●−1      六角重平は、心の底から後悔していた。        事務所の階下から響く銃声。聞き慣れたトカレフの粗雑な連射音。重平にとって頼りになるはずのその音が、秒単位で一つ、また一つと消えてゆく。悪夢のような事態。彼の顎は、本人が意識しないままカチカチとリズムを刻んでいる。  彼と、構成員三十七名からなる『六角興業』は、いわゆる世間一般でいうところのヤクザである。マスコミにも知られた広域の暴力組織に所属しており、中規模ながら生粋の武闘派として組織内でも名を売ってきた。重平自身、五十六歳になるまでに、ドスとチャカで無数の危険な橋を渡ってきた男だ。しつこい市民団体のリーダーを無理矢理泥酔させて自動車事故を起こさせた時は、彼自らが手を下してもいる。それら長年の功績により、親分筋よりこの街……日本海に面した某地方都市の顔役として認められたのだった。その彼の組が新たなシノギとして乗り出したのが、北の某国との密貿易である。  ビジネスとしてはさして独創性もない。こちらから出荷するのは、中古の車とか、電気製品とか――ちょっとした情報とか。あちらから仕入れるのは、各種の海産物、ちょっとした飛び道具。あとはお定まりの、ココロによく効くオクスリとか、だ。典型的な互恵貿易。誰にも文句を言われる筋合いはないパラダイスである。少なくとも、重平はそう思っていた。    全てが狂ったのは、二週間ほど前である。彼の事務所を訪問したサラリーマンは、このような口上を切り出した。  大手食品会社が開発した高級スナック菓子『カニせん』。ジャンクフードでありながら味にこだわった逸品であるコレには、原料として、この街で水揚げされるカニが必要不可欠なのだという。そのサラリーマンは、原料の安定・安価調達のためこの街で水揚げされるカニの確保を望んでおり、港に勢力を有する彼の組織に手を引くように要請してきたのだ。  当然のことながら、重平は一笑に付した。他組織や警察と真っ向から張り合って獲得したシマである。直接的な暴力と、それが裏づけする権力。その二つを備えた自分が、机の上で金勘定をすることと、客に頭を下げることしか知らないサラリーマンどもに権益を渡すべき理由などどこにもなかった。 「俺に言う事を聞かせたかったら、鬼でも連れて来るこった!」  これは、訪れたサラリーマンを軽く懲らしめて叩き出した時の重平自身の台詞である。   今、執務室の悪趣味な椅子の上で、重平は激しくこの言葉を後悔している。  連中は、素直だった。まったく素直に、重平の言う事に従ったのだ。  連中が送り込んできたのは。        まさしく鬼神だった。        ……階下の銃声が途絶えて三十秒が経過した。  修羅場を共に潜り抜けた子飼いの部下である。だが、事務所でヤツを迎え撃ったはずの三十六の凶漢は、今、三十六の沈黙を以って重平に応える。  痛すぎる程の静寂の中、何かがカチカチカチカチと五月蝿い。執務室の扉は、武闘派の面子にかけて鉄製。厳重に施錠したソレが、重平の最後の防壁である。向こう側から響くのは、明らかにこちら側に聞かせるための足音。近づいてくる。心音がドクドクと五月蝿い。扉の前で止まったソレは、だが。    コンコン    と礼儀正しくノックした。 「…………」  声など出せない。何か応えれば、それで終わる。重平は、倉庫の奥から引っ張り出してきた虎の子、流出品のMP5A2短機関銃のグリップを血が出るほどに握り締め、だが椅子から腰を浮かしたまま動く事が出来ない。ドクドクと心音。五月蝿い。    コンコン    二度目のノック。とうに安全装置が外れたMP5A2の引き金に、べったりと張りついた人差し指。ガチガチガチガチ。五月蝿い。更なる沈黙。四秒。そしてソレが来た。分厚い鉄の扉が。      蹴り開けられたのではない。破られたのでもない。  粉々に、砕かれて消えた。      音はしなかった。  強いて言えば、ざあっ、であろうか。そのあまりの非現実感。助けて、と。幾多の修羅場を潜った男の目じりから涙の粒がこぼれた。鉄の扉が無数の鉄の粉末と化して、大気に溶ける。その霧の向こうにいる、部屋に進入したヤツの姿を認識した時、重平の理性は振りきれた。    恐怖で全身の筋肉が収縮する。引金を指が千切れる程に引く。反動とマズルフラッシュと破裂音で五感がぐちゃぐちゃになる。獣めいた絶叫が自分の口から漏れ出ていた。さすがと言うべきか。引き金を引くと同時に呪縛が解け、海外で受けた『研修』の通りに体が動いていた。絶叫と弾をばら撒きながら、重平は狙点をヤツに合わせていく。 「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……!」  扉からこの机までは大股四歩。細長いこの部屋に、遮蔽物はない。かたやこちらはフルオート射撃で2.5秒間撃ち続ける事が出来る。ヤツが重平に近づくためには、どれほどの速度で飛び込んできても、まずは弾幕を正面から浴びなければならない。必勝の陣形だった。    一歩。    必勝の陣形である。だというのに    二歩。    何故、こいつは近づいてくるのか。理由は明白だ。目では見えている。でも、断線した脳が理解を拒否する。  当たり前だ。真正面から飛んでくる銃弾を    三歩。    上体を逸らすだけで一発一発避けながら、歩いて来るなんて信じられるわけがない。ガチガチ。五月蝿い。どこかで誰かが笑っている。耳障りな、だが聞き慣れた声。それは    四歩。    何の事はない。自分の声だった。絶叫は何時の間にか笑いに変化していた。笑っているのに、ガチガチと響く音は止まらない。顎、ではない。指だった。ガチガチ、と。だがいくら引き金を引いてみても、もう三十一発の弾丸を吐き出し終えた短機関銃は応えない。泣きながら笑い、重平は、傷一つ負うことなく己の前に立った鬼神を虚ろに見やる。    その鬼神は、背広を着ていた。    中肉中背よりは僅かに上背があり、わずかに細い。地味な紺のスーツに白いワイシャツ。地味なデザインのネクタイを首に巻いている――このくらいしか外見を形容する言葉が見つからない。夜の居酒屋と朝のオフィス街で二、三十人は同じ顔を見つけられるのではないか、という姿。    そう、その男は――  暴力組織の長に銃口を向けられたまま。     「人材派遣会社CCCより参りました、東野進と申します」  そう名乗り、名刺を差し出し頭を下げた。      ――ただの、サラリーマンだった。            ※七月二十八日、とある地方紙より。   『暴力団事務所にて集団幻覚?』  二十八日午前三時ごろ、××市山王町野上、指定暴力団『六角興業』より、「事務所で人が倒れている」と一一〇番通報があった。通報を受けた野上署員が向かったところ、事務所の中で組員三十七名が昏倒しているのを発見。拳銃を所持していた事から銃刀法違反の容疑で全員を現行犯逮捕した。同時に野上署は、同事務所より大量の覚せい剤、銃器類の密輸を裏付ける帳簿類を押収した。野上署は六角興業社長、六角重平(56)へ事情聴取を行っているが、六角容疑者は精神の衰弱が激しく、意味不明の発言を繰り返している。        ※七月二十九日、日経新聞より。    大手食品会社カリバー社は、冬の新商品としてスナック菓子『カニせん』の発売を発表した。カニをふんだんに使う事で高級感を出し、新たな購買者層を開拓するのが狙い。この商品を開発出来た背景には、カリバー社が××市の漁業組合と長期契約を結ぶ事により、安定したカニの調達ルートを確保出来た事があると見られている。同社は以後の営業・広告戦略はこの『カニせん』を中心に展開して行くと発表した。         ●0      その日も。  あの人は家に帰ってこなかった。  いつものこと。      だから私は別に気にしない。      カバンから教科書と参考書を引っ張り出すと、つまらない私はつまらなそうにつまらない日課を開始する。    ラックから今日のCDを選ぶ。  これが私の少ない楽しみの一つである。  プレーヤーにセットして、イヤホンをする。  再生ボタンを押して、イヤホンから古臭いギターの音色と、やや掠れた男性の声で歌い上げられる英語の歌詞が耳に流れ込めば、すぐに私は私の世界に入る。    私は私の世界で、私の日課を勤め上げる。    私の存在価値は、いい成績を出すことだけ。  あの人に私がアピール出来る定量的な事実はそれだけだったのだから。  それ以外の、私が楽しかった事や悲しかった事などは、時折ある、あの人との会話をつなぐ話題にはなっても、それ以上のものにはならなかった。冷たくされたとか、そう言う事ではなかったと思う。同年の友人達のような、反抗期特有の心情は私にはなかった。あったのは、ただ一つの仮説。そしてそれは、今となっては明確な事実だったと確信出来る。    結局。    父は私に、素で関心がなかったのだ。    だから。  私は父に感謝した事は無い。私が感謝する事があるとすれば、それはこのつまらない人生に唯一楽しみを与えてくれた音楽に――         ●1     「兵頭クン、兵頭クン」  隣の席に陣取った先輩社員にかるく肘を小突かれて、兵頭亜紀は現実に意識を引き戻された。見慣れたオフィスの会議室の風景が目に飛び込んでくる。 「あ――……う。何よ、人が折角いー気分なのに……」 「いい気分なのは結構だが、ホレ。今回はウチの部署が主役だ。質問くらった時に居眠りしてたらどやされるぞ」  先輩がささやく。オフィススキルLV1。退屈な会議中に、他者に気づかれず隣席と会話する技術は、サラリーマンならば三ヵ月もあれば誰でも修得するものである。二秒ほどかかって、ようやく彼女は現実を再認識した。会議室の大テーブルの隅っこの席に座って、頬杖をついた状態のまま、夢うつつを彷徨っていたのだ。  見回せば、テーブルに着いているのは社長、常務、営業、音響部門の主だった面々、行田工場からやって来た工作部長、なぜか医療機器部門のメンバーも居る。この会社からしてみれば、そうそうたるメンバーと言えるだろう。そういえば昨日は、ラボから出てきたあと、油スマシの日程が急に変わったとかでこの新プロジェクトの立ち上げ会議とやらの日程が繰り上げになって、慌てて滅多にしない残業を深夜までして資料を作るはめになったのだ。おまけにその後で篠宮クンと飲みに行って……。 「――以上です。総括すれば、携帯音楽プレーヤーの市場自体は引き続き拡大しているのに比して、依然として我が社の販売台数は現状維持に留まっている。……いや、言葉を飾ってもしかたがありませんな。我が社の製品は、他社に負けてシェアを奪われ続けている」  営業部長がハンカチで汗をぬぐいつつ現状を述べる。普段は手を変え品を変え、『ウチはまだ負けているわけではない』というデータをでっち上げて、全員がツッコむ気力が無くなるまで延々と大言壮語を並べ立てるこの中年が、今日ばかりは素直に「負け」を認めている。と言う事は、    ウチもとうとう行きつく所まで追い詰められたってトコね。    二日酔いのくせに冷め切っている頭の奥で、亜紀はシニカルなコメントを述べた。        株式会社 源田音響――通称ゲンキョウ。  音響機器メーカーとしては老舗の部類に入る。特に、確かな技術力に裏打ちされた音質を誇るオーディオ製品には一日の長があり、二十年ほど昔であれば、ゲンキョウのオーディオセットを揃えているのが、リッチなお父さんとしてのステータスシンボルでもあった。また、あまり表立っては知られていないが、その音響と電子製品に関する技術を応用した、聴診器や各種医療機器のメーカーとしてもその道では有名である。  だがしかし。高音質を支えていた、半ばハンドメイドとも言える熟練した職人による組立工程は、結果としてどうしてもコスト高とならざるを得なかった。シェア拡大を目指す先代社長が、競合する大手メーカーの低価格路線に対抗するため、彼ら熟練工に対する大規模リストラを敢行したのが十年前。結局これは大失敗に終わる事になる。もともと中規模に過ぎないゲンキョウが、大手企業に真っ向から安売りで体力勝負を挑めば敗北は明白だった。あっという間に無理なコストダウンのツケがたたり、自社の売りであった品質までが劣化。経営と信頼に大打撃を被る事となった。先代社長はその責を取って早々に引退。その傷が癒えぬまま、ゲンキョウは今なお迷走を続けている。その後いくつかユニークな商品を開発したものの、たいていは他社に先を越されており、日の目を見る事がなかった。  当時ライバルだった別の中規模メーカーが、音質特化と高級化路線で現在では世界レベルで高い評価を得ている事に比べれば、ゲンキョウ経営者の判断ミスは疑いようもないだろう。今では業界シェアで国内十位を維持するのが精一杯というところである。それが尾を引いてか、この十年、ゲンキョウ社内には負け犬根性と言うか、何をしても無駄、と言った一種の無気力な雰囲気が漂っていた。 「みんなも承知の通り、このような状況において、現在最も注力すべきは、市場が活発な携帯音楽プレーヤーだ。だが、この分野でこうまで苦戦が続いているとなれば、我々の未来は決して明るくは無い」  営業部長の言を引き継いだのは、卓の一番上座に腰掛けた青年だった。源田社長――創業者である先々代、リストラにより大失敗した先代の後を継いだ、まだ三十代の若社長である。大学を出て海外の企業で腕を磨き、なかなかの成績を収めたという。熱意も実力もあるが、亜紀の見るところ、やる気の無い社員に阻まれて、その九割は空転していると言わざるを得ない。――あたしもその一人ナンケドサ。 「年末のクリスマス商戦が一つの分岐になると、私は考えている。ここで画期的な音楽プレーヤーを投入し巻き返しをはかれなければ、本当に我々に明日はない。つまりは、ポ開の君達に、社運がかかっていると言っても過言ではない」  社長の視線がこちらに向く。そら来た、と亜紀は思った。『ポ開』、とは社内の略称で、亜紀の所属する『ポータブル音楽プレーヤー開発課』の事だ。なんとも間抜けな略称だが、フルネームは確かに長いし、ポタ開やポプ開に比べれば、まだポ開の方が略称っぽくてまとも、という妥協によりいつの間にか公式略称となった。 「そうだよ君達!!何も結果を出さないくせに、給料だけは受け取っている事を恥じなさい!!」  社長の横でがなり立てる男は、専務の赤山という男だった。元々技術者上がりのはずなのだが、亜紀はこの男がそれらしい仕事をしているのを見た事がない。初代源田社長の親戚とかで、大学を出ても引き取り手がなかった所を、親分肌の初代の情けで入社させてもらったのだとか。  別にテメエから貰ってるわけじゃねぇよ。油スマシ。  オフィススキルレベル3、亜紀は表情を全く変えずに心の中で痛罵した。油スマシとは赤山専務に対する社内では有名な陰口で、彼の風貌が某有名マンガに出てくる妖怪の顔にそっくりな事に由来する。ちなみにマンガの方にあった善意や愛嬌は、こちらには微塵もない。 「もう知っているだろうが、今日各部門のみんなに集まってもらったのは他でもない。我々はこれより、年末に向けて新型携帯プレーヤーの開発を最優先で注力していく。そのため、君達の中からメンバーを抜粋しプロジェクトチームを結成する、というわけだ」  社長のコメントに、亜紀は昨夜作り上げた資料に目を落とす。クリスマス商戦に向けた新型携帯音楽プレーヤーの開発資料。A3の紙面に所狭しと踊る、無数の数値がぶち込まれたスープのような表と、具材代わりの円グラフと棒グラフ。見てくれだけならそこそこの資料だ。が、何の事は無い。大量に数字を並べ立てるのは、真実を看破されにくいように。グラフの数が多いのは、『グラフで何を訴えかけるか』という根本的な指針がないから、手持ちの情報を片端からグラフ化してみただけのことである。果てしない妥協と誇張の産物。笑うしかない。彼女の作った資料も、営業部長のものと同様の小手先のものなのだ。新機種の開発などここ数ヵ月、ほとんどマトモには進んではいなかった。プロジェクトによる開発促進大いに結構。だが、それがこの会社で実った事は一度も無い。亜紀の知っているだけで、同じような『社運をかけたプロジェクト』が少なくとも三つは立ち上げられて、そしてなし崩しに消えていった。あたしゃこんなものに抜擢されて残業時間をこれ以上増やすのは真っ平ゴメンこうむる。  さて、どうしたものか。まず一番に聞かれるのがこの開発状況だろう。社内のボンクラオヤジどもはともかく、社長の目はおそらく誤魔化せない。今までと何も変わらない無為な仕事。どうやって手間をかけずに、目をつけられず終わらせるか――。 「何度も言うようだが、社運をかけたプロジェクトだ。失敗は許されない。そこで私は、昔のコネを利用して、今回のプロジェクトリーダーとなる人材を社外より招聘した。君達は彼の下で行動してもらう事になる。入りたまえ」  言うや、会議室の扉が開き、一人の男が入ってきた。  どこにでもいる男だった。  年は四十をいくつか過ぎたかというところか。いや、もちろん一人の人間としての顔は持っているのだが、その雰囲気があまりに没個性的なため、見る側が気を抜けば背景と同化してしまいそうな、特徴の無い中年男性だった。中肉中背よりは僅かに上背があり、わずかに細い。地味な紺のスーツに白いワイシャツ。地味なデザインのネクタイを首に巻いている――このくらいしか外見を形容する言葉が見つからない。  その地味な男は、会議室の中をするりと移動する。存在感のみならず、本当に存在が希薄なのではと思わせる足運びだった。その男は社長の脇、ホワイトボードの前に立つと、地味だが良く通る声で、 「人材派遣会社CCCより参りました、東野進と申します」  そう名乗り、頭を下げた。         ●2     「近年の携帯音楽プレーヤーの一大転機は、言うまでも無くアップル社が開発したiPodです」  東野と名乗ったその男は挨拶も早々に、持ち込んだノートパソコンをプロジェクターに接続し早速プレゼンテーションを開始し始めた。 「……ちょっと。何ですあの男?」  亜紀は隣の先輩を小突く。彼女は不機嫌だった。眠いし二日酔いはまだ抜けない。あの男の登場で、渾身の手抜き資料は日の目を見ずに済んだが、それはそれで無駄になった昨夜の残業時間が腹立たしい。先輩は一つ唸った。 「人材派遣会社CCC。あらゆるジャンルのエキスパートを網羅し、企業が直面した困難な課題や厄介なトラブルを打破するために派遣する『企業を助ける企業』だそうだ。社員の多くは、前職で超一流の腕を持っていてヘッドハントされたエースや、あるいは腕が良くてもワケアリで居られなくなった連中らしい。――ま、俺も聞いていたのは噂だけで、初めて見たんだがよ。社長もどうやら本気の本気らしいな」 「腕利きねぇ」  気の無い表情で、亜紀は頬杖を右腕から左腕に移す。テーブルの前で淡々とプレゼンを進めていくあの影の薄い中年男が腕利きで通るんだったら、あたしは何だ。マリー・キュリーか。     「そもそも携帯音楽プレーヤーの根本的な概念は、『好きな音楽を持ち運んでどこでも聞ける』というものです。しかし、これには必然的に制約が付きまとっていた。すなわち、一度に持ち運べる量が限られること、そして、違う曲を聴きたくなったら一度機器を取り出して記憶媒体を交換しなければならない、という点です。これによって、『急にあの曲が聞きたくなったけど手元にない』という事が起こりえた」  東野のプレゼンは、この業界に居る人間にとっては単なる過去のおさらいでしかない。カセットテープ式のウォークマンしかり、CDプレイヤーしかり。一つのテープなりディスクに入るのはせいぜい一、二時間分の曲である。他の曲が聴きたい時は交換をしなければならないし、色々な曲を手元に置いておきたいとなれば、必然的にディスクがかさばる事になる。子供の頃はよく、ラジカセを使ってお気に入りの曲を一枚に集めたテープを自作したものだ。 「その頃はCDプレイヤーも無かったしね……」  CDプレイヤーが手に入ったのは中学に入ってからだ。とはいってもいわゆるCDラジカセではなく、ポータブルの奴だったが。 「あー確かに。アッちゃんの子供時代ってことは昭和がががっ」  オフィススキルLV2(女性限定)、テーブルの下の足の甲を正確に踏み抜く技を使用して雑音を遮断する。 「やがて、MDとMDプレイヤーが開発されましたが、これは音質と容量こそ向上したものの、カセットテープと概念的に大きく異なるものではありませんでした。以後、携帯音楽プレイヤーは停滞期に入り、機能拡張や、小型化、装飾性を充足していく事になります」  東野のプレゼンは続く。 「一方、九十年代後半のインターネットの爆発的普及は、新たな音楽文化を生み出す事になります。それはつまり、MP3等によってファイルを圧縮し『音楽をネットでやりとりする』ことと、『パソコンで音楽を聞く』事です」  しかし、ユーザーに着実に広まっていったこのスタイルを、音楽業界は長らく無視し続ける事になる。何故なら、彼等の利益の主要な源泉は販売されるCDによるものである。パソコンに取り込んで音楽を聞くという行為は、彼等にしてみれば不正コピーと同義語だった。そんな事を認めては、彼等の利益の大半をドブに捨てる事になる。断じて承認するわけにはいかなかったのだ。果敢なメーカーが、スマートメディアなどの記憶媒体を利用したプレーヤーを幾つか開発したが、転送速度の遅さもあり、売れ行きは今ひとつだった。 「しかし、そんな因習をいともあっさりと打ち破ったのが、PCメーカーであるアップル社のiPodだったというわけです。圧縮した音楽を、内蔵した大容量小型ハードディスクに記録する事で、『大量に』『かさばらず』音楽を持ち運べる。これにより、手持ちの曲を全て持ち運ぶ事が出来るようになり、『手元に無い』という事態が無くなった。そして、ユーザーに配慮した使いやすいインターフェースで、『音楽をネットでやりとりし』、『パソコンで音楽を聞く』。従来のニーズと現在のスタイルに、まさにマッチしたアイテムでした」  それが正解だったことは、iPodの爆発的な売れ行きと、それから一年の間に各メーカーが類似品を一斉に売り出した事からも明らかである。 「ノートパソコンの普及によって、ハードディスクの小型化の技術はすでに陳腐化していました。iPodはどのメーカーにとっても、技術的には決して難しいハードルではなかったのです。では何故、アップルにはiPodを開発できて、あなた方を含む音響メーカーには開発出来なかったのか」 「どいつもこいつも古臭い常識から抜け出せなかったからよ」  自分では小声で呟いたつもりだったのだが、東野が言葉を切ったタイミングに合う形になったためか、それは予想以上に会議室に響いてしまった。こちらを向いた東野と視線が合う。亜紀は真っ向からにらみ返してやった。理由は特に無い。理系硬派女三十歳(四捨五入すれば)、堂の入ったガンつけである。東野はガンつけをしてるはずの亜紀の表情を見て、僅かに口元を緩ませた。  笑った、のか。 「――まさしく。そして貴方がたは、結果としてまたも苦しい後追いレースを続けさせられている事になる」  そう。ハードディスクを利用したサウンドプレイヤーとなれば、PCの大手たるアップルのアドバンテージは絶大だ。大手音響メーカーも、負けじと自分達の持つリソースを駆使して猛追に出た。今や電気店の店頭では各社入魂の音楽プレーヤーが毎月のように入れ替わりながら火花を散らしている。だが悲しいかな、ゲンキョウのような中規模メーカーには、急に方針転換する体力も、猛追するだけの馬力もない。マラソンで、速度もスタミナも劣る選手が後発でスタートするようなものであり……結局の所、どうやっても勝算はないのだ。 「我々も現状は痛いほど認識している。だからこそのプロジェクトだよ東野君。私が聞きたいのは、君の説明ではなく、君の提案だ」 「そうだよ東野君!!もってまわった言い方はやめたまえ!みんな忙しいんだから!」  苦虫を噛み潰した源田社長と、横で喚く油スマシの声に、頷く一同。彼等とて、別に朝からわかり切ったオセッキョウを一から聞き直したいワケではないのだ。東野は恐縮して頭を下げる。 「失礼いたしました。私が申し上げたい事は、単純に小型化、高速化、コストと言った点で競い続けては勝算はないと言うことです。となれば、御社独自の『何か』を付け加えたものを生み出さなくてはならない」  会議に居合わせたメンバーに、露骨に失望が広がっていく。 「すまないが東野さん、そんな問答は、開発会議で毎週のように検討されているネタだよ」  音響部長の発言が全員の意見を代弁していた。CCCの派遣社員と言えど、この程度か――そんな声無き声。出席者達は一同に身じろぎする。すなわち、早くこの会議を終わりにして外に出たいという意思表示だ。だが東野は、動じていないようだった。穏やかに返答する。 「しかしまだ、試していないモノがあるかも知れない」 「試したさ。それこそ総当りでな。パソコンを使わずともMDから取り込めるとか。音質の可能な限りの向上をはかるとか。外装を若い女性向けにするとか。およそ音響部門の持っている技術は全て検討したんだ」     「――そこに大きな誤解がある」      す、と東野の声が響いた。先ほどとは違う。いや、確かに先ほど同様穏やかではあるが、何と言うのか、芯の通った声。今までの人当たりの良い物腰とは少し違う、明確な意志を持って人を動かす人間の声だ。緩みかけていた一同の視線が、再び東野に集中する。 「貴方達の大きな不幸は、自分の本当の力を知らない事にあります。部長、貴方はまだ、自社のリソースを半分しか試していないのです。ゲンキョウ社には、まだもう一つ技術の宝庫があると言うのに」 「……半分?」  そこで一旦言葉を切り、再びノートPCを操作しプレゼンを再開させる。 「――さて。iPodの成功の大きな要因は『聞きたい音楽を全部手元に置いておける』。これに尽きます。しかしながら当然、曲数が増えれば増えるほど、それを管理するのは大変な事になってくる。現在、各社の製品では、お気に入りの曲をリスト化してあらかじめユーザーが設定しておくプレイリスト機能や、演奏履歴などからユーザーの嗜好を推測した上でランダム演奏をしてくれるシャッフル機能があります。しかし、これはいずれも、定められたプログラムや機械的なルーチンによる再生に過ぎない」 「あー、確かにそれ思うよな。音楽をBGMで流してるとさ、何ていうのか。毎回決まった順序で曲が流れるのは単調でイヤなんだけど、シャッフル再生すると、ノリのいい曲とテンション低い曲が交互に流れてきて、それはそれでムカつく、みたいな奴」  亜紀の隣の先輩が発言すると、何人かの社員が頷いた。 「俺は今、テンション高い曲で突っ走りてーんだよ!!タルい曲流してんじゃねー、ってのはあるよな」 「だが、機械だししょうがないんだろう。こっちのフィーリングなんてわかるわけもないし」 「では、例えば。――機械がそのフィーリングを理解して、音楽の順序を決めてくれるとしたら如何でしょう?」 「へ?」  呆気に取られる一同。 「そりゃ無理ですよ東野さん。ユーザーの状態を検知するなんて。人工知能でもつけろっていうんですか?」 「おや?でも貴方達は、そういったモノをずっと作って来たのでしょう?」  東野の質問に、皆が怪訝な表情を浮かべる。と、 「……モニタリング機能か!」  一際大きな声が上がったのは、テーブルの反対側だった。声の主は、今まで何のためにここに居るのかと思われていた医療機器部長だった。 「小型の携帯プレイヤーに、脈拍や血圧、歩数の検知機能を取りつけ、ユーザーの状態を推測する。それを元に、プレイヤーが自動的にその状況に適したジャンルの曲を演奏する――そういうことじゃないか、東野さん!?」  医療機器部長の発言の意味するところに、何人かが気づきはじめた。 「もしそんなものが出来れば……。それは音楽を携帯するだけじゃない。必要なときに必要な音楽を供給してくれるプレイヤーという事になるぞ!?」 「これは……携帯プレイヤーの新たな革命になるかも知れん!」  東野の顔に会心の笑みが浮かぶ。そのままノートPCのキーが叩かれた。 「……それでは、遅くなりましたが、私の提案を説明させていただきます。医療機器の技術を応用した、ユーザーと相互リンクする携帯音楽プレイヤー。コードネーム『カペラ《宮廷楽団》』です」  映し出されたのは、二本の細いケーブルが伸びた音楽プレイヤーだった。        それから三十分ほど、会議は過熱状態だった。技術的な可否についての質問が営業部から飛べば、東野より先に医療機器部が、既存の技術の流用であり問題ない事を回答する。医療部がデータのリンク形式を述べ、音響部がそれに対応出来る事を即答した。源田社長がこの製品を発売した場合に狙いうるシェアを聞きたがれば、営業課長が大雑把にだが市場データを試算する。既存シェアの三割奪取、さらなる新規顧客の開発の可能性と言う結果は、一同を驚嘆せしめた。  年末までのスケジュールが組まれ、担当者が割り振られてゆく様を、亜紀はぼんやりと眺めやっていた。この会社がこんなに熱意に溢れているのを見るのは、初めての事では無いだろうか。いや、数年前にも一人いた。だが、そいつは一人だけで空まわって、独走した挙句……。 「CCCの社員ってのはやっぱスゲェなあ」 「そう?目のつけ所はいいかも知れないけど。それだけじゃない」  先輩のコメントに、亜紀は気の無い声を返す。 「――それでは、本プロジェクトのメンバーを選定させていただきます」  そうこうしているうちにも、東野の議事は進んでゆく。まあ、多少惹かれるものがあった事は否定しない。だが、それだけだ。あたしには何の関係も無い。ここ数年、ずっと閑職で冷や飯を食わされてきた身である。仕事に何かを期待するような若さは、とうに飲んだヤケ酒と吐いたヘドに紛れてどこかへ流れてしまっていた。   「ポータブル音楽プレーヤー開発課、兵頭亜紀さん」    だから、東野のそんな声が飛んだ時。   「あたし?」    思わず、素で叫んでしまっていた。         ●3      ゲンキョウのオフィスは、埼玉県のさいたま市に近年設置された『さいたま新都心』のすぐ近くにある。これはJRさいたま新都心駅にショッピングモール、バスターミナル、官公庁のオフィスが併設された、県の新たな中心となるべき商業施設である。  都心までは電車で三十分。ゲンキョウの製品工場がある埼玉県行田市へのアクセスも電車一本で一時間以内ということもあり、亜紀は立地条件には非常に満足していた。ただ気に入らないのは、このネーミングセンスの欠片も無い地名駅名の数々である。当初は各所から散々にバッシングされ、笑いものにされたものだが――今ではすっかり定着し、愛すべき愚かな名前という位置を確保していた。  重度の低血圧である亜紀が、技術職の数少ない恩恵であるフレックスタイムを最大限に活用して十時に出社してくると、彼女の所属する課、『ポ開』のシマにはちょっとした人だかりが出来ていた。 「ちょう、なにやってんよう」  居並ぶ男衆に蹴りを入れ、肩で押しのけて自分の席に辿り着く。カバンを机に下ろしたその隣の席には、 「おはよう、兵頭さん」  新プロジェクトのリーダー、東野進が居た。 「……おはよござッス。……んで。プロジェクトリーダー様が、なんでこんなところに?」  隣の席は確かに昨日まで空席だったが、もともと窓際一歩手前の亜紀の席の隣である。決して便利な位置にあるとは言いがたい。給茶機からも遠いし、エアコンの効きも微妙に悪い。至極もっともな亜紀の質問は、だが、 「タッグを組む相手と隣席になるのは自然なことだと思うけどね」  これまた、至極まっとうな東野の回答に迎えられた。その間にも、キーボードに乗せられた手は凄まじい速度で情報をPCへと打ち込んでゆく。そして『印刷』をクリック。 「――はい。企画書とスケジュール表。社内で説明をする時にはこれを使ってください。それから、これは付随するタスク表。以後、毎週月曜日の朝に、各課長とキーマンによる会議を開いて、進行状況をフォローしあってください。ただし、三十分で終わらせるように。問題が発生した場合は、まずは部門内での打ち合わせを。報告書を作成する手間は不要です。タスク表の更新をメインにしてください。ただし、書きたいと思った事はどんどん書いてください」  プロジェクトメンバーへの指示を書類と併せて通達しながら、電子メールにも目を通し、何処へとも知れぬが電話もかけまくる。始業からわずか三時間で、社内の書類の束、サーバー内のデータ、社員の頭の中。オフィス中に眠っていた無数の情報のカケラが寄せ集められて、プロジェクトを補完する根拠になり、また、業務を円滑に進めるツールとなってゆく。それを見ていた他のプロジェクトメンバーや課員達の間には、畏怖と、そして尊敬の眼差しが急速に広まっていった。CCCの社員、恐るべしと。  亜紀が頭をすっきりさせるため、始業前の缶コーヒーを買ってくる頃には、『ポ開』の従来抱えていた案件、問題はほぼ一掃されていた。そこで一段落ついたのか、東野は背広のポケットから煙草を取り出そうとして、ここが禁煙だったことに気づき、軽く舌打ちする。 「……外。トイレの左」 「や、ありがとう」  亜紀のぶっきらぼうな物言いに、東野が苦笑した。      廊下の壁際、トイレの左。換気扇とその傍に設置された轟々と音を立てる分煙機を囲い込むように、パーテーションで区切られたごくごく狭いエリア。ここがこのフロアで唯一、喫煙が許される場所である。人が二人入ればもう窮屈極まりないが、このフロアで煙草を吸うのは亜紀一人だけだったので、今まで大して困った事は無かった。ついでに言うなら、近頃の若手の男社員は飲み会の席で亜紀が煙草を吸うと露骨に迷惑そうなツラをする。腹が立ったので先輩としてちょっと指導してやったら、なぜか『ポ開のジョン・コンスタンティン』等という仇名をつけられるに到った。  その喫煙所で東野は灰皿を引き寄せ、うまそうに肺にニコチンを送り込んでいた。 「まあ、これがあるからこそ日々の労働にも立ち向かえるわけだけどね」  空になったコーヒー缶を灰皿にして、亜紀も煙を吹かした。PCの電源を入れてはみたものの、ログインする気には何となくなれなかったため、東野についてきたのである。それに、仕事を始める前に確認しなければならない事がある。 「――えっと、東野サン」  何だね、と答える東野。事務的な口調だった昨日のプレゼンと比べると、幾分気さくな雰囲気だ。そういえば、まともに会話するのは初めてだった事に、亜紀は今更ながらに気づいた。 「あたしに対する会社の評価、まさか見落としてませんよね?」  表現がひねくれたのは彼女の性分だ。 「そうだねえ。私が事前にリサーチさせてもらったところでは、『音響部の爆弾娘』、『不労所得者』、『上司殴打回数記録保持者』、『自主的ノー残業デー積極的実践者』と言ったところかな。ああ、『ポ開のジョン・コンスタンティン』というのも……いや、失礼」  亜紀の表情に気づいた東野が言葉を切る。 「ま、イイですけど。ぜんぶ事実ッスしね。で、エリート派遣社員の東野サンが、何でまた会社きっての問題児をプロジェクトのパートナーに推薦あそばしたんでしょーか」  それは、彼女のみならず、ゲンキョウの社員全員の疑問でもあった。こう言っては何だが、亜紀の業務上の功績はお世辞にもはかばかしいとは言えない。『万事に消極的』と評されるゲンキョウ社内でも、とくにグータラで名が通っているのが亜紀なのだ。自分で言ってれば世話が無いが、正直、他に適任はいくらでもいる。その当然の疑問に、東野は目を白黒させて、 「エリート?誰がだい?」  いささかズレたコメントを返した。 「誰がって。アンタでしょ。音に聞こえた一流企業、CCCの社員。待遇良さそうだもんね」  すると、亜紀の言葉のどこがツボに入ったのかはわからないが、東野は苦々しい笑いを浮かべ、分煙機に向かって紫煙を吹いた。 「それは隣の芝生は青いって言葉の典型だよ。給料は結局世間並みだし、福利厚生を差し引いたらメーカーさんの方がよっぽど恵まれてるんじゃないかな」  何しろ死んだらそれまでだしねぇ、と東野は呟く。 「何よ。死ぬったって、ホントに命を落っことすわけじゃないっしょ?だいたい世間並みって。アンタみたいなエリートはそもそも想定する平均値が違ってるんよ。アタシなんて幾らだと思う?毎月手取りで××万よ?」  灰皿に吸殻を押し付けていた東野の手が一瞬止まった。しばしの沈黙の後、二本目を箱から取り出そうとして、また二秒ほど沈黙した後、思い止まった。何やら深刻な葛藤があったらしい。そして、 「私は――――×○万なんだがね」  ぼそりと。そんな事を言った。 「……嘘」  今度は亜紀の手が急停止する番だった。 「アタシとほとんど変わんないじゃん。あー、東野サン、扶養家族は?」 「妻と、高校の娘と中学の息子が」  灰皿代わりのコーヒー缶が音を立てて転がった。 「無理!無理だってソレ!どう考えても計算合わないっしょ!ナンデそんな条件で働けんの?その腕ならもっと割りのいい仕事があるでしょ実際?」 「いやまあ。色々とこの業界狭くってね。転職組には風当たり厳しいんだよ」 「あー。やっぱり転職したんだ。元は……商社マンとか?」 「半分当たり、かな。商社の中の、総務みたいなところに二十年程」 「ナニ?その『みたい』っての」 「細々した仕事を一手に引き受ける部門なんだけどね。ちょっと引き受ける仕事が特殊なものに偏っていたって言うか何と言うか」  妙に歯切れの悪い返答である。 「まー、アタシがどーこー言う話じゃないけど。そんな給料であそこまで働く必要あるワケ?どーせカウント出来る残業時間もお情けみたいなもんなんっしょ。テキトーにやって、とっとと帰ったら?イッショウケンメーやってたら、とてもじゃないけど耐えられないんじゃないの?」  二本目の煙草をくわえる。財政難のこの男はともかく、アタシゃ一日最低一箱は開けないと生きていけないのだ。     「それは逆だ。適当にやってたら、とてもではないけど耐えられないよ」      ライターを点火しようとして、失敗した。 「……ふーん。そういうもん?」 「そう。仕事と労働とは違うものだ。本人が『やる仕事』と、『やらされる労働』では、同じ時間、同じ作業をしたとしても、得るものが全く違う。社員がみな、『やらされる労働』として働き始めたら、その会社に明日は無い」  知ったような口を。 「どこのビジネス雑誌の受け売りか知らないけど。アタシが知る限り、そういう風に考えながら会社にいいように使わされる人を社畜って言うんじゃなかったっけ」 「一生懸命と社畜は違うよ。全然ね。会社であれ、役所であれ、戦場であれ、自分に与えられた仕事の中で、己が最善を尽くすのであれば、そこには誇りが存在する。誇りがある人間は、自分を家畜だなどとは決して考えない」  東野の声調が、少し変わった。 「あまり知られてないけどね。社畜という言葉はそもそも、他人からつけられた呼称ではないんだ。最善を尽くせない人間が、自分自身をそう呼んだんだよ。自分達のしてきた中途半端な仕事を冗談混じりに卑下する事で、後ろ向きに許容するために作り出したそんな単語を、君が使う事は無い」 「ちょっと。さっきから何が言いたいワケ!?」  後からなら、何とでも言える。どいつもこいつも評論家気取りで。 「何って。仕事に対する私の気構えだけど」 「……あっそーですか。あのねぇ。どーいうつもりか知らないけどアタシにヘンな期待はしないで頂戴。言われた事はやりますけど、残業とか一切ゴメンですからね!」  アタシの仇名を事前に調べ上げるようなヤツの耳に入らないはずはないのだ。 「留意しておくよ」 「どうも、ありがとうゴ・ザ・イ・マ・ス!」  礼の言葉を敵意だけで発音すると、吸殻入れの中にコーヒー缶をぶち込む。のしのしと大股で、亜紀は喫煙所を出ていった。      結局、その日はメールの整理だけして一日が終わった。  亜紀は定時を過ぎると、誰よりも早く退社した。         ●4     「あはは。それで、結局一週間マトモに働いていないの?」  カウンターの隣で、篠宮浩助が笑う。 「マトモに働いてない、ってのはひどいなー。ちゃんとメールは毎日チェックしてるでしょ?」  亜紀は水割りをあおった。  さいたま新都心から電車で一駅離れた、大宮駅の東口に位置する小さな洋風居酒屋である。開発が進み、デパートや大規模家電量販店が立ち並ぶ西口に比べると、東口はどうしても昔ながらの雑然とした商店街の臭いが抜けないのだが、反面、こういう隠れ家的な雰囲気のいい飲み屋が点在しているのだ。ここは亜紀が三年ほど前から通うようになった所で、用途はもっぱらオトコとの飲みである。今夜も然り。 「あはは、確かに亜紀ちゃんからメール返って来る速度って尋常じゃないもんね。三分かかったことないもんなぁ。いったいいつ仕事してるのって思うもん」  篠宮浩助。現在の亜紀の彼氏にして、大手保険会社の営業マンである。とはいえ、付き合いはじめたのはほんの一月前。出会ったのは会社の同僚が企画した合コンだった。亜紀よりは年下だが、なんとこの年で係長へ昇進間近と言う将来有望な若者。だが外見はぜんぜんそんな風には見えなくて、線の細さと、育ちの良さを感じさせるのんびりとした性格が、なんとなく守ってやりたくなるものである。さりげなくブランド物のスーツを着こなしているところも高得点。 「だってしょーがないじゃん。他にやることなんて無いんだしさ。アタシ。この二年間、周ってきた仕事なんてお茶汲み掃除、その場しのぎの資料作りばっかだもんね。今更何かやれって言われても、もう図面の引き方も忘れちゃったわいよ」  ぱたぱたと手を振って、芋焼酎のボトルを追加する。カクテルなどという腑抜け飲料とは、二十になる前にとうに絶縁している。洋風居酒屋なのにという指摘は、する者がいなかったし、いたとしても聞く亜紀ではなかった。 「でも、社運をかけたプロジェクトなんでしょ?それに、その……カペラ、だっけ。門外漢の僕にしても、結構面白い商品だと思うなあ。さっすが天下のCCC、ってところか」 「うちの先輩も凄い凄いって言ってたけど。何、CCCってそんなに凄いワケ?」  とりあえず、給料は別の意味で凄かったのだが。 「あんまり表には出てこない会社だから、知らないのも無理ないと思うけどね。BtoB……顧客は一般人じゃなくて、僕の会社や君のところみたいに法人が中心。定まった業務が無い変わりに、あらゆるトラブル、難問に対する切り札を持っている、って噂だよ。傾きかけた企業を立て直した例は数知れず。世間のヒット商品の裏にCCCあり、なんて言葉もあるとかないとか」 「はあ。とてもそうは見えなかったけどね〜」  確かに仕事振りは確かなもののようだが、あの特徴の薄い中年は、どうしても凄腕やエリートといったイメージとは縁遠い。と、突如グラスをテーブルに打ちつける。 「ええい。なんでせっかく気持ちよく飲んでる時まで、あんなオッサンを話題にしなきゃならないんだ!」 「話題を振って来たのは亜紀ちゃんじゃない」 「そんな昔の事は忘れたッ」  ぐびぐびと焼酎を流し込む。だんだん歯止めが効かなくなっている。 「いいのよ、今更あんなカビ臭い会社はどーなったって。アタシはさっさといい男に養ってもらうんだから〜」  酔った勢いを借りて、さりげなく篠宮の方に身を乗り出す。というか、さりげないと思っているのは本人だけで、傍から見たらさすがにあざとすぎるのではないかと心配したくなるほどだった。蛇足ながら、亜紀の炊事洗濯の成績は、どうにか赤点ではありませんというレベル。 「……僕は、かまわないけどね」  小声で、だが明確に呟いて、篠宮はワイングラスに口をつけた。亜紀の冗談めかした笑顔が固まる。 「…………ホント?」 「まあ、その」  視線をそらす。その腕を、亜紀は両腕で抱え込んだ。 「ウレシイこと言ってくれるじゃない、愛い奴め、愛い奴め!ほほほ苦しゅうない近うよれ!」 「わああ、ちょ、やめてって……その、そ、そうそう。さっきの新製品。販売はいつなんだい?」 「えっと。クリスマス商戦に投入するから、やっぱ12月の半ばね〜」  ちょっと水を指された気がしないでもないが、上機嫌の亜紀は気前良く答える。それに対して、 「ふうん」  と気の無い変事をしたあと、篠宮ははたと手を打った。 「ああそうそう、再来週、新宿で映画やるの知ってる?あの話題のヤツ」 「うん。『ムエタイVS地底人 巌娜亜羅十番勝負』でしょ?予告見たわ。地底人にもやっぱりローキックは有効なのねぇ」 「い、いや。『ニースの奇跡2』っていう恋愛物なんだけど」 「あ、あー。……アレね!うん、知ってる知ってる」 「その。レイトショーで見に行かない?」 「もちろん行く。行く行く。再来週ね?」  亜紀がぶんぶんと手を振ってみせると、篠宮が露骨に安堵した表情になる。――こりゃあ、再来週までに急いでその『にいすの奇跡』とやらの知識を仕入れないと。ってか、なんで一話完結の恋愛物に2なんて出すんだ、前作で死んだ恋人がゾンビになって蘇るとか、やっぱりそんな話なのだろうか?  どうでもいい事を考えながら、亜紀は最後の芋焼酎を臓腑に流し込んだ。      篠宮とは、そのまま大宮駅で別れた。  居酒屋がある大宮駅から、オフィスのあるさいたま新都心までは電車でわずか一駅。しかも、その一駅というのが恐ろしく短い。電車なら時間にすれば五分もかからないだろう。亜紀のアパートは大宮とは反対側にあるため、定期では入れず、切符を買わなければならない。金を払うのがイヤになったか、酔い覚ましをしようと思ったのか。自分でも良くわからないまま、亜紀はぶらぶらと二十分ほど道なりに歩き、結局徒歩でさいたま新都心まで戻ってきてしまった。  いつも結構飲むけど、今夜は特に輪をかけて飲んでしまったような気がしないでもない……いやいや大丈夫、アタシは酔っていない。酔ってないぞぉ。と、酔っ払い特有の思考を巡らせながら、改札口に向かって歩く亜紀は、これまた自分でも良くわからないまま、自らが勤めるゲンキョウのオフィスを見上げた。  灯りが落ちて、黒い巨大な箱と化したビルの中に、ぽつんと白いものがあった。一室だけ、まだ電気のついているオフィスがあるのだ。その位置が会社のどの部門に当たるかを頭の中で照らし合わせて、亜紀は心底うんざりした顔を浮かべた。         ●5     「ま〜だやってんのぉ〜お、ひ〜がっしの〜さん」  全身からぷんぷんと立ち昇るアルコール臭でオフィス内を汚染しながら亜紀はずるずると這い進む。日付ももうじき変わろうかという刻限、モニターに向かって黙々と作業を続ける男は、言うまでも無く、一週間前から彼女の隣の席に居座っている異分子である。 「金曜の夜に〜〜〜仕事をしてていいと〜思ってんか〜〜返事しろ〜〜ヲい!東野!聞いてんのおうえええっ」  録画機能つきデジカメで思わず撮影したくなる、惚れ惚れするほどの醜態であった。ちなみに、オフィススキルLV7、深夜のオフィスへの進入を可能としたのは、しょっちゅう忘れ物を取りに来ているうちに守衛と顔馴染みになっていたおかげである。とはいえエレベーターは使えない。勢いに任せて階段で上って来たのはいいが、オフィスについた途端に猛烈に気持ちが悪くなった。 「大丈夫かい、兵頭さん」 「うぅるっさいいいーの。あたしは。ってか、ひがしのクン!!終電でる!はやーくかえりなさい。かえれ。かえれー」  東野はやれやれと首を振ると、亜紀を彼女の席に座らせた。そしてこちらはまだ動いている自販機で、350mlの冷たいお茶の缶を買って渡す。前のめりになりながらもぐびりぐびりと飲み干す様は42kmを駆け抜けたランナーのよう。 「落ち着いたかい?」  机に突っ伏していたのは十分くらいだろうか。見れば東野は黙々とメールを打ち続けている。重い頭を上げて、亜紀はしばらくその様をぼんやりと見つめていた。 「……何やってんの?……ザンギョーなら家でやればいいじゃん……」  先程よりは少しは思考力が戻ってきたようだ。かわりに、猛烈な頭の重さも自覚してしまったが。 「そういうわけにもいかなくてね。CCCの海外支店はまだ開いているから、今週のうちに色々と助力を求めているんだ。この業界は特に生き馬の目を抜く世界だから、打てる手は打っておく、ってこと」 「あーそうですかそれはー仕事熱心ですねー結構なことですねー」  言うや、またも机に突っ伏す。と、その視線が、東野のPCの上に立てられた写真立てに止まった。にゅー、と手を伸ばし、こちらに向ける。四角く切り取られた光景。そこに移っていたのは、今よりも幾分若いであろう東野と、その側に寄り添う、温和な微笑をたたえた、妻と思しき女性。そして子供が二人。小学生くらいだろうか、東野の上着の裾をじっと掴んでいる女の子。カメラに向かってピースサインを突き出している、幼稚園の制服を来た男の子。 「……そーいや、娘さんと息子さんがいるっつってたもんねー。何年前の?コレ」 「もうそろそろ十年になるかな。あの頃は二人とも可愛くってねぇ。ああいや、今でも二人とも可愛いよ、うん」  録音機能つき携帯で思わず保存したくなる、惚れ惚れするほどの親バカぶりであった。  「……そんなに可愛いーんなら、早く帰んなさいよ実際。こんな時間までパソコンと遊んでねーでさ」  写真立てを手元に引き寄せ、弄繰り回しながら亜紀が言う。 「そうしたいのは山々なんだけどね。今は重要な時期だから手が離せないんだよ」  亜紀はパタリと写真立てを伏せた。そして、はぁぁぁぁぁぁああああ、と。長い長いため息をついて、   「そういう事を言ってるから、十年後に育ててやった娘に絶縁されるのよ」  この一週間の苛立ちの根本を、ぼろりと吐き出した。       「どうせ貴方の事だから、プロジェクトメンバーの履歴書なんて一通り目を通してるんでしょ」  椅子に座りなおし、背もたれに体重を預けた。 「……まあ、一通りは」 「そう。なら、貴方がご存知の通り、ウチは早い時期に両親が離婚してね。私が小学校の時から父親と二人暮しを始めたわけ。母への慰謝料で、父の生活は相当苦しかったみたい」  父が母にした仕打ちと、母の父への恨み。どちらが過剰だったのか、あるいは等価だったのか。随分な慰謝料だったらしい。 「変な話よね。私の前では口論一つしたことのない両親だったのに。で、父は随分働いたみたい。毎日残業残業で、帰ってくるのは私が寝入ってから。中学生になってから、父の夕食をとってるところなんてほとんど見た事がなかったわね。――そんなのが三年も続いたかなあ。そうなるとね、どうなると思う?」 「……いや、想像がつかない」 「たまに家で顔を合わせてもね。お互いに話すことが無いのよ。一応それまでには、多少なりとも離婚の事情は理解出来るようになってたから、父を恨むとか無視を決め込むとか、そういうつもりはなかったと思う。でもね、ううん、それだからこそ。『別に話すことなんてない』の。たまに朝食を一緒に摂った時は酷いものね。向かい合わせに座っていながら、二人して脇のテレビを眺めてるの」  そのいたたまれない雰囲気は今でもはっきりと思い出せる。理性も、感情も、目の前の人が、一緒に居て当然の相手とわかっている。なのに、『なんでこの人がここにいるのかわからない』という違和感が、確かにあったのだ。それも、お互いに。 「親子ともども、相手が居ないことが当たり前になっちゃってたのよね。でもそのままじゃ流石に悪いと思ったから、成績を見せる事にしたのよ」 「成績っていうと、中間テストの点数とか、そういう奴?」 「そう。実際の所、私はクラスの中ではそこそこ勉強が出来る方の人間だったから。テストの度に、『私は貴方に払ってもらった学費でこれだけの結果を上げましたよ』って、成績を報告する事にしたのよ。そうすれば少しは、養ってもらってる恩も返せるってもんでしょ。点数が悪くちゃ話にならないから、それなりに勉強は頑張ったつもり。そうね、友達のいないガリ勉少女と言った方が近いわね」  まあそのおかげで、結局、県でトップの公立の高校、国立の理系大学に進学がかなったのであるが。ちなみになぜか高校進学後は、そのストイックなスタイルがやたらと女子連中の信望を集めてしまい、結果としてこのような性格が形成された次第。 「大学に入って上京するのを契機に、父とはきっぱり絶縁したわ。お互いに憎んでもないけど、好きでもなかった。これ以上一緒に居ても、お互いにメリットはなかったから。――結局。私達は、最初にすれ違ったまま、それを取り戻すことが出来なかったのよ」      自販機で買ってきた、もう一本の烏龍茶の缶を開ける。ついでに買ったホットコーヒーも東野に押しやる。気がつけば、終電の時刻は過ぎていた。東野のも、彼女のも。 「まあーそんで。家とも縁を切ったことだし。大学時代は随分遊んだもんだけどね。卒業を控えて就職ともなったら、さすがにアタシも人並みには悩んだワケよ」 「サイコロで決めたとか?」 「……アンタアタシを何だと思ってんのよ」 「いや、これは冗談。入社時の志望動機も読んだよ。音楽が好きだったんだって?」 「げげ、そんな文書にまで目を通してたんだ。なんかそこまで行くとストーカーの類ねぇ。まさか、よその会社のゴミとか漁ったりした事あるんじゃないの?」  さてどうだったろうね、とはぐらかす東野。 「ま、隠すような事でもないしね。前述のよーに割りかし暗いベンキョー生活を送った美少女中学生だったアタシの、唯一の楽しみが、音楽を聞くことだったワケよ。随分色々と聞いたものねえ。ポップスに始まって、洋楽、クラシック。図書館で借りた民族音楽も随分ダビングしたもんだし。三年の終わりには演歌と琴にも手を出してたっけかなあ」  その当時に築き上げた彼女の音楽ライブラリは、一人暮らしをはじめた今も部屋の棚を三つ占拠している。 「テンション上げたい時にはポップス。テンパってて、でも負けてらんねぇ、って時はメタル。集中したいときはなぜか演歌だったもんよ。でもアレね、同級生みたいに、どっかのバンドの追っかけとかには全然興味わかなかったんよ。ホント変なんだけどね。曲が好きって言うより、曲を聞くっていう行為が楽しいって言うか。節操ナシって良く言われるんだけどねー」 「そんな事はない。それは節操がないのではなく、純粋に『音楽』が好き、ということじゃないか」  亜紀は、目を白黒させた。 「……すごい新解釈。……ま、だからサ、アタシも気がつけば理系の大学出てガチガチの技術屋になってたわけだけど。音楽に関わってメシが食えるなら、それがいいかなー、なんて思ったワケよ。もっともそう思ったのは三月の終わりで、もうここしか募集してなかったんだけどねー」  それは嘘だ。彼女は複数社の内定をとりつけていたはずだ。が、別に取り立てて口にする必要はない。東野はプルタブを押し込んだ。亜紀も烏龍茶を飲み干して、缶を机に叩きつけた。 「念願かなって就職出来たワケだから、さー、これを機にバリバリやってやるぞー、なんて意気込んでいた時期がアタシにもありました。ハイ!!ってか、そろそろそっちからも喋ってよ東野さん。アタシがホされた件、アンタが調べてないわけないでしょ?」 「新企画として提出した、小型HDD搭載プレーヤーの件、だね」 「……やっぱり知ってたんだ。まー、これも隠すほうが難しいってヤツよね。あんときはさー、アタシも若かったんだわ。尻の毛が抜けて、ヒヨコは卒業したと思ってた頃かな。開発課に配属された以上、画期的な新製品を開発する事が、我に与えられた使命!って感じで」      当時、まだ新人扱いだった亜紀は、日本中に浸透したインターネットと、そこでやり取りされる音楽に注目した。そしてそれを小型ハードディスクに入れて持ち運んで再生する。……つまりは、今日爆発的に普及した、iPodをはじめとするデジタルサウンドプレーヤーの原型である。 「iPodよりはずっと早かった。あのまま行けば、間違いなく連中より先行して売り出せてたと思う」  その当時の亜紀は、停滞しきった社内の雰囲気を変革すべく、まさしく孤軍奮闘していたものだ。上司から何度と入るチェックを、徹夜で都度訂正し、工場に日参してコストを試算し、ラボで評価を繰り返しつつ、昼は営業にくっついて取引先を周ってリサーチの真似事をしてみたり。今思えば、随分と稚拙なことをしでかしていたものだ。だが――間違いなく、充実していたとは思う。 「でもね。結局、上を説得し切る事は出来なかった」 「なぜなら、当時のゲンキョウ上層部にして見れば、貴方の開発した製品は、楽曲の違法コピーを推奨する品物にしか見えなかった。以前に低価格路線を打ち出して大失敗をして以来、万事に消極的な上層部は、お得意様である音楽業界を敵に回す気概はなかった、ってとこだろう」  まさしくそうね、と亜紀は肩をすくめた。そして、金の卵は孵ることなく、間もなくiPodが世界を席巻する事になる。 「悔しかったなー……。チャンスを逃した事も、あの時ベストを尽くせなかったことも」  例え専務と刺し違えてでも世に出すべきだったかな、などと本気で呟いてみる。 「でもま、それならそれで次回頑張りましょう、ってな結論ならアタシもリベンジかますか、って気分になったんだけどね。これがまあ、お粗末な話しでサ」    ――後日。とある会議の席で、当時の社長がiPodの躍進を目にし、部下達に問うた。なぜ、ウチではああいうものを作る事が出来なかったのか、と。  社長直々のご下問に、亜紀の当時の上司である赤山部長は、彼女の目の前で恐縮しながら応えたものだ。すいません、ウチの部下はやる気のない使えない連中ばっかりでして。いやあホントにお恥ずかしい。    そうか、アタシは使えない連中か。    以後。亜紀は、成果の出せない社員として、窓際に追いやられてゆくことになる。     「とまあ、これが一年近く、社内で一人バカ騒ぎしていたピエロのオチ。その日から、折角親愛なる油スマシ氏が定義してくださった、『やる気がない使えない連中』でいる事を愚直に守り続けて現在に至る、と」  烏龍茶の缶をゴミ箱に放り込もうとして、ふと手が止まる。 「あれ。そもそもなんでこんな話になったんだっけ――ああそうだ。とにかく、家にはこまめに帰って、家族と会話をすること。仕事のためとかそんなのは二の次。娘さんをアタシみたいにさせたくなかったら。了解したかね、東野軍曹?」 「了解しました。以後、可能な限り家庭を優先させる事を誓います」 「可能な限り、ではない。いかなる時も、である」 「いかなる時も」  苦笑して敬礼する。それならよろしい、と亜紀は笑って、重い頭を振って立ちあがった。終電は行ってしまったが、幸か不幸か、駅前なら簡単にタクシーを捕まえられるはずだ。仕事を終えた東野と一緒に戸締りをして、外に出る。固辞する亜紀にタクシー代を渡して別れる際、東野が聞いた。 「兵頭君。最初に話した、社畜と誇りの話だけど」 「ああ……はい」 「君は、まだ自分の誇りを持っているのかい?」  げらげらと笑った。 「誇りはホコリまみれ、なんてね。ここんとこほったらかしです」  まったく、眠いし酒は飲みすぎ、まったく宜しくない。だから亜紀は、 「――でも、捨てたつもりはありません」  等と、答えてしまった。 「だからだよ」 「……えっと、何が?」 「最初の最初の質問。君をプロジェクトメンバーに推薦した理由、さ」  タクシーのドアが閉まる。走り出す車からガラスごしに振り返る。遠ざかる視界の中、手を振っている東野の姿が目に入った。    誇り、かあ。    ぶつぶつとつぶやく。帰ったら水洗いしないと。ああ、洗うのはまず顔だっけ、などと酔っ払い独特の意味不明の言葉を吐くと、なぜか急に全身の力が抜けてきた。重い荷物を降ろしたときのように大きくため息をつくと、亜紀はすとんと眠りに落ちていった。         ●6      夜の森の狭間を滔々とうねる大河のようなオーケストラ。  瞑目して曲が織り成す世界に没頭していた源田社長は、ゆっくりと眼を開いた。四分近く続いたペールギュントの『朝』の演奏が終わりに近づいてくる。午前中の激務に続くハードな交渉相手とのビジネスランチで消耗した心身を、クラシックは染み渡るように癒してくれた。充分な休息。だが、いつまでもぐうたらしているわけにはいかない。休息を終え、勤勉な実業家としての源田社長の本分がむくむくと目を覚ましはじめた。……いつまでも、こんなのんびりしている曲を聞いているわけにはいかないな。と、『朝』が終了する。次に来る曲はまたスローテンポか、と思ったら、なんとアップテンポのワルツ第六番『子犬』だった。驚いて横を見やると、ディスプレイの前で改心の笑みを浮かべる兵頭亜紀と眼が合った。 「社長が休息を終えて、活動を始めようとしているのを、この『カペラ』が読み取ったんです。そして、次の曲にはアップテンポな『子犬』を選曲したのでしょう。テンションが高まるように」  今日の亜紀はいかにも技術者然とした、白衣にメガネのスタイルである。社長の前で口調が改まっていることもあり、普段とは別人としか思えない。 「……なるほど。裏面に仕掛けてあるセンサーでこちらの体調を読み取って、曲調や音質からある程度曲の『雰囲気』をプログラムが類推してくれるわけか。でもこれ、出来ればPCに接続して自分で編集してみたいところだな」  いつぞやのゲンキョウ社大会議室。源田社長が耳に当てているヘッドホンからはケーブルが伸びており、それは社長の胸ポケットの中へと続いている。 「勿論その機能も実装されています。同梱予定の転送アプリケーションで簡単に設定が可能です」 「そいつはいい。そちらも見せてくれるかな」 「はい。風間君、USBケーブルで接続を」 「わっかりましたあ」  後輩の社員がPCに接続されてあったケーブルを引っ張ってくる。それに合わせて社長がポケットの中から取り出したのは、煙草ケースより一回り大きいくらいの、クロームと透き通った緑色とで構成された機器だった。今まさにヘッドホンで流れている曲の名前が、取り付けられた液晶に浮かぶ。その下に刻まれているのは、『cappella』の文字。  それこそが、ゲンキョウ社の年末の主力商品にして社運をかけた一品。『カペラ』の試作一号機だった。      早いもので、気がつけばカレンダーは十月末を指し示していた。ゲンキョウのオフィスから見下ろせる、さいたま新都心内に作られた憩いの場『けやきの森』も、すでに紅葉を終えて葉を地面に落としつつある。人の体調、そして周囲の『雰囲気』を察知してその場にもっとも相応しい音楽を提供する携帯デジタルサウンドプレーヤー『カペラ』。その開発プロジェクトチームは、八月の設立からこの十月末までを、まさしく全力疾走で駆け抜けた。設立時から先手先手を取って入念な準備を取り付けていた東野の手腕と、亜紀を中心とした『ポ開』、ポータブルプレーヤー開発課の奮闘によるものが大きかったといえよう。  八月のある週明け、ゲンキョウの社員達はいつもどおりに出勤し、そして、誰よりも早くデスクについて図面を引いていた亜紀に仰天したものである。最初の一日は、悪いモノでも食ったかと笑われた。次の三日は、いつまで続くかと揶揄された。次の週末に亜紀が仕様と図面を提出すると――皆の目の色が変わった。盆が明ける頃には、既に亜紀は課を引っ張る立場になっていた。新人の時とは異なり、彼女は周囲に助力を求める事を惜しまなかった。彼女自身が間違いなく成長していた事、そして東野がメンバー間のコミュニケーションにさり気なく心を砕いた事。そして、同僚達が、かつての兵頭亜紀を思い出した事。いくら改心したとは言え、彼女に本当に何も実績がなければ、誰も昨日までのグータラ社員についてなどこなかっただろう。彼等は、数年前に一人で社内で気を吐いていた彼女を決して忘れていたわけではなかったのである。亜紀自身、本来の得手とするのは半導体周りの電子回路である。しかし、かつて新企画のためにゼロからあちこちを周った経験が役に立った。誰が、どのくらいの、どんな仕事をすればいいのか。だいたいの推測がついたのである。人脈と社外の知識を豊富に持つ東野が渉外、調整、予算の確保、スケジュールの管理。亜紀が開発を。理想的な職務分担で、彼等はここまで進めてくることが出来た。     「聞き間違いじゃないな。従来機種より音質もかなり向上しているね。いったいどんな魔法を使ったのかな」  プレゼンは大成功だった。社内のメンバー、それに協力してもらった一般のモニターの評価も上々。特に源田社長はすっかりご機嫌で、自分の持っていた従来のプレーヤーから手持ちの音楽をPC経由で『カペラ』に転送し、『元気の出る曲』『一人で聞く曲』などとフォルダを作り、エディットしはじめていた。 「医療機器部門の協力により、病院に納入する機器に使用する電磁波遮断技術が転用できました。これで従来比で40%のノイズキャンセルを実現しています。まだ最適な部品の配置を試行錯誤している段階ですので、今後さらなる向上が見込めます」 「……いやまったく。大したものだ。東野さん、貴方にはいくら感謝してもし足りない。私は旧弊を引きずったオヤジの轍は踏まない、と思いながらも、音響部と医療機器部を交流させることなど考えてもみなかった」  源田社長は壁際に佇み、試作会議を見守っていた男に声をかける。 「いえ、結局私がしたことは大した事ではありませんでした。御社には最初からそれだけのポテンシャルがあったというだけのことです」  相変わらず地味な印象の東野が述べる。夏から秋になって変わった事と言えば、ネクタイの柄くらいのものだ。そう言えばこの男、どんなに暑くても夏用じゃない普通の背広を着ていたような気がする。 「それはそうかも知れないが。この音楽を自在にシャッフルするプログラム自体は君の提案じゃないか」  すると東野は少々バツの悪そうな顔をして、頭を掻いた。 「実は、あの時点ではまだシャッフルプログラムは発想だけでしてね。実用的なロジックは全然組みあがっていなかったんですよ」 「……と言うと何か。あのプレゼンはハッタリだったと?」  目を丸くする源田社長。 「すみません。でも、目算はありましたよ」  東野の視線の先を追う。 「兵頭君かい?」 「ええ。彼女なら実現出来ると踏んでいました。実際、このプログラムも彼女が殆ど独力で組み上げたようなものです」 「しかし、彼女の専門はハードだろう?」 「ええ。電子回路の設計も全部彼女が監修しました」  じゃあソフトは他に任せておけば良かっただろうに、と源田社長が疑問を呈する。 「彼女でなければならなかったんですよ。実際、ゲンキョウ社員の中で、彼女ほど多くの音楽を聴き続けた人間はいないはずです」  東野は、亜紀が中学生時代から、その日の気分によって無数の曲を聞き続けていた事を説明した。 「……それを、ロジック化したと?彼女にそれだけの技術力がある、と君は判断したというわけか」 「半分はそうですね」 「そう言われると、もう半分は?と聞かざるをえないな」  はあ、と東野はらしくない曖昧な返事をして、 「もう半分は、彼女が一番音楽を愛しているから、ですね」 「……」  沈黙が流れる。  東野はふぅ、とため息をついて。 「やっぱりこういう事を言ってるから乾されるんですねぇ」  柄にも無い事を言った自分を恥じるように、もう一度頭を掻いた。源田社長はからからと笑って、東野の腰のあたりをぼんと叩いた。 「ともあれ、このプロジェクトを提案し、起爆剤となったのは間違いなく君だ。ありがとう……と、礼を言うのはまだ早いな。私も年末商戦に向けて、出来るだけ各方面にアプローチさせてもらうとするよ。それから、兵頭君」 「あい?」  プレゼン用のレーザーポインタを白衣のポケットに仕舞おうとして四苦八苦していた亜紀は、ついつい日ごろの調子で返事してしまい赤くなった。 「この二ヵ月、君はよくやってくれた。これからもこの調子で頑張って欲しい」 「あ、いやあ、どうも」 そして、源田社長は、すまなかった、と付け加えた。 「かつて君が提案してくれたプレーヤーの件について、当時の記録を見せてもらったよ。あれだけのアイデアを黙殺してしまった当時の責任は、私にある」 「あ。いや……そんなに気にしてもらうことじゃありませんから。だいたい、その時社長はまだ社長になられていなかったわけですし。今振り返ってみれば、あんな風に周りも見ずに一人でやってたら、誰の指示も得られなかったのは当然でしょうし」  視線を逸らしてぼりぼりと頭を掻く様は、なぜかやたらと男前だった。 「やあやあやあやってくれたね!兵頭君!」  そこにずけずけと割り込んでくる脂ぎった声。油スマシこと赤山専務だった。 「元技術者として私も大いに興味がある。ぜひとも詳しいスペックを教えて欲しいところだね」  古巣の技術部になど寄り付きもせず、もっぱら夜の外交に励んできた男が言った。 「んんー?これが現物かね。なるほどなるほど。詳細な仕様書はどれかな?」  亜紀が息を吸い込み、音声化した怒気を吐き出そうとしたまさにそのタイミングで、 「失礼ですが専務。詳細な仕様については社内でも機密扱いにさせて頂いております」  後ろからやってきた東野の落ち着いた声が遮った。追い越し様に東野が目配せする。即座に亜紀はその意味を了解した。 「では、そろそろラボから評価報告が上がってくる頃ですので。私はこれで」  油スマシに何も言わせずとっとと退出する様は、さすが元窓際常連だった。 「何だね君は!?プロジェクトリーダーだか何だか知らないが、外様のクセにうちの機密についてどうこう述べるんじゃあないよ!」  脂ぎった頬を振るわせて東野に詰めよる。 「構わんよ。それは私の指示だからな」 「しゃ、社長?」  近寄ってくる源田社長の姿を認めた途端、直立不動になる油スマシ。社長は彼等の傍に拠って来ると、そっとささやいた。 「これは極秘なのだが。ここ数年、我が社の技術情報が他社に流出している可能性がある」 「な……何ですと?」 「最近、我が社の技術者が特許申請したものが、すでに他社に押さえられているという事態が頻発しているのだ。特にうちの命とも言える音質の分野でな。私はうちが他社に製品開発で遅れをとっていた原因は、まさにここにあると考えている」 「は……」 「実に許しがたい事態だ。もし犯人がいるのだとしたら、背任行為には厳重なペナルティを与えてしかるべきだろう」 「そ……それは、また……」 「そういうわけで、この『カペラ』についての情報は可能な限り直接の関係者だけに絞るようにしている。君も理解して貰えるとありがたい、赤山君」  油スマシは盗んだ油が見つかったような表情で、 「は、と、当然の処置ですな……」  と、呻いた。         ●7     「でサ。その後また社長直々に呼び出されてさ。激励の言葉をもらったってワケ。まー、ケツが痒くてまいっちゃったもんよ。カンベンしてホシーよね、ああゆうの」  大宮駅東口、例の居酒屋である。今日は洋酒のフェアだとかで、亜紀にしては珍しくウィスキーをあおっている。 「ふうん。それはまた大変だったね」  篠宮はと言えば、白ワインを一杯開けだけで、あとは専ら亜紀の聞き役に徹している。亜紀が知る限り、もともと酒の強い男ではない。飲めば必ず、独走する亜紀を篠宮が見守るという形になるので、少々味気ない気がしないでもない。もっとも、社内の営業の男どもの体育会系のノリにはウンザリしていたので、丁度良かったとも言える。 「おかげで最近やたらと帰るのが遅くなって困ったもんよ」 「あんまり僕らも会えなくなったしね」 「あー。ゴメンネ篠宮クン。仕事が終わったら埋め合わせするからさー」 「……いや、別にいいけどさ。忙しいだろうし」  篠宮と出会ったのが七月。この四ヶ月ほどの間、二人の仲は進展するようでなかなか進展していなかった。万事に押しの弱い篠宮のアプローチが消極的だった、というわけではない。むしろ彼は彼なりに、会うたびに映画や食事、ドライブに誘ってくれている。だが、亜紀の側が、最近『カペラ』の開発にかかりきりとなり、特に定時後の時間が取れなくなっていたのだ。とは言え、亜紀にしてみればそもそも、一人の男と四ヶ月もまともに交際が続いたと言うことが、ここ七年くらいで稀に見る快挙だったりする。 「でさ、その仕事っていつごろ終わるの?」 「んー。十一月の半ばまでには量産品第一号の最終評価を完了させなきゃいけない計算になってる。欲を言えばいくらでも時間は欲しいところなんだけど。クリスマスに店頭に並ぶようにするには、工場にどんなに頑張ってもらってもこれが精一杯ね」 「あー。……そうなんだ」  質問に正しく答えてはいた。だが、それは篠宮の意図する回答と少しずれていたということに、亜紀はついに気づかなかった。 「じゃあ、十二月になれば時間が空くのかな」 「それがさー。量産品を送り出したら送り出したで、次はあの東野のオッサンにくっついて販促活動に励まなきゃならないみたい。売り出したら売り出したで、次は不具合対応に追われることになるんだろうしねー。桜が見られるようになるまではロクに外にも出れんかも知れんのよアタクシ」  メーカーが販売前にどんなにチェックを重ねても、市場に出回れば必ずと言って良いほど不具合が発生する。ソフトであろうが機械であろうが、たいがい、使う側には必ず一人や二人、作る側の想像もつかないような使い方をする者がおり、彼らがトラブルを引き起こすのである。家電品のマニュアルを開いてみればわかるが、『食べないでください』や『火の中に投じないでください』と言った馬鹿馬鹿しいほどの注意書きや、『電源が入らないと思ったら、まずはスイッチを確認してください』と言った、基本中の基本の確認事項が列挙されている。ここまでやらんでも、と思う人も多いだろうが、これらの多くが、過去に実際にあったトラブルの事例と対策から生まれたものである。かくいう亜紀も、携帯電話が普及し始めた頃、酔っ払って便器の中に落としたら見事に壊れてしまい、メーカーにクレームをつけたことがある。……まあ、冷静になって考えれば、基本的に電化製品は水に触れれば壊れるものである。問題があるのはそれを大丈夫だと考える現代人の方なのだが。 「特にカペラはパソコンからの転送ソフトが付属するしね。ウェブ上でのサポートも続けなきゃいけないし、当分バタバタするのは続きそーだわ……ウン、篠宮クン?」  グラスの中の白ワインに視線を落としていた篠宮が、一つ首を振る。 「そっかぁ。じゃあしょうがない、ね」 「どしたの?体調悪い?」 「うーん。ちょっと調子に乗って飲みすぎたかな。こっちも仕事が大詰めに入っていてさ。こう見えても色々ストレス溜まってるんだよ〜」  グラスを掲げておどけてみせる。 「ははは。それむしろアタシの台詞だって」 「僕はもう少し飲んでくつもりだけど。今日は最後までつきあってくれるの?」 「ううん。今日はもうそろそろ帰らないと。夜通しで回してる評価機のデータが今夜上がってくる予定なの。明日朝一で出勤して、十時の会議までにレポート一本上げなきゃいけないんだわさ。週末になればちゃんと時間取れるからさ」  ゴメンネ、と合掌ポーズをつくる亜紀に対して、篠宮はいいよいいよと手を振った。 「割り勘でいい?」 「あーもう済ませてあるから」 「うう、またやられた……」  さすがやり手の営業マンである。この四ヶ月ばかりの付き合いでの飲みの支払いはすべて篠宮が持っていた。女とは言え亜紀とて社会人。そう何度もオゴリに甘んじてばかりもいられず支払おうとするのだが、毎度いつの間にか篠宮が支払いを済ませてしまっているのである。 「代わりにと言ってはなんだけど、一つお願いがあるんだ」 「え?何?」  篠宮からの頼み事など珍しい。すると彼は悪戯っぽく笑って、 「大した事じゃないよ。今度、僕にとって憎むべき仇――君が夢中のカペラを、見せてくれないかなと思ってさ」 「まだ試作段階だよ?」 「あはは、別にかまわないよ。恋敵の顔を拝んでおこうって、それだけだからさ」  了解了解、と亜紀は手を振った。 「ん、じゃあお勘定についてはまたまた好意に甘えさせてもらいまっす。そいじゃ、今度の週末に」 「そうだね。また週末に」  店の外へと飛び出す。最後にもう一回だけ篠宮に挨拶して、扉を閉めた。          ――扉が閉まる音が響く。  篠宮浩助は空になったグラスに白ワインをなみなみと注ぐと、今度は一息で飲み干した。そして、深々と息を吐く。携帯電話を取り出し、アドレス帳を呼び出して電話をかけた。このアドレス帳に記載されている番号はすべて本物だが、それに対応する名前はすべてデタラメだ。要は携帯の持ち主が、その本当の名前との対応をきちんと把握していれば良いだけのことである。この『業界』における、ごく初歩的な心構えだ。酒を飲んで事に当たるのは忌むべきだが、今は何故かそうしたかった。コールを数えるまでも無い。相手はよほど切羽詰っていたのだろう、飛びつくように電話口に出た。 『大変だ、大変なことになった!れ、例の件、上が感づいたらしいんだ、その……』  慌てふためいた見苦しい中年の喚き声、それをことさらに無視する。 「おひさしぶりです赤山専務。御社も最近はなかなか活気付いているようで結構な事ですねえ」  この携帯は、組み込まれたアプリケーションを起動させるだけで簡単に音声のトーンを変換することが出来る。今、先方……ゲンキョウの赤山専務の携帯には、無機質な甲高い音声が流れていることだろう。 『茶化すのはやめろ!とにかく、Cの件については詳細なスペックがすべて開発部内で管理されている。あんたが要求したデータの持ち出しは不可能だ。せめて期限を延長してくれ』  C、つまりはカペラの件。 「ははは、その不可能を可能にするのが貴方のお仕事でしょう。そのために今の立場にいらっしゃるんですから。Cのデータについての期限の変更は認められません。明日の夜八時までに実行のうえ、例の場所へ」 『だから無理だと言っているだろう!?』  正義の妖怪に退治される寸前の偽油スマシといった態の声にやれやれと首を振る。馬鹿は扱いやすくて助かるが、それも度が過ぎると手間がかかる。 「今一度申し上げなければなりませんかね専務。あなたの『出来るか出来ないか』の見通しなど、我々は必要としておりません。我々がお願いしているのは『実行』です。履行出来ない場合は、かねてからの契約に基づき、例の書類がしかるべき所に郵送されるということになります」 『……こ、この悪党どもめ』  篠宮浩助はげらげらと笑った。無論交渉の一部ではあるが、無理に演技をする必要もなかった。 「これは専務も異な事をおっしゃる。先週の日曜日は、今まで我々が振り込んだ報酬で購入された青山の別宅で、随分とお楽しみだったそうじゃあないですか?」 『な、なんでその事を……』  棋士が手駒の動向を掴んでいるのは当然だ。そんな事もわからないのか。この『業界』からしてみれば、赤山のように能力以上の不相応な権限を持っていて、かつ物欲が強い人間は、格好のカモである。事実、この男を篭絡する工作には一週間とかからなかった。ニ、三の高級な店での接待と、会社の名前でツケさせた領収書。用意した罠に転がり込むようにはまりこんだ赤山を、資金面と横領罪の双方から追い詰めて、こちらの意のままに動く手駒にし、ゲンキョウの企業秘密を持ち出させる。その上で、成功した場合はそれなりの報酬を払ってやり、アメを与えつつ『共犯』として抱き込む事で逃げ場をなくす。有史以来、孫子以前から用いられている基本的な間諜術である。金で堕ちるべくして堕ちた人間から、感謝こそされても呪詛される筋合いなど無い。それが篠宮の論理だった。 「せっかくの役員アクセス権限、有効に使ってくださいね。では、お待ちしておりますよ」  相手の返事を待たずに通話を遮断する。赤山の判断など手に取るようにわかる。危険を冒しても機密を持ち出して報酬を得るか、事が露見して身が破滅するか。あるいは、篠宮に今までの一切合財をバラされて、やはり身が破滅するか。その三択なら、機密の持ち出しにかけるしかないのである。全ての罪を会社に告白してケジメをつける、等という選択肢は思いつきもしない男だった。  店の中は他にも多くの客がいたが、皆それぞれの会話に夢中になっており、一人になった篠宮に注意を払う者はいなかった。だから、 「しかし」  空になったワイングラスがひとりでに宙に浮き――音もなく砕け散り、すり潰されたガラス片に化したことに、気づいた者も居なかった。 「都合のいい駒だったが、次が限界というところかな」  誰にとも無くつぶやくと、篠宮は再び携帯電話を手に取った。         ●8     「やられた!」  息せき切って駆け込んできたプロジェクトメンバーの一人が広げたその日の日経新聞を見て、一同はまず愕然とし、次に怒りとも怨嗟ともつかぬ声を上げた。そこには某大手電機メーカーの広告が半ページを使って掲載されており、以下のようなコピーが大々的に踊っていた。 『”貴方の感情が曲になる” 新世代携帯音楽プレーヤー『JukeBox』 12月17日発売』  そしてその下には、プレーヤー各種センサーを利用してユーザーの状態を読み取り、次に最適な曲をするといった説明が続いていた。 「これじゃカペラともろにバッティングするじゃないか!」 「バカな、こんな偶然ってあるのか!?」  始業前である。次々に新聞を抱えた社員達がオフィスに飛び込んできて、同じ記事を囲んでいる同僚達を見つけ輪に加わっていく。 「まさか……情報が、漏れたのか?」 「そう言えば……。連中はすでに、年末商戦は従来機種のバージョンアップ版を主力として売り出すことを決めてたはずだ。なのに並行してこんなものを売り出すなんて」 「じゃあ何か?この機種は、ウチを潰すためだけに打ち出したってのか?」 「有り得なくはない。出足を払いにきやがったんだ」 「ふざけるな、ウチのセンサー技術ならあそこには負けない。そう簡単に同じものが作れるか!」 「だが、大手の連中が先に発売すれば、ユーザーはウチの方がパクったと思うかも……」 「クソ、発売日はご丁寧にウチより一日だけ前になってやがる!」 「東野サン」  今やオフィス中に轟々と意見が飛び交う中、朝刊をひっさげた亜紀が席に向かうと、東野は自販機から取り出したホットコーヒーを持って戻ってくるところだった。朝刊の内容を見せられた東野は、 「手を打って来たね」  と短くコメントしただけだった。そしてちょいちょいと胸のポケットをつつく。それが意味する所を察して、亜紀はそのまま東野の後ろについて喫煙スペースへと向かった。そして驚いた。 「やあ、兵頭君」  そこに居たのは源田社長だった。疲れたような嬉しそうな、何とも中途半端な表情で、煙草を一本もらえるかね、と問うた。亜紀が頷いて箱を差し出すと、そこから遠慮なく二本引き抜く。分煙機に取り付けられたライターで火をつけて、美味そうに吸った。 「禁煙の誓いも二ヶ月で終わり、か」  そんな源田社長のコメントとほぼ同時に、東野が紫煙を分煙機に向けて吐き出す。口が空いたのを見るや、亜紀がたまらず疑問をぶつける。 「手を打って来たね、って。東野サン知ってたの?」  頷く東野。 「カペラの開発情報を盗み出そうとする動きはあったのは知っていた。だけどその背後関係がわからなかった。今回の件で、黒幕の企業がどこか……それと、内通者が誰か、はっきりしたわけなんだ」  その表情は硬い。 「犯人って、まさか……」 「開発主任の君には言っておくべきだろうな」  灰皿に吸殻をごりごりと押し付けて、源田社長がプリントアウトされた写真を取り出す。そこには夜、誰もいないオフィスで、図庫の鍵を開けている赤山専務の姿がばっちり写っていた。そして、USBメモリーにせっせとCADデータや企画書を保存している姿の録画データ、赤山がログインした際のファイル操作のログ。いずれも、一週間前の夜に記録されたものだった。 「たしかに社内で一番容疑が濃かったのは奴だ。背任にも薄々感づいていたが、証拠は無かった」  源田社長がこつこつと卓を叩いた。リズムこそ軽いが、指を叩きつける力は決して弱くはない。 「実際に見るとそれなりに堪えるな。きっちり報いは与えてやるとしよう」  写真をテーブルから掬い上げ、憮然とする。 「つまり」  ぼそりと呟く亜紀。 「あの油スマシは。アタシ達が今まで気合入れて作ってきたモノを、他社に売り飛ばした、っつー解釈でいいんすかね?」  声はむしろ静かなものだった。代わりに、亜紀の目が爆発寸前の恒星のように危険な輝きを放っている。このまま役員室に飛び込んでいって赤山の首をへし折るくらいの芸当はやりかねない勢いだ。 「落ち着きたまえ兵頭君。奴にはきちんと罰を――」 「落ち着いてなんていられません!」  分煙機のテーブルに叩きつけられる掌。源田社長が驚く。 「……あ。すんません。でも、これ、社運をかけた本当に重要なプロジェクトなんですよね?アタシだってそうです。アタシもこれを成功させなきゃ、前には進めないんです。罰なんて正直どうでもいいんス。だけど、金目当てか何か知らないけど、開発に関わってもいなかった奴に売り飛ばされるなんて、絶対に――」 「ああ、兵頭さん。話は最後まで聞いてもらえないかな」 「ナンすか!?」  ぐるりと方向転換された矛先を、東野は至って真摯な顔で受け止めた。 「まだチャンスはある」  言うと、先ほどの新聞記事を広げた。 「彼らが提唱してきたのはカペラの二番煎じだ。いや、本来は二番煎じとなるべきものを、リークされた情報を元にフライングで攻勢をかけてきたと見るべきだろう。だが、逆に言えば、あちらもこのカペラを脅威と思っている事は間違いない」  爆発的に普及した商品は、次の段階として差別化を狙って珍妙とも言える機能を組み込んだものが多く世に出回る。携帯電話しかり、ノートパソコンしかり。その多くが一発芸や早すぎる商品として埋もれていく。そんな中、皮肉にもカペラは競合相手によって、『見込みアリ』と認められた事になるのだ。 「私が追跡調査した記録から推測するに、赤山専務が持ち出せたのは、機種のコンセプトと、要求されるスペックだけ。そこからカペラに追随するものを製造するのは容易ではないよ」  それには亜紀も頷かざるを得ない。機械の開発時に『どのくらいスペック必要か』を算出することは無論大事だが、『要求されたスペックを満たす部品やユニット、ソフトを作り出す』のは並大抵では済まされない。現に亜紀は夏以降、殆どこの作業に忙殺されていたのだから。 「でも、彼らは現にこうして広告まで打ち出してきたんでしょ?」 「とにかく機先を制する。それが彼らの狙いだろう。正直に言ってしまえば、企業としての知名度はゲンキョウよりあちらの方が上だ。その彼らが同じコンセプトのものを先行して発表し、かつ発売したとなれば、カペラの方が二番煎じと思われてしまう。多少性能が劣っても、次の春商戦までにバージョンアップ機を開発させればいい、という所だろう。そして彼らはそれを成し遂げるだけの地力がある。ぶっちゃけ、今回彼等が送り出す対抗馬は、我々を牽制するための捨て駒に過ぎない」 「それじゃあやっぱりまずいんじゃないっスか!」  だから落ち着きなさい、と社長と東野に両側から諭され、亜紀はしぶしぶともう一本煙草を取り出して火をつけた。 「我々にはまだ、彼らには真似出来ないものが一つある」  言って、東野は亜紀を指差した。 「アタシ?」 「そう。君の開発したシャッフルプログラム。これだけは、連中にはそうおいそれとコピー出来る代物じゃない」  それは、ハードのみならずソフトの知識もあり、かつ、膨大な音楽を聴き続けた亜紀が指揮を執って作り上げたからこそ実現可能だった。ハード面での部品ごとの性能については、多数のラインナップを持つ競合メーカーはその地力で肉薄してくるだろう。だが、ソフトであれば、少なくとも製品を発表するまでは、こちらの手札を伏せておく事が出来るはずだ。 「東野君の言うとおりだ。我々の今後の戦略は変わらない。今までどおり開発を続けること。そして発表時には、シャッフルプログラムを前面に押し出し、明確に先方との違いをアピールする事。これに尽きるだろう」  なんとなく釈然としないものの、源田社長の言葉に、亜紀も頷いた。 「今後、機密管理についてはより一層厳重に扱うこと。特に……」  東野は言葉を切って、亜紀にコーヒー缶を差し出した。 「シャッフルプログラムのロジックは、最重要機密になる」 「了解ッス」  喫煙スペースで行われた非公式の方針会議はこれにて終了だった。そして、亜紀が現場に戻ろうとした時。 「ただ」  ぼそりと東野がコメントを漏らした。 「ただ?」 「一つだけ気になることがある」  言って、東野は眉をひそめた。 「奥歯にモノ挟まった言い方はカンベンしてよ。何なの?」 「それにしても彼らの動きは早すぎた。スペックを入手する以前から、ある程度の基礎開発を進めていなければ、ここまで迅速に手は打てなかっただろう」 「って、言うと?」」  あまり言いたくは無いんだが、と東野は肩をすくめた。 「彼らは、開発当初からこの企画を知っていたんじゃないかと思えるんだ」         ●9      さいたま新都心は、近代的な高層ビルとその周囲を壕のように埋める公共スペースによって構成されている。その北端は、今やイベント会場としてすっかり名高くなったさいたまスーパーアリーナと、そこまでの交通手段を供給するさいたま新都心駅。大型ショッピングセンターが併設されたこともあり、この一帯は、たとえ日付が変わる程の深夜でもネオンと人通りが絶える事は無い。  しかし、そこから少々南に進むと、様相はがらりと異なる。聳え立つビルのほとんどが官公庁のオフィスであるため、真面目に働く公務員の方々がオフィスを後にすると、後には最新だが無人の高層建築と、誰もいない公園や庭園が取り残されるのだ。もちろん、景観と防犯の都合上ライトアップはされている。しかし、華やかな彩られた真新しい建築物に囲まれているというのに、そこに人は誰もいない。違法駐車されたと思わしき乗用車、二輪車がいくつか路肩に止められているだけである。普段は大して意識もしないが、ふとした拍子にそれに違和感を覚えてしまい、まるで自分が山の中に置き去りにされたような不安に駆られる事も、時にはある。     「それにしても。あのシーンは傑作だったよね」 「えー。あー、うん。あはははー」  篠宮の声が、亜紀の思考を現実の時間と場所に引き戻す。時刻は深夜零時過ぎ。彼女達は、そんな官公庁のビルを繋ぐライトアップされた通路を歩んでいた。激務の中、久しぶりに時間のとれた亜紀と篠宮は、職場からほど近いショッピングセンター内のレストランで食事をし、シネマシアターの最終上演を見終えたところだった。そのまま篠宮の車でそれなりにしかるべき場所に移動しても良かったのだが、亜紀がなんとなく歩きたい気分だとごねたため、こうして綺麗だが人通りの無い道を二人して歩いている次第である。 「後半の槍使いと棍使いの格闘シーン、特撮使って無いんだって」 「そうなんだ。あはははははは」  夕食の際になめた酒がようやく周って来たのか、篠宮も上機嫌で先ほど鑑賞したアクション映画について評論を述べている。篠宮は存外に映画通だったらしく、亜紀が名前も知らないような作品や俳優の名前を挙げてはしきりに唸っている。 「ま、第二部の重厚なストーリーに裏打ちされた魅力に気づかず、登場人物のアクの強さが際立った第三部を崇める連中は、僕に言わせればとんだ素人だよ……って、亜紀ちゃん?」  不思議そうにこちらを覗きこむ篠宮。 「ん?どーしたのー?」 「いや。だって、さっきから心ここに在らずって感じだもの。そう言えばさっきのご飯の時、亜紀ちゃんも結構飲んでたような」 「あっはっはー。あれくらいは飲んだウチにも入りません。ちょっとびっくりしただけ。篠宮君がそんなに映画好きだったたたなんてねー」  掛け値なしの事実だ。四ヵ月ばかりのつき合いだが、映画を饒舌に語る篠宮は、亜紀が始めて観るものだった。篠宮はちょっと拗ねた表情をした。、 「前からずっと誘ってたんだけどな」 「うー、確かにそう言われるとそうだったかもー」  そうコメントして、亜紀は篠宮と映画を観たのは今日が初めてだった事を思い出した。いつぞやの『ニースの奇跡2』も結局、それから猛烈に忙しくなった仕事に追われて観にいけなかったのだ。 「ま、こりゃショーガナイ!すべてはあの東野のオッサーンがいけないのです!燻ってたあたしのケツに蹴りを入れやがったあのチューネンが!私はホコリまみれでもホコリは捨ててはいなかったのデス!あはははー」 「――そうなんだ。その東野、っておっさんか」  いい加減に呂律の周らなくなった亜紀は、備え付けのベンチに吸いつくようにもたれかかるとずるずると座りこんだ。その様子を気遣わしげに見守っていた篠宮が、 「亜紀ちゃん、そう言えばさ」 「んー、なーに?」  激務の反動が一気に来たのか、亜紀は眠たげな声を返す。 「――この間お願いした、カペラの試作機。持ってきてくれたかな」  そう問うた。 「んー。バッグの中。これー」  亜紀が自分のハンドバッグの中から、イヤホンが接続された煙草ケースより一回り大きいくらいの、クロームと透き通った緑色とで構成された機器を取り出す。 「へー。ちょっと見せて」 「あいあい。見終わったら返してね」  大丈夫、ちょっと見るだけ、と断って、篠宮はライトアップの照明に数歩歩み寄った。         背を向ける。  背後の亜紀が規則正しい息を立てはじめたのを振り返らずに確認して、篠宮浩助は手早く照明にカペラ試作を透かす。  ――こんなものか。  表情を変えずに、篠宮はネクタイに仕込まれたCCDカメラのシャッターを押す。ここ数年の技術の進歩でCCDカメラは馬鹿みたいに小型、高性能になったが、その分クライアントの要求する写真の画質も上がっており、この手のカメラの隠し場所は、ここ五十年ほど大して変わってはいなかった。手早く上下前後左右の撮影を行う。問題なく成功。そのまま篠宮は内ポケットから、カペラに良く似た煙草ケース大の四角い金属の塊を取り出した。カペラと同じ、HDDタイプの携帯音楽プレーヤーに良く似ているが、それは音楽プレーヤーにしてはいささか無骨な取りまわしだった。篠宮はそこからケーブルを引き出すと、カペラの電源を入れ、PCとの通信を行うためのUSBコネクタに差し込んだ。双方のハードディスクがアクセスを始める。  このケースは携帯音楽プレーヤーではない。小型のハードディスクに、ごく簡単なハッキングのプログラムが記述されているだけの代物だ。カペラの基盤とフラッシュメモリーにに焼き付けられた基本ソフトウェア。それをそっくり丸ごとコピーしているのである。その中には――この女が開発したシャッフルプログラムも含まれているはずだった。    ……機密のプログラムと言っても、容量自体はさして大きいわけでもない。三分と待たず、ハードディスクがアクセスを終了した。 「ふん、無様なことだ」  コネクタを引き抜きながらの篠宮の台詞は誰に向けられたものだったのか。ケーブルが巻き取られた、到底ハッキングのツールには見えないそれを内ポケットに仕舞いこむ。カペラの試作機をぶらさげたまま、実直な営業マン篠宮浩助の表情を取り繕う。あとはあの女に何食わぬ顔をしてこれを返すだけの事だ。  そうして振り返り。  篠宮浩助の動作が止まる。  ベンチにもたれて泥酔しているはずの兵頭亜紀が、立ち上がって真っ直ぐにこちらを見つめていた。 「やっぱり、篠宮クンだったんだ」       「なんの――ことかな」  篠宮の声には驚きも、焦りもなかった。ただ純粋に疑問を述べている、そういう類の声を発してのける。多少酔いが早く周るよう、小細工をした夕食の酒に手はつけていたはずだが。 「源田社長が赤山専務を査問したの。彼が全て白状したわ」 「良く……わからないんだけど」 「赤山専務が持ち出した機密は、第三者に手渡されていたわ。今週いっぱい、私と東野さんと源田社長とで、こっそりその人物の特定を進めていたの」 「……」 「東野さんは最初から情報の管理に気を使っていたんだって。発足した当初からプロジェクトの事を知っていた人間は、メンバーを除いたら」  亜紀は篠宮を見る。 「貴方しかいないのよ。篠宮クン」  篠宮は表情を消す。赤山が自分を脅迫していた人間の正体を知るはずはない。また、気づくとも思えない。その程度のカマに引っ掛かるようでは、到底この業界を渡ってはいけない。掌に収まっているカペラを弄ぶ。 「嫌だなあ。亜紀ちゃん。何を疑ってるのかは知らないけど。僕は本当にただの好奇心でこれを見せてもらおうと思っただけだよ」 「つまらない芝居はそこら辺にしておいた方が良いと思うよ」  横合いからかけられる声。見れば、分厚いコンクリートの柱に背を預けて、一人の男が佇んでいた。何時からそこに居たのか。冬の気配が漂いはじめた空気の中、背広にコートを纏った影の薄い、草臥れた雰囲気の中年サラリーマン。あまりにありふれた特徴のその男は、昼日中のオフィス街でも存在感を発揮する事は無いだろう。だが。人気の無い夜闇の中、実際に視界に収めてなお一切の気配を感じさせぬその佇まいは、断じて凡百の男に為しえるものではなかった。 「篠宮浩助、だったね。本名も」  淡々と言葉を紡ぎながら、懐から取り出したマニラ封筒を無造作に放りやる。己に向かってきたそれを篠宮は受け止めようとはしなかった。足元に転がった封筒から、幾つかの書類と写真がこぼれ出る。そこに写されていたのは、まさしく篠宮の顔だった。 「身元の照合に関してはかなり悩んだけどね。実際に保険会社に勤務しており、成績も優秀。大学から小学校まで過去の履歴を遡ってみても、これと言った怪しい経歴は見つけられなかった。CCCの海外支店まで照会の範囲を伸ばしてようやく該当者が割り出せたというわけだ」  篠宮がカペラを弄ぶ手を止めた。 「大学時代に海外に留学した時に、こっちの世界に入門。その若さで大した物だよ。しごくまっとうな保険会社員と、フリーで仕事を請負う産業スパイを兼業しているとはね」  亜紀は微動だにせず、二人の男のやり取りを見守っている。 「新製品の開発は急務だったが――もともと、ここ数年のゲンキョウの営業不振の理由として、産業スパイによる情報流出の疑惑があった。一連の産業スパイ網の根絶はゲンキョウの復活には欠かせない事だったんだ。赤山専務の背任は容易く調べがついたが、その喉に引っ掛かった釣り糸の先を辿るのは難儀してね。だからこそ、敢えて虎の子のカペラを餌に食いつかせた」 「ははは、――ははははは」  篠宮は機械的に笑い、肺の中の空気を吐き出す。それは彼が仮面を外す際のちょっとした儀式だった。息を吸い込む時には、育ちの良いエリート社員の顔はどこかに失せてしまっている。今、若々しいはずのその顔には、生涯を高利貸に費やした老人のような、猜疑心が深く刻まれた表情が浮かんでいた。東野には見慣れた表情だった。軍事、産業に限らず、スパイ活動に従事した者は、表情を取り繕う術を叩きこまれ――その代償として、少なからず本当の表情が悲しいほど猜疑心に歪んでゆく。 「何の事は無い。最初から僕を狩り出すのが目的だったということか」  口元を歪め、ネクタイを緩める。 「篠宮クン――」  亜紀の声に非難は無い。ただ、理由を問うている。何故貴方なのか、そして何故私だったのか、と。その問いに篠宮は、うんざりするような視線を向けた。 「ああ。君と接触を持ったのは別に偶然でもなんでもない。かつて君が提案した製品は、競合メーカーの間では密かに注目されていたのさ。君や、他の有望な技術者には、時期が来ればいつでも接触出来るように網は張ってあったんだ。皮肉なもんだね。君の会社と君自身が思い込んでいるよりはずっと、周囲の評価は高かったって事さ」  がりがりと、かすかな音がする。 「そして君は兵頭君に接触した。我々の新製品についてある程度の情報を掴むと、かねてから構築してあった赤山専務のコネクションを動かした」 「当初は僕自身が接触をするつもりもなかったけどね。ゲンキョウの情報については放っておいても赤山が報酬目当てに流してくれたし。結局機密保持が予想より堅くて赤山があっさりコケた分僕が出張ってきたというわけだけど――とんだ無様だ」  亜紀に再び顔を向ける。 「直接試作品のデータを入手しようと思ったんだけどね。結局亜紀ちゃんは、僕よりそこのオジサンを信用したってわけだ」 「それは、貴方についての情報が、」 「その情報を信じたんだろう?――悲しいなあ僕は」  表情は、さっきまでの無邪気な篠宮青年のものだった。だと言うのに、その表情に亜紀は悪寒を禁じえなかった。  がりがりと音がする。その音は次第に、ギシギシと何かが揺れる音へと変化していった。 「ああ、それから僕の事だけどね。何、もともと僕は普通じゃなかった。その力をどう使えばいいか長年悩んでいたところで、海外でその力の使い方と、それを生かした適職を教えてもらったわけ。ごくごくシンプルさ。長身でジャンプ力のある少年がバスケットボールをはじめるようなもの」 「普通じゃない?」  篠宮は肩をすくめた。 「能力自体にはさして独創性があるわけでもない。ただの念動力さ。それも対物専門の」  「ねん……?」  亜紀が聞き返したのは、聞き取れなかったからではない。 「『不可視の破城槌《ラム・インビジブル》』……こんなものだよ」  ばきん、と背後から硬い金属音。振り返った亜紀は、そこにありえないものを見た。停められていたはずの二輪車、乗用車、自転車。そういったものが、重力の無いもののように舞い上がり、静止していた。それはもはや乗り物ではなく、それぞれが巨大な凶器だった。そしてそれが鉾先を定める先に居るのは―― 「東野サンっ!!」  亜紀の警告は遅すぎた。篠宮が指を鳴らすと、空中に設置された無数の鉄塊は弾丸と化し、柱に背を預けたままの、東野進に猛然と襲いかかったのだ。反応など出来るはずが無い。炸裂する無数の弾丸。交通事故の際に耳にする、大質量の鋼鉄が高速でコンクリートに衝突する莫大な衝突音。日本でまっとうな人生を送っていればそう何度も聞く機会はないはずのその音が、まるで壊れたCDプレーヤーのように断続的に鳴り響いた。 「……君は知らないかな。こういった業界では、僕みたいな能力の持ち主がスカウトされるんだ。危険が多い闇の稼業。だがそれは裏を返せば、おおっぴらに使えない能力を余すところなく振るえる仕事ってこと」         ●10      亜紀は自分が今見ている光景が信じられなかった。つい三分前まで、人の温度が感じられなかったコンクリートのジャングルは今や、無残に燃え続ける数台の乗用車、二輪車が吐き出す炎、黒煙、轟音によって極彩色に塗りたくられていた。前と左右から同時に突っ込んだ車。柱を背にしていた東野には身をかわす場所など無かったはずだ。 「……なんて、事を」  気がつけば、両膝を地面についていた。共に仕事をした同僚が一瞬にして灰になったという事、そして、それをやってのけたのが今自分の傍らに立っている男だという事が、どうしても納得できなかった。 「仕方が無いんだよね。僕の顧客も彼の事を痛く目障りに思っていたし。僕自身も経歴を調べ上げられたとなれば、この後何かと営業に差し支える」  篠宮は仕方ない仕方ない、と繰り返す。足元のマニラ封筒を拾い上げ、写真と資料をその中に収めると、火中に投じた。 「正気なの!?殺したんだよ!」 「到って正気さ。僕も、そこで燃えている男も、この程度の事態は常に覚悟した上で仕事に臨んでいる。それが僕達『派遣社員』――現代経済の暗部に所属する者のデファクト・スタンダードという奴」  何しろ死んだらそれまでだしねぇ、と呟いていた東野の顔が浮かんだ。 「明日の一面には、サイドブレーキを充分に引いていなかったトラックが、不幸にも側にいた会社員をまき込んで壁に衝突、とでも出るだろうね。さて」  亜紀に向き直る。 「私も、殺すの……?」  ゆっくりと首を横に振る。 「君は運がいい。こんな話は人に話したところで信じるわけもないし、あくまでこれは業界人同士の交渉の一種に過ぎない。一般人の君に危害を加えるわけにはいかない」  これはもらって行くけどね、とカペラの試作品を掲げ、懐に仕舞いこむ。 「何、どうせこのプロジェクトは東野あってのもの。所詮君達だけでは発売日に間に合わせる事もろくに出来ないだろう?」  にこやかに差し出される手。 「見逃してあげるよ」    ――そうか、アタシは使えない連中か。    どこかで聞いたような声がした。そう、遠い昔のように思えて、ついこの間の事。あの時もそうだった。結局、アタシの作るものは、世に出る物ではないのだ。ここ数ヵ月は夢みたいなもので、こんな光景もまた夢。  手を伸ばす。 「それでいい。君は適当にやっているだけでいいのさ。楽なものだろう?」  この手を取れば、また何もかも元通りだ。退屈だが、不自由しない窓際生活。別にそれでも私は    ――君は、まだ自分の誇りを――    どこかで聞いたような、声がした。だから、亜紀は、篠宮の腕に手を伸ばし。  思い切り、手のひらで打ち払った。 「……っ」 「お生憎様。それは逆。適当にやってたら、とてもじゃーないけど耐えらンないのよ」  両手を腰につけて思いっきり胸を反らす。そこには、異常事態に戸惑っている一般人の女性はもう居らず。己の仕事に誇りを持つ、一人の技術者がいた。篠宮の豹変と東野の死によってうろたえきっていた様は消えて失せ、持ち前の負けん気と冷静さが急速に回復してゆく。そう、自分が自分であるためにやるべき事。それはもう定まっている。ならば。目の前に繰り広げられている障害が、いかに強大で暴力的であろうとも、尻尾を巻いて逃げるとか、屈して和を請うことは兵頭亜紀の人生の敗北を意味する。こんなものは勇気以前の問題だ。最初から戦わねばならない相手ならば、戦うだけの事である。 「――あっそ」  篠宮が上げた声は、乾いていた。子供が遊びつくして興味をなくした玩具に向けるものと同様の素っ気無さだった。だが。炎を背負って影となったその表情は、先ほど見せたあの、歪んだ物悲しい表情をしている。そんな風に何故か亜紀は思った。 「じゃあ、このまま返すわけにはいかないな」  左手はポケットに突っ込み、右手を振り上げる。見えない糸に引きずられるように、爆発して四散した車の残骸が、いくつか宙に浮く。 「もうすぐ人が来る。悪いね。あまり時間はかけられないんだ」  穏やかな脅迫は、だが過剰な戦意に満ちた答礼で返された。 「ふうん。そっちも時間制限つきってことね。何だ、ならアタシにも充分チャンスがあるってことじゃない。お生憎様。そこらのサラリーマンみたいにアタシを消せると思うなよ!」  言うや、パンプスを甲高く打ち鳴らして猛然と走り出す。呆気に取られた分、篠宮の反応は明らかに遅れた。 「ま、待てっ!」  動揺も一瞬の事。腕が振り下ろされる。篠宮浩助に生まれつき備わった念動能力。天分に恵まれ、海外での様々な任務で鍛え上げられたその能力は、大質量を伴った残骸をまるで銛のように無数に打ち出す。それは亜紀が僅かに稼いだ十数メートルの距離を一瞬で無にし――   「そう。アナタは正しい」    そんな声が響くと同時に、無数の残骸は消えて失せた。  蹴り飛ばされたのではない。撃ち割られたのでもない。  粉々に。  砕かれて消えた。      音はしなかった。  強いて言えば、ざあっ、であろうか。そのあまりの非現実感。急速に晴れてゆく炎と黒煙の中から、原型を留めない肉塊となったはずの、背広を着込んだ中年男が姿を現した。気がつけば、東野を押しつぶしたはずの鉄の固まりも、波にさらわれた砂の城のように消えて失せていた。広がる沈黙。それはさながら、残骸を消すときに、周囲の音までも消し去ってしまったかのようだ。 「――――」  篠宮と亜紀が目を瞠る。東野は全くの無傷だった。ライトアップされた夜を背負い、纏いつく黒煙を払った男は、コートを翻し、 「裾がほつれた。女房に怒られてしまう」  などと呟いた。  沈黙を破ったのは篠宮だった。ようやく得心が行ったと東野を睨め付ける。 「成程な。CCCには多種多様な人材が揃っているとは聞いているが、アンタは卓越したビジネス能力だけでなく、戦闘能力も備えているというわけだ。大した二役だ。もっとも、正業、スパイ、戦闘能力と三役な分だけ、僕の方が上かな?」  凄絶な笑みを浮かべる篠宮に、東野は人差し指を立てて振ってみせる。 「いいや。君では到底私には追いつけないよ。何せ、父と夫を入れれば四役だ」  不敵な笑みを浮かべる東野。呼応して、篠宮が右手を挙げる。車両、鉢植え、鉄柵。見えない念動力につかまれた物体が、再び宙に浮かび上がる。 「『不可視の破城槌』――篠宮浩助。改めてお相手願おう」  打ち鳴らされる指。意志ある獣の群れの如く、無数の塊が踊りかかる。 「仁義ある名乗り、畏れ入る」  見据える東野の瞳は、深い冬の湖のように静謐。篠宮に向けて懐から取り出した一片の紙片を放つ。咄嗟に警戒した篠宮は、並外れた反射神経でそれをつかみ捕る。だが、それは武器ではなかった。トランプのカードより一回り小さいその紙片には、東野の所属と、そして名前が書かれていた。  ネクタイに手を添え、わずかに締めなおす。 「人材派遣会社CCC第一営業部。『企業戦士《サムライ》』――東野進、参る」  名刺を渡し終えた会社員は、今夜最後の死闘《ビジネス》に取りかかった。         ●11      頭、喉元、鳩尾、足首手首。人体の急所に吸い込まれるように突っ込んでゆく無数の塊は、だがそれは一弾たりとも東野に掠る事は出来なかった。まるであらかじめプログラムされた精密機械のような東野の動きは、紙一重、いや、その半分で高速で着弾する塊を避けてゆく。  東野は左右や後ろに避けているのではない。わずかに上体を揺らしながら、前方に進みつつかわしているのだ。無造作に歩み拠るかに見えて、その速度は疾風――否、朔風。疾風よりも静かで冷ややかな風は、容易く篠宮の間合いにまで入り込んだ。 「ちぃっ!!」  反射的にポケットに突っ込んでいた左手を抜き放つ。足元の地面が弾け、東野に向けてコンクリート片のシャワーを撒き散らした。こればかりは東野も横に飛び退る。かたや篠宮は、その一撃の反動を利して高く飛んだ。そのまま、自らの念動力を自分自身に作用させてか、凄まじい勢いで滑るように後方へ移動する。東野の身のこなしの鋭さは、篠宮の想像以上のものだった。だが、反面安堵もした。あの状況で自分に近づかなければならないという事は、奴に遠距離からの攻撃手段は無いと言うことだ。距離を取って、回避できないほどの集中砲火を浴びせれば容易く勝てる。とすれば。  両手を円を描くように大きく回す。と、地面に突き立った残骸達が再び浮き上がり、東野を取り囲むように展開する。  ここで東野が構えた。右掌をゆるやかに掲げ、軽く握った左拳を脇腹に引きつける。 「――潰れろ!」  両腕を振り下ろす。開いた巨大なてのひらを握りこむように、展開された残骸が一斉に中心部の東野に向けて殺到した。  勝利を確信した篠宮の笑みは、だがたちまち凍りつく。彼はそこにありえないものを見た。殺到する残骸とて、完全に同時に発射されるわけはない。篠宮の意志によって撃ちだされる以上、個々の残骸の着弾には僅かなタイムラグが生じる。一瞬と表現することすら躊躇われるほどの時間の間――だが、この草臥れた風の中年サラリーマンには、それだけの時間があれば充分だった。ゆるく掲げた右掌を僅かに動かし、着弾せんとする残骸に触れる。いかなる原理によるものか、それは触れると同時に極小の微粒子となり、その破壊力を失う。そうして開いたわずかな安全圏に身をねじ込み、次弾を迎撃する――その繰り返し。  一流の奇術のように。はたまた安っぽい特撮映画のように。無数の鉄塊の全方向からの攻撃を通り抜けて、東野は歩を進めた。己の必勝の手段をいとも容易く破られた事に、いや、東野のあまりの人間離れした挙動に、愕然とする篠宮。 「馬鹿な。あれだけの全包囲攻撃、例え視認出来る反射神経があったとしても、攻撃の順位と位置を予測することなど出来るはずがない。マインドリードか、未来予知か、因果干渉か――貴様、まだ能力を隠し持っているのか!?」  搾り出すようなその声に、東野が応じる。 「そんなものは仕事の初歩だよ篠宮君。商談の場でお客様の要求を把握するのは」  驕りなく、淡々と事実を述べるその口調に、篠宮は今度こそ絶句した。 「相手の顔、態度、仕草、何気ない一言――それらには常に気を配り、お客様が欲しいもの、サービスを適切にお届けする。時として、何かが欲しい、だが何が欲しいかよくわからない、というお客様もいらっしゃる。その方々が喜ぶものを見つけ出す事に比べれば、殺気に溢れた攻撃箇所とタイミングの予測など、瞬時に把握できて当たり前。こんなものは能力どころか、スキルでもない。ビジネスに身を置きたる者、最初に身につける基本だよ」  後輩に職務上の注意を促す何気なさ。不意に、目の前の男の正体をはかりかねていた篠宮の表情に唐突に一つの疑惑が浮かんだ。 「…………まさか、貴様は、あの伝説の……」  東野は沈黙を持って応える。そこに含まれた肯定の意志に、篠宮の疑惑は焦燥に変わった。 「……『眠らずの戦士《24H・ウォリアー》』、『群れなす凶蜂《キラービー》』、『昇る太陽《ライジング・サン》』、『黄禍の再臨《イエロウ・ストーム》』……!」 「そんな呼ばれ方をした事も前にはあったかな」  焦燥は今や、戦慄になった。      近代以後、経済活動の暗部に形勢された異能者達の世界……『派遣業界』。数多くの情報が行き交うこの世界では、常に無数の逸話と伝説が紡がれる。が、実際にその場、その異能者に出会えた者はごく僅かであり、逸話のほとんどは誇張か、単なる虚構に過ぎない。 そんな中、誰もがその実力と実績を確固たる事実と認めている、とある集団がある。善悪の評価はどうであれ、彼等の実力を疑うものは誰もいない――裏の世界のみならず、表の世界でも。なぜなら彼等の成し遂げた事は、歴史の一ページとして刻まれているのだから。  彼等、無個性な背広に身を包んだ男達は、いずれも己が所属する企業に高い忠誠心を捧げ、鋼鉄の目的意識と冷徹無比の業務遂行能力とを持ち合わせ、またその多くが任務達成のための『必要十分の』戦闘能力を有していたとされる。日本に生まれ出でた彼等は、WWIIに於いて焦土と化した郷土をたちまち高度経済成長によって復興させた。その後使命を受け欧州、北南米、亜細亜、中東、アフリカ――七大陸に散った彼等は、『不屈の向上心《カイゼン》』、『鉄の絆《ケイレツ》』、『無償の献身《ザンギョウ》』などを武器に、たちまち世界経済の勢力図をジャパンへと塗り替えてゆく事になる。  もちろん、これに対する抵抗も苛烈を極めた。特に世界経済の暗部に組み込まれた各国の異能力者達は彼等と何度となく刃を交えたものだ。だが、異能力者達が優勢に戦いを進めていられたのは序盤だけであった。相手の長所を臆面もなくコピーし、よりカイゼンされたものを生み出す――彼等の特技は、この業界においても遺憾なく発揮された。やがて各国の能力者達は、自分達に良く似た、しかも最高の品質《メイド・イン・ジャパン》の能力を備えた彼等に苦杯を何度となく舐めさせられる事となる。二十世紀後半に現れた、魔物あるいは奇跡とも称えられる伝説の男達。――人は彼等を『ジャパニーズ・ビジネスマン』と呼ぶ。     「馬鹿な。奴等はバブル経済の崩壊とともに全て滅びたはずだ!!」  そう。篠宮に産業スパイのイロハを叩きこんだアメリカ人は、畏怖を込めて語ったものだ。彼等の末路は、多くは哀れなものだった――全てを捧げた企業に裏切られたもの。全てを捧げたために家庭を失ったもの。死闘の果てに体を蝕まれてしまったもの。他国から見れば狂気とも取れる戦いに身を投じた彼等は、日本経済の斜陽とともに、決して報われないままその姿を消した。――それが欧米の、いや、世界の共通認識のはず。 「失敗を反省し、改善する事にこそ人の本質がある。バブルという虚栄の塔が崩れ去った後、我々は己の歩んできた過ちを認めた。何の事はない、我々はジャパニーズ・ビジネスマンというその称号に浮かれて驕り、初心を見失ったのさ。そして我々は表舞台から姿を消した。己の仕事を全うする――今は、それだけだ。もっとも、私も彼等の中では一番若輩の世代だけどね」  さりげなく、若輩、の部分に力がこもっている。  他方、生きた伝説を前にして、篠宮の焦燥は頂点に達した。彼が生まれ落ちて、そして就職して今現在まで目にして来たのはすべて、生活に追われ、疲れきった目をしたサラリーマンだった。だが、この男は……。 「二十世紀の亡霊め……消えて失せろっ!!」  もはや言葉を取り繕う余裕もなく、篠宮は残弾を掃射。同時に再び後方へ飛ぶ。奴を仕留めるためにはこれでは足りぬ。遮蔽物が多く、弾に乏しいここは相応しくないと判断した彼は無人のビルの谷間を飛ぶ。先ほど同様に弾を交わし、影のように音を立てずそれを追う東野。両者は十秒足らずで実に百メートルを駆け抜ける。 「そろそろ終わりにしよう篠宮君。『カペラ』は彼女達のものだ。正しい努力をした者が正当な対価を得るのでなければ、ビジネスは成り立たない」 「それはどうかな。辺りを見てみろ」 「!」  東野の表情が始めて緊張する。両者が今いる場所は、橋だった。  さいたま新都心の南端には巨大な郵政庁舎のビルが置かれており、そのさらに南には、西口と東口を結ぶ陸橋がある。東野は今、そこにいた。そして篠宮は、己を念動力で引き上げ、橋の上空十メートルに浮いている。 「直線攻撃も範囲攻撃も無効。だが、貴様には跳躍や飛行の能力はあるまい。崩壊する足場では、精密な動きも出来まい」  そう呟く篠宮の額に、音を立てて無数の血管が浮き上がる。自らの脳に眠る破壊の力を最大限まで引き出してゆく。 「ふん、何が正しい努力だ。派遣会社の中途採用となれば――どうせ貴様もリストラ組だろう。会社に尻尾を振るだけの貴様に、何の対価があったというのだ!!」  裂帛の気合。絞り出された念動力の全てが眼下の橋梁に叩きつけた。強固なはずのコンクリートの建造物は瞬く間にひびが入り、たちまち崩落する。    その一瞬。    時間は止まる。  東野は微量の空気を口に含み肺腑に落とす。膨らむ肺腑を知覚する。それによって押し下げられる臓腑を知覚する。酸素を取り込んで再び全身に流れてゆく血管を知覚する。血液が運搬したグルコースを筋細胞が貪る様を知覚する。振動する空気を触覚する皮膚を知覚する。それらを知覚する神経網を知覚する。たちまち東野は、東野という肉体の操縦者と化す。  視神経を強く知覚する。研ぎ澄まされた動体視力が、崩れ落ちる橋をまるでコマ送りのように捕らえる。演算――通常移動での脱出は不可。足を強く知覚する。通常の歩行、走行では使用しない領域の筋肉と腱を動員。跳躍力を飛躍的に上昇させる。空間認識力を知覚する。演算――最適経路の算出完了。危機にあって、東野は瞬時に己が肉体を最適化してゆく。  これこそが中国拳法における内功――呼吸を起点とする体内の知覚及び操作術である。  どんな人体も、食う、寝る、歩くと行った当たり前の行為の裏に、実に芸術的なまでの精密な身体操作を行っている。その無意識の動作を再認識、分析――『気を巡らす』――ことで把握し、それらをすべからく戦闘における最適状態として使用する――『気を込める』――事により、人体に眠る能力を限界まで引き出す技術。東野が今まで見せた戦闘技術に、神秘的な事象は何一つない。ただ、一つ一つが人体の限界を要求されるはずの動作を、当たり前のように連続して行うために神懸って見えるというだけの事である。  この身体操作術を極めれば、睡眠、食事、新陳代謝などの生物としての本能すら認識・分解・操作が可能となる。かつてはこの術により飛躍的な長命を得た者もいるとされ、故に、『仙術』とも呼ばれていた。だが、例えば、慣れない者が、手を開いた状態で薬指の第一関節だけを動かすためには相当な訓練が必要である。同様に、肺腑、内臓、あるいは脳と行った箇所を認識し操作するには、並外れた集中力と精神力が要求される。よって、かつて仙術を学ぶ者には、その前提条件として、厳しい精神修行が課せられたものである。  彼が――否、彼がかつて職を奉じた企業がどのような経緯でこの技術を入手したかはもはや知るものはいない。だが、往時のジャパニーズ・ビジネスマン達は、この技術のうち必要な箇所を貪欲に取り込み、彼等の任務達成のためのツールへとカイゼンした。純粋な戦闘技能に特化したその技術は、未来予知に匹敵する戦闘即応、電磁発勁、気配遮断、精密打撃による物質粉砕、音速までの打撃に対しての見切りと逆撃、等を可能とする。マイナーダウンされたとは言え、これらの動作の修得にもやはり並外れた精神力が要求される。だが、彼等には容易な事だった。職場は戦場。背広は甲冑。常在戦場を当然のように体現する男達の愛社精神にとっては。ゆえに。私生活では一介の中年男に過ぎぬ東野進は、背広を纏うことによって意識をビジネスマンのそれへと切り替える。これにより、強靭な精神力と、それに裏打ちされた絶大な戦闘能力とが解放されるのだ――    時間が解凍された。    崩落する橋、消失する足場、舞い上がりまた舞い落ちる巨大なコンクリートの欠片。だが、足場が消失する直前に、東野は跳躍していた。上空のコンクリート片に足をかけ、そこに蓄えられた上方へのベクトルを反動としてさらに跳躍。それを三度繰り返すことで、十メートルの上空の篠宮の間合いへと易々と踏み込む。 「……!!」 「君は一つ、誤解をしている」  篠宮が気づいた時、既にその男は上空の位置を占めていた。その右拳が振り上げられ、肩の後ろまで引かれる。今までの洗練された戦闘動作からすれば、随分と無骨な動きだ。だが、それが何よりも恐ろしい一撃である事を篠宮は直感した。 「企業に忠誠を誓うのは、ひとえに家族を養うため」  握り締められた拳が軋みを上げる。 「……毎日の家族の笑顔。全存在を賭けるに値しうる対価だ。例え己が……その傍に居ることが……無いとしても!!」  そこに握られたものは、愛か、誇りか、怒りか……あるいは哀愁か。 「待――」  咄嗟にガードする。そんなもので防ぎきれる筈がないと本能が叫んでいても。  拳が振り下ろされる。  ずん、と。  およそ余人には計り知れぬ、重い、とても重い鉄拳が篠宮に叩きつけられた。『サラリーマンの拳』。物理現象にまで干渉しうる意志が込められた東野の一撃は、紙よりも容易く篠宮のガードを弾き、その腹に深々とめり込んだ。同時に、東野の体内に蓄積されている位置エネルギーが、極めて効率よく篠宮の体内に衝撃波として伝播する。    決着の一撃だった。   「見事……『ジャパニーズ・ビジネスマン』。どうすれば、そこまで強く……?」 「単純だよ篠宮君。信じる人、愛する人のために仕事をするんだ」 「……信じる人、か……だが、もう、僕には……」 「出来るだろう。裏切る事に呵責を感じる事が出来るのだから」  篠宮は目を閉じた。人生に疲れた老人の表情は消え――本来の若々しい面立ちが蘇る。 「完敗です……どうか、彼女に……いや。自分で言うべきですね……」  彼を上空に縛り付けていた念動力が失せてゆく。篠宮浩助は眼下の橋の残骸の中に緩やかに落下し――残骸の中に崩れ落ちた。 「またどこかで会おう、未来のビジネスマン」  橋の対岸に下り立った東野の呟きは、誰にも聞かれることがなかった。     「東野サン――」  脱いだコートを肩に担いで一服していると、ようやく追いついた亜紀が駆けよって来た。その姿を前にして、東野は、この男にしては珍しく表情の選択に戸惑った。彼女が篠宮と出会い、そして別れた原因は結局の所彼にある。非難されるのは仕方がないし、当然の事でもある。だが、それだけで彼女の問題が解決するはずもない。  しょせん男と言うものは、幾歳になろうが失恋した女の子に気の利いた言葉をかけられる器用な生き物にはなれないのだ。  東野のそんな様子を見て――亜紀は一つ鼻をかんで、すっきりと笑った。惚れ惚れとするいい笑みだった。亜紀は無遠慮にばんばんと東野を叩くと、 「帰りましょ、東野サン。アタシ達の仕事は、まだ終わってない」                    ※十二月二十日、日経新聞HPより。    ――ゲンキョウの『カペラ』好調 携帯音楽プレーヤーのダークホース登場――    今月初旬、クリスマス商戦用に投入された各社のHDD内蔵音楽プレーヤーの売り上げは、ゲンキョウの『カペラ』の一人勝ちの様相を呈している。発売当初こそ『JukeBox』に押され売れ行きが鈍かったものの、同製品の売りである、ユーザーの状態を検知して選曲するシステムが口コミを通じて広まり、翌週に火がつく事となった。発売にあたり、ゲンキョウ社は従来の倍の生産ラインと在庫を確保するという強気の戦略に出ていたが、売れ行きはこの予測をも上回る見込み。クリスマスを前に増産体制の再強化が計画されている。 (リンク:ゲンキョウの株価/ホームページ)         ●12      『師走』の文字通り、まさに12月を走りぬけ、短い正月が過ぎて松が取れると、熾烈を極めたゲンキョウの社内にも僅かなりとも落ち着きが戻ってきた。まったく大変だった。『カペラ』は確かに自信作だったが、ユーザーの反響は予想以上に大きく、ゲンキョウは全社を挙げて、生産とサポートに追いまくられた。亜紀を含めた開発チームもユーザーサポートに追いまくられ、殆ど他の事を考える暇も無かった。亜紀にとっては、それは少し救いでもあったのだが。年が明けてもまだまだ戦いは続く。若者のみならず、大人やお年玉を握り締めた子供も、カペラを買いに来るのだから。  さいたま新都心にあるオフィスから、コーヒーを片手に窓の外を見下ろす。けやき広場には、正月早々に降った雪の名残がコンクリートの街並みに白を添えている。と、そこに一つ、今ではすっかり馴染みになった紺色の背広姿を見つけて、亜紀は一つ肩を竦めた。そして、おもむろに、オフィスを出た。       「黙って出てっちゃうワケ?」  けやき広場を通って、駅の改札に向かおうとしていた東野の歩みが止まった。振り返ると、そこには予想通り、腕を組んで仁王立ちした兵頭亜紀の姿があった。 「新年会の席でお別れの挨拶はみんなにしたつもりだったんだけどね」 「本気で言ってんのソレ?……あ、ちっくしょ。煙草もってる?」  東野が懐から煙草を取り出す。未練がましい視線に気づかないふりをして、亜紀はそこから三本抜き取った。どちらからともなく、二人はけやき広場のベンチにかけて火をつける。寒くて澄んだ空気の中で吸う煙草はそれなりに美味かった。 「――また、別の会社に行くワケ?」  亜紀は問う。東野は本日付で派遣を解かれ、CCCに戻る。そしてすぐまた別の会社の建て直しをはかるために派遣されるのだろう。 「それが仕事だからね」  気負ったわけでも諦めているわけでもなく、淡々と事実を述べている。半年近い付き合いでそれくらいは亜紀にもわかるようになっていた。そうだ、こういう男なのだ。紫煙を吹き出し、次の質問に移る。 「いつぞや、夜のオフィスで約束した事覚えてる?」  解釈の仕方によっては随分と艶っぽく聞こえる質問だが、生憎と両者ともそういった観点には欠片も思い到らなかった。 「覚えてるよ。……ほら。『可能な限り家庭を優先させる事を誓います』」 「『いかなる時も』」 「そうだったっけ?」 「そーよ」  亜紀はやれやれと足を投げ出し、ぞんざいに組む。 「心配ねー娘さんの将来。アタシみたいになっちまいますよー?親父と和解するのに十年以上もかかっちゃうようなヒネクレ者に」 「……和解したんだ」  東野も知らない情報である。任務開始時はともかく、任務中に部下のプライベートに干渉するのは、本来彼の望むところではない。 「年末にね。帰省して出来上がったカペラをくれてやったんよ。そしたらあのオヤジ、言うに事欠いて『驚いた。オマエにもまっとうなモノが作れたのか』だっとさー。十年ぶりにマトモに交わした言葉がソレよ?あとはもう包丁持ち出しての大乱闘よ」  げらげらと亜紀は笑った。 「まー小難しいこと並べて見ても、結局アタシはあのオヤジと対等な場所に立ちたかっただけなんかもしんない。一人前になって、やっとアタシも、オヤジも、お互いに遠慮なく話す事が出来るようになったってワケ」  それは良かった、などと月並みな言葉を述べる中年男の顔に、亜紀はベンチの隅に積もった雪を指で弾いて叩きつけた。 「アタシの事はいーのよ。別に。アタシが言いたいのはね、手遅れになる前にちゃんと娘さんに会う機会を確保しろってこと」 「……いつぞやも言われたね」 「何度言っても足りないわよ、アンタみたいな仕事バカには。そーすっとね、子供は誤解すんのよ。アンタが誰の為にそんなんなって働いてンのか」  亜紀の言葉に、東野はビジネスの場では滅多に見せない、曖昧なままの沈黙の表情を保った。 「……ま、いずれにせよ、アタシが出来るのは忠告だけ。――だから。必ず忘れないで。いい?」  東野は苦笑する。 「はいはい、わかりました」  微笑も浮かべず亜紀が返す。 「はい、は一度で」 「……はい」 「よろしい」  亜紀は快活に笑った。 「アンタには随分色々なモノを貰ったからね。これくらいはアタシが渡してやんないと」     どこからか流れる電子音のチャイム。けやき広場の時計が十七時を刻んだ。ゲンキョウ社での東野の仕事は、ここに終わったのだ。亜紀が言う。 「――じゃあ、さよなら」  様々な想いも挨拶にすれば、なんと味気の無い事か。対する東野の返答は僅かに異なっていた。 「――また、どこかで」  差し出される右手。半年前のように、面食らった表情でそれを見つめた亜紀は、やがておずおずと右手を伸ばした。 「会えるかな?」 「会えるさ。お互い、戦場にいるのだから」  二人は、握手を交わした。色気は無いが、多分、これでいい。    歩み去る背中がもうこちらに振り向くことがない事を確認する。その背に向けて、亜紀は一つ、深々と礼をした。  さあ。私には私の仕事がある。腕まくりをすると、亜紀は胸を張って自らの戦場と戻って行った。         ●[了]ID:SFN00E1v101