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六角重平は、心の底から後悔していた。
事務所の階下から響く銃声。聞き慣れたトカレフの粗雑な連射音。重平にとって頼りになるはずのその音が、秒単位で一つ、また一つと消えてゆく。悪夢のような事態。彼の顎は、本人が意識しないままカチカチとリズムを刻んでいる。
彼と、構成員三十七名からなる『六角興業』は、いわゆる世間一般でいうところのヤクザである。マスコミにも知られた広域の暴力組織に所属しており、中規模ながら生粋の武闘派として組織内でも名を売ってきた。重平自身、五十六歳になるまでに、ドスとチャカで無数の危険な橋を渡ってきた男だ。しつこい市民団体のリーダーを無理矢理泥酔させて自動車事故を起こさせた時は、彼自らが手を下してもいる。それら長年の功績により、親分筋よりこの街……日本海に面した某地方都市の顔役として認められたのだった。その彼の組が新たなシノギとして乗り出したのが、北の某国との密貿易である。
ビジネスとしてはさして独創性もない。こちらから出荷するのは、中古の車とか、電気製品とか――ちょっとした情報とか。あちらから仕入れるのは、各種の海産物、ちょっとした飛び道具。あとはお定まりの、ココロによく効くオクスリとか、だ。典型的な互恵貿易。誰にも文句を言われる筋合いはないパラダイスである。少なくとも、重平はそう思っていた。
全てが狂ったのは、二週間ほど前である。彼の事務所を訪問したサラリーマンは、このような口上を切り出した。
大手食品会社が開発した高級スナック菓子『カニせん』。ジャンクフードでありながら味にこだわった逸品であるコレには、原料として、この街で水揚げされるカニが必要不可欠なのだという。そのサラリーマンは、原料の安定・安価調達のためこの街で水揚げされるカニの確保を望んでおり、港に勢力を有する彼の組織に手を引くように要請してきたのだ。
当然のことながら、重平は一笑に付した。他組織や警察と真っ向から張り合って獲得したシマである。直接的な暴力と、それが裏づけする権力。その二つを備えた自分が、机の上で金勘定をすることと、客に頭を下げることしか知らないサラリーマンどもに権益を渡すべき理由などどこにもなかった。
「俺に言う事を聞かせたかったら、鬼でも連れて来るこった!」
これは、訪れたサラリーマンを軽く懲らしめて叩き出した時の重平自身の台詞である。
今、執務室の悪趣味な椅子の上で、重平は激しくこの言葉を後悔している。
連中は、素直だった。まったく素直に、重平の言う事に従ったのだ。
連中が送り込んできたのは。
まさしく鬼神だった。
……階下の銃声が途絶えて三十秒が経過した。
修羅場を共に潜り抜けた子飼いの部下である。だが、事務所でヤツを迎え撃ったはずの三十六の凶漢は、今、三十六の沈黙を以って重平に応える。
痛すぎる程の静寂の中、何かがカチカチカチカチと五月蝿い。執務室の扉は、武闘派の面子にかけて鉄製。厳重に施錠したソレが、重平の最後の防壁である。向こう側から響くのは、明らかにこちら側に聞かせるための足音。近づいてくる。心音がドクドクと五月蝿い。扉の前で止まったソレは、だが。
コンコン
と礼儀正しくノックした。
「…………」
声など出せない。何か応えれば、それで終わる。重平は、倉庫の奥から引っ張り出してきた虎の子、流出品のMP5A2短機関銃のグリップを血が出るほどに握り締め、だが椅子から腰を浮かしたまま動く事が出来ない。ドクドクと心音。五月蝿い。
コンコン
二度目のノック。とうに安全装置が外れたMP5A2の引き金に、べったりと張りついた人差し指。ガチガチガチガチ。五月蝿い。更なる沈黙。四秒。そしてソレが来た。分厚い鉄の扉が。
蹴り開けられたのではない。破られたのでもない。
粉々に、砕かれて消えた。
音はしなかった。
強いて言えば、ざあっ、であろうか。そのあまりの非現実感。助けて、と。幾多の修羅場を潜った男の目じりから涙の粒がこぼれた。鉄の扉が無数の鉄の粉末と化して、大気に溶ける。その霧の向こうにいる、部屋に進入したヤツの姿を認識した時、重平の理性は振りきれた。
恐怖で全身の筋肉が収縮する。引金を指が千切れる程に引く。反動とマズルフラッシュと破裂音で五感がぐちゃぐちゃになる。獣めいた絶叫が自分の口から漏れ出ていた。さすがと言うべきか。引き金を引くと同時に呪縛が解け、海外で受けた『研修』の通りに体が動いていた。絶叫と弾をばら撒きながら、重平は狙点をヤツに合わせていく。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……!」
扉からこの机までは大股四歩。細長いこの部屋に、遮蔽物はない。かたやこちらはフルオート射撃で2.5秒間撃ち続ける事が出来る。ヤツが重平に近づくためには、どれほどの速度で飛び込んできても、まずは弾幕を正面から浴びなければならない。必勝の陣形だった。
一歩。
必勝の陣形である。だというのに
二歩。
何故、こいつは近づいてくるのか。理由は明白だ。目では見えている。でも、断線した脳が理解を拒否する。
当たり前だ。真正面から飛んでくる銃弾を
三歩。
上体を逸らすだけで一発一発避けながら、歩いて来るなんて信じられるわけがない。ガチガチ。五月蝿い。どこかで誰かが笑っている。耳障りな、だが聞き慣れた声。それは
四歩。
何の事はない。自分の声だった。絶叫は何時の間にか笑いに変化していた。笑っているのに、ガチガチと響く音は止まらない。顎、ではない。指だった。ガチガチ、と。だがいくら引き金を引いてみても、もう三十一発の弾丸を吐き出し終えた短機関銃は応えない。泣きながら笑い、重平は、傷一つ負うことなく己の前に立った鬼神を虚ろに見やる。
その鬼神は、背広を着ていた。
中肉中背よりは僅かに上背があり、わずかに細い。地味な紺のスーツに白いワイシャツ。地味なデザインのネクタイを首に巻いている――このくらいしか外見を形容する言葉が見つからない。夜の居酒屋と朝のオフィス街で二、三十人は同じ顔を見つけられるのではないか、という姿。
そう、その男は――
暴力組織の長に銃口を向けられたまま。
「人材派遣会社CCCより参りました、東野進と申します」
そう名乗り、名刺を差し出し頭を下げた。
――ただの、サラリーマンだった。
※七月二十八日、とある地方紙より。
『暴力団事務所にて集団幻覚?』
二十八日午前三時ごろ、××市山王町野上、指定暴力団『六角興業』より、「事務所で人が倒れている」と一一〇番通報があった。通報を受けた野上署員が向かったところ、事務所の中で組員三十七名が昏倒しているのを発見。拳銃を所持していた事から銃刀法違反の容疑で全員を現行犯逮捕した。同時に野上署は、同事務所より大量の覚せい剤、銃器類の密輸を裏付ける帳簿類を押収した。野上署は六角興業社長、六角重平(56)へ事情聴取を行っているが、六角容疑者は精神の衰弱が激しく、意味不明の発言を繰り返している。
※七月二十九日、日経新聞より。
大手食品会社カリバー社は、冬の新商品としてスナック菓子『カニせん』の発売を発表した。カニをふんだんに使う事で高級感を出し、新たな購買者層を開拓するのが狙い。この商品を開発出来た背景には、カリバー社が××市の漁業組合と長期契約を結ぶ事により、安定したカニの調達ルートを確保出来た事があると見られている。同社は以後の営業・広告戦略はこの『カニせん』を中心に展開して行くと発表した。
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