小説 『人災派遣のフレイムアップ』Ex 
『企業戦士 東野』
(from リプレイ:人材派遣のCCC)


 

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◆◇◆ 3 ◇◆◇

 
 
  ゲンキョウのオフィスは、埼玉県のさいたま市に近年設置された『さいたま新都心』のすぐ近くにある。これはJRさいたま新都心駅にショッピングモール、バスターミナル、官公庁のオフィスが併設された、県の新たな中心となるべき商業施設である。
  都心までは電車で三十分。ゲンキョウの製品工場がある埼玉県行田市へのアクセスも電車一本で一時間以内ということもあり、亜紀は立地条件には非常に満足していた。ただ気に入らないのは、このネーミングセンスの欠片も無い地名駅名の数々である。当初は各所から散々にバッシングされ、笑いものにされたものだが――今ではすっかり定着し、愛すべき愚かな名前という位置を確保していた。
  重度の低血圧である亜紀が、技術職の数少ない恩恵であるフレックスタイムを最大限に活用して十時に出社してくると、彼女の所属する課、『ポ開』のシマにはちょっとした人だかりが出来ていた。
「ちょう、なにやってんよう」
  居並ぶ男衆に蹴りを入れ、肩で押しのけて自分の席に辿り着く。カバンを机に下ろしたその隣の席には、
「おはよう、兵頭さん」
  新プロジェクトのリーダー、東野進が居た。
「……おはよござッス。……んで。プロジェクトリーダー様が、なんでこんなところに?」
  隣の席は確かに昨日まで空席だったが、もともと窓際一歩手前の亜紀の席の隣である。決して便利な位置にあるとは言いがたい。給茶機からも遠いし、エアコンの効きも微妙に悪い。至極もっともな亜紀の質問は、だが、
「タッグを組む相手と隣席になるのは自然なことだと思うけどね」
  これまた、至極まっとうな東野の回答に迎えられた。その間にも、キーボードに乗せられた手は凄まじい速度で情報をPCへと打ち込んでゆく。そして『印刷』をクリック。
「――はい。企画書とスケジュール表。社内で説明をする時にはこれを使ってください。それから、これは付随するタスク表。以後、毎週月曜日の朝に、各課長とキーマンによる会議を開いて、進行状況をフォローしあってください。ただし、三十分で終わらせるように。問題が発生した場合は、まずは部門内での打ち合わせを。報告書を作成する手間は不要です。タスク表の更新をメインにしてください。ただし、書きたいと思った事はどんどん書いてください」
  プロジェクトメンバーへの指示を書類と併せて通達しながら、電子メールにも目を通し、何処へとも知れぬが電話もかけまくる。始業からわずか三時間で、社内の書類の束、サーバー内のデータ、社員の頭の中。オフィス中に眠っていた無数の情報のカケラが寄せ集められて、プロジェクトを補完する根拠になり、また、業務を円滑に進めるツールとなってゆく。それを見ていた他のプロジェクトメンバーや課員達の間には、畏怖と、そして尊敬の眼差しが急速に広まっていった。CCCの社員、恐るべしと。
  亜紀が頭をすっきりさせるため、始業前の缶コーヒーを買ってくる頃には、『ポ開』の従来抱えていた案件、問題はほぼ一掃されていた。そこで一段落ついたのか、東野は背広のポケットから煙草を取り出そうとして、ここが禁煙だったことに気づき、軽く舌打ちする。
「……外。トイレの左」
「や、ありがとう」
  亜紀のぶっきらぼうな物言いに、東野が苦笑した。
 
 
  廊下の壁際、トイレの左。換気扇とその傍に設置された轟々と音を立てる分煙機を囲い込むように、パーテーションで区切られたごくごく狭いエリア。ここがこのフロアで唯一、喫煙が許される場所である。人が二人入ればもう窮屈極まりないが、このフロアで煙草を吸うのは亜紀一人だけだったので、今まで大して困った事は無かった。ついでに言うなら、近頃の若手の男社員は飲み会の席で亜紀が煙草を吸うと露骨に迷惑そうなツラをする。腹が立ったので先輩としてちょっと指導してやったら、なぜか『ポ開のジョン・コンスタンティン』等という仇名をつけられるに到った。
  その喫煙所で東野は灰皿を引き寄せ、うまそうに肺にニコチンを送り込んでいた。
「まあ、これがあるからこそ日々の労働にも立ち向かえるわけだけどね」
  空になったコーヒー缶を灰皿にして、亜紀も煙を吹かした。PCの電源を入れてはみたものの、ログインする気には何となくなれなかったため、東野についてきたのである。それに、仕事を始める前に確認しなければならない事がある。
「――えっと、東野サン」
  何だね、と答える東野。事務的な口調だった昨日のプレゼンと比べると、幾分気さくな雰囲気だ。そういえば、まともに会話するのは初めてだった事に、亜紀は今更ながらに気づいた。
「あたしに対する会社の評価、まさか見落としてませんよね?」
  表現がひねくれたのは彼女の性分だ。
「そうだねえ。私が事前にリサーチさせてもらったところでは、『音響部の爆弾娘』、『不労所得者』、『上司殴打回数記録保持者』、『自主的ノー残業デー積極的実践者』と言ったところかな。ああ、『ポ開のジョン・コンスタンティン』というのも……いや、失礼」
  亜紀の表情に気づいた東野が言葉を切る。
「ま、イイですけど。ぜんぶ事実ッスしね。で、エリート派遣社員の東野サンが、何でまた会社きっての問題児をプロジェクトのパートナーに推薦あそばしたんでしょーか」
  それは、彼女のみならず、ゲンキョウの社員全員の疑問でもあった。こう言っては何だが、亜紀の業務上の功績はお世辞にもはかばかしいとは言えない。『万事に消極的』と評されるゲンキョウ社内でも、とくにグータラで名が通っているのが亜紀なのだ。自分で言ってれば世話が無いが、正直、他に適任はいくらでもいる。その当然の疑問に、東野は目を白黒させて、
「エリート?誰がだい?」
  いささかズレたコメントを返した。
「誰がって。アンタでしょ。音に聞こえた一流企業、CCCの社員。待遇良さそうだもんね」
  すると、亜紀の言葉のどこがツボに入ったのかはわからないが、東野は苦々しい笑いを浮かべ、分煙機に向かって紫煙を吹いた。
「それは隣の芝生は青いって言葉の典型だよ。給料は結局世間並みだし、福利厚生を差し引いたらメーカーさんの方がよっぽど恵まれてるんじゃないかな」
  何しろ死んだらそれまでだしねぇ、と東野は呟く。
「何よ。死ぬったって、ホントに命を落っことすわけじゃないっしょ?だいたい世間並みって。アンタみたいなエリートはそもそも想定する平均値が違ってるんよ。アタシなんて幾らだと思う?毎月手取りで××万よ?」
  灰皿に吸殻を押し付けていた東野の手が一瞬止まった。しばしの沈黙の後、二本目を箱から取り出そうとして、また二秒ほど沈黙した後、思い止まった。何やら深刻な葛藤があったらしい。そして、
「私は――――×○万なんだがね」
  ぼそりと。そんな事を言った。
「……嘘」
  今度は亜紀の手が急停止する番だった。
「アタシとほとんど変わんないじゃん。あー、東野サン、扶養家族は?」
「妻と、高校の娘と中学の息子が」
  灰皿代わりのコーヒー缶が音を立てて転がった。
「無理!無理だってソレ!どう考えても計算合わないっしょ!ナンデそんな条件で働けんの?その腕ならもっと割りのいい仕事があるでしょ実際?」
「いやまあ。色々とこの業界狭くってね。転職組には風当たり厳しいんだよ」
「あー。やっぱり転職したんだ。元は……商社マンとか?」
「半分当たり、かな。商社の中の、総務みたいなところに二十年程」
「ナニ?その『みたい』っての」
「細々した仕事を一手に引き受ける部門なんだけどね。ちょっと引き受ける仕事が特殊なものに偏っていたって言うか何と言うか」
  妙に歯切れの悪い返答である。
「まー、アタシがどーこー言う話じゃないけど。そんな給料であそこまで働く必要あるワケ?どーせカウント出来る残業時間もお情けみたいなもんなんっしょ。テキトーにやって、とっとと帰ったら?イッショウケンメーやってたら、とてもじゃないけど耐えられないんじゃないの?」
  二本目の煙草をくわえる。財政難のこの男はともかく、アタシゃ一日最低一箱は開けないと生きていけないのだ。
 
 
「それは逆だ。適当にやってたら、とてもではないけど耐えられないよ」
 
 
  ライターを点火しようとして、失敗した。
「……ふーん。そういうもん?」
「そう。仕事と労働とは違うものだ。本人が『やる仕事』と、『やらされる労働』では、同じ時間、同じ作業をしたとしても、得るものが全く違う。社員がみな、『やらされる労働』として働き始めたら、その会社に明日は無い」
  知ったような口を。
「どこのビジネス雑誌の受け売りか知らないけど。アタシが知る限り、そういう風に考えながら会社にいいように使わされる人を社畜って言うんじゃなかったっけ」
「一生懸命と社畜は違うよ。全然ね。会社であれ、役所であれ、戦場であれ、自分に与えられた仕事の中で、己が最善を尽くすのであれば、そこには誇りが存在する。誇りがある人間は、自分を家畜だなどとは決して考えない」
  東野の声調が、少し変わった。
「あまり知られてないけどね。社畜という言葉はそもそも、他人からつけられた呼称ではないんだ。最善を尽くせない人間が、自分自身をそう呼んだんだよ。自分達のしてきた中途半端な仕事を冗談混じりに卑下する事で、後ろ向きに許容するために作り出したそんな単語を、君が使う事は無い」
「ちょっと。さっきから何が言いたいワケ!?」
  後からなら、何とでも言える。どいつもこいつも評論家気取りで。
「何って。仕事に対する私の気構えだけど」
「……あっそーですか。あのねぇ。どーいうつもりか知らないけどアタシにヘンな期待はしないで頂戴。言われた事はやりますけど、残業とか一切ゴメンですからね!」
  アタシの仇名を事前に調べ上げるようなヤツの耳に入らないはずはないのだ。
「留意しておくよ」
「どうも、ありがとうゴ・ザ・イ・マ・ス!」
  礼の言葉を敵意だけで発音すると、吸殻入れの中にコーヒー缶をぶち込む。のしのしと大股で、亜紀は喫煙所を出ていった。
 
 
  結局、その日はメールの整理だけして一日が終わった。
  亜紀は定時を過ぎると、誰よりも早く退社した。
 
 
 
 

◆◇◆ 4 ◇◆◇

 
 
「あはは。それで、結局一週間マトモに働いていないの?」
  カウンターの隣で、篠宮浩助が笑う。
「マトモに働いてない、ってのはひどいなー。ちゃんとメールは毎日チェックしてるでしょ?」
  亜紀は水割りをあおった。
  さいたま新都心から電車で一駅離れた、大宮駅の東口に位置する小さな洋風居酒屋である。開発が進み、デパートや大規模家電量販店が立ち並ぶ西口に比べると、東口はどうしても昔ながらの雑然とした商店街の臭いが抜けないのだが、反面、こういう隠れ家的な雰囲気のいい飲み屋が点在しているのだ。ここは亜紀が三年ほど前から通うようになった所で、用途はもっぱらオトコとの飲みである。今夜も然り。
「あはは、確かに亜紀ちゃんからメール返って来る速度って尋常じゃないもんね。三分かかったことないもんなぁ。いったいいつ仕事してるのって思うもん」
  篠宮浩助。現在の亜紀の彼氏にして、大手保険会社の営業マンである。とはいえ、付き合いはじめたのはほんの一月前。出会ったのは会社の同僚が企画した合コンだった。亜紀よりは年下だが、なんとこの年で係長へ昇進間近と言う将来有望な若者。だが外見はぜんぜんそんな風には見えなくて、線の細さと、育ちの良さを感じさせるのんびりとした性格が、なんとなく守ってやりたくなるものである。さりげなくブランド物のスーツを着こなしているところも高得点。
「だってしょーがないじゃん。他にやることなんて無いんだしさ。アタシ。この二年間、周ってきた仕事なんてお茶汲み掃除、その場しのぎの資料作りばっかだもんね。今更何かやれって言われても、もう図面の引き方も忘れちゃったわいよ」
  ぱたぱたと手を振って、芋焼酎のボトルを追加する。カクテルなどという腑抜け飲料とは、二十になる前にとうに絶縁している。洋風居酒屋なのにという指摘は、する者がいなかったし、いたとしても聞く亜紀ではなかった。
「でも、社運をかけたプロジェクトなんでしょ?それに、その……カペラ、だっけ。門外漢の僕にしても、結構面白い商品だと思うなあ。さっすが天下のCCC、ってところか」
「うちの先輩も凄い凄いって言ってたけど。何、CCCってそんなに凄いワケ?」
  とりあえず、給料は別の意味で凄かったのだが。
「あんまり表には出てこない会社だから、知らないのも無理ないと思うけどね。BtoB……顧客は一般人じゃなくて、僕の会社や君のところみたいに法人が中心。定まった業務が無い変わりに、あらゆるトラブル、難問に対する切り札を持っている、って噂だよ。傾きかけた企業を立て直した例は数知れず。世間のヒット商品の裏にCCCあり、なんて言葉もあるとかないとか」
「はあ。とてもそうは見えなかったけどね〜」
  確かに仕事振りは確かなもののようだが、あの特徴の薄い中年は、どうしても凄腕やエリートといったイメージとは縁遠い。と、突如グラスをテーブルに打ちつける。
「ええい。なんでせっかく気持ちよく飲んでる時まで、あんなオッサンを話題にしなきゃならないんだ!」
「話題を振って来たのは亜紀ちゃんじゃない」
「そんな昔の事は忘れたッ」
  ぐびぐびと焼酎を流し込む。だんだん歯止めが効かなくなっている。
「いいのよ、今更あんなカビ臭い会社はどーなったって。アタシはさっさといい男に養ってもらうんだから〜」
  酔った勢いを借りて、さりげなく篠宮の方に身を乗り出す。というか、さりげないと思っているのは本人だけで、傍から見たらさすがにあざとすぎるのではないかと心配したくなるほどだった。蛇足ながら、亜紀の炊事洗濯の成績は、どうにか赤点ではありませんというレベル。
「……僕は、かまわないけどね」
  小声で、だが明確に呟いて、篠宮はワイングラスに口をつけた。亜紀の冗談めかした笑顔が固まる。
「…………ホント?」
「まあ、その」
  視線をそらす。その腕を、亜紀は両腕で抱え込んだ。
「ウレシイこと言ってくれるじゃない、愛い奴め、愛い奴め!ほほほ苦しゅうない近うよれ!」
「わああ、ちょ、やめてって……その、そ、そうそう。さっきの新製品。販売はいつなんだい?」
「えっと。クリスマス商戦に投入するから、やっぱ12月の半ばね〜」
  ちょっと水を指された気がしないでもないが、上機嫌の亜紀は気前良く答える。それに対して、
「ふうん」
  と気の無い変事をしたあと、篠宮ははたと手を打った。
「ああそうそう、再来週、新宿で映画やるの知ってる?あの話題のヤツ」
「うん。『ムエタイVS地底人 巌娜亜羅十番勝負』でしょ?予告見たわ。地底人にもやっぱりローキックは有効なのねぇ」
「い、いや。『ニースの奇跡2』っていう恋愛物なんだけど」
「あ、あー。……アレね!うん、知ってる知ってる」
「その。レイトショーで見に行かない?」
「もちろん行く。行く行く。再来週ね?」
  亜紀がぶんぶんと手を振ってみせると、篠宮が露骨に安堵した表情になる。――こりゃあ、再来週までに急いでその『にいすの奇跡』とやらの知識を仕入れないと。ってか、なんで一話完結の恋愛物に2なんて出すんだ、前作で死んだ恋人がゾンビになって蘇るとか、やっぱりそんな話なのだろうか?
  どうでもいい事を考えながら、亜紀は最後の芋焼酎を臓腑に流し込んだ。
 
 
  篠宮とは、そのまま大宮駅で別れた。
  居酒屋がある大宮駅から、オフィスのあるさいたま新都心までは電車でわずか一駅。しかも、その一駅というのが恐ろしく短い。電車なら時間にすれば五分もかからないだろう。亜紀のアパートは大宮とは反対側にあるため、定期では入れず、切符を買わなければならない。金を払うのがイヤになったか、酔い覚ましをしようと思ったのか。自分でも良くわからないまま、亜紀はぶらぶらと二十分ほど道なりに歩き、結局徒歩でさいたま新都心まで戻ってきてしまった。
  いつも結構飲むけど、今夜は特に輪をかけて飲んでしまったような気がしないでもない……いやいや大丈夫、アタシは酔っていない。酔ってないぞぉ。と、酔っ払い特有の思考を巡らせながら、改札口に向かって歩く亜紀は、これまた自分でも良くわからないまま、自らが勤めるゲンキョウのオフィスを見上げた。
  灯りが落ちて、黒い巨大な箱と化したビルの中に、ぽつんと白いものがあった。一室だけ、まだ電気のついているオフィスがあるのだ。その位置が会社のどの部門に当たるかを頭の中で照らし合わせて、亜紀は心底うんざりした顔を浮かべた。
 
 
 
 

◆◇◆ 5 ◇◆◇

 
 
「ま〜だやってんのぉ〜お、ひ〜がっしの〜さん」
  全身からぷんぷんと立ち昇るアルコール臭でオフィス内を汚染しながら亜紀はずるずると這い進む。日付ももうじき変わろうかという刻限、モニターに向かって黙々と作業を続ける男は、言うまでも無く、一週間前から彼女の隣の席に居座っている異分子である。
「金曜の夜に〜〜〜仕事をしてていいと〜思ってんか〜〜返事しろ〜〜ヲい!東野!聞いてんのおうえええっ」
  録画機能つきデジカメで思わず撮影したくなる、惚れ惚れするほどの醜態であった。ちなみに、オフィススキルLV7、深夜のオフィスへの進入を可能としたのは、しょっちゅう忘れ物を取りに来ているうちに守衛と顔馴染みになっていたおかげである。とはいえエレベーターは使えない。勢いに任せて階段で上って来たのはいいが、オフィスについた途端に猛烈に気持ちが悪くなった。
「大丈夫かい、兵頭さん」
「うぅるっさいいいーの。あたしは。ってか、ひがしのクン!!終電でる!はやーくかえりなさい。かえれ。かえれー」
  東野はやれやれと首を振ると、亜紀を彼女の席に座らせた。そしてこちらはまだ動いている自販機で、350mlの冷たいお茶の缶を買って渡す。前のめりになりながらもぐびりぐびりと飲み干す様は42kmを駆け抜けたランナーのよう。
「落ち着いたかい?」
  机に突っ伏していたのは十分くらいだろうか。見れば東野は黙々とメールを打ち続けている。重い頭を上げて、亜紀はしばらくその様をぼんやりと見つめていた。
「……何やってんの?……ザンギョーなら家でやればいいじゃん……」
  先程よりは少しは思考力が戻ってきたようだ。かわりに、猛烈な頭の重さも自覚してしまったが。
「そういうわけにもいかなくてね。CCCの海外支店はまだ開いているから、今週のうちに色々と助力を求めているんだ。この業界は特に生き馬の目を抜く世界だから、打てる手は打っておく、ってこと」
「あーそうですかそれはー仕事熱心ですねー結構なことですねー」
  言うや、またも机に突っ伏す。と、その視線が、東野のPCの上に立てられた写真立てに止まった。にゅー、と手を伸ばし、こちらに向ける。四角く切り取られた光景。そこに移っていたのは、今よりも幾分若いであろう東野と、その側に寄り添う、温和な微笑をたたえた、妻と思しき女性。そして子供が二人。小学生くらいだろうか、東野の上着の裾をじっと掴んでいる女の子。カメラに向かってピースサインを突き出している、幼稚園の制服を来た男の子。
「……そーいや、娘さんと息子さんがいるっつってたもんねー。何年前の?コレ」
「もうそろそろ十年になるかな。あの頃は二人とも可愛くってねぇ。ああいや、今でも二人とも可愛いよ、うん」
  録音機能つき携帯で思わず保存したくなる、惚れ惚れするほどの親バカぶりであった。 
「……そんなに可愛いーんなら、早く帰んなさいよ実際。こんな時間までパソコンと遊んでねーでさ」
  写真立てを手元に引き寄せ、弄繰り回しながら亜紀が言う。
「そうしたいのは山々なんだけどね。今は重要な時期だから手が離せないんだよ」
  亜紀はパタリと写真立てを伏せた。そして、はぁぁぁぁぁぁああああ、と。長い長いため息をついて、
 
「そういう事を言ってるから、十年後に育ててやった娘に絶縁されるのよ」
  この一週間の苛立ちの根本を、ぼろりと吐き出した。
 
 
 
「どうせ貴方の事だから、プロジェクトメンバーの履歴書なんて一通り目を通してるんでしょ」
  椅子に座りなおし、背もたれに体重を預けた。
「……まあ、一通りは」
「そう。なら、貴方がご存知の通り、ウチは早い時期に両親が離婚してね。私が小学校の時から父親と二人暮しを始めたわけ。母への慰謝料で、父の生活は相当苦しかったみたい」
  父が母にした仕打ちと、母の父への恨み。どちらが過剰だったのか、あるいは等価だったのか。随分な慰謝料だったらしい。
「変な話よね。私の前では口論一つしたことのない両親だったのに。で、父は随分働いたみたい。毎日残業残業で、帰ってくるのは私が寝入ってから。中学生になってから、父の夕食をとってるところなんてほとんど見た事がなかったわね。――そんなのが三年も続いたかなあ。そうなるとね、どうなると思う?」
「……いや、想像がつかない」
「たまに家で顔を合わせてもね。お互いに話すことが無いのよ。一応それまでには、多少なりとも離婚の事情は理解出来るようになってたから、父を恨むとか無視を決め込むとか、そういうつもりはなかったと思う。でもね、ううん、それだからこそ。『別に話すことなんてない』の。たまに朝食を一緒に摂った時は酷いものね。向かい合わせに座っていながら、二人して脇のテレビを眺めてるの」
  そのいたたまれない雰囲気は今でもはっきりと思い出せる。理性も、感情も、目の前の人が、一緒に居て当然の相手とわかっている。なのに、『なんでこの人がここにいるのかわからない』という違和感が、確かにあったのだ。それも、お互いに。
「親子ともども、相手が居ないことが当たり前になっちゃってたのよね。でもそのままじゃ流石に悪いと思ったから、成績を見せる事にしたのよ」
「成績っていうと、中間テストの点数とか、そういう奴?」
「そう。実際の所、私はクラスの中ではそこそこ勉強が出来る方の人間だったから。テストの度に、『私は貴方に払ってもらった学費でこれだけの結果を上げましたよ』って、成績を報告する事にしたのよ。そうすれば少しは、養ってもらってる恩も返せるってもんでしょ。点数が悪くちゃ話にならないから、それなりに勉強は頑張ったつもり。そうね、友達のいないガリ勉少女と言った方が近いわね」
  まあそのおかげで、結局、県でトップの公立の高校、国立の理系大学に進学がかなったのであるが。ちなみになぜか高校進学後は、そのストイックなスタイルがやたらと女子連中の信望を集めてしまい、結果としてこのような性格が形成された次第。
「大学に入って上京するのを契機に、父とはきっぱり絶縁したわ。お互いに憎んでもないけど、好きでもなかった。これ以上一緒に居ても、お互いにメリットはなかったから。――結局。私達は、最初にすれ違ったまま、それを取り戻すことが出来なかったのよ」
 
 
  自販機で買ってきた、もう一本の烏龍茶の缶を開ける。ついでに買ったホットコーヒーも東野に押しやる。気がつけば、終電の時刻は過ぎていた。東野のも、彼女のも。
「まあーそんで。家とも縁を切ったことだし。大学時代は随分遊んだもんだけどね。卒業を控えて就職ともなったら、さすがにアタシも人並みには悩んだワケよ」
「サイコロで決めたとか?」
「……アンタアタシを何だと思ってんのよ」
「いや、これは冗談。入社時の志望動機も読んだよ。音楽が好きだったんだって?」
「げげ、そんな文書にまで目を通してたんだ。なんかそこまで行くとストーカーの類ねぇ。まさか、よその会社のゴミとか漁ったりした事あるんじゃないの?」
  さてどうだったろうね、とはぐらかす東野。
「ま、隠すような事でもないしね。前述のよーに割りかし暗いベンキョー生活を送った美少女中学生だったアタシの、唯一の楽しみが、音楽を聞くことだったワケよ。随分色々と聞いたものねえ。ポップスに始まって、洋楽、クラシック。図書館で借りた民族音楽も随分ダビングしたもんだし。三年の終わりには演歌と琴にも手を出してたっけかなあ」
  その当時に築き上げた彼女の音楽ライブラリは、一人暮らしをはじめた今も部屋の棚を三つ占拠している。
「テンション上げたい時にはポップス。テンパってて、でも負けてらんねぇ、って時はメタル。集中したいときはなぜか演歌だったもんよ。でもアレね、同級生みたいに、どっかのバンドの追っかけとかには全然興味わかなかったんよ。ホント変なんだけどね。曲が好きって言うより、曲を聞くっていう行為が楽しいって言うか。節操ナシって良く言われるんだけどねー」
「そんな事はない。それは節操がないのではなく、純粋に『音楽』が好き、ということじゃないか」
  亜紀は、目を白黒させた。
「……すごい新解釈。……ま、だからサ、アタシも気がつけば理系の大学出てガチガチの技術屋になってたわけだけど。音楽に関わってメシが食えるなら、それがいいかなー、なんて思ったワケよ。もっともそう思ったのは三月の終わりで、もうここしか募集してなかったんだけどねー」
  それは嘘だ。彼女は複数社の内定をとりつけていたはずだ。が、別に取り立てて口にする必要はない。東野はプルタブを押し込んだ。亜紀も烏龍茶を飲み干して、缶を机に叩きつけた。
「念願かなって就職出来たワケだから、さー、これを機にバリバリやってやるぞー、なんて意気込んでいた時期がアタシにもありました。ハイ!!ってか、そろそろそっちからも喋ってよ東野さん。アタシがホされた件、アンタが調べてないわけないでしょ?」
「新企画として提出した、小型HDD搭載プレーヤーの件、だね」
「……やっぱり知ってたんだ。まー、これも隠すほうが難しいってヤツよね。あんときはさー、アタシも若かったんだわ。尻の毛が抜けて、ヒヨコは卒業したと思ってた頃かな。開発課に配属された以上、画期的な新製品を開発する事が、我に与えられた使命!って感じで」
 
 
  当時、まだ新人扱いだった亜紀は、日本中に浸透したインターネットと、そこでやり取りされる音楽に注目した。そしてそれを小型ハードディスクに入れて持ち運んで再生する。……つまりは、今日爆発的に普及した、iPodをはじめとするデジタルサウンドプレーヤーの原型である。
「iPodよりはずっと早かった。あのまま行けば、間違いなく連中より先行して売り出せてたと思う」
  その当時の亜紀は、停滞しきった社内の雰囲気を変革すべく、まさしく孤軍奮闘していたものだ。上司から何度と入るチェックを、徹夜で都度訂正し、工場に日参してコストを試算し、ラボで評価を繰り返しつつ、昼は営業にくっついて取引先を周ってリサーチの真似事をしてみたり。今思えば、随分と稚拙なことをしでかしていたものだ。だが――間違いなく、充実していたとは思う。
「でもね。結局、上を説得し切る事は出来なかった」
「なぜなら、当時のゲンキョウ上層部にして見れば、貴方の開発した製品は、楽曲の違法コピーを推奨する品物にしか見えなかった。以前に低価格路線を打ち出して大失敗をして以来、万事に消極的な上層部は、お得意様である音楽業界を敵に回す気概はなかった、ってとこだろう」
  まさしくそうね、と亜紀は肩をすくめた。そして、金の卵は孵ることなく、間もなくiPodが世界を席巻する事になる。
「悔しかったなー……。チャンスを逃した事も、あの時ベストを尽くせなかったことも」
  例え専務と刺し違えてでも世に出すべきだったかな、などと本気で呟いてみる。
「でもま、それならそれで次回頑張りましょう、ってな結論ならアタシもリベンジかますか、って気分になったんだけどね。これがまあ、お粗末な話しでサ」
 
  ――後日。とある会議の席で、当時の社長がiPodの躍進を目にし、部下達に問うた。なぜ、ウチではああいうものを作る事が出来なかったのか、と。
  社長直々のご下問に、亜紀の当時の上司である赤山部長は、彼女の目の前で恐縮しながら応えたものだ。すいません、ウチの部下はやる気のない使えない連中ばっかりでして。いやあホントにお恥ずかしい。
 
  そうか、アタシは使えない連中か。
 
  以後。亜紀は、成果の出せない社員として、窓際に追いやられてゆくことになる。
 
 
「とまあ、これが一年近く、社内で一人バカ騒ぎしていたピエロのオチ。その日から、折角親愛なる油スマシ氏が定義してくださった、『やる気がない使えない連中』でいる事を愚直に守り続けて現在に至る、と」
  烏龍茶の缶をゴミ箱に放り込もうとして、ふと手が止まる。
「あれ。そもそもなんでこんな話になったんだっけ――ああそうだ。とにかく、家にはこまめに帰って、家族と会話をすること。仕事のためとかそんなのは二の次。娘さんをアタシみたいにさせたくなかったら。了解したかね、東野軍曹?」
「了解しました。以後、可能な限り家庭を優先させる事を誓います」
「可能な限り、ではない。いかなる時も、である」
「いかなる時も」
  苦笑して敬礼する。それならよろしい、と亜紀は笑って、重い頭を振って立ちあがった。終電は行ってしまったが、幸か不幸か、駅前なら簡単にタクシーを捕まえられるはずだ。仕事を終えた東野と一緒に戸締りをして、外に出る。固辞する亜紀にタクシー代を渡して別れる際、東野が聞いた。
「兵頭君。最初に話した、社畜と誇りの話だけど」
「ああ……はい」
「君は、まだ自分の誇りを持っているのかい?」
  げらげらと笑った。
「誇りはホコリまみれ、なんてね。ここんとこほったらかしです」
  まったく、眠いし酒は飲みすぎ、まったく宜しくない。だから亜紀は、
「――でも、捨てたつもりはありません」
  等と、答えてしまった。
「だからだよ」
「……えっと、何が?」
「最初の最初の質問。君をプロジェクトメンバーに推薦した理由、さ」
  タクシーのドアが閉まる。走り出す車からガラスごしに振り返る。遠ざかる視界の中、手を振っている東野の姿が目に入った。
 
  誇り、かあ。
 
  ぶつぶつとつぶやく。帰ったら水洗いしないと。ああ、洗うのはまず顔だっけ、などと酔っ払い独特の意味不明の言葉を吐くと、なぜか急に全身の力が抜けてきた。重い荷物を降ろしたときのように大きくため息をつくと、亜紀はすとんと眠りに落ちていった。
 
 
 
 

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