人災派遣のフレイムアップ 第5話 『六本木ストックホルダー』         ●1      成田空港の到着ロビーを抜けて外に出ると、冷涼な空気が『蛇《ニョカ》』の肌を刺した。その感覚に、微かに眉を顰《ひそ》める。湿度も随分低いようだ。空港の売店で買い求めたミネラルウォーターの栓を開け、微量を口に含む。      少しだけ期待していた。ニューヨークを離れる仕事は久しぶりだったのだ。拠点としている無機質で寒々しいコンクリートの森は、ビジネスには実に都合が良いが、『蛇』の生まれ育った地に比べれば余りに寒く、乾いている。今年の東京は大層暑く、蒸していると聞いていた。『蛇』がこの仕事を引き受けた一因に、久しぶりに寒くて無機質な住処から這い出したいと思う気持ちがあったことは否めない。だが。    手配してあったレンタカーに乗り込んだ『蛇』は、そのまま新空港自動車道に進み、成田ICから隣接する東関東自動車道に乗った。東京へと向かって延びるアスファルトの両脇には、なだらかな日本の山々が広がっている。そのいくつかには既に、ぽつぽつと赤や黄の点が混じり始めていた。  十月の日本は、長かった夏を卒業しようやく秋に入り、九月までの熱気が嘘のように涼しい日々が続いていた。『蛇』の愛する季節は、既に過ぎ去った後のようだった。    仕方があるまい。    『蛇』は首を一つ振り、ささやかな楽しみを諦めた。そうであれば、やるべき事は決まっている。 「『銀杏《ギンゴ》』、『楓《メイプル》』、『欅《ゼルコバ》』、『七竈《チェッカーツリー》』……」  唄うようにリズムに乗せて、唇の間から言葉を押し出す。今、『蛇』は自分自身でレンタカーのハンドルを操っている。当然ながら、他に車内には誰もいなかった。    だから。  今呟いた名前が、『蛇』の駆るこのレンタカーの遥か先、高速道路の向こうに広がる山の、点にしか見えないはずの僅かに紅葉を始めた樹木を差したものだと気づいた者など、いるわけがなかった。    東京か。  『蛇』は運転席のカップホルダーに置いたミネラルウォーターのボトルに、掌を添えた。ボトルの中に収まった水が、蠢《うごめ》いた。それは決して、運転の揺れによるものではない。だが、やはりそれを目にした者は、誰も居なかった。    だから。  その車が東京方面に向けて姿を消したそのしばらく後、成田空港周辺の山奥に点在する、銀杏の木と楓の木と七竈《ナナカマド》の木がそれぞれ一本づつねじ折られた事など、当然誰にも気づかれるはずもなかった。         ●2     「啄《ついば》め。『鶴』」  『折り紙使い』門宮《かどみや》さんの呪《しゅ》とともに放たれた折鶴は、百に千にその数を増す。刃のように鋭い翼を持った純白の鶴の群れはたちまちのうちに剣呑極まりない剃刀の嵐と化し、蹴りを放つため跳躍しようとしていた七瀬真凛を包みこんだ。 「なんのっ!」  直前にその攻撃を察知し、咄嗟に真横に飛び退く真凛。こう言葉で表現すれば単純だが、思い切り助走をつけた幅跳びを、踏み切りした瞬間に横跳びに変えたようなものである。人間離れした反応の良さと、それを吸収する体や腱の柔らかさがなければ出来ない芸当だ。一瞬前に真凛が存在していた空間をずたずたに切り刻む折鶴の紙吹雪。  敵の攻撃モーションや殺気から、想定される攻撃範囲を描き出し、これを事前に避ける事で身をかわすのが真凛の得意技である。だが、『事前に攻撃を読む』と『読んだ攻撃をかわす』という行為は必ずしもイコールではない。「わかっていても避けきれない攻撃」というものもあるのだ。特に、この門宮さんの折り鶴のような、『線』ではなく『円』の範囲攻撃は尚更だ。跳躍で間合いを広げてもなお、逃れきれない白い嵐。咄嗟、両腕両脚で顔と腹をかばう。残り時間はわずか。今を逃せばもうチャンスは無い。おれは舌打ちするのももどかしく、我がアシスタントをフォローすべく精神をシフトする。 「『門宮ジェインの』『攻撃は』『七瀬真凛に』――っと危ねっ!」  アップに叩きこんだ精神のギアが急速に元に戻される。咄嗟に地面に転げまわったおれの背後の壁で、壁に叩きつけられたゴム弾が鋭い音を立てて弾けた。 「ハッハー。Saintに二度同じ技は通じマセンネ!」  右腕のサイレンサーつき銃身からゴム弾を吐き出しおれを牽制しつつ、すばやく真凛と門宮さんの間に割って入る、『スケアクロウ』。二人の背後では今まさに、今回のターゲットを乗せたBMWがエンジンを始動させ、この駐車場から発進しようとしていた。 「待ってください、水池さん!!話を……」  おれは唸りを上げるエンジンの音に負けないように声を張り上げるが、運転席まで声が届いたかどうかは怪しいものだった。いや、どの道意味がない。声をかけた程度で話を聞いてくれる相手ではないからこそ、こうやってスマートでない実力行使に訴えているのだから。 「ええい!真凛、そのでかぶつを何とかしてくれ!」 「合点承知!」  いつぞや戦いでもそうだったように、真凛にとっては門宮さんよりも、銃弾という『線』の攻撃を扱うスケアクロウの方が相性がいい。サイレンサーから撃ち出されるゴム弾をかいくぐり接近する真凛。だが、今回『スケアクロウ』は、それに応じようとはしなかった。かわされる事を前提としつつ、真凛の進路を塞ぐように銃弾を浴びせ、回避のために足が止まった隙をついて巧みに距離を取り直す。 「ヤラセワセン!ヤラセワセンゾー!」 「このっ……!」  そうして時間が過ぎるにつれ、確実に勝利の天秤はあちらに傾いてゆく。そう、これが警備会社『シグマ・コーポレーション』本来の姿である。彼らの仕事はあくまで『守る』ことなのだ。前回とは異なり、向こうにこちらの手の内がバレており、しかも守りに徹している。今の状態の彼らを制することは、おれ達にとっても容易なことではなかった。ラストチャンス、おれは交戦している真凛とスケアクロウを横目に突っ切り、BMWに向かう。だが、残念ながらこれも読まれていたようだ。 「塞げ。『紙風船』!」  門宮さんの手には、四角い箱状に折り上げられた紙。いかなる原理によるものか、それは彼女の手から離れると空気を吸い込み、瞬く間に直径二メートル以上の巨大な『紙風船』と化し、おれに襲い掛かってきた。 「へぶっ」  擬音で表現するならまさに、『ボヨヨン』であろう。重く、巨大で、柔らかな紙風船に横から吹っ飛ばされて、おれはほとんど反応すら出来ず無様に地を這った。鼻を打って泣きそうになるところに、真凛の鋭い声が飛ぶ。 「陽司!車が!」  遠ざかるエンジン音。慌てて顔を上げると、駐車場の出口をBMWが悠々と通過してゆくところだった。今のおれ達に自動車を追う手段はない。……タイム・アップ。戦闘は終結した。  つまりは、おれ達の負けだった。      おれはたっぷり五秒間突っ伏した後、起き上がろうとして面倒臭くなり、そのままごろんと仰向けになった。 「……ちっくしょー、バリエーション多いっすね、攻撃パターン!」  地下駐車場を照らす蛍光灯の鈍い明かりが目に飛び込んでくる。おれ達が今いるのは港区某所の超高級マンションの地下、住人達の所有する車(当然ながらほとんどが高級車、それも外車である)が停められている駐車場だった。どうにかセキュリティを騙くらかして忍び込むところまでは上手くいったのだが。まさかこの二人がターゲットの護衛についているとまでは予想していなかった。 「大した事はしていません。一枚の紙片を手折る事で無数の形を作り出せるように、基本の術法をいくつか組み合わせているだけですよ」  門宮さんがこちらに歩み寄り、手を差し伸べてくれた。無骨な『シグマ』の制服に身を包んでいるのはイタダケナイが、すらりとした長身と、欧米系の血を引く主立ちに浮かぶ日本美人特有の表情が変わらず美しい。そして長く垂れる艶のあるポニーテールがよい。すごくよい。ものすごくよい。イタリア人的表現ならベネではなくてディ・モールトだ。おれは差し伸べられた白い手をしっかと握って上半身を起こした。 「立てますか?」 「ええっと、ちょっと腰が抜けたみたいで……」  おれは右手で門宮さんの手を握ったまま、努めて痛そうな表情を装う。過剰労働に従事するこの身、せめて鼻を打った分くらいは役得が欲しいところである。 「門宮さん、コイツを起こすときはこうやるんですよ」 「ひぎぃ!?」  いつの間にかやって来た真凛がおれの左手首をヤバイ角度に極めていた。激痛から逃れようと、おれは反射的に肘と肩を上方向に逃がそうとし、結果として弾かれるように立ち上がる。 「真凛、お前何するんだよ!?」 「腰は抜けてないみたいだね」  いやに冷たい目でこちらを見据える真凛。くっ、猪口才な。お子様が余計な知恵を身につけおって。かくなる上は、 「いやその。スイマセン」  謝るしかあるまい。そんなおれ達を見やって門宮さんがあのアルカイックスマイルを浮かべる。 「相変わらず中がよろしいんですね」 「……まあ、こんなんでもアシスタントですしね」 「こんなんって誰のことだよ!」  残念ながらすでにその手は離れている。憮然とするおれの視界の端で、『スケアクロウ』が大げさに肩をすくめて見せた。 『ンだよ。なんか言いたいことでもあるのかよ』 「Oh!ワタシは今アウト・オブ・カヤでスネー。コチラにファイア・パウダーを飛ばさナイデクダサーイ」  おれの英語に野郎は日本語で返答してのけた。ったくどいつもこいつも。と、門宮さんが表情を改める。 「今回は私達の勝利。これ以上潰しあっても無駄でしょう。ここは一旦退いていただけますか?」 「仕方ありませんね」  すでにターゲットは去ってしまった。今頃は自分のオフィスに向けてBMWを走らせている真っ最中だろう。ここでこの二人と戦っても勝てる気がしないし、勝ったとしても、次にまた新たな護衛が立ちふさがるだけだ。 「そーいうわけだ。ここは退くぞ、真凛。……そんな不満そうな面をするな」 「わかってるけど。やられっぱなしは性に合わないなあ」  おれは眉間に指を当てて首を振った。これだから戦闘フェチは手に負えん。 「腐るなって。次にきっちり勝てばそれでいいわけだから。……ですよね?」  最後の台詞は真凛に向けたものではなかった。 「そのとおりです。しかしお忘れなく。時の天秤は常に私達『シグマ』に味方するものですよ」  門宮さんは悠然と微笑を返した。      おれ達の見ている前で、二人はシグマ社の所有するクソごついステーションワゴンに乗り込み、去っていった。おそらくは、ターゲットのBMWと合流するのだろう。取り残されたおれ達は、なんとなく次の行動を決定する気になれず、ボケっとその場に突っ立っていた。 「行っちゃった」  真凛の間の抜けたコメントに、おれも鼻息だけで気のない返事をした。 「……じゃあ、帰るか」  盛り上がらなかった飲み会の後のような台詞を吐くと、おれ達は撤収にかかった。毎度毎度の事ながら、この虚しさを味わうにつれ、どうしてこんな事をやっているのか、と自省したくもなってくる。         ●3     「まだ恥ずかしくもなく生き永らえておるかね亘理氏?」 「のっけから名誉毀損で訴えたくなるような失礼な質問ですね羽美さん」  いやまあ、恥ずかしくも生き永らえてる、ってあたりは事実ではあるけどさ。上からこちらを覗き込んでいる声の主、人災派遣会社として名高い我らが『フレイムアップ』の理系全般を担当するマッドサイエンティスト石動《いするぎ》羽美《うみ》女史に返事をすると、おれはペンを走らせる手を休め、事務所の自分のオフィスチェアから身を起こした。    三日前の午後のことである。    十月に入って大学の授業も再開したと言うのに、哀れなおれは今日もこうして授業が引けた後は事務所に顔を出している。貧乏だ、みんな貧乏が悪いんだ。 「チーフ殿が貴公を召集しておるぞ」 「須江貞《すえさだ》チーフが?」  珍しい人から声がかかったものだ。うちの事務所のシステムは、多くの案件を、割り振られた各自がバラバラにこなしていく形式である。そのため、現場の取りまとめ役であるチーフといえども共に行動する機会はあまりないのだ。訝《いぶか》しがるおれがペンを置くと、その机に羽美さんが目を留める。 「ほほう。書類仕事かね。貴公の脳のような貧弱な演算回路に出力を求めるとはまた、無駄な行為を要求する輩もいたものよ」  分厚いメガネを揺らして羽美さんはくけけけけけ、と笑った。 「レポートですよレポート。こっちは忙しいんですから向こう行ってください」  しっしっと野良猫を追っ払う手つきで、相変わらずの蓬髪に擦り切れた白衣という態のマッドサイエンティストをあしらう。冷たいようだが、この人は自分が没頭しているときは人の話など聞こえもしないくせに、自分がヒマな時は他人の迷惑など顧みず、あちこちにちょっかいをかけずにはおられない。扱いとしてはこのくらいで丁度いいのである。 「あら、陽司さんの任務報告書はもう頂いていたはずですが?」  事務所の奥から声をかけてきた黒髪の美女。こちらは文系全般を担当する笠桐《かさきり》・R《リッチモンド》・来音《らいね》さんである。この事務所に文理の双璧が揃うのは、実は結構珍しい。 「ええ、来音さん。任務報告の方はさっき提出した通りで。今やっているのは大学の課題ですよ。うちの学部は休み明けには確認テストとレポートが山と出ましてね」  とは言っても、一応ブンガクに魂を捧げている(はずの)文学部生たるおれは、数学や物理の小問題からはすでに解放されている。只今おれに課せられているのは、もっぱら受講している第一、第二外国語の読解および翻訳。そして文化人類学や哲学、心理学についてのレポートである。なお、文学なんて受講してないじゃないか、というツッコミは認めません。と、来音さんがこちらにわずかに顔を寄せてささやく。 「そうですか……。ところでその後、腕とお腹の傷はいかがです?」 「おかげさまで。あの真凛に見抜けないくらいまで治りましたよ」  いつも助かります、と来音さんに頭を下げる。任務中の戦闘はいざ知らず、プライベートの方のそれは激烈だ。というより、そもそも命の価値や概念が極端に薄くなる。戦闘終結後に腕や足が片方ずつ残ってれば儲けもの、ということもざらである。その度におれはこの美しい吸血鬼の姫のお世話になっていたりする。 「そういえば亘理氏は文学部生であったか。小生としたことがすっかり失念しておったわ。そのスレた態度、まさに在学中に遊び尽くした挙句就職浪人した法学部生の如しッ!」  ……まだ居たのかこのヒト。 「純朴な少年がそんなスレた態度になったのは誰の責任でしょうね一体?」  某工科大学をドロップアウトした人に言われたくはないわい。だいたい法学部生に失礼だっつうの。何か身近な元法学部生に怨みでもあるんだろうか。 「羽美、いつまでも与太話をしていないで、本題に入ってください」  不毛なやりとりを見かねた来音さんが割って入る。 「何だね、在学中に遊び尽くした挙句就職浪人した元法学部生ッ!」 「あ、あれは休学です!実験でキャンバスごと研究棟を吹き飛ばして放校された貴方と一緒にしないでください!!」 「くはははははは!奨学金を食費に使い果たして休学とは片腹どころか両腹痛いわ!!」 「んなっ!?貴方がそれを言いますか!?私は貴方の放校処分に巻き込まれて奨学金を減らされたのですよ!?」  ……なるほど。意外なところで判明した我が事務所の双璧の因縁であった。それにしても方やイギリス、方やアメリカに在住していたはずなのに、どこで交流があったのやら。 「で、その」  火花を散らす二人に向かっておれはおずおずと尋ねた。 「須江貞チーフの元に向かえばよろしかったんでしょうか……?」        いつもの応接間に入ると、そこには二人の先客が居た。一人は我がアシスタント七瀬真凛。そしてもう一人、真凛の隣に座っている、よれよれの背広の男におれは声をかける。 「お呼びですか、須江貞チーフ」 「ああ。また連荘《レンチャン》させてしまってスマンな。新たな任務だ」  そう言って、彼、我らがチーフたる須江貞《すえさだ》俊造《としぞう》がおれに席を勧めてくれた。    一言で言って、くたびれた印象の男である。  おれのような一般市民はさておいて、この事務所に所属する連中が良くも悪くも際立った印象を与えるのに比べると、基本的に平均的な日本人の男性の範疇を出ない。  歳はまだ三十半ば。二十代の頃徹底的に鍛え上げたのであろう体躯は、今もなお贅肉を寄せ付けていない。短めに刈りこんだ頭髪と、薄く無精髭の浮いた顎。その顔はまあ、どちらかと言えば整っている部類に入るだろう。いずれのパーツも素材はそう悪く無いはずなのだが、年季の入った背広、しみついた煙草の臭い、やつれた頬あたりが、なんとなくうらぶれたオーラを醸成しているような気がする。有態に言えば、徹夜続きの刑事そのものである。それもそのはず、もともと須江貞チーフは本庁でも腕利きで知られた刑事だったのだ。紆余曲折を経て警察を去り、経理の桜庭さんの伝手でウチに就職したのが数年前。創立メンバーである所長と桜庭さんに次ぐ最古参である(と言ってもそもそも十人程しかいないわけだが)。チーフとは言っても先の理由により、あまり現場でおれや直樹とコンビを組む事は無い。普段はもっぱら外交――すなわち、他の派遣会社や依頼主、あるいはターゲットである企業との揉め事を、オモテ、ウラに関わらず処理している。実はいつぞやおれ達がザラスの地下金庫から金型を奪還したときも、ザラス上層部からの有形無形の圧力があったものだ。それをきちっと排除してくれたのが、他ならぬチーフである。  そんなチーフが現場に出張ってくる場合は二つ。一つは、前に言ったかも知れないが、ウチの総力を結集するとき。実働部隊の文字通りチーフとして指揮をとる。そしてもう一つは、前職の経験を生かした任務。例えば、捜査、追跡、立証を中心とする仕事はチーフの独壇場である。また、おれ達ガキんちょ部隊には手の余る、ダークな要素が介在する案件。あるいはちょいと心霊風味の案件なども主に担当している。     「珍しいですね、羽美さん来音さんに加えてチーフまでが事務所にいるなんて」  おれは真凛に軽く手を挙げて挨拶すると、ソファに腰を沈める。 「ようやくヤヅミの債権回収の件が片付いてな。今度は自分の机の上を片付けるために事務所に顔を出したというわけだ」  管理職であるチーフの机には、おれ達の作製した任務報告書も含めて様々な書類が流れ込んでくる。事務処理のエキスパートたる来音さんがいるのでそれでも随分軽減されているが、チーフとしての決済を下さなければならないものも多いのだ。本来はそれらを捌きつつ自分の報告書も作らなければならない要職であるわけなのだが、そこは元叩き上げの刑事、現場と書類のどちらを優先させるかは言わずもがな。かくして主が不在のチーフの机の上にはマリンスノーのように紙の束が降り積もってゆく。羽美さんの研究室とチーフの机の上が、目下の所、我が事務所の二大カオス製造装置なのである。 「そろそろ処理しないと笠桐さんに怒られてしまうからなあ」  この増税路線一辺倒のご時世でも手放さないマルボロを灰皿に押しつけ、チーフはぼやいた。一番事務所にいなければいけない人間の癖に、おれより事務所に顔を出したがらないというのはいかがなものだろう。 「ま、来音さんが怒るかどうかは別として、書類を何とかして欲しいのはおれとしても同感ではありますね」  来音さんが怒るとしたら、多分それは書類が片付かないからではなくアナタが顔を出さないせいです。 「こないだの地震の時は大変だったよね」  真凛がさりげなく灰皿から立ち昇る煙から身をかわす。 「ああ。あれは大変だったな。あのアイガーの北壁のような書類が大崩壊を起こした時はこの世の終わりかと思ったぜ、マジで」 「応接室以外を禁煙にしておいて良かった。灰皿から引火してたら大変だったよ」 「まさしく英断だったな。これはもう、事務所内完全禁煙にしろという天のお告げに違いないだろ」 「……お前達なあ、そうやって遠まわしに社会的マイノリティの喫煙者を追い詰めて楽しいか?」  チーフが泣きそうな顔になる。ウチのメンバーで喫煙組はチーフと羽美さんだけである。仁サンも超人的な体力を維持する為に喫煙は避けているし、所長は『二十歳で卒業した』との事である。おれは吸えない事もないが、全く美味いと思えないので、カッコをつけるときだけ専門。直樹、来音さんにいたってはそもそも体がニコチンを弾いてしまうので効かないのだそうだ。世界的な禁煙の流れを受けて、とうとうウチも依頼人が訪れる応接以外は全面禁煙になった。 「「タバコは百害あって一利無し」」  おれと真凛の声がハモる。チーフはその声に追いやられるようにソファの隅っこに座りなおし、寂しく天井の換気扇に向かって煙を吐いた。 「いいじゃないかよぅ、独り身三十代の日々で楽しい事って言ったらこれくらいなんだからよぅ」  じゃあ結婚でもすりゃいいのに。テンパイしてるくせにリーチをしないとは何事か。と、おれは今さらながら、普段いない人がいる代わりに、よくいる人がいないことに気づいた。 「そう言えば所長はどうしたんですか?」 「CCCのマハタ社長って人と会食だって」 「……おいおい。そりゃ業界としてはちょっとしたニュースだな」  派遣業界最大手と、派遣業界最問題児の会談となれば、何か色々勘ぐりたくなってしまう。 「ああ。そうだな、お前達には今のうちに言っておくか」  吸殻を灰皿に押し付けたチーフが解説してくれた。 「ひょっとしたらもうすぐ大掛かりな仕事が来るかも知れんのだ。ウチだけでなく、CCCや、他の数社と共同戦線を張るような、な。今日の会食はその調整だ。いずれお前達にも色々頼む事があるかも知れん」 「へぇ……」  もしそれが実現するとしたら、おれも経験したことのないビッグプロジェクトになるだろう。もっとも、それまで何人生き残っているかは知らないが。     「まあ、そう言うわけで、今日は俺が代わりにお前達に依頼を回すと言うわけだ。イズモ・エージェントサービスは知っているな?」 「そういや、依頼の話でしたっけね」  いつまでもヨタ話をしていても仕方がない。おれは応接テーブルの上に置いてあった任務依頼書を手に取った。 「当たり前でしょ。この業界でイズモを知らなかったらモグリですよ」 「ボク、今日初めて知ったんだけど……」  ああ、そりゃそうか。本格的に真凛が調査系の仕事に入るのは、いつぞやの偽ブランド事件以来、二回目だったっけか。 「イズモの仕事っつったら、やっぱり人探しですかね?」         ●4      イズモ・エージェントサービス。おれ達同様の『派遣会社』である。  その仕事は『調査』専門。人探し、失せ物探し、浮気調査、企業の信用調査などなど。世間で言うところの探偵事務所と思っていただければ間違いない。その社員数、実に五百人以上を誇る業界大手だ。ピンからキリ、有名どころから胡散臭いのまで幅広い『派遣業界』において、おそらく一般人にも最も有名な派遣会社であろう。  資本や規模だけで言えば、千人以上の異能力者を有し、カリスマ社長が率いる新進気鋭の派遣会社クロスクロノスコーポレーション、通称”CCC”、日本企業御用達の老舗警備会社ブルーリボンガーズ、通称”BRG”などもある。だが、こと知名度と言う点であれば一位はダントツでこのイズモだ。何しろ彼らは堂々とテレビに出演しているのだから。  誰でも一度くらいはゴールデンタイムの特番で”人探し”番組を観たことがあるだろう。芸能人や一般人の『幼い頃生き別れた母親に会いたい』、『初恋の人ともう一度話がしたい』というリクエストに応じてテレビ局が捜索し、その調査過程で話を盛り上げ、スタジオで再開するシーンでクライマックスに持っていくというあの手の番組。テレビ局から依頼を受け、実際に番組中で活躍する調査員達、実はあれこそが『イズモ・エージェントサービス』のスタッフなのである。  よって、その構成員はほとんどが元刑事や警官、探偵である。特に探偵の技術については、メンバーのノウハウを社内に蓄積して新人に伝授するシステムが整っており、日本一の探偵養成所でもある。事実、ここから独立してフリーで活躍する私立探偵も多い。  そういう意味では、少々社会的に特殊ではあるが、メンバーはあくまで一般人であると言える。しかし、時には”通常の方法以外での”調査が必要な案件も紛れ込んでくる。そういった案件に対応するために、異能力の持ち主も多数所属しているのだ。  遠隔視能力者《クレボヤンス》。遺失物や、時には遺体を見つけ出す《ダウザー》。サイコメトラーやテレパシスト。嗅覚や野外活動、行動心理学に秀でた追跡者《トレーサー》達。夏の心霊番組に備えて占い師や退魔師まで取り揃えていたりする。『エージェントが所属する探偵事務所』というよりは、『エージェントも所属している探偵事務所』の方がイメージに近いだろう。遠隔視と言えば、かつて長野からのデスレースで共に戦った『机上の猟犬《ハウンド・オン・テーブル》』見上さんもここの所属である。  また、異能力者で無くとも、調査や逮捕のプロであり豊富な人脈を持つ警察関係者はとにかく心強い。社会的にカオが利く、という長所は、この業界においては超能力や魔法の一つや二つを補って余りあるのだ。  そんな失せもの探しのプロ集団イズモがおれ達に丸投げしたい案件となると、やはり人探しくらいしか思いつかないが……。      おれの質問にチーフが頷き、配った資料をめくる。 「そう。俺の元上司が今はイズモで働いていてな。イズモに依頼のあった人探しの件を、うちに委託したいと言うオファーがあった」  それって、つまるところ丸投げって言わないか。とりあえず資料をめくる。そこにあった名前を見て、おれは思わず小さく叫びを上げてしまった。 「依頼人は……露木《つゆき》甚一郎《じんいちろう》!?まさか。トミタ商事事件の伝説の弁護士?」  チーフは頷く。おれは短く口笛を吹いた。 「こりゃまた大物ですね。あと十年経てば間違いなく歴史の教科書に載りますよ」 「あの、全然話についていけないんだけど。何ですかそのトミタ商事事件って?」 「戦後最悪と評される金融詐欺事件だよ」  チーフが面白くもなさそうに呟いた。      トミタ商事事件。  二十世紀後半、バブル経済の末期に発生した悪質な相場詐欺である。  おりしも世間では土地や株への投資が過熱し、様々な投資会社、商品が乱立していた時代である。その中のひとつ、新興の投資会社トミタ商事が、このような広告を打ち出したのだ。『今はダイヤモンドが買い時です、今買っておけば必ず値上がりして、倍以上の値段で売れます。私達にお金を預ければ、きちんとダイヤモンドを購入して運用します』、と。  そして顧客から投資と称して巻き上げた金を、社長や数人の幹部が自分の給料として着服した。そして、ダイヤの値上がりを新聞で知った投資家達が、殖えたはずの自分の資産を引き上げようとすると、「もう少し待っていればもっと殖えますから」と言葉巧みに返金を拒むというものだった。最初からダイヤモンドに投資する気など更々無かったようである。当時のトミタの事務所内には”ダイヤモンドはちゃんとあります”とこれ見よがしにダイヤが積み上げられていたが、これも後の調査で全てガラス製のフェイクだったことが判明している。  詐欺の手法としてはそう手の込んだものではない。むしろ疑ってかかればいくらでも怪しい点が浮かんでくる類のものだっただろう。そんな詐欺がまかり通ったのには理由がある。そして、それこそがこの事件が戦後最悪と評される所以だった。トミタ商事が狙い撃ちにした標的は、ビジネスマンでも学生でも主婦でもなく、一人、もしくは夫婦暮らしの高齢者……つまりはお年寄りと、彼らが蓄えた老後の貯蓄だったのである。トミタ商事は社員に接客マニュアルを渡し、その実行を徹底させた。その手法をいくつか上げると、このようなものだ。    最初は絶対に投資の話はするな。  会社の命令で仕方なくやらされていると言え。  相手の部屋に仏壇があったら線香を上げて手を合わせろ。  自分にも田舎に祖父母が居ると言え。  「おばあちゃん、俺を息子と思ってくれ」  「すき焼きの材料を買ってきたので一緒に食べましょう」    ――こうして、息子や孫のように思われるようになった時点で、「実は俺、会社でこんな商品を売れって言われてるんだけど……」と切り出すのである。お年寄りはかわいい息子同様の若者のためならば、とお金を出すわけだ。  赤字操業が発覚してトミタが破綻するまでの五年間で、全国の高齢者から巻き上げたその金額は、およそ一千億円とも推測されている。缶コーヒーが百円だった時代の一千億円だから、現在の物価に直せばさらに数割増える。とんでもない額だった。そしてそのほとんどが、トミタの社長と幹部連中の給料に消えた。後に詐欺罪で押収されたトミタ社内の裏帳簿を見て、検察関係者は愕然としたと言われている。……幹部の給料は、冗談抜きで毎月一千万円だったのである。  詐欺罪によってトミタ商事は破綻したが、散々甘い汁を吸った幹部の多くは、検察の手が伸びる前に金を持って海外へ逃亡した。社長もその例に漏れず逃亡しようとしたようだが……うちらの業界関係者も随分裏で暗躍したらしい。結局、検察の手入れの数日後、惨殺死体として都内某所の排水溝に挟まっているところを発見された。  刑事事件としては解決を見たトミタ商事事件だったが、金の多くは持ち逃げされ、あるいは幹部連中の冒険半分の無謀な投資で雲散霧消していた。結局の所、集めた一千億のうち検察が差し押さえたのは、ビルや家具などを押さえても二十億円程度だったため、投資者に返せる金など、どこにも存在していなかったのである。  投資者達はここで、二重の苦しみを負う事になった。一つは当然ながら、老後のために蓄えてきた資金をごっそりと奪われた事。そしてもう一つは、『投資なぞに手を出すとは何事か』という家族や周囲からの冷遇である。  二十一世紀になって、ようやくネット株やデイトレードと言った単語も随分身近になったが、それでもまだ日本では投資をするという事は賭博の同類と考える風潮は根強い。いわんや当時においておや。「おじいちゃんはそんな歳になってまだお金が欲しかったんですか、浅ましい」というわけだ。実際のお年寄りには、「孫みたいなあの人が薦めてくれるから、会社で成績を上げさせてやりたくて」という心情の者も多かったらしいが。その上、投資の基本は自己責任、という大原則がある。つまり投資が失敗しても、それはその商品を選んだ自分の責任、同情することは出来ない、と考える者も多かった。実際、資産と世間体両面で追い詰められて自殺したお年寄りも多かったと聞く。  金が返ってくるあてもない、世間からも冷たい目で見られる。何より、人を信じるという気持ちを踏みにじられた……そういった人々の救済に立ち上がったのが、弁護士露木甚一郎である。      トミタ商事の破産管財人に就任した露木は、トミタの膨大な帳簿を一つ一つ調べ上げ、その金の流れを追い続けた。トミタの無謀な投資先、買い付けた後暴落した不動産やゴルフ場。トミタが破産寸前とわかっていて不良物件を売りつけた企業もあり、そこにも彼は責任を認めさせ、一部の返金に応じさせた。さらにはアクロバティックな論法で、トミタ幹部が納めた所得税すら国から取り返したのである。  数年に及ぶ死闘の末回収出来たのは、それでも実際のところ二百億円、一割程度だったが、彼が確実に一つ取り戻したものがあった。国や関係企業、そして世間にトミタの被害者達の正当性を認めさせることで救った、被害者の尊厳である。  後に、事件に関わった裁判官は、非公式ではあるがこうコメントを残している。『露木弁護士が取り戻したのは、お金だけではない。罪のない人々を守るためにこそ法があるのだという、法治国家の信頼もだ』と。      チーフが語り終えると、応接間の雰囲気はお通夜みたいになってしまっていた。 「……それにしてもひどい話だね」 「ギリギリおれが生まれる前の頃だったかな。でもまあ、露木弁護士のおかげで、多くの人が救われた事は間違いない。大学の法学部にも弁護士目指してる奴は結構いるけど、この人に憧れて志したって奴は多いもんなあ」 「聞いた事もなかったよ」  真凛が口を尖らす。おれは丸めた書類でやつの頭を軽く叩いた。 「いたっ」 「だからちゃんと新聞を読んでおけと言ってるだろう」  最近のおれの第一課題は、こやつに一般常識を叩きこむことである。 「そう言うな。真凛君がわからないのも無理もない。法曹界の英雄とは言え、引退してもう十年以上経つからな。社会人だって知らない奴の方が多いよ」 「コイツを甘やかしちゃいかんですよチーフ。本気で仕事をやらすつもりなら、まずはキチンと業界の基礎知識を固めさせておかないと」 「わかったわかった」  チーフは苦笑した。 「それで、な。この伝説の弁護士露木甚一郎がイズモに依頼したのはこうだ。十五年前に家を出てアメリカに渡った一人息子を探してくれ、とね」 「家出息子が居たってのは初耳ですねえ。まあ、でもそれならそれで、調査員と探知能力者が掃いて捨てるほど居るイズモの独壇場でしょう。何もウチが出張る必要はない」  おれは任務依頼を丸めたままソファーに背を預けた。 「ああ。さすがにイズモの連中も優秀でな。その息子の存在自体はすぐに見つけ出したんだよ。アメリカの大学を卒業し、数年前に日本に戻ってきている」 「はあ。じゃあ依頼は無事解決ってワケですか?」 「いいや。問題は、見つけたその後に発生したんだ。そしてソレが、イズモがウチに依頼を投げてきた原因でもある」  そう言うとチーフは、任務依頼書を数項めくった。 「これが、露木弁護士の息子……露木恭一郎の現在の姿だ」  そこに添付されていた写真を見て、おれと、真凛までが声を上げていた。 「これ、水池《みずち》恭介《きょうすけ》じゃないですか!」 「……あの”ドラゴン水池”だよ、ね?」  いささか自信なさげに真凛が問う。おれは頷いた。 「なんだか今日は随分大物に縁がありますねぇ」  おれはここ一年ほど散々テレビを賑わせている男の写真をつまみあげた。         ●5     「……完全に読み誤った。まさかこれほどのものとは、な……」  『真紅の魔人』笠桐・R・直樹が絶望のうめき声を上げる。時を支配し絶対零度を自在に生み出すその圧倒的な力をもってしても、この脅威に打ち勝つことは出来ない。 「……わかってはいたつもりだった。おれ達の常識がここでは通じるはずもないと覚悟はしていたんだ。なのに、ケタが予想の最大値をさらに超えているなんてな……!!」  応じるおれ、『召喚師』亘理陽司の声も乾き、ひび割れていた。これ程の失策、もはや悔しさを通り越して笑うしかない。やるせなさを拳に込めてテーブルに叩きつけようとして、やめた。この現実を前に、おれ達二人はひたすらに無力だった。     「ミックスサンド三つで千二百円。一体どういうコスト内訳になっているのか、市民代表として切に情報開示を希望するぜ」 「せめてドリンクくらいはつくと思っていたのだがな。千二百円。千二百円だぞ?ワンコインフィギュアを二個買って釣り銭が来るんだぞ?」  深々とため息をつく直樹。その辛気臭いツラに文句を言ってやろうとしてやめた。どうせおれも似たり寄ったりの顔をしているに違いないのだ。 「世界一物価と消費税の高い北欧とてこんな無茶な値段ではなかったが」 「手が込んでるのは認めるけどよ。あまりにも費用対効果が悪過ぎるぜ」  テーブルの上にふてぶてしく鎮座する三切れのミックスサンドを前に、原種吸血鬼と、世界を崩壊に導きうる召喚師は圧倒され、遠巻きに文句をつけることしか出来ない。不機嫌なおれ達とは対象的な周囲の席では、柔らかな秋の陽射しがさんさんと降り注ぐもと、カップルや友人、お年寄り、ビジネスマンがオープンテラスでの談笑に華を咲かせている。  おれ達がただいま居るのは東京都港区六本木、十字ヶ丘。古くから歓楽街、高級住宅地として定評のあった区画だったが、つい数年前に再開発計画を完了し、最新の商業施設と超高層ビルとが並び立つ東京都随一の観光スポットに生まれ変わった。通称『ゴルゴダ・ヒルズ』と呼ばれる一角である。平日とは言えさすが日本最先端の商業地、溢れんばかりの人通りだ。現地集合したおれ達は作戦会議がてら昼食でも取ろうと思ったのだが、敷地内の飲食店のランチサービスは、千八百円が最低ラインというステキなインフレっぷりでございました。さすが日本最先端の商業地、物価指数も最先端……って納得出来るかっ!  やむなくオープンテラスになっている喫茶店に入り、二人で六百円ずつ出しあってミックスサンドを注文した。いくらなんでもサンドイッチで千二百円なら量は二人で分けるくらいはあるだろうし飲み物もつくだろうと読んだのだが、現実はかくの如く非情であった。嗚呼、神よ何故私をお見捨てになったのですか《エリ、エリ、レマ、サバクタニ》。 「不謹慎な冗談を飛ばしても腹は膨れん。それで結局、昨夜の直談判は失敗という事か?」  テーブルに頬杖をつく姿が、悔しいがサマになっている。秋の風にかすかにそよぐ後ろでまとめた銀髪、眼鏡の奥から覗く黄玉《トパーズ》の瞳は、この『ゴルゴダ・ヒルズ』の中でも群を抜いて目立っていた。通り過ぎていく女の子連れが、何度もこちらを振り返っていたりする。おれがかわりに手を振ってあげたが、見事にスルーされた。 「ああそうだよチクショウ。おれと真凛で水池恭介の自宅の駐車場で待ち伏せしたんだけどな。まさかシグマの二人が護衛についているとは思ってなかったぜ。んで、水池氏はそのままヨルムンガンドのオフィスに御出勤あそばして、そのまま一泊して本日に至る、というわけだ」  おれはテラスのひさしの隙間から、天に向かって一際高く伸びるビルを見上げた。この高層ビル街の中でもシンボルとされる一本の塔、『バベル・タワー』。『ゴルゴダ・ヒルズ』と揃えた名前らしいが、本来の意味を考えるとかなりちぐはぐなあたりが宗教に無頓着な日本らしいと言えばらしい。全六十階の敷地の中には、急成長したIT企業、会計事務所、証券会社などのオフィスが多数入っており、もちろんレストランや駐車場、それに美術館まで備えている。いつぞやおれはザラスの本社を空中庭園と称したが、こちらはまさしく空中都市だった。目下ビジネス界では、ここに本社をかまえる事が成功者としてのステータスと見なされている。ここの四十六、七階に収まっている新興のIT企業『ヨルムンガンド』の代表取締役こそが、今回の依頼人露木甚一郎の生き別れの息子、水池恭介その人なのだ。      株式会社ヨルムンガンド。  北欧神話に登場する、世界樹を取り囲む大蛇の名でもある。これを社名にを冠したのは、『世界をあまねくインターネットで囲う』事に由来するのだとか。二十一世紀初頭のネットワークの飛躍的な進歩、いわゆるIT革命の時流に乗って急成長を成し遂げたベンチャー企業である。つい先日、東証一部に株式を上場し、その時価総額(……まあ、会社のパワーをお金に換算したものだと思ってくれ)はなんと千六百億円にも及ぶ。そんな怪物会社の頂点に立つ社長、水池恭介は若干三十一歳。中学校を卒業と同時に渡米。アメリカで伝説の起業家、サイモン・ブラックストンについて経営を学び、その後日本に戻り数人の仲間と会社を立ち上げ、十年かからずに現在の規模まで押し上げた、まさに立志伝の人物である。 「サイモン・ブラックストン?」 「世紀の不動産王だよ。アメリカを中心に、世界中のオイシイ土地を買い占めてる。そこに建てたカジノやホテルの経営なんかもやってるな」  雑誌『フォーブス』に掲載される長者番付の常連でもある。同じくアメリカの大富豪、金融王にして海運王である『錬金術師《マネーメイカー》』ゲオルグ・クレインと並んで、『海のゲオルグ、陸のサイモン』なんて呼び方もされているようだ。 「このゴルゴダ・ヒルズの土地の再開発にも二、三枚噛んでいるんだとよ」 「ほう。とにかくそんな成層圏の彼方の金持ちどもの話は気にしても仕方がないか」 「ま、そりゃそうだ。続けるぞ」  彼にいたく気に入られた水池氏は、サイモン氏を名義上の役員に据え、彼の援助をもとに仕事を始めたのだそうである。ただ優秀な経営者というだけでなく、積極的にマスコミの前に現れるのも大きな特徴だ。経済番組はおろか、最近はバラエティにまで顔を出し、『ITが全てを変える』『既存の企業では遅すぎる』『古いものを壊して何が悪い』『金でたいていの事は出来る』等など強気の発言を繰り返している。  三十一歳の若さ、エネルギッシュな性格、まあそこそこ見れる顔、そして何より巨額の個人資産と揃っては女にモテないはずもない。また、旧来のシステムを傲然と不要と切って捨てるその姿勢は、賛否両論を常に巻き起こしている。テレビに何度も登場するうち、ついた異名は『ドラゴン水池』。ミズチが『蛟』を連想させる事から、昇り竜に例えた、んだそうで。また、ネット上に自身のブログを設置し、そこからマスコミを通さずダイレクトに意見を発しており、そちらも様々な意味で大盛況。敵も味方も多い、アクの強い御仁。おれがマスメディアその他から得られるイメージはこんなところだった。 「アメリカに渡ってからは父親とは音信不通。露木恭一郎が水池恭介と名乗ったのは……ふむ、わざわざ改名手続きまでしているのか。『姓名判断でこのままでは不幸が訪れると告げられ、精神的安定を得る為に改名』――おいおい本当かこれは?」  おれが持ってきたイズモの資料をめくり、直樹が呟く。お互い何か飲み物でも欲しいところだが、生憎このエリアには缶コーヒーの自販機さえ無かった。 「テレビであんだけ強気の発言をしてるわけだし、まあウソだろうな。でもそういう理由なら、家庭裁判所も改名を認めてくれやすいらしいぜ。そうまでして父親に会いたくなかったってことかねぇ」  だからこそ露木甚一郎も、世間をさんざんに騒がせている水池恭介が自分の息子だと判らなかったのである。資料には水池、露木両氏の写真があったが、これも到底親子だとは思えないほど似ていなかった。水池氏自身は渡米以後の経歴は大々的に宣伝しているが、それ以前の事については東京都出身、としか開示しておらず、出生は謎に包まれていた。かつては探ろうとした週刊誌やマスコミもあったようだが、何時の間にか騒がれなくなった。あるいは黙らされたのか。 「『この男を父親の前に連れてくる』か。イズモさんも随分無茶なミッションを投げてくれるよなあ」  おれはぼやいた。水池氏の出生を調べ上げる手腕はさすがイズモというところだが、彼らはあくまで『調査』会社なのである。もちろんイズモは、水池社長に父親である露木氏と会ってくれないかと打診しようとした。だが、今水池氏は重要な企業買収の真っ最中だとかで、向こう一週間は誰ともアポイントを取るつもりはないとコメントを返した。イズモが何度か粘り強く交渉したのだが、水池氏の考えは変わらず、それどころかボディーガードを雇ってイズモのメンバーを追い散らすという事までやりだしたらしい。しかし依頼人は依頼人で何としても会いたいと言って聞かない。……板挟みで右往左往した後、彼らは次のような結論を出した。すなわち。『どうしようもない問題は、どうしようもない問題を扱う連中にやらせれば良い』。ナントカと人災派遣は使いよう、とは誰の言葉だったやら。     「しかしこれはまた随分と急激な株価の上昇だな。ほとんど一年ごとに倍々になっている勘定だ」  ついでに添付されていたヨルムンガンドの株価レポートを見ながら、直樹が一切れミックスサンドを口に運ぶ。確かにヨルムンガンドの株価は驚異だった。恩師たるサイモン氏から出資を受けた、カタパルト加速の会社設立とは言え、それ以後の時価総額の拡大ぶりは異常とも言える。 「まあな。そこがこの会社の強みってわけさ。有名だからみんな株を買う。みんなが買うから株価が上がる。株価が上がるからみんな買う……って循環なわけだ」  経済雑誌で誰かが言っていた。「株式市場とは、一位になった子に投票した人は、その子からキスがもらえる美人コンテストのようなものだ」と。確実に美人からキス《ごほうび》をもらいたければ、”自分の好みの女の子”ではなく、”みんなが綺麗だと思う女の子”に投票すべきなのだと。だから、ひとたび”あの子美人だよな”という評判が立つと、いきなり票がその子に流れ込むということが良く発生するのだ。  こうして上がった自身の株価を、ヨルムンガンドは他企業の買収に使ってきた。  企業を丸ごと一つ買い取ると言う事は、その会社の株を全て買い取らなければならず、多額の資金と膨大な手間が必要となる。しかし、現金の代わりに、『値上がりしているヨルムンガンドの株』をその会社の株と交換する事にすれば、手元に資金が無くとも容易、迅速に他の企業を買収する事が可能となる。有能な企業を支配化に置いた事によってヨルムンガンドの評判は高まり、結果としてさらに株価が上がる事になるのだ。  それはさながら獲物を捕らえ、まずは一気に飲み込み、腹に放り込んでからじっくり栄養にしていく光景に似ていた。よって、ヨルムンガンドの企業買収はその社名にちなんで『ヘビの丸呑み』と称されることもしばしばだった。 「丸呑みをして大きくなり、その大きくなった身体でさらに大きな獲物を丸呑みする蛇、か。神話のヨルムンガンドは世界を一周するほどになったが、このヘビはどこまで大きくなるものかな」  レポートを閉じた直樹が妙に達観した口調で述べた。 「さすがに最近は値上がりも頭打ちになって来ているみたいだけどな。でも今、ヨルムンガンドが買収にとりかかってるってもっぱらの噂が、IP電話ソフトで絶賛ブレイク中のソフト会社『ミストルテイン』だ。ここを傘下に収めれば、今までヨルムンガンドが吸収した数々のウェブサービスとの相乗効果が期待出来るって話だからな。これでまた株があがるぜ」  熱く語るおれを奴は冷ややかに一瞥した。 「で、貴様はそれを当て込んで株を買ったと」 「な、ななな何を言うかね笠桐クン」  ミックスサンドを一切れ口に放り込む。 「なけなしの生活費を切り詰めて作った虎の子の貯蓄で、素人にも買いやすくなっていて値上がり絶好調のヨルムンガンド株で一儲け――と言った所かな?」 「は、はははは。まるで見てきたように滑らかな仮説をぶちあげるじゃないかお前」 「なに、この間事務所の応接間に、大学生協で買ったと思われる『三時間でわかるデイトレード』等という本が広げっぱなしにしてあったからな。誰のかは無論知らぬが」  ……おれ、迂闊。 「ま、悪い事は言わん。今手持ちの株があったなら早々に売り払っておくことだな」 「とっとと売り払うさ、ミストルテインを吸収合併して株価が上がったら、な」  奴がおれを見る目に哀れみの色が混じる。 「そうやって売り時を逃がした者が、最後には紙くずと後悔を抱えて海に飛び込むのだ」 「こんだけ上り調子の株が下がるとでも?」 「バブルの頃も皆、土地は上がり続けるという神話に随分と踊ったものだ。いずれ暴落すると言う当たり前の言に、耳を貸すものは誰も居なかった。いつの時代も欲に目がくらんだ人々は愚かだ。……俺も含めてな」  枯れた口調で述べる。お前ホントに設定年齢十九歳か。そーいえばコイツ、実家というか居城を売り払ったら二束三文で、しかも当時の政治体制がクーデターで崩壊したせいで通貨が暴落。よりにもよって東京なんぞに来てしまってまた投資に失敗して、結局購入出来たのはおれと大差ない安アパートだったりする。 「経験則からいうとな、貴様のような中途半端に知識があって、自分は頭がまわると思い込んでいる奴が一番危ない。浅い読みで動くから、海千山千の相場師から見れば格好のカモだ」 「わかったわかった、考えとくって」  いつになく食い下がる奴の言葉を手を振って終わらせ、おれは直樹の手からレポートを取り上げた。         ●6     「で、今日は真凛がいない分、久しぶりにお前と組んで、ってわけなんだが……」 「真凛君は学校か。そう言えば平日だったな。学生は大変だ」 「テメェだって一応専門学校生だろうが」 「そう言えばそうだったな。しかし真凛君の事だ。ここに来たがったのではないか?」 「あーもーうるせーのなんの。学校があるから参加しないなんてアシスタントじゃない、とかゴネてな。説得するのが大変だったぜ」  アシスタントとしてのココロイキは認めてやらんでもないが、アヤツ自身の将来のためにもあくまで優先すべきは学業。サボりの口実になってはいかんのである。ぶーたれてるおれを見て、直樹はメガネの位置を直した。 「お前がそこまで他人に気を使うとはな」 「……あのなおい。そういう言い方をされるとおれがまるで空気が読めないヒトみたいじゃないか。このご時世、おれ程仕事中に周りに気を配るワカモノはそういないと自負してんだけどな?」 「お前のは気遣いではない。単に現場ごと現場ごとのその場しのぎだろう」 「……悪いかよ」  なんかいつぞやも誰かに同じような事言われた気がするぞ。 「いや、むしろ逆だ。そのお前にしては、近頃随分と真凛君の面倒を見ていると思って珍しく感心しているだけだ」  今日はやけに絡むなコイツ。よかろう。おれも真剣な表情で応じる。 「なあお前、考えてもみろよ。真凛がもし留年でもしてみろ。本人は自業自得としても、奴のお母上に何と申し開く」  直樹の表情が心なしか青ざめた。無意識のうちに胃の辺りを手で押さえている。 「あのご母堂か……。目に浮かぶようだ、さながら築地のマグロの如く解体されたお前の成れの果てが」 「お前も同罪だよ!おれはまだいいぞ、お前はなまじ楽に死ねん分長く苦痛を味わう事になるんだ」  真凛のご母堂にして七瀬式殺捉術の現当主にかかれば、我ら如き若輩者は冷凍マグロと大して変わらぬ運命を迎える事になるであろう。つくづくこの世界の闇は深い。 「……そんな恐ろしい仮定を想像しても始まらぬ。で、真凛君で突破出来なかったとなれば、俺達二人での力押しは難しいな。これからどうするのだ?」 「安心しろ、すでに昨日のうちに一手を打ってある」 「ほう?では具体的に何からはじめる?」 「とりあえずは、これをやる」  おれは自分のザックの中から大量の紙束と幾つかの書籍を取り出し、テーブルの上に並べた。 「何の資料だ」 「大学の課題レポートだ」 「……おい」 「うるせぇ黙れヒマ人め。半期で単位が取れるものはいざ知らず、通年の講義はこのレポートで大抵単位が決まるんだよ。落としたらシャレにならねえんだぞ」 「ならば休み中に少しずつ進めておけば良かったではないか」  正論である。だがそんな正論がまかり通るのであれば、八月末日に宿題をやる子供も、〆切間際にエディターに向かう小説家も、印刷所に怒られる同人作家もこの世から消えて無くなるはずなのだ。 「ご苦労なことだ。だが実際、お前の記憶術と速読術ならテストの類は楽勝だろう?」 「それが通用したのは高校までだったな。文系なら楽出来ると思ったが、これなら理系の方が楽だったかも知れん」  こんな体質になってしまったささやかな副作用として、おれは自分の脳味噌をある程度自由にいじくり回せるという特技を身につけた。記憶術の類はお手の物。なにしろ目を通して流れ込んできた映像を、直接脳の記憶領域にぶちこんでやればいいわけだ。アタマの中に小型のノートパソコンが入っているようなもの、と思って頂ければ間違いない。おかげで高校の試験は苦戦した事があまりない。何しろテストの時は、脳裏に保存した教科書や国語辞典の映像を見ながら問題を解けばよいので、ある程度の点数は確保出来たのである(英単語の暗記テストなんていうこの世で一番無駄な事に人生を費やさずにすんだ事には、素直に感謝すべきだろう)。ところが大学に入ってからはそうもいかない。何しろこの手のレポートは資料を読み込んで自分で考えて作成しなければならないので、カンニングが出来たところであまり意味は無いのだ。 「だいたいこのご時世に手書きってのがイカれてるよな。履歴書だってエクセルでプリントアウトする時代だってのに、これだから石頭の教授は……」 「む、そうだ。プリントアウトと言えば肝心な用件を忘れるところだった」  今度は直樹がカバンの中に手を突っ込む。 「なんだ、えるみかの等身大ポスターでも買ったのか?」  ちなみにこの男、店頭広告に用いられるアニメ美少女の等身大ポップをもらって自宅まで担いで帰ったという逸話がある。 「それは帰りに三つ買っていく」 「なぜ三つも?」 「実用、保存用、観賞用に決まっているだろう。そんな基本的なことを聞くな」 「……そうか」  ”実用とは何だ”という疑問がおれの脳に浮かんだが、返答結果をシミュレートした結果、スルーすべきという結論が出た。  直樹が取り出したのは写真屋で現像するとくれるフォトアルバムだった。そういえば、旅行の後にそれぞれが撮った写真をアルバムにして焼き増しのために回覧する、という事をしなくなったのはいつごろからだったか。 「この夏に皆で海に行っただろう。その時の写真を渡すのを忘れていてな」 「ああ。あん時は大変だったなあ」  海に行ったくせになぜか一番盛り上がったのはエアホッケー大会だった。最後には各自が己の異能力を全開にして大人気なく勝負にのめり込んでいたような気がする。 「メールで送ってくれれば良かったのに」 「俺の分はとっくに送っている。これは姉貴の分だ」 「なるほどね。来音さんのフィルムカメラは随分気合入ってたもんな」 「ロクに保管も出来んくせに骨董カメラばかり買うのがあの女の悪癖だ。それで、焼き増しをするのでお前の写ってる分を選べ、との伝言だ」  おれはフォトアルバムを開く。みんなが写っていた。直樹、真凛に涼子ちゃん、所長羽美さん来音さん、桜庭さんにチーフに仁さん。それと、可愛げのないツラをした見覚えの無い男。 「……サンキュー。でも、やっぱり焼き増しは遠慮しとく」  フォトアルバムを返す。おれの台詞を半ば予期していたのだろう、直樹は素直に受け取った。奴はしばし考え込んでいたが、やがて口を開いた。 「……結局。まだ治ってないのか、その相貌失認《そうぼうしつにん》」 「治ってない。……と言うより治らないだろうな。壊れたんじゃない、欠けてしまったんだから」      まあ、取り立てていちいち説明するような大した事でも無いのだが。  こんな体質になってしまった影響としてもう一つ、おれは極めて限定的な相貌失認を患ってしまった。人間は他人と接した時、目鼻や輪郭などの情報を統合して『顔』という非常におおまかな情報にまとめ、記憶する。この『おおまかな』という所がミソで、これによって、次に会った時、その人の髪型や服装が変わっていたり、前回笑っていた人が今回は怒っている、という時にも「ああ、あの人だ」と判断することが出来るのだ。「人と人を見分ける」という事は誰もが当たり前のようにやっているが、実はかなり高度な脳の機能を使用しているのである。  この脳の機能が何らかの理由により働かなくなってしまうと、『他人の顔の見分けがつかない』という事態が発生する。これが相貌失認だ。他人と会えば髪型も輪郭もわかるし、目鼻立ちもちゃんと見えている。なのにそれを『顔』として情報化出来ないのだ。次に会った時にはもうその人が誰なのか判らなくなってしまう(もちろん、服装や周囲の状況から推測は出来るが)。そして、力を得た反動として、おれの脳の機能はここが欠けててしまったようなのだ。  もちろん、今までこの仕事をやって来た事からもわかるように、おれはちゃんと真凛や直樹、あるいは戦ったエージェントの顔はちゃんと覚えている。おれが覚えられず、かつ、思い出せないのはただ一人の顔……亘理陽司、自分自身の顔だけである。禁断の存在を己の人格の上にロードし使役しする『召喚師』の技。次第に己の人格と呼び出したモノが混じっていき、最後には自我を失うこの術にはお似合いのペナルティと言えた。 「しゃーないさ。こんだけの力の反動が、自分の顔がわからなくなるくらいで収まるのならむしろ安いくらいだ」  おかげで、おれの部屋には鏡が一枚もなかったりする。経費がかからなくて結構なことだ。おれはへらへらと笑った。他人の顔ならともかく、自分の顔ならそうそう社会生活に困る事は無いしな。どうせこんな記憶も、そのうちどの人格のものだったかわからなくなってしまうのだろうし。 「ま、でも同情してくれるなら好意はありがたく受け取っておくぜ」  会話の隙をついて、最後のミックスサンドに手を伸ばす。と、皿に届く寸前、奴の手にひっ攫われていた。 「……おい、てめぇ」 「一切れ四百円ともなるとなかなか他人にくれてやる気にはなれなくてな」 「金は半額ずつ出しただろうが!」 「では半分こにでもするか」 「それはそれでイヤだ」  日本最先端のショッピング施設のカフェテラスで至極低レベルな争いをおれ達が繰り広げていると、 「よろしければ、こちらでご一緒しませんか?」  横合いからかけられる声。『折り紙使い』門宮ジェインさんが立っていた。 「水池恭介が、貴方達とぜひ昼食をご一緒したいと申しております」         ●7      外のガーデンプレイス同様に様々な店や施設で賑わう『バベル・タワー』も、一度エレベーターに乗って十階まで上昇すれば、そこはもうビジネスオフィスそのものだった。うちの事務所とは比べ物にならないくらい高級な内装。高級とはすなわち、遮音性に優れているということである。エレベーターを中心に、ちょうど漢字の『井』の字状に広がった壁向こうのフロアでは何十人もの人が働き、電話し、コンピューターが唸りを上げているだろうに、まるで高級ホテルの廊下のような静けさだった。十階で一旦降り、今度は四十階より上、限られたごく一部の者だけしか立ちいることの出来ないフロアへとつながるエレベーターへと乗り換える。 「さっきまでのエレベーターからするとちょっと無骨みたいですけど」  ガーデンプレイスに直通していた方は、最先端のビルに相応しくガラス張りになっており吹き抜けのど真ん中を貫いていた。こちらはと言えば、広さは大したものだが、到って普通のエレベーターだった。ボタンを押すと扉が閉まり、上昇を始める。 「防犯上の理由ですね」  シンプルに門宮さんが答える。なるほど、ビジネスで毎日使う人にとっては景観よりも安全の方が重要だ。四十七階まで二十秒とかからない。そのくせ騒音はほとんど無い。普段はあまり意識しないが、これは中々凄い技術だと思う。 「ちょっとした電子要塞といったところか」  物珍しげにメガネを直しながら微妙に懐かしいフレーズを呟く直樹。悔しいがこいつがここにいると切れ者の若きエンジニアに見えない事も無い。 「いったいどんな魔法を使ったんですか?水池氏は昨日まであれ程貴方達に会うのを避けていたというのに」  門宮さんが興味津々の態で尋ねてくる。水池氏からおれ達の案内役を仰せつかったのであろう。あるいはこれが聞きたいがために志願したのかも知れない。 「大したタネじゃありませんよ」  おれははぐらかした。こういうのはせいぜいもったいぶる事に意味がある。門宮さんは未練ありげだったが、やがて話題を変えた。 「それにしても、『真紅の魔人』と『召喚師』の揃い踏みを拝見出来るとは思っていませんでしたよ」 「別に貴女達に見せたくてやっているわけではない」  フロアを示すパネルを見上げたまま直樹が呟く。 「それは失礼しました。でもこの目で確かめるまでは到底信じられなかったものですから。本国《ステイツ》では欧州支社経由でお二人については随分耳にしました。あの死闘が日本ではほとんど知られていないのは不思議な限りです。それがまさか、日本に渡ってきた時には二人とも同じ事務所に所属しているとは」 「……まあ。腐れ縁という奴でしてね」  まぶしい笑顔を向けてくる門宮さんに対しおれは言葉を濁した。正直、往事の事はあまり思い出したくない。 「そこらへんの経緯も、少し興味ありますね」 「くだらないおしゃべりも情報収集のうち、というわけかな」 「おい直樹」  奴の愛想の無い口調をおれが咎めると、直樹は口を尖らせてそっぽを向いた。基本的に礼儀正しい奴なのだが、この男は何故か(精神的)年上の女性に対しては敬意を払わぬこと甚だしい。それが例え門宮さんのような美女であってもだ。反面、年下に対しての相好の崩しっぷりときたら、知人でさえ無ければ一市民の義務として迅速に警察に通報するところだ。ここらへんは恐らく超美人の姉、来音さんの影響がなにがしかあるのだろうが……まったく理解に苦しむ。やはり女性はっ!純情な少年の浅知恵や妄想の及びもつかないミステリアス・ワンを備えた大人の女性に限るのである。断定上等、おれは自分の発言に後悔などしない!門宮さんはと言えば、直樹の失礼にも関わらずあの微笑を浮かべたのみ。 「失礼しました。お二人のプライベートまで立ちいるのは、野暮と言うものでしたね」  なんか微妙に物凄く嫌な言い回しだなぁそれ。  停止したエレベーターが扉を開くと、おれ達の目の前には正面には無機質で豪奢な(IT関係者ならこのニュアンスをわかってくれると思う)ガラス扉があり、扉の前には野暮な制服に身を包んだごっついアングロサクソンの大男が立ち塞がっていた。言わずと知れた門宮さんの相棒、機械化人間『スケアクロウ』である。 『昨日も会っているが、久しぶりだな、と言っておこう』  CNNかBBCのキャスターでも務まりそうな極めて流麗な英語である。それがなぜ日本語を話すとあんな通信販売口調になるのだろうか。 『実質二ヵ月と半か。腕も背骨も修理が済んだようで何よりだ』  おれが返答する。ちなみに彼の機械の両腕を引きちぎり背骨を握りつぶしたのは、我が女子高生アシスタントだったりする。 『おかげさんでな。もっともあの時の処分で俺は責任を取らされて降格。今は同じコンビと言えども、主任がジェインで俺が副主任だ』 『それはそれは……』  おれが微妙に言葉に詰まっていると、スケアクロウはその鋼鉄の手でおれの肩を叩いた。 『変に気を回すな。俺としてはむしろ気楽なものだ。もともと前線上がりだからな。ジェインの指示は的確だ。それに従って俺が攻撃をするほうが、理に適っている』 『いや、そりゃわかってるんだけどさ』  ちょっとだけ、あと数年もしたら門宮さんがどこまで出世しているかを考えると空恐ろしくなった。どうにもこうにも、おれの周りにはデキる女性が多すぎるような気がする。      ヨルムンガンド社の実際の仕事場は四十六階に集中しており、四十七階は応接室、食堂、そして社長室など、お客向けの施設が収まっていた。スケアクロウと門宮さんに先導されるまま自動のガラス扉をくぐる。途中二回もIDカードを要求する扉があり、その都度ゲストコードを入力しなければならないため、えらく時間がかかった。そうして辿り着いた社長室は、実に二十畳の広さを持ち(おれの部屋が風呂トイレ台所を含めてすっぽり収まって余りある)、毛足の長いカーペット、どっしりとしたマホガニーのデスク、多分デンマークあたりの産であろうキャビネットが壁に並んでおり、『いかにも』と言った雰囲気だった。ついでに言うと、キャビネットの裏には小さいながらもホームバーまで備え付けられている。真中には来客用の応接セット。突き当たりの東南の壁は一面ガラス張りとなっており、高くそびえる東京タワーや浜離宮、その向こうに広がる東京湾が一望できる。これがホテルの一室ならば、このロケーションだけで料金二割増しは確定と言ったところだ。  そして、その奥にある社長室に、水池恭介はいた。  写真で見る通りのそれなりに整った顔立ちだが、実際に対面してみると立ち昇る精気のようなものが段違いだ。これだけのパワーが無ければ、生存競争の激しいベンチャー業界ではたちまち喰われてしまうのかもしれない。 「用件があるならさっさと言え」  んで、第一声がこれである。ドラゴン水池と称される、不敵な面立ち。テレビで散々お馴染になった強気の発言はパフォーマンスではなく、素でこういう性格らしい。声こそこちらにかけているものの、視線は卓上のノートPCから外さず、一心不乱に未読メールを捌いている。シグマの二人は扉の側で控える。部屋の主はイスを勧めてくれなかったので、おれと直樹は勝手にソファーに腰を下ろして脚を組んだ。本来は銀行だの投資ファンドだののお偉方のためのソファーは、分け隔てなく貧乏学生も迎えてくれた。交渉の基本はリラックス。今日本でもっともお金持ちにして有名人を前にしてのこの図々しさは、もちろんこのバイトで培われたものである。 「就職活動に備えて、会社訪問でもしておこうと思いましてね」 「それなら正規にアポを取ることだな。生憎とそんな利益を産まない行為に裂くスケジュールはないが」  水池氏は変わらずディスプレイを見つめたまま。代わって直樹が口を開く。 「それはまた。優秀な人材の確保こそがIT業界の急務でしょう」 「講演会ならやっているさ。東大京大一橋。国立と私立の大手は大体やったな。優秀株はよりどりみどりだ」  図太い笑みを浮かべる水池氏。 「昼食をご一緒したいとのお誘いだと伺ったんですけどね?」 「そうだな、そろそろメシにするか」  言うと、ノートPCを畳んでこちらにやって来た。机の下から何やら袋を取り出し、応接テーブルの上に置く。それは何と言うか、おれにとってはとても馴染みのある袋だった。 「日本最新のショッピングモールなどと言ってはみても、その実コンビニひとつロクにない。使えん話だ。ようやく地下のテナントに入ったが、そうでなければ本気で引っ越そうかと考えていたぞ」  袋を広げる。中から出て来たのは、フィルムで包装された、いわゆるコンビニのミックスサンドと缶コーヒーだった。数はご丁寧に五人分。 「門宮君と『スケアクロウ』君も一緒にどうだ」  気さくに声をおかけくださるIT長者様。 「あのー……?」  『金でたいていの事は出来る』と豪語する男が食べるには、ちょいと味気ないと思うのだが。 「別に高いモノを食いたくて金を稼いでいるわけじゃない。会食以外で高いメシを食う気にはなれんし、何より時間が無駄だ」  言うや水池氏はとっとと包装を解くと、サンドイッチを美味そうに口に放り込みはじめた。ことさらに貧乏学生に嫌がらせをしているわけではなく、普通にこれが彼の昼食のようだった。 「さっさと食わんか」 「はあ」  地上四十七階、豪華な調度類に囲まれて食べるミックスサンド。さっき食べた千二百円のそれと、味の違いはおれにはわからなかった。結局シグマの二人も加わって、五人の奇妙な昼食会が始まった。とは言え会話の切り口も見つからず、一同無言のままサンドイッチを腹に送り込む。って、隣でスケアクロウも平然と食べているが、そう言えばこいつの腹はどうなっているのだろうか。        ――五人、か。  テーブルを囲む人間を、『蛇《ニョカ》』はその目に克明に捕らえていた。  キョウスケ・ミズチ。事前に入手した資料によれば、ミズチもまた日本語で『蛇』を意味し、ドラゴンを名乗っているとか。  『蛇』の唇が切れのよい半月を描く。  よろしい。  まずは極東の草蛇に格の違いを思い知らせてやるとしよう。       「俺のブログにコメントをつけたのはどっちだ?」  水池氏がじろり、とおれと直樹を見据える。隠してもしょうがないので挙手するおれ。 「一応これでも御社の株主でしてね」 「せいぜい投資額は五万円というところだろうが」 「お前は余計な事言わなくていいの」  通常、企業の株を一定数買うと、株主優待としてその企業からいくつかの恩恵を受ける事が出来る。食品会社なら年に一回お中元が送られてきたり、映画会社なら試写会の招待券がもらえたり、などだ。ヨルムンガンドの株主優待は少々変わっていて、一株でも持っていれば、社長である水池氏のブログにコメントをつける権利がもらえる、というもの(逆に言うと、何株持っていてもお中元がもらえるわけではない)だ。襲撃に失敗した昨夜、おれは『あなたが昔お世話になった人がお会いしたいと思っている。コンタクトについてはあなたの警備のK氏に確認あれ』てな主旨のコメントを打っておいたわけである。メールも電話も直接交渉もダメ。しかしながら考え方を変えてみれば、ブログ経由なら社長様に簡単にコンタクトが取れるわけで、まさしくこれがITの恩恵というわけだ。しかしまあ、株主優待がまさかこんなところで役に立つ日がこようとは。 「読んでいただけたようで幸いです」 「通常ならこんな話は耳も貸さんさ。門宮君に感謝するんだな」 「我々の仕事は警備です。一つの話し合いですむものを無為に衝突させることはないと思いまして。亘理さんでしたら安全と判断しました」  どうやらこの場をセッティングしてくれたのは門宮さんらしい。いやまあ、実のところそこに賭けていたわけなんだが。 「ずいぶんと思わせぶりな発言をかましてくれたな。ブログでは株主の憶測が飛び交っているし、今見たら週刊誌からも問い合わせのメールが入っていたな。どうせ階下には記者《ネズミ》がうろついていただろうが……」 「はい。丁重にお帰り頂きました」  門宮さんのお言葉。さっすが。 「そういうわけだ。これ以上余計な真似をされても困るからな。わざわざこの俺が時間を割いて会ってやった」 「寛大な対応に感謝します」  皮肉ではなくおれは謝辞を述べた。もしおれが彼の立場なら黙殺するか、それこそ『スケアクロウ』あたりに排除させるだけだっただろう。対話の場を作ってくれた事自体、彼としては最大限の譲歩なのだ。 「ミストルテインの買収工作でお忙しいようですしね」  おれはあえてもう一歩踏み込んでみた。水池氏は、にやりと太い笑みを浮かべる。 「まあな、あそこの役員連中、すぐに折れるかと思ったが中々にしぶとい。あと二人、こちらに尻尾を振らせてやらんとな」  社内の機密に該当するだろうことを、平然とさらけ出す。 「それとな、お前」 「亘理です」  おれの発言など聞こえてない風を装い、 「跳ねっ返りは嫌いじゃあない。ただし――」  水池氏はずい、と身を乗り出してきた。 「俺に脅迫は通じない。この一回だけだ。次は無いぞ」 「……了解しました」  さすがに若くして一大帝国を築いた男、ここぞと言うときの迫力は段違いだった。ともあれ、これでおれ達はようやく話し合いのテーブルに辿り着いた事になる。 「もう一度言う。用件があるならさっさと言え」  おれは手短に、イズモ・エージェントサービスからの依頼の内容を語り始めた。        『蛇』は攻撃準備に入った。直線距離にしておおよそ千五百メートル。高度はこちらがわずかに上だが、今日の東京の上空には強い風が吹いていた。仮に、もしも今『蛇』がいる地点から狙撃を試みるとしたら、オリンピックの金メダリストだろうと、軍や警察所属の狙撃兵だろうと匙を投げるだろう。しかし、『蛇』にとってそれは問題ではない。    犬歯で人差し指を強く噛む。ぷつりと皮膚が裂け、赤い血の珠がみるみる盛り上がる。指を下に向けると、血の珠は平たい欄干の上に置かれたミネラルウォーターのボトルの中へ吸い込まれるように落ちた。 「……、……ぃ、……、ガ……。 ……、……、ィリ……」  ボトルの上に掌をかざし、かすかにどこの言葉とも思えぬ何事かを呟く。小気味の良い律動に満ちた、低声だが弦楽器のように響く声。幸か不幸か、自分たちの世界に没頭している周囲の人間は、誰一人それに気づくことはなかった。ボトルの中に垂らされた紅い雫が拡散し、そして何事もなかったかのように溶けて消える。 「……ぁ、……。……ゎン、……。 ……リビ」  ボトルを逆さにする。当然、中の水はこぼれて床に飛び散――らなかった。音もなく、まるで一つのゼリーのように形を保ったまま、静かに床に着地する。     「ゆけ。『絞める蛇《キガンジャ・ニョカ》』」      その透明のゼリー状の水が、ぶるり、と震えた。部屋の中には何十人と人がいる。その誰もに気づかれず、『名』を与えられた透明の水の固まりは『親』の命に従い、実に驚くべき速度で壁の隅を這い進み、給水器の蛇口へぬるりとすべり込んでいった。         ●8     「……と、言うわけで、息子恭一郎氏を、お父上である露木甚一郎氏に引き合わせるためおれ達がやってきたというわけです」  おれは手短に話を終える。実際のところ、水池氏のランチタイムはあと十分。次はまた別のアポイントが控えているのだそうだ。貴重なチャンス、なんとしてもこの十分でイエスの返事をもらわねばならない。 「露木恭一郎、か。そんな奴はとっくに死んだよ」  缶コーヒーを胃に流し込み、無感動に水池氏は述べた。とはいえ、これ程までに『本人である』と明示されているイズモの調査結果にケチをつけたわけではない。 「今の自分はあくまで”水池恭介”であると?」  直樹が問う。たしかに、日本で裁判所を介して改名するのはそう簡単な手続きではないはずだ。 「ああ。あまり知られたくはないが、否定するつもりはない。アメリカに渡ったときにその名前は捨てた」  サンドイッチをあらかた食い終えると懐からタバコを取り出した。げげっ、ダビドフ・マグナムなんて吸ってるよこの人(ダビドフを知らないという人は、一箱千円のタバコと申し上げればわかってもらえるだろうか)。食べ物と違い、こっちには金をかけているらしい。おれ達がまだ食っているのにおかまいなく火をつけると、煙を吐き出した。きつい匂いがあたりに広がる。 「お前も吸うか?」 「遠慮しておきます」  せっかくの高級タバコだが、メシを食いながら吸う気にはなれない。 「……そう。だから、恭一郎に会いたいという、その露木なにがしの要請には応じようもない」  先ほどまでの強気の口調よりもややソフトな物言いだが、それがいっそう明確な拒絶を感じさせた。十数年ぶりの父親との再会のチャンス。ゴールデンタイムの人捜し番組なら、ここで浮気をして子供を捨てた親、駆け落ちした娘あたりが拒みつつも迷い、それをスタッフが説得してスタジオで再会、というシナリオになるのだろうが、水池氏の場合は即答だった。となると、 「名前を捨てたのはお父さんとの縁を切るため、ということですか」  沈黙。それは肯定の意思表示だった。正直なところ、おれは困ってしまった。うすうす予想はしていたものの、最初っから全く会う気がない人間を引き合わせるとなれば、それこそ無理矢理拉致でもしないことには話が進まない。さてさてどうしたものか。手詰まりの中、口を開いたのは直樹だった。 「しかし解せませんな。露木弁護士と言えば有名人、わけても悪評など聞かれない人物ではありませんか。誇ることはあれ、忌避する必要があるのですか」  うわ、いきなり地雷踏みに行ったよこの阿呆。……まあ個体として生きる吸血鬼に家族間の機微を読めってのは難しいのかも知れんが。 「――露木というのはな。偽善者の名だ」  案の定、不機嫌そうに水池氏は言葉を吐き捨てた。おれは触れるべきか迷っていたが、この会話の流れでは切り出さないわけにはいかなかった。 「やはり、お母様の事を?」  水池氏が向けてきた視線に、おれはたじろいだ。半分以上は、おれ自身の後ろめたさによるものだったが。もう一つのイズモのレポートには、露木恭一郎少年が父と縁を切りアメリカへ渡る原因になったと思われる事件が記されていた。      ――カネのあるところには暴力がついてまわる。トミタ商事、および、トミタ商事が被害者から集めた金を投資した先には、暴力団の息がかかっているところが多かった。そういうところに単身乗り込んでいってカネを返せ、と申し立てたわけだから、露木弁護士にかかる圧力は相当なものだった事は想像に難くない。取り立ての際には随分と脅迫や妨害も受けたそうである。  だが、暴力団にしてみれば仮にも相手は弁護士。下手な脅しや直接の暴力は、そのまま逆手に取られて警察の介入を招くおそれがある。結果、彼らが取った手段は、姑息と称しうるものだった。無言電話や差出人不明の脅迫状、明らかに悪意を持って流される風聞、過去のスキャンダル。人間、誰だって叩けば多少は埃が出る。結婚前につき合っていた異性や、親の仕事上の汚点などを探し出してきては、かなりあざとく近所に吹聴してまわるというような事もやってのけたらしい。  それでも、正義と信念の人である露木弁護士は怯むことはなかった。……だが。家族はそうではなかった。夫を支えて露木夫人は随分と健闘したらしいが、連日の嫌がらせに疲れ果て、やがて睡眠障害を発症した。そして寝不足の状態で車を運転し……交通事故に遭い亡くなった。一人息子の恭一郎を、安全を期して学校まで迎えに行こうとしていた途中だったのだという。  そして皮肉にも、この露木夫人の死こそが、世間の注目を集めることとなった。詐欺事件として終わったと思われていたトミタ事件の被害者達が今なお苦しんでいることを知らせるきっかけとなり、世論が味方につき、事件は決着へ向けて進み出したのだ。     「あの男は自身の名誉のために何もかもを切り捨てた。ならば名誉だけ背負って生きればいい」  水池氏はまだ十分残っているタビドフを灰皿に押しつけ、それ以上おれ達に口を差し挟む余地を与えなかった。 「用件は他にはないな?露木甚一郎とやらが俺に会いたがっている。お前達はそれを俺に持ち込んだ。そして俺はそれを聞いて、無理だと断った。以上でこの件は終わりだ」  時間は十分を経過していた。 「そういうわけにはいきません、露木氏は――」 「しつこいな。二度目はないと言っただろう」  水池恭介氏は席を立ち、パンくずを払った。 「会食は終了だ。実りはなし。これ以上俺を拘束しようとするなら、業務妨害とみなす」  その視線に応じて、シグマの二人がさりげなく居住まいを正す。それに応じて直樹もわずかにソファから腰を浮かし、たちまちのどかな昼食気分は社長室から吹き飛んでしまった。ここからは門宮さんも容赦なく警備としての務めを果たすだろう。水池氏の態度がこうまで強硬とは、正直誤算だった。おれは心の中で舌打ちする。『時の天秤は常に私達『シグマ』に味方する』。門宮さんの言葉が耳に痛い。おれ達を尻目に当の水池氏は社長室を出ようとしていた。強硬手段は下の下策だが……やむなしか。それとも。      おれ達が行動を決めようとして顔をあげると。  本当に偶然に、水池氏の足下にあるそれが目に入った。      直樹も、門宮さんも、そして水池氏も気づいていない。  社長室には小さいながらもホームバーがあった。その流しの小さな蛇口から、何か透明なゼリーのようなものが流れだしている。それは、高級な絨毯を横切り、その先端は水池氏の足下近くにまで届いていた。  蛇口から実に数メートルにも渡り伸びる細長い透明なゼリー状の物体。あまりに透明だったので、光の加減が違っていたら気づかなかっただろう。高級ホームバーともなると、蛇口から水の代わりにジェルでも流すのだろうか?だが、どこかで見たような……。  あまりにシュールな光景にしばし呆然と見守る。と、その先端が――蠢いた。 「水池さん、それ、」 「あん?」  そこまで口に出した時、おれの脳裏でアラームとともに検索結果が表示され、唐突に全てを理解した。 「『絞める蛇《キガンジャ・ニョカ》』!!呪術師の使い魔だ!!」  おれの絶叫と、絨毯に横たわっていた『絞める蛇』の鎌首が跳ね上がったのはまったくの同時だった。その勢い、まさに密林から躍り出る毒蛇のごとく。床から水池氏の首筋を目指し、『絞める蛇』の頭が一直線に空を奔る。一気に思考が加速する。――直樹、門宮さんは完全に反応が遅れた。おれの能力では――悠長に一言紡いでいる間に手遅れだ。どうする!?  その時、横合いから走り込んだ『スケアクロウ』が水池氏をその巨体で突き飛ばした。おれと同じ方向を向いていたこいつも気づいていたようだ。ちょうど水池氏の首筋の位置に入れ替わった『スケアクロウ』の胸元に、『絞める蛇』がその毒牙を剥いた! 「Hh……ッ!!」  くぐもった声が一つ。突き飛ばしたのではない。弾き飛ばしたのでもない。『絞める蛇』の突進は、『スケアクロウ』の鋼鉄の、いやそれ以上の強度を誇る装甲を埋め込んだ胸板を、杭のように貫いていた。 「おい!『スケアクロウ』!?」  細長い体躯で胸板を貫いた『絞める蛇』はそのままの状態で、背中に抜けた上半分をスケアクロウの右腕に、胸板に埋まっている下半分をその腰に巻き付けた。次の瞬間、胸が悪くなるような光景が展開された。  けたたましい金属音が鳴り響く。『絞める蛇』が巻き付いた『スケアクロウ』の右腕を締め上げ、右腕と、支点となった胸の穴と腰とをいっぺんにねじ切ったのだ。 「…………!!」  悲鳴を上げることすら出来ず、右腕と胴を切断された『スケアクロウ』は絨毯の上に転がった。ここでようやく、おれが突き飛ばされた水池氏と『絞める蛇』との間に割り込むことに成功する。 「なんだ!なんなんだこれは一体!?」  その疑問を発したくなる気持ちはよくわかるがとりあえず放置。 「蛇口を閉めろ!こいつは水があればあるほど強くなる!!」  おれの指示は、だが遅きに失した。すでに潜む必要がなくなったと判断したのか、『絞める蛇』はその身をぶるりと震わせる。蛇口、とはよく言ったもので、はじけ飛んだそこから勢いよく水が噴出……せずに、そのまま蛇の尻尾へと変じてゆく。みるみる巨大になってゆく『絞める蛇』。最初はロープ程度の太さしかなかった胴体が、あっという間に人間の腕くらいの太さに成長し、体長はすでに十メートルを優に超える。  『絞める蛇』の頭がこちらを向く。そこに目や鼻などないのだが、おれはまさしく蛇に睨まれた蛙だった。とたん、『絞める蛇』はその胴体をくねらせ、おれと水池氏双方にしゅるしゅると巻き付いてくる。透明な水の、ぞっとする冷たさ。その胴体は水のくせに異様な弾力と、そして圧力に富んでいた。消防用の放水ホースを使った事がある人なら、この感覚は理解できるかも知れない。あいにくとこちとら生身の体である。こんなもので締め上げられて腸詰め肉《ソーセージ》ならぬ肉詰め腸になるのはごめんこうむる。 「水池さん!」  門宮さんの声が飛ぶ。見れば、長い胴体で締め上げたまま、音もなく『絞める蛇』の頭が水池氏の肩に噛みつこうとしていた。 「直樹!」  おれが叫ぶ前に、奴は動いていた。 「世話の焼ける!」  無愛想な呟きとともに、直樹が吸血鬼の膂力を解放し、蛇の胴体に遠慮ない蹴りをたたき込む。人外の力で蹴り飛ばされさすがに応えたか、おれと水池氏の拘束を解放する。 「大丈夫ですか!?」 「肩が、肩が!」  見ると、肩のあたりにうっすらと血がにじんでいる。傷は浅いようだが……噛まれたのか!?確認するまもなく、今度は蛇の頭がおれを狙って来た。 「――穿《うが》て。『紙飛行機』!」  そのタイミングを見計らって、門宮さんの呪が飛ぶ。鋭く折り上げられた紙片は一つの剛弓と化し、『絞める蛇』の頭部に深々と突きたった。だが。 「効いていない!?」  門宮さんの声にわずかに動揺が走る。突き刺さった紙飛行機は、だがそのまま水を吸って形を失い、奴の内部に取り込まれつつあった。 「こいつに内蔵や器官はありません!形状そのものを崩す攻撃を!」  おれは叫びつつ、腰を抜かした水池氏を壁際にひっぱる。くそ、重いなこのオッサン。引き続き直樹がその胴体を殴りつけ、蛇を退ける。『スケアクロウ』が倒れた今、唯一この蛇に力負けしていないのが直樹だ。だが、奴の冷気を発動するにはここは狭すぎる。どうする?  一瞬こちらを振り返った直樹と眼が合う。……了解。おれは壁沿いを走る。  今や二十畳の部屋全体を取り巻くほどの大きさに成長した水の蛇。それは海竜とも思える偉容だった。壁際の水池氏と、それを庇う直樹達の前で、奴はうねうねと不気味に体をくねらせた。胴体は動かぬまま、頭部だけが右に回転し、結果その細長い蛇身はねじれ上がっていく。凄まじい圧力を、その内に蓄えながら。そしてそのいびつな身体のよじれが、限界まで達した時。 「伏せろっ!!」  直樹が叫ぶ。ねじり上げたゴム紐を解放する要領で、『絞める蛇』の身体が長さ十五メートルの巨大な鞭と化し、部屋中を縦横無尽に乱打した。圧倒的な水の質量と、解放された圧力による凄まじい速度が、純粋な凶器と化して室内を荒れ狂う。巨大な爆竹に点火したような連続破裂音。デンマーク製のキャビネットが、冷蔵庫が、マホガニーのデスクが、ノートPCが。塵芥のように軽々と吹き飛び、空中で粉砕される光景はもはや悪夢としか思えなかった。 「――啄め。『鶴』!」  吹き荒れる水の嵐の隙を突いて門宮さんが攻撃。おそらくは『紙飛行機』に並ぶ彼女の必殺の攻撃だったであろう折り鶴の吹雪は、だがいずれも『絞める蛇』の身体に弾かれ傷をつけることが出来ない。広範囲を補足する攻撃の代償として、一撃一撃の威力が低いのが裏目に出たのだ。わずかに舌打ちし、英語で呟く門宮さん。 『固けりゃいいってもんじゃないんですよこのポ○モン野郎』  ……なんかちょっとスラングが混じったような気がするけど、気のせいだよね?(pocket monsterをポケ○ンと訳したおれは間違ってないよな?)ああきっと気のせいだ。 「下がっていろ」  その背後から躍り出たのが直樹。人外の膂力にものを言わせて、真っ二つに割れている応接テーブルの破片を持ち上げ蛇の頭部に叩きつける。臓器はないくせに頭部の概念はあるのか、奴は怯み動きを止めた。 「ハイそこまで」  おれは手に持ったコードを、『絞める蛇』の尻尾がつながっているホームバーの蛇口に巻き付けた。このコード、先ほど奴に吹っ飛ばされた冷凍庫のケーブルを手持ちのツールナイフで切断したもの。しかもこのコード三相じゃないか。いいのかコレ。 「くくらららええ必殺業務用二百ボボルトト」  台詞が変なのは巻き付けた時におれも感電したからなのでカンベンしてもらいたい。一応上着で手を被っており、またすぐに手を離したから出来たものの、両腕が痺れるし脳裏に衝撃がバチバチくる(良い子は絶対マネすんな)。おれの方はギャグですんだが、尻尾に即席のスタンガンを取り付けられた蛇の方はたまったものではなかった。何しろ全身伝導体、その上電圧は低くとも電流の量はスタンガンなど比べものにならない。漫画のように火花が弾けたりはしないが、体内を走るすさまじいショックに『絞める蛇』は明らかに苦悶していた。元来た蛇口に逃げ込もうにも、そここそが電気を送り込まれているポイントである。すると奴の取り得る選択は、 「ふげっ!」  この無様な悲鳴は、『絞める蛇』が蛇口から切り離した尻尾に顔面を引っぱたかれたおれの台詞だ。奴は自由になると、一直線に部屋の外に向かって逃げ出した。ここでようやく、ターゲットの安否を確認する余裕が戻った。 「水池さん、大丈夫ですか!?」  初めておれ達エージェントのトンデモぶりを目にした水池氏は、若干放心状態にあるようだった。まあムリもない。何しろ命まで狙われてたんだから。 「ウソだろ……いくらなんでも、これはやり過ぎだ……」  ……そんなようなことを呟いている。一方、逃げた蛇を追う直樹。 「逃がすか!」 「待ってください!」  外へ走り出そうとする直樹を制する門宮さん。 「何だ」 「水に仮初めの知能を与えただけの使い魔をこれほど操るには、術者がこちらの情報を逐一把握していなければならないはずです」  さすがに同系統の能力者らしく、彼女は敵の正体を見破っていたようだ。 「操り主がこの近くに?」  だが、あれほどのセキュリティをかいくぐってこのフロアに潜入するのは不可能に近い。また、そこまで近づけるならわざわざ使い魔を仕掛けてくる必要はない。となると。 「外か!?」  壊滅状態の部屋を突っ切り、まだ痺れている脚を動かして東京湾まで見通せるガラス窓に走り寄る。この四十七階の様子を奥まで把握するならば、同程度の高さをもった建物が必要だ。だがぱっと見た限り、そんなものは見あたらなかった。残る二人も駆け寄ってくる。 「直樹、見えるか?」  腐っても吸血鬼、奴の眼は色々と特別仕様なのだ。 「昼では今ひとつだが……。この方向周囲五百メートルにはまずそれらしいものはないぞ」  となると盗撮カメラでも事前に仕掛けたか。そう思って目を転じようとした時、ようやくそれに気づいた。 「五百メートルよりもっと遠くなら?」 「何だと?」  およそ直線距離にして千五百メートル。一つだけ、このフロアを見渡せる場所があった。 「あそこか!!」  そこにはこの『バベル・タワー』よりも遙かに高く、また歴史ある高層建築が、その紅い雄姿をたたえていた。全長三百三十三メートル、日本の象徴たる電波塔、東京タワー。その大展望台はちょうど、この四十七階と水平の位置にあった。        存外にいい勘をしている。  『蛇《ニョカ》』が覗き込んだ手持ちの望遠鏡の向こうでは、銀髪の青年と日本人の若者、そして警備員と思われる女性がそろってこちらに視線を向けていた。もっとも、こちらの顔まではわからないだろうが。  東京タワー大展望台。地上百五十メートルに位置する欄干に身体を預けて、窓のはるか向こうを見つめている。ここでは『蛇』がそのような仕草をしていても、観光気分の外国人としか思われないだろう。  悠々と伸縮式の望遠鏡をポケットにしまい、エレベーターへと向かう。彼らがどう足掻いても、今立ち去ろうとする『蛇』の足取りをつかむことは不可能だ。右手でボタンを押そうとして、自分が指に傷……噛み傷と、そして、火傷を負っていたことに気づき苦笑する。左手でボタンを押して待つ。やがてやってきたエレベーターに乗り込み、下降する。      さて、準備は完了した。  後は愚かな草蛇が、己の身の程を弁えることを願うばかりだ。         ●9     『あまり良くない知らせだ。それほど強力な使い魔、それも水の蛇を操るとくればおそらくそのエージェントは『蛇《ニョカ》』。アメリカで腕っこきとして知られる脅迫のプロだろう』  明けて翌日。おれ達の報告を元に昨日一日で須恵貞チーフが敵の正体を調べてくれたが、それはおれの気分を一向に上向きにしなかった。 「腕っこきって。どのくらいですか?」 『ランカーエージェント、北米七位だ』 「ぶっ!?」  おれはしゃべりながら口に詰め込んでいたミックスサンド(昨日とは違うコンビニのやつ)を危うく吐き出すところだった。 「腕っこきどころか!超危険人物じゃないですか!」  いわゆるおれ達『派遣業界』に所属するエージェントの評価の基準は、表の世界の派遣社員同様、『派遣先の評価』によって決定される。優秀な成績を上げて認められ、名が通るようになればそれだけ一件あたりの報酬額も上がっていくことになるのだ。このため、エージェント達には格付けが為されることがままある。各派遣会社でエースを務める事が出来る器、と認められるA級エージェントの称号、そしてさらにその上に君臨する、卓越した能力を持つS級エージェントの称号などがそれだ。もっともその評価基準はかなり主観的で曖昧だ。A級でも意外と大したことはない奴もいるし、先日の『毒竜《ファフニール》』のように、S級が無名の新人に不覚を取る、なんて事もある。まあアレだ。係長だの課長だのの肩書きは必ずしも能力を意味しないし、会社や個人によってもずいぶん違うよね、という奴。  こういった曖昧な評価を避けて、少しでも客観的な採点方法を、と考え出されたのがランカー制度である。この制度に登録したエージェントは、仕事を果たす度に派遣元と派遣先から一定の採点方式に基づいて評価点をもらい、それを積み重ねることでポイントとしていくのだ。このポイントが多い者は裏の世界のランキングに名前が載り、『ランカーエージェント』の称号を得、高額な報酬を得られるようになる。  無論リスクは大きい。自身の情報が業界に漏れ出ていくのは避けられないし、そうなれば任務遂行も不利になる。とくに『相手にネタがバレたら終わり』の一発芸人系の能力者――おれとか――や、多くの組織に恨みを買っているエージェント、売名に興味がない者などはこれを嫌い、ランキングに参加しようとはしない。だから決して『ランキング一位だから最強』というわけではない(そもそも”強い”だけでは意味がない)。だがしかし、上位ランカーになるほど手強い相手というのは、紛れもない事実だった。 『もともとはアフリカの呪術師の家系の出らしい。今はニューヨークを拠点にして活動しているそうだ。ランカーになってからは派遣会社を離れて独立。フリーでずいぶん儲けているようだな』 「とんだアメリカンドリームですねぇ」  日本の薄給能力者にももう少し哀れみを。 『得意分野は法人や個人への脅迫。何しろ呪術だ。手を引かなければ病気がどんどん悪くなるぞ、なんてのはお手の物だそうだ』 「……やはり、水池氏が脅迫されている、と?」  そこはきちんと確認しておきたいところだ。何しろこっちはいきなり襲われたわけで、相手の意図は仮定を交えて推測するしかない。足場となる確実な情報が欲しかった。 『可能性は高い。ニューヨークの溜まり場に姿を見せなくなったのは一週間ほど前からだそうだし、この仕事のために訪日したと考えるべきだろうな』 「脅される分にはまだしも、万一死なれると親子再会も何もあったもんじゃありませんからね。向こうがどこまでやる気なのかを確かめないと」 『こちらでも出来るだけ調べてみよう。こういう時ランカーは有名でやりやすいな』 「よろしくお願いしますチーフ。それから、昨夜頼んだ件は?」 『ああ。昨夜は千葉までご苦労だったな。今、お前の持ってきたシナリオを元に、笠桐君と羽美にヨルムンガンドのデータ集めに動いてもらっている。ただな。オモテのデータだけでは限界があるぞ』 「ああ、じゃあウラもお願いします」  おれは即答する。 「どうせ公表されてるデータでの予測なんて、日本中の経済アナリストやら投資家やらがやりつくしているはずですし。すいませんが、羽美さんに覗い《クラックし》てもらうのが一番早いと思います」  それはつまり、犯罪ゾーンに足を踏み込めと言う事と同義である。 『……お前さん、やる時は結構やるな』 「新人の時、”事前に打てるだけの手を打て。状況を何度もシミュレートすれば、予想外の事態にもかえってアドリブが効く”、っておれに教えたのはチーフじゃないですか」  この仕事で初めて教わったのがそれで、実は結構感銘を受けたのであるが。 『……そんなことあったっけか?』  忘れていやがる。まったく、おれはいい上司を持っているよ。 『とにかくその件はわかった、羽美に伝えて……うわ、おいこら、ちょ』  電話口の向こうでなにやらあった模様。その原因はすぐに判明した。 『くけけけけけ亘理氏!!慢性脳酸欠症の貴公も時には面白いネタを提供するではないか!宜しい宜しい、確かバベル・タワーのセキュリティを受注したのはあのヤヅミ系列のソフト屋であったな!カネさえかければセキュリティが強化出来ると思っておる愚か者どもに、この不肖石動、一身を持って忠告を叩きつけてくれるわッ!』 「いやあの。潜り込むのはビル内のヨルムンガンド社のサーバーだけでいいんですからね?』 『任せておきタマエ!小生にかかればソフトのみならず、電源、シャッター、ヘリポート制御まで思いのままよ!』  聞いちゃいねぇ。すでに羽美さんは『電磁戦隊メガレンジャー』のOPテーマを鼻歌で歌い始めた。こうなると何を言っても無駄である。 「とにかくチーフに、こっちも引き続き交渉にあたってみるって伝えてください。……ではまた」  不毛な通話を一方的に切り、一息つく。おれ達が只今いるのは、先日真凛と直談判に赴いて失敗した水池氏の自宅がある超高級マンションそばの公園である。ベンチに座って彼の部屋があるはずの十階のあたりを見上げながら、自宅に戻った水池氏の外出を待ちわびているのだった。  あの水で作り出した蛇……アフリカの呪術師が、己の血と、大量の水を混ぜ合わせることで生み出す『絞める蛇《キガンジャ・ニョカ》』と呼ばれる使い魔……の襲撃を退けたおれ達。東京タワーの術者は追うことは出来なかった。さりとて『絞める蛇』の方はどうやら排水溝から逃げ込んだらしく、こちらも追跡不可能だった。後に残されたのは腰の抜けた水池氏と、『スケアクロウ』の残骸と、細腕の門宮さんだけだったので、おれ達はその場の流れで、飛び散った家具やら壊れた蛇口やらの後始末をする羽目になった(流水が嫌いな直樹がさんざん文句を垂れやがったので一発どついて黙らせた)。水池氏はほとんど怪我らしいものはなかったものの、このままでは仕事にならないと自宅まで戻ってきてしまい、そのままここに籠もってしまった。その時おれは門宮さんと協力してスケアクロウの頭部を『シグマ』日本支社まで送り届けたり、その後ちょこちょこ小ネタを仕込んでいたりしたので、止める事も出来なかった。ちなみにスケアクロウの奴は今回は名誉の負傷ということで、破損したパーツを優先的に修繕してもらえ、一週間程度でまた前線復帰できる予定だそうだ。つくづく便利な身体である。その日はなんのかんので夜になってしまい、明けて翌日も動きは無し。時刻はようやく夕方になりつつあった。 「脅迫専門の呪術師か……」 「ボクはこういう、遠回しな攻撃の人は苦手だよ……」  おれが情報を伝えると、真凛も直樹もむっつりと押し黙ってしまった。ちなみにこの小娘は授業帰りでそのまま合流しているため制服である。 「なんかややこしい話になっちまったけど、おれ達の仕事は、水池氏を露木氏に引き合わせること、これに変更はない。ところが、肝心の水池氏はどうしても会いたくないと言っている」  頷く二人。 「となると、だ。脅迫者から助けてやることで恩を売り、その代価として面会をさせるという方法はどうだろう」 「そう上手くいくか?何しろ”脅迫に屈しない”男なのだろう。その手の取引が通じるとは思えんが」  確かに。おれ自身もそう思っていたので、奴の言葉には反論せず黙り込んだ。 「しかし、『蛇《ニョカ》』とやらをわざわざアメリカから呼び寄せたとあれば、雇い主は相当に水池氏に恨みを持っていると考えるべきだろうか」 「候補としてまず一番に考えられるのは『ミストルテイン』だが」 「えぇっと、水池さんのヨルムンガンド社が、今度合併しようとしている会社……だよね?」  ここ数日それなりに勉強してきたのだろう、自信なげに問う真凛。 「八十点てところだな。正確には買収だ。事業の内容については……ホレ語れ、ITオタク」 「別にパソコンは得意ではあってもさほど好きというわけではないのだが」  ぶつぶつ文句を垂れながらも直樹が語る。ミストルテインとは近頃主流になりつつあるIP電話のソフトを開発している会社である。IP電話とは大雑把に言えば、既存の電話回線ではなく、インターネットを経由して音声情報をやりとりする電話である。なによりのメリットは、ネットに常時接続しているのであればそれ以上の料金が発生しないということだ(たとえ相手が海の向こうに居ようとも、だ)。つまりは電話代ほとんどタダ。現在、多くの企業では社内や会社間の連絡はほとんどこれに置き換わっているし、一般ユーザーにも確実に普及しつつある。通信業界では、あと数年で従来の固定電話はその役目を終え、「どこでもつながる携帯電話」と「無料で話せるIP電話」へと吸収されていくとの予想が大勢を占めている。  そのIP電話をパソコン上で起動するために必要なソフトを作っているのが『ミストルテイン』社であり、世界的に大きなシェアを誇っている。ヨルムンガンド社はネット上でのブログ、株、保険やオークション等のサービスを展開しており、これにIP電話のサービスが加わることで、たとえばネットオークションで入札しながら相手と電話で交渉したり、保険の見積もりを直接オペレーターと話しながら申し込める事も可能になり、とても便利になる。……というのが、ヨルムンガンド側の描く理想の未来である。 「う――ん。とにかく。ミストルテインをお金で買い占めて自分のものにすると、水池さんのヨルムンガンドにすごくいい事があるってこと?」 「まぁ、そうだな」  今はくどくど裏事情を説明してもしかたがない。事態を簡略化して本質を把握しておくことは、仕事の重要テクニックである。そうすることで、 「でもそれは、ミストルテインにとってはいい事なの?」  シンプルにして重要な問題を見つけることが出来るわけだ。おれは首を横に振る。 「ミストルテインは、買収どころか業務提携も嫌がっていたみたいだな。今回のは株式の敵対的な買収……ぶっちゃけて言えば、『お前を買ってやるから俺のモノになれ』ってとこだ。TOBこそ発動してないものの、ミストルテインの役員連中を随分と抱き込むことに成功してるみたいだし、過半数を突破するのは時間の問題だろうな」  そう、会社とは『買う』ことが出来るのだ。それが株を買うということであり、一株を所有すると言うことは、その会社の何万分の一かを所有することに他ならない。 「相手は今昇り調子真っ最中のヨルムンガンド。カネの勝負では勝ち目があるまい。となれば残された手段は……」 「ヨルムンガンドの頭である水池氏を後ろからズドン、ってとこか?」  巨大企業ヨルムンガンドとて、実質はほとんど水池氏のワンマンチームだ。トップが倒れれば、針でつついた風船のようにしぼんでしまうだろう。 「考えられないでもないが。ミストルテインの社長は生粋のエンジニア畑の出身者と聞いている。そのような生臭い方法を考えつくものだろうか?」  腕を組んで考え込んでしまうおれ達。 「……いずれにせよ、今度奴が襲ってきたらどうするかだな。電気ショックなんて手が二度通じるとは思えんし」 「ボクも、関節も目も無いのが相手だとちょっと分が悪いかなぁ」  珍しく考え込む真凛。まあもともと武術というのは対人スキルなので、大蛇や水の精霊との戦闘を想定してはいないのだろう。この娘の興味対象は強い相手との戦闘であって、意志のない使い魔との戦いではないのだ。 「となると、俺の力で凍結させる必要があるが……」  周囲を見回す直樹。屋内で絶対零度を展開するのは色々と被害が大きすぎるのだ。ここらあたりが、必ずしも強力な能力者=有能なエージェントを意味しない要因である。 「肝心な時に役に立たない野郎だな」 「黙れ、お前が奴と戦えば、悠長に言葉を並べているうちに十回は殴殺されているだろうが。だいたいこの中で一番弱いお前が偉そうにするな」  あ。今の一言はいくら紳士なおれでもちょっとムカっときましたよ? 「ふふん、てめぇごときにゃ負けねえよ。なんなら試してみるか?」 「望むところだ。身の程知らずの大言壮語は高くつくぞ」  まるで不良高校生のように至近距離でガンを飛ばし合うおれ達と、それを見守る女子高生。だがこの女子高生は、おれ達なぞより余程ガン飛ばしも喧嘩も慣れっこなのであった。のほほんと問う。 「そう言えば、二人はフレイムアップに来る前に戦った事があったって聞いたけど」 「……誰からそんなこと聞いたんだ?」 「ん、浅葱所長。前に直樹さんとアンタがどこで知り合ったのか、って話になったときに。それくらい知っておいた方がいいって」  まったく、余計なお世話を。この時ばかりは直樹と二人して苦い顔になる。 「で、どっちが勝ったの?」 「そりゃあおれに決まってるだろ。コイツ弱ぇくせにやたらとしぶといから、全身コマギレにして夜の河からばら撒いて海に流してやったのさ。それでも再生しやがるんだから便利なモンだよ」  前髪をかきあげ、あさっての方向を向いてフッと嘲笑してみせるおれ。その姿をまるで汚いモノでも見下すような視線を向けてほざく直樹。 「ほほう。お前の脳味噌の記憶部分がゆるいとは常々思っていたが、とうとう事実を都合良く捏造するまでに衰退していたとはな。橋の上で全身氷漬けにされた挙げ句、どうしても死ぬわけにはいかないと俺に泣いてすがったのはどこのどいつだっただろうな?これなら当初の予定通り氷詰めにして冥王星まで放逐しておけばよかったか」 「ははっ、そんときゃてめえを対転移《マピロ・マハマ・ディロマト》で太陽核に放り込んでやってたぜ」 「なんか小学生の口喧嘩みたいだね」  おれ達の低レベルな争いを眺めて真凛がぼやいた。 「あ、お前おれの言うこと信じてないな?」 「だって。アンタがどうやって直樹さんを細切れに出来るんだよ」 「ハイ、すいません、おれには無理です」  昔は出来たんですけどね。直樹も冷静さを取り戻したのか、眼鏡をかけなおす。 「子細はともあれ、我々は今同一陣営にいる事は事実だからな。このような男と組むのは腹立たしいが、仕事とあれば必要な働きはする」 「今月も生活苦しいしなあ」 「互いにな」  ため息をつくおれ達。まったく、漫画や小説の中の魔法使いや吸血鬼が羨ましい。連中の住む古城だの大迷宮だのの光熱費や人件費はいったいどこから出ているのであろうか(そう言えばルーマニアの城に住んでいる別の吸血鬼は、いつまで経っても自宅がブロードバンドにならないとぼやいていた)。現実世界のおれ達はとりあえず自室の家賃と水道代となんとか通信費まで払うのが精一杯。食いつなぐためには因縁の宿敵とも手を組まなければいけない昨今であった。貧乏だ、みんな貧乏が悪いんだ。 「話が大脱線してるようだが、そもそもの議題はこれからどうするかということだろう」 「ああ、それならたぶん、今頃水池氏のところはそろそろ大変なことに……」  その時、視線を離さずにいた十階の窓、水池氏の部屋のあたりから妙な音がした。地上のおれ達に聞こえるとなれば、相当大きかった音に違いない。続いて夕日を反射して舞い落ちる輝きの破片。それはつまり、水池氏の部屋のガラスが割られたのだ。それも内側から。慌てて振り返ると、おれより感覚の鋭い二人はすでに表情を引き締めている。おれの携帯が鳴った。着信は門宮さんからだった。内容を確認するまでもない。 「やれやれ、読み通りなのはありがたいが、ちょっと早すぎるぜ!」  舌打ちする時間も惜しんで、おれ達はマンションの玄関に向かって駆け出した。         ●10      水池氏の部屋に飛び込もうとしたおれ達は、だが超高級マンションのオートロックの壁に阻まれることになった。玄関からロビーへ入る扉で苦戦するはめになり、これは真凛の握力で扉をこじ開けるしかないか、と考え始めたところで、ロックが外れた。そこで思い至って、まだ銭形警部のテーマを奏でている携帯の通話ボタンを押す。 『今ロックを外しました。そのまま部屋まで上がってきてください。敵がいるので注意して』  落ち着いた調子の門宮さんの声。とりあえずその指示に従い、管理人さんに不審の目で睨まれつつエレベーターで十階の水池氏の部屋へ向かう。しかしどうしてこうカネモチはみんな高いところに住みたがるのかねえ。ちなみにこのマンションは十二階建てで、港区にあってはそう高層建築というわけではない。問題は高さより広さだった。都内でもっとも地価が高いのに、いや、だからこそ、過剰なまでの敷地面積。五つの部屋と風呂、トイレ、ベランダ、ウォークインクローゼットもろもろを備えた一階が、まるまる一部屋となっている。つまりはこのマンションに居住できるのは十二世帯のみというばかばかしさだった。  そんな豪奢なマンションの中は、ずいぶんと無惨に荒れていた。つい昨日のヨルムンガンド社のオフィスとまったく同じ有様である。何があったのかは容易に想像がついた。寝室のドアを開ける。とそこには、ベッドの上に座り込んでいる水池氏と、その側に立ち周囲を見据えている門宮さんだった。彼女の指に挟まれた折り紙の形は、『かぶと』。同様のものがベッドを囲むように六つ、配されている。破邪を意味する『かぶと』により、見えざる防壁を張る結界陣である。その結界の向こう側に、昨日と同じ透明な水の蛇が居た。その数六匹。ただし大きさは”ふつうの”蛇の大きさでしかない。おれ達を認識すると同時に、奴らは一斉に躍りかかってきた。だが、同じ芸は二度も通じない。 「やっ!」  真凛が手刀を振り下ろし、宙で蛇をまさしく一刀両断にした。返す刀でもう一匹を。その横では直樹が蛇を捕まえ、そのまま踏みつぶしている。六匹全てを倒すのに三秒とかからなかった。破壊された蛇はたちまちもとの水に還り、職人手製のペルシャ絨毯を水浸しにする。ひとしきり事が済んだ後で、ようやくおれは部屋の中に入ることが出来た。その時にはおれの乏しい頭でも、だいたい状況は理解出来ている。 「こりゃ、あの『絞める蛇』の”子供”ですね」  カーペットに染みこんだ水に手を触れる。生憎とおれは”まっとうな”魔術師ではないので、魔力を探知したりは出来ないが、状況から予測は出来た。 「今日、何回襲われました?」 「……三回だ。顔を洗う時、水を飲もうと思ったとき、シャワーを浴びようと思った今、だ。蛇口をひねるたび、水が蛇になって襲ってくるんだ……」 「昨夜から泊まり込みで護衛をしていました。襲ってくるのは先ほどのような小蛇なので、私一人でも退けることが出来たのですが」  いささか憔悴した表情で門宮さんが言う。昨夜このオッサンが門宮さんと一つ屋根の下だったという事実に愕然とするおれだったが、当の水池氏にはそんなことを考える余裕はなさそうだった。 「とりあえず、お部屋の掃除をしませんか?」 「水を使うなっ!!」  部屋の惨状を見かねバスルームへと向かおうとする真凛に水池氏が叫ぶ。『脅迫に屈しない』はずの男の声は、悲鳴に転落する寸前だった。おれは無言で頭を振る。初日の襲撃でこの点に思い至らなかったのは迂闊だった。門宮さんに問う。 「噛まれてましたか?」 「ええ、肩を。血を採られてしまったのは間違いないようです」 「そうですか……となると、このままだと半永久的に水池氏は狙われることになりますね」 「おい、どういう意味だそれは!?」  おれは、四捨五入して敵の使う呪術と『絞める蛇《キガンジャ・ニョカ》』についての説明を行った。 「術者の血を混ぜることによって生み出された『絞める蛇』は、水のあるところに自在に潜み、移動することが出来ます。その体躯の大きさは術者の呪力で決まるのですが、あれほど大きなモノは、おれも聞いたことがありません」  一人前の術者でも、己の身長程度の蛇を操れる程度である。あれほどの大蛇を操るとなれば、その力はケタ外れていると言っていいだろう。  そして、まず術者は『絞める蛇』に、呪う対象となる相手を襲わせる。そして、ターゲットの”血”をすすることが出来れば、恐怖の呪殺のシステムが起動するのだ。『絞める蛇』は、飲み込んだターゲットの血を元に、新たな”子供”を生み出す。その子供は、記録されている血の情報に従い、”親”であるターゲットに襲いかかるのである。 「つまり、一度目の襲撃の時に、貴方の血の味はあの『絞める蛇』に覚えられてしまったと言うことです。あとの話は簡単です。奴は水がある限り大きくなり、また殖え続ける。どこかの水道に潜んで、子供を次々と生み続ければ、術者である『蛇《ニョカ》』は何もせずとも、貴方を脅する事が出来る」 「つまりこういう事か。もう相手は何もせずとも、勝手に使い魔が……」 「何度でも水池さんを攻撃し続けるってこと?」  真凛達のコメントにおれと門宮さんがうなずく。呪術の本領、ここに極まれり。そもそも呪いというものは、相手と己が顔を合わせないままに害を加えることに利点がある。この業界でも攻撃呪文を得意とする派手好きな魔術師崩れは多いが、わざわざ相手に接近して電撃やら火の玉をぶつけるのであれば、現在なら銃や爆弾、あるいはナイフを使った方が余程安上がりなのだ。相手から姿を隠して、だが確実にじわじわと追い詰める。防ぎにくいのも事実だが、何より着実に相手の精神を摩耗させる点が恐ろしい。 「そして、貴方がそれに恐怖すると、それが”血”を介してますます『絞める蛇』に力を与えることになるわけです」  呪術というのは、その気になれば誰でも出来るのだ。  もっとも初歩では、誰かに向かって「今日は良くないことが起こるよ」と言えばいい。不幸の手紙でもかまわない。それ自体になんら効果はないが、それを相手が気にして”何となくイヤな気分に”なれば、精神は集中を欠き、ほんの少しだけ良くないことが起こる確率が上がる。それが呪術なのだ。  実際、呪術とは、かけられた相手が”気にする”事で最大限に効果を発揮する。相手が恐怖すればするほど、精神は揺らぎ、より強力な呪いを仕掛けることが出来るようになるのである。特にランカーエージェント『蛇』の能力の恐るべき点は。 「失礼ですが、今日は水分を摂られましたか?」  力なく首を横に振る水池氏。 「朝、ペットボトルの水にも……いつの間にか穴を開けて入り込んでいたんだ。開けるとそこから蛇が出てくるんだ!」  そう、敵も小蛇ごときで門宮さんの守りを突破できるとは考えていないのだ。「怖くて水が飲めない」……水分を摂らずして活動できる人間は居ない。ましてそれが何時終わるとも知れないとなれば尚更だ。脅迫の手段としては誠に有効なのだった。 「犯人、というか、『蛇』の雇い主に心当たりはあるんですか?」 「あるわけないだろう!……だが、そうだな、ミストルテインの奴らならやりかねないか」 「では、犯人を捜す方が早いのでは」 「……それは問題ない。買収話が決着すれば、奴らの脅迫など意味が無くなる」  ふむ。そういう回答か。 「なるほどね。それで、門宮さん経由でおれ達を呼んだわけですか」  倒れていたソファを起こしてどかりと腰を下ろす。交渉は「まずは強気で攻めてみる」のが鉄則である。ふてぶてしさを装っておれは続けた。 「門宮さんに周囲を守らせているだけでは埒があかない。さりとて、彼女を護衛から外して敵を探させるわけにもいかない。いったいどうするおつもりで?」  いったん言葉を切って、相手の発言を促す。 「……お前達にも俺の護衛について欲しい。門宮君に聞いたが、お前達『フレイムアップ』は業界では有名な問題児なんだろう?」  むっとする真凛と、力強くうなずくおれと直樹。 「ならば話は簡単だ。俺がお前達を雇ってやる。報酬は直接に払ってやるから、この蛇どもから俺を守るんだ」  ……へぇ。護衛、ね。 「それはそれは」  おれは誠実さに欠ける返答をした。 「涎を垂らして喜びたいご提案なのですがね。しかしながら、只今の我々はあくまでも露木氏に依頼された者でして。そちらの門宮さんの御同僚に依頼された方がよろしいのではないかと」 「シグマのスタッフは、本土から高官が式典で訪問するのに合わせ、主要メンバーはほとんど出払っているのですよ」  門宮さんが教えてくれる。 「わかった、わかった」  水池氏は肩をすくめた。にわか仕込みのおれの動作とは違い、仕草がサマになっている。その時だけは、呪術に脅える被害者から、不敵なIT起業家の表情に戻っていた。 「報酬はこれでどうだ」  指を三本突き出す水池氏。 「三万?」 「三百万だ」  わーお。予期していなければ口に出して呟いた感嘆詞をおれは飲み込んだ。まったくカネってのはあるところにはあるもんである。 「異存はないな?では早速――」 「お断りします」  即答するおれ。 「……ほう、それは何故だ?」 「今少なくとも、おれ達はあなたを露木氏に引き合わせるという任務の最中です。依頼の二重取りは規定に反していましてね。魅力的な金額ではありますが、お受けすることは出来ませんね」  おうおう、我ながら良く言うよ。 「それがお前のプライド、とでも言うつもりか?……くだらん」  水池氏の表情は、怒り以上の何かを含んでいた。おれと水池氏の視線が真っ向で切り結ぶ。 「俺はな、お前のような奴が一番嫌いだ。自分にある力をくだらんルールで縛り付け、手に入れるべきものを手に入れようとしない偽善者だ」  それは果たしておれ達に向けられた台詞だったのか。だが少なくとも、次の台詞はそうだった。 「お前達の業界のこともそれなりに調べたよ。派遣社員だと?ふん。気味の悪いジョークだ。普通の人間が喉から手が出るほど欲しい能力を持っていながら、あえて一般人の振りをして規律なんぞに縛られるなよ」  その台詞には、反論しないわけにはいかなかった。 「――だから、ですよ。この規律からはみ出した時、本当におれ達は人間以外のものになってしまう」  それは、プライドではなかった。恐怖、だろう。  一般人。ともすれば陳腐極まりない言葉だが、そのカテゴリーに所属できることがどれほど安定をもたらすことだろう。”特別”には”孤独”が影のようについてまわる。子供は一度くらいは魔法使いになりたいと夢想する。しかし万に一人、その夢を叶えたものには、現代科学文明に背を向けて、己の抱えた命題と戦い続ける日々が待っている。英雄とは、時に誰かの代わりにその手を血に染め続ける者を指すのだ。それでもその道を突き進む者はおり、それは賞賛されるべきだ。だが、彼らが疲れたとき、元いた場所にたまには戻れる道を残しておくくらいは許されるのではないだろうか。 「いずれにせよ、おれ達の仕事はあなたを露木氏に引き合わせることです。である以上、貴方の身柄に危害が加えられるのを看過するわけにはいきません」  その言葉の意味するところは、すぐにあちらにも伝わったようだ。 「……つまり、結果として俺を護衛することになるということか?」 「そう解釈していただいて結構です」  自分でも馬鹿馬鹿しいロジックだとは思うんデスガネ。 「三百万をドブに捨てるか。大した高値のプライドだな」 「まあ、株価と同じで。割と乱高下しますがね」  時々二束三文で売り渡すこともありますし。短く深刻な睨み合いは、だがすぐに終わった。もとより、あちらにこの条件を断る理由はない。 「物好きなことだ。ならばロハでこき使わせてもらうとするぞ」 「それは、露木氏にお会いいただく事を承諾してくださったと捉えて良いのですか?」 「いいや。それは保留だ。お前達がその仕事についているなら、せいぜい俺に大きな恩を売って、心変わりさせてみせろ」  交渉の場に臨んだせいか、水池氏は脅迫される者から、戦う社長へと戻ることが出来たようである。ペットボトルの水を意を決したように一気に飲み干す。門宮さんに一声かけると、自分のオフィスへ向かうべく、地下駐車場へと向かっていった。     「かっこいいじゃん」  真凛が珍しく感心したようにおれを見上げた。隣の吸血鬼も無愛想ながら頷く。 「ふん、貴様にしては中々、骨のある事を言うな」 「あ、でも。直樹さんは来音さんと二人暮らしだから色々物入りなんじゃないですか?」  眼鏡の奥で柔和な笑みを浮かべる直樹。本当にコイツ、年上と年下で態度が豹変するな。 「確かに。盆休みに散財が続いた事もあるし、あの浪費魔がまた通販でろくでもないものを買い込んだしな。金があることに越したことはないのだが……」  いたって生真面目に、奴は言ったものだ。 「まっとうならざる金で購入したものに萌えることは出来ん。フィギュアに失礼だ」 「そうですね。じゃあ、ボク達もさっそく水池さんの護りにつきましょう……って陽司?」  真凛の声が妙に遠くで聞こえる。気がつけば、おれ自身の唇からなにやら呟きが漏れているようだった。 「……家賃三年分……いや引っ越し……新車フルオプション……卒業までの学費……」  三百万、かぁ。  あればどんな楽しいことが出来たんだろう。毎日帰り道に、スーパーでタイムサービスを血走った目で待ちわびたり、通り過ぎる自販機の釣り銭コーナーに思わず指をつっこんだりしなくても良くなっていたんだろうか?ファミレスで食後にパフェなんかつけてみたりしても許されたりして。もしかしたら、鍋一杯につくったカレーで、夏場傷まないように一週間やりくりしなくても良くなっていたのかな?あれ、なんか頬が熱い。へへっ、なんだかあたりがにじんでよく見えないや。 「……あんたの生き様、確かにこの目に刻みつけたよ、陽司」 「お前はよく頑張った。後で俺のとっておきのコバルト文庫を貸してやる。だから今は泣くな」 「……ぅぅ……ぇぐっ……ありがとう。みんなありがとうっ……」  涙がこぼれないよう、上を向いて歯を食いしばるおれを、二人が肩を叩いて慰めてくれた。        『蛇』が、自身が宿泊している港区の超高級ホテルの一室に戻ってきたのは夜も八時を回ってからの事だった。涼しい気候を除けば、それなりに楽しい一日だった。キョウスケ・ミズチにプレッシャーを与えるのは、『絞める蛇』に任せておけば問題はない。今日は日本を訪れた観光客として、悠々と名所巡りや日本料理を堪能していたのだった。ニホンバシでカブキを鑑賞して、ツキジのスシを平らげた『蛇』は上機嫌で部屋に戻り、大型ノートPCをライティングテーブルで開き、メールチェックを始める。このPCはそのままねぐらに戻った時、メインPCになるのだ。  フリーで仕事をするエージェントは、依頼の選定、報酬の交渉も自分で行う。幾つかのメールをチェックし、断りや条件提示等を返信していく。やがて『蛇』の目が、一つのメールに止まった。それは、今取りかかっているヨルムンガンド社の件の依頼主だった。先日、『シグマ』、そして『フレイムアップ』なる組織に所属するエージェントを撃退し、トウキョウ・タワーから愚かな標的にきつい警告を与えた夜、途中経過をレポートにまとめて送ってあったのだ。  これからの仕事はそれほど難しいものではない。キョウスケ・ミズチが屈服するまで呪いを展開し続ければ良いだけだ。恐怖に屈しない男も、乾きには容易に屈する。三日も持てば上出来というところだろう。それだけに、その依頼人から折り返しのメールが来ていたことは『蛇』にとって意外だった。メールを開き、内容を追っていく。  ……やがて『蛇』の口から、驚きを意味する口笛がこぼれた。         ●11      それから二日が過ぎた。   「いや、そろそろマジに疲れてきたぜ」  急ごしらえの片付けを終えた水池氏の部屋は、なんとか人間が落ち着いて過ごせるくらいまで持ち直していた。学校など、それぞれのスケジュールに合わせつつ、交代で六本木のオフィスで門宮さんと一緒に泊まり込みで水池氏を護衛すること二日。その間の水の蛇の襲撃は実に八回に及んだ。排水溝から、水道から、はたまたスプリンクラーから。撃退してここは安全と思えば、また次のところから襲ってくる。現代文明において、いかに水というものが生活に浸透し、また不可欠であるかを思い知らされることになった。 「と言っても貴様自身はろくに戦闘に参加していないではないか」 「うっせー、おれは体力は人並みなの。てめぇと一緒にすんな」 「そうだな。そのうえ魅力は人並み以下だしな。可哀想な事を言って悪かった」 「……てめぇ」  ソファーに座って交わす会話にも今ひとつキレがない。真凛は先に離脱している。お疲れ気味のおれ達に、門宮さんがトレイに乗っけて差し入れを持ってきてくれた。キンキンに冷えた缶コーラ。普通の水やお茶では『水の蛇』が混入するかも知れない、というおれ達なりの用心だったのだが。 「またコーラですか。おれ炭酸嫌いになりそう」 「紅茶が飲みたいところだな」  コーラだけの生活、等というものに憧れるのは小学生とメタボリック患者のみである。季節は既に秋。夜は結構冷え込むのだ。ああ、暖かい日本茶が飲みたいなあ。 「そうですか?お腹もふくれるし、結構重宝しますよ」  ごっきゅごっきゅとコーラを飲み干す門宮さん。その仕草を見てると、間違いなく彼女は半分アメリカ人なんだなあ、と納得せざるを得ない。門宮ジェインの名が示すとおり、彼女の血の半分はアメリカ人なのだとか。代々の陰陽師の家系がどうして海外に出て行くことになったのか。実は仕事中にさりげなく探りを入れてみたのだが、あのステキな笑みでかわされてしまった。三人がコーラに口をつけると、はかったわけではないのだが会話が止み、エアポケットに落ちたような沈黙が降りる。さてさて、どうしたものか。 『ちゃらりらり〜ん ちゃらっちゃらっちゃらっちゃっちゃっちゃっ!』  そんな考えをあっさり無効化する、ルパン三世(新シリーズ)のあの軽快な音楽。おれはジーンズからアル話ルド君を引っ張り出すと、届いていた事務所からのメールをチェックした。 「……んむ」  データを確認し、おれは携帯をしまい込む。時刻は日付が変わろうとしている。そろそろ動きがあってしかるべきだった。      水池氏は本日初めて、上機嫌になっているようだった。 「ミストルテインの連中が屈服した。これで過半数だ」  当然、専門的な話をおれ達にするはずはない。だが、どうやら例の買収話の決着がついたのは間違いないようだった。大仕事が片付いた達成感からだろう、アルコールの力を借りずとも、水池氏は随分とハイになっている。 「お前もどうだ。大学二年ならそろそろ就職活動を考えなければいかん時期だろう」  おれの肩を叩いて気さくに述べてくださった。 「ウチの会社にくるか?異能力だったか。あれだけでも充分価値はあるし、お前ならそれ無しでも中々仕込みがいが――」 「もうすぐ潰れるような会社は遠慮しておきますよ」  おれのコメントはどう取り繕ってもマイナスの温度であり、浮かれはしゃぐ実業家への冷や水以外の何物でもなかった。 「……何だと?」 「ウチのスタッフからね。御社の詳細なレポートがあがってきたんですよ」  知りたくもなかったのだが。実際のところ、ここまで酷いとは思っていなかった。『アル話ルド君』に先ほど転送されてきたデータは、我が事務所が誇るブレーン、石動、笠桐両氏の芸術的なコンビネーションの賜物だった。来音さんが過去のヨルムンガンドの業績を調べ上げ、個々のプロジェクトで使用されたであろうファイルを推測。それを羽美さんがサーバーに侵入して拾い集めるという作業により、ヨルムンガンド社の『丸呑み』の実態をほとんど完璧にさらけ出していた。 「ヨルムンガンド社を冷静に一つの会社と見れば、はっきり言って赤字続きです。とはいえそれはベンチャー企業には良くあること。言うならば、成長期の子供がたらふくメシを食べても、全部身体を作るために使われてしまっていつも腹をすかせてるようなものであり、健康さの証明でもあります」  決算のデータなどは、書店やネットで四季報を見ればすぐに調べられる。しかし、誰もが『今は成長期。いずれ安定したら利益が出るから』と思い、株を買い続けているのである。 「でもね。ここ数期の決算データは明らかに異常です。利益の殆どが合意もしくは敵対的買収……『丸呑み』に費やされてます。御社らしい、極めて積極的な拡大路線と取れなくもありませんが、このデータをつき合わせてみると、もう少し説得力のある仮説が浮かび上がってきます」  おれは一気にここまでしゃべり倒して、水、はなかったのでコーラを口に含んだ。 「御社の『丸呑み』、そして数々の強力な活動を支える豊富な資金。全ては『高い株価』という裏付けあってのものです。でもね。株価、ってのは本来上がったら下がるもの。上がり続ける株価なんて本来ないはずなんです」  ちなみにこんなにペラペラ流暢にしゃべっているが、全ては送られたファイルに添付されていた来音さんと羽美さんの共著レポートを脳裏に焼き付けて読み上げているだけだったりする。 「そこで調べてみると、株価が上昇期を過ぎて下降期に入ろうとすると、はかったようにヨルムンガンドが他社買収の発表を打ち上げている。そうすると、投資家達はそろって『またヨルムンガンドの株が上がるぞ』と買いに走り、結果として株価がまた上がる。最初の頃はもちろん、買収話があって、株価があがっていたのでしょう。……でも。それが、いつしか株価を維持するために買収話を打ち上げるようになった」  高い株価に裏打ちされた強気の経営。それはすなわち、株価が下がれば一巻の終わりということだ。そして、気がつけば、ヨルムンガンドは『高い株価』を前提にして全ての戦略を立てるようになっていたのだ。すなわち、それが意味することは。 「まあ、おれの経済知識なんて聞きかじりですし、そもそもこんな話を貴方にしたって釈迦に説法でしょう。ややこしい話は抜きにして、簡単に要約すればこういう事です。ヨルムンガンド社は、『他社を丸呑みして大きくなっている』んじゃない。『他社を丸呑みし続けないと死んでしまう』んだ」  門宮さんは数歩退いて、直樹は黙々と、おれ達を見守っている。 「それはこういう事か?ウチが自社の株価をつり上げるための工作として買収を行っている、と」 「推測にしか過ぎませんが。結局『丸呑み』した会社との相乗効果はほとんど現れていませんしね。それと。前期の決算書、ウチのスタッフによると粉飾の痕跡が――」 「口の利き方に気をつけろよ小僧」  もう部屋の中にはうかれムードなどどこにもなく、季節は既に冬に入ったかと錯覚しそうだった。 「だいたいお前ごときに俺の会社のことをどうこう論評される謂われはない。お前の役目は俺の護衛だ。余計な事まで出しゃばるな」 「……失礼しました。おれが言いたいのは、ウチのスタッフが疑問に思う程度の事、経済と投資のプロ中のプロである貴方の会社の役員が気づかないはずはない、ってことです」 「会社の役員だと?」  直樹の言葉に頷く。 「先日、貴方がおれ達を雇ったとき、あなたはこう言いましたよね。『俺を守れ』と。『犯人を見つけろ』じゃなかった。となれば貴方は当然、自分が何故脅迫されているか知っていたわけです。そして脅迫者の名前をおれ達に言わなかったのは、知られてはまずいからだ」  社会人未満の学生とて、その程度の知恵は回る。 「このレポートを作成していくうちに、だいたいの話の構成は見えてきました。貴方を脅迫していたのは、ミストルテインなんかじゃない。貴方の会社の役員、不動産王サイモン・ブラックストンその人だ。……違いますか?」  水池氏は応えない。 「そう考えれば辻褄が合います。おれ達がこの依頼に携わる前から、貴方は門宮さん達を警護につけていた。シグマのエース部隊を。それは、イズモのスタッフを追い払うためなんかじゃない。脅迫の相手が、少なくともこの業界の人間を送り込んでくるだろうと予想がついていたからだ」  直樹が口を挟む。 「しかし、なぜサイモン氏が弟子を狙うと?」 「さあな。でもまあ、毎期の貸借対照表と損益計算書を見ればなんとなく想像はつく。ここ数期、ヨルムンガンド社に流れ込んでいる利益に相当額、不審なものがある。……どう考えても百万円の仕事に、五百万円の報酬が払い込まれてる、なんて取引が散見されます。伝票もきちっとそろっていますがね。これ、利益に偽装した、サイモン氏からの借入金でしょう?」 「なぜそんな回りくどいことをするのだ。仮にも役員なのだから、正式に融資すれば良いだろう」 「普通なら、な。だが、経営が苦しくなってお金を借りました、なんて事になるとな。下がるんだよ、株価が」 「……そう言うことか」 「サイモン氏との約束はこんなところですかね。今回は助けてやるから、次回の利益で返せよ、と。しかし、それにヨルムンガンドは応えられなかった。それが何度か続くうち、やがて業を煮やしたサイモン氏は、ごっつい取り立て屋さんを送り込んできた、ってとこかなと」  青二才の長広舌に、水池氏は反論しなかった。部屋の空気が重い。腰掛けたソファーにそのまま沈み込んでしまうかと思えた。 「……それがどうした。たしかに返済期限はとうに過ぎている。だがな、今回の買収話が決着すればウチの株価は今まで以上にはねあがる。俺の持ち分だけで返済出来てお釣りが来るんだよ。あとは株価が下がろうと、いくらでも対応が出来る」  だからこそ、この買収話だけは、絶対にコケるわけにはいかなかった、という事か。 「しかし。おれだって感づいたんだ。いずれこんなカラクリは長続きしませんよ」 「かまうものか。売り抜け出来れば、後はどうとでもなる。ヨルムンガンドが所有する株式にもまだ余裕がある。一部売却し、その余剰利益で経営を仕切り直すシナリオはもう出来ている」 「それは、投資家に、下がるとわかっているヨルムンガンドの株を売りつけると言うことですか?」  答えはない。 「しかし、それでは貴方に投資してくれている株主達はどうなるんです?理由はどうあれ、結論から言えば貴方は、貴方とヨルムンガンドを信じて金を出してくれた人たちを裏切ることで生き延びようとしているんじゃないですか」 「それがどうした!?奴らは見る目がないだけだ。史上最高の株価、なんていい看板だよな!投資家気取りの素人は結局、理論を並べた挙げ句そういう看板に乗るんだよ!自己責任だ、ろくに話を聞かずに金を出した方が悪い!」  ……そう。そういうことだ。だからこそおれは、この言葉を言わなければならない。誇大な広告で他人から金を巻き上げ、やがて全てが露見する前に利益を得て勝ち逃げする。そのやりかたは、まさに。     「それでは、貴方もトミタ商事の連中と同じです」     「な……に……?」  その言葉は無形の爆弾であり、この部屋ごと水池氏の精神を吹き飛ばしてしまったかのように思えた。 「……は、ふざけるな、あんなゲスの詐欺師どもと一緒にするな、俺は」  いつもの不敵なドラゴン水池の笑い。だがそれは、意識的に作り出した表情だった。 「俺は――」 「……正直に申し上げれば。今までおれが申し上げていた株価だのサイモン氏だのの仮説は、おれが考えたわけではありません。おれが伝えた情報を元に、ある人が推測したものです」  あの程度の情報でここまで会社の内情が推測できるのなら、おれは一生株で喰っていけるかも知れない。だが残念ながら、予想を立てたのは別人。来音さんと羽美さんが傍証を固め、おれはただのスピーカーだった。 「……誰だ。誰がそれを見抜いた?」  東京タワーの襲撃の後、その人の助力を仰ぐためにおれはしばらく現場を離れていたのだ。 「露木甚一郎。貴方のお父上ですよ」  おれの答えに、衝撃を受ける水池氏。だがその表情は、”やはり”であっても”まさか”ではなかった。 「親父、が……」  それっきり、誰も何もしゃべらなくなった。  沈黙が何秒続いたのか、あるいは何分だったのか。分厚い氷のようなそれは、突如けたたましく鳴り響いた卓上の電話の音に砕かれた。         ●12      おれ、直樹、門宮さん、水池氏。四対の視線が集中する中、不気味に電話は鳴り続ける。 「脅迫の電話かも知れません。スピーカーボタンを」  この手の状況には慣れているのだろう、門宮さんが落ち着いたトーンで声をかける。受話器を取った水池氏はその指示に従った。部屋の中に、向こう側の声が響く。 「もしもし」 『やあ恭介。元気だったかい?』  だが聞こえてきたのは、歯切れの良い日本語だった。『蛇』ではないのだろうか? 「……サイモンか」  おれ達は思わず互いの顔を見合わせた。 「サイモンとは、まさか、」 「しっ」  門宮さんに目配せするおれ。こちらに声が聞こえていることを知られたくはない。 『恭介。例の件だがね』 「ああ、わかってる。わかってるよ、金は……」 『だから。もうそれはいいんだ』  耳を疑うような台詞だった。それが脅迫者を雇ってまで借金を催促する人間の言う言葉だろうか。水池氏は、借金をチャラにしてくれると言われて、かえってまずい方向に考えたらしい。慌てて言葉を続ける。 「当てが出来た、ちゃんと返す、だからもう」 『当て?』  脅しはやめてくれ、と続けようとした言葉は、だが口にすることは出来なかった。     「ああ。あのつぶれる合併話の事かね?』     「つぶれる?何を言って――」  ――何だ、このイヤな声。  口調の裏ににじみ出ている優越感。  まるで、誰もが知らない真理を自分だけが知っているかのようなこの口ぶり。 『おやおや。情報の最先端を行く男にしては随分と鈍いな。三時間前だったかな。ウェブに君のところの議事録がなぜか流出したみたいでね。個人投資家の掲示板はちょっとした火事場騒ぎだよ。もう機関投資家にも飛び火したんじゃないかな。少なくとも今朝のウォール街は日本売り一色だね』  その台詞が水池氏の脳裏に弾け、反射的にこっちを振り返った。おれは愕然として首を横に振る。リークしたのはおれじゃない。頭の中で検算する。そうなると、計算の行き着くところはここしかなかった。 「まさか……サイモン。あんた、か?」  沈黙。それは断じて、否定を含むものではなかった。 「何を考えているんだ!?確かに金を返せなかったのは悪かった。だが現にもう一歩で返す当てがつくんだぞ!?何故こんな事を、」 『すまないな、恭介。バランスだよ』 「バラン……ス?」 『君に言わないのはアンフェアだからな。先日上海《シャンハイ》で星竜銀行《シンロンインハン》の格付けが大幅に見直されただろう?あれで星竜銀行はつぶれることになるわけだが、ここで問題が起こった』  電話口の相手は、確かにこう言った。星竜銀行がつぶれることになると。それは……。 「あんまり中国がここで派手にこけると困る、という苦情がロシアの方から来てね。日本も少し景気を押さえてもらおうと思ったわけだ。とはいえ先日、メガバンクのヤヅミが派手に失態を晒したこともあるし。銀行に手をつけるのは控えたい」 『それで……俺、だとでも言うのか?』 「good。飲み込みが早くて助かるね。今にも割れそうなバブルの王座に座る、注目度ナンバー1のカリスマ。日本経済を無駄に傷つけることなく、日本人の投資熱を冷まして景気を押さえるには、君ほど適任の羊《スケープゴート》は居ないよ。何しろ引き金として、説得力ある資料を揃えてこう言うだけでいい。『本当にその株価、実態と釣り合っているのか?』ってね。ま、君には期日までに借金を返せてもらえなかったし。別の形で役に立ってもらおうと思ってね。だからもう、借金は返してくれなくていいんだ」  つまり。水池氏は借金の代わりに、会社を潰されたのだ。 「ま、待て!ならば俺を狙っている『蛇』とやらはどうなるんだ」 『そう、それなんだけどね』  電話の向こうの男。サイモン・ブラックストンと名乗る男は、実にはきはきとした口調で続ける。まるでマナーだけは完璧な営業マンのような、心のこもらない一見優しげな口調。 『ついでに命令しておいたよ。君をもう消してかまわない、と』 「……っ、おい!」  スピーカーから、無機質な音が断続的に鳴り響く。そして、それとは別の、徐々に近づいてくるような海鳴りめいた轟き。 「馬鹿な、なんで俺を、消すなんて……そんな」  この場にいた残り全員が、ほぼ同時に叫んだ。 「「来るぞ!!」」  そして、それは来た。キッチンの蛇口が。風呂の給湯器が。洗面所の配水管が。天井のスプリンクラーが。ありとあらゆる上下水道の管がいっぺんに吹き飛び、そこから大量の水が、いいや、水で出来た何か別のモノが、一斉に部屋に侵入を開始したのだ。おれが水池氏を玄関へ向けて突き飛ばし、そのままおれも続く。だが、それ以上の行動は許されなかった。 「『絞める蛇《キガンジャ・ニョカ》』!!」  分厚い図体をくねらせて襲ってきたのは、紛れもなく先日六本木でおれ達を襲ったあの水の蛇だった。その周囲には、数えるのもうんざりするほどの膨大な小さな水の蛇。回りくどい攻撃を止め、一気に殲滅戦をしかけてきたことは明白だった。豪奢な六本木のマンションは、気がつけば児童向けの市民プールよりも乱雑な、水の踊り場と化していた。 「避けろ!」  直樹の声が飛ぶ。『絞める蛇』がその尻尾をもたげ、思わず流体力学でシミュレーションしてみたくなるような、重い重い水の鞭を周囲に叩きつける。哀れ、せっかく片付けた水池氏の部屋は、たちまち暴力吹き荒れるカオスと化した。  ちょうど部屋の真ん中から左右に分断されてしまった態のおれ達。玄関へと水池氏を引っ張っていくおれの視界の向こうに、無数の小蛇を叩きつぶしている直樹と門宮さんの姿があった。 「そっちは任せた!」  おれの極めてアバウトな依頼に、直樹は背を向けたまま、さっさと行け、とばかりにヒラヒラと手を振った。走り出そうとするおれ達に、襲いかかる一匹の小蛇。噛みつこうと剥いた牙は、だが、槍の穂先のようにすっ飛んできた『紙飛行機』に正面から粉砕された。 「水池さんを頼みます!」  門宮さんに目線で応えて一気にエレベーターまで走り、地下へと向かう。幸いにもエレベーターの中では襲われなかった。だが、天板の向こうから確かに感じる重い質量の気配。連中が確実にこちらに迫っている事は、賭けたっていい。今の状況に甚だそぐわない柔らかな電子音を立ててエレベーターが開き、おれと水池氏は一目散に走る。 「こっちこっち!」  水池氏の所有するはずのBMW。その後部座席から身を乗り出した真凛がぶんぶんと手を振っている。帰らせる振りをしてここで待機させていたのだ。明日は土曜日と言うこともあってか、お子様は深夜の仕事に大ハリキリだ。鍵は護衛中に水池氏に借りたのをそのままうっかり返し忘れていた(ということにしてある)。エンジンはすでに暖まっている。真凛が手早く後部座席のドアを開き、おれが水池氏を放り込む。芸術的な連係プレーで水池氏が座席に収まりドアが閉まった時には、おれは運転席に乗り込んでいた。やったね左ハンドルですよ先生。同時に破裂する駐車場壁際の水道管。おいでなすったか。 「お客さん、どちらまで?」 「まっすぐ!!」  真凛の指示におれは従う。免許を取ってはや四ヶ月、S字クランクや縦列駐車などもう怖くて出来ないが、急発進と急停止なら慣れっこである。あと車でジャンプとか、二輪の上でどつき合いとか。ハンドルを全力でぶんまわしつつアクセルを文字通り踏み込むと、独逸製の鋼の猛獣は、脳髄と下っ腹を蕩けさせるような重低音の唸り声を上げて敢然と覚醒した。哀れなコンクリートを甲高い音で剣のように斬りつけつつ、地下駐車場の出口に向かって猛然と躍り出る。 「陽司!!出口に!」  わかってる。出口にはすでに、透明な、ぶっとい蛇の胴体がすでに待ちかまえていた。どうするか?そんなの決まってマス。 「やっぱさあ」  狭い東京で外車を乗り回してるお歴々に、おれは前々から言いたかったのだ。 「ドイツ車は制限速度無し《アウトバーン》でぶっ飛ばさなきゃウソだよなぁっ!!」  親のカタキでも蹴り殺さんばかりの勢いでアクセルペダルを踏み抜く。馬鹿みたいなGが身体をシートにべったりと密着させる。鋼鉄の猛獣は実にあっさりと百キロオーバーまで加速し、算出するのも恐ろしい質量×速度で、哀れな水の蛇を容赦なく轢いた。重く柔らかいものを跳ねとばした衝撃がボンネット越しに伝わる。こればかりはさすがに気持ちのいいものではない。吹き飛び遙か後方へと長い胴体を転げ落としてゆく『絞める蛇』には目もくれず、BMWは一目散に地上へと躍り出る。そのまま信号をいくつか見なかったことにして、脱兎のごとく首都高の飯倉入口へと向かう。正直、道路に人がいなくて良かった。避けられる自信などまったくなかったもので。深夜でなかったら確実にお巡りさんのお世話になっているところである。  ETCを使って飯倉から首都高に入り込み、オービスに捕まる前にようやくおれは速度を落とした。そういえばシートベルトも締めていなかった。 「どこへ行くんだ?」  激変する状況の中からようやく精神を復帰させた水池氏が問う。本来ならおれのような若輩にこうまで一方的に主導権を握らせることはないのだろうが、生憎と今彼がいる世界は『こちら側』なので、諦めてもらうしかない。 「お父上のところです。オフィスもご自宅ももう戻れないでしょう」  その方針はつい数日前なら絶対に飲まなかっただろう。だが今や自宅にも職場にも行く先を無くした水池氏は力なく呟いた。 「……だが妙だ、それなら反対方向だろう」  そう、水池氏が中学時代まで育った露木の実家は、おれが今向かっている東方面とは正反対の方向にある。バックミラーから真凛がおれの顔を覗き込んだ。ミラーの中に移る、誰とも知れない小生意気そうな十九歳のガキ。こういう時にそれらしい表情を作れないあたりが、まだ青二才の証なんだろう。まったく、自分の顔のことなんぞ良くわからない。 「そもそも、調査のプロたる弁護士だったお父上が、わざわざ外部に貴方の捜索を依頼したこと自体、妙だと思いませんでしたか?」  情報があれば、ヨルムンガンドの粉飾決算すら見抜いた人なのだ。……そう、情報さえ手にはいるのなら。  無感情を装っておれは述べた。 「病院ですよ。お父上は末期の肺癌でしてね。余命は幾ばくもないんだそうです」         ●13      トミタ商事事件。  かつて、戦後最大と言われた詐欺事件である。  その被害者救済に東奔西走し、弁護士の亀鑑《かがみ》として称えられる事になったのが露木甚一郎氏。しかしその名声の影には、家族の犠牲があった。有形無形の圧力が彼自身とそして家族に向けられ、やがて疲れた夫人は、事故を起こして鬼籍に入る。事件が解決した後も、一人息子である恭一郎は、決して父を許すことはなかった。父の業績が世間に認められても、いや、認められるほどに、それが誰の犠牲によって成り立っているのかと思うようになったのかも知れない。  縁を切ってアメリカに渡り、父の業績を否定するようにカネを儲けることを目指した息子。一方の父は、その後も弁護士として業績を残したが、やがて年齢を理由に引退する。方々から名誉職や企業の顧問の地位を提示されたが、応じることはなかったという。トミタ事件について本をを著してみないか、との誘いも断った。その時点では誰にも告げていなかったが、癌に冒されていたこともあったし、自分は弁護士であり、それ以外のものではないと思うところもあったようだ。    伝説の弁護士の晩年は、その業績に比してとても寂しいものだったらしい。家族はなく、引退と同時に後進の弁護士達との交流も断ったと聞く。数少ない友人達とは手紙を交わしていたが、直接顔を合わせることはなく、誰も彼が癌に冒されていた事を知らなかったようだ。世捨て人とも思える彼の行動が、どういった心境に基づくものなのかは、おれ程度ではまだ窺い知ることは出来ない。病院にもろくに行かず、担ぎ込まれて入院した時にはもう転移が進んで手遅れだった。以後、それなりに闘病生活は送っていたが、一縷の生還の望みに向けて努力するということもなく、淡々と日々を過ごしていた、とは病院の医師の語るところだ。イズモ・エージェントサービスに息子恭一郎の捜索を依頼したときには、もうベッドから起き上がることも出来なくなっていた。    ――自分はプライドに縛られた弱い人間なのだ。    先日おれが伺ったとき、甚一郎氏はそう語っていた。    歩けるうちは息子を探そうともせず、歩けなくなってから会いたいと思う。  私は弁護士の亀鑑などではない。トミタの時もそうだった。私があの仕事を引き受けたのは、勇気からではない。恐怖からだった。目の前にいる被害者を置き去りにして逃げたかった。だが自分が”正義”でなくなるのが怖かったから、引き受けざるを得なかったのだ、と。  そして今また、家族と会う資格など捨ててしまいながら、息子の現在の姿を知らないまま逝くことを恐れ、最期の最期で会いたいと思ってしまったのだ、と。    イズモ・エージェントサービスへの当初の依頼は、今息子がどうしているのか知りたい、というものだった。無事でいることがわかればそれでいい、会うつもりはない。調査結果を受け取るまではそう思っていた。  だが、息子がヨルムンガンドの社長であると知り、その商売の内容を聞いて、一度だけ会わなければならない、会って言葉をかけねばならないと思ったのだそうだ。  ……それが、今回の依頼のそもそもの発端である。       「深夜の病院てのはあまり気分のいいものじゃないな」  東京にほど近い千葉西部の病院の三階、入院患者達の部屋がある棟におれ達はいた。露木氏の病室の扉の前に置かれたベンチに腰掛け、入り口を護っている。今、この扉の奥には露木氏と、そして水池氏が居る。十数年ぶりに対面した親子二人が、会話を交わしているのだろう。 「これが人捜しの番組なら、一番視聴率的に盛り上がるところなんだがな」 「水池さん、お父さんと仲直りできるのかな……」 「さあな」  病室の中で、どんな会話が行われているのか、おれは知らない。知る必要もないことだった。十数年生き別れていた親子の仲を取り持つほどおれは図々しくはないし、義憤に駆られるほど熱血漢でもない。おれ達はあくまで傭兵――水池氏をここに連れてくることを請け負った、ただの派遣社員なのだから。 「しまった!」  おれはろくでもないことを思い出して舌打ちした。 「どうしたの?」 「大学のレポート出すの、明日の朝イチまでだったんだよ」  ザックからレポート用紙を取り出して、慌てて筆を走らせる。 「そんなの後にすればいいじゃない」 「馬鹿者、これにはおれの輝かしい卒業への道がかかっているのだぞ」  というか、留年したら学費が足りなくなるのだ。いやホント、こんなバイトをやっていると、世間のオトナが一年にいくら稼いでいるのかがだいたいわかるようになってくる。すると、私立大学の学費ってのがいかに親にとって大きい負担かというのはイメージ出来るようになってくるのだ。まして地方から上京させて、家賃に仕送りまでつけてやるとなれば負担倍増しだ。花の大学生活、授業に行かずに気楽に遊び回るのも大いに結構だが。出してもらった学費分の何かを身につけないと親に申し訳ないよ、とバイト代と奨学金でまかなっている男は言ってみる。 「……もしかしてアンタ、意外と真面目な学生だったりする?」 「……オマエサンはおれを何だと思っていたのカネ?」  ”サボって遊ぶ”と”効率よく勉強して残りはダラダラ遊ぶ”は違うのである。まあ、出る価値がないと判断した授業は代返してもらったりするし、最近は、このバイトのせいで平日の授業を落とすこともしばしばだが。 「お前もバイトで腕を磨くのはいい。だけど授業サボって親に迷惑はかけんなよ」  いなくなって初めてわかるありがたみ、てな言葉もあったな。 「う……はい」  なんだか三年ぶりくらいに真面目なことを言った気がする。深夜の病院では軽口を飛ばす気にもなれず、おれは話題を転じた。 「どうだ、真凛。周囲は」 「殺気、って言えばいいのかな。生き物じゃないのに、こっちを狙っている気配が、数えるのも嫌になるほどあるよ。ぐるっとこの病棟を二重三重に取り巻いているね」  そうか、と呟いた。BMWでだいぶ引き離してやったが、『絞める蛇《キガンジャ・ニョカ》』ご一行様はもうしっかりこちらに追いついてきているらしい。直樹達には連絡を既に入れてある。どうやら仕事は終わりに近づいているようだ。  その時、静かに病室の扉が開いた。  中から歩み出てきたのは水池氏だった。おれ達は軽く会釈をして、尻をずらしてベンチに席を空けた。腰を下ろし、タバコ……タビドフ・マグナムに火をつける水池氏。     「――礼を言わなきゃならん、な」  そう口を開いた。半分が灰になるほど深々と煙を吸い込み、一気に吐ききる。彼はおれの顔を見ると、どうだ、とタバコを差し出した。 「たまには頂きます」  おれはタバコを受け取る。水池さんが手ずから点火してくれた。きつい匂いだが、一口吸うと、最高級のタバコだけが持つ、甘くて濃厚で深い香りがおれの鼻腔に充満する。 「……驚きました」 「美味いだろう?」  若者で、タバコを美味いと思って吸っている奴が何人いることか。九割がカッコつけで吸い始めて、いつのまにかやめられなくなる類のものだ。おれも美味いと思ったことは一度もない。だが、これは別格だった。 「親父がよく書斎で吸っていてな。こいつが吸えるようになったら大人だとそう思ってた」  吸えるようにはなったんだがな、と水池さんは言う。 「……親父のようになりたかったのか。親父のようにはならないと思っていたのか。走って走って走り抜いて。たどり着いたところが、お袋を殺した連中と同じ穴、とはな」  おまけに会社まで失って、と自嘲する。 「――クソ親父め。後悔していたなら後悔していたと最初に言えばいいものを」  今更そんなこと言われてもなあ、とぼやいた。もう粉飾決算の情報はネットを伝って日本中に流れている。明日市場が開けば、ヨルムンガンドの株は一気に暴落するだろう。株主達がどれほどの損害を被るか、想像もつかない。 「結局、俺がやってきた事はただの詐欺なのか」 「そうじゃないと思いますけどね」  言葉を続ける。 「おれだって貴方に投資してます。まあ、五万円ですけど。必死に小遣いから捻りだした金、どこに投資しようか、そりゃあ無い知恵絞って考えましたよ。投資家気取りの素人ですがね。それでもおれ達は、貴方を選んで金を投じたんです。少なくともそれだけのものは、貴方にはあったってことなんじゃないですか」 「だが、株価の暴落による損失はもう避けられん。彼らに何と言えばいい」  つい先日、物事はシンプルに捉えた方が良いと言ったのは誰だっけか。 「また株価を上げればいいんじゃないですか」 「……簡単に言ってくれるな」 「簡単じゃないことはわかってますけど。だからこそ、貴方にしか出来ない仕事ってことだと思います」 「やっぱりお前、どんだけ大変か理解してないだろ」  苦笑する水池さん。 「立て直し、か」  そして五秒くらい、天井を見た。 「厳しいものだな」  と、不意に視線がこちらを向く。 「……そうそう、お前、卒業したら俺の会社に来るか?」 「もし卒業まで無事に生き延びて、その時まだ御社があったら考えます」 「忘れるなよ」  久しぶりに、あの不敵なドラゴン水池の笑いが復活した。  タビドフ・マグナムの香りが、ゆっくりと夜の病院の廊下に伝ってゆく。吸い終えて灰皿に押しつけると同時に、水池氏はぼそりと呟いた。 「これからまた、忙しくなるな」  その言葉を発するまでに、どれだけのモノを背負う覚悟を決めたのか。余人にはうかがい知れなかった。おれも習って灰皿に吸い殻を押しつける。 「陽司、その。……気配が」  横から真凛が申し訳なさそうに口を挟む。その言わんとするところは明白だった。お父上の件が終わったからと言って、『蛇《ニョカ》』の攻撃が止むわけでは無論ない。 「わかってる」 「亘理君」  水池さんはおれに向き直った。 「もう一度、仕事の依頼をさせてくれないか」  力強い言葉である。築き上げられた押しの強い態度の底に流れるこの真摯な姿勢こそ、水池恭介という男の本当の基盤なのだろう。 「あの蛇を撃退して欲しい。もう一度ヨルムンガンドを建て直す。そのために、今は死ぬわけにはいかない」 「お断りします」  即答するおれ。あ、隣のアシスタントがなんかわめいてる。 「なんで!仕事はもう終わったんだから、受けたっていいじゃない」 「もちろん、事務所を通じて正規のルートで申し込みをさせてもらうつもりだ。君たちにこそお願いしたいのだが。報酬は、三百万はもうムリだろうが……」 「それなら問題ないでしょ、陽司?」 「だめデス。そもそもキミは業界の基本を忘れておるよ七瀬クン」  真凛がおれをじっと見つめている。だからそんな顔するなっつうの。 「……ウチの会社は本当に人使いが荒いんですよねぇ、福利厚生が大したこと無いくせに」  おれは窓の向こうに視線を飛ばしたままぼやいた。 「一度受けた依頼は、フォローを含めて完全に達成しないと給料もらえないんですわ」 「それは……」 「どういう意味?」  まだわかりませんかねこのお子様。真凛の額をぺしぺしと叩く。 「お連れしたお客さんに安全にお帰り頂くまで、この仕事は終わったことにはなりません。……ちゃんと覚えておけよ?」  おれの発言の意図が奴の脳細胞に届くまで、一秒の時差があった。 「そうこなくっちゃ!」  スイッチが入った。真凛が、狩りに出陣する虎の児めいた笑みを浮かべる。 「水池さんは、部屋の中に。万一の事もあります。お父上と一緒に居てください」  おれ達の仕事は、ここを守りきること。既に連絡は取れている。『蛇』を仕留めるのは、別の奴の仕事だ。  首をごきりとならすと、ベンチから立ち上がり、廊下へと歩を進める。プールの授業がやってきた小学生のように腕をストレッチしながら、真凛が続く。 「じゃあ始めるか。……ついて来いよ、アシスタント!」 「途中で転ばないでね、先輩!」  歩を進めるおれ達。  病院の廊下の向こうから、一斉に水の蛇の群れが襲いかかってきた。         ●14      港区芝公園、増上寺。    東京タワーから歩いて足下に広がるその豊かな森に包まれた建築物は、四百年以上に渡って、徳川家の菩提寺として、人々の素朴な信仰の対象として、また観光名所として注目を集めてきた。  深夜零時、その名の通り、無数のヒト、モノ、カネが行き交う”港”区は、夜になっても明かりが尽きることは決してない。六本木、赤坂に繰り出せば、その歓楽の空気と人種の坩堝とに酔ってしまいそうだ。人によっては、同じ歓楽街でも新宿などとは異なった、どこか上流の……言い方を変えればお高くとまった雰囲気を感じるかも知れない。  しかし所詮そんな喧噪も、増上寺の境内へと続く重厚な三解脱門《さんげだつもん》をくぐればまさしく俗世の泡沫《うたかた》。境内の奥、寺社を取り囲む林の中に踏み入ると、たちまち濃密な鈴虫や蟋蟀の声が身を包み込む。見上げれば、織りなす枝葉の隙間から、天を貫くようにそびえる東京タワーから鮮やかな赤と黄白色の輝きが降り注ぎ、異世界じみた光景を作り出していた。  『蛇』は、心地よい緑の匂いと虫の声に抱かれ、深い集中を維持して『絞める蛇』へと己の呪力をつぎ込んでいる。薄っぺらい文明の産物であるスーツを脱ぎ捨て、今の『蛇』の姿は、太古の呪術師そのままであった。鮮やかな色彩の顔料で隈取りを施し、首や腕には幾つものいびつな玉飾り。その素肌を晒した両腕、両足には呪術記号としての意味を持つであろう入れ墨がびっしりと彫り込まれている。『蛇』が高輪の高級ホテルを出てこの境内に入り込んでいるのは、個人の嗜好だけではない。森の匂い、そして己の精神の昂ぶりこそが、その呪術をより強力なものに為すのである。『絞める蛇』はどうやらキョウスケ・ミズチを追ってかなり離れた位置まで移動したらしい。後は、奴が仕遂げるまで力を供給し続けるだけだ。距離を隔てた相手に危害を加えられる代わりに、今現在相手の状況がどうなっているのかはわからない。それが呪いのデメリットではあるが、『蛇』は己の放った使い魔に充分な自信を持っていた。 「そこまでにしてもらおうか」  愛想のない、だが秋の夜風のごとき涼やかな声が、『蛇』を忘我の境地から引き戻す。眼を開けば、五メートルほど離れた木の幹の側に、二人の人物が立っていた。一人は若い男。年齢に似合わぬ王侯の威を備え、流れ星をイメージさせる長い銀の髪を束ね、白皙の貌に宿した黄玉の瞳でこちらを射抜くように見据えている。もう一人は女。陸軍迷彩を思わせる無骨なデザインの制服に身を包み、こちらは黒髪を結い上げている。 『良くここがわかったな』  硬質でハスキーな英語が『蛇』の喉から滑り出る。この二人が境内を潜ったときから、その存在には気づいていた。先制攻撃をしかけなかったのは、その質問をしてみたかったがためである。 『名が売れているエージェントも考え物だな。貴様が攻撃に本腰を入れて呪術を展開する場合、もっとも己にとって快適な場所である森を根城にして呪力を高めるとか』 『ほう。良くも調べたものだ』  素直に『蛇』は感嘆した。比較的情報がオープンなランカーとて、仕事上の癖を公開するほど愚かではない。少なくとも数日で調べ上げられるものでは断じてないはずだ。弱小の派遣会社《スタッフサービス》と聞いていたが、なかなかこの業界の情報通が居るようではないか。 『ウチには元本職がいるのでな』 『土地勘のない場所で山に籠もるとも思えません。港区で豊富に緑があるところと言えば浜離宮、旧芝離宮、増上寺くらいですからね。最悪、東京中しらみつぶしの捜索も考えていましたが、思ったより近くに潜んでいてくれて助かりました』  女の足下にはいくつもの紙で作られた『かえる』が誇らしげに胸を張っていた。なるほど、式神を放って敵を探すのは古来より陰陽師の本業である。 『この島国にも呪術師が居るのだったな。失念していたよ。アウェーでは仕方がないが……』 『いずれ忘れられなくなります。……チェックメイトですよbase Head』  優雅な発音できつい台詞を吐いて、女が戦闘態勢に入る。男の瞳が朱に転じ、全身から冷たい銀色の空気が吹き出し、インバネスのコートをはためかせる。太陽の束縛を逃れた吸血鬼が本性を解放したのだ。それに呼応して『蛇』の全身から禍々しい原始の殺気が立ち上る。日本屈指の名刹で、呪術師と吸血鬼とアメリカ人が対峙する。    獲物を狩るために潜む蛇と、蛇を狙う狩人達の戦いが始まった。        先陣を切ったのは直樹だった。インバネスを翻したと思ったときには、一気に静から動へと転じ、五メートルの距離を二歩で詰めている。その左の掌に冷気が渦巻き、瞬時に氷で作られた鋭利な騎兵刀《サーベル》を構成する。奴自身の剣の技量は達人の領域には及ばない。だがそれは奴が弱いことを意味しない。精緻な手の内や足捌きなど気にせず、奴自身のカンと人外の膂力を、緩やかに反りが与えられた刀身に乗せて倍加し、敵の甲冑ごと両断してのける介者剣法。人間のように技術を系統だてて後人に残す必要のない吸血鬼には、それで充分過ぎるのである。左足を踏み込むことで突進の運動量が転化し、裁断機じみた斬撃が真横に振るわれる。『蛇』に反応する間も与えず、その右手首を切り飛ばした。戦闘不能確実の傷である。だが。 「――空蝉!?」  切り落とされた手首と、そして『蛇』の身体がぐにゃりと歪む。形を失い色が消え、たちまちそれは巨大な水の蛇と化して、直樹に躍りかかった。 「日本の忍者の専売特許ではないと言うことか!」  バックステップしつつ騎兵刀を翻し、まるで十字架を掴むかの如く逆手で構える。もちろん、世間一般のマジメな吸血鬼のように十字架を見て己の罪におののくような敬虔な心情など奴にはカケラもなく――そもそもシスターに欲情する罰当たりだ――その意図は別にあった。  構えた刀身に躍りかかってきた水の蛇が衝突する、と同時に、その蛇身が凍り付き、砕け散った。分子運動を一瞬だけ、だが完全に停止させることで熱を奪い絶対零度を生み出す奴の力が刀身に込められ、空蝉を構成していた数十キロの水塊を瞬時に氷塊へと変えてしまったのだ。もっとも、これでも奴は手加減をしている。林の中でなければ、わざわざ剣に冷気を収束させずとも、全身から放射しながら戦い続けることも出来るのだから。宙を舞う氷の欠片を払い、林の奥に眼を凝らす。 ”確かに戦闘能力では分が悪いな”  闇の奥、どこからともなく響く『蛇』の声。 ”だが殴り合いに強いだけで勝てる程甘くは無いぞ”  突如林の奥、南の方角からがさがさと何か大量のいきものが迫ってくる気配がする。だが、夜の闇に紛れて姿が見えない。警戒する間もなく、攻撃がやってきた。門宮さんが、『蛇』の本体を探し出そうと密かに展開していた『かえる』の式神達が、軒並み喰われてしまったのだ。気がつけば、落ち葉の積もった足下、枝枝の隙間、幹と根本。見渡す限り、水で出来た無数の小蛇がのたくっていた。闇夜と透明な身体が著しく視認を困難にしているが、その数、少なくとも五百はくだらないだろう。もしも色がついていたら、蛇嫌いの人が間違いなく失神するくらいおぞましい光景だった。 「これほどの水、いったいどこから……」 「増上寺の南にはホテルがあります。そのプールから拝借したのでしょう。夏も終わったのにまだ水を溜めていたんですね」 「プール掃除まで業務範囲内とは恐れ入るな」  足下の蛇を二三匹切り払ってみるが、すぐに無益であると確認する直樹と、準備していた式を全て破壊され、急いで次の術法の準備に取りかかる門宮さん。しかし二人とも、続いて林の中から現れたモノを見たときは、平静では居られなかった。林の奥から静かに迫り来て、矢のように噛みついてくるそれをどうにかかわす。 「……『締める蛇』!亘理さん達の方に向かっているはずでは!」 「何も一匹だけしか操れないと言うわけでもなかろうよ」  忌々しげに直樹が述べる。森の奥から嗤い声が響いた。 ”我が用いるはヒトなる種の始原のまじない。力の無さを小手先の技術でごまかすだけの東洋の三流術師など、到底及ぶ所ではない”  一斉に蛇の群れが襲いかかってきた。直樹が剣を振るい、コートの裾を翻すたびに、数十匹の蛇が凍り付き、砕け散る。門宮さんの『鶴』が嵐となって吹き散らす。蛇の残骸が水に還り、地面に染みこむが、そのたびに次から次へと林の奥から後続がやってくるのだ。実際、『蛇』の呪力……キャパシティは恐るべきものだった。同時に複数の使い魔を操ること、そしてそれらの総合出力。どれをとっても超一級足りうるだろう。残念ながら、門宮さんの呪力は奴に及ばない。門宮さんが弱いわけではなく、『蛇』が異常なのである。そしてその合間を衝いて、こちらは巨大な『絞める蛇』が襲いかかってくる。こればかりは片手であしらうわけにもいかず、次第に二人は劣勢に追い込まれていった。 「このままホテルのプールが全て枯れるまで待つ、というのはどうだ」 「貴方の体力から言えばそれもありかも知れませんが。私と、何より亘理さん達が持ちません」 「世話の焼ける」  その頃おれ達も、無限の再生力を持つ敵を相手に苦戦を強いられていたのである。『蛇』の本体を見つけない限り、この蛇たちはほぼ無限に生まれてくる。能力的に相性の悪い直樹と門宮さんを消耗戦に引きずり込みつつ、水池氏に攻撃を加えるのが『蛇』の狙いだった。 「別に亘理が死んだ程度でどうと言うことはないが」  言いたいこと言ってくれるなこの野郎。 「……何より、本体に逃げられては元も子もありません」  フォローしてくれる門宮さん。涙が出そうだ。直樹の野郎は剣を縦横に振るいながら器用に首をかしげ、二秒で決断した。 「聞こえているか」  何だ。 「回路を開くぞ。手伝え」  マジかよ。 「……なんのことですか?」  門宮さんの問いには答えず、騎兵刀を地面に突き立て、手を離した。そのまま両腕を大きく広げる。膨大な量の冷気が奴の身体から立ち昇り、それは奴のコートの裾に、まるで折りたたまれた翼のように広がった。 「まずは雑魚を一掃する」 「しかし、この林の中で冷気を展開すれば周囲に被害が――」 「問題はない」  両腕を前に向けて突き出すと同時に、背中の銀の翼、つまりはたわめられた冷気が一気に前方へと吹き抜ける。 「――かかれ」  主の号令を受け、前方に展開された銀色の冷気の靄から、何かが一斉に夜へと飛び立つ。それは無数の、白い蝙蝠だった。一匹一匹の銀色の蝙蝠が密集した木々の間を駆け抜け、それぞれ地面に、幹に、枝葉に隠れる水の蛇を捕らえ、凍り付かせてゆく。それはたとえて言うなら、マイクロミサイルの乱舞に等しかった。闇の林の中、殆ど音も立てず銀の蝙蝠が透明な蛇を砕いていく様は、傍から見る者が居れば美しいと思えたのかも知れない。十秒あまりの無音の戦闘の後、樹木を傷つけることなく、林の中の蛇は一掃されていた。 ”なかなかやる……だが私が居る限り、何度でも後続が現れるぞ”  闇のどこかから、『蛇』があざける。直樹はその挑発には応じず、虚空を見上げ、誰にともなく呟いた。 「出番だ、働け亘理」  やれやれ。こっちは千葉だってのに。まったく人使いの荒い野郎だ。  遙か数十キロを隔てた病院の廊下、水の蛇を撃退し続ける真凛の背後で、おれは脳裏の引き出しから『鍵』を取り出す。 「『増上寺の境内で』『投じられる一撃は』」  『蛇』と名乗った敵手の能力同様、俺が紡ぐこの因果の鍵も、距離に影響されて威力が減じることはない。だが状況を正確に把握せずに因果の鍵を紡ぐことは、いたずらにその威力を浪費させ減じる事となり、甚だ効率が悪い。そう、状況を正確に把握できなければ。 「『潜む呪術師を』『外すことはない』!」  言語が枷となり、鎖となる。  時間という大河に穿たれる因果の楔《くさび》。河を流れる、無数の誰かの意志決定の集積――時に運命とも呼ばれる抗いがたいこの激流に、楔を打ち込み堤と為して自らの望む結果を引き寄せる。無限の可能性を封じ、無限以外の可能性を開く因果の鍵が発動する。 『……馬鹿な!?』  『蛇』の口から驚愕の声が上がる。直樹が当てずっぽうに投げた氷の槍は、あり得ないほど運良く隠れている奴めがけて飛んでいった。        ――数年前の、割とどうでもいい話である。  『深紅の魔人』と『召還師』は、互いを滅すべくその全ての能力を解放して死闘を繰り広げた。管理人と清掃屋、目的は同じでも立場をたがえる両者の、短いが激烈な戦いは、結局のところ相討ちという形で終結をみる。  全身が凍り付く直前に放った『召還師』の『切断』は、不死の吸血鬼の肉体を戦闘不可能にまで破損させた。だがその一瞬を機として、『深紅の魔人』は、『召還師』の首筋に喰らいついたのだ。吸血鬼の能力、血を啜った人間を己の従僕とする呪いが発動する。雑魚のそれならともかく、不老不死を認められた原種の呪いを無効化することは事実上不可能だ。それでもなお、『召還師』の因果を歪曲する力は絶大だった。    ”亘理陽司は、吸血鬼には、ならない――”    強力な因果の鍵は、何千万分の一の確率でさえ、それを回避する方法を見つけ出す。 だが、世界の罰則規定に裏打ちされた絶大な呪いを無効化する可能性は、まさしくゼロだった。迷走した因果の鍵は、それでもなお定義を証明する運命の分岐を模索する。かくして、両者の力が拮抗した結果、実にねじ曲がった現象が残された。すなわち。    ”亘理陽司は、吸血鬼には、ならない。……今は”    噛まれてから吸血鬼になるまでの時間には個人差がある。その時間を最大限に引き延ばすという手段で、因果の”言い訳”が成立したのだ。奴は、おれを隷属させるための呪いを、おれは、それから逃れるための因果の構築を。それぞれ維持し続けなければならず。結果として、両者はその力を大きく減ずることになったのだ。奴がおれの因果を解くのが先か。おれが奴を倒し呪縛を解くのが先か。いつかは決着をつけねばならない。  そして、この茶番劇には、やはり笑うしかない副作用が存在する。ねじ曲がった因果の影響で、吸血鬼が従僕に命令するために使う魂の回路だけは刻まれてしまったのだ。血の鎖環《リンク》。おれと奴の精神が、一部歪んだ形で接続されてしまったのである。例えれば、アパートの隣同士の部屋の壁に穴が開いて、玄関や廊下を通らずとも行き来出来るようになってしまったものだ。もっとも、お互い野郎の心情なんぞ興味もないので、この回路を使うことはほとんど無い。だが、いざとなればこのような小技も可能――と言うわけだ。不本意ながら。      ――氷の投げ槍は、『蛇』の踵に命中したが、砕くことはなかった。代わりに、枝と『蛇』の脚を凍らせ、ぴったりと貼り付けてしまうこととなった。  おれの中にため込まれた見えない金貨が、ごっそりとどこかに持って行かれた。感覚共有の負荷が限界になり、おれと直樹の回線が切れる。  ……アバウトな単語をたくさん使うのはさすがにきつい。『因果の鍵』とてそうそう万能ではない。多くの言葉を用いたり、曖昧な言葉を用いたりすると、おれには階乗的に負担がかかる。だからこそ、「少ない数の単語で」「より状況を絞り込む」事が必要になる。対象を指定するのに、名前がわかっていれば一語ですむのだが、今回、相手の名前である『蛇』はただの通り名に過ぎないため、このようにまわりくどい言葉を使わなければならなかった。当然、通常より高い”代償”を払わざるを得ないし、”とりあえず当たった”という結果になってしまう可能性が高い。  『蛇』は舌打ちをひとつ。機動力は殺された。こうなれば一気に片をつける。喉の奥から力強くリズミカルな呪文をはじき出すと、それに呼応し『絞める蛇』が電光の速さで舞い戻り、『蛇』を庇うように立ち塞がった。 『吸血鬼は流水が苦手だったな』  直樹の冷凍能力は『蛇』の天敵であるが、同時に『蛇』の水攻撃も直樹の天敵なのだ。直樹は己の冷気を槍の形に変形させたままのため、防御に隙がある。それを衝いて、怒濤の水流が吐き出されようとしたその時。 「脚を止めた時点で、貴方の負けです」  横合いから綺麗な日本語が耳を打った。視線を転じたその先には、既に攻撃態勢に入っている門宮さんの姿があった。手挟んだその紙は、従来の折り紙に使う白い紙ではなかった。精緻な模様が丁寧に漉き込められた色鮮やかな和紙。千代紙と呼ばれるものである。そして形も、正方形ではなく長方形だった。門宮さんが左の指で軽く弾くと、その千代紙はまるで切れ込みが入れてあったかのように、真ん中が綺麗に切れた。    ”せきれいの おのひこひこを みならいて”    桃色の唇が、艶やかな韻を刻む。  日本人のもっとも好む七五調の音階は、まるでそれ自体が一枚の絵であるかのように、彩をもって響いた。    ”おおきなくにを たれるほどうむ”    江戸時代後期、伊勢国桑名の住職が、切り込みを入れることで一綴りの紙から数羽の連続した鶴を折る技法を編み出した。後の世に”桑名の千羽鶴”として伝わるこの折り方は、それぞれ異なった四十九の完成型を持ち、それぞれに銘と、銘にちなんだ狂歌を添えられている。宮中を守護する陰陽師に端を発する術法使い、門宮家。彼らは近代化する大和の内で廃れゆく己が術法を嘆き、その精髄を、この優雅な紙折り遊びに隠し伝えたのである。   『秘傳千羽鶴折形《ひでんせんばづるおりがた》連鶴《れんかく》――』    千代の折り紙が、白い指で瞬く間に無数に折られ曲げられ、命を孕んでゆく。門宮さんの差し出した両の掌の上には。   『――鶺鴒《せきれい》』    一枚の長方形の紙から折り出された、四枚の翼と二つの嘴を持つ異形の鶴……いや。胴体を一つとするほどぴたりと寄り添った、夫婦の小鳥の姿があった。折り上げられた呪が完成する。ふぅ、と息吹を受けて、掌から勢いよく小鳥が羽撃たいた。夫婦の鶺鴒はたちまち百に千にその数を増し、微かな羽撃たきは渦巻く嵐と化した。 『何を飛ばそうが同じ事。お前の呪力は私には及ばぬ。”絞める蛇”の鱗は貫けない』 「――ええ。一羽ならば」  無数の千代紙で折られた鶺鴒が、螺旋を描きながら一点に錐を揉むように収束していく。それは万華鏡の内側を思わせる光景だった。市松、格子、花菱、桜、葵。そして橙、蘇芳、若竹、藍、鴇羽、雪消水、鳶。幾つもの模様と幾つもの色の鶺鴒が、その艶を競うかの如く、水の竜の鱗をその嘴でついばみ、翼で斬りつける。一羽ではわずかな傷をつける事しか出来ない。だが、その傷を二羽目、三羽目がえぐり、十羽目、二十羽目が押し広げる。一枚の鱗が剥がれたその一穴が、見る間にその直径を拡大していった。広範囲に回避不可能の攻撃を繰り出す『鶴』を、一点に収束させることで飛躍的に破壊力を増す術法である。門宮さんは己の呪力を決して過信していなかった。むしろそれをどのように状況に即応させるかに、術の本領を求めているのだろう。水の竜は苦悶するかのように身をよじらせる。三秒の抵抗の後、土手っ腹がはじけ飛んだ。 「……何!?」  『蛇』のかすかな叫びは、余勢を駆った鶺鴒の羽撃たきにかき消された。剣呑な花吹雪が吹き抜け、『蛇』の背を大樹の幹に強かに打ち付け、素肌をさらしている腕と脚から紅い霧が舞い上がった。光の角度が変わり、闇の中に埋没していた素顔が露わになった。 「……女、か」  そこにあったのは、硬質の美しさを湛えた黒人女性の容貌だった。どこか、鋭く磨き上げられた鏃《やじり》を想起させる。緑の闇の中、白い吸血鬼と黒い蛇は静かに視線を交えていた。 「続けるか?」  純白の騎兵刀を突きつけ、直樹が問う。『蛇』の黒い眼には、狂躁や激情は見られなかった。逆に質問をする。 『貴様がナオキ・カサギリ、そして先ほど呪いまがいのマネで邪魔をしてくれたのがヨウジ・ワタリか』  直樹は沈黙を保った。業界で実名をさらす愚を犯すことはない。だが『蛇』にとってはその沈黙で充分のようだった。 『ふふ。ならば問題ない。私の仕事は今完全に達成された。追撃なしで見逃してくれるに越したことはないが』 「引き留める理由は無い、が、無傷で返してやる義理もないな」  まったくもって、年上女性への礼儀がなってない男である。直樹の放つ冷気は、両の肩に翼のように展開され臨戦態勢となっていた。だが半瞬の差で、機先を制したのは『蛇』の方だった。地面に飛び散りながらも形を保っていた『絞める蛇』の残骸が、無数の小さな水の蛇に姿を変え、雨のように放たれる。面倒くさげに直樹が、白い翼で打ち払った時、すでに『蛇』は立ち上がり、充分な間合いを広げていた。軽く舌打ちする直樹。だが、それ以上追撃する意志は無さそうだった。 『さらばだ吸血鬼、そして東洋の呪術師。小細工もそこまで精緻であれば面白い』  ふいに、雑木林の影が濃くなったように感じられた。それは全くの錯覚だったのだが、気がついたときには、獰猛な『蛇』は、再び藪の中に完全に消え去っていた。         ●15     「あーあー。これで五日連続のストップ安かよ」  おれはいつものように事務所で経済新聞を眺めてため息をついた。ヨルムンガンド社によるミストルテイン社の買収は失敗した。ひとたび合併話の破談、そしてその根拠となった財政面の不安定さが取り沙汰されると、出るわ出るわ、粉飾決算の証拠、法的根拠の怪しい強引な買収、取り込んだ企業と本業との合併効果がまったく発揮されていないこと、等々。様々な情報ががあちこちからリークされ、また指摘され、ヨルムンガンドの株は連日売りが殺到し、買値がつかない状態で、システムすらダウンさせかねない勢いだった。敵を丸呑みすることで巨大化してきた大蛇は、いまや消化しきれなかった胃の中身をすべてぶちまけているかのようだった。カリスマ社長水池氏の名は一転して地に落ち、今や二十一世紀最大の詐欺師であるかのように書き立てられている。新聞の端々には、検察庁がガサ入れに入るのも時間の問題。外資系のファンドには早くも買収の動きアリ、なんて事も報じられていた。 「蛇でもより大きな敵には丸呑みにされちゃうのかねえ」  ぶつぶつと呟くと同時に、印刷を終えた任務報告書をプリンターから回収する。念のためもう一度読み返し、ホチキスで止めて、ハイ完成。ついでに門宮さんとスケアクロウの野郎にも挨拶メールを送っておいた。 「終わった〜」  背もたれに体重を預けて大きく伸びをする。まったく、休みは休みでバイトで忙しかったのに、十月に入ったら学校とバイトで忙しいとはどういう事か……なんて言うと本職の社会人の方々に怒られるか。視線を元に戻すと、机の上にはコーヒーの入ったカップが置かれていた。 「や、ありがとうございます来音さん」  礼を述べてコーヒーを含む。酸味が疲れた頭に心地よい。 「お疲れ様でした。大学のレポートも無事だったようで何よりです」 「おかげさまで。ちょっとばかし目立っちゃいましたけどね」  あの日、『絞める蛇』が消えて失せた後、早朝開門直後の大学のキャンパスに水池さんのBMWで乗り付け、滑り込みで課題を事務局に提出したのである。校舎前の噴水を一見華麗なドリフトで走破、と思わせて、実はブレーキとアクセルを踏み間違えて慌ててサイドで止めようとしただけだったりして。 「ああ。だから真凛さんが真っ青な表情をしてらしたんですね」  まったく根性のないお子様である。ちなみに奴は事務所にいない。平日の昼間、授業の真っ最中だろう。おれもこれを出し終えたら午後の授業にトンボ返りの予定である。おれはたった今作り上げた紙の束を掲げた。 「任務報告書も書いたし。あとはチーフに渡すだけ、なんですがねぇ」  おれは空っぽの席を見やる。つい先日それなりに片付いたはずの須恵貞チーフの座席には、初雪が降った谷川連峰のような書類の山が出来上がっていた。むしろあれだけ積めるのは芸術とさえ思える。ファイリングという概念がどうやら欠落しているようだ。まったく、致命的なまでに整理整頓が出来ない御仁である。 「別件ですね。例の新大久保大火災事件の元凶だった米国の新興派遣会社に、日本の派遣会社が連合で圧力をかけるとかで。所長と一緒に打ち合わせに出ています」  そう言えば先日新大久保で、海外の火炎使いと大手派遣会社のチームが大乱戦、という事件があった。迷惑な話である。まったく、何でもかんでも派手にやれば良いってものじゃあないのに。 「当分またこちらには来られないとのことです」  来音さんの声はきちんと装われていたが、失望は隠しきれない様子だ。 「次に出所するのは一年後ですかねぇ。管理職は大変だ」  ちなみにウチのメンバーは事務所に顔を出すことを『出所する』と表現しているが、もちろんこれは誤用なので真似しないように。 「チーフの決裁が無いと動けない案件も幾つかあるのですが」  困ったものです、とうなだれる来音さんであった。 「自宅に押しかければいいんじゃないっすか」 「ええ、お伺いしたいのはやまやまなんですが……、って、もう亘理さん、何言わせるんですかぁっ」  来音さんは顔を真っ赤にすると、おれの肩を軽くはたいて給湯室の方へ走り去ってしまった。もちろん、背後のはたかれたおれがそのまま背骨を軸に宙をきりきり舞いしながら応接室へ向けて水平に飛行していく様は来音さんの目には入っていない。 「愚かな事を」  応接室でお茶を飲んでいた直樹が、サイドボードに激突寸前のおれを無遠慮にはたき落とし、おれはソファーに垂直で強引な接吻する羽目になった。 「……てめぇ、助けるにしたってもう少しやり方ってもんがあるだろう」 「助けたつもりなどないぞ」  こいつはこういう奴なのである。あの戦いの時もそうだった。奴との戦いにより互いの力が相殺されることがなければ、今頃おれという器は内圧に耐えかねて粉々にはじけ飛んでしまっていただろう。それはともかく、その吸血鬼は半眼で紅茶をすすりながら、携帯音楽プレーヤー『カペラ』を起動させてじっと聞き入っている。何も知らない人間が見れば、青年貴族の優雅な午後のひとときと思えなくもないが、実際のところそのイヤホンを通して延々とリピートされているのは、先日発売された某美少女ゲームの初回特典ドラマCD『ずっと一緒だよお兄ちゃん!!』とやらいうタイトルであるということを、おれは知っていた。 「で、貴様、例の株は結局どうしたのだ」 「あん?……ああ。結局塩漬けにしておくことにしたよ」  おれ自身が持っているヨルムンガンドの株券も、それはそれは素晴らしい早さで価値が下落していった。まるでおれの人生を象徴するかのように……いや、何でもない。暴落が始まった最初の一日二日は売ってみようかとも思ったのだが、どちらにせよ買い手などいなかったのである。おれはパニックになりかけたが、三日目になると、別にムリに売らなくてもいいかな、という気分になっていた。 「ほう。それはまた、どうしてだ?」 「……十年後には値上がりしそうな気がするんでな。いずれ元が取れるさ」  実は改めて考えると、経営難の情報を調べた時に売りをしかけておけば良かっただけの事だったりもするのだが。奴が紅茶のカップから唇を離して、おれを興味深げに見る。 「ふん、気の長いことだ」  時間制限のない吸血鬼がなんか言ってマスネ。 「ふふん、デイトレードなど所詮はギャンブル。成長企業への長期投資こそ利を産む本道よ」  おれは失敗を糧にする男なのである。と、直樹の野郎はおれを哀れむように見やって肩をすくめた。 「それで『実践!二十歳で始める長期投資』などという本が転がっていたわけだ」 「ああっ、てめぇまた人の本を勝手に読みやがったな」 「だから事務机の上に出しっぱなしにしておいて偉そうな事を言うな」  ぎゃあぎゃあと見苦しく騒ぐ男二人。と、急に直樹の表情が真剣な者になる。 「……一つ気になることがある」 「何だ」 「『蛇』とやらは何故わざわざ最後に我々を襲ったのか。脅迫の依頼は事実上無効となっていたのに、最後に我々にリスクを冒してまで喧嘩を売る必要はないはずだ」 「……ま、その件は今日の仕事が終わった後で考えようや」  おれの言葉に期するところがあったのだろう、直樹も頷く。と、研究室から出てきた羽美さんが晴れやかな表情で語りかける。 「やあ亘理氏!!おおそれに笠桐氏も!!ちょうど良い。先日の事件以来小生もいささか株式に興味を持ってな!!我がシミュレーションに、今後上昇間違い無しの銘柄を算出させたのだ!!どうだ貴公ら、小生の研究費確保のためにもまずは先行投資をだな……」  蕩々と熱弁を振るうドクター羽美。その様子をたっぷり二分も眺めて、直樹がぼそりと呟いた。 「亘理」 「なんだ」 「げに恐ろしきは……」  おれと直樹は顔を見合わせる。 「「人の欲なり」」  揃って答え、同時に肩をすくめるおれ達。窓の向こうでは街路樹もわずかに色づきはじめている。夏の熱気の最後の一欠片も、既に秋の空の彼方に溶け去ったかのようだった。                         ●※      『蛇《ニョカ》』が訪れた数日前と変わらず、成田空港の出発ロビーは混み合っていた。電車の駅と異なり、空港は深夜であっても人の動きは活発だ。一段と乾燥を増すこの空気は、もはや彼女には耐え難いものとなっていた。  あらかたの出国手続きを終えた彼女は、待ち時間を利用して、空港のロビーで買い求めたミネラルウォーターを口にしていた。日本の経済新聞に目を通し、自身の成果を確認する。あの若者達が自身の使命を達成したか否かは彼女にはあまり関係がない。彼女はプロであり、そしてプロとして彼女は十分すぎるほどに目的を果たしていた。ふと、まだ一件済ませておくべき用件があった事を思い出す。携帯電話からウェブブラウザを起動して、指定のサーバへと繋ぐ。パスコードを入力して応答を待ち、ブラウザに表示された絵文字を紙にメモする。ブラウザを落とすと、今度は電話機能を起動させ、メモした数字を入力し始めた。万一、この携帯電話が誰かに奪われ履歴が解析されたとしても、二度と同じパスコード、電話番号は使用されない。電話の相手は、それほどにプライベートに許可しない他者が立ち入ることを嫌う人物だった。数秒の沈黙の後、甲高いトーンが鳴り響き、接続したことを知らせる。相手はすぐに出た。 『やあおはよう。いや、東京ではこんばんわだったね』  流暢極まりない日本語だった。 「こんばんわ、マスター・サイモン。しかし、私は、日本語が、それほど得意ではない」  生硬な発音の日本語で返すと、マスターと呼ばれた相手、サイモン・ブラックストンは電話口で笑ったようだった。マスターという言葉が指す意味は何なのか。主か、師か、あるいは原本か。その口調からは読み取れなかった。 『失敬失敬。国際電話をかける時はローカルの時間帯と言語に合わせるのが、私なりのビジネスマナーでね。うっかりしていた』  今度は同じく流暢な、流暢すぎる彼女の母国語がスピーカーから流れ出す。そう、彼女のマスターは必ず会話をする相手のもっとも得意な言語に合わせる。それが日本語であろうとドイツ語であろうとアラビア語であろうと、だ。確かめたことはないが、恐らくウルドゥー語やラオ語のネイティブ相手にも同じ事をするのだろう。 『任務は成功です。迎撃役のヨウジ・ワタリとナオキ・カサギリ、及び水池の護衛スタッフと交戦の後、脅迫を撤回して引き上げました。詳細はレポートにしてメールを送ってあります』 『相変わらず手堅いプロの仕事だ。この分ならベスト5にランクインするのもそう遠いところではないのかな』  彼女が英語で返答すると、あちらも英語で返答した。 『それではプロとして言わせてもらいますが、マスター。いかに貴方の依頼とはいえ、土壇場で『脅迫』から『実力測定』へと任務目標を変更するのはいただけない。このような支離滅裂な命令ではいかなプロであろうと勝利を得るのは難しい』  相手は受話器の向こうで苦笑したようだった。 『すまないすまない、許してくれ。だが君を守るためでもあったのだ。ワタリ、そしてカサギリ。まさか君が彼らとかち合うなどとは思ってもみなかったのだからね。正直君がこうして生きて私に電話をしてきてくれて安心しているよ』 『理解に苦しみますね。ヨウジ・ワタリ。ナオキ・カサギリ。そこまで警戒せねばならない相手とは思えませんが』  強がりではなく、プロとしての判断である。おそらくは上位の吸血鬼、そしてもう一人の方も、彼女の呪術と似て非なる力を持っているようだった。なるほど大した能力だろう、まっとうな戦いならば。だが、彼女の能力であれば如何様にも戦い方がある。留意はしても、恐れる必要はないと思えた。 『……それが君の感想と言うことか』  サイモンは言葉を切り、四秒ほど沈黙した。珍しいことだった。 『よろしければ多少なりとも事情を教えて欲しいところです。プロとしてではなく、ごく個人として』  つまりは、言いたくなければ別にかまわないというレベルの問いだった。だから回答があったことに驚いた。 『故兵聞拙速《ゆえにへいはせっそくをきくも》、未睹功久也《いまだこうきゅうをみざるなり》。――私の信条はね。万事に保留事項を作らないと言うことだ。保留は何も生み出さない。時間を腐らせ、事態を悪化するだけだ。古今、やるべき事を先延ばしにする愚図に勝利の女神が微笑んだ試しはない。全ての物事はやるか、やらぬか、やらせるか、まだ待つか。待つならいつまでか。それ以外の選択肢はないのだよ』 『はあ』  明敏な『蛇』も言葉に困る。別に彼女は相手のビジネス哲学を聞きたいわけではないのだが。 『私と彼らは、いずれ確実に対立することになる。私は利を求め、彼らはそれを防ぐ。ならばなおのこと、保留事項にするわけにはいかない。そんな折り、君と彼らが交戦に入ったと聞いた。なれば情報を集める機会を逃す事はない。それを思えば、ヨルムンガンドへの貸し付け程度は何の問題にもならない』  自分が態の良い斥候に扱われたことも、彼女が彼らと接触した偶然も、『蛇』は気にしなかった。マスターに連なるものは数多くいる。その中でたまたまもっとも早くワタリやカサギリに接触したのが彼女だったというだけのことであろう。 『君を生かして帰したということは、ふふ、王と魔人の力も随分減耗したようだな。国であれば格付けをしなおさなければいけないところだ。やはりここは拙速でも打って出るべきだろう、とまあ、このような事情だよ。わかってくれたかね?』 『全くわかりません。聞いた私が間抜けでしたね』  気のない調子で彼女は応えた。どうやら裏事情は、彼女が到底与り知らぬレベルの話らしい。個人としての興味が消えると、後には仕事を終えたプロの理論が残った。もはや自分の検知するところではない。彼女は主に向かい一応の挨拶を述べた。 『それでは今日もお仕事頑張ってください。私はこれより休暇に入ります』 『里帰りを楽しんできたまえ、『蛇《ニョカ》』。私はさっそく、彼らにアプローチをかけるとしよう』  サイモンは彼女を二つ名で呼んだ。である以上、彼女も二つ名で返事をすべきであろう。もっとも、有名な通り名ではない。サイモンが『こちら側』の人間であり、また、およそ彼女程度では及びもつかない化け物であることを知る人間など、両手の指の数もないだろう。弱者は強者になってゆくうちに、その名を知らしめてゆく。しかし最初から圧倒的に強い者は、その名を他者に語る必要はないのだ。 『お気の済むように、『組み合わせる者《サー・オクタコード》』』  主に別れを告げ、電話を切る。搭乗を促すアナウンスが流れた。『蛇』は優美な身のこなしで、おそらく二度と訪れることはないであろう極東の島国を去るべく歩み出した。     ●[了]ID:SFN0005v101