小説 『人災派遣のフレイムアップ』 
第4話 『不実在オークショナー』


 

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◆◇◆ 4 ◇◆◇

 
 
  明けて翌日、東京都豊島区池袋。
  日曜日の午前中、ごったがえすサンシャイン60通りを抜けてしばらく進み、道なりにサンシャインシティへ。イベント会場としても有名なワールドインポートマートと豊島郵便局の間を抜ける。
「ここはその昔、直樹の野郎につれて来られた事があってなあ。昼飯の借りの代わりに何か色々本を買出しさせられた事があるんだ」
「そうなんだ」
「他にも建築事務所にバイトの振りをして潜入したりな。色々と馴染み深いところだよ」
「ふうん」
  ……あーやりにくいなくそっ。せっかくこちらが話を振ってやってるってのに。
 
  来音さんにもらった情報によれば、出展者は全て同一の企業なのだそうだ。オークションと言っても出展者が個人とは限らない。むしろ中小規模の法人が、あらたなマーケットとして積極的にオークションを活用していることもあり、これは驚く事には当たらない。そこら辺を踏まえて、まずはその企業の事務所があるというここ池袋に、真凛とともにやってきたのであるが。
  昨日あんな感じで決裂した次の日である。これが高校や大学なら、休むとか顔を合わせないようにするとかのしようもある。しかし例え犬猿の仲になっても仕事であれば同道し、会話もしなければならないところが社会人(見習い)の辛いところだ。おれなんかはそこら辺には慣れきっており、一日経てばもう過去の事、というように割り切っているつもりなのだが。それなりに会話を投げていると言うのに、奴は先ほどからずっとこんな調子で、おれの後ろをついて来ながら生返事である。これではこちらのテンションも続かない。油の切れた機械のような雰囲気のまま、おれ達は大塚方面へと歩を進め、目標のビルに辿り着いていた。
 
 
「株式会社ミサギ・トレーディング。……貿易会社トレーディングねえ」
  おれは目の前の雑居ビルを見上げて呟いた。大通りから一本外れた、ちょっとうらぶれた雰囲気の路地である。天気の良い日曜の午前中にあまりお邪魔したい場所ではない。手入れのされていない、昭和五十年代に建てられたと思しき古ぼけたビルディングは、正直申し上げまして、まっとうな会社が入っているとは思えマセン。ここの三階がミサギ・トレーディングなのだそうだ。ビル玄関の壁に取り付けられた看板を見ると、他の階には消費者金融やヤクザ屋さんの事務所が入っている模様。
  おれはざっくりとビルの面積にあたりをつける。一フロアあたり十畳一部屋のオフィス。エレベーター無し、トイレや炊事場は共同。事務員が三人もいたら狭くてしょうがない、というところだ。ネットオークションに出品しているのであれば、当然、現物のバッグがどこかに保管されていなければならない。しかし、このフロアにそれだけの在庫を積んでおくのは到底不可能だ。
「となると、ここではオークションの注文管理と発送指示だけしてる、という事だろうな」
  現物はどこに保管されているやら。貸し倉庫か、どこかの工場か。とにかくここを取っ掛かりに、芋づる式に辿って行きたいところだ。
「……何かいい手はないかな?」
  口に出してしまってから、ここには真凛しかいない事に気づいた。直樹や仁サンなら多少は意見を返してくれるだろうが、こいつではなあ。ましてやさっきからロクに口をきいてないときたもんだ。
  ところが、
「メール便の人の振りをするってどうかな」
  そんな答えが返ってきた。
「ボクの学校の友達が、都内でメール便のアルバイトをしてるんだ。私服だけど結構いろんなところに入っていけるって言ってたよ」
  そりゃまた勤労な高校生だ。ってか、たしかコイツ女子高だったはずだが。
「ふーむ……」
  おれは二、三度首を捻ると、一つ頷いた。
「そりゃあ、使えるな」
「そ、そうかな?」
  だからなんでそこで妙に自信なさげなツラをするかなあ。
「おう。結構いいアイデアだと思うぜ。さっそくやろう」
「うん!」
  さっきまでの不機嫌ヅラはどこへやら。なんかやたら上機嫌なんですがこのお子様。
「じゃあ、早くやろう!」
  ノリノリなんですが。まったく、若いものの考える事はよくわからん。……まあいいや。とにかく仕事がやりやすくなったのは歓迎すべき事である。
「となれば、それなりの準備が必要だな」
  おれは先ほどこの路地へ入ってきた大通りに視線を向けた。お誂え向けに、コンビニと百円ショップが確かあったはずだ。
 
 
 
「ちわーす、メール便のOMSでぇーっす!」
  色とりどりのA4の封筒を大量に抱え、ウェストポーチを身につけ白い帽子を目深に被った好青年(つまりはおれ)は、勢いよくミサギ・トレーディングのオフィスの扉を潜った。
「鈴木様、鈴木則之様にお届け者です!」
  宅配便の兄ちゃんがやるように、腹に力を入れて声を出す。変装のコツは『似せる事でなく、なりきること』である、と昔業界の先輩に教わった事がある。向こうが多少変だと思っても、こちらが堂々としていればバレにくいのだ、と。ウェストポーチと帽子、伝票とバインダー、ついでに着替えたストライプのシャツも、すべて百円ショップで調達したものである。もひとつ付け加えると、OMSと言うのは先日仕事をしたとあるエージェントの所属会社である。社名の無断借用ゴメンナサイ、と心の奥でこっそり謝る。
  ほとんど予想を裏切らない造りのオフィスだった。採光の事をあまり考えていない窓にはブラインドが引き下ろされ、パソコンやプリンターは煙草のヤニで黄ばんでいた。型の古い事務机で構成された島で、パートと思しきおばさんが二人と、五十代くらいの額の後退したおじさんが仕事をしている。ちなみに観葉植物の類はない。
「あらー、郵便のひと?」
  席を立っていぶかしげにおばちゃんの一人が駆け寄ってくる。
「いえ、メール便です!」
  つとめて明るく返事をしつつ、辺りに目を配る。ぱっと見た限り、おばちゃん二人とおじさんの間に会話を頻繁に交わしている様子はない。そしてイヤでも感じる、一様にやる気の無い仕事っぷり(タイピングのリズムだけでもやる気のある無しは結構看て取れるのである。ついでに言えば、トイレの掃除がされていないオフィスは大概、経営か社内の人間関係が上手く行っていない)。
  幸か不幸か、十九のみそらで無数のオフィスを見てきたおれには一発でわかった。ここはただのダミーだ。おそらくは注文を受けて、顧客に金の振込みを指示し、製品の発送を依頼するためだけに作られた会社だろう。ネットオークションで品物を捌いているのであれば、そもそもオフィスすらいらない。PCが一台あればすむ。では、わざわざオフィスを作っている理由は、と……。おれは持っている封筒を大事そうに差し出す。
「鈴木様、鈴木取締役への緊急の書面をお預かりしているのです。公的な証明書だとのことで」
  しれっと口から出る嘘八百。この手のハッタリなら、大脳を使わずとも五分くらいしゃべっていられる自信がある。もちろんこの封筒、そこのコンビニで買って来たものに切手を貼って適当に宛名や住所を偽造したものである。
「すずき?うちに鈴木なんて人はいないけど」
  訝しげなおばちゃん。
「そんなはずは。確かに鈴木取締役宛なのですが」
  くらえ必殺、所長直伝営業スマイル。
「いないものはいないわよお」
  おばちゃんにはそれなりに効果があった模様。
「おかしいですねえ。すみません、御社の社長は何と言うお名前ですか?」
「うちの社長?実佐木みさぎ康夫っていうの。ほら、ミサギ・トレーングだから。ほとんどここには顔出さないけどねー」
  うん、それは知ってる。
「社長さんが顔を出さないんですか?」
「そうなのよー。ここの会社ったら、私達に仕事をやらせるだけで、偉い人が二人、ときたま顔を出すだけなのよ」
「へええ。偉い二人というのは、その実佐木社長と、鈴木取締役ですか?」
「そんな名前じゃないわよ。特別顧問の……えーと、なんだっけ。小島さーん」
  小島さん、というのはもう一人のおばちゃんのようだ。ここでおじさんが呼ばれないあたり、おばちゃんズとおじさんの日ごろの仲が良くないことが看て取れる……っておれ、こんなことばっかり熟達してどうするんだろう。
「えーと。はい。そうそう。たしか糸川。特別顧問の糸川克利だったわ」
「糸川、克利ですね……。おっかしいなあ。こちら、フタバ商事さんからのお手紙だから間違いないと思うんですが……」
「フタバ商事?うち、そんな立派なとこと取引ないわよお」
  入れ食い状態である。
「もしかしたらこちらで間違えたかも。御社とお取引があるのはどちらでしょう?」
「うちに来る手紙っていったら普通のお客さんと、仕入先のナガツマ倉庫だけだし」
「田中さん、いつまでしゃべってるのー」
「あら小島さんごめんなさいね」
  ……ここらが潮時だな。
「ああっ!!」
「な、何よいきなり」
「こちら、もしかして『みどりローン』様のオフィスではないんですか?」
  おばちゃんが、ああ、と納得の表情を浮かべる。
「『みどりローン』なら四階。この一つ上よ。ここはミサギ・トレーディングって言ったでしょ」
「し、失礼しました。焦って一フロア間違えてしまったみたいです」
「あらー。せっかちさんねえ」
「すいません、勘弁してください」
  おれは誠心誠意アタマを下げる。
「んふふふ、赤くなっちゃってカワイイ。あなた新人さん?今度ここらへんに来た時は遊びにいらっしゃい。お茶とお菓子出してア・ゲ・ル」
  はっはっは、それは本当にカンベンだ。おれは適当に言葉を濁すと、さも恥ずかしそうにミサギ・トレーディングを出た。
 
 
 
「あ、来音さんですか?あ、所長は留守ですか。いえいえいえ。ぜーんぜんOKです、っていうかむしろそっちの方がいいです」
  おれは手短に状況を説明する。
「……というわけで。ええ。その実佐木社長と言うのは実権の無いダミー社長。それを定期的に監視しにくるのが、特別顧問の糸川克利じゃないかと思うんですよ、ええ、はい。糸川の名前で情報を探してみて欲しいんです。ヤクザ関係者かも知れませんので、警察情報から重点的にお願いします。それから……ええ。はい。主要の仕入先であるナガツマ倉庫の資本関係も洗ってください。あ。そうですね。倉庫の住所をまずメールで送ってください。おれ達は昼食を食べて、そのまま倉庫の方に行ってみます」
  事務的な連絡を一通り終えると、おれは違法改造携帯『アル話ルド君』を閉じた。先ほど変装道具を調達した百円ショップの隣にあるコーヒーショップ、ドトールに入る。
「こっちこっち」
  アイスコーヒーの巨大なグラスを抱え込んだ真凛が手を振っている。
「どうだった?」
「大当たりだったな。とりあえず次に行くべき所が見えたよ。飯を食ってる間に来音さんに調べものをして貰ってる」
  おれはザックを受け取ると、変装道具を仕舞い込んだ。
「じゃあさあ。ここでゴハン食べてっちゃおうよ。なんか安心したらお腹すいちゃった」
「ああ。ごく個人的な意見としては、コーヒーだけ飲むならスタバだが、パンも食べるならドトールだしな。……って、なんだ安心て」
「え!?いや。何でもない何でもない。えーと、この『べーこんすぱいしーどっぐ』っておいしいのかな?」
「そりゃ美味いが。今食べるにはちょっと重いかもな。おれはベーシックにイタリアンサンドの生ハムにしよう」
「じゃあボクもそれにする!」
  さっきからやたらと元気な真凛であった。とても朝と同一人物とは思えん。不機嫌だった理由はよくわかるのだが。上機嫌になった理由がわからん。……変な奴。なんか悪いモンでも食ったんじゃなきゃいいが。
 
 
 
 

 

◆◇◆ 5 ◇◆◇

 
 
 一旦池袋から高田馬場の事務所まで戻り、ライトバンを引っ張り出して早稲田通りを東へ。渋滞に悩まされつつ皇居をかすめ山手線を潜り、隅田川へと辿り着いたら浅草方面へ川沿いに北上。すると、昔ながらの住宅街と古めかしい工場が混在する街並みが姿を現す。ちなみに運転中真凛がまた何か言っていたが無視。
「こんな天気のいい日曜の午後だったら、浅草で人形焼でも食い歩きしながらのんびりしたいところなんだがなあ」
  おれはぶつぶつと文句を言いながらバンをコインパークに停車する。来音さんに調べて貰った『ナガツマ倉庫』の住所をカーナビに打ち込みここまでやってきたのだ。バンの中でとりあえず作戦会議。
「そこの角から見えるのがナガツマ倉庫、だが……」
「何だかとっても雰囲気が……」
「貧乏臭いなあ」
  隣でまだ青い顔をしたままの真凛が頷く。高いブロック塀で囲まれた、小学校とグランドを併せた程度の敷地の中に、巨大な倉庫が三つ建っている。だが、いずれも窓ガラスにヒビが入っていたり壁が煤けていたりで、あまり使われているようには思えない。
「来音さん情報によれば、ナガツマ倉庫の経営は決して良くないらしい」
  もっともこれはナガツマ倉庫に限った事ではない。近頃のビジネスの基本は、「なるべく在庫を作らない」だ。欲しいときに欲しいだけ手に入れるのが当たり前。使わないものを大量に保管しておくのは無駄なコストがかさむだけ、という考えである。こうなると、倉庫業の役目は薄くなってしまう。冷凍設備に特化したり、物流センターとして生まれ変われなかった倉庫会社はみな次々と規模を縮小したり、あるいはお台場や臨海副都心のように、埋立地の再開発計画に合わせ土地を売却したりしているのだ。
「ナガツマはこのいずれの道も選べないまま、景気悪化の一途を辿っていたらしい。んで、昨年とうとうスジのよろしくない金融会社から資本を借り入れるまでになっちまったと」
  おれは来音さんが送ってくれたエクセルシートを『アル話ルド君』で表示しつつ解説する。
「まだまだ来音さんに調べて貰っているけどな。おれ達はおれ達で情報を集めていかないと」
「どうやって?」
  おれはザックを叩いた。
「名案ってのはな、使いまわせるからこそ名案なのさ」
 
 
  先ほどまでの変装に加えて、野暮ったいジャンパーを着込むと、とりあえずは業者っぽく見えなくもない。門を通ったのだが、守衛さんは席を外しているのか、そもそも配置されてないのか、不在だった。こちらが不安になるほど易々と敷地内に侵入すると、おれは傍らの、同様に帽子をかぶったちっちゃいのに声をかけた。
「倉庫は三つ。とりあえず西側から順番に探っていくぞ」
「う、うん。わかった」
  もちろん、真凛である。
「……もしかして緊張してるのか?」
「ま、まさか!そんな事あるわけないよ」
「そーいや、お前は侵入作戦ならともかく、変装ははじめてだったっけかな」
  おれはとりあえず何食わぬ顔で一番西側の倉庫に近づいた。現場のおっちゃんが何人かと、そしてフォークリフトが二台ほど走り回っているのだが、今ひとつ活気が無い。倉庫の中に躊躇わず入ってゆくと、真凛も遅れてついてきた。ふむ。いわゆるコンピューター操作の自動倉庫ではない。ごく一般的な、フォークリフトで荷物を上げ下ろしするタイプの倉庫だ。荷物のほとんどがダンボール箱。箱にプリントされているのは、ちょっとマイナーなお菓子のロゴだった。
「うわ、こんなのおれが子供の頃に駄菓子屋で売ってたやつだぜ……」
「ダガシって何?」
「……お前それ、ギャグで言ってるんだよな?」
  他にも玩具、台所用スポンジやタワシ等のロゴがプリントされているダンボールが幾つか積み上げられていた。ちゃんと在庫捌けてるのかなあ、こういうの。おれ達は手持ちのバインダーを開き、適当に確認して書き込みする振りをしながらダンボールの中身をチェックして周った。と、唐突に背後から声をかけられる。
「おい、兄ちゃん達ここで何やっとんだ」
  反射的に飛び上がる真凛。だからビビるなっつーの。おれは落ち着いて振り返る。”ナガツマ倉庫”と刺繍の入った作業服を来た、年季のいったおじさんが一人、おれを見据えていた。
「え、えーと、ボク達は……」
「ワタクシども、空調システムの『ダイカネ』の者です」
  真凛を遮っておれは前に出る。
「空調システムの会社の人間がここに何の用だ」
「ええ、ワタクシども、かねがねこちらの倉庫にぜひ我が社の空調設備を導入して頂きたいと思っておりまして、はい。この度一度現場を見せて貰おうと思った次第です、はい」
  営業スマイル第二弾。
「俺はそんな連絡は受けとらんぞ」
  効果は期待できない模様。
「はい。不躾とは思いましたが、この度御社の営業様に飛び込みで訪問させて頂きまして、はい。二時間ほどお話しさせて頂いたところ、じゃあ現場でも見てくれば、との言葉を頂いたのものですから、はい」
  反射的に嘘がつける自分が時々怖い。これなら、飛び込んできた押し売り紛いの販売員を、営業部が体よく都合をつけて倉庫に追い払ったように見えなくも無い。果たしてこのハッタリ、通用するかどうか。
「……押し売りの類か。あまり仕事の邪魔をするなよ」
「押し売りなど、とんでもないですう、はい」
  実はもっとロクでもないんです、ハイ。……もうちょっと踏み込んでみるか。
「こちらではどのような品物をお預かりされているんでしょう。温度や湿気の管理が必要なものなら、ぜひともワタクシどもの……」
  おじさんは鬱陶しそうに手を振った。
「ここと、隣の倉庫で扱ってるのは菓子と玩具、台所用品。どれも古くからのお得意さんの品物だ。空調が必要なものはない」
  ここと、隣の、ねぇ。
「では、一番東の倉庫は?」
「お前さん、何者だ?」
「ですから『ダイカネ』の営業の……」
「そんな胡散臭い営業がいるか」
  手厳しいお言葉。……まずったかな。
「……まあいい。東倉庫はな、貸し出し中なんだよ」
「貸し出し中?」
「ウチもいよいよ首が周らなくなってきた。融資と引き換えによくわからん連中に貸し出ししているらしい。余計な詮索はするな、とな」
「よくわからん連中に、って。そんなのが隣に居たら仕事にならないじゃないですか」
  おじさんは皮肉っぽく笑った。
「仕事なんて最近あって無きが如しだ。フォークも錆びついちまってるよ。連中は裏門から二十四時間出入りしている。役員連中が自由に使わせる許可を出したんだ」
「それはどうも……。貴重なお話をありがとうございました」
「もう一つ」
「はい?」
「連中、相当タチが悪い。くれぐれも気をつけてな」
  ……バレてますなあ、これ。
「御忠告感謝いたします。いくぞ、真凛」
「あ、うん。じゃあ、ありがとうございましたっ」
 
 
「怪しいところ、無し……と」
  念のため、真ん中の倉庫も調べて見たが、これも特に不審な点はなし。となると、怪しいのは東倉庫という事になるわけだが。
「こっからはなるべく気配を消せ。お前、そーいうのそれなりに得意だろ」
「仁サンと一緒にしないで欲しいなあ。一挙手一投足の動きは消せても、気配を消すのはまた別の話なのに」
  ぶつぶつ言いながらも真凛は忍び足に切りかえる。何のかんの言ってもそこは武道家、重心を制御してほとんど足音を立てない。おれは頷くと、何気なさそうな挙動で東倉庫に近づいていった。ざっと見回したところ、見張りの類は無し。おれは腹を決めた。
「行くぞ」
「うん」
  トラックが出入りする巨大なシャッターの隣の通用扉を開けて中へ。他の二つの倉庫と比べると、照明の類は一応点いているものの、視界が悪いことこの上ない。
「……嫌な臭いだな」
  視界が悪い理由はすぐに判明した。体育館ほどの大きさの倉庫の中に、プレハブ小屋の壁のような仕切りがいくつも立てられ、小さな部屋に分割されていたせいだった。
「ビンゴだぜ、どうやら」
  おれは目の前に作りつけられたスチール棚を見上げる。そこには、ビニール袋でぞんざいに包まれたプルトンのバッグが、壁一面にずらりと並べられている。
「ミサギ・トレーディングから注文を受けて、ここから発送してるってワケだ」
  だが、それと同時に漂ってくるこの臭い。壁にドアが取り付けられており、その向こうから臭ってくる。こいつは、
「動物園みたいな臭い……?」
  鼻を押さえた真凛が小声で呟く。確かに似ているが少し違う。おれの脳裏に一つの予想がよぎった。……ミスったな。真凛をここに来させるべきじゃなかったか。すると、通路の奥から足音が響いた。
「誰か来るよ!」
  真凛の押し殺した声におれは舌打ちする。ええい仕方がない。おれは扉を開けて飛び込み、真凛を引き入れて扉を閉める。途端、悪臭は耐え難いほど強烈になった。
「な、何この人達……!」
  おれの背後で真凛が声を上げる。あーあ。ため息を一つついておれは振り返った。そこには十畳ほどの部屋――午前中に訪れたオフィスと同じ大きさだ――に、二十五、六人ほどの男女が座り込んでいた。畳一枚あたり三人ほど座っているため、当然ながら足の踏み場も無い。彼等はTシャツにズボン、あるいはぼろぼろのスカートを履いている程度の格好であり、みな裸足である。そしてその眼には一様に精気が無かった。この夏の暑さの中どれほどの時間、ここに居るだろうか。すえた臭いは、風呂に入る事も出来ない彼等二十数人の体臭だった。彼等はうつろな眼でおれ達を見て、かすかに動揺する。
「どうしたんですか、何かあった……むぐ!?」
『ああ、騒がないで騒がないで』
  真凛の口を手で押さえ、おれは福建語で話しかけてみた。彼等の間に反応があった。おれはジェスチャーを交えて『落ち着いて、落ち着いて』と繰り返す。適当なところで真凛を解放してやる。
「……えっと、この人達は?」
「……多分、密入国者の方々だろうねえ」
  おれは乾いた声で回答した。『銃器、麻薬、偽ブランドは密輸品の御三家』と先日おれは述べたが、ここ最近四番目の密輸品として台頭して来ているのが、人間、つまりは密入国である。背後に構えているのは主に中国系の暴力組織。彼等は地元、中国大陸の労働者達に、日本に行けばここより遥かに高い賃金で働ける、借金をしてでも日本に渡ればすぐに取り返せる、と言葉巧みに持ちかけ、密入国の費用を取り立てる。そして彼等を日本に密入国させる。また、必要に応じて彼等を労働力――主に麻薬の売人や売春だ――として日本の暴力組織に斡旋する。密入国の手口として一番ベーシックなものは、貨物船の倉庫に彼等を隠して入港させてしまうことだ。ビジネスとしては当然ながら、スペースに限りある貨物船に出来るだけ人数を詰め込んだ方が利益率が良い。彼等は巡視船の目を逃れるため、陽も差さない船底にすし詰めにされたまま、中国から日本までを船で旅するのだ。
  ……真夏にクーラー無しの満員電車に乗り込み、しかもそのまま丸一ヵ月、トイレは垂れ流しで風呂にも入らず過ごさなければならない、と考えて頂ければ少しは理解出来るだろうか。
「とはいえ船の中や港にいつまでも置いておくわけにはいかない。行き先が決まるまでどこかにこの人達を留めて置かなきゃいけないが、ホテルに泊める金なんて当然ない。ここは態のいい『一時保管場所』って事さ。この倉庫が裏でその手の暴力組織と手を組んでるのは、まず間違いないだろうな」
  おれは淡々と事実だけを小声で述べる。
「酷いよ……こんなの、許せないよ!」
「その前に声を落とせ。そしてしゃがめ」
  おれの指示の意味に、真凛はすぐ気がついた。扉の向こうで、さっきおれ達が聞きとった足音が近づいてくるのがわかったからだ。おれは息を殺して、ドアの隙間からこっそりと相手の姿をうかがいつつ、通り過ぎるのを待つ。
 
『どうだ、何か変わった事でもないか?』
  ドア越しに太い声が聞こえる。おれ達の事を指しているのかと思ったが、どうやらその声は通路の奥へ向けて投げかけられたものらしい。警備員か、はたまたヤクザ屋さんか。おれは何気なくその姿を見つめ――そして、凍りついた。
 
 
 
 

 

◆◇◆ 6 ◇◆◇

 
 
  威圧的な男がそこに居た。
  歳の頃は三十四、五。禿頭に鷲鼻。大きく尖ったアゴとそれを覆う髭。白人であることは間違いないが、混血だろうか、系統はちょっとわからない。まず美男子とは言えないその風貌は、だが、異様な迫力を持っていた。そして窪んだ眼窩の中にぎらぎらと光る褐色の、いや、燃える石炭のような眼。百九十センチ近くある身体を包んでいるのは作業着……いや、軍隊用のフライトジャケットか。おれは、その顔に見覚えがあった。 
 
  ――あいつ。
 
  おれの背筋に戦慄が走りぬける。
  海鋼馬ハイガンマー公司コンスS級エージェント。
  モルデカイ・ハイルブロン……通称『毒竜ファフニール』。
  なんであいつが、こんなところに。
 
  気がつけば、おれの拳は固く握り締められていた。奴は、おれ、というよりおれ達が隠れている密入国者の部屋には最初から用が無かったらしく、すぐに通り過ぎて行く。それを見送り、五秒ほど立ってからおれは息を吐き出した。
『そうそう変わった事が起こっては困ります』
  奴の呼びかけに答えがあった。……あれ、この声もどこかで……?
『起こってくれねば退屈でたまらん。この平和ボケした国での生活も悪くはないが、二ヵ月もするともう戦場が懐かしくなる』
  へえ、退屈か。なら、すぐにでも楽しい思いをさせてやる――そこまで考えて、おれの理性が感情を引き戻した。ここで派手な事を起こせば、いつぞやの二の舞だ。
「あの人、もの凄い殺気だ……。って、なんか陽司……顔が怖いよ?」
  床に伏せたままドアの向こうを伺っていた真凛がうめく。生憎と自分の顔のことなんて良くわからないね。
『貴方は平地に乱を起こす癖があります。どのみち貴方の行くところ、嫌でも騒動が起こるのですから、今は英気を養っていてください』
『フン。こと無かれ主義の腑抜けが入社った、とは聞いていたが噂どおりだな』
『ええ。海鋼馬は血の気の塊のようなメンバーばかりですからね。私は冷や水をぶっかける役として引き抜かれたわけです』
『ぬかしおるわ』
  そんな会話を続けながら、『毒竜』ともう一人の男は遠ざかっていった。
  おれは後ろの人々を振り返る。彼等は『毒竜』の声が聞こえたその時からすっかり怯え、竦み上がっているようだ。この倉庫の中で、奴がどのような位置づけにあるか。それがよくわかった。
『あの人に言わないでください、あの人に言わないでください』
  一堂を代表してか、一人の男が、おれにすがりつくように話す。おれの事を、あいつに言われて様子を見に来た看守とでも思ったのだろうか。
『大丈夫、大丈夫。だから、おれ達の事もあいつらに言わないでください』
  流暢な福建語で何度か説得すると、彼等もどうにか納得してくれたようである。おれは真凛を促して立ち上がらせ、外を確認する。……よし、誰もいない。
「出るぞ」
  真凛がおれを愕然として振り返る。
「この人達は?」
「もともと彼等はここに居たんだ。おれ達がどうこう言う権利は無い」
「でも!」
「いいから!」
 
 
 
  ……バンまで戻ってくるまで誰にも見咎められなかったのは、日ごろの行い、いや虐待のされっぷりに幸運の女神が同情してくれたからだろうか。車内に飛び込むと、おれは変装道具を脱ぎ去って後部座席に放り込み、腕を組んでしばしむっつりと押し黙った。
  『毒竜』が出てくるとすれば、話は全く違った方向になる……。
「なんで放って来ちゃったんだよ!あの人達ひどく衰弱してた。多分あと二日と持たないよ」
  女子高生と言えど、人体に精通した武術家である。その見立ては恐らく正しいだろう。だが。
「それまでに行き先が決まるだろうさ」
「嘘だよそれ。あの人達少なくとも一週間はあそこにいた。それがあと二日で全員行き先が決まるとは思えないよ」
「じゃあどうしろと」
「当然助けに行くんだよ!」
「あのな真凛」
 
  まったく。そう言うと思ったよ。
 
  おれは組んでいた腕を解いて、助手席の真凛に向き直った。
「お前をこの仕事から外す」
「……え?」
「駅まで送る。今日はそのまま自分の家に帰るんだ。所長にはおれから連絡を入れておく」
「な、なに言ってるんだよ、ボクがいなかったらどうやってあの人と戦うのさ。凄い強いよ、あの人」
「直樹なり仁サンなり呼び出すさ。シートベルト締めろ、出るぞ」
  おれは言い放つとシートベルトを締め、キーを取り出した。
「なんでだよ!納得できないよ!!ボクじゃ力不足ってこと?」
  なんだか昔撮った出来の悪いホームビデオを見ているような気分だ。
「お前、この仕事の内容なんだか覚えてるか?」
「……それは。オークションで出回っているバッグが本物か確かめる……こと」
「そう。で、その仕事の達成にあたり、あの密入国の皆さんを助ける意義は全く無い。むしろ余計な工程が増え、失敗の危険を大きくするだけってこと」
「でも!人としてほっとけないよ!」
「ああ。だからだ。仕事にそんな勝手な考えをする奴を加えるわけにはいかない。だから外すんだよ」
  キーを差し込もうとした右手は、延びてきた真凛の手につかまれた。奴が身を乗り出す姿勢になったせいで、おれと真凛の視線が至近距離でぶつかる。
「……離せよ」
「……離さないよ。そんな理由じゃ納得できないもの。なんかおかしいよ陽司。いつものアンタなら、じゃあついでに助けとこうか、くらい言うじゃない。あいつと何かあったの?ねえ」
  おれが無言でいると、真凛は肯定ととったのか、質問をさらに連ねてきた。
「だいたい陽司はいつも自分だけで作戦を決めるじゃないか。毎回毎回ボクの意見なんて聞いてくれないし!」
「そりゃそうだ、お前はアシスタントだからな」
  ダッシュボードに叩きつけられる真凛の掌。コーヒーの空き缶が軽く宙を舞った。
「アシスタントアシスタントっていうけど、三つ歳が違うだけじゃないか。アンタがどれだけ偉いんだよ?アンタが高校生や中学生の時、そんなにすごい事をやってたっての?どうせ今みたいにグータラな――」
「うるせえよ」
  おれの声からは日ごろの諧謔成分が枯渇していた。それは陽気な牽制ではなく、本当に、ただの罵倒の言葉だった。
「陽司……?」
「うるせえって言ってるんだよ。お前に対する行動の決定権はおれにある。そのおれがこの任務にお前は必要ないと判断しているんだ。これ以上議論の余地は、いやそもそも議論の必要性がない」
  真凛はおれを焼き殺しそうな視線でにらみつけた。殴り殺されるかな、とおれは思ったが、その顔はくしゃくしゃになり、
「もういいよ!ボクはボクで勝手にやるから!!アンタはそうやって任務任務って言ってればいい!!」
  バンの扉を閉め、真凛は飛び出ていった。おれが見たときには、すでにその姿は駐車場のフェンスの向こうに消えた後だった。……まったく、ガキの考える事はわかんねえ。
 
 
 
 

 

 

 ◆◇◆ 7 ◇◆◇

 
 
  午後四時を知らせるチャイムの音が、暑い空気の中をゆっくりと泳いでゆく。近くに小学校でもあるらしい。日曜日でもチャイムはなるんだなあ、とおれは益体もない事を考えた。バンの窓から見えるナガツマ倉庫に、未だ動きは無い。
  真凛は結局あのあとどこかへ行ったきり戻って来なかった。当然、この後は事務所に連絡して状況が変わった事を告げ、直樹なり仁サンなりの応援を要請しなければならない。だがおれはなんとなく『アル話ルド君』を手に取る気になれず、入手した情報をメールにして来音さんに送るだけにとどめ、そのまま一時間ばかりこのバンの中で見張りを続けていた。
  コンビニで買い込んできたアンパンを口に放り込んでコーヒー牛乳で押し流す。海鋼馬の連中が絡んでいるとなれば途端に事態はキナ臭くなってくる。カバンがあの倉庫に保管されているとなれば、次はそれがどこから流されてくるのかを確かめねばならない。密輸品か、どこか国内の工場で製造しているのか。連中は裏門を使っていると言っていた。となれば、ここに搬入にやってくるトラックを張っていれば、何か情報がつかめるかも知れない。しっかし、マッズいパンだなこれ。
 
「不味そうなものを食べてますね、陽司君。らしくもない」
  唐突に運転席の窓の向こうからかけられた声に、おれはアンパンを吹き出しそうになった。慌てて口元を押さえ、何とか飲み込む。それで初めて窓の外を見る事が出来た。
「あなたは……」
  おれは危うく残りのアンパンを取り落としそうになった。
  そこに居たのは、『毒竜』同様、軍隊用のフライトジャケットに身を包んだ男だった。だがこちらは標準的な日本人の体型と顔立ちで、些かくせの強い髪を整髪料で固めている。その顔を見直したとき、おれの頭の中で線が繋がった。
「なるほど、ね。どうりで聞いた声だと思った。さっき『毒竜』が話し込んでいたのはあなただったんですね」
「盗み聞きしていたのですか?そんな趣味を持った子に育てたつもりはありませんが」
「あなたがそれを言いますか、鯨井さん」
  おれは窓を開けて、そこにいる男、『定点観測者ヴァサーゴ鯨井くじらい和磨かずまをにらみつけた。
 
  『定点観測者ヴァサーゴ』。
 
  その名前、魔術書に登場する現在過去未来を見通す力を持つとされる精霊の名は、鯨井さんの持つ特殊なサイコメトリー能力に由来する。サイコメトリーとは、てのひらなどで接触した対象から、その対象にまつわる過去の出来事や以前の持ち主の情報を読み取る能力である。いわゆる世間一般で言うところの超能力であり、強弱の別こそあれ、この業界にも使い手は多い。しかし鯨井さんのそれには、さらにもう一つ、隠された能力がある。
「この周りにいくつ『受信器レセプター』をセットしてあるんですか?」
「八つですよ。今の私の仕事はここの警備ですからね」
「……それじゃあおれ達が来た事は最初からバレてたわけだ」
  鯨井さんは、三次元空間の任意のポイントに自分の思念を焼付け、離れていてもその周囲の景色、音、臭いをきわめて正確に把握出来るのだ。彼はこれを『受信器のセット』と呼んでいる。彼がこの能力を広範囲に展開すれば、極めて意志の統率の取れた、不可視の見張りが幾人も配置された事と同義となる。『定点観測者』の名はここに由来する。先日一緒に仕事をした『机上の猟犬』見上さんとはまた違った、強力な遠隔視系の能力者だ。
 
  おれがロックを解除すると、助手席のドアをあけ、鯨井さんが乗り込んできた。
  鯨井さんは紙袋を差し出した。中にはスターバックスのアイスコーヒーが二本納まっていた。おれは礼を述べ、一本取り出した。もう一本を、鯨井さんが取る。
「本当にあなたかどうか確信はありませんでした。随分雰囲気が変わっていましたから」
「……変わりましたかね」
「変わりましたよ。本当に。随分いい出会いに恵まれたようですね」
「どうでしょうかね」
  アイスコーヒーを口につけて、おれはぼやいた。少なくとも往事に比べて貧乏になった事は疑いようが無い。鯨井さんは二秒ほど考え込んだ後、本題を切りだした。
「……それで、影治えいじ君の行方は?」
  おれは肩をすくめ、投げやりに答えた。
「見つかってれば、おれはこんなところに居ませんよ」
  つーか、生きてないね。
「そうですか……。どこにいるのやら」
「そんなことより鯨井さん。あなたがなんで海鋼馬の『毒竜』なんぞとつるんでいるんですか?」
  鯨井さんはほろ苦い笑みを見せた。
宗像むなかた研究室が潰れてからこの方、私も流れ流れましてね。今は海鋼馬のメンバーですよ」
「まさか!?あなた程の情報収集能力であれば、よほどまともな派遣会社をよりどりみどりでしょう。何も好んでロクデナシ揃いのあの海鋼馬に所属する事は無い」
  鯨井さんは肩を一つ竦めた。
「……仁義をね。守れなかったんですよ」
  そう言うことか。おれは納得した。バレなきゃなんでもあり、と思われがちのこの『派遣業界』だが、それでは血みどろの抗争になってしまう。いつしか異能力者達の間では『仁義』と呼ばれる暗黙の掟が成立していった。任務で他社のエージェントと敵対したのであれば、それがたとえ年来の友人が相手であろうと全力で倒しにかかること。任務中に手酷い怪我を負わされたとしても、互いの任務が終了した時点で決着とし、以後私怨を残さないこと。可能な限り一般人に危害を及ぼさないこと。任務中に知りえた他のエージェントの能力は、たとえ友人にもバラすべきではないこと、など。これは異能力者がきちんと業務を遂行するよう強制すると同時に、異能力者を保護する事も意味していた。任務で倒したエージェントに逆恨みされて、自宅を焼き打ちされる、なんて事があってはたまらないからだ。この『仁義』を破った者の噂はたちどころに広まり、同じ異能力者からは軽蔑され、派遣会社は彼を雇おうとはしなくなる。そんな外道なエージェントを雇い入れるのは、業界でも黒い噂が絶えない海鋼馬くらい、とこういうわけだ。
「しかし、よりにもよってあなたが仁義を破るなんて」
  一体何を、と聞こうとして踏みとどまった。だが、鯨井さんはそれを察したらしい。
「とある任務中に出会った敵エージェントを、どうしても許せなかったんですよ。そのエージェントも一般人に平気で無法を働くような輩でしたがね。任務が終了した後、私は全て仕事上の事として忘れようと思った。しかし気がつけば、奴の自宅を調べ上げ、待ち伏せしてズドン、とやっていたわけです」
  言葉遣いは淡々としていたが、その言葉には後悔の様子はなかった。……全て覚悟の上での行動だったのだろう。その代償として彼は業界の爪弾きとなり、海鋼馬に流れ着いたという事だ。
「……すいません。本当ならあなたは今頃、学会の」
「そういう事は言いっこなしですよ亘理君。あの事故は我々の不注意であり、あなたには何の責任もありません。影治君もそう思ってくれているはずです」
「でも、手を下したのはおれと、おれのこの体です」
  精確には、以前のおれ、か。
「陽司君。この話はやめにしましょう。私自身は自分の選択に満足していますし。あなたが何度後悔したところで過去が改竄出来るわけでもない。……たとえ、あなたが完全にその力を発揮出来るようになったとしても。そうでしょう?」
  多少やつれてはいたが、その表情は間違いなく、かつて宗像研究室でおれを世話してくれた鯨井研究員の顔だった。
「昔は良く看て貰いましたね」
  手を掲げる。おれは懐しい気分になった。厳密に言うと、懐かしいと感じるべき気分になった。鯨井さんはやはり寂しそうな表情を浮かべた。
「残念ですが、今の君にはとても触れる事は出来そうにありません。引きこまれたら、私の精神もあなたの一部になってしまうでしょうからね」
  おれも笑って手を振った。こんな体質になってしまってから、様々なサイコメトラーやテレパスの世話になったものだが……結果は散々なものだった。今となってみれば当たり前だ。そもそも病根の位置が、精神や超能力といったカテゴリーのさらに外にあったのだから。
「おれ達の事は『毒竜』には伝えているんですか?」
  鯨井さんは首を横に振った。
「私が把握している情報は、倉庫に迷い込んできた二人の若者がいるというだけの事です。さして気に止めるべき事項ではありません。その二人が、我々の警備するナガツマ倉庫に襲撃をかけるつもりでもなければ、ね」
  言外の意味をおれは察した。今この時点では、お互いたまたま出会っただけの旧知の人というわけだ。だが、おれ達に襲撃の意図があるとすれば、鯨井さんは自らの義務を果たす。そういう人だと言う事はおれはよく知っていた。
「コーヒー、ごちそうさまでした」
  おれは礼を言うと、鯨井さんと自分の紙コップを紙袋に放り込み、丸めて後部座席のゴミ箱に放り込んだ。
「それでは。私も仕事に戻りますよ」
「はい。また機会があったら、よろしくお願いします」
  機会とやらが極めて近い時期に訪れる事をお互いに予感しつつ、おれ達は別れた。再びナガツマ倉庫へと戻って行く鯨井さんを見送って、おれはこの日何度目かのため息をついた。
  ――やれやれ、厄介な戦いになりそうだ。
 
 
 
 

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