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人災派遣会社シリーズ   製作者:紫電改


小説 『人災派遣のフレイムアップ』 
第5話 『六本木ストックホルダー』


 

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  ◆◇◆ 13 ◇◆◇

 
 
  トミタ商事事件。
  かつて、戦後最大と言われた詐欺事件である。
  その被害者救済に東奔西走し、弁護士の亀鑑かがみとして称えられる事になったのが露木甚一郎氏。しかしその名声の影には、家族の犠牲があった。有形無形の圧力が彼自身とそして家族に向けられ、やがて疲れた夫人は、事故を起こして鬼籍に入る。事件が解決した後も、一人息子である恭一郎は、決して父を許すことはなかった。父の業績が世間に認められても、いや、認められるほどに、それが誰の犠牲によって成り立っているのかと思うようになったのかも知れない。
  縁を切ってアメリカに渡り、父の業績を否定するようにカネを儲けることを目指した息子。一方の父は、その後も弁護士として業績を残したが、やがて年齢を理由に引退する。方々から名誉職や企業の顧問の地位を提示されたが、応じることはなかったという。トミタ事件について本をを著してみないか、との誘いも断った。その時点では誰にも告げていなかったが、癌に冒されていたこともあったし、自分は弁護士であり、それ以外のものではないと思うところもあったようだ。
 
  伝説の弁護士の晩年は、その業績に比してとても寂しいものだったらしい。家族はなく、引退と同時に後進の弁護士達との交流も断ったと聞く。数少ない友人達とは手紙を交わしていたが、直接顔を合わせることはなく、誰も彼が癌に冒されていた事を知らなかったようだ。世捨て人とも思える彼の行動が、どういった心境に基づくものなのかは、おれ程度ではまだ窺い知ることは出来ない。病院にもろくに行かず、担ぎ込まれて入院した時にはもう転移が進んで手遅れだった。以後、それなりに闘病生活は送っていたが、一縷の生還の望みに向けて努力するということもなく、淡々と日々を過ごしていた、とは病院の医師の語るところだ。イズモ・エージェントサービスに息子恭一郎の捜索を依頼したときには、もうベッドから起き上がることも出来なくなっていた。
 
  ――自分はプライドに縛られた弱い人間なのだ。
 
  先日おれが伺ったとき、甚一郎氏はそう語っていた。
 
  歩けるうちは息子を探そうともせず、歩けなくなってから会いたいと思う。
  私は弁護士の亀鑑などではない。トミタの時もそうだった。私があの仕事を引き受けたのは、勇気からではない。恐怖からだった。目の前にいる被害者を置き去りにして逃げたかった。だが自分が”正義”でなくなるのが怖かったから、引き受けざるを得なかったのだ、と。
  そして今また、家族と会う資格など捨ててしまいながら、息子の現在の姿を知らないまま逝くことを恐れ、最期の最期で会いたいと思ってしまったのだ、と。
 
  イズモ・エージェントサービスへの当初の依頼は、今息子がどうしているのか知りたい、というものだった。無事でいることがわかればそれでいい、会うつもりはない。調査結果を受け取るまではそう思っていた。
  だが、息子がヨルムンガンドの社長であると知り、その商売の内容を聞いて、一度だけ会わなければならない、会って言葉をかけねばならないと思ったのだそうだ。
  ……それが、今回の依頼のそもそもの発端である。
 
 
 
「深夜の病院てのはあまり気分のいいものじゃないな」
  東京にほど近い千葉西部の病院の三階、入院患者達の部屋がある棟におれ達はいた。露木氏の病室の扉の前に置かれたベンチに腰掛け、入り口を護っている。今、この扉の奥には露木氏と、そして水池氏が居る。十数年ぶりに対面した親子二人が、会話を交わしているのだろう。
「これが人捜しの番組なら、一番視聴率的に盛り上がるところなんだがな」
「水池さん、お父さんと仲直りできるのかな……」
「さあな」
  病室の中で、どんな会話が行われているのか、おれは知らない。知る必要もないことだった。十数年生き別れていた親子の仲を取り持つほどおれは図々しくはないし、義憤に駆られるほど熱血漢でもない。おれ達はあくまで傭兵――水池氏をここに連れてくることを請け負った、ただの派遣社員なのだから。
「しまった!」
  おれはろくでもないことを思い出して舌打ちした。
「どうしたの?」
「大学のレポート出すの、明日の朝イチまでだったんだよ」
  ザックからレポート用紙を取り出して、慌てて筆を走らせる。
「そんなの後にすればいいじゃない」
「馬鹿者、これにはおれの輝かしい卒業への道がかかっているのだぞ」
  というか、留年したら学費が足りなくなるのだ。いやホント、こんなバイトをやっていると、世間のオトナが一年にいくら稼いでいるのかがだいたいわかるようになってくる。すると、私立大学の学費ってのがいかに親にとって大きい負担かというのはイメージ出来るようになってくるのだ。まして地方から上京させて、家賃に仕送りまでつけてやるとなれば負担倍増しだ。花の大学生活、授業に行かずに気楽に遊び回るのも大いに結構だが。出してもらった学費分の何かを身につけないと親に申し訳ないよ、とバイト代と奨学金でまかなっている男は言ってみる。
「……もしかしてアンタ、意外と真面目な学生だったりする?」
「……オマエサンはおれを何だと思っていたのカネ?」
  ”サボって遊ぶ”と”効率よく勉強して残りはダラダラ遊ぶ”は違うのである。まあ、出る価値がないと判断した授業は代返してもらったりするし、最近は、このバイトのせいで平日の授業を落とすこともしばしばだが。
「お前もバイトで腕を磨くのはいい。だけど授業サボって親に迷惑はかけんなよ」
  いなくなって初めてわかるありがたみ、てな言葉もあったな。
「う……はい」
  なんだか三年ぶりくらいに真面目なことを言った気がする。深夜の病院では軽口を飛ばす気にもなれず、おれは話題を転じた。
「どうだ、真凛。周囲は」
「殺気、って言えばいいのかな。生き物じゃないのに、こっちを狙っている気配が、数えるのも嫌になるほどあるよ。ぐるっとこの病棟を二重三重に取り巻いているね」
  そうか、と呟いた。BMWでだいぶ引き離してやったが、『絞める蛇キガンジャ・ニョカ』ご一行様はもうしっかりこちらに追いついてきているらしい。直樹達には連絡を既に入れてある。どうやら仕事は終わりに近づいているようだ。
  その時、静かに病室の扉が開いた。
  中から歩み出てきたのは水池氏だった。おれ達は軽く会釈をして、尻をずらしてベンチに席を空けた。腰を下ろし、タバコ……タビドフ・マグナムに火をつける水池氏。
 
 
「――礼を言わなきゃならん、な」
  そう口を開いた。半分が灰になるほど深々と煙を吸い込み、一気に吐ききる。彼はおれの顔を見ると、どうだ、とタバコを差し出した。
「たまには頂きます」
  おれはタバコを受け取る。水池さんが手ずから点火してくれた。きつい匂いだが、一口吸うと、最高級のタバコだけが持つ、甘くて濃厚で深い香りがおれの鼻腔に充満する。
「……驚きました」
「美味いだろう?」
  若者で、タバコを美味いと思って吸っている奴が何人いることか。九割がカッコつけで吸い始めて、いつのまにかやめられなくなる類のものだ。おれも美味いと思ったことは一度もない。だが、これは別格だった。
「親父がよく書斎で吸っていてな。こいつが吸えるようになったら大人だとそう思ってた」
  吸えるようにはなったんだがな、と水池さんは言う。
「……親父のようになりたかったのか。親父のようにはならないと思っていたのか。走って走って走り抜いて。たどり着いたところが、お袋を殺した連中と同じ穴、とはな」
  おまけに会社まで失って、と自嘲する。
「――クソ親父め。後悔していたなら後悔していたと最初に言えばいいものを」
  今更そんなこと言われてもなあ、とぼやいた。もう粉飾決算の情報はネットを伝って日本中に流れている。明日市場が開けば、ヨルムンガンドの株は一気に暴落するだろう。株主達がどれほどの損害を被るか、想像もつかない。
「結局、俺がやってきた事はただの詐欺なのか」
「そうじゃないと思いますけどね」
  言葉を続ける。
「おれだって貴方に投資してます。まあ、五万円ですけど。必死に小遣いから捻りだした金、どこに投資しようか、そりゃあ無い知恵絞って考えましたよ。投資家気取りの素人ですがね。それでもおれ達は、貴方を選んで金を投じたんです。少なくともそれだけのものは、貴方にはあったってことなんじゃないですか」
「だが、株価の暴落による損失はもう避けられん。彼らに何と言えばいい」
  つい先日、物事はシンプルに捉えた方が良いと言ったのは誰だっけか。
「また株価を上げればいいんじゃないですか」
「……簡単に言ってくれるな」
「簡単じゃないことはわかってますけど。だからこそ、貴方にしか出来ない仕事ってことだと思います」
「やっぱりお前、どんだけ大変か理解してないだろ」
  苦笑する水池さん。
「立て直し、か」
  そして五秒くらい、天井を見た。
「厳しいものだな」
  と、不意に視線がこちらを向く。
「……そうそう、お前、卒業したら俺の会社に来るか?」
「もし卒業まで無事に生き延びて、その時まだ御社があったら考えます」
「忘れるなよ」
  久しぶりに、あの不敵なドラゴン水池の笑いが復活した。
  タビドフ・マグナムの香りが、ゆっくりと夜の病院の廊下に伝ってゆく。吸い終えて灰皿に押しつけると同時に、水池氏はぼそりと呟いた。
「これからまた、忙しくなるな」
  その言葉を発するまでに、どれだけのモノを背負う覚悟を決めたのか。余人にはうかがい知れなかった。おれも習って灰皿に吸い殻を押しつける。
「陽司、その。……気配が」
  横から真凛が申し訳なさそうに口を挟む。その言わんとするところは明白だった。お父上の件が終わったからと言って、『ニョカ』の攻撃が止むわけでは無論ない。
「わかってる」
「亘理君」
  水池さんはおれに向き直った。
「もう一度、仕事の依頼をさせてくれないか」
  力強い言葉である。築き上げられた押しの強い態度の底に流れるこの真摯な姿勢こそ、水池恭介という男の本当の基盤なのだろう。
「あの蛇を撃退して欲しい。もう一度ヨルムンガンドを建て直す。そのために、今は死ぬわけにはいかない」
「お断りします」
  即答するおれ。あ、隣のアシスタントがなんかわめいてる。
「なんで!仕事はもう終わったんだから、受けたっていいじゃない」
「もちろん、事務所を通じて正規のルートで申し込みをさせてもらうつもりだ。君たちにこそお願いしたいのだが。報酬は、三百万はもうムリだろうが……」
「それなら問題ないでしょ、陽司?」
「だめデス。そもそもキミは業界の基本を忘れておるよ七瀬クン」
  真凛がおれをじっと見つめている。だからそんな顔するなっつうの。
「……ウチの会社は本当に人使いが荒いんですよねぇ、福利厚生が大したこと無いくせに」
  おれは窓の向こうに視線を飛ばしたままぼやいた。
「一度受けた依頼は、フォローを含めて完全に達成しないと給料もらえないんですわ」
「それは……」
「どういう意味?」
  まだわかりませんかねこのお子様。真凛の額をぺしぺしと叩く。
「お連れしたお客さんに安全にお帰り頂くまで、この仕事は終わったことにはなりません。……ちゃんと覚えておけよ?」
  おれの発言の意図が奴の脳細胞に届くまで、一秒の時差があった。
「そうこなくっちゃ!」
  スイッチが入った。真凛が、狩りに出陣する虎の児めいた笑みを浮かべる。
「水池さんは、部屋の中に。万一の事もあります。お父上と一緒に居てください」
  おれ達の仕事は、ここを守りきること。既に連絡は取れている。『蛇』を仕留めるのは、別の奴の仕事だ。
  首をごきりとならすと、ベンチから立ち上がり、廊下へと歩を進める。プールの授業がやってきた小学生のように腕をストレッチしながら、真凛が続く。
「じゃあ始めるか。……ついて来いよ、アシスタント!」
「途中で転ばないでね、先輩!」
  歩を進めるおれ達。
  病院の廊下の向こうから、一斉に水の蛇の群れが襲いかかってきた。
 
 
 
 

  ◆◇◆ 14 ◇◆◇

 
 
  港区芝公園、増上寺。
 
  東京タワーから歩いて足下に広がるその豊かな森に包まれた建築物は、四百年以上に渡って、徳川家の菩提寺として、人々の素朴な信仰の対象として、また観光名所として注目を集めてきた。
  深夜零時、その名の通り、無数のヒト、モノ、カネが行き交う”港”区は、夜になっても明かりが尽きることは決してない。六本木、赤坂に繰り出せば、その歓楽の空気と人種の坩堝とに酔ってしまいそうだ。人によっては、同じ歓楽街でも新宿などとは異なった、どこか上流の……言い方を変えればお高くとまった雰囲気を感じるかも知れない。
  しかし所詮そんな喧噪も、増上寺の境内へと続く重厚な三解脱門さんげだつもんをくぐればまさしく俗世の泡沫うたかた。境内の奥、寺社を取り囲む林の中に踏み入ると、たちまち濃密な鈴虫や蟋蟀の声が身を包み込む。見上げれば、織りなす枝葉の隙間から、天を貫くようにそびえる東京タワーから鮮やかな赤と黄白色の輝きが降り注ぎ、異世界じみた光景を作り出していた。
  『蛇』は、心地よい緑の匂いと虫の声に抱かれ、深い集中を維持して『絞める蛇』へと己の呪力をつぎ込んでいる。薄っぺらい文明の産物であるスーツを脱ぎ捨て、今の『蛇』の姿は、太古の呪術師そのままであった。鮮やかな色彩の顔料で隈取りを施し、首や腕には幾つものいびつな玉飾り。その素肌を晒した両腕、両足には呪術記号としての意味を持つであろう入れ墨がびっしりと彫り込まれている。『蛇』が高輪の高級ホテルを出てこの境内に入り込んでいるのは、個人の嗜好だけではない。森の匂い、そして己の精神の昂ぶりこそが、その呪術をより強力なものに為すのである。『絞める蛇』はどうやらキョウスケ・ミズチを追ってかなり離れた位置まで移動したらしい。後は、奴が仕遂げるまで力を供給し続けるだけだ。距離を隔てた相手に危害を加えられる代わりに、今現在相手の状況がどうなっているのかはわからない。それが呪いのデメリットではあるが、『蛇』は己の放った使い魔に充分な自信を持っていた。
「そこまでにしてもらおうか」
  愛想のない、だが秋の夜風のごとき涼やかな声が、『蛇』を忘我の境地から引き戻す。眼を開けば、五メートルほど離れた木の幹の側に、二人の人物が立っていた。一人は若い男。年齢に似合わぬ王侯の威を備え、流れ星をイメージさせる長い銀の髪を束ね、白皙の貌に宿した黄玉の瞳でこちらを射抜くように見据えている。もう一人は女。陸軍迷彩を思わせる無骨なデザインの制服に身を包み、こちらは黒髪を結い上げている。
『良くここがわかったな』
  硬質でハスキーな英語が『蛇』の喉から滑り出る。この二人が境内を潜ったときから、その存在には気づいていた。先制攻撃をしかけなかったのは、その質問をしてみたかったがためである。
『名が売れているエージェントも考え物だな。貴様が攻撃に本腰を入れて呪術を展開する場合、もっとも己にとって快適な場所である森を根城にして呪力を高めるとか』
『ほう。良くも調べたものだ』
  素直に『蛇』は感嘆した。比較的情報がオープンなランカーとて、仕事上の癖を公開するほど愚かではない。少なくとも数日で調べ上げられるものでは断じてないはずだ。弱小の派遣会社スタッフサービスと聞いていたが、なかなかこの業界の情報通が居るようではないか。
『ウチには元本職がいるのでな』
『土地勘のない場所で山に籠もるとも思えません。港区で豊富に緑があるところと言えば浜離宮、旧芝離宮、増上寺くらいですからね。最悪、東京中しらみつぶしの捜索も考えていましたが、思ったより近くに潜んでいてくれて助かりました』
  女の足下にはいくつもの紙で作られた『かえる』が誇らしげに胸を張っていた。なるほど、式神を放って敵を探すのは古来より陰陽師の本業である。
『この島国にも呪術師が居るのだったな。失念していたよ。アウェーでは仕方がないが……』
『いずれ忘れられなくなります。……チェックメイトですよbase Head』
  優雅な発音できつい台詞を吐いて、女が戦闘態勢に入る。男の瞳が朱に転じ、全身から冷たい銀色の空気が吹き出し、インバネスのコートをはためかせる。太陽の束縛を逃れた吸血鬼が本性を解放したのだ。それに呼応して『蛇』の全身から禍々しい原始の殺気が立ち上る。日本屈指の名刹で、呪術師と吸血鬼とアメリカ人が対峙する。
 
  獲物を狩るために潜む蛇と、蛇を狙う狩人達の戦いが始まった。
 
 
 
  先陣を切ったのは直樹だった。インバネスを翻したと思ったときには、一気に静から動へと転じ、五メートルの距離を二歩で詰めている。その左の掌に冷気が渦巻き、瞬時に氷で作られた鋭利な騎兵刀サーベルを構成する。奴自身の剣の技量は達人の領域には及ばない。だがそれは奴が弱いことを意味しない。精緻な手の内や足捌きなど気にせず、奴自身のカンと人外の膂力を、緩やかに反りが与えられた刀身に乗せて倍加し、敵の甲冑ごと両断してのける介者剣法。人間のように技術を系統だてて後人に残す必要のない吸血鬼には、それで充分過ぎるのである。左足を踏み込むことで突進の運動量が転化し、裁断機じみた斬撃が真横に振るわれる。『蛇』に反応する間も与えず、その右手首を切り飛ばした。戦闘不能確実の傷である。だが。
「――空蝉!?」
  切り落とされた手首と、そして『蛇』の身体がぐにゃりと歪む。形を失い色が消え、たちまちそれは巨大な水の蛇と化して、直樹に躍りかかった。
「日本の忍者の専売特許ではないと言うことか!」
  バックステップしつつ騎兵刀を翻し、まるで十字架を掴むかの如く逆手で構える。もちろん、世間一般のマジメな吸血鬼のように十字架を見て己の罪におののくような敬虔な心情など奴にはカケラもなく――そもそもシスターに欲情する罰当たりだ――その意図は別にあった。
  構えた刀身に躍りかかってきた水の蛇が衝突する、と同時に、その蛇身が凍り付き、砕け散った。分子運動を一瞬だけ、だが完全に停止させることで熱を奪い絶対零度を生み出す奴の力が刀身に込められ、空蝉を構成していた数十キロの水塊を瞬時に氷塊へと変えてしまったのだ。もっとも、これでも奴は手加減をしている。林の中でなければ、わざわざ剣に冷気を収束させずとも、全身から放射しながら戦い続けることも出来るのだから。宙を舞う氷の欠片を払い、林の奥に眼を凝らす。
”確かに戦闘能力では分が悪いな”
  闇の奥、どこからともなく響く『蛇』の声。
”だが殴り合いに強いだけで勝てる程甘くは無いぞ”
  突如林の奥、南の方角からがさがさと何か大量のいきもの・・・・が迫ってくる気配がする。だが、夜の闇に紛れて姿が見えない。警戒する間もなく、攻撃がやってきた。門宮さんが、『蛇』の本体を探し出そうと密かに展開していた『かえる』の式神達が、軒並み喰われてしまったのだ。気がつけば、落ち葉の積もった足下、枝枝の隙間、幹と根本。見渡す限り、水で出来た無数の小蛇がのたくっていた。闇夜と透明な身体が著しく視認を困難にしているが、その数、少なくとも五百はくだらないだろう。もしも色がついていたら、蛇嫌いの人が間違いなく失神するくらいおぞましい光景だった。
「これほどの水、いったいどこから……」
「増上寺の南にはホテルがあります。そのプールから拝借したのでしょう。夏も終わったのにまだ水を溜めていたんですね」
「プール掃除まで業務範囲内とは恐れ入るな」
  足下の蛇を二三匹切り払ってみるが、すぐに無益であると確認する直樹と、準備していた式を全て破壊され、急いで次の術法の準備に取りかかる門宮さん。しかし二人とも、続いて林の中から現れたモノを見たときは、平静では居られなかった。林の奥から静かに迫り来て、矢のように噛みついてくるそれをどうにかかわす。
「……『締める蛇』!亘理さん達の方に向かっているはずでは!」
「何も一匹だけしか操れないと言うわけでもなかろうよ」
  忌々しげに直樹が述べる。森の奥から嗤い声が響いた。
”我が用いるはヒトなる種の始原のまじない。力の無さを小手先の技術でごまかすだけの東洋の三流術師など、到底及ぶ所ではない”
  一斉に蛇の群れが襲いかかってきた。直樹が剣を振るい、コートの裾を翻すたびに、数十匹の蛇が凍り付き、砕け散る。門宮さんの『鶴』が嵐となって吹き散らす。蛇の残骸が水に還り、地面に染みこむが、そのたびに次から次へと林の奥から後続がやってくるのだ。実際、『蛇』の呪力……キャパシティは恐るべきものだった。同時に複数の使い魔を操ること、そしてそれらの総合出力。どれをとっても超一級足りうるだろう。残念ながら、門宮さんの呪力は奴に及ばない。門宮さんが弱いわけではなく、『蛇』が異常なのである。そしてその合間を衝いて、こちらは巨大な『絞める蛇』が襲いかかってくる。こればかりは片手であしらうわけにもいかず、次第に二人は劣勢に追い込まれていった。
「このままホテルのプールが全て枯れるまで待つ、というのはどうだ」
「貴方の体力から言えばそれもありかも知れませんが。私と、何より亘理さん達が持ちません」
「世話の焼ける」
  その頃おれ達も、無限の再生力を持つ敵を相手に苦戦を強いられていたのである。『蛇』の本体を見つけない限り、この蛇たちはほぼ無限に生まれてくる。能力的に相性の悪い直樹と門宮さんを消耗戦に引きずり込みつつ、水池氏に攻撃を加えるのが『蛇』の狙いだった。
「別に亘理が死んだ程度でどうと言うことはないが」
  言いたいこと言ってくれるなこの野郎。
「……何より、本体に逃げられては元も子もありません」
  フォローしてくれる門宮さん。涙が出そうだ。直樹の野郎は剣を縦横に振るいながら器用に首をかしげ、二秒で決断した。
「聞こえているか」
  何だ。
回路を開くぞ・・・・・・。手伝え」
  マジかよ。
「……なんのことですか?」
  門宮さんの問いには答えず、騎兵刀を地面に突き立て、手を離した。そのまま両腕を大きく広げる。膨大な量の冷気が奴の身体から立ち昇り、それは奴のコートの裾に、まるで折りたたまれた翼のように広がった。
「まずは雑魚を一掃する」
「しかし、この林の中で冷気を展開すれば周囲に被害が――」
「問題はない」
  両腕を前に向けて突き出すと同時に、背中の銀の翼、つまりはたわめられた冷気が一気に前方へと吹き抜ける。
「――かかれ」
  主の号令を受け、前方に展開された銀色の冷気の靄から、何かが一斉に夜へと飛び立つ。それは無数の、白い蝙蝠だった。一匹一匹の銀色の蝙蝠が密集した木々の間を駆け抜け、それぞれ地面に、幹に、枝葉に隠れる水の蛇を捕らえ、凍り付かせてゆく。それはたとえて言うなら、マイクロミサイルの乱舞に等しかった。闇の林の中、殆ど音も立てず銀の蝙蝠が透明な蛇を砕いていく様は、傍から見る者が居れば美しいと思えたのかも知れない。十秒あまりの無音の戦闘の後、樹木を傷つけることなく、林の中の蛇は一掃されていた。
”なかなかやる……だが私が居る限り、何度でも後続が現れるぞ”
  闇のどこかから、『蛇』があざける。直樹はその挑発には応じず、虚空を見上げ、誰にともなく呟いた。
出番だ・・・働け亘理・・・・
  やれやれ・・・・こっちは千葉だってのに・・・・・・・・・・・。まったく人使いの荒い野郎だ。
  遙か数十キロを隔てた病院の廊下、水の蛇を撃退し続ける真凛の背後で、おれは脳裏の引き出しから『鍵』を取り出す。
「『増上寺の境内で』『投じられる一撃は』」
  『蛇』と名乗った敵手の能力同様、俺が紡ぐこの因果の鍵も、距離に影響されて威力が減じることはない。だが状況を正確に把握せずに因果の鍵を紡ぐことは、いたずらにその威力を浪費させ減じる事となり、甚だ効率が悪い。そう、状況を正確に把握できなければ。
「『潜む呪術師を』『外すことはない』!」
  言語が枷となり、鎖となる。
  時間という大河に穿たれる因果のくさび。河を流れる、無数の誰かの意志決定の集積――時に運命とも呼ばれる抗いがたいこの激流に、楔を打ち込み堤と為して自らの望む結果を引き寄せる。無限の可能性を封じ、無限以外の可能性を開く因果の鍵が発動する。
『……馬鹿な!?』
  『蛇』の口から驚愕の声が上がる。直樹が当てずっぽうに投げた氷の槍は、あり得ないほど運良く・・・・・・・・・・隠れている奴めがけて飛んでいった。
 
 
 
  ――数年前の、割とどうでもいい話である。
  『深紅の魔人』と『召喚師』は、互いを滅すべくその全ての能力を解放して死闘を繰り広げた。管理人と清掃屋、目的は同じでも立場をたがえる両者の、短いが激烈な戦いは、結局のところ相討ちという形で終結をみる。
  全身が凍り付く直前に放った『召喚師』の『切断』は、不死の吸血鬼の肉体を戦闘不可能にまで破損させた。だがその一瞬を機として、『深紅の魔人』は、『召喚師』の首筋に喰らいついたのだ。吸血鬼の能力、血を啜った人間を己の従僕とする呪いが発動する。雑魚のそれならともかく、不老不死を認められた原種の呪いを無効化することは事実上不可能だ。それでもなお、『召喚師』の因果を歪曲する力は絶大だった。
 
  ”亘理陽司は、吸血鬼には、ならない――”
 
  強力な因果の鍵は、何千万分の一の確率でさえ、それを回避する方法を見つけ出す。
だが、世界の罰則規定に裏打ちされた絶大な呪いを無効化する可能性は、まさしくゼロだった。迷走した因果の鍵は、それでもなお定義を証明する運命の分岐を模索する。かくして、両者の力が拮抗した結果、実にねじ曲がった現象が残された。すなわち。
 
  ”亘理陽司は、吸血鬼には、ならない。……今は”
 
  噛まれてから吸血鬼になるまでの時間には個人差がある。その時間を最大限に引き延ばすという手段で、因果の”言い訳”が成立したのだ。奴は、おれを隷属させるための呪いを、おれは、それから逃れるための因果の構築を。それぞれ維持し続けなければならず。結果として、両者はその力を大きく減ずることになったのだ。奴がおれの因果を解くのが先か。おれが奴を倒し呪縛を解くのが先か。いつかは決着をつけねばならない。
  そして、この茶番劇には、やはり笑うしかない副作用が存在する。ねじ曲がった因果の影響で、吸血鬼が従僕に命令するために使う魂の回路だけは刻まれてしまったのだ。血の鎖環リンク。おれと奴の精神が、一部歪んだ形で接続されてしまったのである。例えれば、アパートの隣同士の部屋の壁に穴が開いて、玄関や廊下を通らずとも行き来出来るようになってしまったものだ。もっとも、お互い野郎の心情なんぞ興味もないので、この回路を使うことはほとんど無い。だが、いざとなればこのような小技も可能――と言うわけだ。不本意ながら。
 
 
  ――氷の投げ槍は、『蛇』の踵に命中したが、砕くことはなかった。代わりに、枝と『蛇』の脚を凍らせ、ぴったりと貼り付けてしまうこととなった。
  おれの中にため込まれた見えない金貨が、ごっそりとどこかに持って行かれた。感覚共有の負荷が限界になり、おれと直樹の回線が切れる。
  ……アバウトな単語をたくさん使うのはさすがにきつい。『因果の鍵』とてそうそう万能ではない。多くの言葉を用いたり、曖昧な言葉を用いたりすると、おれには階乗的に負担がかかる。だからこそ、「少ない数の単語で」「より状況を絞り込む」事が必要になる。対象を指定するのに、名前がわかっていれば一語ですむのだが、今回、相手の名前である『蛇』はただの通り名に過ぎないため、このようにまわりくどい言葉を使わなければならなかった。当然、通常より高い”代償”を払わざるを得ないし、”とりあえず当たった”という結果になってしまう可能性が高い。
  『蛇』は舌打ちをひとつ。機動力は殺された。こうなれば一気に片をつける。喉の奥から力強くリズミカルな呪文をはじき出すと、それに呼応し『絞める蛇』が電光の速さで舞い戻り、『蛇』を庇うように立ち塞がった。
『吸血鬼は流水が苦手だったな』
  直樹の冷凍能力は『蛇』の天敵であるが、同時に『蛇』の水攻撃も直樹の天敵なのだ。直樹は己の冷気を槍の形に変形させたままのため、防御に隙がある。それを衝いて、怒濤の水流が吐き出されようとしたその時。
「脚を止めた時点で、貴方の負けです」
  横合いから綺麗な日本語が耳を打った。視線を転じたその先には、既に攻撃態勢に入っている門宮さんの姿があった。手挟んだその紙は、従来の折り紙に使う白い紙ではなかった。精緻な模様が丁寧に漉き込められた色鮮やかな和紙。千代紙と呼ばれるものである。そして形も、正方形ではなく長方形だった。門宮さんが左の指で軽く弾くと、その千代紙はまるで切れ込みが入れてあったかのように、真ん中が綺麗に切れた。
 
  ”せきれいの おのひこひこを みならいて”
 
  桃色の唇が、艶やかな韻を刻む。
  日本人のもっとも好む七五調の音階は、まるでそれ自体が一枚の絵であるかのように、彩をもって響いた。
 
  ”おおきなくにを たれるほどうむ”
 
  江戸時代後期、伊勢国桑名の住職が、切り込みを入れることで一綴りの紙から数羽の連続した鶴を折る技法を編み出した。後の世に”桑名の千羽鶴”として伝わるこの折り方は、それぞれ異なった四十九の完成型を持ち、それぞれに銘と、銘にちなんだ狂歌を添えられている。宮中を守護する陰陽師に端を発する術法使い、門宮家。彼らは近代化する大和の内で廃れゆく己が術法を嘆き、その精髄を、この優雅な紙折り遊びに隠し伝えたのである。
 
秘傳千羽鶴折形ひでんせんばづるおりがた連鶴れんかく――』
 
  千代の折り紙が、白い指で瞬く間に無数に折られ曲げられ、命を孕んでゆく。門宮さんの差し出した両の掌の上には。
 
『――鶺鴒せきれい
 
  一枚の長方形の紙から折り出された、四枚の翼と二つの嘴を持つ異形の鶴……いや。胴体を一つとするほどぴたりと寄り添った、夫婦の小鳥の姿があった。折り上げられた呪が完成する。ふぅ、と息吹を受けて、掌から勢いよく小鳥が羽撃たいた。夫婦の鶺鴒はたちまち百に千にその数を増し、微かな羽撃たきは渦巻く嵐と化した。
『何を飛ばそうが同じ事。お前の呪力は私には及ばぬ。”絞める蛇”の鱗は貫けない』
「――ええ。一羽ならば」
  無数の千代紙で折られた鶺鴒が、螺旋を描きながら一点に錐を揉むように収束していく。それは万華鏡の内側を思わせる光景だった。市松、格子、花菱、桜、葵。そして橙、蘇芳、若竹、藍、鴇羽、雪消水、鳶。幾つもの模様と幾つもの色の鶺鴒が、その艶を競うかの如く、水の竜の鱗をその嘴でついばみ、翼で斬りつける。一羽ではわずかな傷をつける事しか出来ない。だが、その傷を二羽目、三羽目がえぐり、十羽目、二十羽目が押し広げる。一枚の鱗が剥がれたその一穴が、見る間にその直径を拡大していった。広範囲に回避不可能の攻撃を繰り出す『鶴』を、一点に収束させることで飛躍的に破壊力を増す術法である。門宮さんは己の呪力を決して過信していなかった。むしろそれをどのように状況に即応させるかに、術の本領を求めているのだろう。水の竜は苦悶するかのように身をよじらせる。三秒の抵抗の後、土手っ腹がはじけ飛んだ。
「……何!?」
  『蛇』のかすかな叫びは、余勢を駆った鶺鴒の羽撃たきにかき消された。剣呑な花吹雪が吹き抜け、『蛇』の背を大樹の幹に強かに打ち付け、素肌をさらしている腕と脚から紅い霧が舞い上がった。光の角度が変わり、闇の中に埋没していた素顔が露わになった。
「……女、か」
  そこにあったのは、硬質の美しさを湛えた黒人女性の容貌だった。どこか、鋭く磨き上げられたやじりを想起させる。緑の闇の中、白い吸血鬼と黒い蛇は静かに視線を交えていた。
「続けるか?」
  純白の騎兵刀を突きつけ、直樹が問う。『蛇』の黒い眼には、狂躁や激情は見られなかった。逆に質問をする。
『貴様がナオキ・カサギリ、そして先ほど呪いまがいのマネで邪魔をしてくれたのがヨウジ・ワタリか』
  直樹は沈黙を保った。業界で実名をさらす愚を犯すことはない。だが『蛇』にとってはその沈黙で充分のようだった。
『ふふ。ならば問題ない。私の仕事は今完全に達成された。追撃なしで見逃してくれるに越したことはないが』
「引き留める理由は無い、が、無傷で返してやる義理もないな」
  まったくもって、年上女性への礼儀がなってない男である。直樹の放つ冷気は、両の肩に翼のように展開され臨戦態勢となっていた。だが半瞬の差で、機先を制したのは『蛇』の方だった。地面に飛び散りながらも形を保っていた『絞める蛇』の残骸が、無数の小さな水の蛇に姿を変え、雨のように放たれる。面倒くさげに直樹が、白い翼で打ち払った時、すでに『蛇』は立ち上がり、充分な間合いを広げていた。軽く舌打ちする直樹。だが、それ以上追撃する意志は無さそうだった。
『さらばだ吸血鬼、そして東洋の呪術師。小細工もそこまで精緻であれば面白い』
  ふいに、雑木林の影が濃くなったように感じられた。それは全くの錯覚だったのだが、気がついたときには、獰猛な『蛇』は、再び藪の中に完全に消え去っていた。
 
 
 
 

◆◇◆ 15 ◇◆◇

「あーあー。これで五日連続のストップ安かよ」
  おれはいつものように事務所で経済新聞を眺めてため息をついた。ヨルムンガンド社によるミストルテイン社の買収は失敗した。ひとたび合併話の破談、そしてその根拠となった財政面の不安定さが取り沙汰されると、出るわ出るわ、粉飾決算の証拠、法的根拠の怪しい強引な買収、取り込んだ企業と本業との合併効果がまったく発揮されていないこと、等々。様々な情報ががあちこちからリークされ、また指摘され、ヨルムンガンドの株は連日売りが殺到し、買値がつかない状態で、システムすらダウンさせかねない勢いだった。敵を丸呑みすることで巨大化してきた大蛇は、いまや消化しきれなかった胃の中身をすべてぶちまけているかのようだった。カリスマ社長水池氏の名は一転して地に落ち、今や二十一世紀最大の詐欺師であるかのように書き立てられている。新聞の端々には、検察庁がガサ入れに入るのも時間の問題。外資系のファンドには早くも買収の動きアリ、なんて事も報じられていた。
「蛇でもより大きな敵には丸呑みにされちゃうのかねえ」
  ぶつぶつと呟くと同時に、印刷を終えた任務報告書をプリンターから回収する。念のためもう一度読み返し、ホチキスで止めて、ハイ完成。ついでに門宮さんとスケアクロウの野郎にも挨拶メールを送っておいた。
「終わった〜」
  背もたれに体重を預けて大きく伸びをする。まったく、休みは休みでバイトで忙しかったのに、十月に入ったら学校とバイトで忙しいとはどういう事か……なんて言うと本職の社会人の方々に怒られるか。視線を元に戻すと、机の上にはコーヒーの入ったカップが置かれていた。
「や、ありがとうございます来音さん」
  礼を述べてコーヒーを含む。酸味が疲れた頭に心地よい。
「お疲れ様でした。大学のレポートも無事だったようで何よりです」
「おかげさまで。ちょっとばかし目立っちゃいましたけどね」
  あの日、『絞める蛇』が消えて失せた後、早朝開門直後の大学のキャンパスに水池さんのBMWで乗り付け、滑り込みで課題を事務局に提出したのである。校舎前の噴水を一見華麗なドリフトで走破、と思わせて、実はブレーキとアクセルを踏み間違えて慌ててサイドで止めようとしただけだったりして。
「ああ。だから真凛さんが真っ青な表情をしてらしたんですね」
  まったく根性のないお子様である。ちなみに奴は事務所にいない。平日の昼間、授業の真っ最中だろう。おれもこれを出し終えたら午後の授業にトンボ返りの予定である。おれはたった今作り上げた紙の束を掲げた。
「任務報告書も書いたし。あとはチーフに渡すだけ、なんですがねぇ」
  おれは空っぽの席を見やる。つい先日それなりに片付いたはずの須恵貞チーフの座席には、初雪が降った谷川連峰のような書類の山が出来上がっていた。むしろあれだけ積めるのは芸術とさえ思える。ファイリングという概念がどうやら欠落しているようだ。まったく、致命的なまでに整理整頓が出来ない御仁である。
「別件ですね。例の新大久保大火災事件の元凶だった米国の新興派遣会社に、日本の派遣会社が連合で圧力をかけるとかで。所長と一緒に打ち合わせに出ています」
  そう言えば先日新大久保で、海外の火炎使いと大手派遣会社のチームが大乱戦、という事件があった。迷惑な話である。まったく、何でもかんでも派手にやれば良いってものじゃあないのに。
「当分またこちらには来られないとのことです」
  来音さんの声はきちんと装われていたが、失望は隠しきれない様子だ。
「次に出所するのは一年後ですかねぇ。管理職は大変だ」
  ちなみにウチのメンバーは事務所に顔を出すことを『出所する』と表現しているが、もちろんこれは誤用なので真似しないように。
「チーフの決裁が無いと動けない案件も幾つかあるのですが」
  困ったものです、とうなだれる来音さんであった。
「自宅に押しかければいいんじゃないっすか」
「ええ、お伺いしたいのはやまやまなんですが……、って、もう亘理さん、何言わせるんですかぁっ」
  来音さんは顔を真っ赤にすると、おれの肩を軽くはたいて給湯室の方へ走り去ってしまった。もちろん、背後のはたかれたおれがそのまま背骨を軸に宙をきりきり舞いしながら応接室へ向けて水平に飛行していく様は来音さんの目には入っていない。
「愚かな事を」
  応接室でお茶を飲んでいた直樹が、サイドボードに激突寸前のおれを無遠慮にはたき落とし、おれはソファーに垂直で強引な接吻する羽目になった。
「……てめぇ、助けるにしたってもう少しやり方ってもんがあるだろう」
「助けたつもりなどないぞ」
  こいつはこういう奴なのである。あの戦いの時もそうだった。奴との戦いにより互いの力が相殺されることがなければ、今頃おれという器は内圧に耐えかねて粉々にはじけ飛んでしまっていただろう。それはともかく、その吸血鬼は半眼で紅茶をすすりながら、携帯音楽プレーヤー『カペラ』を起動させてじっと聞き入っている。何も知らない人間が見れば、青年貴族の優雅な午後のひとときと思えなくもないが、実際のところそのイヤホンを通して延々とリピートされているのは、先日発売された某美少女ゲームの初回特典ドラマCD『ずっと一緒だよお兄ちゃん!!』とやらいうタイトルであるということを、おれは知っていた。
「で、貴様、例の株は結局どうしたのだ」
「あん?……ああ。結局塩漬けにしておくことにしたよ」
  おれ自身が持っているヨルムンガンドの株券も、それはそれは素晴らしい早さで価値が下落していった。まるでおれの人生を象徴するかのように……いや、何でもない。暴落が始まった最初の一日二日は売ってみようかとも思ったのだが、どちらにせよ買い手などいなかったのである。おれはパニックになりかけたが、三日目になると、別にムリに売らなくてもいいかな、という気分になっていた。
「ほう。それはまた、どうしてだ?」
「……十年後には値上がりしそうな気がするんでな。いずれ元が取れるさ」
  実は改めて考えると、経営難の情報を調べた時に売りをしかけておけば良かっただけの事だったりもするのだが。奴が紅茶のカップから唇を離して、おれを興味深げに見る。
「ふん、気の長いことだ」
  時間制限のない吸血鬼がなんか言ってマスネ。
「ふふん、デイトレードなど所詮はギャンブル。成長企業への長期投資こそ利を産む本道よ」
  おれは失敗を糧にする男なのである。と、直樹の野郎はおれを哀れむように見やって肩をすくめた。
「それで『実践!二十歳で始める長期投資』などという本が転がっていたわけだ」
「ああっ、てめぇまた人の本を勝手に読みやがったな」
「だから事務机の上に出しっぱなしにしておいて偉そうな事を言うな」
  ぎゃあぎゃあと見苦しく騒ぐ男二人。と、急に直樹の表情が真剣な者になる。
「……一つ気になることがある」
「何だ」
「『蛇』とやらは何故わざわざ最後に我々を襲ったのか。脅迫の依頼は事実上無効となっていたのに、最後に我々にリスクを冒してまで喧嘩を売る必要はないはずだ」
「……ま、その件は今日の仕事が終わった後で考えようや」
  おれの言葉に期するところがあったのだろう、直樹も頷く。と、研究室から出てきた羽美さんが晴れやかな表情で語りかける。
「やあ亘理氏!!おおそれに笠桐氏も!!ちょうど良い。先日の事件以来小生もいささか株式に興味を持ってな!!我がシミュレーションに、今後上昇間違い無しの銘柄を算出させたのだ!!どうだ貴公ら、小生の研究費確保のためにもまずは先行投資をだな……」
  蕩々と熱弁を振るうドクター羽美。その様子をたっぷり二分も眺めて、直樹がぼそりと呟いた。
「亘理」
「なんだ」
「げに恐ろしきは……」
  おれと直樹は顔を見合わせる。
「「人の欲なり」」
  揃って答え、同時に肩をすくめるおれ達。窓の向こうでは街路樹もわずかに色づきはじめている。夏の熱気の最後の一欠片も、既に秋の空の彼方に溶け去ったかのようだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

◆◇◆ ※ ◇◆◇

 
 
  『ニョカ』が訪れた数日前と変わらず、成田空港の出発ロビーは混み合っていた。電車の駅と異なり、空港は深夜であっても人の動きは活発だ。一段と乾燥を増すこの空気は、もはや彼女には耐え難いものとなっていた。
  あらかたの出国手続きを終えた彼女は、待ち時間を利用して、空港のロビーで買い求めたミネラルウォーターを口にしていた。日本の経済新聞に目を通し、自身の成果を確認する。あの若者達が自身の使命を達成したか否かは彼女にはあまり関係がない。彼女はプロであり、そしてプロとして彼女は十分すぎるほどに目的を果たしていた。ふと、まだ一件済ませておくべき用件があった事を思い出す。携帯電話からウェブブラウザを起動して、指定のサーバへと繋ぐ。パスコードを入力して応答を待ち、ブラウザに表示された絵文字を紙にメモする。ブラウザを落とすと、今度は電話機能を起動させ、メモした数字を入力し始めた。万一、この携帯電話が誰かに奪われ履歴が解析されたとしても、二度と同じパスコード、電話番号は使用されない。電話の相手は、それほどにプライベートに許可しない他者が立ち入ることを嫌う人物だった。数秒の沈黙の後、甲高いトーンが鳴り響き、接続したことを知らせる。相手はすぐに出た。
『やあおはよう。いや、東京ではこんばんわだったね』
  流暢極まりない日本語だった。
「こんばんわ、マスター・サイモン。しかし、私は、日本語が、それほど得意ではない」
  生硬な発音の日本語で返すと、マスターと呼ばれた相手、サイモン・ブラックストンは電話口で笑ったようだった。マスターという言葉が指す意味は何なのか。主か、師か、あるいは原本か。その口調からは読み取れなかった。
『失敬失敬。国際電話をかける時はローカルの時間帯と言語に合わせるのが、私なりのビジネスマナーでね。うっかりしていた』
  今度は同じく流暢な、流暢すぎる彼女の母国語がスピーカーから流れ出す。そう、彼女のマスターは必ず会話をする相手のもっとも得意な言語に合わせる。それが日本語であろうとドイツ語であろうとアラビア語であろうと、だ。確かめたことはないが、恐らくウルドゥー語やラオ語のネイティブ相手にも同じ事をするのだろう。
『任務は成功です。迎撃役のヨウジ・ワタリとナオキ・カサギリ、及び水池の護衛スタッフと交戦の後、脅迫を撤回して引き上げました。詳細はレポートにしてメールを送ってあります』
『相変わらず手堅いプロの仕事だ。この分ならベスト5にランクインするのもそう遠いところではないのかな』
  彼女が英語で返答すると、あちらも英語で返答した。
『それではプロとして言わせてもらいますが、マスター。いかに貴方の依頼とはいえ、土壇場で『脅迫』から『実力測定』へと任務目標を変更するのはいただけない。このような支離滅裂な命令ではいかなプロであろうと勝利を得るのは難しい』
  相手は受話器の向こうで苦笑したようだった。
『すまないすまない、許してくれ。だが君を守るためでもあったのだ。ワタリ、そしてカサギリ。まさか君が彼らとかち合うなどとは思ってもみなかったのだからね。正直君がこうして生きて私に電話をしてきてくれて安心しているよ』
『理解に苦しみますね。ヨウジ・ワタリ。ナオキ・カサギリ。そこまで警戒せねばならない相手とは思えませんが』
  強がりではなく、プロとしての判断である。おそらくは上位の吸血鬼、そしてもう一人の方も、彼女の呪術と似て非なる力を持っているようだった。なるほど大した能力だろう、まっとうな戦いならば。だが、彼女の能力であれば如何様にも戦い方がある。留意はしても、恐れる必要はないと思えた。
『……それが君の感想と言うことか』
  サイモンは言葉を切り、四秒ほど沈黙した。珍しいことだった。
『よろしければ多少なりとも事情を教えて欲しいところです。プロとしてではなく、ごく個人として』
  つまりは、言いたくなければ別にかまわないというレベルの問いだった。だから回答があったことに驚いた。
故兵聞拙速ゆえにへいはせっそくをきくも未睹功久也いまだこうきゅうをみざるなり。――私の信条はね。万事に保留事項を作らないと言うことだ。保留は何も生み出さない。時間を腐らせ、事態を悪化するだけだ。古今、やるべき事を先延ばしにする愚図に勝利の女神が微笑んだ試しはない。全ての物事はやるか、やらぬか、やらせるか、まだ待つか。待つならいつまでか。それ以外の選択肢はないのだよ』
『はあ』
  明敏な『蛇』も言葉に困る。別に彼女は相手のビジネス哲学を聞きたいわけではないのだが。
『私と彼らは、いずれ確実に対立することになる。私は利を求め、彼らはそれを防ぐ。ならばなおのこと、保留事項にするわけにはいかない。そんな折り、君と彼らが交戦に入ったと聞いた。なれば情報を集める機会を逃す事はない。それを思えば、ヨルムンガンドへの貸し付け程度は何の問題にもならない』
  自分が態の良い斥候に扱われたことも、彼女が彼らと接触した偶然も、『蛇』は気にしなかった。マスターに連なるものは数多くいる。その中でたまたまもっとも早くワタリやカサギリに接触したのが彼女だったというだけのことであろう。
『君を生かして帰したということは、ふふ、王と魔人の力も随分減耗したようだな。国であれば格付けをしなおさなければいけないところだ。やはりここは拙速でも打って出るべきだろう、とまあ、このような事情だよ。わかってくれたかね?』
『全くわかりません。聞いた私が間抜けでしたね』
  気のない調子で彼女は応えた。どうやら裏事情は、彼女が到底与り知らぬレベルの話らしい。個人としての興味が消えると、後には仕事を終えたプロの理論が残った。もはや自分の検知するところではない。彼女は主に向かい一応の挨拶を述べた。
『それでは今日もお仕事頑張ってください。私はこれより休暇に入ります』
『里帰りを楽しんできたまえ、『ニョカ』。私はさっそく、彼らにアプローチをかけるとしよう』
  サイモンは彼女を二つ名で呼んだ。である以上、彼女も二つ名で返事をすべきであろう。もっとも、有名な通り名ではない。サイモンが『こちら側』の人間であり、また、およそ彼女程度では及びもつかない化け物であることを知る人間など、両手の指の数もないだろう。弱者は強者になってゆくうちに、その名を知らしめてゆく。しかし最初から圧倒的に強い者は、その名を他者に語る必要はないのだ。
『お気の済むように、『組み合わせる者サー・オクタコード』』
  主に別れを告げ、電話を切る。搭乗を促すアナウンスが流れた。『蛇』は優美な身のこなしで、おそらく二度と訪れることはないであろう極東の島国を去るべく歩み出した。

 [了]ID:SFN0005v101

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