小説 『人災派遣のフレイムアップ』 
第5話 『六本木ストックホルダー』


 

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◆◇◆ 5 ◇◆◇

 
 
「……完全に読み誤った。まさかこれほどのものとは、な……」
  『真紅の魔人』笠桐・R・直樹が絶望のうめき声を上げる。時を支配し絶対零度を自在に生み出すその圧倒的な力をもってしても、この脅威に打ち勝つことは出来ない。
「……わかってはいたつもりだった。おれ達の常識がここでは通じるはずもないと覚悟はしていたんだ。なのに、ケタが予想の最大値をさらに超えているなんてな……!!」
  応じるおれ、『召喚師』亘理陽司の声も乾き、ひび割れていた。これ程の失策、もはや悔しさを通り越して笑うしかない。やるせなさを拳に込めてテーブルに叩きつけようとして、やめた。この現実を前に、おれ達二人はひたすらに無力だった。
 
 
「ミックスサンド三つで千二百円。一体どういうコスト内訳になっているのか、市民代表として切に情報開示を希望するぜ」
「せめてドリンクくらいはつくと思っていたのだがな。千二百円。千二百円だぞ?ワンコインフィギュアを二個買って釣り銭が来るんだぞ?」
  深々とため息をつく直樹。その辛気臭いツラに文句を言ってやろうとしてやめた。どうせおれも似たり寄ったりの顔をしているに違いないのだ。
「世界一物価と消費税の高い北欧とてこんな無茶な値段ではなかったが」
「手が込んでるのは認めるけどよ。あまりにも費用対効果が悪過ぎるぜ」
  テーブルの上にふてぶてしく鎮座する三切れのミックスサンドを前に、原種吸血鬼と、世界を崩壊に導きうる召喚師は圧倒され、遠巻きに文句をつけることしか出来ない。不機嫌なおれ達とは対象的な周囲の席では、柔らかな秋の陽射しがさんさんと降り注ぐもと、カップルや友人、お年寄り、ビジネスマンがオープンテラスでの談笑に華を咲かせている。
  おれ達がただいま居るのは東京都港区六本木、十字ヶ丘。古くから歓楽街、高級住宅地として定評のあった区画だったが、つい数年前に再開発計画を完了し、最新の商業施設と超高層ビルとが並び立つ東京都随一の観光スポットに生まれ変わった。通称『ゴルゴダ・ヒルズ』と呼ばれる一角である。平日とは言えさすが日本最先端の商業地、溢れんばかりの人通りだ。現地集合したおれ達は作戦会議がてら昼食でも取ろうと思ったのだが、敷地内の飲食店のランチサービスは、千八百円が最低ラインというステキなインフレっぷりでございました。さすが日本最先端の商業地、物価指数も最先端……って納得出来るかっ!
  やむなくオープンテラスになっている喫茶店に入り、二人で六百円ずつ出しあってミックスサンドを注文した。いくらなんでもサンドイッチで千二百円なら量は二人で分けるくらいはあるだろうし飲み物もつくだろうと読んだのだが、現実はかくの如く非情であった。嗚呼、神よ何故私をお見捨てになったのですかエリ、エリ、レマ、サバクタニ
「不謹慎な冗談を飛ばしても腹は膨れん。それで結局、昨夜の直談判は失敗という事か?」
  テーブルに頬杖をつく姿が、悔しいがサマになっている。秋の風にかすかにそよぐ後ろでまとめた銀髪、眼鏡の奥から覗く黄玉トパーズの瞳は、この『ゴルゴダ・ヒルズ』の中でも群を抜いて目立っていた。通り過ぎていく女の子連れが、何度もこちらを振り返っていたりする。おれがかわりに手を振ってあげたが、見事にスルーされた。
「ああそうだよチクショウ。おれと真凛で水池恭介の自宅の駐車場で待ち伏せしたんだけどな。まさかシグマの二人が護衛についているとは思ってなかったぜ。んで、水池氏はそのままヨルムンガンドのオフィスに御出勤あそばして、そのまま一泊して本日に至る、というわけだ」
  おれはテラスのひさしの隙間から、天に向かって一際高く伸びるビルを見上げた。この高層ビル街の中でもシンボルとされる一本の塔、『バベル・タワー』。『ゴルゴダ・ヒルズ』と揃えた名前らしいが、本来の意味を考えるとかなりちぐはぐなあたりが宗教に無頓着な日本らしいと言えばらしい。全六十階の敷地の中には、急成長したIT企業、会計事務所、証券会社などのオフィスが多数入っており、もちろんレストランや駐車場、それに美術館まで備えている。いつぞやおれはザラスの本社を空中庭園と称したが、こちらはまさしく空中都市だった。目下ビジネス界では、ここに本社をかまえる事が成功者としてのステータスと見なされている。ここの四十六、七階に収まっている新興のIT企業『ヨルムンガンド』の代表取締役こそが、今回の依頼人露木甚一郎の生き別れの息子、水池恭介その人なのだ。
 
 
  株式会社ヨルムンガンド。
  北欧神話に登場する、世界樹を取り囲む大蛇の名でもある。これを社名にを冠したのは、『世界をあまねくインターネットで囲う』事に由来するのだとか。二十一世紀初頭のネットワークの飛躍的な進歩、いわゆるIT革命の時流に乗って急成長を成し遂げたベンチャー企業である。つい先日、東証一部に株式を上場し、その時価総額(……まあ、会社のパワーをお金に換算したものだと思ってくれ)はなんと千六百億円にも及ぶ。そんな怪物会社の頂点に立つ社長、水池恭介は若干三十一歳。中学校を卒業と同時に渡米。アメリカで伝説の起業家、サイモン・ブラックストンについて経営を学び、その後日本に戻り数人の仲間と会社を立ち上げ、十年かからずに現在の規模まで押し上げた、まさに立志伝の人物である。
「サイモン・ブラックストン?」
「世紀の不動産王だよ。アメリカを中心に、世界中のオイシイ土地を買い占めてる。そこに建てたカジノやホテルの経営なんかもやってるな」
  雑誌『フォーブス』に掲載される長者番付の常連でもある。同じくアメリカの大富豪、金融王にして海運王である『錬金術師マネーメイカー』ゲオルグ・クレインと並んで、『海のゲオルグ、陸のサイモン』なんて呼び方もされているようだ。
「このゴルゴダ・ヒルズの土地の再開発にも二、三枚噛んでいるんだとよ」
「ほう。とにかくそんな成層圏の彼方の金持ちどもの話は気にしても仕方がないか」
「ま、そりゃそうだ。続けるぞ」
  彼にいたく気に入られた水池氏は、サイモン氏を名義上の役員に据え、彼の援助をもとに仕事を始めたのだそうである。ただ優秀な経営者というだけでなく、積極的にマスコミの前に現れるのも大きな特徴だ。経済番組はおろか、最近はバラエティにまで顔を出し、『ITが全てを変える』『既存の企業では遅すぎる』『古いものを壊して何が悪い』『金でたいていの事は出来る』等など強気の発言を繰り返している。
  三十一歳の若さ、エネルギッシュな性格、まあそこそこ見れる顔、そして何より巨額の個人資産と揃っては女にモテないはずもない。また、旧来のシステムを傲然と不要と切って捨てるその姿勢は、賛否両論を常に巻き起こしている。テレビに何度も登場するうち、ついた異名は『ドラゴン水池』。ミズチが『蛟』を連想させる事から、昇り竜に例えた、んだそうで。また、ネット上に自身のブログを設置し、そこからマスコミを通さずダイレクトに意見を発しており、そちらも様々な意味で大盛況。敵も味方も多い、アクの強い御仁。おれがマスメディアその他から得られるイメージはこんなところだった。
「アメリカに渡ってからは父親とは音信不通。露木恭一郎が水池恭介と名乗ったのは……ふむ、わざわざ改名手続きまでしているのか。『姓名判断でこのままでは不幸が訪れると告げられ、精神的安定を得る為に改名』――おいおい本当かこれは?」
  おれが持ってきたイズモの資料をめくり、直樹が呟く。お互い何か飲み物でも欲しいところだが、生憎このエリアには缶コーヒーの自販機さえ無かった。
「テレビであんだけ強気の発言をしてるわけだし、まあウソだろうな。でもそういう理由なら、家庭裁判所も改名を認めてくれやすいらしいぜ。そうまでして父親に会いたくなかったってことかねぇ」
  だからこそ露木甚一郎も、世間をさんざんに騒がせている水池恭介が自分の息子だと判らなかったのである。資料には水池、露木両氏の写真があったが、これも到底親子だとは思えないほど似ていなかった。水池氏自身は渡米以後の経歴は大々的に宣伝しているが、それ以前の事については東京都出身、としか開示しておらず、出生は謎に包まれていた。かつては探ろうとした週刊誌やマスコミもあったようだが、何時の間にか騒がれなくなった。あるいは黙らされたのか。
「『この男を父親の前に連れてくる』か。イズモさんも随分無茶なミッションを投げてくれるよなあ」
  おれはぼやいた。水池氏の出生を調べ上げる手腕はさすがイズモというところだが、彼らはあくまで『調査』会社なのである。もちろんイズモは、水池社長に父親である露木氏と会ってくれないかと打診しようとした。だが、今水池氏は重要な企業買収の真っ最中だとかで、向こう一週間は誰ともアポイントを取るつもりはないとコメントを返した。イズモが何度か粘り強く交渉したのだが、水池氏の考えは変わらず、それどころかボディーガードを雇ってイズモのメンバーを追い散らすという事までやりだしたらしい。しかし依頼人は依頼人で何としても会いたいと言って聞かない。……板挟みで右往左往した後、彼らは次のような結論を出した。すなわち。『どうしようもない問題は、どうしようもない問題を扱う連中にやらせれば良い』。ナントカと人災派遣は使いよう、とは誰の言葉だったやら。
 
 
「しかしこれはまた随分と急激な株価の上昇だな。ほとんど一年ごとに倍々になっている勘定だ」
  ついでに添付されていたヨルムンガンドの株価レポートを見ながら、直樹が一切れミックスサンドを口に運ぶ。確かにヨルムンガンドの株価は驚異だった。恩師たるサイモン氏から出資を受けた、カタパルト加速の会社設立とは言え、それ以後の時価総額の拡大ぶりは異常とも言える。
「まあな。そこがこの会社の強みってわけさ。有名だからみんな株を買う。みんなが買うから株価が上がる。株価が上がるからみんな買う……って循環なわけだ」
  経済雑誌で誰かが言っていた。「株式市場とは、一位になった子に投票した人は、その子からキスがもらえる美人コンテストのようなものだ」と。確実に美人からキスごほうびをもらいたければ、”自分の好みの女の子”ではなく、”みんなが綺麗だと思う女の子”に投票すべきなのだと。だから、ひとたび”あの子美人だよな”という評判が立つと、いきなり票がその子に流れ込むということが良く発生するのだ。
  こうして上がった自身の株価を、ヨルムンガンドは他企業の買収に使ってきた。
  企業を丸ごと一つ買い取ると言う事は、その会社の株を全て買い取らなければならず、多額の資金と膨大な手間が必要となる。しかし、現金の代わりに、『値上がりしているヨルムンガンドの株』をその会社の株と交換する事にすれば、手元に資金が無くとも容易、迅速に他の企業を買収する事が可能となる。有能な企業を支配化に置いた事によってヨルムンガンドの評判は高まり、結果としてさらに株価が上がる事になるのだ。
  それはさながら獲物を捕らえ、まずは一気に飲み込み、腹に放り込んでからじっくり栄養にしていく光景に似ていた。よって、ヨルムンガンドの企業買収はその社名にちなんで『ヘビの丸呑み』と称されることもしばしばだった。
「丸呑みをして大きくなり、その大きくなった身体でさらに大きな獲物を丸呑みする蛇、か。神話のヨルムンガンドは世界を一周するほどになったが、このヘビはどこまで大きくなるものかな」
  レポートを閉じた直樹が妙に達観した口調で述べた。
「さすがに最近は値上がりも頭打ちになって来ているみたいだけどな。でも今、ヨルムンガンドが買収にとりかかってるってもっぱらの噂が、IP電話ソフトで絶賛ブレイク中のソフト会社『ミストルテイン』だ。ここを傘下に収めれば、今までヨルムンガンドが吸収した数々のウェブサービスとの相乗効果が期待出来るって話だからな。これでまた株があがるぜ」
  熱く語るおれを奴は冷ややかに一瞥した。
「で、貴様はそれを当て込んで株を買ったと」
「な、ななな何を言うかね笠桐クン」
  ミックスサンドを一切れ口に放り込む。
「なけなしの生活費を切り詰めて作った虎の子の貯蓄で、素人にも買いやすくなっていて値上がり絶好調のヨルムンガンド株で一儲け――と言った所かな?」
「は、はははは。まるで見てきたように滑らかな仮説をぶちあげるじゃないかお前」
「なに、この間事務所の応接間に、大学生協で買ったと思われる『三時間でわかるデイトレード』等という本が広げっぱなしにしてあったからな。誰のかは無論知らぬが」
  ……おれ、迂闊。
「ま、悪い事は言わん。今手持ちの株があったなら早々に売り払っておくことだな」
「とっとと売り払うさ、ミストルテインを吸収合併して株価が上がったら、な」
  奴がおれを見る目に哀れみの色が混じる。
「そうやって売り時を逃がした者が、最後には紙くずと後悔を抱えて海に飛び込むのだ」
「こんだけ上り調子の株が下がるとでも?」
「バブルの頃も皆、土地は上がり続けるという神話に随分と踊ったものだ。いずれ暴落すると言う当たり前の言に、耳を貸すものは誰も居なかった。いつの時代も欲に目がくらんだ人々は愚かだ。……俺も含めてな」
  枯れた口調で述べる。お前ホントに設定年齢十九歳か。そーいえばコイツ、実家というか居城を売り払ったら二束三文で、しかも当時の政治体制がクーデターで崩壊したせいで通貨が暴落。よりにもよって東京なんぞに来てしまってまた投資に失敗して、結局購入出来たのはおれと大差ない安アパートだったりする。
「経験則からいうとな、貴様のような中途半端に知識があって、自分は頭がまわると思い込んでいる奴が一番危ない。浅い読みで動くから、海千山千の相場師から見れば格好のカモだ」
「わかったわかった、考えとくって」
  いつになく食い下がる奴の言葉を手を振って終わらせ、おれは直樹の手からレポートを取り上げた。
 
 
 
 

◆◇◆ 6 ◇◆◇

 
 
「で、今日は真凛がいない分、久しぶりにお前と組んで、ってわけなんだが……」
「真凛君は学校か。そう言えば平日だったな。学生は大変だ」
「テメェだって一応専門学校生だろうが」
「そう言えばそうだったな。しかし真凛君の事だ。ここに来たがったのではないか?」
「あーもーうるせーのなんの。学校があるから参加しないなんてアシスタントじゃない、とかゴネてな。説得するのが大変だったぜ」
  アシスタントとしてのココロイキは認めてやらんでもないが、アヤツ自身の将来のためにもあくまで優先すべきは学業。サボりの口実になってはいかんのである。ぶーたれてるおれを見て、直樹はメガネの位置を直した。
「お前がそこまで他人に気を使うとはな」
「……あのなおい。そういう言い方をされるとおれがまるで空気が読めないヒトみたいじゃないか。このご時世、おれ程仕事中に周りに気を配るワカモノはそういないと自負してんだけどな?」
「お前のは気遣いではない。単に現場ごと現場ごとのその場しのぎだろう」
「……悪いかよ」
  なんかいつぞやも誰かに同じような事言われた気がするぞ。
「いや、むしろ逆だ。そのお前にしては、近頃随分と真凛君の面倒を見ていると思って珍しく感心しているだけだ」
  今日はやけに絡むなコイツ。よかろう。おれも真剣な表情で応じる。
「なあお前、考えてもみろよ。真凛がもし留年でもしてみろ。本人は自業自得としても、奴のお母上に何と申し開く」
  直樹の表情が心なしか青ざめた。無意識のうちに胃の辺りを手で押さえている。
「あのご母堂か……。目に浮かぶようだ、さながら築地のマグロの如く解体されたお前の成れの果てが」
「お前も同罪だよ!おれはまだいいぞ、お前はなまじ楽に死ねん分長く苦痛を味わう事になるんだ」
  真凛のご母堂にして七瀬式殺捉術の現当主にかかれば、我ら如き若輩者は冷凍マグロと大して変わらぬ運命を迎える事になるであろう。つくづくこの世界の闇は深い。
「……そんな恐ろしい仮定を想像しても始まらぬ。で、真凛君で突破出来なかったとなれば、俺達二人での力押しは難しいな。これからどうするのだ?」
「安心しろ、すでに昨日のうちに一手を打ってある」
「ほう?では具体的に何からはじめる?」
「とりあえずは、これをやる」
  おれは自分のザックの中から大量の紙束と幾つかの書籍を取り出し、テーブルの上に並べた。
「何の資料だ」
「大学の課題レポートだ」
「……おい」
「うるせぇ黙れヒマ人め。半期で単位が取れるものはいざ知らず、通年の講義はこのレポートで大抵単位が決まるんだよ。落としたらシャレにならねえんだぞ」
「ならば休み中に少しずつ進めておけば良かったではないか」
  正論である。だがそんな正論がまかり通るのであれば、八月末日に宿題をやる子供も、〆切間際にエディターに向かう小説家も、印刷所に怒られる同人作家もこの世から消えて無くなるはずなのだ。
「ご苦労なことだ。だが実際、お前の記憶術と速読術ならテストの類は楽勝だろう?」
「それが通用したのは高校までだったな。文系なら楽出来ると思ったが、これなら理系の方が楽だったかも知れん」
  こんな体質になってしまったささやかな副作用として、おれは自分の脳味噌をある程度自由にいじくり回せるという特技を身につけた。記憶術の類はお手の物。なにしろ目を通して流れ込んできた映像を、直接脳の記憶領域にぶちこんでやればいいわけだ。アタマの中に小型のノートパソコンが入っているようなもの、と思って頂ければ間違いない。おかげで高校の試験は苦戦した事があまりない。何しろテストの時は、脳裏に保存した教科書や国語辞典の映像を見ながら問題を解けばよいので、ある程度の点数は確保出来たのである(英単語の暗記テストなんていうこの世で一番無駄な事に人生を費やさずにすんだ事には、素直に感謝すべきだろう)。ところが大学に入ってからはそうもいかない。何しろこの手のレポートは資料を読み込んで自分で考えて作成しなければならないので、カンニングが出来たところであまり意味は無いのだ。
「だいたいこのご時世に手書きってのがイカれてるよな。履歴書だってエクセルでプリントアウトする時代だってのに、これだから石頭の教授は……」
「む、そうだ。プリントアウトと言えば肝心な用件を忘れるところだった」
  今度は直樹がカバンの中に手を突っ込む。
「なんだ、えるみかの等身大ポスターでも買ったのか?」
  ちなみにこの男、店頭広告に用いられるアニメ美少女の等身大ポップをもらって自宅まで担いで帰ったという逸話がある。
「それは帰りに三つ買っていく」
「なぜ三つも?」
「実用、保存用、観賞用に決まっているだろう。そんな基本的なことを聞くな」
「……そうか」
  ”実用とは何だ”という疑問がおれの脳に浮かんだが、返答結果をシミュレートした結果、スルーすべきという結論が出た。
  直樹が取り出したのは写真屋で現像するとくれるフォトアルバムだった。そういえば、旅行の後にそれぞれが撮った写真をアルバムにして焼き増しのために回覧する、という事をしなくなったのはいつごろからだったか。
「この夏に皆で海に行っただろう。その時の写真を渡すのを忘れていてな」
「ああ。あん時は大変だったなあ」
  海に行ったくせになぜか一番盛り上がったのはエアホッケー大会だった。最後には各自が己の異能力を全開にして大人気なく勝負にのめり込んでいたような気がする。
「メールで送ってくれれば良かったのに」
「俺の分はとっくに送っている。これは姉貴の分だ」
「なるほどね。来音さんのフィルムカメラは随分気合入ってたもんな」
「ロクに保管も出来んくせに骨董カメラばかり買うのがあの女の悪癖だ。それで、焼き増しをするのでお前の写ってる分を選べ、との伝言だ」
  おれはフォトアルバムを開く。みんなが写っていた。直樹、真凛に涼子ちゃん、所長羽美さん来音さん、桜庭さんにチーフに仁さん。それと、可愛げのないツラをした見覚えの無い男。
「……サンキュー。でも、やっぱり焼き増しは遠慮しとく」
  フォトアルバムを返す。おれの台詞を半ば予期していたのだろう、直樹は素直に受け取った。奴はしばし考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「……結局。まだ治ってないのか、その相貌失認そうぼうしつにん
「治ってない。……と言うより治らないだろうな。壊れたんじゃない、欠けてしまったんだから」
 
 
  まあ、取り立てていちいち説明するような大した事でも無いのだが。
  こんな体質になってしまった影響としてもう一つ、おれは極めて限定的な相貌失認を患ってしまった。人間は他人と接した時、目鼻や輪郭などの情報を統合して『顔』という非常におおまかな情報にまとめ、記憶する。この『おおまかな』という所がミソで、これによって、次に会った時、その人の髪型や服装が変わっていたり、前回笑っていた人が今回は怒っている、という時にも「ああ、あの人だ」と判断することが出来るのだ。「人と人を見分ける」という事は誰もが当たり前のようにやっているが、実はかなり高度な脳の機能を使用しているのである。
  この脳の機能が何らかの理由により働かなくなってしまうと、『他人の顔の見分けがつかない』という事態が発生する。これが相貌失認だ。他人と会えば髪型も輪郭もわかるし、目鼻立ちもちゃんと見えている。なのにそれを『顔』として情報化出来ないのだ。次に会った時にはもうその人が誰なのか判らなくなってしまう(もちろん、服装や周囲の状況から推測は出来るが)。そして、力を得た反動として、おれの脳の機能はここが欠けててしまったようなのだ。
  もちろん、今までこの仕事をやって来た事からもわかるように、おれはちゃんと真凛や直樹、あるいは戦ったエージェントの顔はちゃんと覚えている。おれが覚えられず、かつ、思い出せないのはただ一人の顔……亘理陽司、自分自身の顔だけである。禁断の存在を己の人格の上にロードし使役しする『召喚師』の技。次第に己の人格と呼び出したモノが混じっていき、最後には自我を失うこの術にはお似合いのペナルティと言えた。
「しゃーないさ。こんだけの力の反動が、自分の顔がわからなくなるくらいで収まるのならむしろ安いくらいだ」
  おかげで、おれの部屋には鏡が一枚もなかったりする。経費がかからなくて結構なことだ。おれはへらへらと笑った。他人の顔ならともかく、自分の顔ならそうそう社会生活に困る事は無いしな。どうせこんな記憶も、そのうちどの人格のものだったかわからなくなってしまうのだろうし。
「ま、でも同情してくれるなら好意はありがたく受け取っておくぜ」
  会話の隙をついて、最後のミックスサンドに手を伸ばす。と、皿に届く寸前、奴の手にひっ攫われていた。
「……おい、てめぇ」
「一切れ四百円ともなるとなかなか他人にくれてやる気にはなれなくてな」
「金は半額ずつ出しただろうが!」
「では半分こにでもするか」
「それはそれでイヤだ」
  日本最先端のショッピング施設のカフェテラスで至極低レベルな争いをおれ達が繰り広げていると、
「よろしければ、こちらでご一緒しませんか?」
  横合いからかけられる声。『折り紙使い』門宮ジェインさんが立っていた。
「水池恭介が、貴方達とぜひ昼食をご一緒したいと申しております」
 
 
 
 

◆◇◆ 7 ◇◆◇

 
 
  外のガーデンプレイス同様に様々な店や施設で賑わう『バベル・タワー』も、一度エレベーターに乗って十階まで上昇すれば、そこはもうビジネスオフィスそのものだった。うちの事務所とは比べ物にならないくらい高級な内装。高級とはすなわち、遮音性に優れているということである。エレベーターを中心に、ちょうど漢字の『井』の字状に広がった壁向こうのフロアでは何十人もの人が働き、電話し、コンピューターが唸りを上げているだろうに、まるで高級ホテルの廊下のような静けさだった。十階で一旦降り、今度は四十階より上、限られたごく一部の者だけしか立ちいることの出来ないフロアへとつながるエレベーターへと乗り換える。
「さっきまでのエレベーターからするとちょっと無骨みたいですけど」
  ガーデンプレイスに直通していた方は、最先端のビルに相応しくガラス張りになっており吹き抜けのど真ん中を貫いていた。こちらはと言えば、広さは大したものだが、到って普通のエレベーターだった。ボタンを押すと扉が閉まり、上昇を始める。
「防犯上の理由ですね」
  シンプルに門宮さんが答える。なるほど、ビジネスで毎日使う人にとっては景観よりも安全の方が重要だ。四十七階まで二十秒とかからない。そのくせ騒音はほとんど無い。普段はあまり意識しないが、これは中々凄い技術だと思う。
「ちょっとした電子要塞といったところか」
  物珍しげにメガネを直しながら微妙に懐かしいフレーズを呟く直樹。悔しいがこいつがここにいると切れ者の若きエンジニアに見えない事も無い。
「いったいどんな魔法を使ったんですか?水池氏は昨日まであれ程貴方達に会うのを避けていたというのに」
  門宮さんが興味津々の態で尋ねてくる。水池氏からおれ達の案内役を仰せつかったのであろう。あるいはこれが聞きたいがために志願したのかも知れない。
「大したタネじゃありませんよ」
  おれははぐらかした。こういうのはせいぜいもったいぶる事に意味がある。門宮さんは未練ありげだったが、やがて話題を変えた。
「それにしても、『真紅の魔人』と『召喚師』の揃い踏みを拝見出来るとは思っていませんでしたよ」
「別に貴女達に見せたくてやっているわけではない」
  フロアを示すパネルを見上げたまま直樹が呟く。
「それは失礼しました。でもこの目で確かめるまでは到底信じられなかったものですから。本国ステイツでは欧州支社経由でお二人については随分耳にしました。あの死闘が日本ではほとんど知られていないのは不思議な限りです。それがまさか、日本に渡ってきた時には二人とも同じ事務所に所属しているとは」
「……まあ。腐れ縁という奴でしてね」
  まぶしい笑顔を向けてくる門宮さんに対しおれは言葉を濁した。正直、往事の事はあまり思い出したくない。
「そこらへんの経緯も、少し興味ありますね」
「くだらないおしゃべりも情報収集のうち、というわけかな」
「おい直樹」
  奴の愛想の無い口調をおれが咎めると、直樹は口を尖らせてそっぽを向いた。基本的に礼儀正しい奴なのだが、この男は何故か(精神的)年上の女性に対しては敬意を払わぬこと甚だしい。それが例え門宮さんのような美女であってもだ。反面、年下に対しての相好の崩しっぷりときたら、知人でさえ無ければ一市民の義務として迅速に警察に通報するところだ。ここらへんは恐らく超美人の姉、来音さんの影響がなにがしかあるのだろうが……まったく理解に苦しむ。やはり女性はっ!純情な少年の浅知恵や妄想の及びもつかないミステリアス・ワンを備えた大人の女性に限るのである。断定上等、おれは自分の発言に後悔などしない!門宮さんはと言えば、直樹の失礼にも関わらずあの微笑を浮かべたのみ。
「失礼しました。お二人のプライベートまで立ちいるのは、野暮と言うものでしたね」
  なんか微妙に物凄く嫌な言い回しだなぁそれ。
  停止したエレベーターが扉を開くと、おれ達の目の前には正面には無機質で豪奢な(IT関係者ならこのニュアンスをわかってくれると思う)ガラス扉があり、扉の前には野暮な制服に身を包んだごっついアングロサクソンの大男が立ち塞がっていた。言わずと知れた門宮さんの相棒、機械化人間『スケアクロウ』である。
『昨日も会っているが、久しぶりだな、と言っておこう』
  CNNかBBCのキャスターでも務まりそうな極めて流麗な英語である。それがなぜ日本語を話すとあんな通信販売口調になるのだろうか。
『実質二ヵ月と半か。腕も背骨も修理が済んだようで何よりだ』
  おれが返答する。ちなみに彼の機械の両腕を引きちぎり背骨を握りつぶしたのは、我が女子高生アシスタントだったりする。
『おかげさんでな。もっともあの時の処分で俺は責任を取らされて降格。今は同じコンビと言えども、主任がジェインで俺が副主任だ』
『それはそれは……』
  おれが微妙に言葉に詰まっていると、スケアクロウはその鋼鉄の手でおれの肩を叩いた。
『変に気を回すな。俺としてはむしろ気楽なものだ。もともと前線上がりだからな。ジェインの指示は的確だ。それに従って俺が攻撃をするほうが、理に適っている』
『いや、そりゃわかってるんだけどさ』
  ちょっとだけ、あと数年もしたら門宮さんがどこまで出世しているかを考えると空恐ろしくなった。どうにもこうにも、おれの周りにはデキる女性が多すぎるような気がする。
 
 
  ヨルムンガンド社の実際の仕事場は四十六階に集中しており、四十七階は応接室、食堂、そして社長室など、お客向けの施設が収まっていた。スケアクロウと門宮さんに先導されるまま自動のガラス扉をくぐる。途中二回もIDカードを要求する扉があり、その都度ゲストコードを入力しなければならないため、えらく時間がかかった。そうして辿り着いた社長室は、実に二十畳の広さを持ち(おれの部屋が風呂トイレ台所を含めてすっぽり収まって余りある)、毛足の長いカーペット、どっしりとしたマホガニーのデスク、多分デンマークあたりの産であろうキャビネットが壁に並んでおり、『いかにも』と言った雰囲気だった。ついでに言うと、キャビネットの裏には小さいながらもホームバーまで備え付けられている。真中には来客用の応接セット。突き当たりの東南の壁は一面ガラス張りとなっており、高くそびえる東京タワーや浜離宮、その向こうに広がる東京湾が一望できる。これがホテルの一室ならば、このロケーションだけで料金二割増しは確定と言ったところだ。
  そして、その奥にある社長室に、水池恭介はいた。
  写真で見る通りのそれなりに整った顔立ちだが、実際に対面してみると立ち昇る精気のようなものが段違いだ。これだけのパワーが無ければ、生存競争の激しいベンチャー業界ではたちまち喰われてしまうのかもしれない。
「用件があるならさっさと言え」
  んで、第一声がこれである。ドラゴン水池と称される、不敵な面立ち。テレビで散々お馴染になった強気の発言はパフォーマンスではなく、素でこういう性格らしい。声こそこちらにかけているものの、視線は卓上のノートPCから外さず、一心不乱に未読メールを捌いている。シグマの二人は扉の側で控える。部屋の主はイスを勧めてくれなかったので、おれと直樹は勝手にソファーに腰を下ろして脚を組んだ。本来は銀行だの投資ファンドだののお偉方のためのソファーは、分け隔てなく貧乏学生も迎えてくれた。交渉の基本はリラックス。今日本でもっともお金持ちにして有名人を前にしてのこの図々しさは、もちろんこのバイトで培われたものである。
「就職活動に備えて、会社訪問でもしておこうと思いましてね」
「それなら正規にアポを取ることだな。生憎とそんな利益を産まない行為に裂くスケジュールはないが」
  水池氏は変わらずディスプレイを見つめたまま。代わって直樹が口を開く。
「それはまた。優秀な人材の確保こそがIT業界の急務でしょう」
「講演会ならやっているさ。東大京大一橋。国立と私立の大手は大体やったな。優秀株はよりどりみどりだ」
  図太い笑みを浮かべる水池氏。
「昼食をご一緒したいとのお誘いだと伺ったんですけどね?」
「そうだな、そろそろメシにするか」
  言うと、ノートPCを畳んでこちらにやって来た。机の下から何やら袋を取り出し、応接テーブルの上に置く。それは何と言うか、おれにとってはとても馴染みのある袋だった。
「日本最新のショッピングモールなどと言ってはみても、その実コンビニひとつロクにない。使えん話だ。ようやく地下のテナントに入ったが、そうでなければ本気で引っ越そうかと考えていたぞ」
  袋を広げる。中から出て来たのは、フィルムで包装された、いわゆるコンビニのミックスサンドと缶コーヒーだった。数はご丁寧に五人分。
「門宮君と『スケアクロウ』君も一緒にどうだ」
  気さくに声をおかけくださるIT長者様。
「あのー……?」
  『金でたいていの事は出来る』と豪語する男が食べるには、ちょいと味気ないと思うのだが。
「別に高いモノを食いたくて金を稼いでいるわけじゃない。会食以外で高いメシを食う気にはなれんし、何より時間が無駄だ」
  言うや水池氏はとっとと包装を解くと、サンドイッチを美味そうに口に放り込みはじめた。ことさらに貧乏学生に嫌がらせをしているわけではなく、普通にこれが彼の昼食のようだった。
「さっさと食わんか」
「はあ」
  地上四十七階、豪華な調度類に囲まれて食べるミックスサンド。さっき食べた千二百円のそれと、味の違いはおれにはわからなかった。結局シグマの二人も加わって、五人の奇妙な昼食会が始まった。とは言え会話の切り口も見つからず、一同無言のままサンドイッチを腹に送り込む。って、隣でスケアクロウも平然と食べているが、そう言えばこいつの腹はどうなっているのだろうか。
 
 
 
  ――五人、か。
  テーブルを囲む人間を、『ニョカ』はその目に克明に捕らえていた。
  キョウスケ・ミズチ。事前に入手した資料によれば、ミズチもまた日本語で『蛇』を意味し、ドラゴンを名乗っているとか。
  『蛇』の唇が切れのよい半月を描く。
  よろしい。
  まずは極東の草蛇に格の違いを思い知らせてやるとしよう。
 
 
 
「俺のブログにコメントをつけたのはどっちだ?」
  水池氏がじろり、とおれと直樹を見据える。隠してもしょうがないので挙手するおれ。
「一応これでも御社の株主でしてね」
「せいぜい投資額は五万円というところだろうが」
「お前は余計な事言わなくていいの」
  通常、企業の株を一定数買うと、株主優待としてその企業からいくつかの恩恵を受ける事が出来る。食品会社なら年に一回お中元が送られてきたり、映画会社なら試写会の招待券がもらえたり、などだ。ヨルムンガンドの株主優待は少々変わっていて、一株でも持っていれば、社長である水池氏のブログにコメントをつける権利がもらえる、というもの(逆に言うと、何株持っていてもお中元がもらえるわけではない)だ。襲撃に失敗した昨夜、おれは『あなたが昔お世話になった人がお会いしたいと思っている。コンタクトについてはあなたの警備のK氏に確認あれ』てな主旨のコメントを打っておいたわけである。メールも電話も直接交渉もダメ。しかしながら考え方を変えてみれば、ブログ経由なら社長様に簡単にコンタクトが取れるわけで、まさしくこれがITの恩恵というわけだ。しかしまあ、株主優待がまさかこんなところで役に立つ日がこようとは。
「読んでいただけたようで幸いです」
「通常ならこんな話は耳も貸さんさ。門宮君に感謝するんだな」
「我々の仕事は警備です。一つの話し合いですむものを無為に衝突させることはないと思いまして。亘理さんでしたら安全と判断しました」
  どうやらこの場をセッティングしてくれたのは門宮さんらしい。いやまあ、実のところそこに賭けていたわけなんだが。
「ずいぶんと思わせぶりな発言をかましてくれたな。ブログでは株主の憶測が飛び交っているし、今見たら週刊誌からも問い合わせのメールが入っていたな。どうせ階下には記者ネズミがうろついていただろうが……」
「はい。丁重にお帰り頂きました」
  門宮さんのお言葉。さっすが。
「そういうわけだ。これ以上余計な真似をされても困るからな。わざわざこの俺が時間を割いて会ってやった」
「寛大な対応に感謝します」
  皮肉ではなくおれは謝辞を述べた。もしおれが彼の立場なら黙殺するか、それこそ『スケアクロウ』あたりに排除させるだけだっただろう。対話の場を作ってくれた事自体、彼としては最大限の譲歩なのだ。
「ミストルテインの買収工作でお忙しいようですしね」
  おれはあえてもう一歩踏み込んでみた。水池氏は、にやりと太い笑みを浮かべる。
「まあな、あそこの役員連中、すぐに折れるかと思ったが中々にしぶとい。あと二人、こちらに尻尾を振らせてやらんとな」
  社内の機密に該当するだろうことを、平然とさらけ出す。
「それとな、お前」
「亘理です」
  おれの発言など聞こえてない風を装い、
「跳ねっ返りは嫌いじゃあない。ただし――」
  水池氏はずい、と身を乗り出してきた。
「俺に脅迫は通じない。この一回だけだ。次は無いぞ」
「……了解しました」
  さすがに若くして一大帝国を築いた男、ここぞと言うときの迫力は段違いだった。ともあれ、これでおれ達はようやく話し合いのテーブルに辿り着いた事になる。
「もう一度言う。用件があるならさっさと言え」
  おれは手短に、イズモ・エージェントサービスからの依頼の内容を語り始めた。
 
 
 
  『蛇』は攻撃準備に入った。直線距離にしておおよそ千五百メートル。高度はこちらがわずかに上だが、今日の東京の上空には強い風が吹いていた。仮に、もしも今『蛇』がいる地点から狙撃を試みるとしたら、オリンピックの金メダリストだろうと、軍や警察所属の狙撃兵だろうと匙を投げるだろう。しかし、『蛇』にとってそれは問題ではない。
 
  犬歯で人差し指を強く噛む。ぷつりと皮膚が裂け、赤い血の珠がみるみる盛り上がる。指を下に向けると、血の珠は平たい欄干の上に置かれたミネラルウォーターのボトルの中へ吸い込まれるように落ちた。
「……、……ぃ、……、ガ……。 ……、……、ィリ……」
  ボトルの上に掌をかざし、かすかにどこの言葉とも思えぬ何事かを呟く。小気味の良い律動に満ちた、低声だが弦楽器のように響く声。幸か不幸か、自分たちの世界に没頭している周囲の人間は、誰一人それに気づくことはなかった。ボトルの中に垂らされた紅い雫が拡散し、そして何事もなかったかのように溶けて消える。
「……ぁ、……。……ゎン、……。 ……リビ」
  ボトルを逆さにする。当然、中の水はこぼれて床に飛び散――らなかった。音もなく、まるで一つのゼリーのように形を保ったまま、静かに床に着地する。
 
 
「ゆけ。『絞める蛇キガンジャ・ニョカ』」
 
 
  その透明のゼリー状の水が、ぶるり、と震えた。部屋の中には何十人と人がいる。その誰もに気づかれず、『名』を与えられた透明の水の固まりは『親』の命に従い、実に驚くべき速度で壁の隅を這い進み、給水器の蛇口へぬるりとすべり込んでいった。
 
 
 
 

 

 ◆◇◆ 8 ◇◆◇

 
 
「……と、言うわけで、息子恭一郎氏を、お父上である露木甚一郎氏に引き合わせるためおれ達がやってきたというわけです」
  おれは手短に話を終える。実際のところ、水池氏のランチタイムはあと十分。次はまた別のアポイントが控えているのだそうだ。貴重なチャンス、なんとしてもこの十分でイエスの返事をもらわねばならない。
「露木恭一郎、か。そんな奴はとっくに死んだよ」
  缶コーヒーを胃に流し込み、無感動に水池氏は述べた。とはいえ、これ程までに『本人である』と明示されているイズモの調査結果にケチをつけたわけではない。
「今の自分はあくまで”水池恭介”であると?」
  直樹が問う。たしかに、日本で裁判所を介して改名するのはそう簡単な手続きではないはずだ。
「ああ。あまり知られたくはないが、否定するつもりはない。アメリカに渡ったときにその名前は捨てた」
  サンドイッチをあらかた食い終えると懐からタバコを取り出した。げげっ、ダビドフ・マグナムなんて吸ってるよこの人(ダビドフを知らないという人は、一箱千円のタバコと申し上げればわかってもらえるだろうか)。食べ物と違い、こっちには金をかけているらしい。おれ達がまだ食っているのにおかまいなく火をつけると、煙を吐き出した。きつい匂いがあたりに広がる。
「お前も吸うか?」
「遠慮しておきます」
  せっかくの高級タバコだが、メシを食いながら吸う気にはなれない。
「……そう。だから、恭一郎に会いたいという、その露木なにがしの要請には応じようもない」
  先ほどまでの強気の口調よりもややソフトな物言いだが、それがいっそう明確な拒絶を感じさせた。十数年ぶりの父親との再会のチャンス。ゴールデンタイムの人捜し番組なら、ここで浮気をして子供を捨てた親、駆け落ちした娘あたりが拒みつつも迷い、それをスタッフが説得してスタジオで再会、というシナリオになるのだろうが、水池氏の場合は即答だった。となると、
「名前を捨てたのはお父さんとの縁を切るため、ということですか」
  沈黙。それは肯定の意思表示だった。正直なところ、おれは困ってしまった。うすうす予想はしていたものの、最初っから全く会う気がない人間を引き合わせるとなれば、それこそ無理矢理拉致でもしないことには話が進まない。さてさてどうしたものか。手詰まりの中、口を開いたのは直樹だった。
「しかし解せませんな。露木弁護士と言えば有名人、わけても悪評など聞かれない人物ではありませんか。誇ることはあれ、忌避する必要があるのですか」
  うわ、いきなり地雷踏みに行ったよこの阿呆。……まあ個体として生きる吸血鬼に家族間の機微を読めってのは難しいのかも知れんが。
「――露木というのはな。偽善者の名だ」
  案の定、不機嫌そうに水池氏は言葉を吐き捨てた。おれは触れるべきか迷っていたが、この会話の流れでは切り出さないわけにはいかなかった。
「やはり、お母様の事を?」
  水池氏が向けてきた視線に、おれはたじろいだ。半分以上は、おれ自身の後ろめたさによるものだったが。もう一つのイズモのレポートには、露木恭一郎少年が父と縁を切りアメリカへ渡る原因になったと思われる事件が記されていた。
 
 
  ――カネのあるところには暴力がついてまわる。トミタ商事、および、トミタ商事が被害者から集めた金を投資した先には、暴力団の息がかかっているところが多かった。そういうところに単身乗り込んでいってカネを返せ、と申し立てたわけだから、露木弁護士にかかる圧力は相当なものだった事は想像に難くない。取り立ての際には随分と脅迫や妨害も受けたそうである。
  だが、暴力団にしてみれば仮にも相手は弁護士。下手な脅しや直接の暴力は、そのまま逆手に取られて警察の介入を招くおそれがある。結果、彼らが取った手段は、姑息と称しうるものだった。無言電話や差出人不明の脅迫状、明らかに悪意を持って流される風聞、過去のスキャンダル。人間、誰だって叩けば多少は埃が出る。結婚前につき合っていた異性や、親の仕事上の汚点などを探し出してきては、かなりあざとく近所に吹聴してまわるというような事もやってのけたらしい。
  それでも、正義と信念の人である露木弁護士は怯むことはなかった。……だが。家族はそうではなかった。夫を支えて露木夫人は随分と健闘したらしいが、連日の嫌がらせに疲れ果て、やがて睡眠障害を発症した。そして寝不足の状態で車を運転し……交通事故に遭い亡くなった。一人息子の恭一郎を、安全を期して学校まで迎えに行こうとしていた途中だったのだという。
  そして皮肉にも、この露木夫人の死こそが、世間の注目を集めることとなった。詐欺事件として終わったと思われていたトミタ事件の被害者達が今なお苦しんでいることを知らせるきっかけとなり、世論が味方につき、事件は決着へ向けて進み出したのだ。
 
 
「あの男は自身の名誉のために何もかもを切り捨てた。ならば名誉だけ背負って生きればいい」
  水池氏はまだ十分残っているタビドフを灰皿に押しつけ、それ以上おれ達に口を差し挟む余地を与えなかった。
「用件は他にはないな?露木甚一郎とやらが俺に会いたがっている。お前達はそれを俺に持ち込んだ。そして俺はそれを聞いて、無理だと断った。以上でこの件は終わりだ」
  時間は十分を経過していた。
「そういうわけにはいきません、露木氏は――」
「しつこいな。二度目はないと言っただろう」
  水池恭介氏は席を立ち、パンくずを払った。
「会食は終了だ。実りはなし。これ以上俺を拘束しようとするなら、業務妨害とみなす」
  その視線に応じて、シグマの二人がさりげなく居住まいを正す。それに応じて直樹もわずかにソファから腰を浮かし、たちまちのどかな昼食気分は社長室から吹き飛んでしまった。ここからは門宮さんも容赦なく警備としての務めを果たすだろう。水池氏の態度がこうまで強硬とは、正直誤算だった。おれは心の中で舌打ちする。『時の天秤は常に私達『シグマ』に味方する』。門宮さんの言葉が耳に痛い。おれ達を尻目に当の水池氏は社長室を出ようとしていた。強硬手段は下の下策だが……やむなしか。それとも。
 
 
  おれ達が行動を決めようとして顔をあげると。
  本当に偶然に、水池氏の足下にあるそれ・・が目に入った。
 
 
  直樹も、門宮さんも、そして水池氏も気づいていない。
  社長室には小さいながらもホームバーがあった。その流しの小さな蛇口から、何か透明なゼリーのようなものが流れだしている。それ・・は、高級な絨毯を横切り、その先端は水池氏の足下近くにまで届いていた。
  蛇口から実に数メートルにも渡り伸びる細長い透明なゼリー状の物体。あまりに透明だったので、光の加減が違っていたら気づかなかっただろう。高級ホームバーともなると、蛇口から水の代わりにジェルでも流すのだろうか?だが、どこかで見たような……。
  あまりにシュールな光景にしばし呆然と見守る。と、その先端が――蠢いた。
「水池さん、それ、」
「あん?」
  そこまで口に出した時、おれの脳裏でアラームとともに検索結果が表示され、唐突に全てを理解した。
「『絞める蛇キガンジャ・ニョカ』!!呪術師の使い魔だ!!」
  おれの絶叫と、絨毯に横たわっていた『絞める蛇』の鎌首が跳ね上がったのはまったくの同時だった。その勢い、まさに密林から躍り出る毒蛇のごとく。床から水池氏の首筋を目指し、『絞める蛇』の頭が一直線に空を奔る。一気に思考が加速する。――直樹、門宮さんは完全に反応が遅れた。おれの能力では――悠長に一言紡いでいる間に手遅れだ。どうする!?
  その時、横合いから走り込んだ『スケアクロウ』が水池氏をその巨体で突き飛ばした。おれと同じ方向を向いていたこいつも気づいていたようだ。ちょうど水池氏の首筋の位置に入れ替わった『スケアクロウ』の胸元に、『絞める蛇』がその毒牙を剥いた!
「Hh……ッ!!」
  くぐもった声が一つ。突き飛ばしたのではない。弾き飛ばしたのでもない。『絞める蛇』の突進は、『スケアクロウ』の鋼鉄の、いやそれ以上の強度を誇る装甲を埋め込んだ胸板を、杭のように貫いていた。
「おい!『スケアクロウ』!?」
  細長い体躯で胸板を貫いた『絞める蛇』はそのままの状態で、背中に抜けた上半分をスケアクロウの右腕に、胸板に埋まっている下半分をその腰に巻き付けた。次の瞬間、胸が悪くなるような光景が展開された。
  けたたましい金属音が鳴り響く。『絞める蛇』が巻き付いた『スケアクロウ』の右腕を締め上げ、右腕と、支点となった胸の穴と腰とをいっぺんにねじ切ったのだ。
「…………!!」
  悲鳴を上げることすら出来ず、右腕と胴を切断された『スケアクロウ』は絨毯の上に転がった。ここでようやく、おれが突き飛ばされた水池氏と『絞める蛇』との間に割り込むことに成功する。
「なんだ!なんなんだこれは一体!?」
  その疑問を発したくなる気持ちはよくわかるがとりあえず放置。
「蛇口を閉めろ!こいつは水があればあるほど強くなる!!」
  おれの指示は、だが遅きに失した。すでに潜む必要がなくなったと判断したのか、『絞める蛇』はその身をぶるりと震わせる。蛇口、とはよく言ったもので、はじけ飛んだそこから勢いよく水が噴出……せずに、そのまま蛇の尻尾へと変じてゆく。みるみる巨大になってゆく『絞める蛇』。最初はロープ程度の太さしかなかった胴体が、あっという間に人間の腕くらいの太さに成長し、体長はすでに十メートルを優に超える。
  『絞める蛇』の頭がこちらを向く。そこに目や鼻などないのだが、おれはまさしく蛇に睨まれた蛙だった。とたん、『絞める蛇』はその胴体をくねらせ、おれと水池氏双方にしゅるしゅると巻き付いてくる。透明な水の、ぞっとする冷たさ。その胴体は水のくせに異様な弾力と、そして圧力に富んでいた。消防用の放水ホースを使った事がある人なら、この感覚は理解できるかも知れない。あいにくとこちとら生身の体である。こんなもので締め上げられて腸詰め肉ソーセージならぬ肉詰め腸になるのはごめんこうむる。
「水池さん!」
  門宮さんの声が飛ぶ。見れば、長い胴体で締め上げたまま、音もなく『絞める蛇』の頭が水池氏の肩に噛みつこうとしていた。
「直樹!」
  おれが叫ぶ前に、奴は動いていた。
「世話の焼ける!」
  無愛想な呟きとともに、直樹が吸血鬼の膂力を解放し、蛇の胴体に遠慮ない蹴りをたたき込む。人外の力で蹴り飛ばされさすがに応えたか、おれと水池氏の拘束を解放する。
「大丈夫ですか!?」
「肩が、肩が!」
  見ると、肩のあたりにうっすらと血がにじんでいる。傷は浅いようだが……噛まれたのか!?確認するまもなく、今度は蛇の頭がおれを狙って来た。
「――穿うがて。『紙飛行機』!」
  そのタイミングを見計らって、門宮さんの呪が飛ぶ。鋭く折り上げられた紙片は一つの剛弓と化し、『絞める蛇』の頭部に深々と突きたった。だが。
「効いていない!?」
  門宮さんの声にわずかに動揺が走る。突き刺さった紙飛行機は、だがそのまま水を吸って形を失い、奴の内部に取り込まれつつあった。
「こいつに内蔵や器官はありません!形状そのものを崩す攻撃を!」
  おれは叫びつつ、腰を抜かした水池氏を壁際にひっぱる。くそ、重いなこのオッサン。引き続き直樹がその胴体を殴りつけ、蛇を退ける。『スケアクロウ』が倒れた今、唯一この蛇に力負けしていないのが直樹だ。だが、奴の冷気を発動するにはここは狭すぎる。どうする?
  一瞬こちらを振り返った直樹と眼が合う。……了解。おれは壁沿いを走る。
  今や二十畳の部屋全体を取り巻くほどの大きさに成長した水の蛇。それは海竜とも思える偉容だった。壁際の水池氏と、それを庇う直樹達の前で、奴はうねうねと不気味に体をくねらせた。胴体は動かぬまま、頭部だけが右に回転し、結果その細長い蛇身はねじれ上がっていく。凄まじい圧力を、その内に蓄えながら。そしてそのいびつな身体のよじれが、限界まで達した時。
「伏せろっ!!」
  直樹が叫ぶ。ねじり上げたゴム紐を解放する要領で、『絞める蛇』の身体が長さ十五メートルの巨大な鞭と化し、部屋中を縦横無尽に乱打した。圧倒的な水の質量と、解放された圧力による凄まじい速度が、純粋な凶器と化して室内を荒れ狂う。巨大な爆竹に点火したような連続破裂音。デンマーク製のキャビネットが、冷蔵庫が、マホガニーのデスクが、ノートPCが。塵芥のように軽々と吹き飛び、空中で粉砕される光景はもはや悪夢としか思えなかった。
「――啄め。『鶴』!」
  吹き荒れる水の嵐の隙を突いて門宮さんが攻撃。おそらくは『紙飛行機』に並ぶ彼女の必殺の攻撃だったであろう折り鶴の吹雪は、だがいずれも『絞める蛇』の身体に弾かれ傷をつけることが出来ない。広範囲を補足する攻撃の代償として、一撃一撃の威力が低いのが裏目に出たのだ。わずかに舌打ちし、英語で呟く門宮さん。
『固けりゃいいってもんじゃないんですよこのポ○モン野郎』
  ……なんかちょっとスラングが混じったような気がするけど、気のせいだよね?(pocket monsterをポケ○ンと訳したおれは間違ってないよな?)ああきっと気のせいだ。
「下がっていろ」
  その背後から躍り出たのが直樹。人外の膂力にものを言わせて、真っ二つに割れている応接テーブルの破片を持ち上げ蛇の頭部に叩きつける。臓器はないくせに頭部の概念はあるのか、奴は怯み動きを止めた。
「ハイそこまで」
  おれは手に持ったコードを、『絞める蛇』の尻尾がつながっているホームバーの蛇口に巻き付けた。このコード、先ほど奴に吹っ飛ばされた冷凍庫のケーブルを手持ちのツールナイフで切断したもの。しかもこのコード三相じゃないか。いいのかコレ。
「くくらららええ必殺業務用二百ボボルトト」
  台詞が変なのは巻き付けた時におれも感電したからなのでカンベンしてもらいたい。一応上着で手を被っており、またすぐに手を離したから出来たものの、両腕が痺れるし脳裏に衝撃がバチバチくる(良い子は絶対マネすんな)。おれの方はギャグですんだが、尻尾に即席のスタンガンを取り付けられた蛇の方はたまったものではなかった。何しろ全身伝導体、その上電圧は低くとも電流の量はスタンガンなど比べものにならない。漫画のように火花が弾けたりはしないが、体内を走るすさまじいショックに『絞める蛇』は明らかに苦悶していた。元来た蛇口に逃げ込もうにも、そここそが電気を送り込まれているポイントである。すると奴の取り得る選択は、
「ふげっ!」
  この無様な悲鳴は、『絞める蛇』が蛇口から切り離した尻尾に顔面を引っぱたかれたおれの台詞だ。奴は自由になると、一直線に部屋の外に向かって逃げ出した。ここでようやく、ターゲットの安否を確認する余裕が戻った。
「水池さん、大丈夫ですか!?」
  初めておれ達エージェントのトンデモぶりを目にした水池氏は、若干放心状態にあるようだった。まあムリもない。何しろ命まで狙われてたんだから。
「ウソだろ……いくらなんでも、これはやり過ぎだ……」
  ……そんなようなことを呟いている。一方、逃げた蛇を追う直樹。
「逃がすか!」
「待ってください!」
  外へ走り出そうとする直樹を制する門宮さん。
「何だ」
「水に仮初めの知能を与えただけの使い魔をこれほど操るには、術者がこちらの情報を逐一把握していなければならないはずです」
  さすがに同系統の能力者らしく、彼女は敵の正体を見破っていたようだ。
「操り主がこの近くに?」
  だが、あれほどのセキュリティをかいくぐってこのフロアに潜入するのは不可能に近い。また、そこまで近づけるならわざわざ使い魔を仕掛けてくる必要はない。となると。
「外か!?」
  壊滅状態の部屋を突っ切り、まだ痺れている脚を動かして東京湾まで見通せるガラス窓に走り寄る。この四十七階の様子を奥まで把握するならば、同程度の高さをもった建物が必要だ。だがぱっと見た限り、そんなものは見あたらなかった。残る二人も駆け寄ってくる。
「直樹、見えるか?」
  腐っても吸血鬼、奴の眼は色々と特別仕様なのだ。
「昼では今ひとつだが……。この方向周囲五百メートルにはまずそれらしいものはないぞ」
  となると盗撮カメラでも事前に仕掛けたか。そう思って目を転じようとした時、ようやくそれ・・に気づいた。
「五百メートルよりもっと遠くなら?」
「何だと?」
  およそ直線距離にして千五百メートル。一つだけ、このフロアを見渡せる場所があった。
「あそこか!!」
  そこにはこの『バベル・タワー』よりも遙かに高く、また歴史ある高層建築が、その紅い雄姿をたたえていた。全長三百三十三メートル、日本の象徴たる電波塔、東京タワー。その大展望台はちょうど、この四十七階と水平の位置にあった。
 
 
 
  存外にいい勘をしている。
  『ニョカ』が覗き込んだ手持ちの望遠鏡の向こうでは、銀髪の青年と日本人の若者、そして警備員と思われる女性がそろってこちらに視線を向けていた。もっとも、こちらの顔まではわからないだろうが。
  東京タワー大展望台。地上百五十メートルに位置する欄干に身体を預けて、窓のはるか向こうを見つめている。ここでは『蛇』がそのような仕草をしていても、観光気分の外国人としか思われないだろう。
  悠々と伸縮式の望遠鏡をポケットにしまい、エレベーターへと向かう。彼らがどう足掻いても、今立ち去ろうとする『蛇』の足取りをつかむことは不可能だ。右手でボタンを押そうとして、自分が指に傷……噛み傷と、そして、火傷を負っていたことに気づき苦笑する。左手でボタンを押して待つ。やがてやってきたエレベーターに乗り込み、下降する。
 
 
  さて、準備は完了した。
  後は愚かな草蛇が、己の身の程を弁えることを願うばかりだ。
 
 
 
 

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