にはこのくらいがちょうど良かったらしい。一気にカップを空にして、そこで初めて己の無作法に気づいた。カップを片手に、傍らの、このコーヒーを淹れてくれた女性に照れ隠しのコメントを述べる。 「うぅーん、やっぱり来音さんの珈琲を頂くと心がなごむなぁ。香ばしい味わいと深いコクがささくれだった精神を癒してくれるというか。この仕事をやってて唯一幸せな気分になれますよ」  ……まあ、実の所インスタントではあるのだが。ついでに言うとビールならエクセレントだった。 「まぁ、お上手ですねー、陽司さん」  そういって昼下がりの秋の木漏れ日のような値千金の微笑をおれに注いでくれる女性は、笠桐《かさきり》・R《リッチモンド》・来音《らいね》さん。腐れ縁のおれの悪友、笠桐・R・直樹《なおき》の姉上ではあるが、おれに言わせれば月とスッポン。レアメタルと産業廃棄物。東証一部上場優良企業と粉飾決算発覚株価大暴落企業。到底同じ血を引いているとは思えない素敵な女性なのである。      ぬけるような……としか乏しいおれの言語力では表現できないが……肌。なんでも母方に東欧の貴族の血を引いているとかで、東洋人のそれではないなんとも艶っぽい白さ。そして髪は陽に透かしたときだけわずかに紅く見える黒。たっぷりとしたボリュームのある黒髪が、艶を波打たせながら背中まで美しいラインを描いている。日本人ばなれしているのはそれだけではなく、すらりと伸びた長い脚と、俺だって名前くらいは知っている高級ブランドのスーツをまったくさりげなく着こなしている、細いながらもメリハリの効いたプロポーション。ファッション誌のモデルだって簡単につとまりそうだ。  そして容貌の方はと言えば、これがまたそこらの女優が裸足で逃げ出したくなるレベル。今日は事務仕事に没頭していたのだろうか、ベタな黒ぶち眼鏡をかけている。その奥で瞬く、夜の海のように深く吸い込まれそうなダークブルーの瞳。オックスフォードの法学に特化したカレッジを卒業した実績を持つ知性と、貴族としての気品を明確に湛えた桜色の唇。才色兼備とはまさにこのことである。  修めた法学の知識と実務の腕を買われ、ウチの浅葱所長に法務担当として雇用された。現在ではこのフレイムアップの経営に関する法律手続き一式をほとんど一人で遂行している。おれ達アルバイトや、実働部隊の隊長である鶫野《つぐみの》仁《ひとし》サンのように現場で実務に携わる事は殆ど無いが、おれ達の現場からの要請があれば、すぐに必要な法律や社会の情勢、企業データなど様々な情報を調べ上げてくれる。バックアップスタッフとして理系担当の羽美さんと対を為す、文系の要である。  そしてもう一つ特筆すべき長所は、殊にアクの強いウチのメンバーの中で、数少ない真っ当な性格の持ち主というところだろう。彼女と、おれと、そしてもう一人、経理担当の桜庭さんという老紳士。この三人が、業界内で蛇蝎の如く忌まれる、あるいは悪魔の如く恐れられるトンデモ会社、『人災派遣のフレイムアップ』の常識の砦なのだ。     「とんでもない目にあったもんですよ」  おれが一息で飲み干してしまったコーヒーカップに、すぐに来音さんがお代わりを注いでくれたため、今度はじっくりと味わうことが出来た。どうやら他のメンバーは例によって出払っているらしい。 「所長は?」 「下の『ケテル』で商談中ですね」  この事務所が入っているのは、古書店『現世』のビルの二階である。一階には『現世』と、もう一つ、『ケテル』という喫茶店が入っている。小さな店だが、渋めの調度類が落ち着いた雰囲気を醸し出してくれるので、所長が気合を入れて商談する場合はよくここを使うのである。となると、事務所の中に居るのはおれと来音さん。そしてまだシャワーを使っている真凛だけのようだった。おれはそちらに視線を向けると一つ舌打ちをした。 「随分災難だったみたいですね」 「ええ、あのバカのおかげで。……っと、これ、レシートです」  仕事中に背負っていなかったため泥まみれをまぬがれた愛用のザックから、一枚の紙を取り出して渡す。おれ達に与えられる仕事の概要は、通常『オーダーシート』と呼ばれる紙に一枚にまとめられて送られてくる。そして、今回のように依頼者とともに現場に赴く場合は、この『レシート』と呼ばれる複写式の紙を持って行く。仕事を達成した後、依頼人からここにサインを貰うことで、初めて仕事終了となるのだ。そしておれ達は、このレシートを事務所に納める事と引き換えに報酬を貰うのである。それを受け取った来音さんが、口元を押さえて必死に笑いをこらえている事に気がついた。 「な、何っすか?」 「いえ、陽司さんのさっきの台詞、シャワー待ちしている時の真凛さんの台詞と一言一句同じでしたから」 「やめてくださいよ、あんな単細胞と一緒にするのは」  おれは吐き捨てるように言った。来音さんはおれのそんな顔を三拍ほど見つめた後、彼女自身の席――おれの隣――に腰掛けた。 「そうですね、じゃあ所長も商談中ですし、私が任務報告を承りましょうか」  極上のスマイルであった。        おれの任務報告の骨子を手早くレポート用紙に書き写し、お疲れ様、と来音さんは一言述べた。おれは恐縮しつつ、心の中でガッツポーズ。来音さんに報告すれば、それは自動的にメンドクサイ任務報告書を作成してくれる事を意味するので、おれ達現場スタッフとしては二倍三倍にオイシイのだ。 「でも正直言いますと、真凛さんへの対応は賛同しがたいものがありますわ」 「うぐ」  これはおれには堪えた。滅多に文句を言わない来音さんだからこそ、こういう指摘はズンと来るのだ。感情ではなく冷静な分析に基づいたものであり、つまりはだいたいにおいて正しい。 「い、いや確かに指示に曖昧な点があったところは認めますがね。それを突撃命令と解釈するあいつの思考回路の方に問題があるっつーかなんつーか」 「仕事上の指示の行き違いについては、よくあるトラブルですから特に問題ではありませんよ。問題は、その後の喧嘩ですね〜」 「う……。そっちですか」  仕事上では常にきびきびしている来音さんだが、プライベートではちょっとのんびりした話し方をする。つまりは、これはプライベートな話。仕事上では問題はないが、おれ個人の真凛への対応がよろしくない、と指摘されているわけだ。 「ケンカはともかくー、男女云々の発言は大変よろしくありませんねぇ。女の子はそういう言葉にとっても傷つきやすいんですよ」 「オンナノコぉ?あれのどこが?」  オンナノコというよりは斧《オノ》鉈《ナタ》鋸《ノコ》って感じですが。 「どこからどう見ても可愛い女の子じゃないですかあ」 「どっからどー見てもゴツイ男の子じゃないですか」  まったく、お嬢様高校のブレザーなんぞより詰襟の学ランでも着せた方が万倍似合うというものである。 「仕事上の点は、陽司さんも譲れないものがあるでしょうからともかく。その一点についてはきちんと謝っておいた方が良いですよお」 「ええー!?なんでおれが、」 「陽司さん」  来音さんはおれの方に身を乗り出して一言。 「良いですねー?」  あ。表情は笑顔だけど目が笑ってない。 「わかりました、わかりましたよ」  おれは降参のポーズで手を振った。どのみち来音さんにお願いされて断れる霊長類ヒト科のオスなどまず居ないのだ。  ……はー。  しゃーねえ。ここは年長者として、分別のあるところをガキんちょに見せてやるとするか。とおれが決意した途端、間髪要れず事務所のドアが開いた。 「やっほー、亘理君帰ってたんだ、おっかれー」  所長が帰ってきた。っていうか折角あるんだからチャイムくらい鳴らそうぜ。上機嫌なその声から推察するに、 「新規の依頼ですね、嵯峨野所長」  敏腕秘書モードに戻った来音さんがふわりと席を立つ。そこまで言われてようやくおれは、所長の後ろにもう一人、スーツ姿の男性が佇んでいる事に気づいた。何やら巨大なボストンバッグを背負っている。所長はその男性をパーテーションで区切られた応接室に通すと、来音さんを手招きする。 「来音ちゃんもお疲れ。で、スエさんと仁君のチームは今どうしてる?」  問われた来音さんの顔が曇った。 「仕事自体は順調に進捗しています。ですが、ヤヅミが抱え込んでいた利権に集まってくる勢力は想像以上に多数だった模様です。彼等を排除しつつ、依頼者の債権を回収するにはあと一週間欲しいと須江貞チーフからの連絡です」  ヤヅミ、とは日本の大手都銀の一角であるヤヅミ銀行の事である。先日、とある事件の影響により社内の致命的な不祥事が暴露され、一気に社会的信用を失った。ヤヅミと提携している取引先は軒並み浮き足だち、早くも水面下では船から逃げ出すネズミや、おこぼれに預かろうとするハイエナ達の暗闘が始まっているのだ。 「そかー……。調査任務だしあの二人が最適だと思ってたんだけど。んん」  言うや、所長の視線がおれに向く。あー、これひょっとしていつものパターン? 「亘理君、唐突だけど一件、」 「おれはイヤですよ」  ここで即答出来るあたり、おれもここに来てから随分鍛えられたよなあとか思う。しかし我らが浅葱所長はそんなおれを見据えて一言。 「今月のアパート代、未払いだったよね?」 「な、何の事やら」 「あれー違った?亘理君の生活パターンからすれば、今回の猿退治の報酬でようやく今月の食費が確保。次でようやく固定費に充当出来るってあたりじゃない?」  違った?等と言いながら自身の分析を微塵も疑っていやがらない。ええ、まさしくその通りですよ。だが、今日だって散々な目に会ったのだ。しばらくは休みを、 「同日複数の依頼にはボーナスがつくわよ」 「…………仕方ありませんね」  ”…………”の間に、おれなりの葛藤があった事にしておいて頂きたい。 「じゃ、さっそく応接室に来て頂戴。依頼人がお待ちよ」 「うーっす、了解」  応接室に消えていった所長を見送ったあと、おれは何か着替えがないかと探した。だが、しょせん夏場にロクな服が残っているはずもない。結局おれは、Tシャツとカーゴパンツのまま応接室に向かう事にした。と、 「…………」 「……おう」  脱衣所から出てきた真凛と出くわした。出会い頭で一度面食らった表情になったものの、すぐにそのツラはシャワーを浴びる前同様、不機嫌極まりないものになる。と、後ろの来音さんから何か異様なプレッシャーが発せられている。 「あのさあ、」 「……なんか用?」  無言の圧力。うう、年上の余裕を見せるんでしょ。わかってますって。 「さっきは、」 「亘理君?早く来て頂戴」  パーテーションの向こうからちょっと苛立った所長の声が響く。ビジネスには妥協のない人だ。怒らせると何かとマズイ。 「わかりましたわかりました」  おれは慌てて応接室へと向かった。 「真凛さん、ちょっといいかしら?」  その後ろで来音さんが真凛を呼んでいるのが目に入った。         ●3     「プルトン専属鑑定士の小栗弘一です」    きちんとスーツを着込んだ品の良さそうなその男性はそう名乗った。 「プルトンの名刺ですか。割とこの業界長いですけど、仕事でこのマークを見たのは初めてですね」  おれは特徴的なロゴマークの入った名刺をなんとなく弄んだ。ビジネス業界ではともかく、一般の、というより女性の世界では、このマークを知らない者はいないだろう。  プルトン。高級バッグやトランクを中心とした数々の魅力的なブランド品を製作している超有名企業である。十九世紀フランスに誕生して後に世界中で高評価を得、その後二十一世紀の現在に到るまで、その秀逸なデザインは世界中の(主に)女性を魅了してやまない。  ……と言ってはみても、所詮は男の視点で語れるのはこんなところまでだ。より詳細な情報が知りたければ、そこらの女性にこのブランドについて尋ねてくだされ。嬉々としてこの十数倍の情報を語り尽くしてくれるだろう。問題は何故かその後、プルトンのバッグをプレゼントせざるを得なくなることなのだが。ちなみに高級ブランドなので当然一個あたりウン万円からウン十万円は平気でシマス。 「彼女に貢ぐ時に買うバッグ、っていうイメージしかありませんねぇ」  おれはひがみっぽく呟いた。いかんな。どうも今日は口調がマイナス方向に偏りがちだ。すると傍らの浅葱所長が、やれやれと肩を竦める。 「亘理君、プルトンのバッグやトランクはもともとビジネスマン向けに生み出されたものなのよ。一流の仕事をする男性にプルトンを愛用している人は本当に多いの」  小栗さんも頷く。 「特に女性の方には、季節ごとに新しいものを買い足される方も多いのですが、使い込むという点については男性のお客様の方が多いですね。補修や打ちなおしといった要望をよく頂きます」 「安物は三年もてばいい。だけどプルトンのバッグなら三十年もつから、実は安物の十倍の値段を出しても買う価値があるってワケ」  その話は聞いた事がある。おれの知り合いのとある銀行員も、私生活ではTシャツ一枚買うのにも値切るというケチンボだったが、仕事で使う背広やバッグには迷わず高級品を選んでいた。安物を買ってもすぐダメになって買いかえなければならない。それならば長持ちする高級品を買い、きっちり使い込んだほうが味も出る、という思考なわけだ。世間では見た目より中身、という言葉もある。だが、ことビジネスにおいては、まず見た目で相手を引き付けない限り、中身を見せる機会そのものが巡ってこないという事がよくある。背広やカバンで見た目が演出できるなら、充分”生きた”投資なのである。戦場で自分の命を預ける装備に安物を選ぶような人間は、死んでも文句は言えないのだ。 「ま、そもそも無理をしてもブランド品が買えないおれのような人間には、まだあまり意味が無いわけですが」  ちなみにおれが愛用しているザックは某アウトドアメーカーの蔵出品である。これはこれで耐久性と防水性がケタハズレなのでおれは重宝している。 「ともあれ。高級ブランドの代名詞とも言える御社の御依頼となると、案件はやっぱり」 「――はい。近頃出回っている偽ブランドについてのお願いです」  やっぱりそう来たか。     「我々プルトン社の歴史は、そのままコピー品との戦いの歴史でした」  既に所長には説明し終えているだろうに、小栗さんはおれに丁寧に再説明してくれた。 「十八世紀に初代プルトンが、トランクの上に布地を貼るという画期的な製法を開発してから五年後、すでに各地でそれを模倣した安いコピー商品が発生していました。初代はそれを嫌って新しい布地の組み合わせを発明しましたが、それもすぐに模倣されることになりました。以後百五十年、我々は新製品の開発と、それに追随するコピー品の誕生というサイクルを繰り返してきました」  度重なるコピー品の発生もあったが、結果としてプルトンは勝利を収めた。例え優れたデザインがすぐにコピーされてしまったとしても、確かな技術力と良質の素材までは埋め合わせる事が出来なかったからだ。 「――現在まで、我々の造るものの品質は、決してコピー品の類に追いつかれるようなものではありませんでした」 「おれもアジアの裏通りでその手のパチモノは随分見かけましたが。一目で偽物とわかるものばかりでしたねえ」  中学生の頃からそんな所に入り浸っていた我が人生を振り返り、ちょっと自己嫌悪。 「しかしここ十数年、その品質そのものが追いつかれつつあるのです」  俗に言うスーパーコピーである。本物に近い素材を使い、本物に近い製法で仕上げる。それらの多くは人件費の安い中国などの工場で作られており、またもちろんデザイン料も不要のため、本物と同程度の材料費を投入しても充分に安いものが供給出来るのだ。美術品の贋作同様、最近の偽造技術は極めて高い水準まで引き上げられてきており、クローンと呼ばれるものも出回るようになって来た。すでに税関の職員や、プロの仲買人にも見破る事が難しくなっている。大きな声では言えないが、誰にも気づかれないまま、精巧なスーパーコピーが某大手デパートの店頭で売られていたなんてこともあったらしい。 「この手のモノは一度当たればぼろ儲けなのよね」 「まあ、銃器、麻薬、偽ブランドは密輸品の御三家ですしね……」  もちろんこんな手の込んだ大規模な偽造を、そう簡単に出来るわけが無い。そういった偽ブランドメーカーの後ろには、だいたい国際的な犯罪組織やマフィアがついており、彼等の資金源となっている。世間には偽物と知らずに買わされる人はともかく、中には偽物と知りつつ買ってしまう人もいる。だがそれは明らかな犯罪行為であり、またその金が暴力組織の利益になっているという事は、よくわきまえておくべきだろう。 「専属の鑑定士さん、という事はこの手の偽ブランドの判別がお仕事という事ですね」  小栗さんは頷いた。この人はプルトン社に属し、各地に出回るプルトンのブランド品が本物か偽物かを鑑定する事が仕事なのだ。 「特に問屋さんから、自分の仕入れたものを判定して欲しいと言われる事が多いのですが……。今回は少し違います」  そう言うと小栗さんは巨大なボストンバッグを開き、中から三つのバッグを取り出した。大小種類はあるが、いずれもプルトンのバッグ。この名刺と同じロゴマークが入っている。 「これ、もしかして偽物……には到底思えませんねぇ。まさしくクローンだなこれ」  おれは以前にアパレル企業に関する任務についたときに、見分け方の初歩の初歩を教わった事がある。ロゴの印刷のズレ、皮の質(安物は手触りが悪い)、そして裏面の縫製(手間がかかるため、粗雑なコピーではここに手抜きが現れる)。素人なりにチェックしてみたが、まったくお手上げ状態である。すると小栗さんも一つ大きなため息をついた。 「ええ。鑑定士の私から見ても、本物に間違いありません」  おれはがくりと肩を落とした。 「な、なんだ本物ですか。思わせぶりに出さないでくださいよ」  話の流れからすれば偽物だろ普通。 「それがねえ亘理君。問題はそこなのよ」 「は?」 「これは、ネットオークションで六万円で競り落としたものです。こちらは五万八千円、これは七万四千円」 「んな馬鹿な!?」  一時期とある女性に貢がされていたおれの経験から言えば、いずれも並行輸入の格安店で購入したとしても十五万円以上は固い代物である。……すまん、今の発言はスルーして貰えるとありがたい。 「どう考えてもパチモン価格じゃないですか」 「ええ。実はこのようなブランド品が最近、ネットオークションで大量に出回り始めているのです。格安で出展され、この程度の値段で落とせてしまう」 「……でも、本物なんですよね?中古品とか?」 「いえ。新品です。そしてこれは今年のモデルです。我々製造側が言うのもどうかとは思いますが、これを六万円で売りに出して利益が出るはずが無い」  ……つまり、話を整理すると。 「ネット上のオークションで、本物が、大量に、赤字確定のはずの値段で出回っているということですか?」 「そういうことよ亘理君。これが誰かものすごく気前のいい大金持ちの気まぐれで無いとしたら」 「……誰かが非合法な手段で本物を手に入れ、安値で売り捌いている。あるいは」  小栗さんがおれの言葉を引き取った。 「……私ですら本物と鑑定せざるをえないこれが、偽物かも知れないと言うことです。もしこれが偽物であれば、我々にとっては非常な脅威となります。御社にお願いしたいのは、一連のこの品物の出所を調査し、真贋を突きとめて頂きたいのです」       「どうしたものかなぁ」  小栗さんは忙しい人らしく、すぐにまた会社へと戻ってしまった。おれはと言えば、とりあえず引き受けたものの、まず打つべき第一手が思いつかず、自分の席であてどもなくペンを回している次第。今、来音さんがネット上で該当するオークションのログを集めてくれているので、それを見て方針を決定したいところ。 「……また仕事?」  気がつくと七瀬真凛がおれの後ろに立っていた。先ほどのような怒りのオーラはとりあえず也を潜めたようだ。……ていうか、その。餌をくれるのかいじめるのか判らないながらもこっちににじり寄ってくる犬のような表情はいかがなものか。まあ、おれとて分別のない大人ではない。泥を洗い落としてまっとうな思考を取り戻せば、譲歩する大人の余裕も無きにしもアラズ。 「あ、ああ。まーな。土日で二本っつーのも久しぶりなわけだが」 「ボクは……どーすればいいのかな」  ……むぅ。こいつも来音さんに何か言われたクチか。怒りのオーラは抜けたらしいが、なんだかしゅんとしている。普段が普段なだけに、あんまり元気がないとこちらも調子が狂う。 「ああ。今回は地道な調査任務だし。お前は帰ってゆっくり休んでくれ」  それはおれなりの謝意だったのだが。 「どうして……?」  何故か真凛は視線を床に落としていた。 「そんなにボクは役立たずかな?喧嘩にならないから居ても意味が無いってこと!?」 「べ、別にそんな事は言ってねえよ」 「言ってるじゃないか!」  ……あ、ムカ。 「ンだよ。さっきまで散々おれと組むのはイヤだとか言ってたくせに。希望どおり帰れって言ってやってるんだから帰れよ!」  真凛がこっちに一歩詰め拠る。おれは飛び退って構えた。 「や、やる気かよ」  だが、予想されていた打撃は飛んで来なかった。 「言われなくても帰るよ」  とだけ呟くと、おれに背を向けた。 「何だよ、せっかく……」  語尾はよく聞き取れなかった。机の上に置いてあった自分の荷物を掴むと、真凛はとっとと事務所を出ていった。 「何怒ってんだよ、あのバカ」  ……んなつもりじゃあ、なかったんだがなあ。     「亘理さーん?」  のんびりした声だが、おれはまるで雷に撃たれたように飛び跳ねる。プリントアウトした書類の束を手にした来音さんがそこにいた。 「な、なんでしょう、来音さん」 「今回の仕事に必要な情報はプリントアウトしてここにファイルしてあります。電子情報も順次社内のサーバーに集めておきますので、必要に応じて『アル話ルド君』でダウンロードしてください」 「りょ、了解です」 「まず捜査すべきポイントも目星をつけましたので、明朝九時にそちらに向かってください。あとは亘理さんのやり方でどうそ」 「……はい」 「それでですね〜」  ……なんでこの人の声は間延びしている時の方が迫力があるのだろうか。 「真凛さんにはあ、ちゃんと謝れたんですかね〜?」 「い、いえまあその善処はしたのですが」 「うふふふふ」  え、笑顔だけでおれの言葉を否定しないでくださいっ。 「真凛さんがね、さっき亘理さんが商談中の時、私に相談しに来たんですよお」 「……何をです?」  おれの疑問に直接は答えず、来音さんは何故か、はあ、とため息をついた。 「所長からは通常どおり二人一組で仕事にあたるように指示が来ています。あの子には私から連絡しておきますから。今日は亘理さんも帰ってゆっくり休んでください〜」 「……わかりました」  どのみちこれ以上ここにいても出来る事はなさそうだ。処置なし、とおれは口の中で呟いて、事務所を後にした。         ●4      明けて翌日、東京都豊島区池袋。  日曜日の午前中、ごったがえすサンシャイン60通りを抜けてしばらく進み、道なりにサンシャインシティへ。イベント会場としても有名なワールドインポートマートと豊島郵便局の間を抜ける。 「ここはその昔、直樹の野郎につれて来られた事があってなあ。昼飯の借りの代わりに何か色々本を買出しさせられた事があるんだ」 「そうなんだ」 「他にも建築事務所にバイトの振りをして潜入したりな。色々と馴染み深いところだよ」 「ふうん」  ……あーやりにくいなくそっ。せっかくこちらが話を振ってやってるってのに。    来音さんにもらった情報によれば、出展者は全て同一の企業なのだそうだ。オークションと言っても出展者が個人とは限らない。むしろ中小規模の法人が、あらたなマーケットとして積極的にオークションを活用していることもあり、これは驚く事には当たらない。そこら辺を踏まえて、まずはその企業の事務所があるというここ池袋に、真凛とともにやってきたのであるが。  昨日あんな感じで決裂した次の日である。これが高校や大学なら、休むとか顔を合わせないようにするとかのしようもある。しかし例え犬猿の仲になっても仕事であれば同道し、会話もしなければならないところが社会人(見習い)の辛いところだ。おれなんかはそこら辺には慣れきっており、一日経てばもう過去の事、というように割り切っているつもりなのだが。それなりに会話を投げていると言うのに、奴は先ほどからずっとこんな調子で、おれの後ろをついて来ながら生返事である。これではこちらのテンションも続かない。油の切れた機械のような雰囲気のまま、おれ達は大塚方面へと歩を進め、目標のビルに辿り着いていた。     「株式会社ミサギ・トレーディング。……貿易会社《トレーディング》ねえ」  おれは目の前の雑居ビルを見上げて呟いた。大通りから一本外れた、ちょっとうらぶれた雰囲気の路地である。天気の良い日曜の午前中にあまりお邪魔したい場所ではない。手入れのされていない、昭和五十年代に建てられたと思しき古ぼけたビルディングは、正直申し上げまして、まっとうな会社が入っているとは思えマセン。ここの三階がミサギ・トレーディングなのだそうだ。ビル玄関の壁に取り付けられた看板を見ると、他の階には消費者金融やヤクザ屋さんの事務所が入っている模様。  おれはざっくりとビルの面積にあたりをつける。一フロアあたり十畳一部屋のオフィス。エレベーター無し、トイレや炊事場は共同。事務員が三人もいたら狭くてしょうがない、というところだ。ネットオークションに出品しているのであれば、当然、現物のバッグがどこかに保管されていなければならない。しかし、このフロアにそれだけの在庫を積んでおくのは到底不可能だ。 「となると、ここではオークションの注文管理と発送指示だけしてる、という事だろうな」  現物はどこに保管されているやら。貸し倉庫か、どこかの工場か。とにかくここを取っ掛かりに、芋づる式に辿って行きたいところだ。 「……何かいい手はないかな?」  口に出してしまってから、ここには真凛しかいない事に気づいた。直樹や仁サンなら多少は意見を返してくれるだろうが、こいつではなあ。ましてやさっきからロクに口をきいてないときたもんだ。  ところが、 「メール便の人の振りをするってどうかな」  そんな答えが返ってきた。 「ボクの学校の友達が、都内でメール便のアルバイトをしてるんだ。私服だけど結構いろんなところに入っていけるって言ってたよ」  そりゃまた勤労な高校生だ。ってか、たしかコイツ女子高だったはずだが。 「ふーむ……」  おれは二、三度首を捻ると、一つ頷いた。 「そりゃあ、使えるな」 「そ、そうかな?」  だからなんでそこで妙に自信なさげなツラをするかなあ。 「おう。結構いいアイデアだと思うぜ。さっそくやろう」 「うん!」  さっきまでの不機嫌ヅラはどこへやら。なんかやたら上機嫌なんですがこのお子様。 「じゃあ、早くやろう!」  ノリノリなんですが。まったく、若いものの考える事はよくわからん。……まあいいや。とにかく仕事がやりやすくなったのは歓迎すべき事である。 「となれば、それなりの準備が必要だな」  おれは先ほどこの路地へ入ってきた大通りに視線を向けた。お誂え向けに、コンビニと百円ショップが確かあったはずだ。       「ちわーす、メール便のOMSでぇーっす!」  色とりどりのA4の封筒を大量に抱え、ウェストポーチを身につけ白い帽子を目深に被った好青年(つまりはおれ)は、勢いよくミサギ・トレーディングのオフィスの扉を潜った。 「鈴木様、鈴木則之様にお届け者です!」  宅配便の兄ちゃんがやるように、腹に力を入れて声を出す。変装のコツは『似せる事でなく、なりきること』である、と昔業界の先輩に教わった事がある。向こうが多少変だと思っても、こちらが堂々としていればバレにくいのだ、と。ウェストポーチと帽子、伝票とバインダー、ついでに着替えたストライプのシャツも、すべて百円ショップで調達したものである。もひとつ付け加えると、OMSと言うのは先日仕事をしたとあるエージェントの所属会社である。社名の無断借用ゴメンナサイ、と心の奥でこっそり謝る。  ほとんど予想を裏切らない造りのオフィスだった。採光の事をあまり考えていない窓にはブラインドが引き下ろされ、パソコンやプリンターは煙草のヤニで黄ばんでいた。型の古い事務机で構成された島で、パートと思しきおばさんが二人と、五十代くらいの額の後退したおじさんが仕事をしている。ちなみに観葉植物の類はない。 「あらー、郵便のひと?」  席を立っていぶかしげにおばちゃんの一人が駆け寄ってくる。 「いえ、メール便です!」  つとめて明るく返事をしつつ、辺りに目を配る。ぱっと見た限り、おばちゃん二人とおじさんの間に会話を頻繁に交わしている様子はない。そしてイヤでも感じる、一様にやる気の無い仕事っぷり(タイピングのリズムだけでもやる気のある無しは結構看て取れるのである。ついでに言えば、トイレの掃除がされていないオフィスは大概、経営か社内の人間関係が上手く行っていない)。  幸か不幸か、十九のみそらで無数のオフィスを見てきたおれには一発でわかった。ここはただのダミーだ。おそらくは注文を受けて、顧客に金の振込みを指示し、製品の発送を依頼するためだけに作られた会社だろう。ネットオークションで品物を捌いているのであれば、そもそもオフィスすらいらない。PCが一台あればすむ。では、わざわざオフィスを作っている理由は、と……。おれは持っている封筒を大事そうに差し出す。 「鈴木様、鈴木取締役への緊急の書面をお預かりしているのです。公的な証明書だとのことで」  しれっと口から出る嘘八百。この手のハッタリなら、大脳を使わずとも五分くらいしゃべっていられる自信がある。もちろんこの封筒、そこのコンビニで買って来たものに切手を貼って適当に宛名や住所を偽造したものである。 「すずき?うちに鈴木なんて人はいないけど」  訝しげなおばちゃん。 「そんなはずは。確かに鈴木取締役宛なのですが」  くらえ必殺、所長直伝営業スマイル。 「いないものはいないわよお」  おばちゃんにはそれなりに効果があった模様。 「おかしいですねえ。すみません、御社の社長は何と言うお名前ですか?」 「うちの社長?実佐木《みさぎ》康夫っていうの。ほら、ミサギ・トレーディングだから。ほとんどここには顔出さないけどねー」  うん、それは知ってる。 「社長さんが顔を出さないんですか?」 「そうなのよー。ここの会社ったら、私達に仕事をやらせるだけで、偉い人が二人、ときたま顔を出すだけなのよ」 「へええ。偉い二人というのは、その実佐木社長と、鈴木取締役ですか?」 「そんな名前じゃないわよ。特別顧問の……えーと、なんだっけ。小島さーん」  小島さん、というのはもう一人のおばちゃんのようだ。ここでおじさんが呼ばれないあたり、おばちゃんズとおじさんの日ごろの仲が良くないことが看て取れる……っておれ、こんなことばっかり熟達してどうするんだろう。 「えーと。はい。そうそう。たしか糸川。特別顧問の糸川克利だったわ」 「糸川、克利ですね……。おっかしいなあ。こちら、フタバ商事さんからのお手紙だから間違いないと思うんですが……」 「フタバ商事?うち、そんな立派なとこと取引ないわよお」  入れ食い状態である。 「もしかしたらこちらで間違えたかも。御社とお取引があるのはどちらでしょう?」 「うちに来る手紙っていったら普通のお客さんと、仕入先のナガツマ倉庫だけだし」 「田中さん、いつまでしゃべってるのー」 「あら小島さんごめんなさいね」  ……ここらが潮時だな。 「ああっ!!」 「な、何よいきなり」 「こちら、もしかして『みどりローン』様のオフィスではないんですか?」  おばちゃんが、ああ、と納得の表情を浮かべる。 「『みどりローン』なら四階。この一つ上よ。ここはミサギ・トレーディングって言ったでしょ」 「し、失礼しました。焦って一フロア間違えてしまったみたいです」 「あらー。せっかちさんねえ」 「すいません、勘弁してください」  おれは誠心誠意アタマを下げる。 「んふふふ、赤くなっちゃってカワイイ。あなた新人さん?今度ここらへんに来た時は遊びにいらっしゃい。お茶とお菓子出してア・ゲ・ル」  はっはっは、それは本当にカンベンだ。おれは適当に言葉を濁すと、さも恥ずかしそうにミサギ・トレーディングを出た。       「あ、来音さんですか?あ、所長は留守ですか。いえいえいえ。ぜーんぜんOKです、っていうかむしろそっちの方がいいです」  おれは手短に状況を説明する。 「……というわけで。ええ。その実佐木社長と言うのは実権の無いダミー社長。それを定期的に監視しにくるのが、特別顧問の糸川克利じゃないかと思うんですよ、ええ、はい。糸川の名前で情報を探してみて欲しいんです。ヤクザ関係者かも知れませんので、警察情報から重点的にお願いします。それから……ええ。はい。主要の仕入先であるナガツマ倉庫の資本関係も洗ってください。あ。そうですね。倉庫の住所をまずメールで送ってください。おれ達は昼食を食べて、そのまま倉庫の方に行ってみます」  事務的な連絡を一通り終えると、おれは違法改造携帯『アル話ルド君』を閉じた。先ほど変装道具を調達した百円ショップの隣にあるコーヒーショップ、ドトールに入る。 「こっちこっち」  アイスコーヒーの巨大なグラスを抱え込んだ真凛が手を振っている。 「どうだった?」 「大当たりだったな。とりあえず次に行くべき所が見えたよ。飯を食ってる間に来音さんに調べものをして貰ってる」  おれはザックを受け取ると、変装道具を仕舞い込んだ。 「じゃあさあ。ここでゴハン食べてっちゃおうよ。なんか安心したらお腹すいちゃった」 「ああ。ごく個人的な意見としては、コーヒーだけ飲むならスタバだが、パンも食べるならドトールだしな。……って、なんだ安心て」 「え!?いや。何でもない何でもない。えーと、この『べーこんすぱいしーどっぐ』っておいしいのかな?」 「そりゃ美味いが。今食べるにはちょっと重いかもな。おれはベーシックにイタリアンサンドの生ハムにしよう」 「じゃあボクもそれにする!」  さっきからやたらと元気な真凛であった。とても朝と同一人物とは思えん。不機嫌だった理由はよくわかるのだが。上機嫌になった理由がわからん。……変な奴。なんか悪いモンでも食ったんじゃなきゃいいが。         ●5      一旦池袋から高田馬場の事務所まで戻り、ライトバンを引っ張り出して早稲田通りを東へ。渋滞に悩まされつつ皇居をかすめ山手線を潜り、隅田川へと辿り着いたら浅草方面へ川沿いに北上。すると、昔ながらの住宅街と古めかしい工場が混在する街並みが姿を現す。ちなみに運転中真凛がまた何か言っていたが無視。 「こんな天気のいい日曜の午後だったら、浅草で人形焼でも食い歩きしながらのんびりしたいところなんだがなあ」  おれはぶつぶつと文句を言いながらバンをコインパークに停車する。来音さんに調べて貰った『ナガツマ倉庫』の住所をカーナビに打ち込みここまでやってきたのだ。バンの中でとりあえず作戦会議。 「そこの角から見えるのがナガツマ倉庫、だが……」 「何だかとっても雰囲気が……」 「貧乏臭いなあ」  隣でまだ青い顔をしたままの真凛が頷く。高いブロック塀で囲まれた、小学校とグランドを併せた程度の敷地の中に、巨大な倉庫が三つ建っている。だが、いずれも窓ガラスにヒビが入っていたり壁が煤けていたりで、あまり使われているようには思えない。 「来音さん情報によれば、ナガツマ倉庫の経営は決して良くないらしい」  もっともこれはナガツマ倉庫に限った事ではない。近頃のビジネスの基本は、「なるべく在庫を作らない」だ。欲しいときに欲しいだけ手に入れるのが当たり前。使わないものを大量に保管しておくのは無駄なコストがかさむだけ、という考えである。こうなると、倉庫業の役目は薄くなってしまう。冷凍設備に特化したり、物流センターとして生まれ変われなかった倉庫会社はみな次々と規模を縮小したり、あるいはお台場や臨海副都心のように、埋立地の再開発計画に合わせ土地を売却したりしているのだ。 「ナガツマはこのいずれの道も選べないまま、景気悪化の一途を辿っていたらしい。んで、昨年とうとうスジのよろしくない金融会社から資本を借り入れるまでになっちまったと」  おれは来音さんが送ってくれたエクセルシートを『アル話ルド君』で表示しつつ解説する。 「まだまだ来音さんに調べて貰っているけどな。おれ達はおれ達で情報を集めていかないと」 「どうやって?」  おれはザックを叩いた。 「名案ってのはな、使いまわせるからこそ名案なのさ」      先ほどまでの変装に加えて、野暮ったいジャンパーを着込むと、とりあえずは業者っぽく見えなくもない。門を通ったのだが、守衛さんは席を外しているのか、そもそも配置されてないのか、不在だった。こちらが不安になるほど易々と敷地内に侵入すると、おれは傍らの、同様に帽子をかぶったちっちゃいのに声をかけた。 「倉庫は三つ。とりあえず西側から順番に探っていくぞ」 「う、うん。わかった」  もちろん、真凛である。 「……もしかして緊張してるのか?」 「ま、まさか!そんな事あるわけないよ」 「そーいや、お前は侵入作戦ならともかく、変装ははじめてだったっけかな」  おれはとりあえず何食わぬ顔で一番西側の倉庫に近づいた。現場のおっちゃんが何人かと、そしてフォークリフトが二台ほど走り回っているのだが、今ひとつ活気が無い。倉庫の中に躊躇わず入ってゆくと、真凛も遅れてついてきた。ふむ。いわゆるコンピューター操作の自動倉庫ではない。ごく一般的な、フォークリフトで荷物を上げ下ろしするタイプの倉庫だ。荷物のほとんどがダンボール箱。箱にプリントされているのは、ちょっとマイナーなお菓子のロゴだった。 「うわ、こんなのおれが子供の頃に駄菓子屋で売ってたやつだぜ……」 「ダガシって何?」 「……お前それ、ギャグで言ってるんだよな?」  他にも玩具、台所用スポンジやタワシ等のロゴがプリントされているダンボールが幾つか積み上げられていた。ちゃんと在庫捌けてるのかなあ、こういうの。おれ達は手持ちのバインダーを開き、適当に確認して書き込みする振りをしながらダンボールの中身をチェックして周った。と、唐突に背後から声をかけられる。 「おい、兄ちゃん達ここで何やっとんだ」  反射的に飛び上がる真凛。だからビビるなっつーの。おれは落ち着いて振り返る。”ナガツマ倉庫”と刺繍の入った作業服を来た、年季のいったおじさんが一人、おれを見据えていた。 「え、えーと、ボク達は……」 「ワタクシども、空調システムの『ダイカネ』の者です」  真凛を遮っておれは前に出る。 「空調システムの会社の人間がここに何の用だ」 「ええ、ワタクシども、かねがねこちらの倉庫にぜひ我が社の空調設備を導入して頂きたいと思っておりまして、はい。この度一度現場を見せて貰おうと思った次第です、はい」  営業スマイル第二弾。 「俺はそんな連絡は受けとらんぞ」  効果は期待できない模様。 「はい。不躾とは思いましたが、この度御社の営業様に飛び込みで訪問させて頂きまして、はい。二時間ほどお話しさせて頂いたところ、じゃあ現場でも見てくれば、との言葉を頂いたのものですから、はい」  反射的に嘘がつける自分が時々怖い。これなら、飛び込んできた押し売り紛いの販売員を、営業部が体よく都合をつけて倉庫に追い払ったように見えなくも無い。果たしてこのハッタリ、通用するかどうか。 「……押し売りの類か。あまり仕事の邪魔をするなよ」 「押し売りなど、とんでもないですう、はい」  実はもっとロクでもないんです、ハイ。……もうちょっと踏み込んでみるか。 「こちらではどのような品物をお預かりされているんでしょう。温度や湿気の管理が必要なものなら、ぜひともワタクシどもの……」  おじさんは鬱陶しそうに手を振った。 「ここと、隣の倉庫で扱ってるのは菓子と玩具、台所用品。どれも古くからのお得意さんの品物だ。空調が必要なものはない」  ここと、隣の、ねぇ。 「では、一番東の倉庫は?」 「お前さん、何者だ?」 「ですから『ダイカネ』の営業の……」 「そんな胡散臭い営業がいるか」  手厳しいお言葉。……まずったかな。 「……まあいい。東倉庫はな、貸し出し中なんだよ」 「貸し出し中?」 「ウチもいよいよ首が周らなくなってきた。融資と引き換えによくわからん連中に貸し出ししているらしい。余計な詮索はするな、とな」 「よくわからん連中に、って。そんなのが隣に居たら仕事にならないじゃないですか」  おじさんは皮肉っぽく笑った。 「仕事なんて最近あって無きが如しだ。フォークも錆びついちまってるよ。連中は裏門から二十四時間出入りしている。役員連中が自由に使わせる許可を出したんだ」 「それはどうも……。貴重なお話をありがとうございました」 「もう一つ」 「はい?」 「連中、相当タチが悪い。くれぐれも気をつけてな」  ……バレてますなあ、これ。 「御忠告感謝いたします。いくぞ、真凛」 「あ、うん。じゃあ、ありがとうございましたっ」     「怪しいところ、無し……と」  念のため、真ん中の倉庫も調べて見たが、これも特に不審な点はなし。となると、怪しいのは東倉庫という事になるわけだが。 「こっからはなるべく気配を消せ。お前、そーいうのそれなりに得意だろ」 「仁サンと一緒にしないで欲しいなあ。一挙手一投足の動きは消せても、気配を消すのはまた別の話なのに」  ぶつぶつ言いながらも真凛は忍び足に切りかえる。何のかんの言ってもそこは武道家、重心を制御してほとんど足音を立てない。おれは頷くと、何気なさそうな挙動で東倉庫に近づいていった。ざっと見回したところ、見張りの類は無し。おれは腹を決めた。 「行くぞ」 「うん」  トラックが出入りする巨大なシャッターの隣の通用扉を開けて中へ。他の二つの倉庫と比べると、照明の類は一応点いているものの、視界が悪いことこの上ない。 「……嫌な臭いだな」  視界が悪い理由はすぐに判明した。体育館ほどの大きさの倉庫の中に、プレハブ小屋の壁のような仕切りがいくつも立てられ、小さな部屋に分割されていたせいだった。 「ビンゴだぜ、どうやら」  おれは目の前に作りつけられたスチール棚を見上げる。そこには、ビニール袋でぞんざいに包まれたプルトンのバッグが、壁一面にずらりと並べられている。 「ミサギ・トレーディングから注文を受けて、ここから発送してるってワケだ」  だが、それと同時に漂ってくるこの臭い。壁にドアが取り付けられており、その向こうから臭ってくる。こいつは、 「動物園みたいな臭い……?」  鼻を押さえた真凛が小声で呟く。確かに似ているが少し違う。おれの脳裏に一つの予想がよぎった。……ミスったな。真凛をここに来させるべきじゃなかったか。すると、通路の奥から足音が響いた。 「誰か来るよ!」  真凛の押し殺した声におれは舌打ちする。ええい仕方がない。おれは扉を開けて飛び込み、真凛を引き入れて扉を閉める。途端、悪臭は耐え難いほど強烈になった。 「な、何この人達……!」  おれの背後で真凛が声を上げる。あーあ。ため息を一つついておれは振り返った。そこには十畳ほどの部屋――午前中に訪れたオフィスと同じ大きさだ――に、二十五、六人ほどの男女が座り込んでいた。畳一枚あたり三人ほど座っているため、当然ながら足の踏み場も無い。彼等はTシャツにズボン、あるいはぼろぼろのスカートを履いている程度の格好であり、みな裸足である。そしてその眼には一様に精気が無かった。この夏の暑さの中どれほどの時間、ここに居るだろうか。すえた臭いは、風呂に入る事も出来ない彼等二十数人の体臭だった。彼等はうつろな眼でおれ達を見て、かすかに動揺する。 「どうしたんですか、何かあった……むぐ!?」 『ああ、騒がないで騒がないで』  真凛の口を手で押さえ、おれは福建語で話しかけてみた。彼等の間に反応があった。おれはジェスチャーを交えて『落ち着いて、落ち着いて』と繰り返す。適当なところで真凛を解放してやる。 「……えっと、この人達は?」 「……多分、密入国者の方々だろうねえ」  おれは乾いた声で回答した。『銃器、麻薬、偽ブランドは密輸品の御三家』と先日おれは述べたが、ここ最近四番目の密輸品として台頭して来ているのが、人間、つまりは密入国である。背後に構えているのは主に中国系の暴力組織。彼等は地元、中国大陸の労働者達に、日本に行けばここより遥かに高い賃金で働ける、借金をしてでも日本に渡ればすぐに取り返せる、と言葉巧みに持ちかけ、密入国の費用を取り立てる。そして彼等を日本に密入国させる。また、必要に応じて彼等を労働力――主に麻薬の売人や売春だ――として日本の暴力組織に斡旋する。密入国の手口として一番ベーシックなものは、貨物船の倉庫に彼等を隠して入港させてしまうことだ。ビジネスとしては当然ながら、スペースに限りある貨物船に出来るだけ人数を詰め込んだ方が利益率が良い。彼等は巡視船の目を逃れるため、陽も差さない船底にすし詰めにされたまま、中国から日本までを船で旅するのだ。  ……真夏にクーラー無しの満員電車に乗り込み、しかもそのまま丸一ヵ月、トイレは垂れ流しで風呂にも入らず過ごさなければならない、と考えて頂ければ少しは理解出来るだろうか。 「とはいえ船の中や港にいつまでも置いておくわけにはいかない。行き先が決まるまでどこかにこの人達を留めて置かなきゃいけないが、ホテルに泊める金なんて当然ない。ここは態のいい『一時保管場所』って事さ。この倉庫が裏でその手の暴力組織と手を組んでるのは、まず間違いないだろうな」  おれは淡々と事実だけを小声で述べる。 「酷いよ……こんなの、許せないよ!」 「その前に声を落とせ。そしてしゃがめ」  おれの指示の意味に、真凛はすぐ気がついた。扉の向こうで、さっきおれ達が聞きとった足音が近づいてくるのがわかったからだ。おれは息を殺して、ドアの隙間からこっそりと相手の姿をうかがいつつ、通り過ぎるのを待つ。   『どうだ、何か変わった事でもないか?』  ドア越しに太い声が聞こえる。おれ達の事を指しているのかと思ったが、どうやらその声は通路の奥へ向けて投げかけられたものらしい。警備員か、はたまたヤクザ屋さんか。おれは何気なくその姿を見つめ――そして、凍りついた。         ●6      威圧的な男がそこに居た。  歳の頃は三十四、五。禿頭に鷲鼻。大きく尖ったアゴとそれを覆う髭。白人であることは間違いないが、混血だろうか、系統はちょっとわからない。まず美男子とは言えないその風貌は、だが、異様な迫力を持っていた。そして窪んだ眼窩の中にぎらぎらと光る褐色の、いや、燃える石炭のような眼。百九十センチ近くある身体を包んでいるのは作業着……いや、軍隊用のフライトジャケットか。おれは、その顔に見覚えがあった。    ――あいつ。    おれの背筋に戦慄が走りぬける。  海鋼馬《ハイガンマー》公司《コンス》S級エージェント。  モルデカイ・ハイルブロン……通称『毒竜《ファフニール》』。  なんであいつが、こんなところに。    気がつけば、おれの拳は固く握り締められていた。奴は、おれ、というよりおれ達が隠れている密入国者の部屋には最初から用が無かったらしく、すぐに通り過ぎて行く。それを見送り、五秒ほど立ってからおれは息を吐き出した。 『そうそう変わった事が起こっては困ります』  奴の呼びかけに答えがあった。……あれ、この声もどこかで……? 『起こってくれねば退屈でたまらん。この平和ボケした国での生活も悪くはないが、二ヵ月もするともう戦場が懐かしくなる』  へえ、退屈か。なら、すぐにでも楽しい思いをさせてやる――そこまで考えて、おれの理性が感情を引き戻した。ここで派手な事を起こせば、いつぞやの二の舞だ。 「あの人、もの凄い殺気だ……。って、なんか陽司……顔が怖いよ?」  床に伏せたままドアの向こうを伺っていた真凛がうめく。生憎と自分の顔のことなんて良くわからないね。 『貴方は平地に乱を起こす癖があります。どのみち貴方の行くところ、嫌でも騒動が起こるのですから、今は英気を養っていてください』 『フン。こと無かれ主義の腑抜けが入社った、とは聞いていたが噂どおりだな』 『ええ。海鋼馬は血の気の塊のようなメンバーばかりですからね。私は冷や水をぶっかける役として引き抜かれたわけです』 『ぬかしおるわ』  そんな会話を続けながら、『毒竜』ともう一人の男は遠ざかっていった。  おれは後ろの人々を振り返る。彼等は『毒竜』の声が聞こえたその時からすっかり怯え、竦み上がっているようだ。この倉庫の中で、奴がどのような位置づけにあるか。それがよくわかった。 『あの人に言わないでください、あの人に言わないでください』  一堂を代表してか、一人の男が、おれにすがりつくように話す。おれの事を、あいつに言われて様子を見に来た看守とでも思ったのだろうか。 『大丈夫、大丈夫。だから、おれ達の事もあいつらに言わないでください』  流暢な福建語で何度か説得すると、彼等もどうにか納得してくれたようである。おれは真凛を促して立ち上がらせ、外を確認する。……よし、誰もいない。 「出るぞ」  真凛がおれを愕然として振り返る。 「この人達は?」 「もともと彼等はここに居たんだ。おれ達がどうこう言う権利は無い」 「でも!」 「いいから!」        ……バンまで戻ってくるまで誰にも見咎められなかったのは、日ごろの行い、いや虐待のされっぷりに幸運の女神が同情してくれたからだろうか。車内に飛び込むと、おれは変装道具を脱ぎ去って後部座席に放り込み、腕を組んでしばしむっつりと押し黙った。  『毒竜』が出てくるとすれば、話は全く違った方向になる……。 「なんで放って来ちゃったんだよ!あの人達ひどく衰弱してた。多分あと二日と持たないよ」  女子高生と言えど、人体に精通した武術家である。その見立ては恐らく正しいだろう。だが。 「それまでに行き先が決まるだろうさ」 「嘘だよそれ。あの人達少なくとも一週間はあそこにいた。それがあと二日で全員行き先が決まるとは思えないよ」 「じゃあどうしろと」 「当然助けに行くんだよ!」 「あのな真凛」    まったく。そう言うと思ったよ。    おれは組んでいた腕を解いて、助手席の真凛に向き直った。 「お前をこの仕事から外す」 「……え?」 「駅まで送る。今日はそのまま自分の家に帰るんだ。所長にはおれから連絡を入れておく」 「な、なに言ってるんだよ、ボクがいなかったらどうやってあの人と戦うのさ。凄い強いよ、あの人」 「直樹なり仁サンなり呼び出すさ。シートベルト締めろ、出るぞ」  おれは言い放つとシートベルトを締め、キーを取り出した。 「なんでだよ!納得できないよ!!ボクじゃ力不足ってこと?」  なんだか昔撮った出来の悪いホームビデオを見ているような気分だ。 「お前、この仕事の内容なんだか覚えてるか?」 「……それは。オークションで出回っているバッグが本物か確かめる……こと」 「そう。で、その仕事の達成にあたり、あの密入国の皆さんを助ける意義は全く無い。むしろ余計な工程が増え、失敗の危険を大きくするだけってこと」 「でも!人としてほっとけないよ!」 「ああ。だからだ。仕事にそんな勝手な考えをする奴を加えるわけにはいかない。だから外すんだよ」  キーを差し込もうとした右手は、延びてきた真凛の手につかまれた。奴が身を乗り出す姿勢になったせいで、おれと真凛の視線が至近距離でぶつかる。 「……離せよ」 「……離さないよ。そんな理由じゃ納得できないもの。なんかおかしいよ陽司。いつものアンタなら、じゃあついでに助けとこうか、くらい言うじゃない。あいつと何かあったの?ねえ」  おれが無言でいると、真凛は肯定ととったのか、質問をさらに連ねてきた。 「だいたい陽司はいつも自分だけで作戦を決めるじゃないか。毎回毎回ボクの意見なんて聞いてくれないし!」 「そりゃそうだ、お前はアシスタントだからな」  ダッシュボードに叩きつけられる真凛の掌。コーヒーの空き缶が軽く宙を舞った。 「アシスタントアシスタントっていうけど、三つ歳が違うだけじゃないか。アンタがどれだけ偉いんだよ?アンタが高校生や中学生の時、そんなにすごい事をやってたっての?どうせ今みたいにグータラな――」 「うるせえよ」  おれの声からは日ごろの諧謔成分が枯渇していた。それは陽気な牽制ではなく、本当に、ただの罵倒の言葉だった。 「陽司……?」 「うるせえって言ってるんだよ。お前に対する行動の決定権はおれにある。そのおれがこの任務にお前は必要ないと判断しているんだ。これ以上議論の余地は、いやそもそも議論の必要性がない」  真凛はおれを焼き殺しそうな視線でにらみつけた。殴り殺されるかな、とおれは思ったが、その顔はくしゃくしゃになり、 「もういいよ!ボクはボクで勝手にやるから!!アンタはそうやって任務任務って言ってればいい!!」  バンの扉を閉め、真凛は飛び出ていった。おれが見たときには、すでにその姿は駐車場のフェンスの向こうに消えた後だった。……まったく、ガキの考える事はわかんねえ。         ●7      午後四時を知らせるチャイムの音が、暑い空気の中をゆっくりと泳いでゆく。近くに小学校でもあるらしい。日曜日でもチャイムはなるんだなあ、とおれは益体もない事を考えた。バンの窓から見えるナガツマ倉庫に、未だ動きは無い。  真凛は結局あのあとどこかへ行ったきり戻って来なかった。当然、この後は事務所に連絡して状況が変わった事を告げ、直樹なり仁サンなりの応援を要請しなければならない。だがおれはなんとなく『アル話ルド君』を手に取る気になれず、入手した情報をメールにして来音さんに送るだけにとどめ、そのまま一時間ばかりこのバンの中で見張りを続けていた。  コンビニで買い込んできたアンパンを口に放り込んでコーヒー牛乳で押し流す。海鋼馬の連中が絡んでいるとなれば途端に事態はキナ臭くなってくる。カバンがあの倉庫に保管されているとなれば、次はそれがどこから流されてくるのかを確かめねばならない。密輸品か、どこか国内の工場で製造しているのか。連中は裏門を使っていると言っていた。となれば、ここに搬入にやってくるトラックを張っていれば、何か情報がつかめるかも知れない。しっかし、マッズいパンだなこれ。   「不味そうなものを食べてますね、陽司君。らしくもない」  唐突に運転席の窓の向こうからかけられた声に、おれはアンパンを吹き出しそうになった。慌てて口元を押さえ、何とか飲み込む。それで初めて窓の外を見る事が出来た。 「あなたは……」  おれは危うく残りのアンパンを取り落としそうになった。  そこに居たのは、『毒竜』同様、軍隊用のフライトジャケットに身を包んだ男だった。だがこちらは標準的な日本人の体型と顔立ちで、些かくせの強い髪を整髪料で固めている。その顔を見直したとき、おれの頭の中で線が繋がった。 「なるほど、ね。どうりで聞いた声だと思った。さっき『毒竜』が話し込んでいたのはあなただったんですね」 「盗み聞きしていたのですか?そんな趣味を持った子に育てたつもりはありませんが」 「あなたがそれを言いますか、鯨井さん」  おれは窓を開けて、そこにいる男、『定点観測者《ヴァサーゴ》』鯨井《くじらい》和磨《かずま》をにらみつけた。    『定点観測者《ヴァサーゴ》』。    その名前、魔術書に登場する現在過去未来を見通す力を持つとされる精霊の名は、鯨井さんの持つ特殊なサイコメトリー能力に由来する。サイコメトリーとは、てのひらなどで接触した対象から、その対象にまつわる過去の出来事や以前の持ち主の情報を読み取る能力である。いわゆる世間一般で言うところの超能力であり、強弱の別こそあれ、この業界にも使い手は多い。しかし鯨井さんのそれには、さらにもう一つ、隠された能力がある。 「この周りにいくつ『受信器《レセプター》』をセットしてあるんですか?」 「八つですよ。今の私の仕事はここの警備ですからね」 「……それじゃあおれ達が来た事は最初からバレてたわけだ」  鯨井さんは、三次元空間の任意のポイントに自分の思念を焼付け、離れていてもその周囲の景色、音、臭いをきわめて正確に把握出来るのだ。彼はこれを『受信器のセット』と呼んでいる。彼がこの能力を広範囲に展開すれば、極めて意志の統率の取れた、不可視の見張りが幾人も配置された事と同義となる。『定点観測者』の名はここに由来する。先日一緒に仕事をした『机上の猟犬』見上さんとはまた違った、強力な遠隔視系の能力者だ。    おれがロックを解除すると、助手席のドアをあけ、鯨井さんが乗り込んできた。  鯨井さんは紙袋を差し出した。中にはスターバックスのアイスコーヒーが二本納まっていた。おれは礼を述べ、一本取り出した。もう一本を、鯨井さんが取る。 「本当にあなたかどうか確信はありませんでした。随分雰囲気が変わっていましたから」 「……変わりましたかね」 「変わりましたよ。本当に。随分いい出会いに恵まれたようですね」 「どうでしょうかね」  アイスコーヒーを口につけて、おれはぼやいた。少なくとも往事に比べて貧乏になった事は疑いようが無い。鯨井さんは二秒ほど考え込んだ後、本題を切りだした。 「……それで、影治《えいじ》君の行方は?」  おれは肩をすくめ、投げやりに答えた。 「見つかってれば、おれはこんなところに居ませんよ」  つーか、生きてないね。 「そうですか……。どこにいるのやら」 「そんなことより鯨井さん。あなたがなんで海鋼馬の『毒竜』なんぞとつるんでいるんですか?」  鯨井さんはほろ苦い笑みを見せた。 「宗像《むなかた》研究室が潰れてからこの方、私も流れ流れましてね。今は海鋼馬のメンバーですよ」 「まさか!?あなた程の情報収集能力であれば、よほどまともな派遣会社をよりどりみどりでしょう。何も好んでロクデナシ揃いのあの海鋼馬に所属する事は無い」  鯨井さんは肩を一つ竦めた。 「……仁義をね。守れなかったんですよ」  そう言うことか。おれは納得した。バレなきゃなんでもあり、と思われがちのこの『派遣業界』だが、それでは血みどろの抗争になってしまう。いつしか異能力者達の間では『仁義』と呼ばれる暗黙の掟が成立していった。任務で他社のエージェントと敵対したのであれば、それがたとえ年来の友人が相手であろうと全力で倒しにかかること。任務中に手酷い怪我を負わされたとしても、互いの任務が終了した時点で決着とし、以後私怨を残さないこと。可能な限り一般人に危害を及ぼさないこと。任務中に知りえた他のエージェントの能力は、たとえ友人にもバラすべきではないこと、など。これは異能力者がきちんと業務を遂行するよう強制すると同時に、異能力者を保護する事も意味していた。任務で倒したエージェントに逆恨みされて、自宅を焼き打ちされる、なんて事があってはたまらないからだ。この『仁義』を破った者の噂はたちどころに広まり、同じ異能力者からは軽蔑され、派遣会社は彼を雇おうとはしなくなる。そんな外道なエージェントを雇い入れるのは、業界でも黒い噂が絶えない海鋼馬くらい、とこういうわけだ。 「しかし、よりにもよってあなたが仁義を破るなんて」  一体何を、と聞こうとして踏みとどまった。だが、鯨井さんはそれを察したらしい。 「とある任務中に出会った敵エージェントを、どうしても許せなかったんですよ。そのエージェントも一般人に平気で無法を働くような輩でしたがね。任務が終了した後、私は全て仕事上の事として忘れようと思った。しかし気がつけば、奴の自宅を調べ上げ、待ち伏せしてズドン、とやっていたわけです」  言葉遣いは淡々としていたが、その言葉には後悔の様子はなかった。……全て覚悟の上での行動だったのだろう。その代償として彼は業界の爪弾きとなり、海鋼馬に流れ着いたという事だ。 「……すいません。本当ならあなたは今頃、学会の」 「そういう事は言いっこなしですよ亘理君。あの事故は我々の不注意であり、あなたには何の責任もありません。影治君もそう思ってくれているはずです」 「でも、手を下したのはおれと、おれのこの体です」  精確には、以前のおれ、か。 「陽司君。この話はやめにしましょう。私自身は自分の選択に満足していますし。あなたが何度後悔したところで過去が改竄出来るわけでもない。……たとえ、あなたが完全にその力を発揮出来るようになったとしても。そうでしょう?」  多少やつれてはいたが、その表情は間違いなく、かつて宗像研究室でおれを世話してくれた鯨井研究員の顔だった。 「昔は良く看て貰いましたね」  手を掲げる。おれは懐しい気分になった。厳密に言うと、懐かしいと感じるべき気分になった。鯨井さんはやはり寂しそうな表情を浮かべた。 「残念ですが、今の君にはとても触れる事は出来そうにありません。引きこまれたら、私の精神もあなたの一部になってしまうでしょうからね」  おれも笑って手を振った。こんな体質になってしまってから、様々なサイコメトラーやテレパスの世話になったものだが……結果は散々なものだった。今となってみれば当たり前だ。そもそも病根の位置が、精神や超能力といったカテゴリーのさらに外にあったのだから。 「おれ達の事は『毒竜』には伝えているんですか?」  鯨井さんは首を横に振った。 「私が把握している情報は、倉庫に迷い込んできた二人の若者がいるというだけの事です。さして気に止めるべき事項ではありません。その二人が、我々の警備するナガツマ倉庫に襲撃をかけるつもりでもなければ、ね」  言外の意味をおれは察した。今この時点では、お互いたまたま出会っただけの旧知の人というわけだ。だが、おれ達に襲撃の意図があるとすれば、鯨井さんは自らの義務を果たす。そういう人だと言う事はおれはよく知っていた。 「コーヒー、ごちそうさまでした」  おれは礼を言うと、鯨井さんと自分の紙コップを紙袋に放り込み、丸めて後部座席のゴミ箱に放り込んだ。 「それでは。私も仕事に戻りますよ」 「はい。また機会があったら、よろしくお願いします」  機会とやらが極めて近い時期に訪れる事をお互いに予感しつつ、おれ達は別れた。再びナガツマ倉庫へと戻って行く鯨井さんを見送って、おれはこの日何度目かのため息をついた。  ――やれやれ、厄介な戦いになりそうだ。         ●8     「最近の漫画喫茶は随分快適になったもんだなあ」  六時を過ぎても残暑の陽射しはしぶとく大地を照らし続けている。おれはと言えば、ナガツマ倉庫の最寄駅前まで移動し、そこにある漫画喫茶で飲み放題のソフトドリンクを飲み干しているという次第。なんか今日は昼からコーヒーとかソフトドリンクとか、そんなのばかり飲んでいる気がするな。最近の漫画喫茶の多くは仕切りで個室が作られており、インターネットに接続したりマンガを読んだり、自分の部屋に居るような感覚で過ごせるのが売りなのだそうだ。もっとも今おれがいるのはカウンター席。そしてただいまおれは注目の的。なぜならおれの隣にいる、 「最近はインターネットカフェと言うんですよ?」  笠桐・R・来音さんがホットコーヒーを味わっているその姿が、あまりにも漫画喫茶の(インターネットカフェだっけ)独特のよどんだ空気にそぐわないからである。  カウンターに座ってマンガを読んでいたお客さん達の半ばはその横顔に見とれ、半ばはものすごい勢いで退散していった。気持ちはわかる。なんというかこう、一人暮らしの男のトテモ汚い部屋にいきなり美人の訪問販売員がやってきた時のようなアレだ。 「しかし、来音さんには、こういう原価一杯一円以下のコーヒーは飲んで欲しくないですねえ」 「そうですか?私はこっちの方が気軽に飲めて好きですけど」  どうでもいい会話をしつつ、おれはカウンターに置いてあるネットに接続出来るパソコンと『アル話ルド君』の画面を交互に見やる。今ここには、おれの手がかりを元に来音さんが調べ上げてきてくれた最新のデータが詰まっていた。 「昨年経営難に陥ったナガツマ倉庫を資金援助したのは……あちゃあ、『イエローチェーン』か。こりゃ首輪をつけられたも同然ですね」  『イエローチェーン』とは社名で、商工ローンを中心に展開する金融業者である、表向きは。おれ達の業界では、奴等は金融業者ではなく、『乗っ取り屋』と呼ばれている。言葉巧みに資金を貸し付け、グレーゾーンギリギリの利息と商売方法で借金の額を増やし、最終的には借金のカタとして、その企業の設備や特許諸々を全て捨て値で買い叩くのだ。ここに金を貸し付けられた企業は、『黄色い首輪をつけられた』とよく呼ばれる。 「そうですね。案の定、この一年でナガツマの債務は雪ダルマ式に膨れ上がっています。亘理さんが調べてくれた糸川克利。彼がイエローチェーンから派遣されて経営に食い込んでいました」 「ああ、なるほどね。首輪の監視役か」 「警察の資料を借りて彼の背後を洗ってみたら、後に『狂蛇《ホンシオ》』が控えていることがわかりました。上海と日本に縄張りを持ち、最近急速に勢力を拡大している中国系のシンジケートです」  ホットコーヒーを飲み終えた来音さんが、カウンターのすぐ傍にあるドリンクバーで今度はレモンスカッシュを注ぐ。 「『狂蛇』と言ったら人身売買の老舗じゃないですか。となると、連中の狙いは最初からナガツマの倉庫だったと見ていいわけですかね」  メロン果汁が一滴も入っていないメロンソーダを飲み干し、おれは資料をたぐる。 「そう考えてよいでしょう。陽司さんの報告を総合すれば、やはり偽ブランド品や密入国者の一時保管場所として使っていることは間違いないと思います」 「ふむ……。『狂蛇』の最近の動向なんてわかりますかね?」  来音さんは我が意を得たりとカバンからスクラップブックを取り出す。これをおれに渡す為に、わざわざ高田馬場からここまで来てくれたのだ。レモンスカッシュを飲み終え、ファンタオレンジのグラスに口をつけながら言葉を続ける。 「陽司さんは話の展開が早くて助かります。仁さんは何だか私の話を聞いてくださるのですけど、上の空と言うかー」  あの男の事だ、顔ばっかり見て話を聞いてないんだろう。 「直くん……こほん、直樹は私の言うことを全然聞いてくれないし。逆に顔を会わせる度に私に小言を言うんですよおあの子」 「奴はあとできっちりシメときますからハイ。……じゃあ須江貞さんは?」  おれは意地の悪い質問をした。案の定、来音さんが慌てふためく。 「あ、ええー。須江貞さんは、ちゃんと話を聞いてくれます。いつも。でも、私の説明が下手でいつも御迷惑をおかけして、そのう」  いつでも落ち着いた雰囲気の来音さんが取り乱すのは須江貞さん関係の会話の時である。ちなみに須江貞さんとは、うちの正規スタッフで、仁サンのさらに上に位置する、いわば実働部隊の元締めである。普段はおれ達同様、一、二人で仕事に当たっているが、うちの総力を結集するときは、須江貞さんの指揮の下に仁サンやおれ、直樹が入る事になる。ま、よほどの事がない限りそんな事態はありえないんだけど。おれの表情を見て、からかわれたと気づいた来音さんは顔を赤くする。 「もう!陽司さんからかわないでください。ほら、続けますよっ。……十年ほど前まで『狂蛇』の主な資金源は偽ブランド品の輸出が主でした」  照れ隠しにアイスティーのグラスをくるくると回転させる来音さん。ってあれ?注いであったのはファンタオレンジじゃなかったか?……まあ、多分おれの勘違いだろう。スクラップブックに貼り付けられた記事を見ると、確かに『偽ブランド品またも店舗で発見される』、『貨物船倉庫から偽ブランド』などの文面が踊っている。ちなみにこのスクラップブックと言うのは以外とバカに出来ない。一つの対象に絞って記事を集めてみると、その対象についての全体的な流れが、まるで物語のように浮かび上がってくることがよくあるのだ。 「しかし……ああ、ここ数年は、摘発された記事の方が多いですね。警察と税関が頑張ったんだろうなあ」  一時期、日本に紛れ込んだとんでもない輸入品を追跡する為に、税関の皆さんと一緒に仕事をしたことがあるのだが、現場で働く人は、皆使命感に燃えた真面目な人だった。 「はい。その分、彼等は密入国、いえ、人身売買の方に基盤を移していくようになりました。以後この流れは変わらず、現在まで到ります」  そういうことか。おれはパソコンでエクセルを立ちあげると、簡単な計算表をつくった。 「ところが、最近異様に安くて、どう考えても本物としか思えないプルトンのブランド品が大量に出回っている。ミサギ・トレーティングを経由して、ナガツマ倉庫にストックしたバッグを捌いているその黒幕がもし『狂蛇』だとすると」 「今までミサギ・トレーディングが出品したブランド品の数は、わかっているだけで三千点です」 「三千ですか!そりゃまた短期間の間にずいぶん手広く捌いたもんですね。いろいろバッグの種類があるけど平均して八万円として。一個当たり六万円の粗利が出るとすれば……」  PCに数字を埋めていく。 「一億八千万円の利益。さらに取引が拡大していけば、利益は倍々で増えていくでしょう」 「『狂蛇』にとっては、今後密入国の手引きよりもオイシイ話、になるかも知れないわけですね」 「ダミーとは言え、現にミサギ・トレーディングという実体がある会社を作っているということは、彼等も本腰を入れていると考えて良いと思います」  それだけの金の卵であれば、何としても守りぬこうとするだろう。『狂蛇』なら海鋼馬とはツーカーの仲だ。かくして『毒竜』と、『定点観測者』鯨井さんがあそこにやってきた、という事か。 「しかし。こうなると、例のバッグが本物である可能性は限りなく低いと言わざるを得ませんね。本物であればどう足掻いてもあの価格で利益が出せるはずがない。盗難品だとしても、三千点も盗まれて何も情報があがってこないなんて事も考えられない」 「では、導き出される疑問点は、どこでどうやって偽物を製造しているか、ですねえ」  来音さんが形のよい眉をひそめて腕を組む。  おれはドリンクバーにグラスを持っていってオレンジジュースを注ぐ。その後ろでいつのまにか烏龍茶のグラスを空にしている来音サンナンテ見エルワケナイヨ。         ●9     「見張りをしていましたが、日中にあの倉庫に搬入、搬出している気配はありませんでした」  おれがグラスを持って帰ってくると、来音さんは店員さんに何やら注文をしていたようだ。……もう何を飲んでいても気にしないぞ。 「せめてどこの会社のトラックかでもわかればまだ取っ掛かりがあったんですがね。ナガツマの主要取引先のデータから何かわかりませんかね?」  来音さんは首を横に振った。 「陽司さんが確認された通り、ナガツマの取引先は、長年のお得意であるお菓子や玩具メーカーが殆どです。例の東倉庫の物流は、完全に本業とは切り離されているようです」 「やっぱり夜間に搬出入していると考えるべきかな」 「偽物の製造場所を確かめることも重要ですが、製造方法も確認しないといけませんね。あの品質の偽物を作れる技術があるとしたら凄いことですよお」  確かにそうだ。本社専属の鑑定士が見破れない偽物、となれば、それはすなわち本物と同義である。ソフトウェアの違法コピーと異なり、製品そのものの完全コピーというものは通常ありえないのだ。ついでに言えば、例えば同じ会社が作った同じ電化製品でも、作った時期によって使っているパーツが微妙に異なっていたりする。これはクレームに対する改善や、コストダウンによる形状変更などの影響である。完全なコピーを作るとすれば、同じ材料を買いつけ、同じ機械で加工、縫製しなければならないわけだが、そんな事はまず不可能だし、そうすれば当然、偽物と言えども高価なものになってしまう。と、 「お待たせしましたー、焼きおにぎりとたこ焼き、たらこスパゲティとカキフライとたぬきうどんとギョーザと枝豆とピザでーす」  店員のお兄ちゃんが、両手のトレイに山と積んだ料理を置いていった。 「……って、なんですかこの冷凍食品の群れは」 「お夕食です〜。陽司さんもコンビニのパンを食べたきりなんでしょう?大丈夫です、ここは私が払いますし」  いや、そのとってもありがたいんですが。おれですら一歩引くくらい露骨な居酒屋メニューなんですが。 「どんどん食べてくださいねー」 「やはり製造工場を押さえないことには判断のしようがない、か。おれは一晩張り込んでみますよ」  とりあえず枝豆をつつきつつ仕事の話をしてみる。 「学校の方はよろしいんですか?」 「うちの学部は九月末に秋期が開始するもんで。まだ数日、猶予があるんですよ」 「今年は大変な夏休みでしたねえ」  おれは乾いた笑いを返した。 「ここ数年はいつも大変ですよ。大変具合で言えば、去年の方が大変でしたかね」 「そうでした、陽司さんがうちに来たのが一年前の四月でしたものねえ」  時間が流れるのは早いですねー、と、不老不死、ついでにカロリーを吸収しない体質の美人吸血鬼はのたまった。 「入学とほとんど同時でしたしね。それからすぐに直樹が入って。仕事が本格化したのが一年前の夏休みからでしたよ」 「あの頃の陽司さんは大変でしたよねえ」  痛いところをついてくるなあ。 「そんなに大変そうでしたかねえ。確かにイッパイイッパイだった事は認めますけど」 「ハイそれはもう。四六時中ピリピリしてて、『話しかけづらいオーラ』を事務所中に振りまいてましたしー」  正直な人である。 「……色々と信じられなかったんですよ。周囲も、自分も。焦ってもいましたしね」  思い返せば、大学に入学した頃は随分と無様だった気がする。自分の能力に振り回され、背負ったペナルティにあえぎ、果たさなければいけない使命の大きさに絶望しながら無駄に手足を振り回し、周囲を傷つけていた――要は、ガキだったのである。と、おれは嫌な事を思いだして顔をしかめた。 「どうされました?」 「いや。『毒竜』の野郎とやり合ったのも去年の夏休みだったなあ、と思い出しまして」 「あー。あの仕事はよく覚えてますよ」 「おれとしては思い出したくもない汚点って感じですが」       ”納得出来ません。依頼人の救出には、おれでは力不足ということですか?” ”亘理、お前今回の仕事の内容忘れたか?”  当時おれの面倒を見て貰っていたのは、仁サンだったっけか。 ”忘れるわけもありません。日本の米を絶滅しうる害虫の蛹を、孵化前に回収することです”  仁サンは、おれを冷たい目で見据えて言ったものだ。 ”そうだ。そして、仕事を完遂するにあたり、無理に海鋼馬の連中と事をかまえる事はない。依頼人本人が、自分の命より回収を最優先しろと言っているんだ” ”しかし、人として見過ごす事など出来ません!” ”んじゃあ仕方ないな。そんな勝手な奴に背中を任すわけにはいかん。外れろ、亘理” ”わかりました。おれはおれで勝手にやります”  おれはそのまま事務所を飛び出し――       「でも、あれからですよ、陽司さんの『話しかけづらいオーラ』が収まっていったのは」  つくづく、痛いところをついてくるなあ。 「あん時初めて、自分のガキっぷりをハッキリ気づかされたようなもんですし」 「じゃあ、今はどうなんですか?」  おれはなんとなく指を打ち鳴らした。喫煙の習慣でもあれば、ここで一服して間を置きたいところなのであるが、生憎おれはニコチンではなくカフェイン依存症である。 「……まあ。まだまだガキなのは変わらずですが。出来る事から一つずつ、確実に進めていく事にしましたよ。鯨を食べ尽くそうと思ったら、少しずつ切り取って食べていくしかないんですから」 「そういうのを大人になったって言うんですよー」 「おだてても何にも出ませんよ?」 「次は陽司さんが真凛さんを大人にしてあげる番ですねー」 「ぶホッ!」  何食わぬ顔をしてイキナリ何を言い出しやがりますかこのレディーさんは。って、オレンジジュースが気管に入った、ヤバイヤバイヘルプ。 「あの子がうちに来たのも、今年の五月ですし。あ。もしかして誤解しました?」 「してませんよ!」 「じゃあそういう事にしますー。あの子もやっぱり、一年前の陽司さんみたいにオーラを出してましたしねえ」 「『話しかけづらいオーラ』ですか?」 「んー。強いて言えば『教えてほしいオーラ』、かなあ」 「……あいつから何か聞いてるんすか」  おれはまだ、真凛を外して仁サンか直樹を要請する連絡をしていなかった。その問いに来音さんはナイショです、とコメントするだけに留めた。 「――まだ、あの子を信用できないんですか?」 「信用してますよ。実際腕は立つし。だからこの四ヵ月やって来れた」 「能力はそうですね。じゃあ、仲間としてはどうでしょう?」 「…………」  言葉に詰まったときはグラスに口をつける振りをして顔を隠す。自覚しつつも直らない、おれの悪癖だ。 「……陽司さんは頭の良い方ですから」 「だからおだてても、」 「そういう意味じゃないですよー。頭が良いから、基本的に全て自分で場の流れをコントロールしようとするんです。その場に揃った敵も、味方も、自分自身もカードの一枚と見なして、最適な解法を計算して弾き出すんです。自身すら過信せずに」  反論しようとして、口をつぐんだ。正直、思いあたる節が、ないでもない。 「毎回メンバーが入れ替わるこういう仕事でしたら、それで大概は上手くいくでしょうけど。あと、うちの直樹みたいに、陽司さんと対等に張り合える子なら気にもしないでしょうし。でも、毎回指示を受ける人間には、いつもあなたに一枚のカードとして扱われる境遇に不満を感じる人もいるかも知れません」 「あいつが、不満を感じていると?」  来音さんは柔らかくおれの言葉を受け止めた。 「今の陽司さんは、真凛さんの分まで色々と背負い込もうとしてはいないでしょうか。たまには、陽司さんが真凛さんに助けてもらうことがあってもいいんじゃないでしょうか?」  おれが、真凛に助けて貰う、ねえ? 「あの子はいい子です。だんだんこの仕事にも慣れてきて、自分に何が出来るか、出来ないかもわかってきたんですよ」 「確かに、暴力だけなら超一級品ですが」  冗談めかしたが、来音さんはむしろ真摯な表情だった。 「陽司さんは冗談でそう言ってても、あの子は冗談以上に受け取っているんです。それで悩んでいるんですよ。『自分には戦うことしか出来ない。今まではそれだけで良かったけど、それだけではいけないような気がする。でも何をしていいかわからない』。そういう事です。さらに言ってしまえば、あの子はもっと貴方の役に立ちたいんですよ」  来音さんの言葉に、おれは返事のしようもなかった。氷だけになったグラスに突っ込んだストローが、ずずずずと間抜けな音を立てた。  ――喧嘩にならないから居ても意味が無いってこと!?――  ――だいたい陽司はいつも自分だけで――  氷をじゃらじゃらと鳴らす。グラスに両手を置き、テーブルに突っ伏した。 「でもねえ。あいつはまだ十六歳なんですよ」  カッコ悪ぃ。これじゃ飲み屋で管巻いてるサラリーマンだ。 「この業界、いかに仁義があるっつっても、一歩氷を踏み割れば、下に広がってるのは私欲と悪意のヘドロです。底に行けば行くほど、殺人、脅迫、誘拐。知りすぎたエージェントの抹消、同胞の密告、裏切り。なんでもあるじゃないですか」  格好いい仕事やお気楽な仕事ばかりでもない。この一年間と半で、時々そういった裏事情が透けて見える事があった。 「今回の密入国の件だってそうですよ。ナマで見るには刺激が強すぎる。あんなのはニュースで見て義憤に燃えてるくらいで丁度いいんです」 「だから真凛さんを仕事から外したと?」 「あの場で彼等を助け出したとして、その後どうするか。不法入国者として警察に突き出すか。一度助けた以上は最後まで生活の面倒を見てやるのか。子供どころか。大人だって簡単に判断を下せるもんじゃありませんよ」  くそ、何かぺらぺら下らんこと喋ってるなおれ。このドリンクバー、アルコールでも混ぜてあるんじゃなかろうな。 「あいつのいいところはね。この御時世には珍しいくらい偏見がない事です。世間的には色眼鏡で見られがちな、例えばホームレス、オタク、不良学生、外国人。あるいは有名人、お金持ち、権威ある学者――どちらにも気負うことなくごく普通に接する事が出来る。おれみたいな、二重三重に深読みして対策を立てながらでなければ人と話せないような人間には、到底真似が出来ない。だから。あいつにはまだ、あんまり人間の一番汚い部分を見せたくないんですよ」 「でも、陽司さんが十六歳の時は」 「あー。この業界でもさすがにおれは例外でしょう。中学生日記の時間にノンフィクション戦争映画をやってたよーなもんですからして。って、なに笑ってるんですか来音さん」 「いえいえ。陽司さんは本当に真凛さんを大事にしてるんだなー、と」 「……スタッフのアシスタントに対する義務感って奴ですよ。義理堅いんですよ?おれは」  来音さんはそこで笑いを収め、おれの肩に手を置いた。 「でもね、思い過ごしかも知れませんよ?」 「と、言いますと?」 「あなたが思っているよりずっと、真凛さんは芯が強いんじゃないかって事です。どうです?一度、彼女の能力ではなく。彼女自身を信じてみたら」 「信じる、ねえ……」 「それでは私はまた事務所に戻ります。一日がかりですけど、どうか頑張って下さい」  席を立つ来音さん。おれはそれに頭を下げて応える。と、その去り際。 「ところで、おれが真凛を外した事、いつ知ったんですかね?」  おれの質問に、来音さんはぺろっと舌を出して、 「そうでした。陽司さんと話すときは展開が早すぎるのが難点でしたね」  そう応え、彼女がここに来るまで打ってくれた手を明かしてくれた。  って。あれだけあった冷凍食品の群れは、どこへ消えたのだろう……?         ●10      深夜一時。  都内とはいえ、住宅街、それも駅から離れているとなれば、あたりはすっかり闇に包まれる。二十四時間点灯しているマンションの廊下の蛍光灯、電柱の照明の光、そして月の光がそれに必死に抗い、ナガツマ倉庫の中はかろうじて人影を判別出来る程度の視界が確保されていた。今、その裏門が開け放たれ、一台のトラックが倉庫の中に入り、そのコンテナを開いている。開いたコンテナに、ビニール袋に詰められたプルトンのバックが次々と詰め込まれてゆく。作業を行っているのは、数人の『狂蛇』の構成員と、ここに『一時保管』されている不法入国者達だ。 「臭いが移りはせんかな」  その様子を壁に背を預けながら見やり、『毒竜《ファフニール》』モルデカイ・ハイルブロンは興味なさげに言った。実際、興味が無い。モルデカイにしてみれば、このバッグが売れようが売れまいが彼の人生に一ミリグラムの影響も無い。彼の人生は極めてシンプルだ。自分がもっとも楽しい事をする。だからこそ、一度自分の欲望に火が点けば、たとえば娘一人を手に入れるために村一つを滅ぼす程度は平気でしてのけるし、己の興味が無い事であれば、例え目の前で子供が皮を剥がれ焼き殺されていようと、昼食時に流れているラジオ放送より印象に残りはしない。彼自身がもっとも長く人生を過ごした戦場でのトラウマか、と言えばそうでもない。彼は、もともとそういう人間だったのだ。派遣業界に移籍する以前から敵に恐れられた彼の二つ名、『毒竜』のうち、『竜』の字は、彼のその性格に起因する。傲慢で、貪欲で、それが当然の、竜。雇い主の海鋼馬でさえ、彼を制御する事など出来はしない。彼に枷をつけられるのはただ一人だけである。 「そう思うのであれば多少は彼等の衛生環境を考慮してあげたらいかがですか?」  『定点観測者《ヴァサーゴ》』鯨井和磨の言葉にも、鼻を一つ鳴らしただけだ。彼にことさらに密入国者を虐待する意図があるわけではない。心底どうでもいいのだ。密入国者の境遇を作り出しているのは『狂蛇』である以上、連中が好きなようにすればいいだけだ。 「言ってみただけだ。くだらん。依頼とはいえ、毎日毎日こうも退屈な光景を見せつけられれば、気まぐれに感想の一つも述べるわ」  紆余曲折を経て戦場を去り、海鋼馬のエージェントとなった今、彼は飢えていた。全存在をかけた死闘、あふれんばかりの金。極上の女。一方的な虐殺。何でもいい。彼の求めるものの基準は、彼自身にもよくわからない。美醜、金銭価値の有無に関わらず、その場の気まぐれで決まる。そして今は、何も興味のある対象が無かった。 「ならば吉報です。退屈せずには済みそうですよ」 「それは、この連中の中に混じっている小娘の匂いのことかな?」  『毒竜』の太い顎がひかれ、獰猛な笑みがあらわになる。 「気づいていましたか」 「貴様、俺を馬鹿にしているのか」  引かれた顎の奥、喉の中でごろごろと何かが唸る音が響く。 「……いえ。確かに素人の侵入でしたが」  だが、そう悪いものでもなかった。とくに足音の遮蔽ぶりは完璧に近かった。並のエージェントでは気づかない可能性の方が高かっただろう。『定点観測者』鯨井のような探知系の能力者ならともかく、戦闘に特化した『毒竜』が気づくと言う事は、なかなかありえない。S級エージェント――文字通りのエースクラスを意味するA級の、さらにその上に位置する者の称号は、決して伊達ではないということか。 「業界随一の『フレイムアップ』の『殺捉者』です。警戒を」 「日本の零細組織か。それなりに粒が揃っているんだったか?」  ふん、と鼻を鳴らす『毒竜』。 「ええ。他に伝え聞いているところでは、嘘か誠か、真の吸血鬼という『真紅の魔人』。破壊の女帝『暁の魔女』。誰も阻むことの出来ぬ『西風《ウェストウィンド》』。聖十字を背負った退魔師『守護聖者《ゲートキーパー》』。時間と因果の支配者『ラプラス』。そして幾柱もの最強最悪の魔神を従える『召喚師』」 「『西風』には覚えがあるな。ちょろちょろと逃げ回っている鬱陶しい奴だった」  果たして言葉どおりの意味か。『毒竜』の表情は剣呑極まりなかった。 「退路は断ちました。これから追い込みますので、仕留めてください」 「おい」  立ち去ろうとした鯨井を呼び止める。反射的に振り替えったその首を、『毒竜』の右手が掴んだ。 「俺に、命令を、するな」  万力のような力で締め上げられ、鯨井の表情が苦悶に歪む。うめき声すら上げる事も出来ず、たちまち顔が紫色に変色していく。 「……フン」  右腕一本で鯨井の身体を振りとばす。二メートル離れた壁に叩きつけられて床に崩れる鯨井に、怯えた視線を向ける作業者達。 「何を突っ立っている?」  『毒竜』の言葉に、皆が鞭で打たれたように作業を開始した。暇つぶしと称して腕や足の一本を折るくらいは平気でやる男だと言う事を、誰もが良く知っていた。腕や足だけで済めば幸いという事も。 「立て。狩りの時間だ」  咳込んでいる鯨井に声をかけ、彼は大きく口を開く。そして、周囲の大気を吸い込みだした。    かあああぁぁぁぁぁぁぁぁ……。    奇妙な事が起きた。呼吸によって肺腑が膨らむ。それはいい。だが、その度合いが尋常ではない。胸骨がべきべきと音を立て、まるで巨大な風船を飲み込んだかのように、鍛え上げられた『毒竜』の上半身が丸く膨らんだ。長く長く、吸気は続く。人体の構造上ギリギリまで上半身が膨らんだところで、ようやく吸気は止まった。 「ぐむっ」  唸り声ともとれる気合を入れると、膨らみきった上半身の筋肉を一気に引き締めた。球体に近かった体型が、たちまちもとの筋肉質の逆三角形に戻ってゆく。だが、あれほど大量に吸い込んだはずの空気は、一ミリグラムたりとも吐き出されてはいない。体内に蓄えられた空気はどこへ消えたというのか。何事も無かったかのように『毒竜』は首をごきりと鳴らす。 「始めろ」  まだ酸欠で黒ずんだ顔をしたままの鯨井だったが、その指示には従った。手元のリモコンのスイッチを入れる。倉庫の配電盤に割り込みさせた回路が作動し、作業用のライトが二つ、壁の隅を照らしだした。ダンボールの隅に潜む、小柄な人影を。        自分に向けられた眩いライトを認識した瞬間、七瀬真凛は自分の失敗を悟った。撮影モードにしていた『アル話ルド君ライトエディション』をナップザックに放り込みつつ、猛然とダンボールと壁の隙間を疾走する。ここまでで一挙動。呼吸を整え、自身を戦闘態勢へと切り変えてゆく。その行く手に立ち塞がる二人の『狂蛇』構成員。作業着の内ポケットから銃を引き抜こうとしている。 「遅いっ!」  二人の中間を一気に駆け抜けた。すれ違い様に左右の手刀をそれぞれの右手首に叩きこみ、銃を叩き落している。片方は既にセーフティーが外れていたらしく、地面に落ちた拍子に弾丸が撃ち出された。倉庫の鉄骨に当たり、火花と金属音の残響を撒き散らす。作業に当たっていた密入国者達が悲鳴を上げて一斉に浮き足立ち、乏しい明かりの中、たちまち倉庫内はパニックの坩堝と化した。その隙に真凛は一気に倉庫出口、正門側の通用口まで駆けよる。だが、まざに真凛が手を触れようとしたそのタイミングで、がしゃんと音を立ててドアの防犯用オートロックがかかった。 「う、嘘?」 「一人でここまで入り込んでくる度胸は見上げたものですが」  その背後からかけられる、穏やかな声。遠隔サイコメトリーの使い手『定点観測者』鯨井和磨。だが真凛はその名も、己が触れていたドアに彼の『受信器』が焼き付けてあった事も、知る由は無い。 「所詮それだけです。最初から監視されていた事にも気づけないような半熟者には」  鯨井の指がリモコンを押す直前、真凛の脳裏に突如、危険な『円錐』が浮かぶ。銃弾の弾道を予測しうる彼女の能力は、前方の鯨井の挙動から、彼が仕掛けようとしている攻撃の範囲を瞬時に読み取った。 「警告を無視した報いを与えねばなりません」 「……!!」  全力で横に飛ぶ。途端、ドアの上方に仕掛けられた指向性の地雷が起動し、真凛に向けて超高速のゴム弾のシャワーを撒き散らした。銃弾なら避けきれる娘も、広範囲をカバーする攻撃の不意打ちは完全には避け切れない。右足にゴム弾が数発被弾する。 「ぅくっ!」  ゴム弾が周囲にはじけ、ダンボールを引き裂き鉄骨にぶち当たる。民間の建造物の屋内で地雷を作動させるなど正気の沙汰ではないが、物質の情報を読み取る『定点観測者』の能力を使用すれば、最大の効果範囲を引き出しつつ、建物への被害を最小に留める事は造作も無い。間髪いれずリモコンのボタンを次々と押していく。壁際にしかけられた幾つもの地雷。真凛の視界に、次々にレッドゾーンが形勢されていく。 「でやああああああっ!!」  右足のダメージを無視して一気に疾走。炸裂するゴム弾のシャワーを紙一重で追い抜いてゆく。だが、走り続けている以上、前方にしか進む事は許されない。そして、その行きつく先は。 「はっはははは。いいぞ『定点観測者』。前座の余興としてはなかなか面白い」  裏門、トラックの搬出口に待ち構える『毒竜』の巣だった。         ●11     「貴様は手を出すなよ。せっかく興に乗ってきたところだからな」  ポケットに両手を突っ込んだままこちらを睨《ね》めつける、そのちろちろと燃える石炭のような眼を見て真凛は直感した。――強い。 「なら、やるまでだよ」  その事で逆に真凛の腹が据わった。こいつを倒し、あの地雷使いも倒す。その上であの人達を助け出し、偽物のバッグの出所を突きとめる。それで万事がうまく行く。腰抜けのあいつが明日の朝やってきたら、「もう解決したよ」と言ってやるのだ。あいつはきっと驚いて、いかにボクの実力を見誤っていたかを思い知るだろう。呼吸を一つ。姿勢を低くし、一気に突進した。 「ほう……」  呼応する『毒竜』がポケットから取り出したのは、銃。小型のリボルバーを抜き放ち、凄まじい速度で連射する。だがそれは真凛にとっては脅威ではない。浮かび上がる『線』をかわし、一気に間合いを詰める。と、『毒竜』の左膝が浮いていた。 「くっ!」  踏みおろされる靴底を、ギリギリで足を捻ってかわす。銃撃は囮。奴の狙いは最初から、負傷した真凛の脚を踏み折る事だった。かわしたものの、無理な挙動は痛んだ右足に過剰な負担をかけた。苦痛が駆け上がってきて脳裏に弾ける。だがそれを確認する余裕も無く、飛んできた左のフックをかわす。開手で大きく振るわれたフック、いや、爪撃は、近くにあった鉄の支柱に被弾し、まるで紙細工のように易々と引き裂いた。甲高い金属音と火花が盛大に撒き散らされる。 「――薬物!?」  真凛の表情に警戒の色が濃くなる。敵の使うスキルは、典型的な軍隊格闘技だ。熟達の域に達しているが、それだけなら真凛の敵ではない。だが、あの膂力は明らかに常人に出しうるそれではない。二ヶ月前に全身に機械を埋め込んだ男と戦ったが、目の前の男の膂力は、ドーピングでもしているのだろうか、それを凌駕している。加えて、動作の精度という点でも上回っている。真凛のような無手の格闘術を修め、先読みに長けている者にとっては、攻撃が飛んでくる速度よりも、むしろ土壇場で攻撃の軌道を変化しうる精度の方が、脅威になりうるのだ。 「薬物?違うな」  鉄骨を斬り裂いたはずなのに怪我一つ無い掌を握りなおし、『毒竜』は笑った。 「俺のこれは生まれつきだよ」  そう言うと、『毒竜』は、百九十センチの長身を沈み込ませ、一気に天を貫くアッパーカットを打ち出した。早く正確だが、動作が大きい。真凛が見切って退く。だが、かわされた事を気にも止めず、そのまま撃ち下ろしへと軌道を変化させる。続けて再び左のフック。怒涛のラッシュが始まった。   撃ちだされる猛攻に、真凛は防戦一方になっていた。根本的な膂力が違うため、安易な受け技ではそのまま斬り破られる可能性があった。かと言って、柔法……関節技や投げ、捌き技を仕掛けるには、『毒竜』の技は剣呑過ぎた。溢れるパワーに隠されているが、奴の動きは恐ろしく合理的で、無駄がない。シンプルな軍隊格闘技は、相手を効率的に壊すという一点において恐ろしく有用なのだ。なまじの小技を仕掛ければ、手痛いしっぺ返しが待っている。そう予感させるだけの力量が奴にはあった。真凛が今相対しているのは、言わば、猛獣の膂力を持った達人だった。  確かにとんでもなく強い。……だけど!  ラッシュのパターンを脳裏に記憶し、そのリズムを抽出する。フェイントを排除し、その奥に隠れているベーシックのパターンを探り出す。  居合いのような回し蹴り。そしてそれをフェイントにした後ろ回し蹴り。次に来るのは……裏拳回し撃ち――読めた!  唸りをあげてすっ飛んでくる裏拳に合わせるように腕をさし伸ばしつつ、勢いよく全身を反転させる。掴んでから投げるのでは間に合わない。伸ばした腕が奴の裏拳の腕を掴むと同時に腰を跳ね上げ、 「っせえええやあああっ!」  一気に背負って投げた。投げつつ肘の関節を極め、掴んだ手首を握り潰せ……ない!  ずん、と音を立てて巨体が叩きつけられる。だが、瞬時に足が跳ね上がり、真凛の追撃を阻止する。振り上げた足を振り下ろす反動で、間合いを取りながら一気に立ち上がる『毒竜』。 「ほおう。大した握力だ」  己の手首を見つめ感嘆の声を上げる。そこには真凛の指の跡がくっきりとついていた。 「だが、俺の筋繊維は人間のそれとそもそもモノが違う。……見誤ったな?」  事実だ。真凛の握力は、その細い指からは信じられないほど強力だが、七瀬式殺捉術の要諦は本来それではない。触れた相手の箇所の構造を瞬時に把握し、もっとも脆い所を握りつぶすための触覚と、指の動きである。こんなミスをするなんて。 「騒ぎすぎました。いくらここが防音構造でも所詮は旧式。これ以上やると周りが気づきます」  後ろには、『定点観測者』と、そして集まってきたらしい『狂蛇』の構成員達がいた。 手に手に銃器を構え、狙いを定めはじめている。密入国者達は一連の騒ぎにパニックを起こしていたが、閉鎖されたこの部屋から出る事も出来ない。やがてかけつけた『狂蛇』の構成員達が銃で脅しつけて、一箇所に固められている。刻一刻と、状況は不利になりつつあった。焦るな、焦るな。真凛は自分の中に芽生え始めた感情を必死に否定する。 「俺に命令するな、と言っただろう」  『毒竜』はそう言ったものの、一理ある事は認めたようだ。真凛の方を見やると、突然、その顎を開いた。途端、真凛の脳裏に、前方の膨大な範囲を囲む『円』が浮かび上がった。反射的に大きくバックステップして間合いをとる。次の瞬間、 「かあああっ!」  『毒竜』の喉の奥から青黒いガスが吐き出された。      『毒竜』モルデカイ・ハイルブロンは、真っ当な両親から生まれた人間のはずだった。  だがしかし、生命の神秘か、あるいは見えざる誰かの悪意か。彼は純粋な意味での人間ではなかった。突然変異体《ミュータント》。遺伝子異常で本来人間に必要な器官が欠けていたり、あるいは通常の人間が持ち得ない能力を保有していたりする。  彼に生まれつき与えられたのは、『暴力』だった。常人を遥かに凌駕する戦闘用の肉体。生まれつきそんなものを与えられて育った子供は、やはり真っ当な人生を歩めなかった。やがて彼は戦いに生き、やがて血の味を覚え。戦場で生業を営む事になる。  『毒竜』の名のもう一つ『毒』の字の由来は、まさにここにある。突然変異体として誕生した彼の体内には、一部の昆虫や動物が持つような毒腺が備わっているのだ。大量に吸気した空気に、この毒腺から分泌される有機毒物を吹きつけ、混合。そして全身の筋肉で肺腑を締め上げ圧縮し毒ガスとする。戦闘時に喉奥から高圧で吐きかけるこの毒ガスの名こそが『ドラゴンブレス』。戦闘系異能力者の中でももっとも凶暴で、もっとも効率的な戦いをする一人として、『毒竜《ファフニール》』の名を確たるものとした由来なのだ。  真凛は濛々と立ち昇る死の煙を回避する。恐ろしい技だがタネは見切った。これならいける!  そう、思った瞬間、第二波が来た。  脳裏に描かれる、『円』の範囲。幸い右方向にまだスペースが開いている。そちらに身を逃せば……そう思い、意識をそちらに向けた瞬間凍りついた。円のギリギリ外の範囲に固まっている、密入国者達。自分がそちらに逃げ出せば、それを追い撃つブレスが彼等を捉えるだろう。    このままだと、あの人達を巻き込む。    その躊躇が、一瞬の、だが致命的な隙になった。まともに吹きつけられる毒ガス。咄嗟に呼吸を止めたものの、その程度で無効化出来るほど『毒竜』の切り札は甘くなかった。 「……ぐ……」  真凛の視界が歪み、頭の中に鈍痛が響く。大気に触れたブレスは数秒程度でその効能を失うが、その数秒の間に例え僅かにでも呼吸器や皮膚から吸い込んでしまえば、容易く致死量に達する。内功を練り上げ、多少は内臓や循環系を制御出来る真凛だからこそこの程度の被害で留められたものの、戦闘力の減殺は目を覆うばかりだ。世界が傾いた、と思ったときには、地面に崩れ落ちていた。 「ひきょう、だぞ……」  気を抜くと遠くなる意識を必死に引きとめ、声を絞り出す。先ほどの攻撃を、『毒竜』は明らかに狙ってやった。真凛が攻撃範囲を正確に読む事を見抜いた上で、しかも彼等を見捨てられないと判断した上で罠を張ったのだ。 「一般人を、巻き込むのは、仁義に、反するって聞いたぞ……」  『毒竜』が哄笑する。 「貴様は阿呆か?ここのどこに一般人がいる?」 「何、を……」 「どこをどう見回してもここにあるのは『商品』だけだ。なあ、『定点観測者)』」  声をかけられた後ろの男の表情は、暗がりに紛れてわからなかった。 「こいつ……っ」  この倉庫の中にあるのは、袋詰めされたプルトンのバッグと、そして密入国者達。『毒竜』は、それを一まとめにして『商品』と言ってのけたのだ。真凛の黒曜石を思わせる瞳が、滅多にない真の怒りの色に燃え上がる。その腹を『毒竜』は容赦なく蹴上げた。咄嗟に臓腑を引き上げアバラに収め、丹田に気を集める。しかし、人間の規格外の威力で撃ち出された鉄板入りブーツの威力は到底殺しきれるものではない。軽量の真凛はサッカーボールのように吹き飛び、放物線を描いて段ボール箱の山の中へ落下した。 「あぐ……うぅっ!」 「ふふん、『フレイムアップ』のガキどもは揃いも揃ってお目出度いな。一年前、あの忌々しい『西風』につき従っていたアシスタントも、お前とそっくりの行動をしていたぞ」 「……え?」 「あっちは男の方だったか。『因果歪曲』なんぞを使ううっとおしいガキでな。なかなかてこずらせてくれたが、何、今と全く同じ方法で仕留めたわ。お前の同僚だろう?」  振り上げた腕に大量の血液が送り込まれ、一回り太くなる。広げられた指に異様な圧力がかかり軋みをあげる。異常な膂力を誇る筋肉と、同様に、桁外れの硬度を誇る爪による一撃。『ドラゴンクロウ』と呼ばれる彼のもう一つの得意技である。 「殺すつもりはない。だが、出血死しても恨むなよ」  詭弁だった。業界の『仁義』では、敵対エージェントの殺害は認められていない。だが、過失による死亡事故はやはり発生する。『毒竜』の言葉は、後で故意ではなく過失だったと弁明するためのものだった。どのみち、現場検証など出来ないし、されないのだ。  真凛はそれでも目を反らさず、自分に迫る敗北と死を見据える。  振り下ろされる腕。分厚い石柱すら破断する必殺のカギヅメが、容赦なく叩きつけられた。       「――ぬ!?」  『毒竜』の表情に異変が生じた。振り下ろされた必殺の一撃は、間違いなく小娘の胴体を爪の数だけ断ち切った。だが。その手ごたえはあまりにも軽すぎた。無残に斬り裂かれた小娘の身体を確かめる。だがそこにあったのは。『へのへのもへじ』と書かれた半紙が一枚貼り付けられた、あまりにも人を小馬鹿にしたつくりの藁人形だった。 「ぐっ」 「がっ」  同時に、舞い飛ぶ銀光。倉庫の各所に散らばっていた『狂蛇』の構成員達が、次々と飛来したナイフに貫かれて倒れる。 「”ウツセミ”?――まさか!!」  四方八方を見渡した『毒竜』の視線が、やがて一箇所、偽ブランド品が積み込まれたトラックのコンテナの上に釘付けになる。そこには。   「どーもー。忌々しい『西風』です」 「どーもー。『因果歪曲』なんぞをつかううっとおしいガキです」  真凛を抱えあげた『西風《ウェストウィンド》』鶫野仁サンと、このおれ、亘理陽司がいた。         ●12     「やーれやれ。どうにかギリギリ間に合ったって感じだなあオイ」  仁サンは野太い笑みを浮かべて、懐から古めかしい巾着袋を取り出した。 「今回は本当に、来音さんには感謝してもしたりないですよ」  本来であれば明日まで別件にかかりっきりのはずの須江貞さんと仁サンのスケジュールを芸術的な手法でやりくりし、今夜のわずかな時間だけ、仁サンの行動を自由にしてのけたのは来音さんの功績である。巾着袋を放る仁サン。 「陽チン、これ、ウチの秘伝の即効性の毒掃丸。真凛ちゃんに飲ませてやんな」 「材料は何使ってるんですか?」  仁サンはにやりと笑った。 「水神から授かった秘伝の錬丹だよ。切り傷、打ち身、何でもござれ」 「なんすかソレ。だいたい飲み薬のくせに切り傷に効くんすか?」  回答は得られなかった。どうやら原料は聞いてもシアワセにはなれないようだ。おれは黙って巾着袋を開くと、鉛色をした丸薬を二粒取り出す。青ざめた顔のまま昏倒している真凛を見て、ようやくおれは自分の采配の間抜けさ加減を実感した。  ――ごめんな。 「すんません仁サン……いえ、先輩。迷惑をおかけします」  このわずかな時間だけ復活した、一年前のスタッフとアシスタントのコンビ。おれ達の口調は自然に、かつてのそれに戻っていた。 「亘理」 「ウス」 「五分だけ稼いでやる。尻拭いはここまでだ。それで体勢を立て直せ」 「了解しました、先輩」 「貸しにしておくぞ」  言うや、鶫野先輩は羽毛の軽さでコンテナから舞い降りた。おれは手早く真凛の口に丸薬を押し込む。ところが苦悶の表情を浮かべて歯を食いしばる真凛の口腔は、丸薬の侵入を頑なに拒んでいる。……おーい、飲めよ真凛。くおら、口を開けこのお子様、ってぎゃあ、指を噛むな!ええい仕方ねえ。     「あの小僧はともかく。貴様までが出張ってくるとは嬉しい誤算だぞ、『西風』!」  竜の顎を思わせる口を吊り上げ、『毒竜』は歓喜の声を上げる。かたや鶫野先輩の表情は、困惑に満ちていた。たっぷり二秒、『毒竜』の顔を見つめ出てきた言葉は。 「あーっと。お前、誰だっけ?」  と、いとも無残なものだった。絶句する、『毒竜』。 「貴様……。俺の顔に泥を塗った一年前の戦い、忘れたとは言わさんぞ!」 「わりー。忘れちまったみたいだわ。プライベートも含めて、俺、忙しいんでさあ」  『毒竜』の奥歯がぎりぎりと唸りをあげる。挑発だと言う事は理性ではわかりきっている。だが、異常なまでに強固な自尊心にヒビを入れられ、そこを逆撫でされたとあっては、『毒竜』の沽券に関わる。 「『定点観測者』!貴様、こいつらの侵入に気づかなかったとでも言うつもりか!?」  真凛をトラップで追い込んで以来、後方でずっと待機していた鯨井さんに怒鳴る。声をかけられた方の反応は到って涼しいものだった。 「手を出すな、と言ったのは貴方でしょう。それに私の『受信器』で感知出来るのは、物質情報を除けばあくまで常人レベルの視覚、聴覚、嗅覚の情報です。伝説の『西風』が本気を出したのなら、例えいくつ受信器を展開しても、どれにも捕らえる事など出来はしませんよ」 「貴様、それで気の効いた事を言っているつもりか!?」 「お取り込み中のところ悪いんだけどよお。俺、忙しいんだって。さっさと片付けさせてもらうわ」  『毒竜』の怒りは頂点に達した。この時点で奴は、鶫野先輩の術中に嵌っている。 「貴様の”ウツセミ”、何度も通用すると思うなよ」  かああああ、と喉から吐き出される大量の『ドラゴンブレス』。青黒い致死の気体が半径三メートルの空間を埋め尽くし、暗闇の中なお視界が不透明になる。 「……!?」  異変に気づいたのは『毒竜』本人だった。長くとも数秒で晴れるはずの自分の毒霧。だが、なぜか十秒近く立っても一向に青黒い煙は晴れる気配がない。やがて煙は彼自身をも包みこみ、その視界を閉ざした。 『ギリギリまで俺は手助けを見合わせていたんだがな』 「どこだ!『西風』!?」  煙の中、どこからともなく響く先輩の声。声のある方向に『毒竜』は腕を振るうが、手応えはない。 『まあ、やるとは思っていたがね。これはお前さんの露骨な仁義違反へのペナルティーってとこだ。しばらく遊んでもらうぞ』  煙の合間にかすかに浮かび上がる先輩の姿。 「そこか!」  迷わず振り下ろされる必殺の『ドラゴンクロー』。その爪を、手甲から引き出した短刀のような形の手裏剣、”苦無”で受け止める先輩。先輩も体格が良いとは言え、『毒竜』の膂力を苦無で受け止めるのは尋常の業ではない。と、 『おおい、どこ見てんだよ』  『毒竜』の背中に、無遠慮とも言えるほどのヤクザ・キックが炸裂した。たたらを踏んで振り返った『毒竜』は有り得ないものを見た。それは、たった今、現在進行形で自分がカギヅメを押し付けているはずの、鶫野先輩だった。 「『西風』が二人……!?」 『いやいや、俺の事も忘れないでくれよ』  横合いから声をかけてきたのは、やはり『西風』。 『俺の出番も忘れないでくれよお』  その横にも、やはりもう一人。その横にも。気がつけば、『毒竜』は視界の通らない煙幕の中、無数の『西風』に囲まれていた。 「おのれ、幻術か!?」  その言葉に、無数の『西風』が一斉に応える。 「「「あーもうこれだから軍人は。そう芸の無い言い方をされっとつまんねえだろ。ここはやっぱり、ジャパニーズ・オヤクソクに従ってこう言って欲しいわけよ」」」  全員が一斉に直立し、左拳から人差し指だけを立て、それを右拳で握りこみ、やはり人差し指を立てる。声にはならなかったが、「口に巻物を加えていないのは御愛嬌」、と先輩は確かに呟いた。 「「「忍法、影分身!」」」  四方八方に乱れ飛ぶ、無数の影。  『西風《ウェストウィンド》』――体術、常なる忍術のみならず、数々の忍法を体得し、天地生死すら意のままに操ると称された異能のシノビは、その力を解放した。     「うん……陽、司?」 「よー、起きたか寝坊すけ」  おれは真凛を起こしてやりながら声をかけた。先輩の薬の効果は覿面だった。真凛自身の鍛錬もあるのだろう。体内の毒素は猛烈な新陳代謝によって、汗として流れ出していたようだ。汗で張り付いたシャツが、貧相な身体を浮き上がらせているのが哀れではある。目を二三度瞬かせて、完全に覚醒した。 「ボクは、あいつと……!?」 「涎たれてんぞ」  慌てて口元を拭う真凛に、おれは事実を告げた。 「昏倒して1セットロスト。ヘルプが入らなかったら永遠に起きなかった可能性大だ」  おれの指摘に、真凛はがっくりと肩を落とした。 「負け……ちゃった……」 「そーだな」 「やっぱり……拳だけじゃ何も出来なかった」 「まーな。特にアイツはタチ悪いしなあ」  おれは淡々と答え、コンテナの下の戦闘を見やる。 「陽司も……アイツと戦ったんだよ、ね?」 「戦ったとも言えねえな。ま、自分ひとりで何とかしようと足掻いたあげくの、無様な敗北だったよ」 「陽司も?」 「そーだな」  その事実をどう受け止めたのか、黙り込む真凛。 「ねえ」 「なんだよ」 「だから。ボクとアイツを戦わせたくなかった?」 「……そーだな」  おれは虚勢を張る気になれず、率直に認めた。 「今までも、ボクの知らないところでそういうことしてた?」 「……ああ」 「……ボクは、結局、陽司に守られてただけなのかな」 「なあ真凛」  おれはこいつに向き直った。 「アイツは……ああいうエージェントや、こんな事件は、極端ではあっても例外じゃない。おれ達の仕事では、結構こんな事にも出くわすんだ。自分ひとりではどうにも出来ないこともある。誇りをかけて戦い、勝っても負けても爽やか恨みっこ無し、なんて仕事はむしろ出会うほうが大変なくらいだ。お前にとっては、楽しくないこともたくさんある」  その両肩に掌を置いた。 「おれ達と肩を並べて戦うってことは、そういう汚い所に足を突っ込む覚悟を持つってことなんだ。それは別に偉い事でも何でもない。知らなきゃそれで済むってだけのことなんだよ。お前は、おれやおれ達と違って、ここに居なきゃいけないわけじゃない。今なら、まだ、」  その言葉を遮って、真凛が、おれの右手に自分の両の掌を重ねた。 「道場と裏通りでの試合だけで出来ていたボクの世界が、どれだけ狭いものだったのか。気づかせてくれたのは陽司だよ。人を井戸の底から引っ張り出しておいて、また戻れ、なんてずるいと思うよ」 「しかし、」 「それにね。今はボクが、陽司と一緒に戦いたいんだ」  おれの目を見て、しっかりと笑った。 「だから、置いてきぼりはもうやだよ」  いつまでも、子供だと思ってたんだがなあ。 「真凛……」 「陽司……」 「おおい、そろそろ会話に混ざってもいいかあ」 「「ぎゃああああ!」」  背後からかけられた声に、飛び上がるおれ達。 「なななな、なんで背後にいるんすかアンタ」 「いやまあ。何と言うか流れ的に発言権なさそうだったもんでな。おー真凛ちゃん、復活したようで何より。寝ている間に陽チンに変な事されなかったかあ」 「有難うございました、仁さん」 「するわけないでしょ仁サン。だいたいあいつはどーしたんですか」 「おー。まだ煙幕の中で俺のコピーどもと遊んでるぜー」 「相変わらず、理屈不明の怪しいワザですねえ」 「タネ明かししちまうと、法がただの術になっちまいやがるからな。ここらへんは企業秘密だぜ」  投げやりに言うと、仁サンはよっこらせ、とオッサン臭い挙動で立ち上がった。 「んじゃ俺は戻るぜ。あんまりサボると須江貞のオヤジがうるせーからな。ほんじゃ真凛、陽チン」  仁サンはひらひらと手を振った。 「スタッフとアシスタント。力を合わせてがんばれよー?」 「ちぇっ、他人事だと思って」 「他人事さ。お前達の仕事だろ」  にやりと笑った、次の瞬間には、『西風』はその名のように、姿を忽然と消していた。……ありがとうございました、鶫野先輩。  さあて。おれはぐるりと肩をまわす。 「行くとすっか」 「うん。さっきは負けちゃったけど、取り返しにいこう」 「負けてねーだろ」 「え?」 「おれ達は、負けてない。そうだろ?」  おれはにやりと笑い、つとめてとぼけた。 「忘れてたけど、お前、おれのアシスタントだったんだよなあ」  おれの台詞に、真凛も不敵な笑みで応じた。 「そう言えば、ボクはあんたのアシスタントだった」  おれは真凛の頭に手を置いて、癖の無い黒髪をかき回してやった。 「さあ。勝ちに行くぜ」         ●13     「おのれ、どれが本物だ!?」  霧の中、無数に現れる『西風』の分身を、次々と斬り裂く『毒竜』。彼とて無数の修羅場を潜りぬけ、S級とまで称されたエージェントである。これが幻術だという事は最初から看破している。問題は。 「――くっ!」  霧の中から、首筋を狙って飛来した苦無を弾き落とす。そう、問題は無数の偽物の中に本物が紛れており、それが攻撃を仕掛けてくるということである。幻術使いや霧使いは業界にも数多いが、熟練のエージェントにとっては、映像の不自然さや気配の有無を見破るのは容易いことだ。だが、この『西風』は、『毒竜』に対してすら完全に殺気を遮断し、攻撃を仕掛けてくる。底無しの技量と言えた。 『そこから右へ三メートル、前へ二メートルの床に攻撃を』  霧の奥から、『定点観測者』の声が響く。直観的に指示に従った。金属塊を斬り裂く音が響く。すると、たちまち青黒い霧が晴れていった。見れば、彼が今壊したのは、映画で使うようなスモーク発生装置だった。 「……何だこれは」  見れば、苦無が投擲されてきた方向の柱には、バネで苦無を打ち出す、簡単な仕掛けが取り付けてあった。 「最初に霧の中で分身によりあなたを翻弄し、徐々に幻術と、苦無の自動投擲にすりかわっていったようですね」 「…………ッ」  自分が子供だましのトリックに引っ掛けられた事を悟り、『毒竜』から一切の表情が消えて失せた。やがて、沈黙の底から、ごりごりと異様な音がする。それは、ごつい顎の奥で、『毒竜』の奥歯と犬歯が擦り合わされる音だった。 「コケにしてくれるな、『西風』よ!」  視線を向けるトラックのコンテナの上。だがそこには。 「生憎と、『西風』は多忙らしくってな」  先ほど真凛に向けられた二本のライトを背負って。 「もう一度ボク達がお相手するよ」  おれ達が居た。      仁サンに勝ち逃げされた事が、『毒竜』にして見れば余程プライドに応えたのだろう。マグマのような怒りの前に、既にその理性は、沸騰して気化する寸前だった。 「ガキどもが。いいだろう、毒にのたうちまわらせて悶死したお前達を切り刻み、奴への見せしめとしてやる……!!」 「あーおっかねえ。肉食獣でもカルシウムはきちんと摂ったほうが良いって言うぜ」  おれはこの一年ですっかり仁サンから受け継いでしまった口調で、野郎を見やる。――大した敵では、ない。おれが昼に奴を見た時に感じた焦燥感は、奴に対しての物ではない。奴に敗れた一年前の自分に対してのものだった。今のおれは、あの時より遥かに冷静で。 「頼りにしているぜ、我がアシスタント」 「りょーかい!!」  それに、こんな奴もいるわけだし。  空気が弾けた。コンテナを蹴るかすかな一音。カモシカのように躍動感溢れた跳躍で、真凛がライトの光の中から踊りかかった。毒が抜けたせいか、あるいは他に迷いを吹っ切ったからか。おれが知るどれよりもキレのある動きだった。そのまま、『毒竜』の真上の空間を獲る。空中で背筋と腹筋を爆発させて、縦に二回転。それによって得られた加速と全体重を踵に乗せて、 「っはぁぁぁあああっ!!」  大木を撃ち割る稲妻を思わせる勢いで叩き下ろした。 「ぬうっ!!」  たまらず両手を交差させガードする『毒竜』。だが、想像以上の衝撃に膝、腰が沈む。受け止めた両腕の筋肉が、ブチブチと嫌な音を立てるのをはっきりと聞いた。 「かっ!!」  それでも迷わず反撃を選択出来るところはさすがにS級だった。クロスした両腕の奥から、致死性のブレスが吐き出される。しかしその攻撃は予測の範囲内。真凛はその時点で既に身を翻し、右足を『毒竜』に預けたまま、地面に両手をついていた。そのまま独楽のように身体を回転させ、軽やかに左足で『毒竜』の両足を刈る。完璧なタイミング。柔道教室に初めてやってきた子供のように、一本の棒となって『毒竜』は地面に這いつくばった。 「とどめっ!」 「そうは問屋が卸しません!」  横合いからかけられた声と、柱に仕掛けられた残りの指向性地雷が真凛に向けて炸裂したのは同時だった。しかし今度は真凛は冷静だった。敵意を感知した瞬間に深追いせずに飛びのき、降り注ぐゴム弾のシャワーをやり過ごす。失敗したと悟って、次のボタンに手をかける『定点観測者』。  そうは問屋も卸せないってね。  脳裏の古ぼけた机から『鍵』を引きずり出す。微力ではあるが、この世界に定められたあらゆる法則を根源からクラックする『鍵』を手にし、おれはおれをバックヤードに放り込み、空いた容量を……俺が占有する。 「『この倉庫内で』『七瀬真凛に』『爆発は』『当たらない』」  事象が捻じ曲げられる。それは、大河の流れを堰きとめ、無理矢理小川に引き込む行為にも似ていた。俺の定義した事象を実現するために、運命と言う名の大河は何とか現実と折り合いをつけようとし――結果、通常では有り得ない確率の『都合のいい幸運』が発生する。  まさに爆薬が起動するその瞬間。『毒竜』が振るったカギヅメに切り裂かれ、荷重に耐え切れなかった鉄骨が、音を立てて大きくひしゃげた。それに巻き込まれた地雷は、みなあらぬ方向を向いて暴発した。真凛にはカスリ傷もない。  『定点観測者』鯨井さんが目を細める。 「……亘理君ですか」  どうもー、と、コンテナから降りたおれは手を挙げて応える。ちなみに真凛や仁サンのようにカッコよく飛び降りられなかったのでこっそり降りて来たのはナイショだ。ここでようやく起き上がった『毒竜』がおれに気づいた。 「ふん。いつぞやの小僧か。確か、因果を操る『ラプラス』とか名乗っているそうだな?」  何時の間にそんな話が広まってるのやら。おれは無言で親指を突き出すと、下に向けて振りおろす。露骨な安い挑発。だが、かつてない屈辱に理性が煮えたぎっている奴には、火薬庫に花火を投げ込んだようなものだった。奴の顎がますます軋みを上げる。自分の歯を噛み折りそうな勢いだった。 「挑発に乗ってはいけませんよ、『毒竜』。彼の能力は――」  振り返りもせず返答する。 「何をしに来た、『定点観測者』?」 「敵は二人。しかも先ほどとは明らかに違います。こちらも二人でかからねば危ういですよ」  相棒に送った忠告は、だが逆効果のようだった。 「俺に命令するな、と言っただろう」 「しかし」 「仁義破りの闇討ちしか出来ぬような腰抜けは、居るだけ足手まといだ」  鯨井さんの顔色がはっきりと変わった。 「……わかりました。では私は退くとしましょう」  言うや、踵を返す鯨井さん。本当に手を出すつもりはなさそうだ。 「決着がつくまで、密入国の皆さんの面倒を見ていますよ」 「そうするがよいさ。どの道ここからは」  頬骨が張り出す。頑丈なはずのフライトジャケットがぶちぶちと音を立てて弾けとび、胸骨がべきべきと音を立てる。首が延び、背中が隆起し、筋肉が膨れ上がる。爪が延び、瞳孔が絞られる。顎が突き出し、ぎらつく牙が剥き出しになる。 「周囲なゾ気にカケテいてはやっテイらレヌからナ!」  言葉を喋るに適さなくなった口から、おぞましい声を紡ぎだした。これが、『毒竜』の中に宿る真の力か。突然変異の異常な筋力を全開にし、そしてそれに適応すべく骨格が変形した結果、人間とは呼び難い、爬虫類を思わせるフォルムになっている。竜人《ドラゴニュート》、という言葉がおれの脳裏をよぎった。 「……えーっと、陽司」 「ナンダネ七瀬クン」 「怪物退治も、ボクらの仕事なのかな?」 「ま、比較的オーソドックスな部類に入るかな」  おれはしれっと嘘八百を述べ、人間辞めました、と全身で主張している『毒竜』をねめつけた。その身長も大きく変化し、恐らく二百三十センチに達していると思われた。翼と尻尾が生えていないのが、最後の良心という所だろうか。 「挽肉ニナルガイイ!!」  突進。その自重を物ともせず、膨れ上がった筋肉がおれ達に遅いかかる。 「右!」  真凛の声に従い、おれは右に横っ飛ぶ。当の真凛は、自身に『毒竜』の突進をひきつけつつ、左にかわした。すれ違い様に肋間に貫き手を放つが、装甲じみた筋肉に阻まれる。肉と肉との衝突とは思えぬ、硬質な音が響き渡る。そのまま勢い余った『毒竜』は鉄骨に突っ込み、倉庫がまたも大きく軋んだ。おれは崩れ落ちた残骸の山に突っ込みそうになり、どうにか立ち止まった。 「強そうだなあ、おい」 「そうでもないんじゃない」  うちのアシスタントの頼もしい返答である。 「そりゃまたどうして」 「だってアイツ、さっきまでのボクとそっくりだ」  なーるほど、それなら。 「いい手はあるか?」  おれの声に、真凛が床に落ちてたモノを拾い上げる。 「これならどうだろう」  いつから目端が効くようになったんでしょ、このお子様。 「ナイスアイディアじゃないの」  おれ達はにやりと笑った。 「来るよ!」 「おうよ」  今度はおれに向けて突進してくる『毒竜』に、真凛が割って入る。 「ギジャァァァアアアアッ!!」  咆哮とともに、今や竜そのものとなった顎から、大量のブレスが一直線に吹き出される。 「さすがにそう何度も見せられると――」  くるり、とワルツを思わせる軽やかなステップで、毒息を避けつつ斜め右に踏み込み入り身。『毒竜』に一瞬背を向けつつ脇を抜け跳躍。そのまま勢いを殺さず高々と放たれた旋風脚が、スパーン、と擬音を発したくなるくらい綺麗に二メートル三十の位置にある『毒竜』の後頭部に入った。 「小娘ガァッ!!」  反射的に振るわれたカギヅメが地面に衝突し、敷かれた分厚いコンクリートの床を瞬時にズタズタにする。だが。 「――いい加減、飽きてくるなあ」  真凛のその声を聞いた『毒竜』は明らかにうろたえた。なぜならその声は、彼の後頭部から聞こえたからだ。回し蹴りに放った足をガイドにし、一瞬で『毒竜』の背を駆け上がり、肩車の姿勢で『毒竜』の首に跨っていたのである。 「アンタは最低のひとだけど。聞こえるうちに一応謝っておくね」  咄嗟に攻撃方法の選択に戸惑ったその時、『毒竜』は、確かにそう声を聞いた。 「ここからは、解体だから」  真凛は両拳の中指のみを立て。 「『耳掻き』」  『毒竜』の両耳穴に、根元まで突っ込んだ。    狂った獣の絶叫が、倉庫内に轟いた。      軍人として充分以上のキャリアを積んできたはずの『毒竜』が、頭の中を抉られるという想像もしえない激痛に身をよじる。頭を振って暴れる『毒竜』、だが真凛はロデオのように巧みにバランスを取って肩車の体勢を維持する。ここでようやく、頭上の敵を叩き落とすべく、カギヅメが振るわれる。だがいかに筋力があれ、この体勢ではまともな威力など発揮できない。指を引き抜き、真凛は容易くその一撃を捌くと、そのまま左手で手首を捕る。右手で『毒竜』の長く延びたカギヅメに、甲の側から手をかけ。 「『爪切り』」  四指のそれ、すべてを引き剥がした。今度は絶叫させる間も与えない。そのまま手首に添えた手を、つ、と動かす。繊細な場所を愛撫するかの如き動きで、たちまち『毒竜』の皮膚、筋繊維、骨、すべての構造を読み取り、その隙間に指を潜り込ませ。 『胡桃割』  一気に握り潰した。まだ停まらない。そのまま耳の前、顎関節に指を挿しこみ。 『髭剃り』  引き下ろした。がごんと音がして下顎が外れ、筋肉と皮膚だけでぶら下がる。  それは戦闘と呼べるものではない。正に解体だった。七瀬式殺捉術の真骨頂にして、どうしようもない程合理的で凄惨な一面が、ここにある。強敵と相対した時、この流派は一撃必殺の打撃や華麗な投げ技など狙わない。拳技が得意な敵であればまず指を、次に手首を、肘を。蹴技が得意な敵であればその足指を、次に足首を、膝を。外側から内側へと、丁寧に丁寧に一箇所ずつ破壊していくのだ。城攻めでいえば、兵士武将を軒並み殺してまわり、最後に丸裸になった本丸を存分に焼き打ちするようなものだ。真凛自身、己の技がどれほど凄惨なものかは承知している。彼女にこの技法の使用が許可されるのは、私闘ニ非ズ、殺メル不可ズ、倒スニ難シ、の三条件が揃った時のみである。そしてこれでも真凛は加減している。本気であればまず眼を狙っていた。  聴覚、カギヅメ、そしてブレスを吐き出す顎を破壊された『毒竜』は、己の脳の許容量を越える激痛に、もはや絶叫も出ない。並の人間ならここで痛覚が焼き切れていてもおかしくはない。だがそれでも、奴は最強の一角を占めるだけの相手だった。 「……ッ!!」  もはや閉じる事も出来ない喉の奥から、ごぼり、と音がする。  それは、奴の体内にありったけ蓄えられたブレスだった。顎が外れそれを吹き出す事は出来ずとも、周囲に吐き散らすことで真凛だけは確実に仕留めるつもりなのだ。頚椎を握りつぶして息の根でも止めない限り、こればかりは、真凛には防ぎようがない。 「おれがいなけりゃ、な」  おれの得意ポジション、ライトからファーストへの送球の要領で、おれはその手に持った凶器――指向性地雷の残り一発を、思いっきり投げ込んだ。本来シャッターの役割をすべき下顎は、真凛に破壊されその機能をなさない。ベストシュート!奴の口の中にすっぽりと入り込む指向性地雷。奴が吐き出そうとするその前に、おれは光の速度で『鍵』を起動させる。 「『亘理陽司の』『投じた地雷の』」  一瞬の時間は無限に引き伸ばされ、俺は世界に楔を打ちこむ。 「『その姿の』『維持を禁ずる』!」  俺の能力は『禁ずる』事のみ。外に向けての鍵は、閉める事しか出来ないのだ。だから、地雷が爆発しない、という未来を全て、俺は禁ずる。    どむ、と鈍い音が響いた。  口の中で無数のゴム弾が炸裂し。  ついに、『毒竜』は倒れ伏した。       「お疲れ」  着地し、膝をついて大きく肩で息をする真凛に声をかける。 「ボクも、力に……なれたかな?」  おれは右の掌を真凛に向けて差し出した。質問を質問で返す。 「これからもよろしく頼むぜ?アシスタント殿」  きょとんとする真凛に、やがて理解の表情が浮かんだ。おれの掌に真凛の掌が打ち下ろされ、小気味の良い音を立てた。 「よろしく。……先輩!」  おれはにやりと笑って、親指を上に突き出した。  ……実は掌がじんじん腫れてたりするのだが、それは口にしなかった。仕事としては何よりまず、力加減を覚えてほしいところである。     「まだやりますか?」  おれは入り口付近で一部始終を見守っていた鯨井さんに声をかけた。その背後では、密入国者の方々が不安そうに身を寄せ合っている。鯨井さんはゆっくりと首を横に振る。 「『定点観測者』に出来る事は観測だけ。観測したデータを用いる者がいなければ、私に出来る仕事はありませんよ。力づくでその帳簿を取り返したりする事も不可能です」 「ありゃ、気づいてましたか」  おれはザックに仕舞い込んである、この倉庫の搬出入の記録や取引を記入してある帳簿を叩いた。真凛の救出に向かう前、どさくさに紛れて倉庫の管理室から引っ張り出してきたものである。今の倉庫内の惨状を思えば、その判断は誠に正しかったと言わざるをえない。 「『観測者』は見る事にだけは卓越しているんですよ」 「……これからどうするつもりですか?」 「さて。まずは帰って報告ですね。海鋼馬は初任で失敗する人間を使ってくれるほど温厚な組織でもなさそうですし。まあ、そのうちに考えるとします」 「そうですか……」 「私のことより、ね」  鯨井さんは言葉を切った。 「これは海鋼馬のエージェント、『定点観測者』としてではなく。宗像研究室のOB鯨井としての言葉なのですがね」  鯨井さんは、倉庫に積んであったバッグから、崩落に巻きこまれなかったものを二つ、取り出した。 「私の『観測』の結果、この二つ……いいえ、ここに置いてあったバッグ全てが、完全な同一品でした」  おれは、その言葉の意味を理解するのに時間がかかった。 「そんな事は……」 「そう、絶対にあり得ないのです。しかし、現実はこの通りです。つまり。あなたの仕事と言うことですよ亘理君」 「……わかりました。情報、ありがとうございます」  鯨井さんがふ、と顔を緩める。 「いい顔になりましたね、亘理君。これでは我々が不覚を取るのも仕方がないでしょう」  さてさて、と鯨井さんは手を叩いた。 「『毒竜』や『狂蛇』の面々は私が面倒を見ます。あなた達は早く行きなさい」 「密入国の人達についてはそのまま警察に引き渡してください」 「ちょっと、陽司!?」 「大丈夫、というわけでもないが。須江貞サンのコネで、きちんと保護してもらえることになった。強制送還になるだろうけど、あとは所長のコネで真っ当に来れるルートを探す、てとこかな」  漫画喫茶に篭って、今日の午後をほとんど費やしてこんなことをやっていたわけだ。地道に手続きを踏む、というのも一つの方法なのだ。彼等の窮状を放ってはおけない、さりとて密入国を見逃すわけにはいかない、となれば、おれの打てる手はこれくらいだった。 「なんかコネばっかりだね」  でもありがとう、と真凛は言った。 「つーか、所長と須江貞さんの存在価値なんてコネだけみたいなもんだし。さて、行くか」  おれは鯨井さんに目礼をすると、真凛に撤収の合図をした。 「それから、そこのお嬢さん」 「ボクですか?」  ええ、と鯨井さんは真凛に向けて、 「今あなたが見ているこの亘理君を、よろしく頼みます」  そんな事を言った。 「えっと、それはどういう……?」 「おーい、行くぞ」 「あー、うん!」  おれは真凛に声をかけると、裏口の門を押し開けた。  遠くから、ようやくパトカーのサイレンの音が近づいてくる。  色々と長かった夜が、明けようとしていた。         ●14     「電話代。家賃。ネット代……光熱費。おおーっし!!どうにか九月を乗り切ったぜっ!」  事務所のパソコンを借りて起動した家計簿に数字をすべて打ちこみ、おれはガッツポーズを取った。今月は特に金の出入りが激しく、非常に微妙な綱渡りではあったのだが。計算の結果、どうにか無事に来月を迎えられそうである。  日曜深夜の死闘から、すでに二日が経過している。結局、ドタバタ騒ぎを駆けつけてやってきた警察に、ナガツマ東倉庫にあったモノ、居た人間は軒並み差し押さえられてしまった。もちろんおれ達は手遅れになる前にとっとと脱出し、警察がやってくる様を離れたところにあった終日営業のファミレスから見守っていたという次第。 「亘理さんが持ってきてくださった帳簿を判読した結果、倉庫内に収められていたプルトンのバッグは全て、東南アジア某国の工場で生産して『狂蛇』が密輸していたものと判明しました」  ブラインドに遮られた西日が適度に差し込む事務所の中で、来音さんがいつものようにコーヒーを淹れてくれた。 「逮捕された『狂蛇』の構成員も同様の証言をしたわ」  月末決済の様々な書類にハンコを乱れ打ちし終えた所長もこちらにやって来る。 「警察はこの証言をもとに『ミサギ・トレーティング』に製品の販売差し止めと回収を要請。ミサギは一応回収に動いているみたいだけど、回収率は目も当てられない低さだそうよ」 「ミサギは露骨にダミーカンパニーでしたからねえ。意欲だってあがらないでしょうよ。雲隠れされなかっただけでもマシな方なんじゃないですか?」 「それもあるんだけどね。買った人が回収に応じないケースがほとんどだそうよ。格安の値段で、どう見ても本物としか思えないものを買ったんだから、わざわざ返品する必要はない、って考えね」 「気持ちはわかりますがねぇ。結局、警察が踏み込んできてくれたおかげで公的に偽物と証明出来たわけですか。技術的に偽物と証明するのには恐らく不可能だろうし……。来音さんにはますます頭が上がりませんよ」  異能力者同士の決着がつき、『狂蛇』の面々が気絶しているベストのタイミングで警察がかけつけて来たのは、来音さんの力によるところが大きい。 「でも、海外の工場で作っているところまでは突きとめられたとはいえ、実質的にどのように製法しているかは結局わからずじまいでしたね」  おれは頷いた。さすがに海外までは足を伸ばせない。ここから先は警察と、……それからもう少し別の連中の領分になるだろう。 「依頼人の小栗さんもその点は気にしていたけどね。『狂蛇』の自白も取れたし、ルートはこれで潰れたわけで。納得してくれたわ。もっともこの先、海外まで乗り込んでいって根っこをつきとめる、なんて話も出てくるかも知れないけど」 「良かったですね陽司さん。会社のお金で海外に行けますよお」 「はっはっは、来音さん、海外という言葉がいつもリゾートホテルやビーチやカジノを指すと思ったら大間違いですよ、ねえ所長」  うちの『海外出張』と言ったら、砂漠にテントを張りながらピラミッドの中枢潜入とか、針葉樹林の中を行軍しながら原子炉護衛とかそういった類のものだ。 「ま、それはそれとして。この夏はお疲れだったわね、亘理くん。ハイこれは同日複数依頼の特別ボーナス」  所長がおれに何やらチケットを押し付けた。 「……映画っすか。『ムエタイVS地底人2 血闘!オリンポス』。恋愛映画ですか?」 「んなわけないでしょ」 「この秋公開のアクション映画ですよ。前作で死闘を演じたムエタイ使いと地底人がコンビを組んで、ギリシャの神様十六人とバーリトゥードで戦うお話です」 「どうやって入手したんですか?うち、新聞替えましたっけ?」  てっきりおれは新聞勧誘員のおっちゃんから巻き上げたのではないかと思ったが。 「失礼な。ちゃんと取引先の株主優待券をブン獲って来たのよ」  似たようなものだったらしい。っつーか、ボーナスってこれだけかよ。 「冗談よ。報酬の上積みの方は楽しみにしてなさい。驚くから」  そりゃ驚くだろうさ、反対の意味で。いずれにせよ、滅多にない所長からの給料以外のプレゼントとあれば否やはない。 「おお我が殿、ソレガシに来音さんを映画に誘えと仰られる?善哉善哉。一命に替えても確かに果たしてごらんに入れまする」 「誰が殿よ」  来音さんはいつものとおりの極上の笑み。 「残念です陽司さん、もっと相応しい方がいらっしゃるみたいなので、私は次回に」 「先約?」 「チームの固めの杯がわりってとこかしらね」  階段を三段飛ばしでかけ上がる音が響いた、と思ったら。 「おそくなりましたー!」  事務所の扉を開けて飛び込んでくるお子様一名。 「おせーよ、おい」 「ごめんごめん。英語の課外授業があってさ」  通学用のカバンを下ろしながらおれの席にやってくる真凛。そういえばこいつにはまだ正式な席はなかったっけな。 「そんなもんやったって時間の無駄だって。チョイチョイと切り上げてだなあ、」 「でもさ、今後この仕事でも外国の人と会うことも多いでしょ?やっぱり英語話せた方が便利じゃないかなあ、って思って」  おれは手持ちの書類を丸めると、真凛の肩を叩いた。 「それなら一番の近道は、学校での勉強を当てにしないことですゾ七瀬クン。高校受験をクリア出来る程度の単語力があれば、まずは実地の会話でベーシックな単語の組合せ方のコツを掴んだほうがずっと早く覚える」 「そーなんだ……。じゃあ、今度教えてよ。アンタ語学だけは得意だったよね」 「あーはいはい。早く覚えて楽サセテネ、我ガアシスタントドノ」  振り返ると、所長と来音さんが口に手を当て、笑いをこらえていた。 「なんですか?所長?」 「んー。あなたたち少し雰囲気変わったかなあ、なんて」  そりゃ気のせいですよバッチリ。ってちょっと待った。 「相応しいって、まさかコイツですか?」 「来音ちゃん、今日は早く退けたからラーメン食べに行こうかー」  きらりと光る来音さんのメガネ。 「所長、早大前に新しい豚骨ラーメンの店がオープンしたと言う情報が」 「大盛ある?」 「無料です」  即答であった。 「じゃそーいうことだから亘理くん。戸締りまかせたわよー」  ドタドタガッチャン、と飛び出して行く疾風二名。……逃げられた。 「なに?先約って」  そして事態を知らぬお子様一名。  あー。はいはい。わーったわーったわーかりましたよ。 「……ホレ、これ。映画のチケットだよ。行くか?」  ま、親睦会みたいなものがあってもいいだろう。 「陽司が?映画?うそ!?お金あるの?」  って、第一疑問がそれかい。 「イヤならしょうがないけどよ」 「そんな事ないよ!えーと。『ムエタイVS地底人2 血闘!オリンポス』。恋愛映画かな?」 「んなわけねーだろ」  十五分前の自分を遠い棚に放り投げて、おれはツッコんだ。いくつかの仕事に随分振り回された大学二年の夏休みだったが、最終日だけは、随分穏やかに過ぎていったようだ。  ふと窓の外を見れば、澄み渡った秋空が夕陽に映えていた。  九月も過ぎ行こうとするこの時期。ようやく世間は、秋らしさを見せ始めていた。                 ●※      ねずみ色の雲が厚い緞帳となって、空を覆っている。  ゆうべ深夜から天気が崩れ、そのまま今日まで降りしきる雨。  屋外にうち捨てられたトタンに弾ける雨音のリズムに包みこまれ、おれはじっと待っていた。北区、荒川沿いのとある廃工場。かつては工作機械が何台も賑やかに金属音を奏でていたであろう工場は、債権者によってか、あらゆる設備が剥ぎ取られ、床下の土塊すら露出していた。だだっぴろい空間の中、柱に背を預けて座りこむ事、既に一時間。  まだ午後だと言うのに、日光は垂れ込める分厚い雨雲と、灯りの途絶えた窓の少ない建物に遮られ、部屋の端の壁すら満足に見えやしない。そのくせ、むき出しのコンクリートは、湿気と冷気を直に送り込んでくる。つい先日の長野の夜とは異なった、深々と染み込んでくる類の寒さだった。  携帯兼音楽端末『アル話ルド君』の演奏が一周して止まる。ふとその液晶画面を見やり、映し出された日付を確認する。泥まみれで真凛と炎天下を歩き回ったあれから、百時間と経過していない事実に気づき愕然とする。ここ数日の気候の激変は、まるで、誰かが可能な限り引き伸ばしてきた夏が終わり、その代償を急速に取り立てられているかのようだった。気がつけば、九月も終わり。来週からはまた、大学の講義が始まる。      ――ああ。そう言えばそうだった。      今更ながらにそんな事に思いが到った。      夏休みが終わるのか――        ……ざりざりと小石を踏みしめる音が、おれのまどろみを断ち切る。イヤホンを引き抜くと、おれはよっこらせ、と無意識に呟いて身を起こした。       「……どーも、その節は」  今ひとつかける言葉が思い浮かばなかったので、なんとも間の抜けた挨拶になった。廃工場にまさにやってきた男、『毒竜《ファフニール》』モルデカイ・ハイルブロンは、居合わせたおれの顔を見て明らかに面食らったようだった。 「……『ラプラス』の小僧か」  そう呟くモルデカイの腕には、分厚いギブスが巻かれている。そして外れかかった顎を吊る為に、顔に対して縦に包帯を巻きつけており、それは頬かむりをしているようにも見えた。何とも無惨な話である。それは、先日まで業界に畏怖を持って知られた『毒竜』の二つ名が、完全に地に堕ちた様を示していた。おれは表情こそ変えなかったが、その気配は伝わってしまったのだろう。モルデカイの雰囲気が一層険悪になる。 「仕事は決着したはずだ。こんなところで何をしている?」  エージェント業界の仁義――通常、どれほど熾烈な戦いを繰り広げたとて、その仕事が終了すれば、互いに遺恨を残さないのが暗黙の掟。奴自身がそれを守るかどうかは別として、言う事はもっともだ。が、 「そういうあんたは何でこんなところにいるんだ?」  おれの質問に、モルデカイが不快げな表情を消し、こちらに視線を向ける。おれがどれ程の情報を握っているのか推し量っているのだろう。喧嘩の動力は怒り。戦闘の動力は義務感。そして、殺人の動力は必要性。モルデカイがおれを見る目は、急速に『派遣社員』のものではなくなっていった。時間を浪費するつもりは毛頭ないので、さっさと答える事とする。 「あんたの探してるのはコイツだろ」  おれはこの倉庫に保管されていたバッグを放りやる。紛れもなく、プルトンのバッグだ。 「……」 「あんたの本当の依頼人について教えて欲しくってね」  もつれたイヤホンのコードを胸ポケットに仕舞いつつ続ける。 「あんたが所属する海鋼馬と『狂蛇』の間にどういう契約が取り交わされたかは知らないけどさ。いくら重要な資金源の芽とは言え、通常は企業間の最後の切り札として、あるいは国家レベルの案件に投入される『S級』エージェントがこんな任務に就くとは到底思えないんだよね。ましてや、特に凶暴なアンタが」  剣呑さを増して行く、前方の殺気。 「だけど、一つだけ、ここに仮説がある。プロの鑑定士が見破ろうとしても見破れない、完璧なコピー。これを作ろうとしたらどうすればいい?まっとうなバッグメーカーが精確な情報を得て全力を尽くせば出来るのかもしれないが、少なくとも某国で作業をして闇ルートに流すような後ろ暗い工場にはまずムリだろうな」  おれはポケットに手を突っ込み、ゆっくりと歩きはじめる。 「では、エージェントによる異能力でのコピーはどうか。これも現実味が薄い。複製の魔術や錬金術も、実際の所万能じゃない。絵画を描くのと同じでね。形だけ似せるなら初心者でも出来るし、上級者ならまずバレないくらい良く似たものを、達人なら本物以上のものだって作り出せる。だけどね、完全に同じものは作り出せないんだ。よってこれもムリ。何でもアリのおれ達エージェントの業界ですら、理論上不可能って事さ」  モルデカイを中心に円を描くように。奴は正面を見据えたまま動かない。 「ところが。この世界にはただ一つ、これを可能にする法則がある。いや、違うな。この世界を崩壊に導く、あってはならない法則がある。……この世の根幹を揺るがす、禁忌の力」  モルデカイは動かない。 「……とある組織が、その禁断の力を手に入れたとする。その力とは、ありとあらゆるものを正確無比に、完璧に『複製』する。しかも時間が立つと消えてしまったりするわけじゃない。本当に、単純に一個が二個になるだけ。材料も必要ない。とんでもない能力だ」  質量保存の法則など意味を成さない。悪用などそれこそ星の数だろう。例えば、金塊を倍々に増やすだけで、単純に一生遊んでいられるほどの財産を築く事が出来る。 「ところがその組織はそう金には困っていない。彼等はもっと別の事にその力を使いたかった。だから、実験をしてみた。多くの人に『複製』したものをばら撒き、誰か偽物と気付く人がいないか、確かめてみたかった。……つまり、連中にとっては偽物の売り上げによる利益なんかはどうでもよくて」  半円を描ききる。おれは奴の背後に立った。 「ちゃんと『複製』出来るかどうかが問題だった。そしてそれを見届ける為に、お目付け役が必要だった。海鋼馬のエージェント、『毒竜』ではなく。戦場で多くの兵士を毒殺し、その後一時期消息を断っていた元傭兵……モルデカイ・ハイルブロン」  返答はなし。 「ここまで言ってもわからない?そうか。じゃあ率直に言うよ」  おれはポケットから手を抜いた。 「この下らない悪戯の仕掛人。あんたの本当の飼い主。最低最悪のエージェント――『誰かの悪夢《バッドジョーカー》』。今、どこに居る?」  背を向けたまま、モルデカイは声を上げる。 「――何故、今聞く?聞きたければ俺を倒したあの時に聞けば良かろう」 「あれは仕事の上での戦闘だ。プライベートを持ち込む事は出来ない」  その肩が震えた。笑っているのだろう。 「つくづくお目出度いな、『ラプラス』!!それともまさか、負傷している俺を御する事など容易いと思ったか?」  次の瞬間。振り向き様に振るわれたカギ爪が、おれの胴を薙ぎ払った。両腕をハネ上げて身を浮かす。ガードした腕に衝撃が弾け、おれは工場の壁まで容易く吹き飛ばされた。服の下に着込んでいる防弾防刃ギア『インナー』すらざっくりと切り裂かれ、おれの腕に浅くない切り傷を刻み込んでいる。皮膚もダメ。筋繊維までイったな、こりゃ。 「俺の生命力を甘く見たな。三日もあれば、この程度の傷は全て塞がる」  膨れ上がった腕の筋肉に負け、奴のギブスが吹き飛ぶ。同様に、顎を覆っている包帯も千切れて落ちた。その下には、先日真凛にズタズタにされたはずの傷痕は毛ほども残っていなかった。おれの顔を見やって、モルデカイが嘲笑を浮かべる。 「『ラプラス』。因果使い。確かに厄介極まりない能力だが、その分制限も多い。望む事象を明確に言葉で発音しなければならないこと。捻じ曲げられるのは一瞬の出来事のみ。回数にも恐らく限りがあるだろう。そして長期または恒久的に現実を都合よく捻じ曲げる事は出来ない」 「ついでに言うと、言葉は必ず否定形で定義しなきゃいけないってのもあったりするんだけどね」  おれは皮肉っぽく呟いた。奴はおれの様を見やって、あの野太い嘲笑を復活させる。 「結論からすれば。俺とお前の地力の差は、一度や二度の命中や回避を捻じ曲げたくらいでは埋め合わせが出来るものではないという事だ!」  突進からの刺突。致命傷になりうる一撃だった。高速で精神をシフト。   「『モルデカイの』『攻撃は』『亘理陽司に』『当たらない』!」    だがそれだけでは、とてもではないが確率が低く負荷がきつい。同時に横方向に飛ぶ。モルデカイの突き出したカギヅメは、俺の代わりに俺が背にした壁を大きく斬り裂いて止まった。  おれは安堵のため息、だがそこに、続けざまに膝が飛んできた。 「痛ぅ……」  因果の鍵は一瞬しか機能しない。おれはその一撃をまともにくらい、地面に吹き飛ばされた。ダメージをチェック。あっちゃ、肝臓が破れたらしい。少し遅れて吐き気と脂汗が押し寄せてくる。 「見誤ったな小僧。俺の本領は甘っちょろいエージェントではなくて実戦《こちら》側だ。生ぬるい手加減の必要がない分、気兼ねなく戦えると言うものよ」 「奇遇だね。おれもさ」  おれの減らず口を鼻で笑い、見下ろすモルデカイ。その肺腑が膨らみ、大量に取り込んだ空気を圧縮していく。 「死ね」  子供の喧嘩ならいざ知らず。この業界で『死ね』という言葉は、明確な殺傷の意志を意味する。奴は本気で、おれを殺すつもりだった。      ――意識の裏。古ぼけた抽斗から鍵をもう一度取り出す。  おれは鍵を俺に渡して、俺を自由にさせた。     『我は』『亘理陽司に』『非ず』――『無数の名を持ち、だが全ては無意味』     「……仕事の上の戦闘だったからってのは確かに理由なんだが」 「ぬ!?」  奴はおれの様子に気づいた。 「わりとほれ、自分で言うのもなんだけど、おれ小心者でさあ」      俺は鍵を、外ではなく内側に向ける。  そこには、ずらりと並んだ36の抽斗があった。  そのうちのおよそ半分には、厳重に封を施されている。  残りの半分は、未だ空白のまま。  さて。  陳列されたエセ天使どもを前にひとりごちる。  どれを出すか。     『我は』『人に』『非ず』――『万能の工具、而して意志を許されず』      おれの周囲の空気が歪んで行く。  その異様さに圧されて、モルデカイは振り上げた腕を下せない。 「仮にもオンナノコの前で、こいつを見られたくはないっつう純情チックな個人的な事情もあるんだよね」  これだけは、いくらアシスタントでもな。 「貴様……何者だ?」  おれはその問いに答えなかった。 「それから、言いそびれてて悪かったが、一つ訂正がある。おれは『ラプラス』じゃないよ」  そう名乗った事は一度も無いはずなのだが。噂とは一人歩きするものらしい。まあ、おかげで面倒事に巻き込まれるのが少しは減らせるわけだが。 「おれが『ラプラス』だったら、アンタは戦闘開始一秒後に死んでたぜ」  大見得を切ったわけでもなく、掛け値抜きに一秒なのである。  おれは『外の世界に鍵をかけ』、自分に都合の悪い未来を封じてまわる事で、もっとも都合のいい因果を確実に手に入れる。すごろくで6が出るまでサイコロを振りなおすようなものだ。だが、『ラプラス』の能力は全く別物である。『外の世界の情報を計算しつくし』、サイコロを振るときの手の動きや力の入れ方、周囲の空気の流れ、サイコロが落ちるテーブルの固さ、全てを計算しつくして、4だろうが5だろうが6だろうが好きな目を出せる。おれなど到底足元にも及ばない。うちの事務所の良識派ではあるが、敵に回すと多分あの人が一番おっかない。 「どっちかっていうと、おれの能力はラプラスとは対になるんだよな。おれが持っているのは、あくまでただひとつの『鍵』。それ以上でも以下でもない」    そう。我が師より受け継ぎしはただ一つの鍵。    その『鍵』で、外側を封ずるのではなく。内側を開くことにより。      ……やはりこれか。  俺は、7番目の抽斗に鍵を差し込んだ。     『我は』『つなぐものに』『非ず』――『斬界の主。創世の鉈となりし切断者』      歪んだ空気が軋み、凍る。 「――この世界はね。突拍子もない事象があるように見えて、海も山も宇宙も。ついでにこの世もあの世も魔術も呪術も天使も悪魔も精霊も時間も。きちんとバランスが取られて作られている、綺麗な箱庭さ。魔術だの悪魔だのは、必要ない人間の前には存在しないし、必要な人間の前にはちゃんと存在する。それはそれで、この世界を管理している奴の想定範囲内って事」      俺は鍵穴を廻す。  封が解かれる。  抽斗に眠っていたソレは、音もなく這い出し。     『我は』『真実を告げるものに』『非ず』――『而して我、亘理陽司也』      俺から取り外された「おれ」のピースの代わりに。  ガチリと俺に接続された。      おれはゆっくりと立ち上がる。 「ところがね。……つい数年前なんだけど。とある馬鹿な奴が、この世界にある綻びから、とんでもないバケモノを36体程呼び込んじまったんだ。散らばったそいつらは、いずれもこの世界の法則に縛られることなく、ブッチギリで反則な事をやりだしたんだ」  顔の前に両手を交差し、額に意識を集中する。 「んで。紆余曲折あって、エライ人達は、そのバケモノを狩り、封印させる事にしたのさ。……因果の『鍵』を矛盾させることで己の意識に綻びを生じさせ、そこから同じバケモノを呼び出す事が出来る人間によって」     『亘理陽司の』『名に於いて来たれ汝』 『――空の七位。”天地裁断の鋼独楽《グローディス》”!!』      最後に。おれは乾いた笑みを、奴に投げかける。  名乗りは好きではない。だがそれが、せめてもの仁義であった。 「人材派遣会社フレイムアップスタッフ。魔神使い。『召喚師』――亘理陽司」      おれは舞台の袖に引っ込む。  前座に代わり、化粧を終えた主役が、舞台に上がる。    ――そして。    俺は目を開いた。          周囲の空間が軋む。    俺に触れた空気が弾き飛ばされ渦を巻き、廃工場の屋根を、柱を圧迫する。  それはいわば、波だった。  水の満たされた器に石を投げ込めば波紋が生じるように。  この世界に、在ってはならぬものが投げ込まれた為に生まれた震動だった。  俺と対峙するモルデカイの顔に明確な焦りが浮かぶ。奴とてそれなりに手練。目の前の存在が如何なるものか、多少は推測できたらしい。俺は奴に向けて、無造作に三歩、歩み寄る。 「どうした。射程圏内だぞ」  俺の挑発に、我を取り戻したか――あるいは、他に選択肢がなかったのか。奴はそのカギヅメを振りおろす。  鋼鉄をも斬り裂く爪は、だが掲げた俺の生身の腕に……いや、腕の前方に作り出された空間の隙間に阻まれていた。ありえない光景に、奴の顔が恐怖に歪む。  俺は、亘理陽司の意識をいじる。技術的な事はどうでもいい。無意識、本能の抑制を解除。生物学的な限界も無視。ただ単に、この細胞の集合体の構造から繰り出せる理論上の最高値の出力で。  そのまま拳を奴の腹に撃ち込んだ。 「……!!」  長身の大男が塵芥のように宙を舞う様は、見ていて中々興味深い。  想定外、いや規格外の酷使に、打撃に使用した腕の骨、筋肉、神経が一瞬で破損し、痛覚信号を送り込んでくる。膝や背中も同様だ。 「この程度の準備運動で音を上げるとは」  日を追ってやわになっていくこの体が鬱陶しい。俺は痛覚信号を遮断し、次の一合に備えた。今一度を期してか、奴は己の力を全開にし、竜の力を以って迫り来る。    だが遅い。  俺は指を打ちならした。 「斬れ。”グローディス”」      ”――『承知』”    俺の意識野に召喚《ダウンロード》されている魔神が応じる。俺にのみ幻視出来るその姿――禍々しい銀色に輝く、無骨な刃を纏った独楽――が、その歯車を回す。歯車はその鋭利な剣で周囲の空間を巻き込み。    奴の腕が、宙空で切断された。   「――え?」  奴が阿呆のような声を上げる。それも当然か。俺と奴の間の距離は六メートル。相手の攻撃を見落とす距離ではない。風斬や雷撃を操る遠距離攻撃の能力者でさえ、能力を発動するための予備動作が必要になるだろう。これを覆せるのは射撃の達人の抜き打ちくらいのものだが、それとて、斬撃を仕掛ける事は出来ない。 「……貴様、一体何をした?」  ここでようやく、腕の切断面から大量の血液が吹き出した。俺は退屈そうな表情を崩さず、打ち鳴らしたままの人指し指を奴に突きつけた。 「ああ。『斬った』のだ」  モルデカイの顔は失血とショックによって蒼白になっている。だが、奴の体内の竜の血とやらはよほど大した物なのか、急速に止血が進んでいるようだった。 「ありえん……!銃弾すら通さぬ俺の腕を……!!」 「それはそうだ。俺はお前の腕ではない。お前の腕の空間を斬ったのだから」 「なん……だと?」  俺はやれやれと後頭部を掻いた。このあたりの仕草は、”おれ”だった時の影響が如実に残っているところであろう。 「俺が召喚した魔神は、それぞれ一つの『特性』を持つ。『おれ』が居る時のように、状況に応じて因果を捻じ曲げたりと言った繊細な事は出来ないが。代わりに、それぞれが『特性』においては絶対的な力を持つ」  謳うように俺は言葉を紡いだ。 「7番目に位置するもの――天地を裁断する鋼の独楽、『グローディス』。その特性は『切断』。通常の刃物や風圧による斬撃とは全く違う。その物体が存在している空間そのものを斬り裂いてしまうため、物質の硬度は関係ない。射程距離および効果範囲無制限、使用回数および同時発動回数無制限、防御力無視、着弾所要時間ゼロ。……もっと端的に、『何でもあり』と言えば多少は理解して貰えるだろうか?」  俺の述べた仕様。それがどれほど出鱈目なモノなのか、モルデカイにはようやく理解出来たようだ。常人では想像もつかない力を操るエージェント達であるが、どんな力も発動させるためには『燃料』が必要だ。武術の達人の拳とて、突き詰めれば食物から摂り出されるエネルギーで動いている。サイボーグの銃弾とて、火薬や電力で撃ちだされる。魔術師の紡ぐ複雑な術式や超能力者の一撃とて、魔力や精神力、自然の力を代償としている。エネルギーが必要とされる以上、その力には限りがある。自分の力か周囲の力か、変換効率が良いか悪いかは別として、基本的に投入したエネルギー以上の力を使う事は出来ない。  それは、これらの力がいずれもこの世界の根本的な法則に従っているからだ。例えて言うなら、一つの盤の上でやり取りされるルールが凄まじく複雑になった将棋のようなもの。効率的な技、ルールの隙間をついた技、特別ルールを利用した技。普通の人が知らないルール。色々あるが、所詮は盤の中の出来事だ。だが。    俺の能力は、違うのだ。  何人もが将棋を指して遊んでいる盤に、いきなり鉈を振り降ろして敵の王将を叩き割るようなものだ。精妙なルールも何もあったものではない。少し力加減を誤れば、盤が壊れて二度と誰も将棋を指せなくなってしまう。だからこそ最強。だからこそ最悪の能力だった。 「生憎と濫用出来るものでもない。俺がこの力を使う事を許されるのは、この世界に紛れ込んだ他の連中を狩り出す時――すなわち、今だ」  ……そしてペナルティも確実に存在する。自らの意識野に別のモノを召喚《ダウンロード》するという事は、多かれ少なかれ、意識が”混じってしまう”事を意味する。使い続けるうちに、どこまでが本当に自分の意識だったかわからなくなってしまうのだ。……かつて俺が、”おれ”だった事を思い出せないように。  だが、今となってはもはや些細なことだ。ひとつヒビの入った器にはもう美術的な価値はない。あとは機能的な価値。割れるか割れないかだけが問題なのだ。  奴は瓦礫を押しのけ起き上がる。本能的に、これが自分に許された最後の反撃の機会だと理解していたのだろう。  がぁぁぁあああっ――!!  吐き出される猛毒の煙。この工場のみならず周囲にすら壊滅的な被害をもたらしたであろうそれは。 「囲め。”グローディス”」    ”――『承知』”    振るわれる、六回の斬撃。致死の毒ガスは、拡散する以前に、俺が遮断した立方体の空間の中に囚われていた。 「切断、という概念も使い様だ。こうやって空間そのものを遮断する事も出来る」 「……馬鹿、な」  最後の一撃をこともなげに封じられ、今や完全に進退極まった態のモルデカイに俺は掌を向ける。 「だから言っただろう。何でもあり、だと」  俺は立方体を解除する。拡散することなく空気と混じりあってしまった毒ガスが無力化し、拡散していく。 「もう一度聞こう。――『誰かの悪夢《バッドジョーカー》』。奴は今何処にいる?」  三秒。葛藤があった。奴は迷い、絶望し――そして、諦めた。 「は、ははは。なあ、『召喚師』。お前はまさしくバケモノだよ」  奴は、ゆっくりと後へ下がる。 「だが比較の問題だ。お前より、俺は奴の方が怖い。だから喋らない」  振り上げられる左腕。だが、俺がそれに照準を合わせるより早く、その左腕は、奴自身の胸板を貫いた。 「……残念だったな。『毒竜《ファフニール》』の死因は心臓を一突き。そして呪いの言葉を吐きながら逝くと、神話の時代より決まっているのだ」  肋骨の隙間に開いた穴から血を撒き散らしつつげらげらと笑う。奴は、避けられない死を目前にしたもの特有の、恐れるもののない表情で呪詛を吐いた。 「くたばれ、『召喚師』。貴様は無意味に死ね。そして誰からも、忘れられるがいい。お前がいた事など、誰も気には止めず、墓碑に名を刻むものはない――」 「擂《す》り潰せ。”グローディス”」  指を打ち鳴らす。    ”――『承知』”    空間が断裂する。奴の首が飛んだ。その首が落ちる前に、さらに首と身体が縦に割れる。縦に、横に。斜めに。上に、下に。制限無し、物理特性を意に介さない空間切断。一秒で千回。二秒で一万回。三秒で十万回。子供が白紙を鉛筆で塗りつぶすように、丹念に丹念に塗り重ねられてゆく斬撃。千切り。微塵切り。それはやがてミキサーと化し。  モルデカイ・ハイルブロンと呼ばれた人間を、ミクロン単位で分解した。        空気の流れに押し出され、かつて人間だったものの粒子が大量に飛散してゆく。血煙すら上がらない。それは何かの冗談のような光景だった。 「――大当たりだよ、『毒竜』」  おれは薄れて行く靄にそう呼びかけた。 「どうせ崩壊間近のポンコツだ。だったらせめて消え逝くまでには、全部回収して片をつけないとな」  破損した天井から、雨が吹き込んでくる。  その雨に身を晒し、おれはしばらくの間、立ち尽くしていた。         ●※     23:10:08 *****16ポンド さんが入室しました******** 23:10:17 Sir Oct >きたきた 23:10:23 BadJoker@幹事 >全員そろったかな 23:11:02 16ポンド >遅くなったっス 23:11:12 Sir Oct >どーもー 23:12:45 Mitsu-ME >遅いよあんた……って、二ヵ月前をトレースするのはこのへんで 23:13:19 BadJoker@幹事 >ういうい。じゃーさっそく。だっめじゃーん 23:14:05 16ポンド >面目次第もないっス。蛇さんはシバいときました 23:14:32 Mitsu-ME >蛇さんの頭に哀悼。何人切ったんだー 23:15:51 16ポンド >8人。東京湾に沈めたっス〜。妥当なトコでしょ 23:16:14 Sir Oct >しかしこれじゃ投資が回収できないぞ 23:17:00 BadJoker@幹事 >まあ、利益回収は二の次だったっしょ 23:17:12 Mitsu-ME >途上国の工場一個くらいでガタガタ言うない 23:17:56 16ポンド >ごめんス。来月大陸でお祭りやるんでそれで取り返して 23:18:30 Sir Oct >香港? 23:18:59 16ポンド >上海。相場動かすんで銀行一個潰すっスヨー 23:19:45 Sir Oct >了解。張っとくわ 23:21:01 BadJoker@幹事 >(……海鋼馬の人達カワイソ)で、14番の人は? 23:22:20 16ポンド >何の変わりもなく手芸にいそしんでおりまっス(笑 23:23:09 Sir Oct >ああ。じゃあ宿主は割と普通の人だった? 23:23:45 16ポンド >『複製』使いとはいえまだ十代っスよお 23:24:18 Mitsu-ME >競争相手が少ないのは良いことだ 23:24:31 BadJoker@幹事 >いつまでもカバン複製させとくわけにもいかんでしょ 23:24:53 16ポンド >本人も大分使いこなせるようになってきたっスね 23:26:10 BadJoker@幹事 >じゃあ、次はみっちゃんとこに廻して増やしてみますか 23:27:01 Mitsu-ME >いいのか?あんまり開始前に俺ばかり手札を増やしちゃ 23:27:56 BadJoker@幹事 >だいじょぶ、みんな反則技使う気満々だし(笑 23:28:10 Sir Oct >(苦笑) 23:28:21 16ポンド >なんのことでせう?(笑 23:29:16 Mitsu-ME >そーゆう事なら遠慮なく 23:30:46 Sir Oct >自家用ジェットを増やしたら私にくれ(笑 23:31:18 Mitsu-ME >わかったわかった 23:34:50 16ポンド >それでねえ、失敗したスタッフさんなんスけど 23:35:20 Mitsu-ME >いたねそんなの 23:35:45 BadJoker@幹事 >モルちん使えなかったなあ 23:36:03 Sir Oct >あれでS級ってのはなあ。誇大広告じゃないか 23:36:58 16ポンド >いやあ。どうやらやったのが清掃係の人らしいんスよ 23:38:12 Sir Oct >あー…… 23:40:43 Mitsu-ME >出てきたか、7番持ち 23:41:09 16ポンド >で、どうするかって相談なんスけどね 23:42:33 BadJoker@幹事 >”ゲームに茶々を入れる奴は、参加者全員で潰す” 23:43:01 Sir Oct >方針に変わり無しだな 23:44:05 16ポンド >はいはい。それを確認しておきたかったわけで 23:44:32 Mitsu-ME >まだ実害があるレベルじゃないだろう? 23:45:28 Sir Oct >まあ。いずれ全員出揃ったら、必然的に排除するだろう 23:46:39 Mitsu-ME >雑魚をまとめておいてくれる分には有用かな 23:47:52 BadJoker@幹事 >仕留めた人が、清掃係が溜込んだ番号をゲットすりゃいいよ 23:50:00 Sir Oct >早いもの勝ちということか 23:51:35 16ポンド >面白そうだ 23:51:45 Mitsu-ME >俺も興味があるな 23:53:42 BadJoker@幹事 >じゃあ、定例会議はこんなとこで。あと何かある? 23:55:20 Sir Oct >ちょっとみっちゃんと石油の情報交換しておきたいな 23:56:16 16ポンド >さすがワーカホリック。てかもう金要らんでしょ 23:56:50 Sir Oct >もうこうなると、どこまで稼げるかってゲームだな(笑 23:57:15 Mitsu-ME >長引きそうなんで別の部屋で 23:58:58 BadJoker@幹事 >ういうい。ここは落とします〜 23:59:01 *****Mitsu-ME さんが退室しました******** 23:59:30 *****Sir Oct さんが退室しました******** 23:59:45 *****16ポンド さんが退室しました******** 00:00:00 BadJoker@幹事 >ま、せいぜい頑張ることだね、『召喚師』 00:00:12 *****BadJoker@幹事 さんが退室しました********     ●[了]ID:SFN0004v102