●0       犬(いぬ)     【名詞】   1.食肉目イヌ科の哺乳類。オオカミを家畜化した動物と考えられている。   よく人になれ、番用・愛玩用・狩猟用・警察用・労役用などとして広く飼育される。   品種が多く、大きさ・色・形などもさまざまである。   2.(比喩的に)まわし者。スパイ。   「警察の―」     【接頭】名詞に付く。   1.卑しめ軽んじて、価値の劣る意を表す。   「―侍」   2.似て非なるものの意を表す。   「―山椒」「―蓼(たで)」   3.役に立たないもの、むだであることを表す。   「―死に」                        三省堂「大辞林 第二版」より         【諺】「犬が星見る」  犬が星を見上げたところで何も出来はしない。  転じて、己の分際を越えること。卑しい者の分不相応な高望み。         ●1     「―――イイコトしない?」    その声音にたっぷり含まれる色気に、ぞくりとした。  分厚い背広の服地に潜り込み背筋を舐め上げるかのような、甘く澄んだ毒。      東京でも屈指の繁華街にして色街であるこの通りも、通りを数本隔てれば随分と喧噪は遠くなる。まばゆいネオンの厚化粧も、年代物の雑居ビル自身に遮られ届かない。雑木林のように無秩序に建つビルの合間にぽっかりと浮かぶ、一つの小さな公園を通りがかったときのことだった。  時刻は午後六時半。夏ならいざ知らず、四月下旬の現在、すでに太陽はそのほとんどを地平の彼方に沈めている。空は九割方夜の領域下にあったが、西だけはまだ朱い。それは夜に追い立てられた昼の残党が抵抗して流す血とも思えた。  この色街を男が通るのは、ほとんど習慣めいた行動だった。普段は自宅と職場を往復するだけの毎日だが、たまにこうして都内に出てくる用事がある。わざわざ遠回りをして、駅沿いに広がるこの色街を迂回して帰る理由など男にはなかった。そして通る以上はそれなりの物色をしていくのは当然だ。飲食店街を通れば軽食を、本屋街を通れば立ち読みくらいは済ませるのは義務ですらある。そう理由づけていつものように大通りへ向かう途中、声をかけられたのだった。 「俺に、言ってんのかい?」  男が振り返ったのは、雄としてのほとんど本能的な行動だった。男と同世代の男性ならまず間違いなく全員が振り返っただろう。公園には小さな祠と、並木と呼ぶにはあまりにもささやかな、四本の桜の樹。  春のぬるい空気に吹かれ、桜の花びらが舞い落ちる。夕焼けの名残を浴びた仄かな紅が桃とも紫とも言えぬ色合いを作り出し、この世のものとも思えぬ光景だった。  そして、その桜の木の下に幹に背を半ば預け、それはたたずんでいた。 「そ。そこの背広のおじさん。結構イケてるよね」 「君は高校生、か……?」  男がそう問い返したのも無理はない。  たしかに女子高のブレザーを身に纏っている。近所の女子中学生が憧れるという名門女子高のものだが、それ自体はさして珍しくはない。問題は、首から上だった。  年の頃は十六、七とも思える。艶やかなミディアムの髪は、ゆるやかなウェーブを描いて卵形の顔を覆っている。その色合いは墨を流したかのような漆黒。染色していてはこの艶は出せない。となれば地毛なのだろうか。よく見れば、豊かな睫毛に縁取られた、星のように大きな、かすかに紫がかかった黒い瞳。白い肌、すっと通った鼻梁は明らかに日本人離れしており、異国の血が入っていることを確信させられる。それでありながら骨太、肉厚になることもなく、日系の華奢な印象と、きめ細かな肌を備えている。欧亜の交流が生み出した、奇跡のような美貌だった。 「サラって言うんだ」  簡潔な答えとともに、サラは無邪気な微笑みを浮かべた。弾けるように幹から背を離すと、一歩二歩とステップを踏むように歩を進める。三歩、四歩、そして五歩。 「…………!」  男は思わず言葉に詰まった。挨拶をするなら三歩でいい。会話をするなら四歩でいい。だが、五歩は。 「イイコト、しない?」  上目遣いに覗き込む。その妖艶なまでの美しさへの驚愕が過ぎ去ると、男の眼には急速に理解と、もう一つ別の感情が広がっていった。 「いかんな、女子高生がこんなところでこんなことをしていちゃあ」  至極まっとうな台詞だ、表情と声音さえ排除すれば。どうしてこう男の猫撫で声というのは同性異性、誰が聞いても気持ちが悪いものなのだろうか。 「ああまったくなんて事だ。いつの間に日本の教育はここまで廃れちゃったのかねえ」  言いつつ顔を寄せる。 「……おじさん、もしかして先生?」  サラの声にわずかに警戒が混じる。 「そうだよお、先生なんだ。君みたいな悪い子には教育的指導が必要だなあ」  独創性のカケラもない台詞だったが、本人にとってはお気に入りのフレーズだったらしく、馴れ馴れしくサラの肩に手をまわそうとする。サラの警戒が解ける。教師の相手は手慣れているのか、いかにも明るい女生徒と言った表情を作る。 「じゃあ、今日は優しく指導してほしいなっ」  その腕からするりと抜けつつ、両の掌を合わせ、サラが飛び跳ねる。 「お腹すいちゃった、なんか食べに行こうよ」  サラが提案する。これまた常套句だったが、ある種の物事については独創性より形式が重要視されることはままある。とくにこういった、毎日違う相手と顔を合わせる商売の場合には。ところが、サラの提案を聞いた男は、一転して顔をしかめた。 「どうしたの?」  男はぼりぼりと後頭部を掻くと、ぼそりと言った。 「いやあ、俺ね、お金ないんだ」 「はあ?」 「いやーカミさんに小遣い制限されちゃってさー。今月もう苦しいんだよね」  ナハハハ、と笑って腹を叩く。サラの表情から唐突に蠱惑的な表情が失せた。 「あ、お金持ってないの。じゃあまた今度―――」  振り返って立ち去ろうとしたサラの腕を、伸びてきた男の手が掴んだ。 「ちょ、ちょっと」 「だからさ、いいじゃん、ここでさあ」  男の脂ぎった声と顔つきを見て、サラの顔に恐怖と緊張がよぎった。  こう言ってはなんだが、夜の街にも暗黙のルールというものがある。一応のルールがなければ、カネとサービスの取引は成立しない。というより、少なくとも夕飯くらいは奢るべきだろうし、ましてやホテル代までケチるというのは言語道断である。確かにルールを弁えて遊んでいる連中は、路上で声をかけられた娘について行くことはない。  ―――自分がルールすれすれで商売をしていることは自覚はあったが、それにしても今日の釣果は最悪と言わざるを得なかった。 「離してってば、ねえ!」 「そんなワガママいう子には指導が必要だなあ?」  冗談混じりのつかみ合いが、次第に冗談では済まなくなってゆく。捕まえる側と逃れようとする側の、短いが、不毛で深刻な争い。その拍子に、男の手がサラの胸に触れた。 「……あれ?」  男の声に、かすかに困惑の色が浮かぶ。思わず胸に掌を押しつけてまさぐる。誰がどの方向から見てもエロオヤジそのものの仕草であるが、この時ばかりは彼の脳裏によぎっていたのは下心ばかりではなかった。困惑がいよいよ強まり、疑惑になったその時。 「―――ああもう、しょうがねぇ」  わずかに低い声。  その疑問への回答は、ついに与えられることがなかった。  眼の奥に突如飛び散る火花。反射的に内股になり、すくみ上がる身体。地面にくずおれる間に意識が途切れたのは男にとって不幸中の幸いだった。全力で膝蹴りをたたき込まれた股間から、時間を置いてせり上がってくるあの地獄の悶絶だけはかみしめずにすんだのだから。       「なんでぇ、これっぽっちかよ。本当にカネねえんだなあ」  先ほどのサラリーマンから抜き取った財布と定期入れの中に指を這わせ、手早く中身を検分しながら、サラは舌打ちした。 「いくら焦ってたからって、客を見る目が曇ってりゃザマあないや」  頭上を通り抜け、十数秒に渡って続く轟音。山手線沿いに駅と繁華街から少しだけ離れたこの線路脇の公園は、数少ないサラの縄張りだった。手慣れた様子で紙幣とカード類を抜き取り、残ったレシートを地面に丸めて捨てる。次にカードを検分。カネにならない診察券や会員カードを側溝に放り込んでゆく。つづら折りになった飲み屋の割引券と風俗嬢の名刺に舌打ちし、引きちぎってばらまく。 「教師なら図書カードぐらい持ってやがれってんスよ」  次いで引き当てたのは、クレジットカードとキャッシュカード。それに運転免許証だった。いずれも使いようによっては紙幣より遙かにカネになるカードだ。手早く現金に換えるつてもないではない。と、定期入れに入っている写真に気づいた。それを見つめること三秒。はあ、とため息を一つ。 「スケベオヤジの報いを家族にくらわすことはねえやなあ」  家族が大事なら女子高生に手ぇ出そうとか考えんじゃねえ、などと呟きながら取り出したのは、可憐な制服には不釣り合いな十徳ナイフだった。ハサミを引き出し、無造作にカードを刻んで側溝へねじ込む。残った財布と定期入れもノーブランド。定期を抜くと、側溝に入らないので公園のクズカゴに捨てた。 「これじゃ二日も食えねぇよ」  ぶつぶつと文句を言いながら、公衆トイレへ。人目がないことを確認し、素早く入る。海外に比べれば格段に日本の衛生環境は良い方だが、それでも都内の公衆トイレは汚いの一言に尽きる。そんな中でこの公園のトイレは、まだ新設されたばかりという事と、担当の掃除夫がまめな性格なのか、比較的丁寧に掃除が為されている事が相まって、中々の快適さだった。それもサラがここを根城にしている理由の一つだ。個室に入り、扉を閉める。洋式便器のフタを閉め足をかけ、天井近くの貯水タンクの上に手を伸ばす。下からは気づかれない位置から引きずり出したのは、これまた似つかわしくないすり切れたナップザックだった。胸元のリボンを解き、ブラウスのボタンを手早く外してゆく。可憐なチェック柄のスカートも引き下ろし白い両脚を抜く。脱いだ制服を、いずれもしわにならないよう丁寧にたたみ、ナップザックに仕舞い込んだ。入れ違いに取り出したのは、こちらはザックにふさわしい、洗いざらしのTシャツとジーンズ、くたびれたスニーカー。そして青いバンダナだった。ローファーを脱ぎ、ジーンズに足を通す。スニーカーを履いて無造作にTシャツに頭と腕を突っ込み、最後にバンダナを無造作に額に巻き付け、長めの髪を覆う。ナップザックを背負うと、サラは鍵を開け、男子便所の個室から出た。と、トイレの入口、洗面所の鏡に映った自身と眼が合う。そこにあったのは、不敵な面立ちに、俊敏さと抜け目の無さを備えた一人の少年の姿だった。    洗面所で手を洗い、口をゆすぐ。今日のオヤジには別にどうのこうのされたと言ったことはなかったのだが、こればかりは気分の問題だった。水を吐き出すと、喉に手をやる。流れるような曲線の首筋。その色は、顔との境界のファンデーションに四苦八苦している女性が見たら、嫉妬に狂いそうな白さだ。咳払いを一つ。やはり少し違和感を感じる。一月前に比べると、かすかに骨張ってきたような気がする。声変わりという奴だろうか。実際のところ、最近は作らないと女の声が出ないようになってきている。 「この商売も年貢の納め時っすかねェ」  自嘲げに呟く。こんな商売で日銭を稼いでいること自体には罪悪感はない。この街で生きていくのに、腕っ節の強い奴は腕を使う。頭のいい奴は頭を使う。自身の持つものを使うのは至極当たり前だ。早く大人になりたいと思っているのに、成長するほどメシのタネが無くなるという事実に、皮肉な感傷を抱いただけの事だ。  公園を出て、ザックを担いだまま再び今来た道を戻る。たちまち周囲にネオンが満ち、繁華街が目の前に開けた。路上でたむろする若者達、道に立つ呼び込みの男達の誰一人として、目の前にいる少年が先ほどの妖艶な少女だと気づく者はいなかった。 「八時半じゃ、もうブックバザールは閉まっちまってんな」  舌打ちを一つ。東京の数少ないところ、それは住人達の生活時間に合わせ、飲み屋以外の店も深夜まで開いている事だった。だがそれにも限度はある。レストランやゲームセンターならともかく、中古書店はさすがにもう閉まっている。今日中に歴史の本を買い込み、ねぐらでゆっくり読みたかったのだが、諦めなければならないようだ。  と、腹がぐるるる、と抗議の声を上げた。今日はかかりが悪かったので、夕飯を摂る暇がなかった。決断は早かった。いつもの牛丼チェーンでメシを買って今夜は帰ろう。そう思い、通りを一本曲がり、裏道へ入った時だった。 「ようサブロウ、いいとこにいるじゃねぇか、オウ」  横合いから伸びてきた手に、腕を捕まれたのは。         ●2      裏通りに引っ張り込まれる。  声をかけてきたのは、二人組の少年だった。とは言え、少年と呼ぶのはいささかためらわれる。恐らく歳は十八、九。染めた髪にピアス、派手さを装っているのにだらしなさばかりを印象づけられる衣服、卑屈さと狡猾さとが混じった目線は純真さからはほど遠い。ありていに言えば、繁華街なら世界中のどの街にもいる、路上を縄張りとするチンピラの類だった。 「……ばんわス、宇都木さん、蟹江さん」  先ほどまで少女の姿でサラと名乗り、今またサブロウと呼びかけられた少年は、ぞんざいな言葉に丁寧な口調で挨拶を返す。相手を持ち上げつつ、かつ、へりくだらない間合いの取り方。そんなものは真っ先にこの街で憶えた技術の一つだ。 「おおっと、それともサラちゃん、の方が良かったか?今日も随分ご活躍だったみたいじゃないの、エェ?」  宇都木と呼ばれた方のチンピラが揶揄する。それに応じて蟹江と呼ばれた方が下品な笑い声を上げた。 「スンマセン、今は商売中じゃねェんで。如月(きさらぎ)佐武朗(さぶろう)の本名でお願いしやす」  捕まれた腕をさりげなく外しながら、少年……如月佐武朗は静かに、だがはっきりと返答した。と、その言葉にチンピラ二人は過剰に反応した。 「……お、何サブロウ、お前俺達に命令すんの?ンン?」  語尾にいちいち唸り声をつけるのは、この男なりに迫力をつけようとしているのだろう。成功しているかどうかはさておいて。後ろの蟹江と呼ばれた男がじろりとこちらを睨む。 「いえ、そんな事は決して」  下手くそめ、と内心でサブロウは自身に向けて舌打ちした。さっきのオヤジの件でヘマを踏んだせいでどうも苛立っているらしい。こんな連中に内心を気取られるとは。この手合いは皮肉や冗談を解する頭はなくても、軽蔑には安いプライドが反応する。気が緩んでる、生き延びたければもっと用心深くなれ。もう何度繰り返したかわからない自戒を心中で呟く。 「だいたいお前よお、最近ちっと稼げてるからってチョーシくれてねえ?あん?」 「そんなことないッスよ。お二人のおかげでいつも商売やらせてもらえてんスから」  語調に愛想の良さを加えフォローしつつ、サブロウはこの二人が何を言い出すかを正確に推察していた。 「お前、今月のセミナー代まだ払ってねぇだろ、オウ」  セミナー代、とは奇妙な言葉だが、彼らはあるサークルに所属しており、開催されるセミナーへの参加料金を毎月払う事になっているのである。……が、サブロウも、当のこの二人もセミナーになど参加したことは一度もない。要は古来より延々と続く裏社会の上納金―――ミカジメ、シノギ、上前―――を、現代風にソフトに言い換えたものだ。「シノギをよこせ」と言えば恐喝だが、「セミナー代を払え」ならば建前はビジネスになる。NPO法人に偽装したヤクザがよく使う手口の一つだ。この二人もすでにヤクザの息がかかっており、サブロウのような路上で商売をする人間からシノギを取り立てる仕事を任されている。彼らにとっては将来組に入るための試験でもある。 「やだなあ宇都木さん。こないだいつも通り一万、お渡ししたじゃないッスか」  一万ンン!?と宇都木がすごむ。典型的な安い脅しの手口。 「馬鹿言ってんじゃねぇよ。お前がどんくらい稼いでるかってのはわかってんだ、一万ぽっちで済むわけねえだろうがオウ。誰のおかげで商売できると思ってるんじゃコラァ!」  宇都木が一気にまくし立てる。怒った自分に興奮し、さらに怒れるタイプなのだろう。先ほどより”キレやすく”なっているのがわかる。サブロウからしてみれば、一万は相場として妥当な数字だ。宇都木の台詞は文句ではなくて、明らかに難癖をつけてカネを巻き上げようとするものだった。 「カンベンしてくださいよ。月一万ってのは上の人達も納得してる話じゃないスか」  この二人が難癖をつけてきている理由もサブロウには推測がつく。この二人はお世辞にも有能とは言えず、集めてくる金が少ないと上のヤクザから脅しをかけられているのだ。他のチンピラ仲間や、上のヤクザからは、”ウッキーとカニで猿蟹コンビ”などと揶揄されている事も知ってはいるが、もちろん口には出さない。 「ウッセエ、だいたいお前には最初見たときからムカツイてたんだよ。いつも済ましたツラぁしやがってよ。一回きちっとヤキ入れてやろうと思ってたんだ、アァ!?」  歯茎をむき出しにしてすごむ。カテゴリー上は同じ少年、と言っても、相手はほとんど二十歳。片やこちらは本来なら中学に通っていなければならない、貧相な体格のガキ一人。荒事になれば勝てないのは明白だった。 「いや、ホント、そう言われてもどうしたらいいか……」  何度もそうしてきたように、考え、最適の選択をつかみとる。愛想の良い苦笑いを振りまきながら……一歩、二歩、後退し。 「その話はまた今度に!」  一転全力で逃走にかかる。だが、その目論見は、 「逃げてんじゃねぇ!」  表通りへの道を塞ぐ位置に回り込んでいた蟹江に阻まれた。伸びてきた腕を飛び下がって間一髪かわす。一旦逃走を選択した以上、捕まればどうなるかは考えたくもない。避けたものの塞がれた出口。後ろからは迫る宇都木。サブロウはほとんど直感的に行動した。 「ぐげぇ!!」  飛び下がった勢いを殺さず、むしろ加速をつけて反転し、追いすがる宇都木に体当たりをかます。まさか攻撃されるとは思っていなかったのか、宇都木は綺麗に吹っ飛んだ。それに目もくれず、空いた空間をサブロウは猛然と駆け抜ける。―――裏通りの奥へ奥へと。 「テメェコラ!!」 「待ちやがれクソガキがぁ!」  すぐに体勢を立て直した二人が追ってくる。ネオンの裏側の夜の中、狭い建物の隙間で作られた迷路を、三人はまるで実験動物のように駆け回った。ともにこの一帯を縄張りとする者同士、地理はわきまえている。料理油の臭いが漂う中華料理屋の裏を、うらぶれた小料理屋の、明滅する看板の置かれた通りを、サブロウは息の続く限り走った。足の速さと体力には結構自信はあるが、相手はタバコまみれの運動不足とは言えほとんど大人、基礎体力が違う。同い年だったら負けねえのによ、と口の中で毒づいてみても、こればかりは仕方がない。それでもどうにか一分、障害物競走のトップを維持し続けた。だが、そこが限界だった。 「あっ……!」  足がもつれ、アスファルトに勢いよく転倒する。今日はどこまで運が悪いのか。居酒屋の裏口、積み上げられたビールケースの裏から、人間の両脚がごろんと地面に投げ出されていたのだ。ケースに隠れて顔は見えないが、恐らくは用足しにでも出てきてそのまま壁に座り込んでしまった酔っぱらいの類だろう、等という推測をしている暇はサブロウにはなかった。ビールケースをなぎ倒し、派手に転倒。頭を庇った代償として、右の肘の皮膚がアスファルトにそぎ落とされる。 ”何でこんなところに……!!”  その台詞を口に出す事は出来なかった。 「捕まえたぜ?オラ」  起き上がろうとしたところを、Tシャツの襟首を引っ掴まれ無理矢理に身体を起こされる。嗜虐の笑みを浮かべた宇都木の顔を確認する前に、ボディーブローが一発入る。くの字に身体を追ってたたらを踏んだところで、今度は脇腹に蟹江のフック。もう一度ビールケースを蹴倒し、壁に叩きつけられた。 「あ……かはっ!!」  体重(ウェイト)の差は歴然。苦悶に身をよじるサブロウの肩を、宇津木が壁に押しつける。 「ナメた真似しくさりやがってこのガキが!出すもん出せっつってんだろ!アア!?」  ジーンズの後ろのポケットがまさぐられ、先ほどオヤジから巻き上げた紙幣と定期が抜き取られる。こうなっては半分だけでも返してもらう、などという交渉も通じない。この上はあと二、三発も殴られてやって、今日はとっととねぐらに撤退するしかないか。焦りを浮かべるサブロウの表情をしばらく見つめていた宇都木の唇が、名案が閃いたとばかりに歪む。 「おーいおいおい。これだけじゃ全然足りねえぞ。なあ蟹江?」 「そうだな、全然だな」 「勘弁……してください、これで……全部ですよ」  言葉を吐き出す度に肋骨のあたりがじくじくと痛む。 「そうだな!それじゃあその分はサラちゃんにサービスしてもらおうぜ」 「ああ、そいつぁいいアイデアだ」 「なっ……!」  にやにやと笑う二人は、決してサブロウを軽蔑したり、悪罵する意味合いで言っているのではなかった。それならよっぽどマシだ。こいつらは本気だった。自分が何をされようとしているのかに思い至り、背筋が寒くなる。 「離せ!離せよ!!」  今度ばかりは打算を考える余裕はなかった。全力で抵抗しようとするが、二人がかりで押さえつけられた腕はびくともしない。頭と足を無我夢中で振り回す。その様子に蟹江が舌打ちする。 「うぜぇな。もう二三発入れとこうか」 「腹にしとけよ、痣だらけのツラじゃノれなくなるからよ」  ぎゃはははは、と顔を見合わせて笑う二人。サブロウの目に不覚にも涙がにじんだ。痛いからでも、恐怖からでもない。そんな事にはもう慣れている。ただ、またこんな奴らの暴力に屈してしまう事が、そう、悔しかったのだ。 「んじゃ、まずは一発―――」  蟹江が拳を大きく引く。見せつけて脅すためのテイクバック。拳がめり込むその直前、サブロウは反射的に目を閉じた。    ぐしゃり、と。拳が肉にめり込む音。  はらわたを抉られるような痛みが…………ない?   「ったく。誰だオレの足を蹴ったヤツは!?」   「え……?」  目を開く。そこには自分同様に呆けた顔の宇都木と、そして蟹江―――が、いない。  と、唐突に派手派手しい物音が炸裂した。視線を向けると、八メートルほど離れた隣のカラオケボックス裏のゴミバケツに、ずっぽりと頭を突っ込んだ蟹江が倒れて転がっていた。 「あのよ。ちょっといいか?」  蟹江が先ほどまで存在していたはずのあたりから、突如声がかけられる。 「良くわかんねぇんだけどよ。とりあえずオメェらがそこのチビを二人がかりでどつき回してるってのはマチガイねえよな?」  そこに、一人の少年が立っていた。  年の頃は十四、五か。となればサブロウよりは若干年上ということになる。同世代の平均からすれば少し小柄で痩せているが、ひ弱な印象は微塵も感じない。薄汚れたジーンズにスニーカーというサブロウと似たり寄ったりの格好だが、薄手のタンクトップが浮き上がらせる上半身と、そこから突き出した二本の腕には、無駄のない筋肉が骨をべったりと覆うようについている。見せるための膨れあがった筋肉ではない、一流の男性バレエダンサーのような絞り込まれた身体だった。左手をジーンズのポケットに突っ込んでいるのはいいとして、問題は右手だった。親指でコインを宙に弾いて、落下してきたそれを掌でつかみ、また弾き上げる。無意識でやっているのか、別に格好をつけた様子もない。  そして、何よりその表情。ぼさぼさの長めの髪の下から覗く吊り上がり気味のその瞳には、ひ弱と呼ぶにはあまりにも強靱な、いや、凶暴とも呼べる光が宿っていた。 「な、何だテメェは?蟹江に何しやがったおい」  一つ、仮説を建てる事は出来る。この少年が横合いから、蟹江を八メートルも殴り飛ばしたという説だ。もちろん、そんな馬鹿馬鹿しすぎる考えを放棄しているから、宇都木は少年に質問している。その、当然といえば当然の宇都木の問いかけを、 「おい、そこのチビ」  まるっきり無視して少年が問いかけてきた。宇都木に押さえつけられたまま、サブロウは腹の痛みをこらえて顔を上げる。 「助けてやるから金だしな。五千円でいいぜ」  ぞんざいな口調。あっけにとられたままのサブロウに、右手でいじくり回していたコインを指に挟み、これだよこれ、と突きつける。それは、白銅で鋳造された銀色の日本硬貨、つまりは百円玉だった。裏通りに漏れたネオンの光を弾いて、わずかに煌めく。 「あ、あんた……何モンだよ」  サブロウの問いも当然といえば当然だったが、少年が口を開くより早く、 「てめぇ、ツレを呼んでやがったのかよクソが!アア!?」  自分たちが二人がかりで追いかけ回したことを遠くの棚に放り投げ、宇都木が喚いた。掴んだままの肩を、また壁に叩きつける。息が詰まった。一度ならず何度も。少年が険しい目でこちらを見つめている。 「出すのか出さねえのか、さっさと言いやがれ!」  そんな事言ったって、もう出す金なんてないんだよ、と心中で毒づいたところで、一つ考えが浮かんだ。 「そ、そいつらに取られた金があるから……それを取り戻したらアンタにやるよ」 「サブロウ、テメェ!?」  少年の口が両脇につり上げられ、牙を思わせる歯並びが剥き出しになる。 「ショーダンセイリツ、って奴だな」  親指を強く弾くと、弄んでいたコインが澄んだ音を立て、一際高く夜闇に跳ね上がった。ここでようやく状況を把握したらしい宇都木が、サブロウを突き飛ばし少年に向き直る。 「チョーシくれてんじゃねぇぞこンガキがぁぁ!!」  助走して加速と体重を乗せてのパンチ。路上の喧嘩ではそれなりに有効な一撃だった。 「じゃあまずは自己ショーカイだ。オレは―――」  宇津木のパンチが顔面を捉える直前。跳ね上がった百円玉が少年の右の掌に収まった。コインを握りしめ、掌が拳になる。  その瞬間。サブロウは、自分が手品でも見ているのかと思った。  顔面に飛んできた宇都木のフック。被弾の直前まで少年は棒立ちだったはずだ。だが。 「え!?」  打撃の音が鳴り響いた時、当たっていたのは少年の右の拳の方だった。その絞り上げられた細身の身体から猛烈な勢いで撃ち出された右フックが、奥歯全部を粉砕するほど宇都木の頬にめり込んでいる。かわしざまのクロスカウンターとか、そういった技術ではない。ただ単に、棒立ちの状態から、着弾直前の宇都木のフックより早く己のフックを振りかぶって叩き込んだだけ―――理屈ではわかる。だがそんな事が可能なのか?  またも派手派手しい音。宇津木の身体は実に八メートルの距離を引き飛び、先ほど蟹江が突っ込んだままのゴミバケツに、狙い澄ましたように仲良く頭を突っ込んだ。 「―――乾史。犬神乾史ってんだ」  両の掌をはたいて埃を払う少年。その様子を見て、さっきのはやっぱり何かの手品に違いない、サブロウは思った。なぜなら、先ほど確かに右手に握りこんだはずの百円玉が、開いた掌のどこにも残っていなかったからだ。二人のチンピラを吹っ飛ばし、乾史と名乗った少年は、サブロウを見やってにやりと笑う。その両眼が、かすかに金色に光っていたように見えたのは、果たして気のせいだったろうか。 「あ、あんたが、あの……『狂犬』犬神乾史!?」  サブロウの口から、知らず驚嘆の声が上がっていた。         ●3      ―――誰かが嗤っている。  演技や挑発じゃない。それは、ある意味では純粋な、ただの悪意だった。  四方から嗤いの雨が降り注ぐ中。彼はじっと俯いていた。周りはそれを、彼が屈辱に打ち震えているのだと思っていた。確かにそうでもある。だが、理由はそれだけではなかった。    掌の中には、銀色の金属。  鈍く輝くそれは、綺麗な円を描いている。  初めて見るものじゃない。それどころか、しょっちゅうそれを使ってきた。自動販売機でジュースを買うときもそうだし、週に一度、スーパーマーケットの特売に買い出しに行くときも毎日のように使っていた。ごくごくありふれた、それは五百円玉だった。  なのに。今は吸い込まれるように、目を離すことが出来ない。彼はその硬貨が、どこかで見た別なモノであるような気がしてならなかった。  心臓の鼓動が、早鐘のように打ち鳴らされる。  それを見ていると、嘲笑に傷つけられた、いや、傷つけられ続けてきた心の生み出す熱が、どこかへ一点へ収束するような気がした。鼓動の度に肉体が昂ぶっていき、それと裏腹に、気持ちは不思議なほどに落ち着いていく。まるで、遠く離れていた我が家に帰ってきたかのように。熱がどんどん収束していく。何かが弾けそうな、この感覚。危うさを感じる意識と、この先に進みたいという意識が葛藤し合う。    いつのまにか、嗤い声は止まっていた。  周囲も気付き始めていたのだ―――中学生とはいえ。俯いたままぶるぶると震えだした彼の様子が、尋常ではないと。  そんな周囲の様子も目に入らず、彼は高まる己の内なる波動を自覚しつつ、ただ掌の上の硬貨を見つめていた。先ほどから考え続けていたひとつの疑問。突如、その時彼の脳裏に答えが閃いた。    ―――ああ。まるでお月様みたいなんだ。    ぶつんと、ドコカでダレカのナニカが切れた音がした。月(コイン)を握り込み、ゆっくりと顔を上げる。そこにはまだ嗤いの表情を中途半端に貼り付けた、この羊どもの群れの頭が居た。  そいつがぱくぱくと上顎と下顎を開閉させる。  ナンダテメエ、ヤロウッテノカ、オレヲナグッタラドウナルカ、  ついでに、意味の為さない吠え声まで上げている。馬鹿かこいつは。捕捉されたエモノが何を悠長に吠えている。そんな事をしている間に一歩でも逃げないから―――ほら、こうなった。  イタイイタイ、ナンダヨマジデナグルナヨ、  狩られたエモノが、己の状況を理解できず啼いている。ああ、こいつは愚図なのか。彼は理解した。ならば理屈は簡単だ。弱いうえに愚図な生き物は、ただ狩って喰らうだけ。二発、三発と。己の拳(キバ)を立てて引き裂いてゆく。  ヤメテ、モウヤメテクレ  飛び散った歯の欠片が拳に切り傷をつくる。まだ息があるのか。黙らせるべく拳を振り下ろす。  視界が朱く染まった。          ……目を覚ますと、薄汚れた漆喰の天井が目に入った。  ひびの入った頭上の窓ガラスから、四月下旬の穏やかな春の朝日が注いでいる。一つ大あくびをすると、犬神乾史はくるまっていた毛布から身を起こした。けばだっていて、少し埃っぽい。隣を見ると、同じような毛布がもう一つあったが、そちらはすでに畳まれていた。寝起きの頭が徐々に覚醒し、今自分が置かれている状況を再構築していく。今自分が居るのは、たしか裏通りにある何かの会社の倉庫だったはずだ。昨日路地裏で寝ていたときにゴタゴタに巻き込まれ、そん途中でいつものように、用心棒代を巻き上げようとして―――。  そこまで思い出した時、乾史は反射的にあたりを見渡していた。さして広くもない室内、先ほどまで隣の毛布にくるまっていたはずの人物はすぐに見つかった。と、起き上がろうとした拍子に腕が触れたのか、側の棚から何かが落下し、乾史の頭に直撃した。 「ぐあ!?」  やたらと重量がある。すっかり眠気が覚めた頭で、落下してきたものを確認する。それは分厚い一冊の本だった。タイトルに『世界の歴史IV』などと書いてある。棚を見上げると、そこには無数の本が並べてあった。歴史の本、文学書、英語の教科書、なにやら科学の雑誌と思わしき本、数学の本。それからなぜか料理の本もある。乾史にしてみれば見るだけで頭が痛くなる、およそ廃倉庫には似つかわしくないものだった。いったいどこから集まってきたのだろう、そんなことを考えていると、 「おはようございます、アニキ」  声をかけようと思っていた相手から、先に声をかけられた。倉庫の片隅のコンセントはどうやら生きているらしい。そこで昨日助けたガキ―――サブロウは、どこかから拾ってきた電気式のポットでお湯を沸かしていた。 「コーヒー、飲みますか?」 「…………あのなおい」  とりあえずそこまで口に出して、この後どう続けるべきか迷った。てめぇ何コーヒーいれてやがんだよ、というのもどうにも間が抜けている気がするし、飲みたくない、というのも悪い気がする。このようなことを逡巡した結果、出た言葉は次のようなものだった。 「お茶がいい」  お茶ですか、とサブロウは驚いたが、すぐに、ありますよ、と返すとどこからか急須を取り出し、茶葉を振り出し始めた。 「緑茶はないんすけど。ほうじ茶でいいっすか」 「ああ、オレはそっちの方が好きだし―――って、いやそういう問題じゃねえ!」  乾史は床を叩いた。不当な扱いに打ちっ放しのコンクリートが抗議の声を上げる。 「もしかしてウーロン茶っすか」 「ちげぇ!問題はなんでオレがお前のねぐらでこうしてノンキに茶なんか飲んでんのかっつーことだ!!」  言われたサブロウの方はきょとんとした表情。 「なんでって……連中をノしてずらかった後、あっしが泊まるところはあるのかって聞いたら考えてねえっていったのはアニキじゃないですか」 「ぐ」  そういえばそんな事も言ったような気がしないでもない。その日はあの裏通りのビールケースに埋もれて一晩を過ごすつもりだった。春は唯一、寒さも暑さも気にせず路上で一夜を明かすことが出来る季節なのだ。だがだからといって布団が恋しくないわけはない。こいつの勧めるままにねぐらに上がり込み、色々あって疲れていた乾史はそのまま毛布にくるまって眠り込んでしまったのだった。 「あ―――ああ。そうだったかも知れねえが。だがま、それはそれとして。もう朝になったんでな。オレは行くぜ」 「え、もうお茶入ったっすよ?」  思わず喉が鳴る。たかがお茶と侮るなかれ。公園の水道水しか飲めない生活を一週間も続ければ、現代人の舌はたちまち、お茶やコーヒー、清涼飲料水の味を求めて止まなくなるのだ。 「世話かけてわりぃな。だがオレは一匹オオカミ。他人の世話になるのはガラじゃねえんだ」 「朝ご飯も用意できてますけど」 「ナヌ?」  サブロウの指さす方向には、かすかに蒸気を吹き上げる炊飯釜と、カセットコンロにかかった味噌汁が、たしかにあった。 「おめぇこんな炊飯器どこで……」 「こないだ家電リサイクル法が制定されたじゃねえですか。あの時期を見計らって、何かいらない家電があったら回してくれってあちこちに頼んどいたんでさあ」  中古っつっても全然使えるのばっかりですしね、とサブロウは嬉しそうに笑った。 「かで……なに法だって?」  乾史はそんな法律が制定されたことなど知らなかった。もっともこれは、十五歳の少年としてはごく当然の反応だっただろう。 「おめえ、歳はいくつだ?」 「あ、もうすぐ十四になります」 「……マジ、かよ」  目の前の、自分より年下の少年。その顔をまともに見ることは出来ず、乾史は目を反らした。 「で、ご飯炊けたんすけど……食べませんか?アニキ」  オレは一匹狼だ、他人の世話にはなんねぇ、まして助けたとは言え自分より年下のガキにメシを食わされるなんてプライドが、いや確かにこの味噌汁は男が作ったとはぜってぇ思えねぇほど美味そうないい香りなんだけどそれはそれとしてだな、 「海苔の佃煮もありますし」 「食べる」  そういうことになった。         ●4      結論から言えば、乾史が空きっ腹であるという条件を除外しても、朝飯は十二分に美味かった。ジャンクフードで食いつないできた乾史にとって、まっとうなメシなど食べるのは果たして何日ぶりだっただろうか。炊きたての湯気立つご飯に存分に海苔の佃煮をのせ、一気にかき込む。熱いご飯とやや冷たい佃煮の甘みが絶妙な調和を引き出し、脳にダイレクトに旨味成分を叩き込んでくれる。 「たしかに、うん、これはウマい、んだが、それは、それとしてだな、聞きてえことがある、と、おかわりいいか?」 「どうぞ、アニキ」  乾史の突き出した茶碗に、サブロウが炊飯器から飯を盛って返す。 「そうだ、それ。何だそのアニキってのは」  そこでようやく乾史は、昨夜来の根本的な疑問を投げつけることが出来た。 「つうかだな。なんでお前はオレをわざわざねぐらに案内して、泊めたうえに飯まで食わせてくれるんだ?そりゃ確かに昨日はヤベェところを助けてやったがよ。その分はきちんとあのサルみてぇなチンピラから取り返した分で払ってもらったじゃねぇか」 「何って。アニキはアニキですよ。『狂犬』乾史っていやあ、今やこの街の人間で知らないヤツは居ませんや。本物に会えるなんて、それこそ夢みてぇな話でさあ」  ぞぞぞ、と味噌汁をすする乾史の手が止まった。サブロウは目を輝かせて、目の前の乾史に向かって、彼自身の情報をとうとうと並べ立てた。    『狂犬』乾史。  それが目下の犬神乾史の通り名だった。数ヶ月前に、ふらりとこの街にやって来た素性の知れない少年。外見はどう見てもみすぼらしい浮浪児のそれ。まだ高校生とも思えないこの少年は、だが、喧嘩においては無類の強さを誇った。確かにこの街のヤクザ者にも喧嘩(ゴロマキ)自慢の者は数多い。ドス一本で五人相手に斬り込んでいった、なんて武勇伝はそこら中に転がっている。がしかし、乾史の強さは明らかに次元が違った。特に大柄でもない十五の少年が拳を振るえば、プロレスラーのような大男が宙に舞い壁に叩きつけられる。ドスを握った本職のヤクザ十人を相手に互角以上に立ち回った事もあった。当初は、生意気なガキをシメようとやってくる不良やヤクザ者達を返り討ちにしていただけだったが、そのうちに乾史は自分の腕で食い扶持を稼ぐようになった。  用心棒稼業……と言って良いものだろうか。夜の街を徘徊し、カツアゲにあったり因縁をつけられている人を見つけては、「助けてやるから金だしな」と半ば一方的に助っ人に入り、用心棒代を巻き上げる、という商売を行っていたのだ。もちろん、こんな事をしていればあっという間に裏社会の人間の恨みを買う。有形無形の妨害があった。だが、乾史はそのいずれも腕力ではね除けてきた。どこにも属さず、どんな相手にもかまわず噛みつく『狂犬』。普通の人間とは思えない強さを備えた、異能の少年の名前は、暴力を糧に栄えるこの街の裏社会に突如として現れた彗星のようなものだった。そして昨夜、乾史はいつものように街をさまよい……たまたまタチの悪いチンピラ二人に絡まれていたガキを助けに入ったのだった。   「―――あっしはこのとおり、チビで女みたいなツラしてるから、誰からもナメられるんでさあ」  サブロウは自嘲気味に言った。たしかにそうだろう、と乾史も思う。こうして明るいところで面と向かい合って男言葉で話されていても、新たなおかわりを盛りつけているその姿は、一向に男とは思えない。面立ちといいバンダナでまとめた髪といい体格といい声といい、どう見ても少女のそれだった。前に一度だけ、新宿の裏通りでストリートファイトの王者を張っているとか言う女子高生を見かけたことがあるが、あれなぞより数万倍はこちらの方が女性らしい。実際、乾史ではなく他の男がこの状況にあれば、美少女にお膳を世話してもらって至福の刻に浸るか、あるいはその正体が少年と知って深く煩悶するかのいずれかだったろう。幸か不幸か、少年犬神乾史は、まだ女には興味がなかった。 「昨日みたいなこともしょっちゅうでしてね。だから上手く立ち回ろうと、小賢しいことばっかり憶えたんですが。しょせん小手先ですよ」  料理の腕や家電製品をどこからともなく集めてくる才覚も、この街で憶えたのだろうか。 「そんな時にね。一人でヤクザをぶちのめしちまうとんでもなく強ぇヤツが現れたって噂を聞いたんです。しかもあっしと大して歳が変わんねぇって言うじゃないすか。ぜひ一度お会いしてぇ、と思っていたら、まさか助けてもらえるなんて。昨日はさんざんでしたが、最後はマジでツイてやした」 「あー、なるほど。そーいうことね」  乾史は最後のご飯をかきこんで納得した。となれば、これ以上ここにいる理由もない。 「メシを食わせてもらったことは感謝してるぜ。んじゃあ、またどこかで、」 「あの!実はアニキにお願いがあるんすが」  せっぱ詰まった大声に、飛び上がる。 「な、なんだよ」  サブロウは言い出すべきか否か、しばし口ごもっていたが、やがて意を決して言った。 「あっしに男を教えてもらえやせんか?」 「―――は?」 「あっしも、いつまでも女のカッコして金巻き上げる商売続けてるわけにはいかねえんでさあ。だからあっしも、アニキみてぇに誰にもナメられないようになりてぇんです!」 「―――あ、ああ。いやそう言われてもな。そんなもん教えるモンでもねえだろ」 「もちろんタダとは言いません。もっと金払うから、しばらくあっしの用心棒をしてもらえやせんか?アニキの傍で自分で見て勉強しますから」  ああ、つまりはこのガキは、これを頼みたいがためにオレをここまで連れてきてメシを食わせた、ということか。サブロウの言いたいことはわかったが、乾史としては一つ確認をしておかなければならなかった。 「……おめぇ、こう言っちゃなんだがよ。オレのことそんなに信用していいのか?」  上手く立ち回ってきた、とはサブロウ自身も言っていたことだ。その本人が、易々と自分を信じるというのは、どうも腑に落ちなかった。 「正直、この街ではどいつもこいつも信用できねぇッス。でも、誰も信じなきゃやってけねぇ、って朱(チュウ)の姐さんに教わったモンで。それに、アニキは昨日の夜、取れる金がまだあってもあっしから奪わなかった」 「……そりゃ最初に一回五千円って言っちまったからな」 「だからあっしは、アニキならいいと思ったんス」  サブロウは屈託のない笑みを浮かべる。乾史は柄にもなく考え込んでしまった。男を教えるだのなんだのは悪い冗談として、ただ用心棒を数日続けるというのであれば、今までもなかったわけでもない。 「メシはつくのかよ?」 「へい!さっきのくらいでしたら何とか三食」  悪くない条件だ。それどころか、昨日までの乾史の食生活ときたら、あと少しで生ゴミを漁らなければならないレベルに達しつつあった。断る理由は、否、断れる理由がなかった。 「ま、一週間くらいなら別にかまわねーけどよ」  そっぽを向いて答える乾史、満面に喜色を浮かべて飛び上がるサブロウ。 「商談成立っすね!じゃあ、早速ですいませんがアニキ、これから昼の仕事があるんです。一緒に来てくれますか?」 「ああ。メシも食ったし腹ごなしをしねえとな」  もともと二人とも準備をするほどモノを持っているわけでもない。倉庫の外の水道から引いたホースで顔を洗い口をゆすぐと、それで準備完了だった。  出がけに乾史は、入り口を振り返り、残っていた最後の疑問を口にした。 「そういやこのたくさんの本よお。えらく小難しいけど、誰が置いていったんだ?」  改めてみると、化学や政治経済、ダイスウキカとやらの参考書もあった。サブロウは赤面すると、 「あっしです。学校行ってねえモンで。時々、余ったカネで買って読んでるんでさあ」  乾史は今朝何度目かわからない驚きに言葉を失った。        二人が倉庫から出て行く。だが、その様子をじっと見ていた人間がいたことに、サブロウも、そして乾史も気づくことはなかった。 「おやおや。これは些か、奇妙な事態になっているようだな」  倉庫の近くの通りの影で、その男は誰にともなく呟いた。困っている口調とは裏腹に、その表情はどこか楽しげだった。歳の頃は二十そこそこか。陽に良く焼けた肌に、鉛色の瞳。短めに刈ったやはり鉛色の髪の毛を、整髪料で刺々しく逆立たせている。  異様な体型の男だった。百八十五センチの身長は、高いとはいえさほど珍しくはない。だが、問題はその脚と腕の長さだった。いずれも異様に長い。同じ身長の平均的日本人の、腹の位置に腰がある。そしてその膝に届きそうな、長い腕。対照的に頭は小さく、九頭身に達しているのではなかろうか。そのため実際の身長以上に背が高く見える。 「巣穴を嗅ぎつけてみれば時わずかに遅し……か。いやいや、焦りは禁物」  細長い身体に、ウィングカラーのシャツ、地味だが明らかに上質とわかる黒のベストとパンツを纏っている。履いている革靴は丁寧に磨き込まれているのか、遠目にも艶が見て取れるほど。その格好はまさしく十九世紀の執事さながらだった。だがしかし、その胸元は大きくはだけられ、鎖と錠を模した銀色の首飾りがかけられている。よく見れば、袖のまくり上げられたその腕、耳にも、鎖や拘束具、銀で作った髑髏の小物が光っており、ストリートのパンクファッションさながらだった。執事とパンク、体制と反体制という相反した要素を無理矢理一つにまとめたような、なんとも統一性のない姿だった。 「巣穴で見つけた邪魔者は、果たしてただの子犬かどうか……?と」  眉をしかめて携帯を取り出す。マナーモードに設定した携帯が震えていた。舌打ちしたげな表情をこらえて、電話に出る。 「もしもし。……ええ。ちょうど見つけたところです」  たちまちスピーカーから漏れる大声。どうやら電話をかけてきた男は相当に怒っているらしい。男は眼を閉じて、受話器を離した。 「しかしですね旦那様。追跡中の連絡はご勘弁頂きたいと申し上げました。もしも携帯の音で気づかれたりでもしたら厄介です」  またもスピーカーから流れる大声。耳を離したまま男は回答する。 「ええ。今居場所の側に居るのですが。どうも面白いことが起こったようでしてね。どうも用心棒を雇ったらしい。中々に先見の明がおありなさる」  そう言ったときだけ、男の声にかすかに賞賛と皮肉の念が混じった。黙り込む電話の向こう。一転して何かを確認するように、低く押し殺した声が流れる。 「いえいえ。そんな大層なものではございません。ほんの子供なんですがね。子供だからと油断してかかれないのがこの業界の怖いところでございまして」  電話口の声が二言三言述べる。それに頷いて男は言った。 「いずれにせよ一週間もあれば果たせるかと。……はい。かしこまりました旦那様」  通話を切り、ポケットにしまう。その時、倉庫の方向から風が吹いた。まだわずかに残った桜を散らし、通りを抜けてゆく。風が運んできた桜の薫りを、男は鼻をひくつかせて、丹念に吸い込んだ。 「―――臭いは憶えた。もはや地の果てまで行っても逃げ切ることは出来ん」  男は、乾史とサブロウの消えていった通りの奥へと視線を転ずる。身につけた鎖のアクセサリーが、じゃらじゃらと音を立てた。その目線の先を、どこからか漂ってきた桜の花びらがかすめる。男はそれを愛でるようにしばし眺めると――――唐突に、その右の拳を振り抜いた。 「……はたしてどこまで頑張れるか。見せてもらおう、用心棒くん」  花びらが地面に落ちる。羽毛より軽いはずのそれは、真っ二つに切り裂かれていた。         ●5      この歓楽街には、仕事を求めて、あるいは野望を抱えて様々な国から人が流れ込んでくる。国際都市ならばどこでもそうだが、異国で裏社会に片足を突っ込んで暮らす彼らは、自然と互いに助け合うようになる。彼らは出身地ごとに縄張りを作り、困ったときには言葉のわかる先達が面倒を見、あるいはその恩返しにと協力する。良く言えば地域社会に根ざすということだし、悪く言えば、徒党を組むということだ。二人がたどり着いたのは、この街の裏通りの一つ、台湾系の人々が多く住む通りだった。一階にはいくつもの中華料理屋が店を出し、上の階には漢方医や鍼灸医が入っているらしく、繁体字の看板が頭上を埋め尽くしている。日本語を探す方がむしろ難しいくらいで、少し気を抜くとここが日本だということを忘れてしまいそうだった。その一角、小さなあまり綺麗とは言えない中華料理屋に、サブロウは迷わず入っていく。 「朱(チュウ)姐さん、おはようございます!」  中華料理と看板を出していても、書いてあるメニューは乾史には読めない。ラーメンもギョーザもねえのかよ、などと呟いていると、カウンターの奥から返事があった。 「おーサブくん、毎日ご苦労!!」  現れたのは、二十代後半とおぼしき、中華系の女性だった。ボリュームの多い髪を、いわゆるお団子状にまとめている。大きいが吊り気味の目と、一本通った鼻筋が、気の強さを象徴しているかのようだ。烏龍茶の宣伝に出てきそうな、細い腰と滑らかな肌。今は味気のないブルゾンを羽織っているが、チャイナドレスがさぞ似合うことだろう。 「ウチの連中も君くらい早起きだと助かんだけどね!昨日の夜のお仕事はどうだった?またオヤジをカモったワケ?あれ、その後ろの目つきの悪い子は?」  一気にまくし立てて、乾史の方を見つめる。いきなり自分に話を振られた乾史の眉が急角度に跳ね上がった。と、慌ててサブロウが割って入る。 「こちら犬神乾史さん。今日からあっしのボディーガードをしてもらうことになりました。アニキ、こちらがあっしが働かせてもらってるこの店の主人、朱姐さんでさあ」 「犬神?まさか、『狂犬』乾史?」  乾史に向ける朱の視線に、単一でないものが混じる。 「……ンだよ、何か文句あんのかよ」  飛ばされたガンつけにはとりあえず応じるのが乾史の流儀である。にらみ返すと、朱はすいと視線を外した。 「あ、うん、別にね。有名人がいきなり現れたんで少し驚いただけよ。アタシは淑娟(スーチェン)。朱(チュウ)淑娟。ここで弁当屋と、あとは医者みたいな事もやってるわ。よろしくね」  一転して、気さくに手を差し出す朱。そうなると別に喧嘩を売る理由もない。 「あー。ええと。犬神乾史だ。よろしく」  握手を交わすと、朱はサブロウに訪ねた。 「で、何?この乾史君も配達手伝ってくれるわけ?」 「配達?配達ってなんだよ」 「あ、いえ。アニキはあっしの用心棒なんでさあ。仕事はいつも通りあっしがやりやす」 「そうなの?そりゃ助かるわ〜。二人分のバイト代出せるほど、今ウチ余裕ないのよね」  からからと朱は笑うと、カウンターの奥からなにやら巨大なプラスチックの箱を三つほど引っ張り出してきた。 「そんじゃさっそく今日のノルマいってみようか!!ハイこれね」  ずん、とカウンターに置かれたそれに、乾史は見覚えがあった。 「もしかしてコレ…給食を運ぶときのあの箱か?」  それは小学校や中学校などで、大量の弁当を運ぶためのバットに、太いベルトがくくりつけられているものだった。それを見て、ようやく乾史にも、サブロウがやろうとしている仕事が何かわかった。 「弁当配達ってわけか」 「ええ。この街のあちこちで働いてる台湾系の人にお弁当を届けるんです。コンビニの飯は高ぇし、やっぱり中華料理を食わねぇとリキが入んねえって人も多くて」  そういう人に出来たての弁当を配って歩くのがサブロウの今の仕事なのだそうだ。皆、この通りからそう遠くない街のどこかで働いている。店の裏口やビルの三階などから弁当を手渡すには、原チャリや自転車よりも歩いて配ってしまう方が早いのだとか。 「離れたところにはちゃんと原チャリの人が向かってますけどね。朱姐さんの店はこの仕事始めてから随分繁盛したそうですよ」  乾史に説明する間にも、要領よくバットを固定し、ベルトを背中に回す。ちょうど駅弁を売る人の格好だったが、いかにもその姿は重そうである。 「お、おいおい。さすがにそりゃムチャなんじゃねえのか?」 「いえ…平気ッス…!毎日やってますから…!それじゃ行きましょうか、アニキ…!!」 「お、おう」  危なっかしげな、だが意外とバットを揺らさないように店の外に出て行くサブロウを追う乾史。 「十二時半までには帰ってきてね〜」  その二人を、朱は店の出口で見送った。遠ざかる二人のうち、乾史の方を見ながら、朱はしばらく腕組みをしてなにやら考え込んでいた。       「やっぱりオレが少し持ってやるよ」  ようやく正午が近づく頃。三つあった重いバットも、どうにか一つが片付いている。ただ単に近い人から配ればいいというものでもなく、それぞれの職場の昼飯の時間に合わせて配らなければならないため、同じ場所を行ったり来たりという事もままあるのだ。正午を過ぎれば皆が一斉に食事を取り始める。ここからの三十分が勝負所だった。 「いえいえ、いいんです。アニキは楽にしててくだせえ」 「そうは言ってもよお」  これほど重いバットを背負って歩き、あるいは階段を上り下りしながら、サブロウは一度も乾史に持ってくれとは言わなかった。しかし乾史としてみれば、自分より年下の相手が重い荷物を運んでいる横に、手ぶらでついて回るというのもどうにも居心地が悪い。 「平気っすから。おかまいなく」 「いや、けどよ……」  そんな押し問答が何度か続いたあと。 「アニキ。これはあっしの仕事でさあ。あっしにやらせて下せえ」  サブロウが物腰こそ柔らかだが、きっぱりと断った。 「助けてくれるのはホントうれしいんですが、あっしはこれで金をもらってやすから…手を抜くわけにはいかねえんでさ」 「……そうかよ」  今しがた弁当を配り終えた雑居ビルの階段を降りていくサブロウ。会話が途切れてしまったので、乾史は手持ちぶさたにポケットから百円を取り出すと、昨夜のように手のひらの上で弄び始めた。親指と人差し指でくるくると回してみたり、時には弾いてみたり。 「次はどこだっけか?」 「三軒先のクリーニング屋さんでさあ」  そう言って、ビルから出たとき。  乾史の頭上に、わずかに陽がかげった。 「アニキ、アブねえ!」 「あん?」  見上げて―――硬直する。古びた雑居ビルにぶら下がった、やはり古びた中国語の看板。春風に煽られて錆ついた金具が折れたのか、乾史に向けて、今まさに真っ直ぐに落下してくる最中だった。バットを抱えて動けないサブロウ。咄嗟、乾史はコインを握りしめ、猛然とジャンプ。 「うらぁぁぁあああ!!」  渾身の右ストレート。空中で放たれた拳に叩き飛ばされ、看板が垂直から水平へと軌道を変えて吹き飛ぶ。まるで一昔前のアクションゲームのような光景だった。通路向かいの電柱に看板が激突し、けたたましい金属音をまき散らす。 「ったく、いったい何だってんだ」  何事もなかったかのように手を払う乾史。派手な物音を聞いた住人達が顔を出すが、まさか彼らも、向かいの通路にいるこの少年が下手人とは思わなかったらしい。乾史はサブロウを促し、悠々と三軒先の目的地へと向かう。 「ツイてないっすね、アニキ」  それを聞いた乾史が横目で睨む。 「てえか、お前、昨日オレが助けに入る前にもからまれてたんだろ?ひょっとしてツイてないのはお前のせーじゃねーのか?」 「面目次第もありやせん……」  自覚するところがあったのだろうか、人差し指で頬をかきながらサブロウが苦笑した。と、改めて吹き飛んだ看板を見る。 「それにしても、改めて見るととんでもねえパンチですねぇ…。これが噂の、『コインで殴る』ってヤツですか?」  まあな、と乾史は気のない返事をした。      犬神乾史の強さはこの街で幅広く知られることになったが、それとともに一つの特徴も知られることになった。それは、彼が喧嘩の際に、必ずポケットからコインを取り出し、それを握りこむ、という事だった。 「百円玉をこう、ぐっと握ってな。思いっきりパンチをぶちかますんだ。拳が重くなるから威力も増えるってわけよ」  もっとも単純な物理で考えれば、打撃の威力は質量×速度ということになる。となれば、小銭を握りこんで拳の重さを増してやれば、それだけ単純にパンチの威力が増加するのは道理だ。乾史に限らず、街の不良がよく使う、お手軽な喧嘩テクニックの一つだった。  だが、もちろん小銭を握った程度で少年がプロレスラーを殴り飛ばせるようになるわけもない。どう理屈をこじつけたところで、乾史の力は、拳が重くなる云々で片付けられる話ではなかった。そして何より、説明できない事がある。握りこんだ硬貨は、手を開くと消えているのだ。どこに行ってしまうのかは、乾史にもわからない。     「そんな…。そりゃ普通の人間に出来るこっちゃねえですよ」  乾史の歩が止まった。 「もしかしてアニキ、超能力者かなんかじゃないですか?こう、この街でも結構噂聞くんですよ。ヤバイことが起きると出張ってくる、企業に雇われた凄腕の連中がいるって」 「さあな。んなヤツらのことは知らねぇよ」 「でもアニキ、百円玉を握ってそんだけスゲェ力が出せるんなら、五百円玉だとどうなるんですか?」  光を反射して鈍く輝く、銀色の硬貨。 「……この街でためしたことはねぇな」  ひしゃげた看板に背を向けてまた歩き出す乾史。その背中に、興奮した様子のサブロウが話しかけてくる。 「やっぱしコインが重い分割り増しになるんすかね。それとも単純に値段の分五倍のパワーとかだったりして。それなら気にいらねえ連中は百人いたってボコボコに、」 「うっせえ!!」  看板の落下音に匹敵するほどの怒声。サブロウがびっくりしたように立ち止まる。    拳に埋まった歯の欠片。朱い視界。銀色の月。  脅えきった羊たちの眼。そう、自分は最初からこの群れのイキモノではなかった。   「あ……すいません……」 「―――オレの力の理由は、別にどうでもいいだろ。それよりホレ、早く次に行かねぇと弁当がさめちまうぜ」 「あ、ヤベェ!もう時間がねえ」  慌てて早足で次の建物へと向かうサブロウ。犬神乾史は自分の掌をじっと見つめ……やがて、その後をついて歩き出した。暖かな正午。穏やかな春の風は街の様々な生活臭を乗せて、通りを吹き抜けてゆく。     「―――ふうん。よもやと思ったが…同族とはな」  もちろん乾史達は、その風の届かぬ場所、先ほど看板が落下してきたビルの上で、二人の様子を興味深げに見下ろす男のことなど、知る由もなかった。         ●6      結局、昼の配達が終わった後、ランチタイム後の皿洗い、夕方の仕込みまでサブロウは手伝っていた。乾史はと言えば、やることもないので近くのゲームセンターで古くさいシューティングゲームや、対戦格闘ゲームをやって時間を潰していた。ゲームをしている時は、乾史も年相応の中学生に見える。適当なところで切り上げた後、朱の店の裏口近くの地面に座り込んで、漠然と空を見ていた。建物で矩形に切り取られた、少しくすんだ青色の空。  ……もともと、行く学校もなければ帰る家もない。 「男を教えてくれ、かよ」  乾史は己の右掌を見る。先ほど握りこんだ百円玉は、いつもの通り跡形も無く消えて無くなっていた。乾史も、これがただの喧嘩テクニックなどで無いだろう事は、とうに気づいていた。だが。   ”じゃあ、なんなのか”    そこで思考を止める。それ以上先には踏み込んではいけない気がした。ポケットをまさぐる。そこから出てきたのは、いつもの百円玉ではなかった。もう一回り大きい金色。五百円玉だった。右手にとると、またもてあそび始める。 掌の上で踊る金色。あの時のはたしか、同じ五百円でも銀色のだったっけな……。握りしめようとする。    チカヨルナ、バケモノ  コナイデクレ、タノムカラ    ……掌が固まる。五百円玉は乾史に握られるのを拒絶するかのように、鎮座していた。 「何が男らしいか。オレなんかにわかるわけねえじゃねぇか……」       「はいおつかれさん!これ今日の日当」  陽も大分傾いたところで、朱が茶封筒を持ってやってきた。サブが礼を言い、丁寧に押し頂く。と、朱がなにやらサブロウと乾史を睨んでいる。 「な、なんすか?朱姐さん」 「サブぅ。アンタ最近、ちゃんと風呂入ってる?」  顔を近づけ、くんかくんかと匂いを嗅いだ。サブロウは思わず後ずさり、明後日の方向を向きながら答えた。 「いやその。最近は忙しかったんで、公園の水で洗ってるだけです」 「それで髪と肌にそんだけ艶があるんだから、アタシ以外の女が聞いたら嫉妬で発狂しそうね。若いってのはこれだから」  深々とため息をつく朱。そのうちいくら手を入れても追いつかなくなるのよ、などと些か不吉な発言をしつつ、朱は胸のポケットからチケットを二枚取り出した。 「うちの知り合いが経営してる、カプセルホテルのサウナのタダ券よ。どうせアタシは行く暇ないから、アンタと、そこの小汚いのと一緒にいっといで」  誰が小汚いだ、と激怒する乾史をスルーして、朱はサブロウの手元にチケットを押しつける。 「あんまし汚いヤツにうちの店に出入りされると困るしね」  ぱちりと片目を閉じて、サブロウの額を指で弾く。ありがとうございます、と丁重に礼を述べつつ、サブロウはぽそりと漏らした。 「でも、どうせなら現金で渡してくれた方が…」  風呂はその、あんまり好きじゃねえんで、などと口ごもる。じろりとひと睨み。 「カネで渡したらアンタ絶対ため込むだろ」  サブロウは反論出来なかった。 「とにかく風呂に行ってきなさい。でないと明日から出入り禁止だかんね」       「っは――――!やっぱ風呂は命の洗濯だねえ!」 「コラ坊主!風呂に飛び込むんじゃねぇ!」 「あっ、スイマセン…」  先に入っていたご老人に一喝されて、乾史は頭を下げた。手ぬぐいを畳んで頭に乗せて肩までつかる。そして、湯船の中で手足を思いっきり伸ばした。 「あ゛〜〜〜〜〜〜〜〜〜……」  後頭部あたりでどくどくと脈打つ己の血管を感じながら、乾史はとろんとした眼で天井を見上げた。駅の裏側、様々なホテルが建ち並ぶ一角。サウナ、大浴場を備えたカプセルホテルの中に、乾史達は居た。ちなみにこの下の階にはマッサージチェアとテレビ。さらに下がカプセルホテルとなっており、終電を逃したサラリーマンや、夜のお仕事に従事する人々の骨休めの場になっている。朱にもらったタダ券だと、この浴場とマッサージチェアだけが使える。ねぐらで飯を摂った二人はここで数日間の、文字通り垢を落としに来たのだった。 「んあぁおぁあ」  聞き取り不能のおめき声を発しながら、首をごきごきと鳴らす乾史。押しかけ用心棒の際にシャワーを使ったりしたこともあったが、風呂となると実に数ヶ月ぶりだった。ほどよく体が温まったところで一旦湯船から出る。入る前に一度体を流してはいたが、その程度では路地裏生活でこびりついた垢は落としきれるものではない。備え付けのタオルとボディソープを風呂桶に放り込み、垢の殲滅に向けて決然と洗い場に向かう。途中、打たせ湯に寄り道し、首筋と肩を打たせることしばし。胡座を組んで目を閉じるその様は、どう見ても人生に疲れた中年のオヤジさながらの仕草だった。 「って。お前何やってんだよそんな端っこで」 「あ、アニキ……」  見れば、洗い場の一番端の隅っこで、まだ湯船にも入らず体を洗っているサブロウが居た。妙にこそこそと人目を避けている風である。 「せっかく銭湯に来たんだからこう、でけぇ風呂でぐあーっと手足を伸ばすのがスジってもんだろおい」  打たせ湯から出て、のしのしと近づく乾史。 「あ、いえ。あっしは別に体さえ洗えればそれで」  なぜか後ずさる。濡れそぼった髪を振り乱しながら、とっさにタオルと両腕で体を隠す姿は何というかこう、第三者の視点では教育上大層よろしくない気がした。 「かー、まったく肝っ玉のちいせえヤツだな。小学生じゃあるめえし、今さら生えてるの生えてねえのでからかうような事するかい」 「いや、そういうんではなくってですね…!」  頭に血が昇っているせいか、普段よりなおテンション高く、乾史が絡む。一方必死に胸元と腹の下にタオルを巻き付けてもがくサブロウの姿は、ここが男湯でなければ通報ものの光景だった。 「ええーい、風呂場で前を隠すようなヤツに男が語れるか!ほれ脱げ、ぬーげ!」 「や、やめてくださいって…!」  完全に修学旅行中の中学生の悪ノリだった。ささやかな抵抗もむなしく、タオルは乾史の手にはぎ取られてしまった。 「かっかっか、じゃあ背中でも流してやろう……って、おい」  その手が急停止する。その視線が、ある一点に釘付けになっていた。 「何だよ、それ」 「あははは……。見られちまいやしたね……」  力なく笑うサブロウ。その白い背中には、いくつものミミズが這ったような疵痕が浮かび上がっていた。        この雑居ビルに入っているカプセルホテルのささやかなメリットは、最上階に位置しているということだった。浴場のおよそ四分の一、湯船の真上がガラス張りになっており、昼であれば空を見ながら湯につかることが出来る。しかしすでに陽が落ちた今は、ガラスは浴場が光を反射し、浴室から外を見ることは出来ない。体を洗い終えた乾史は、サブロウと並んで湯につかりながらぼんやりとガラスを見上げていた。天井に映った自分の間抜け面と眼が合って、なんとなく中指を立てて突きつけてやる。 「たいして珍しい話じゃあありやせん」  そう前置きして、サブロウはぽつぽつと口を開いた。 「あっしの両親は、あっしがまだガキの頃に死んじまったんでさ」  東京にほど近いとあるアパートで、父と母と、幼いサブロウは暮らしていたのだという。父はなかなか定職に就けず、不安定な日雇いの肉体労働の仕事で食いつないでいた。母親もパートで昼夜働いており、お世辞にも暮らしは裕福とは言えなかった。だが、それでも当時のサブロウは自分が生活に不自由していると感じたことはなかった。ごく普通に小学校に通い、近所の子供達とも仲が良く、物覚えの良いサブロウは両親の自慢だったという。だが、その幸せな生活は、ごく危ういバランスの上に積み上げられたものだった。ある日、父が仕事中に事故に遭い、亡くなった。まともに睡眠を取らずにきつい肉体労働をし続けた疲れによる、高所からの落下事故だった。そして、父が亡くなると、生活の負担は母に全てのしかかった。通常、こうした事態に備えてたとえば生命保険や公的な扶助という制度がある。だが、サブロウの両親は、なぜかそれらに加入したり、頼るということがなかった。以前にも増しての重労働に、母親が病気になり急逝するまで九ヶ月。今にして思えばずいぶんあっけないものでしたね、とサブロウは抑揚をつけずに言った。 「ちょっと待てよ。フツー、そこまでキツけりゃ誰かを頼るくらいはしてもいいんじゃねえのか。親戚とかいなかったのかよ」 「―――親戚、ね」  はは、とサブロウが乾いた笑みを漏らした。その口調と、いつもとは違う大人びた表情に、熱い湯船の中にもかかわらず、乾史の背中に冷たいものが走った。 「どうもね、ウチのお袋と、お袋の実家の仲があんまり良くなかったみたいでさあ。親父は親父で早いうちに親兄弟と死に別れてたみたいで。詳しくはわかりませんが、頼れる伝手はどうもなかったみたいですね」  両手を組んで湯船に沈め、握りこんで水鉄砲を飛ばす。 「あとはまあ、この街のガキには良く聞く話でさ。金無し、身よりも無し。これできちんとした施設に引き取られればまた違ってたんでしょうがね。あっしが入ったところが、これまたヒドイところで」 「ヒドイって……どんなだよ」 「昔はきちんとしたトコだったらしいんですが。ああ言うところは完全に閉鎖された世界なものでね。所長が代わったとたんに地獄になった、って施設の先輩は言ってましたよ。体罰だの説教だのっつう名目のストレス解消があちこちでされてまして。あっしなんかは集中的にヤラれたほうじゃねえですかねえ」  見ず知らずの他人の情報のようにサブロウは語った。 「じゃあ、背中のキズは、そん時に……」 「……施設の保育士に何人か変態ヤロウがいましてね。こっちが泣きわめくとよろこんでますます殴りつけてくるって手合いでさあ。悔しいから途中から意地でも声をあげないでやりましたけど」  ざまあみやがれっすよね、とサブロウが笑う。 「で、ある日とうとうあっしも忍耐の限界にキやしてね。保育士の股間を思いっきりけっ飛ばして、そのまま着の身着のままで脱走したんでさあ。いやあ、あれは気持ちのいいもんですねえ、自由を手に入れるってのは。そんでこの街に流れて来て、どうにかこうにかメシを食いつないでるってわけです」  良くある話でしょ、とサブロウは締めくくった。気安く相づちを打つことは乾史には出来なかった。二人とも無言のまま、蛇口からどばどばと流れ落ちるお湯を、たっぷり二分は眺めていただろうか。乾史はふと、自覚せぬままに口を開いていた。 「……でもよ、それじゃ」  きつくねえのかよ。金は足りるのかよ。この暮らしをいつまで続けるんだよ。接ぐべき言葉はいくらでも思いついていたのに。 「さみしくねえのかよ?」  気がつけば、そんなことを、聞いていた。サブロウは虚を突かれたように、二三度睫毛をしばたかせた。 「さみしくは、ありません」  呟く。その声は、小石のように小さく、頑なだった。 「アニキだって、そうやって一匹狼で生きてきたんでしょう?」 「それは、」  オレには力があったから。力があったから、一人で生きられた。力があったから、一人でしか。 「……それに、さみしさなんて感じてるヒマはありゃしません。こう見えても食い扶持稼ぐのに忙しいですしね。金が余ったら本を買いたいですし」 「本?」  乾史は今朝、サブロウのねぐらに積み上げられていた種々雑多な本を思い出した。 「もしかしてお前、アレ全部読んでるのか!?」 「はい。まあ、読んで何がどう、ってわけじゃないんですが……。でも、きちんと勉強して。高校は、今からじゃ無理かも知れませんが。大検をとって大学に行けたらって思ってやす」  サブロウは湯船につかったまま、上を見上げた。 「この街は、光が強すぎて。こうして野良犬みてえに地面を這いずっていると、何がキレイなものか、何があったけえもんかがわかんなくなっちまうんでさ。あっしもここに来てそんなに長えわけじゃありませんが。そういう、ちょっとキレイな光とか、見せかけの暖かさに飛びついて、ヒドイめにあった人を、随分見てきました」  愛してくれる人を求めてやってきた三つ年上の少女は、優しくしてくれた男にドラッグを教え込まれ、この街から姿を消した。一旗揚げようと海外からやってきた気のいい外国人の兄貴分が、ある日警察に連行されているのも見たのだ。 「星みてぇなもんでさ」  サブロウは天井を指さした。 「いまはガラスに光が反射して見えやしません。ここを出ても、今夜は曇りですから、多分見えないでしょう。でもだからと言って、星が消えてなくなっちまったわけじゃありやせん」  見上げたまま。その視線の先は、乾史の想像もつかないほど先を捉えているのだろうか。 「アニキ。たしかにあっしは、アニキみてえな強い力は持ってやしませんし、学校も小学校までしか行けやせんでした。でも、あっしはこの街で、なんとか自分だけの星をつかみてぇんです」  だから、今は自分の出来るところまで、昇ってみようと思っています。そうサブロウは言った。 「もう、あっしはオトナを頼るのはやめたんでさあ。アニキみたいな一匹狼にはなれねぇかも知れません。でも、ゴミを漁る野良犬だっていい。地べたをはいずり回っても辛くねえです。いつか、光を手に入れるまでは」  その言葉は、遠くを目指し、かつ、周りに何も近づけない。 「犬が星を見上げるのは、悪いことなんでしょうか」  乾史には、それに応える言葉がなかった。      ―――オレは。  何のためにこの地べたをはいずり回っているんだろう?       ●7      それから、二人の奇妙な共同生活が始まった。  午前から昼にかけては朱の店の配達と皿洗いを手伝い、夜は妖艶な少女サラに化けての美人局(つつもたせ)の真似事。そしてそれらを乾史がボディーガードする。実際のところ、乾史の仕事というものはほとんどなかった。そしてそれは、二人としてもありがたいことだった。すなわちそれは、『狂犬』乾史の名が、他のチンピラ達に恐れられているなによりの証だからだ。『狂犬』がサブロウに肩入れした。その情報は裏通りにさざ波のように広まり、サブロウは今までのように仕事中に他のチンピラから因縁をつけられると言うことが極端に少なくなった。乾史が側にいるだけで、厄介事の方が避けていってくれるのだ。まれにヤクザや、タチの悪い客に絡まれることもあったが、その時には乾史が存分に力を発揮した。たいていの相手は、直接殴るまでもなく、手近の石の一つも叩き割ってやれば素直に話が通った。ねぐらに戻れば、サブロウは熱心に自分のやりたい事を語った。ゆくゆくは何か自分で商売をしてみたい。そのためにももう少し色々なアルバイトを経験したい。金が貯まったら、もう少しいいところに引っ越したい。それに対して乾史が、じゃあお前料理が得意だから、食い物に関係した仕事をしろよ、そういやこないだ押しかけ用心棒をやったカラオケ屋の店長がバイトを探してた、などと答える―――そんな他愛のない会話。ゆるやかな時間が過ぎていった。台湾系の人々が根を下ろすこの街にも、四日、五日と経つうちに馴染んでいく乾史だった。 「じゃああっしはこのビルの中を配ってきちまいますんで」 「おうよ」  今日もサブロウは弁当の詰まったバットを抱えて、雑居ビルの中を昇っていく。この小さな雑居ビルの階段は狭く、バットを抱えたサブロウが通れるギリギリの幅だった。乾史は並んで歩けないので、表でまたいつものように百円玉を取り出してもてあそんでいる。もうこの光景も、いつしか珍しいものではなくなっていた。一昨日にはこの雑居ビルの中に入っている街金とも一悶着あったのだが、たまたま相手が乾史の顔を見知っていたこともあり穏便にすんだ。だからこのビルの中に関しては、乾史もサブロウも警戒を緩めていたのだが。 「へい、じゃあいつものように、食べ終わったら食器は出しておいて下せえ。また伺います。……はい。それじゃ」  バットを降ろし、ビル内の各店子へ弁当を配り終えたサブロウが共用廊下に出たとき。唐突にその腕をつかまれた。 「なに…」  完全に不意をつかれた。抵抗する間もなく、上方向に引っ張り上げられる。小さな共用廊下はそのまま階段に直結しており、上り階段に身を潜めていた誰かが待ち伏せていたのだった。階段を上に。ここは五階。これより上の階はない。薄暗い視界に光がさしたかと思うと、サブロウはコンクリートが剥き出しの屋上に転がり出ていた。 「痛ぅ……誰だよいきなり、」  そこまで口に出して、硬直する。気がつけば、サブロウは男達にずらりと取り囲まれていた。いずれもチンピラ特有のだらしない服装、卑屈な目線と、各々の手に握られた、角材、鉄パイプ、バイクのチェーン、メリケンサック、そして大振りのナイフ。人数は、サブロウを階段から無理矢理引っ張り上げたチンピラも含め、ちょうど十人。そのうちの二人ばかりに、不幸にもサブロウは見覚えがあった。 「ようサブロウ。一週間ぶりじゃねえか、アア!?」  顎に湿布を貼り付けた宇都木と蟹江。サバイバルナイフと鉄パイプを構えた二人が、脂ぎった復讐の光を目に浮かべ、こちらを見下ろしていたのだった。下り階段へと繋がる扉が、荒々しい音を立てて閉められる。立て付けが悪いのか、手荒な扱いに扉が甲高い抗議の声を上げた。その悲鳴を無視してチンピラ達が蹴りを叩き込む。耳障りな音を立てて、ようやく扉が閉まった。 「この扉は錆びててな。よっぽど力を入れねえと閉めらんねえし開けらんねえ」  宇都木の声に呼応して、蟹江が鉄パイプで扉をがんがんと叩く。 「わかるか、ンン?てめえはもうどうやっても逃げられねえって事だよ。下にいる犬神のヤロウが気づいても、もう、てめぇを助けには来れねえ」  復讐心渦巻くチンピラが仲間を連れて報復にやってきたとなれば、状況としては最悪の部類だ。だが、サブロウは宇都木の口上を危機ながら、引っ張られたのが弁当の入ったバットを降ろしていた時で本当に良かった、などとぼんやり考えていた。万一弁当をひっくり返しでもしたら、朱姐さんの雷が落ちることは間違いない。恐怖を感じるとすればむしろそちらの方だった。 「おいサブロウ、聞いてんのか、エエ!?」 「あの。あっしをボコにする分にはうまくいくでしょうが」 「あン!?」 「その後、下で待っている乾史のアニキはどうするつもりなんで?」 「―――あ」  考えていなかったらしい。何とも気まずい沈黙が場を支配してしまった。 「う、うっせぇ!!てめぇはまず自分の心配でもしやがれってんだボケェ!そうだ、来れたとしても、この人数と武器を相手に勝てるわけがねえ!!」 「いいや。勝てるぜ?」  横合いからかけられる声。それは、ここにいるはずのない、いてはいけないはずの少年の声だった。宇津木が安物のブリキ人形めいた動作で首を曲げる。 「ようサブ。オセエんでむかえに来たぜ」  屋上の塗装が禿げて錆びついた手すりに、犬神乾史がもたれかかっていた。 「早くしねーと、おばはんがまたキレるぜ」 「いやむしろ、その呼び方のほうがマジギレされますよアニキ」 「バーカ、本人の前で言うかよ」  にやりと笑う乾史。それを唖然と見つめる宇都木の表情は、まさしく蜂に刺された猿といった態。 「どど、ど、どうやってここに来やがった!?五階だぞ?入り口はないんだぞ?オイ?」 「ああ。このくらいならジャンプすれば届くぜ」  冗談、を言っている表情ではなかった。宇都木が眼を剥く。あり得るはずがない。五階の屋上となれば、単純な高さで二十メートル近くになる。そんなもの棒高跳びの金メダリストにだって無理な話だ。きっとそうだ、何かトリックをしかけたに違いない。かたや乾史はといえば、宇都木と会話をするのも面倒くさいと言った調子で、自分を取り囲んだ凶器と凶漢の群れを見渡して言った。 「……で。話をもどすけどよ。そんなんでマジでオレに勝てるつもりかよ?」  今さらに思い出す。ドスを持ったヤクザ十人をのした伝説。そして、コイツはいまどうやってここに昇ってきた?様々な考えが脳裏でうずまく。が、結局宇都木は、考えることを止め、己の常識にささやかな期待を上乗せして判断を下した。 「……ハッタリだ!やっちまえ!!」  武器を持った十人が、一斉に殺到する。    百円玉を握る。  血がたぎる。たちまち研ぎ澄まされていく感覚。チンピラどもの動きがスローモーションに感じられた。後は単純だ。まずは手前、角材を振りかぶっている男の顔面に右で一発、そのまま突進の勢いを殺さず、鉄パイプを持っている男にすれ違いざまに顔を引っかけるように左でフックをお見舞い、そのまま突進を止めることなく、終点の位置にいたナイフを構えた男に、飛び蹴りをたたき込みつつブレーキとする。  ここまででワンアクション。これをチンピラ達の時間軸に立って言うなら、”暴風が通り過ぎた瞬間三人が宙に舞った”とでも形容するよりない光景だった。 「あと、七人」  拳を突き出し乾史が宣告する。宇都木と蟹江はともかくとして、他の五人は初めて異様なまでの乾史の強さを見せつけられ、明らかにたじろいだ。この時点で勝敗は決したも同然だった。車のギアと同じだ。喧嘩の勢いは、一度止まってしまったらそこから再度加速させるのは容易ではない。乾史が腰の退けたチンピラ達の中央に、炸裂弾のように飛び込む。右手と左手で、それぞれチンピラの襟元をむんずと掴むと、胸元に思いっきり引き寄せた。チンピラ同士の頭が高速で衝突し、硬質の音が一つ。二人が完全に昏倒する。そのまま持ち上げ、二人を左右それぞれへ突き飛ばす。人間離れした力で突き飛ばされたチンピラは、仲間を抱き込み、屋上の手すりまで吹っ飛んだ。下敷きになったチンピラが頭を打って昏倒。 「わあああああ!!」  やぶれかぶれにチェーンを振り回すチンピラ。その懐にあっさりと踏み込んで右フック一閃、沈黙。これで五人。 「あと、二人」  宇都木と蟹江の顔が恐怖に引きつる。反射的に逃げ出そうとし辺りを見回し……ここに逃げ場が無かったことを思い出した。 「おめーらがここを選んだんだからな。ジゴージトクってヤツだぜ」 「こんのクソガキいい!!」  吠える蟹江、突進。ひらりと身をかわす乾史。勢い余ってたたらを踏む蟹江。振り返ってみたものは―――視界の下端すれすれに、潜り込んだ乾史の顔。 「…………!!」  たわめられた仕掛けバネが跳ね上がるような、激烈な下からのボディーブロー。一瞬、八十キロを越える蟹江が宙に浮いた。引き抜かれる拳。腹を抱えて、気絶も出来ず悶絶する蟹江。 「犬神ィィィイ!」  サバイバルナイフを両手で構え、宇都木が雄叫びを上げる。しかし哀れにも、その下半身は持ち主を裏切り腰くだけ。ぶるぶると震える、なんとも無様な姿だった。 「てめーにひとつ言っておく」  コインを握った右拳を左掌に打ち鳴らし、のしのしと乾史が近づく。 「今後、如月佐武朗にちょっかいかけるヤツは―――」  来るな、来るなとめったやたらにナイフを振り回す宇都木。距離が近づくにつれ、ナイフの速度が上がり軌道が乱雑になる。そして、堤防が切れるように、パニックが宇都木を支配した。 「―――ヤクザチンピラかかわらず、まずこの犬神乾史に話を通しな」  撃ち込まれる右ストレート。綺麗に顔の下半分を直撃した拳に前歯と鼻骨を粉砕され、宇都木は完全に沈黙した。      打ちっ放しのコンクリートに、錆びた手すり。そこにバラエティに富んだ格好で均等にばらまかれたチンピラ達の姿は、上空からなら前衛的なアートと解釈出来なくもなかった。 「これでようやく用心棒らしいハタラキが出来たってもんだぜ」  ああくそ、でも帰りは飛び降りるってわけにはいかねえな、などとと呟く。 「ありがとうございましたアニキ」 「いいさ、これがケイヤクだかんな」  そういいつつポケットに手を突っ込んで、一つ舌打ち。 「ああ、百円がもう少なくなってきちまった……なあ、持ってねえか?」 「え、急にそんなこと言われても」  慌てて紐付きがま口を取り出し確認する。だがそこには運悪く百円玉は入ってなかった。 「あの、これしかないんスけど……」  サブロウが手を出す。そこに乗っていたのは、五百円玉だった。しかもすでに普及した金色ではなく、二十世紀の遺物、古くさい銀色のそれだった。 「ああ、そっちの方かよ……」    ―――ああ。まるで―――    かすかによぎる記憶を、頭を振って追い出す。 「……ま、いいさ。お茶の一つも買えば百円にリョーガエできるしな。じゃあ行こうぜ、サブ」  無造作にノブを掴んで回す。歪んだ扉は澄んだ金属音を立てて、いともたやすく開いた。 「さっさとカタづけねえと、本当におばはんがキレちまうぜ……って、なんだ?」  振り返ると、サブロウがぽかんとした表情で突っ立っていた。 「……いえ。アニキに名前を呼ばれたのは初めてだったモンで」 「そうだったか?」  確かに事実だった。それまではずっと”お前”や”おい”で通してきていた。 「あー。あのおばはんがサブサブ呼んでいたんでつい、な。サブロウでないとイヤだったか?」  よくよく考えれば、当人の口調とも相まって、いかにも三下のような呼び方である。だがサブロウはぶんぶんと首を横に振った。 「サブでいいっス。なんていうかその。……よろしくお願いします、アニキ」 「ん、よろしくな、サブ」  わざとぞんざいを装ってサブロウに答えると、五百円玉を懐にしまい、乾史は階下へと向かった。口に出す必要はない。だが今の乾史は、妙に気分が浮き立っていた。だがそれが己の仕事を果たした達成感だという事に、まだ気づいてはいなかった。      ―――そう。ここでなら。  オレも新しい何かを、つかめるのかも知れねえ。             「ひくひょう、ひくひょうあのガキ…!!」  ぼたぼたと流れ出る鼻血を押さえながら、宇都木は薄暗い裏通りをよろよろと壁伝いに這い回った。その後ろでは、腹を拳で撃ち抜かれて、ろくに呼吸も出来ない蟹江が中腰のままよろよろとついてきている。かき集めた仲間は皆逃げ散ってしまったか、まだあのビルの屋上で気絶したままだった。何もかも終わりだった。チンピラ社会では、実力以上にハクがものを言う。ガキ一人に集団で武器まで使って負けたとなれば、宇都木達のハクは完全に消え失せる。そうなれば、今度は彼らがカモにされる側にまわるのだ。もうこの街にはいられなかった。 「ゆるはへぇ…、ゆるはへぇふぉ…!!」  陳腐な、だがそれゆえに深刻な呪いの言葉を紡ぎながらのたうちまわる宇都木。その傍らに、足音もなく一人の男が立っていた。 「へめぇは……」 「ご苦労様。これが所定のアルバイト代だ」  その男、異様に長い手足を持ち、執事のような服に鎖と髑髏を模したアクセサリーを身につけた若者は、ごく穏やかな表情で、茶封筒に入った紙幣を宇都木に差し出した。それを見上げた宇都木の目に憎悪が満ちる。鼻血をぬぐった。前歯の無い口から苦労して発音する。 「てめぇ……。よくもだましやがったな、こうなることがわかってやがったんだろう」  執事姿の男は、さも心外だと言わんばかりに、長い腕を掲げてみせた。 「何も嘘は言っていないつもりだが。生意気な子供を十人がかりで痛めつけてくれたら、日当でまとめて十万円を払う。人間としての最低限のプライドにさえ目をつむれば、充分に過ぎるアルバイトだと思うがね?」  要らんか?という仕草でひらひらと封筒を振る。宇都木が反応しないと見ると、ため息をついて封筒を懐にしまい込む。 「まさか、腕っ節を持って鳴る諸兄が、子供一人に返り討ちに遭うなどという可能性は考慮してなどいないさ」  男の表情はあくまで涼やかだ。慇懃無礼、という言葉を具現化したようなその佇まい。その表情は、もともと感情の沸点が低かった宇都木を逆上させるのに充分すぎた。 「コケに……しやがって……!!」  目が据わった。もはや鼻血をぬぐおうともせず、再び巨大なサバイバルナイフを抜き払う。 「おや、まだ何か用かね?」 「うっせえ!こちとらてめえをボコにしねえと気がおさまらねえんだよ!蟹江!!」  執事姿の男の背中に飛ばす。見れば、蟹江も鉄パイプを構えて男の後ろに回り込んでいた。どうも挟み撃ちがこの二人の常套パターンのようだ。 「どうせてめぇもワケありなんだろ?となりゃあこんな十万ぽっちじゃあ全然足りねぇな」  ナイフを構えたことで、またも強気になったのか。宇都木が言う。 「この際だ、有り金ぜんぶ出してもらうぜ、アア?」  男は、頭を軽く掻き、次に大きくため息。そして、はたと手を打った。ここにいたってようやく宇都木の言いたいことを理解した、と言わんばかりのジェスチャーである。 「なるほど!それで俺に一人で喧嘩を売ろうと言うわけだな」 「あぁ?馬鹿かてめぇ。こっちは二人がかりだろうが!?後ろにもいるんだよ!」 「どこに?」  気のない男の返事。そこで初めて宇都木は気がついた。蟹江の様子がおかしいことに。 「あ……蟹江?」  蟹江の顔が、へこんでいた。  凹(へこ)む、という字形の通りに。顔が陥没していたのだ。男の声が引き金になったかのように、蟹江はそこでようやく、鉄パイプを取り落としアスファルトに倒れ伏した。うつぶせになった顔を中心に、流血の小さな池が生まれていく。 「ひ……ひぃっ!てめぇ、蟹江に何をしやがったんだ!」  宇都木はナイフを構え、る事が出来なかった。つい先ほどまでこの手にしかと握っていたはずのサバイバルナイフ。それが瞬きする間に、その手からはね飛ばされてしまったのだ。 「ああ。やっぱり俺はお前らみたいなのを相手にしてる方が性に合ってるな」  男の態度が変化していた。今までの慇懃無礼な執事のそれとは明らかに違う、獰猛極まりない表情。 「一言、人生の数年ばかりの先輩として説教垂れておくとだな、お前。もう少し相手を観察する眼と鼻を養った方がいい。弱いなら弱いなりに、牙を剥いていい相手かどうかを見分けられるようにならんと、チンピラもつとまらんぜ」  見れば、男の左手には、今まで宇都木が構えていたはずのナイフが奪い取られている。ここでようやく宇都木は理解した。それまでは、野良犬が血統書付きの坊ちゃんに噛みついたつもりだった。だが、事実は。血統書付きは確かだが、相手は選りすぐられた軍用犬だったのだ。 「ま、お前の方からかかってきてくれて正直ありがたい。大切な親族に傷をつけたお前達にも制裁を加えてくれ、てのがうちのワガママな依頼主の意向でな。さりとて仮にも一般人への暴行は認められないし。どう折り合いをつけたものかと悩んでいたのだが―――これで正当防衛。遠慮もいらない」  宇都木には男の言っていることの半分も理解できなかったが、今言うべき言葉は、本能的に理解していた。 「ごめんなさい!ごめんなさい!許してくださ―――」  目の前で何かが弾ける。そこで意識が途切れたのは、宇都木にとってささやかな幸福だっただろう。       「………もしもし。ふむ、麻生さんと話すのも久しぶりですな。氷の如く美しい声も変わりなく重畳。今度食事でもいかがですかね?…………は、はは、ははは。相変わらず手厳しさ極まりなしですか。……ふむ。やはりヒットしましたか。では、情報をいつものようにメールで送ってくれると助かります。ああ、それではよろしく」  携帯電話をたたんで懐にしまう。そこで男は己の拳についた返り血に気がついた。胸元のハンカチを取り出そうとして考え直し、ポケットティッシュで無造作に拭き取り捨てる。 「さて、情報は揃い、戦力も量れた」  表通りに抜けた男は、ネオンの光を浴びながら、鋭い眼光を通りの向こうへと向けた。 「観察は終了。狩りを始めよう」         ●8      その日は土曜日だった。  あいにくと空は雲に覆われていたが、春の陽気は充分に辺りを暖め、街行く人々の顔も心なしかのんびりとしているようだ。夜になればどこからともなく怪しげな人々が集まってくるこの街も、昼はごくごく普通の繁華街の顔を見せている。休日と言うこともあり、喫茶店はオープンテラスを展開し、アイスクリームやクレープの移動店舗が陽気な音楽と甘い匂いをあたりに振りまく。ストリートミュージシャンや大道芸人が鍛えた一芸を披露する間を、何人もの親子連れやカップルが流れてゆく。この世に不条理なことが無数にあることなど忘れてしまいそうな、穏やかなひとときだった。 「しっかしわかんねーな。そんな本がホントに欲しかったのかよ?」  その通りを流れる人々の中に、乾史とサブロウの姿もあった。サブロウはといえば、『中古本ならブックバザール!!』なるコピーの入ったビニール袋を大事そうに抱えている。 「ええもう。特売コーナーにあったのは前々から知ってたんですが。いつ他のヤツに買われちまうんじゃねえかと冷や冷やしてやしたぜ」  抱えた袋から垣間見えるのは、『貿易立国論』とやらいう小難しい本だった。なんでも聞くところによると、普通に買えば一万円近くするらしく、この本を古書店で購入するためにサブロウは金を少しずつ貯め込んできたらしい。乾史にしてみれば、こんなクソ重くて字が多い本、百円で売っていてもとても買おうとは思えなかったのだが。サブロウは余程読みたかったらしく、袋を空けてしまい、時々表紙を眺めてながら通りを歩いている。乾史はといえば、手持ちの少ない金を奮発して大振りのフランクフルトを買ったはいいものの、迂闊にもケチャップではなくマスタードソースをつけてしまったのだった。おそるおそる舌を近づけては辛さに引っ込めるという無様をさらしている。  朱が弁当配達の仕事に休みをくれたため、やることのない二人はこうして午後の街に繰り出してきたのだった。二人とも派手に遊べるような金はなかったのだが、ゲームセンターで乾史が得意のシューティングゲームを披露したり。 「アニキ、もう残りの機体がねえじゃねえっすか!」 「ばっかやろう、ここからだぜここから。ノーコインノーライフノーボム、ここまで追い込まれればよ、あとは気合い避けだぜ!おおお!シューティングの神が降りてくるぜぇぇぇええっ!!」  そして、サブロウが地元の人間しか知らないような穴場をいくつも紹介したりする。それなりに楽しい一日。五時間ほどがあっというまに過ぎてしまい、陽の傾き始めた街を、ねぐらへととって返す。派手な看板が姿を消し、古びた廃倉庫が姿を現した。すでに夕飯の材料も買い込んである。あとはいつものように自炊を済ませ、明日に備えて眠るなり、買ってきた本を読むなりすればいい。それで今日という一日は、どちらかといえば幸せな領域に分類されて終わる。      その、はずだった。  ねぐらで待ち伏せていた、その男に遭遇するまでは。       「お迎えに上がりました、佐武朗様」  その男、異様に長い手足を持ち、執事のような服に鎖と髑髏を模したアクセサリーを身につけた若者は、ごく穏やかな表情で、サブロウのねぐらである廃倉庫の中にたたずんでいる。いくら廃倉庫とは言え、仮にもねぐらだ。オモチャと大差ない安物とは言え、鍵もかけていたしそれなりに警戒もしていた。だというのにこの男は、まるでここが馴染みある自分の庭であるかのように、至極当然に居座っていた。 「……まさ、か」  かすれたサブロウの声。 「なんだテメェは!?」  反射的に乾史が吠え、前に一歩進み出る。だが男は、乾史には一瞥すらくれることすらなく、作法に従いサブロウへ向けて優雅に一礼する。 「テメェ、シカトこいてんじゃねえよ!?」  男の露骨な悪意に、たちまち乾史の感情が沸騰する。男はわざとらしく、そこでようやく乾史に気づいた風を装い、鉛色の眼を向けた。 「ふん。―――では言葉を返してやろう。貴様こそ何者だ?そこにいる方は、貴様のような浮浪児が気安く声をかけていい人ではないぞ」 「あ?」  思わぬ言葉に、怒りの方向をそがれる。男は腕を組み乾史を見下ろす。自らの発した言葉の影響を楽しむかのごとく。 「そちらのお方の名前はな。曾我部(そかべ)佐武朗様とおっしゃるのだ。伝統ある華族にして、貿易で財をなした曾我部家に名を連ねる一員。貴様ごとき雑種とは、血統からして違うのだよ」  そう告げた。サブロウ……時にサラという名を使い、如月佐武朗と名乗り、今またサブとも呼ばれる少年は、男の言葉を否定するでもなく、ただ立っている。乾史はといえば、あまりの突拍子のない台詞に頭がついていかず、呆気にとられたままだった。 「そういう貴方は誰なんです?一方的に人の素性を語るとは無礼でしょう」 「おい……サブ!?」  乾史は思わず振り返った。確かに言葉はサブロウのものだった。いつぞやの銭湯で一度だけ聞いた、ぞっとするほど冷たい声に、聞いたこともない口調。 「これはこれは。大変失礼いたしました。私はね、しがない派遣社員ですよ。雇われ執事をやっております」  雇われ者で執事というのも妙な話ですがね、と男は自嘲げに唇をゆがめた。 「新規ビジネスでして。高貴なお家柄の方々の、手足となる人材を育成し派遣する。そういったお仕事でございます」  横で聞いている乾史にはさっぱりわからない言葉をずらずらと並べ立てる。 「まあ、そんなことはどうでも宜しい。私は今、貴方の伯父君の元に出向しておりましてね。そのご意向で、佐武朗様にはご実家にお帰り頂きたいとのことでございます」 「―――実家、だって?」  サブロウの喉から声が漏れる。 「今さらあなた達が、どの顔をして”実家”なんて言えるんですか。如月の父が死んだ後、母が頭を下げて援助を求めにいったとき……あなた達がなんと言ったのか。こちらが都合良く忘れたとでも思ったんですか!?」  いつもの三下を気取った言葉が鳴りを潜め、良家の子弟めいた口調になっている。こちらが素なのか。だがその語調は、丁寧になることで弱められることはなく、むしろ鋭さを増したかに思えた。 「援助が与えられないというだけならまだ仕方がありません。母が家を出たのは母自身の選択でしょうし、僕だってその程度がわからない程子供ではありません。でもあなた達のしたことは……!!」  あちこちに手を回して、父が職に就くことを妨害したり、公的な支援すら受けられないように仕組んだんじゃないですか、と。腹の奥に眠っていた灼熱の怒気を吐きかけるように、サブロウは吠えた。他方、吐きかけられた側の男は、動じた様子もなく淡々と言葉を続ける。 「状況が変わったのですよ。お母君を勘当なさり決して許さなかった祖父君は昨年他界されました。今のご当主は貴俊様、あなたの母君の兄……伯父君にあたるお方です。貴俊様は祖父君のなさった事を悔やんで居られます。貴方を正式な親族として、曾我部の家に迎えたいとの仰せなのです」  口調はあくまで丁寧に。その実、否定の言葉など口にさせぬ雰囲気。 「冗談は止めてください。僕は生まれてから一度も自分を曾我部だと名乗ったことはないし、思ったこともない。僕にとって曾我部は、両親の仇でしかない。僕は如月。如月佐武朗だ」  男の重圧に屈することなく決然と言い放つ。その顔を見て、男は丁重な表情を崩さぬまま、肩をすくめるという器用なことをやってのけた。 「おっしゃることはごもっともですな。ですがご理解いただきたい。我々とて殊更に貴方の苦境を知らぬ振りをしていたわけではないのです。何しろ祖父君がご逝去されるまで、曾我部の家で貴方について言及する事は、完全な禁忌とされていたのですから。貴方の施設での様子や、以後この街で生活している事については、この私が二週間ほど突貫で調べて、ようやく突き止めた事実なのですよ」  いや我ながら骨の折れる作業でしたよ、と男は軽薄な笑みを浮かべた。 「一言、立場を抜きにして述べさせてもらいますとね。貴方のその歳での用心深さとカンの良さは大したものです。この街に流れてきた事はすぐにわかったのですが、それからが難渋を極めました。流氓(リュウマン)まがいとは言え、さすがに中華系の連帯は堅い。ようやく弁当配達のサブロウ少年と、美人局の少女サラと、この廃倉庫に住み着いた少年が同一人物だと特定してみれば、タッチの差で用心棒を雇っていたと来たものですからね」  そこでようやく、男の視線が乾史に向く。 「なるべく事を荒立てたくはないのですが。伯父君は非常に気ぜわしいお方でして」  手首と胸元のアクセサリーがじゃらり、と鳴った。 「なんとしても本日中に連れ帰るように、とのご指示なのですよ」  両腕を広げ、男が歩み寄る。異様な長い腕がまるで翼のように広がり、視界を全て覆い尽くされてしまうのではないか、という錯覚がサブロウを襲った。 「なんと言われても。貴方について行く気はありません」  言いつつも本能的に数歩後ずさる。宇都木や蟹江に脅しをかけられた時とはまったく違った。小手先で切り抜けられるような相手では……断じて、ない。 「ちょっと待ちな」  横合いからかけられる声。犬神乾史が男とサブロウの間に割って入った。背中にかばい、真っ向から執事姿の男と向き合う。小柄な乾史と長身の男では頭一つ分以上身長が違うため、必然的に見上げる形になった。 「サブロウ」 「は、はい」 「オレはおめーの親の事がどうとかよくわかんねえけどよ。コイツにはついて行きたくねえんだろ?」  サブロウにしてみれば、答えは一つしかない。 「ついて行きたくはありません、けど」  今までこの街を生き抜いてきたサブロウの直感が、自分でも信じられない警告を出していた。この男と乾史が戦えば、それは、 「アニキ、あいつは―――」 「そうか」  だが乾史にとっては、その答えを聞ければ充分だった。如月佐武朗にちょっかいをかけたければ、まずこの犬神乾史に話を通せ。それが今の乾史の行動基準。立てたばかりの己のルールに従うだけのことだった。 「ならコイツは、おめーの敵だな」  ポケットから、いつものように百円玉を取り出し。 「この犬神乾史が、用心棒としててめえをぶちのめしてやんぜ」  握りしめて、両の拳を打ち鳴らした。わずかに腰を落とし、いつでも縦横に動ける体勢を取った。だが、男は乾史の殺気に反応すらしない。それどころか、その様をまじまじと見つめ、 「ぷっ……!」  唐突に吹き出した。 「くっく、あっはっはっはっはははははは!!」  男は、実に愉快といった態で、腹まで抱えて大笑いをし始めた。 「君が?私を?ぶちのめす?」  いちいち乾史と自分を指さし確認までして、その度にまた爆笑する。呼吸困難すら起こしかねない勢いだった。 「面白い冗談だな。うっくく、実に、っはは、面白い」 「この街のヤクザ達もはじめはそう言ったぜ」  そんな笑いも意に介さず不敵に呟く乾史。今までの実績が、その自信を支えていた。 「でもオレのパンチを食らった後で、同じ事を言えたヤツはいなかったな」 「そうかそうか。ああおかしい。ではやってみたまえ」  乾史は右の拳を引き、左足へわずかに重心を乗せる。自分の得意技、一気に飛び込んでの右フックで、あのひょろ長い男のふざけた笑いを粉砕してやる。これまでに何度も繰り返したことを、今度もやるだけの事だ。 「後悔すんなよ」  言い終えるときには、すでに動いている。残像すら振りちぎる勢いで左足を踏み抜き、二メートルの距離を一瞬でゼロにし、そのへらへら笑っているツラを横殴りのフックで確かに撃ち抜いた。その、はずだった。    ……え?    コンマ01秒にも見たぬ間隔。だが乾史は感じた。己の拳が、虚しく空を切る、初めての感触を。乾史の拳を立方体に見立てると、その高さは五センチ弱。その五センチだけ、男は上半身を後ろに逸らし、こいつ、オレのフックを、  認識→違和感→驚愕/遮断=紫電一閃。    ―――思考を全部刈り取られた。  側頭部が爆発したかと思うほどの凄まじい衝撃。激痛を痛みと認識するより早く視神経がエラーを吐き出し、網膜を極彩色で一瞬に染め上げた。何をされたのか、そんな上等な認識に至る間もなく乾史は真横に吹き飛び、壁に叩きつけられた。おかしい、なぜ壁がコンクリート、否、真横ではない。叩きつけられたは地面。おかしいのは乾史の三半規管の方だった。無様にごろごろと転がること四回。ここでようやく、乾史は自分がどうやらダメージを受けたらしいと認識することが出来た。 「あ………が……?」 「あ、アニキ!?」  サブロウの悲鳴が飛ぶ。”殴りかかったと思った次の瞬間に、まるでダンプカーにはねられたかのように恐ろしい勢いで乾史が地面に転がっていた”。それがサブロウの認識だ。この場にいる三人で、今何が起こったかを正確に知るものは一人しかいない。 「実に粗雑だな。右フックを打つぞ、と全身で宣言してからの単純な攻撃。動作はぎこちなく身体の連携はバラバラ、軌道はわざわざ遠回り。これではカウンターを合わせるなと言う方が難しいのではないかね?」  男がヒラヒラと細長い腕を振る。となると、先ほどの一撃、乾史は殴られたのだろうか。男の腕に合わせて、身につけた鎖がじゃらじゃらと鳴った。 「一言、フォローを入れておいてやるとな。君のスピードは常人の域をはるかに振り切っている。街中での喧嘩であれば、格闘技のプロであろうと、おいそれと対処することは出来まいよ」  上から降り注ぐ声。男の表情は無感情と思えるほどに冷たい。もはや先ほどまでの爆笑の演技など、欠片も残っていなかった。 「だが、それも常人相手であれば、の事だ。同じスピードを持つ者からしてみれば、ただの素人が腕を振り回しているだけに過ぎん」 「同じ、スピード……だって?」  ようやく乾史が身を起こす。だがその膝は、まるで他人のもののように頼りなかった。 「そうそう。名乗るのをすっかり忘れていたよ。しがない雇われ執事。もう少し詳しく述べれば、人材派遣会社CCC、執事派遣部門所属の異能力者、という事になる」  にぃ、と。男の細い唇が左右に引かれ、牙のごとき犬歯が剥き出しになる。 「私のことはそうさな、『魔犬(バスカヴィル)』とでも呼んでくれたまえ」 「いのう……なに?」  自らを『魔犬』と名乗った男は、それには答えず、わずかに右の踵を浮かせると、だらりと垂らした手を握り、ゆるやかに顎と眼の位置に掲げた。そう、それはボクシングのファイティング・ポーズ。数ある戦闘技術の中でも、最速に部類される動きを持つスキルだった。 「それで。私をどうにかするんだったかね?」  『魔犬』の冷たい声が、廃倉庫に響き渡った。         ●9      左のこめかみが、ずきずきと疼く。震える己の膝に力を入れて拳を構える乾史は、だが深刻な自問をせざるを得なかった。 (……オレは、今何をされたんだ?)  本当に綺麗に決まった一撃は、被害者当人には認識できないことがままある。乾史はこれほど派手に叩きつけられてなお、『魔犬』とやらに何をされたのか理解出来ていなかった。殴られた、のか。オレは殴られたのか。    ドウシタ、ナグリカエシテミロヨ、マケイヌケンシ    淵から浮かび上がりそうになる記憶―――両の拳を掲げ、つまらない追憶を沈める。さっきのはまぐれに違いねえ、他人がオレの速さについてこれるわけがない。先ほどよりは慎重に接近。構えたまま微動だにしない『魔犬』。ギリギリまで近づいて。一気に跳躍!渾身のキックでヤロウの体を蹴/遮断=閃光。 「ぐ!?」  認識不能=被弾?/驚愕=地面に転がっている自分。慌てて起き上がり、そこでようやく、じんじんと右頬に痛みが走っていることに気づいた。 「て、てめえ、今何を…?」  頬が腫れてくる。二度目の転倒。疑問が自然に口をついた。 「……一つ。基本の基本をレクチャーをしてやろう」  答える、『魔犬』。その左腕が、拳を握ったまま伸ばされていた。槍めいた異様な長さ。 「ベースとなるスピードが同値であれば、あとは軌道(モーション)が効率的な方が早い。至極当然の理由だ。相手に予測されないよう、予備動作まで消しきればなお良し。様々な格闘技で”最速の一撃”が研究されてきたがね。これに勝るものはなかった」  『魔犬』が伸ばしたままの左腕を誇示する。 「ベーシックにして、最速の拳技。それがボクシングの左ジャブ」  たん、たん、たん、と。『魔犬』の爪先が軽やかな跳躍を刻み始める。そのステップが、 「これに練達すると、」  上下から前へと方向を変えた瞬間。それは来た。  明滅する閃光/もしくは巨大な爆竹。外科医じみた的確・高速六連打/全弾顔面。  軽いが高速極まりない六撃。頬と顔面をはたかれ、乾史の口腔の空気が漏れ出る。 「あぱっ……!?」 「……とまあ、このように。わかっていても回避の出来ない攻撃となるわけだ」  顔面を叩かれると、人間は本能的に怯み。そして、激怒する。無様に頬を張られた乾史は、たちまちに屈辱を爆発させた。 「ちまちまと……ウットお、しいんだよテメェ!!」  腫れ始めた唇で叫ぶ。殴りかかるは左拳。だがそのストレートから、『魔犬』は一歩ステップバックするだけであっさりと逃れる。憫笑。腕を振り終えてしまった乾史の間合いに、鮮やかにステップイン。 「違う違う、そうじゃない。こう、腋を締めて力を抜いた状態から―――素早く!」  左拳が閃く/被弾→被弾。ヤツの拳から何かが飛び散る/オレの血?  今さらに認識する。頬=青痣。唇=裂傷。鼻=出血。顔面への殴打は容易に出血する。 「おおおおぉぉ!!」  がむしゃらな攻撃。突進しながらの右フック、左フック、右フック。その全てを、『魔犬』は円を描くように三回のステップバックで捌き。 「レクチャー2。そうしてジャブで相手を牽制しつつ距離を測り。隙を捉えたら素早く体重を乗せて―――」  左、左。二発の閃光の後に、それは来た/轟音=鉄柱による串刺?/認識=判明、”顔面を思いっきりぶん殴られてオレはぶっ倒れた”。 「これ。右ストレートを決める」  壁際まですっ飛ぶ乾史を見やり、『魔犬』は悠々と己の右腕を掲げた。 「アニキ、アニキ大丈夫ですか!?」  サブロウがようやく声をかける。バケモノめいた戦いには、割ってはいる余地などない。それに眼で大丈夫だ、と答えて、乾史はどうにか身を起こす。熱を持って腫れる顔面、先ほど以上に、ネジが外れてしまったかのような膝。 「なんで……テメエ……そんな動きが出来るんだよ……」  『魔犬』はその言葉を聞くと、ふぅ、とため息をついた。 「ふむ。どうやらその様子では本当にわかっていないようだな」  構えをゆるめ、無造作に乾史に歩み寄る。 「教えてやろう。君のその常人離れした膂力はな。人狼の血によるものだ」 「…………あ?」 「じん、ろう?」  突拍子もない言葉に、乾史とサブロウは言葉を失った。 「人狼、わかるかね?ああ、君達にはオオカミ男と言った方がイメージしやすいか」  『魔犬』は生真面目な顔で、この場でなければ二流の伝奇小説にしか聞こえない事を語り始めた。 「この世にはね。マンガやアニメに出てくるような吸血鬼や魔法使いが、実は本当に結構いるんだよ。まあ、マンガほど格好良くはないがね。オオカミ男もその一つ」  奴自身の人間離れした身体能力を見た後でなければ、笑うしかない話だった。いわく、昔はオオカミ男がそれなりに多くいたという事。今では普通の人々と交わり血筋が薄まってしまって、オオカミに変身できる者も少なくなってしまった事。そしてたまに、先祖帰りを起こす子孫がいること。乾史や、そして『魔犬』のように。 「つまり、君と私は遠い遠い親戚だという事さ。先祖にオオカミ男を持つ、な」  だから我々は、人ならざる力を身に秘めているのだと男は語った。狼の如く跳び、狼の如く疾く、狼の如く強い、人狼の力。 「……だが。君はまた随分といびつな能力の発現をしたようだな。通常の先祖帰りは、成長期に月の光を浴びる事で己の内なる獣が解放されるのに、君の場合は、まず内なる獣が目覚めて、それを解放するために、無理矢理に月の光以外のものを媒体に見立てて自己暗示をかけた」  『魔犬』が歩を止める。気がつけば、乾史の背にはもう壁しかなかった。 「その歳で内なる狼を目覚めさせたことは率直に賞賛しよう。だがそれが自身への強力な暗示になってしまっている。己の力を自在に制御する事が出来ず、最初に手にした媒体を使い続けなければならなくなってしまった」  再び拳を掲げて告げる。休憩時間の終了を。 「本来ならば、自由に己の力を使えねばならんのだよ」  このようにな、と。『魔犬』は、再びその長い両の腕を構える。その双眸が、金色に妖しく輝いた。壁伝いに立ち上がった乾史が、どうにか反撃すべく拳を握る。  サブロウの予感は当たった。悪い方に。        ―――三分が経過した。  ボクシングの試合なら1ラウンド。インターバルを取るところだが、試合ではないこの戦いには当然そんなものはない。いや。これほど一方的なものを、戦いと呼ぶべきではないだろう。喧嘩でもない。私刑ですらなかった。  それは、演奏。皮を弾く高音と、肉を叩く低音でつむぐビートだった。そこにいるのは演奏者と、彼が奏でるただの打楽器。 「どうした、しっかりしろ少年」  左右→左腹→左頭→右右→右。お手本じみた連撃から強引なまでの押し込み。 「ひとたび『魔犬(バスカヴィル)』の恐怖に呑まれれば。心臓が止まってしまうぞ?」  左左右→右顎→左頭→右顔→左左右→右顎→左頭→/終わらない循環撲殺。 「レクチャー3。君は防御がザルすぎる。相手の拳ばかりを眼で追っているから、ほら」  また左左右→右顎→はフェイント/左腹→左頭→右右→右。焼き直しの屈辱。 「こんな単純な手に引っかかる。視線は相手の眼に置き、かつ全身を視界に捉えるのだ」  左左→右フック。コンパクトにしてシャープな死神の鎌。肋骨を強かに打たれて真横に吹き飛ばされる。派手な音。もはや何度目かもわからない転倒。周囲のものを巻き込み倒れる。廃倉庫の片隅。そこには、似つかわしくない本棚があった。 「……あ」  立ち上がるべく手をついた床に、散らばっているもの。いくつもの難しげな本。ぶちまけられた味噌汁と米が、二度と読めないほど汚し尽くしている。傍らには、転がった炊飯器と鍋。もう元に戻らない何か。 「……こ、の、クソ、ヤロウがぁ、あああ!!」  渾身の怒りを込めた乾史の起死回生の/遮断=右ストレート。あくまで丁寧に。左左右→右ストレート、惜しみなくウェイトをサービス。片隅の扉をぶち破って、両者は外へ。 「やれやれ、執事の仕事は優雅が基本なのにな。こう血の臭いがついてしまっては」  懐から小瓶を取り出す『魔犬』。自らに噴霧。およそ似つかわしくない、花の香り。 「香水でもつけなければ鼻が曲がってしまうよ。……君もつけるかね?」  ひらひらと小瓶を振る。乾史が反応しないと見ると、ため息をついて懐にしまい込む。 「もう少し防御を身につけてくれないとな。サンドバッグを相手にしている方がまだマシだよ」  そう呟いて。『魔犬』は唐突にその唇の角度をつり上げた。 「―――ふふん、もっとも酷な要求かも知れんな。腰抜け野郎が戦えるはずもない」  確信めいた口調。乾史に走る悪寒。……こいつは。何を言い出すんだ? 「ここ数日、君の能力を観察させてもらった。そして今手を合わせて、確実にわかったよ。雑な攻撃とザルな防御……その理由は簡単。君は、『一方的に相手を殴ったことしかない』。実力の近い相手と技を競ったり、低い勝率に己を賭けた事などないのだろう?」  悪寒が、疑惑に、そして確信に変わる。―――こいつは、知っている。 「ウチ(CCC)のマーケティング部門もたまにはまともな仕事をする。観察だけではない、ちゃんと君の経歴も調べたさ。この街に来る前の学校で君がどうだったか、とかね」 「や、」  やめろ、それを、言うな。 「随分とまあ手ひどいイジメられっぷりだったそうじゃあないか。近頃のガキはやることに芸がなくていけないね。田舎の学校で、両親が居なくて狼憑きの家系の子とあれば、もう真っ先にターゲットにされる。雑巾で顔を拭いたり、牛乳を頭からかけられたり、なんてのは序の口かな」  だまれ、だまれ!だまれ! 「……で。結局行き着いたところが、『給食費ドロボーの犬神くん』、というわけだ。クラスみんなの一ヶ月分の給食費を盗んだ犬神くん。なんで?それは親がいなくてビンボーだから。子供の理論は残酷だよなあ」 「あれは、オレじゃ、ない」  そうだな、と『魔犬』は頷いた。 「実際は君をいじめるために、リーダー格のガキが隠してただけだったそうだがね。だがまあ問題はそんな事ではないさ。度重なるストレスと、鬱屈した怒り。君の中の人狼は、ついに覚醒してしまったのさ。今月の給食費3,500円、その五百円玉を月に見立てて」    ―――ああ。まるでお月様みたいなんだ。   「最初の覚醒では、己の人狼を理性で制御するのは不可能に近い。またここぞとばかりに随分暴れまくったそうだな。クラス全員、軒並み半殺しとは穏やかではないなあ」     拳に埋まった歯の欠片。朱い視界。銀色の月。  脅えきった羊たちの眼。そう、自分は最初からこの群れのイキモノではなかった。   「で、結局身よりもない犬神少年は、そのまま姿をくらまして行方知れずに。それからしばらくして、ヤクザをいじめるのが大好きな、『狂犬』乾史がこの街に現れる、ということさ。めでたしめでたし」  うるせえ、閉じろよ、その口を、でないと、 「そんな…乾史のアニキが?」  愕然→いかなる拳打よりも。聞かれてしまった。『魔犬』の特大の邪悪な笑み。 「そうですよ佐武朗様。彼の正体は一匹狼の不良少年などではない。キレていじめられっ子を半殺しにして逃げ出してきた、可哀想ないじめられっ子…捨て犬、というわけです」  足下が砂になった気がする。どれほど殴られても持ちこたえていた気力が、ぶつぶつと音を立てて切れていく。……あの口を、閉じなければいけない。  全力で突進、もう左も右もない。無我夢中で腕を振り回す。一発でいい、一発でいいから当たれば。 「―――唐突に覚醒した能力者の典型的な悪例だな。なんの努力もなく、一夜にして自分が超人になる。今まで自分の上に居たものを一瞬で追い越す暴力。だが、例えば中学生にいじめられた小学生が、成長して高校生になったら、お返しに中学生をいじめる。これは果たして強くなったと言えるのだろうかね?」  違うね、と断ずる『魔犬』。乾史の腕などかすりもしない。迎撃の開始。 「強くなるとは、己よりも相対的に強い者に抗う意志を持つということさ。それが出来ないヤツは、自分より弱い相手なら殴れる。しかしひとたび自分より強い相手に出会ったら、こうして体を丸めて縮こまるだけ。―――つまるところ、君は能力を手に入れただけで何も成長していないのさ」  止むことのない殴打。『魔犬』の拳が体の。言葉が心の。支えを次々と突き崩していく。 「君とこの街に巣くうあのチンピラどものどこが違う?強きにへつらい弱きをいたぶる。掲げているお題目が違うだけでやっていることは同じさ」  腕で頭を庇い、亀のようにガード。その隙間を蛇のようにすり抜けてヒットする拳。  ……お前に言われるまでも、ねえよ。 「そんな人間がご大層に用心棒などと。思い上がりも甚だしいとは考えないのかね?」  考えなかったさ、血まみれの教室に怖くなって。家にも帰らずこの街まで逃げてきて、でもそれを認めることが出来なくて。自分が強くなったから自由になったんだとそう思ってた。こないだまでは。だけど、   『地べたをはいずり回っても辛くねえです。いつか、光を手に入れるまでは』    力もないのに、自分よりずっと強いヤツがいたのだから。オレだって、この街で何かを見つけてみせるんだ。  もう、ネジどころか底まで抜けた膝を手で押さえて。  それでも乾史は立ち上がる。      ―――六分が経過した。 「…ここまで揺さぶっても、まだ折れんとはな。正直意外だ」  先刻から微塵も乱れないファイティングポーズの『魔犬』。  もはや立っているのが奇跡でしかない乾史。 「私の観察が甘かったか。それともここ数日で心境の変化でもあったのかね?」  軽やかにリズムを刻みながら、ふと思案顔になる。 「致し方ない。君が素直に諦めてくれれば良かったのだがね。これでは別の方策を採らざるを得まい」  男は慇懃な表情と鉛色の眼で、両の手を固く握りしめている観戦者に声をかけた。 「佐武朗様。貴方に決めていただきたいと思います」 「僕、が?」  歳の割にはずばぬけて明敏なサブロウにも、その邪悪な提案の意味は咄嗟には理解できなかった。 「これから私が、貴方の雇われた用心棒がいかに無能で無力かを証明します。佐武朗様はそれをご覧になり、この少年との用心棒契約を打ち切ってくださればよろしいのですよ」  執事姿の男の笑み。当主に災いをもたらす呪いの魔犬(バスカヴィル)。 「勿論、貴方が御自分で雇われた用心棒の実力を信じ続けるのも結構です。私は貴方の意見が変わるまで、この少年の無力を証明し続けましょう」 「ま、待ってください。それはまさか、」  サブロウの声を笑みだけで封じ、 「では。これからはちゃんと痛く打つぞ。泣くなよ少年」  『魔犬』はその本領を露わにした。      見えない左、かわせるわけもなく。  こめかみ(テンプル)。頭蓋の中で脳がシェイクされる。容易く消え失せる平衡感覚。  足がもつれ倒れる、事など許されない。突き上げるように左腹、否、肋骨の内側を抉りとり肝臓(レバー)。もはや痛みではない。腹に鉄杭を埋め込まれたような鈍い喪失感。  サブロウが何か叫んでいる。 「オレは……」  無力じゃないんだ。力を手に入れたはずなんだ。コイツの言うとおりだ。自分より強いヤツと戦った事なんて無かった。逆らう理由なんてない。だって、オレがそこまでしたら、みんな血まみれになっちまったじゃないか。  掲げた腕の間を通す狙撃のごとき一刺―――鼻。ひしゃげた。鼻血。鼻の穴じゃない。鼻腔が血で詰まる。鼻呼吸が出来ない。酸素を求め、だらしなく開く口。  サブロウがまた何か叫んでいる。 「だげど、ぼべば(オレは)」  お前を見て、オレも変われると。 「こらこら、おしゃべりよりも手を動かせよ少年」  顎(ジョー)。  奥歯→頬肉→舌←奥歯の強制サンドイッチ。自ら噛み千切った舌の血をたっぷり味わう。鉄臭い。喉が血で灼かれ口呼吸も出来ない。『魔犬』にもたれかかるようによろめく。だが闘牛士めいた足捌きで難なくかわされる。/もうとっくに/無防備に晒した背中、容赦なく腎臓(キドニー)、左右とも。丸まることも/まともな意識など/仰け反ることも出来ず、結局無様に棒立ち。力なく振り回す腕、難なく回/なくなっていた/り込まれて趣向を変えた神経叢(プレクサス)、全身に/いつから意識がなかったかも/走る電気。基本に立ち返って鳩尾。肺そのものの呼吸が止まる。右腕で両腕を押し上げられ、フリーの/意識していない。なのに/左腕でガラ空きの肝臓(レバー)肝臓(レバー)肝臓(レバー)肝臓(レバー)。胃(ストマック)。まだ吐くものが残っていたのか。/その声だけは残酷なまでに耳に届いた。/もう一度脳を揺らす、右の/ 「―――解約、します」  意識が引き戻された。乾史は、耳を疑った。  きっとオレは殴られすぎて、頭がおかしくなったんだろう。きっとそうだ。だから、なあ、なんで顔を伏せるんだよサブ。 「何を、解約されるのですかな?」  手を止めた『魔犬』が確認を求める。証言を強いる検事の口調で。裁かれるのは、誰のいつの罪なのか。サブロウは、顔を上げた。はっきりと、聞き間違いようのない声で。 「用心棒契約はもう解約します。…………曾我部の家に、僕は行きます」  そう、言った。判決が下った。 「だ、そうだ」  『魔犬』が、乾史に向き直った。下った判決に基づき、検事はそのまま処刑人へと身を転じる。今までの事など何もなかったように、ねぎらいの笑みすら浮かべて、 「ご苦労だったなあ少年。君は用済みだ。さあもう、帰っていいぞ」  拳を使わずに、フィニッシュブローを撃ち込んだ。 「―――あ、」  最後の支えが崩れ。 「ああああああああああ!!」  血を吐きながら乾史は吠えた。もう自分が何をしているのかもよくわからない。ただ、今の自分には、吠えることしか出来なかった。立っていることも出来ない。だから喚きながら、両腕を広げて『魔犬』の脚につかみかかる。パンチもフォームもない。子供が相撲遊びでなんとか大人を引き倒そうとするような、切実で、無力な行動。 「よろしい。それではこれが本日最後のレクチャーだ」  乾史の頭上から、微動だにしない声。 「まかり間違ってもボクサー相手に頭を下げてはならん。さもなくば」  血まみれの顎に、ふと風を感じた。脚につかみかかる乾史の顔よりなお低い、地面すれすれから激烈に吹き昇る風。その正体は、もう網膜に焼き付くほど見た『魔犬』の拳。 「こうなる」  今度は、体が吹っ飛んだり、派手な打撃音なんてしなかった。そんなに雑じゃない。ゴルフのベストスイングを思わせる、芸術的な力の集積。人狼の筋肉と体重移動と踏み込みのバネが生み出した力が遠心力で劇的に収束・増幅され、ブレず歪まず百パーセント真芯に叩き込まれる、清々しいまでのアッパーカット。  ぱきん、と澄んだ音を立てて。  乾史の首から上が、根こそぎ持って行かれた。  顎が跳ね上がる、などという生易しいものではない。頸椎を支点に、首がぐるん、と縦に回転した。後頭部に何か堅いモノが当たる。それが己の背骨だと言うことを、乾史は妙に冷静に知覚する。体はまさにうつ伏せに倒れようとしているのに、天を仰ぐ首から上。すでに切れかかっていたヒューズを分厚い鉈で断ち切るかのごとく。犬神乾史の意識は完膚無きまでに遮断された。 「一生地べたを舐めていろ。捨て犬」  全てが暗闇に呑まれる直前、露光したフィルムのように、天を仰いだ乾史の脳裏に最後の光景が焼き付く。    遠くに灯る、毒々しいネオン。  コンクリートで矩形に切り取られた、くすんだ曇り空。  視界の端にぐしゃぐしゃのサブロウの顔。        ―――くそ。  星なんか、見えねえよ。         ●10      ―――誰かが嗤っている。  演技や挑発じゃない。それは、ある意味では純粋な、ただの悪意だった。  田舎の学校の古い教室。取り囲む同じクラスの連中。級友、と思えたことは一度もなかった。    ああ。オレはまたここに戻ってきちまったんだな。    そんなことを思った。こいつらを殴ったのも。それからあの街の路地裏で暮らしてたのも。きっと夢だったんだろう。  いいさ。いつもみたいに好きにすりゃいい。もう慣れたよ。  気がつけば、連中の姿はいつのまにか、手足の長い一人の男に変わっていた。  『魔犬』が左腕を伸ばしてくる。何十発と浴び、脳裏に焼き付くほど見た機械のように正確な動作。  だが、なぜかその動きは海の中にいるようにスローだった。  なんだよこれなら避けられる。そう思い、だが乾史は愕然とする。自分もまた、海の中にいるように身体が動かない。ゆっくりと、だが確実に迫る左ジャブ。やめろ、と悲鳴をあげようにも声が出ない。そして視界いっぱいに拳が拡大して―――      ……目を覚ますと、漆喰の天井が目に入った。  枕元の窓ガラスの枠がガタガタと鳴っている。低気圧が近づいているのか、空は分厚い雲に覆われていた。 「―――オ、レは」  舌が痺れている。気がつけば、寝かされていた。辺りを見回す。壁にしみが浮いてはいるが、清潔に手入れされている印象の小部屋。見覚えのない場所だが、不思議と馴染みのある雰囲気がした。横たわっているのはベッド、ではない。白一色で平たく固い、病院の診察台だった。なんだろう、なにやら妙な匂いがする。葉っぱのような、土のような。 「気がついた?」  聞き覚えのある声。そちらに首を向けようとして……激痛が走る。あがが、と声にならない呻きを漏らした。 「まだ動かない方がいいわね。丸二日、眠りっぱなしだったのよ」  そう言いつつ、水の入った洗面器を持ってきたのは、朱(チュウ)だった。全身が熱っぽく、だるい。何かとても大切な事があったような気がするのだが。 「まあた随分とこっぴどくボコられたもんねえ」  洗面器から布を取り出し、絞る。それはタオルではない。丸められた包帯だった。そこから一際異様な匂いがする。どうやら洗面器の中に張られているのは水ではなく、何かの薬液のようだった。 「あの兄ちゃんもずいぶん性格悪いねー。こんだけ実力差があるなら最初の一発で眠らせることが出来たでしょうに。内臓を好き勝手にずんちゃか引っかき回してくれちゃって。気の巡りをまともに戻すのにエライ苦労したわよ」  その言葉が針のように脳に突き立ち、乾史の思考はたちまち覚醒した。 「そ、そうだ!あいつは、サブはどうなった……ぐげえ!!」  跳ね起きようとした乾史を容赦なく殴り飛ばす朱。 「起きるんじゃないよ!これ以上怪我が悪化したら薬は出してやんないからね」  抗議しようにも体がまともに動かない。そこでようやく知覚した。服を脱がされ、包帯でぐるぐる巻きにされた自分の腹、胴、顔。包帯に染みこませてある薬液の匂い。腕に刺さった点滴。そして、指一本動かせない程、全身にくまなく残る鈍痛。 「あ、ががが……が…」  身をよじり呼吸をする度に、骨と肉と内臓がこすれて悲鳴を上げる。だがそんな痛みなど、次の言葉に比べれば些細なものだった。 「ついて行ったわよ。あのアナクロな格好した兄ちゃんにね」 「―――そう、か」  夢だった、などという実に都合のいい答えはもちろんなかった。”ついて行った”。自分の意志で。そして、残ったのは解約された元用心棒が一匹。とたんに身体が物凄く重くなった。頭が体を動かす役割を放棄してしまったようだった。もはや身じろぎもせず診察台に横たわる乾史。その上半身に巻かれていた包帯を朱が引き抜く。自分のものとは到底思えない、内出血でドス黒く変色した腹。 「……あんたが、手当してくれたのか」  この部屋に馴染みがあるわけだ。ここは朱の店の二階。そう言えば最初に会ったときに言っていた。弁当屋と、医者のようなことをやっていると。 「まあね。サブが血相を変えて呼びに来たのよ。んで、行ってみればボロ雑巾みたいなアンタが地面に転がっててさ。なんとか治してくれって泣きながら頼まれちまってね」  大変だったわよ、と朱はため息をついた。 「うちの若いの使ってアンタをここまで運ぶのに一苦労。鍼灸で機能不全になった内臓に気を導いてやりつつ、投薬と打撲傷の湿布と点滴。ま、ちょっとした東西医術のアクロバットサーカスってとこね」  いいつつ、無造作とも言える手つきで、乾史の腹にどすどすと針を突き立てる。麻痺しているのか、痛みは無い。そのうちの幾つかに熱したガラスの小瓶をかぶせると、重油のような濁った血が吸い出されてゆく。何も感じなかった腹に、少しずつ熱と痛みが戻ってきた。 「とはいえ、常人だったら死んでた。アンタ、首にきっついのをもらったでしょ?普通はアレで頸椎がキレイに折れてたわよ」  脳裏に焼き付いたアッパーカット。首は……そういえば、分厚いギブスで覆われている。 「獣の身体の柔らかさは大したものね。多分本能的に全身の筋肉をゆるめて、うまく衝撃を散らしたのよ。頸椎の歪みは合わせといたから後遺症は出ないと思うけど。上半身バキバキの筋肉痛でしばらくギブス暮らしは覚悟しときなよ」  この包帯と薬、ギプス。そこで思い至る。治療費はわからないが、決して安くはないはずだ。 「いいわよ。金は隣の執事みたいな兄ちゃんが置いていったしね」  朱の答え。だがそれは乾史を安堵させる事はなかった。―――あいつのお情けで、オレは生きている。がたついた奥歯をかみしめる乾史にいちいち注意を払うことなく、朱は手慣れた様子で針を抜く。怪しい臭いのする軟膏を塗り、薬液に浸した新しい包帯を再び乾史の腹に巻き付ける。 「上体を少し起こせる?」 「ああ……」  身体を動かす。ひどく億劫だった。二日間身じろぎしなかったため、あちこちがギリギリと不快な音を立てるが、骨が折れたりはしていないようだ。少しずつ指を動かし動作確認をする乾史。 「普通なら全治一ヶ月ってとこなのに、二日で動けるかあ。気の循環を戻してやったら、呆れるくらいの速度で回復したわね。さすがは人狼の生命力」  目をみはる。なんでアンタが人狼なんて知ってるんだ、と驚く乾史に、 「こんなところで商売してると、別にアンタみたいな客は珍しくないわよ。前は両手足複雑骨折したくせに、日帰り入院で済ませちまうキョンシーまがいの再生能力の持ち主もいたっけね」  ぞんざいに答えると、朱は包帯を結び、はい治療終わりと軽く叩く。 「もう三日も安静にしてりゃ大丈夫でしょ。その間はここで寝るなり、周りを出歩くなりすりゃいいわ。入院費分はメシも出してあげる。元気になったら退院して元の生活に戻ることね」  ざくざくと用件を告げると、洗面器と汚れた包帯を手に朱は部屋を出て行こうとする。その背中に、気がつけば声をかけていた。 「サブは、どこに行ったんだ?」 「アタシが知るわけないでしょ」  当たり前の話だった。うなだれる乾史。だが朱は言葉をつなぐ。 「でもあのアナクロなお兄ちゃんなら、駅前のホテルに部屋を取ってるかもね」 「ホントか!?」  たぶんね、と朱はなげやり気味に言った。 「あんな物騒なのが二週間もあたし達の縄張りをうろついてれば、そりゃあ警戒するわよ。必要最低限の事は調べるってこと。でもアイツ恐ろしく鼻が鋭くてねえ。うちの連中が駅前のホテル近くまでどうにか尾行できたけど、そこまでよ」  もっともサブの親族の使いだとわかったんだから、これ以上あたしらが警戒することはないけどね、と朱は結んだ。 「そうか……」  駅前のホテル。距離だけで言えば、ここから歩いて十分もかからないはずだ。 「ついでに言えば、こんな情報も役に立つかもね」  朱がサイドボードの上に乗っていた紙を数枚、乾史の方に押しやった。 「アンタを回収するときにサブから少しだけ事情を聞いてね。ま、気になってちょいとプリントアウトしてみたってだけだけど」  細かい記事を拾うには本当にネットは便利ねえ、などと呟く朱。他方乾史はと言うと無言で紙面に見入ったまま。 「……朱姐さんよお」 「どーよ?結構見つけるの苦労したんだから。感謝しなさい」 「……何て書いてあるのかわかんねぇよ……ぐはあ!!」  情けない声を挙げた乾史を容赦なく殴り飛ばす。ちなみに結構首に負担がかかっている。 「そーねそーよね。最近の子供がみんなサブみたいに頭いいわけじゃないもんね!まったく。いいわ解説までしてあげるわよ。ノーミソかっぽじってちゃんと聞きなさい。細かいところは省くけど。曾我部貴俊ってお金持ちが、普段はアメリカにいるけど、何故か一昨日から日本に帰ってきてるんだってさ」 「ソカベタカトシ……?」  聞き覚えがあった。あの男がたしかそんな名前を言っていた。 「サブの親戚ってヤツのことか!?」 「あのアナクロ兄ちゃんの雇い主でもあるわね。それが六日間、日本に滞在するらしいわ」 「六日?その後は?」 「アメリカに帰るんでしょうね。サブも一緒なんじゃない?」 「ってことは、実家ってアメリカにあるのかよ……!?」  乾史の手から紙を回収する。 「アンタはまる二日眠ってたから。サブが日本にいる時間は、あとせいぜい百時間ってことになるわね」  そこまで聞けば沢山だった。診察台から身を起こす。 「こうしちゃいらんねえ!すぐに行って、」    生暖かい鼻血が喉に絡まる感触。  脳裏に焼き付いた、迫る拳。  内臓を抉られる痛み。  告げられた解約。  行って―――どうする?  今さら何をするというのか。何が出来るというのか。硬直したまま動かない乾史。そもそも、サブロウはもうオレに助けられることなど望んではいないんじゃないか?    朱はその様子を見やったまま、口を開こうとはしない。痛いほどの沈黙は、実に一分も続いた。むずかしいことを考えるのは嫌いだ。だが、なぜかはわからないが、乾史はその問いに確かな答えを出さなければならないと感じた。そしてそれが、中学校の学力テストなどより、はるかに大きな何かをを決定することになるのだと。まだ裂傷が癒えきっていない唇を開く。 「その、実家に戻ればよ。……メシも寝るところもあるのかよ?」  ―――まて。オレは何を言おうとしている? 「あちらはお金持ちだそうだから。食べきれない方を心配すべきでしょうね」  朱が答える。 「親戚のオジさんってのは、アイツをいじめないかな?」 「さあね。でもまあわざわざ連れ戻しに来るぐらいだから、悪くは扱わないでしょうよ」  鍵が外され。 「朱姐さんは、バイトがいなくなったらどうするんだよ?」 「他にアテがないわけじゃないわ」  扉が開かれる。その向こうにあるのは、誰もが幸せになれる世界。親戚とやらはサブロウと再会できて幸せ。あのボクシング野郎は仕事が果たせて幸せ。オレはあの拳にもう殴られなくて幸せ。痛みのない世界。それを選択することは、正しい事じゃないのか。 「じゃあ。…………実家に戻る方が、アイツにとっても、」  本当に、それを口にしてしまっていいのか。 「あのさーあ」  朱の声。身を震わせる。 「悪いけどあたしは医者であって、アンタの親でも何でもないのよね。人生相談なら他所でやってくれる?これから昼飯の仕込みもあるんでさ」  そう言うと、再びサイドボードの洗面器と包帯を取り上げ、朱は部屋から出て行く。もっともな話だった。またうなだれる乾史。だが朱は扉を閉める直前に振り返って。 「アンタはどうしたいの?」  と言った。 「オ、レ?」 「そ。さっきから聞いてりゃ親戚がどうとかアタシがどうとか。ンなことはどうでもいいのよ。アンタはどうしたいの?アタシはアンタがここに一旗揚げに来たのか逃げ込んできたのかは知らないけど。自由を求めてきたんじゃないの?」 「自由……」  小学生で習う漢字。なのにその言葉は、まるで初めて聞いたように新鮮だった。 「自由ってのはそういうことよ。誰にも命令されないってことは、誰も指示してくれないってこと。何をするにも自由。何もしないのも自由。その代価は、何が起きても自己責任。それだけ。決めるのはいつも、アンタ自身よ」  絶対的に正しい神様が、いつも何をすべきか教えてくれるなら、人は誰も迷ったりしないのにね、と朱はつぶやいた。 「迷ったときは、くだらない理由付けや言い訳の背中に隠れずに、ただ一つの問いかけをすりゃあいいのよ。オレが今一番欲しいものは何だ?ってね。それが自分の身の安全なら、それもアリってだけのこと。アタシは別にとがめやしないわ」        朱が下の弁当屋の仕込みのために降りていくと、乾史は何もやる事が無くなった。眠ってしまえば良かったのだが、肉体はともかく精神はこれ以上の睡眠を必要としないらしく、眼を閉じても意識は逆に冴えていく。一時間ばかり、診察台の上で煩悶したが、やがて意を決して起き上がった。全身は何かの冗談みたいに激痛が走っていたが、歩く事は何とか出来た。ギブスと包帯を巻いたまま、苦労してタンクトップを着込み、外へ。だが街に出たところで、往く当てなどもなかった。一週間前までは、その日のメシが食うことだけを考えていれば良かった。行き先なぞ考える必要はなかったのだ。あの廃倉庫には……戻れない。  ふと気がつけば、聞き慣れた電子音と、点滅するサインボードが側にあった。朱の店の近くにあった、サブロウが昼の仕込みを手伝っている間に時間つぶしをしていたゲームセンター。  しかたがないので入った。いつものように時間つぶし。お気に入りの古くさいシューティングゲームに百円玉を投入してスタート。戦闘機を操って華麗に弾避け。今日もオレは絶好調。あっという間にボスまでたどり着く。ボスの撃つ弾をかわす、かわす。スピードアップする弾幕を、かわす/かわす/あのパンチをかわすには?    ―――無理だろ。  どこかで冷静な自分が答える。  だってしょうがねえだろ。あんなのどうやったって勝てねえんだからよ。  動きが違いすぎる。逆立ちしたって、勝てる可能性なんかねぇじゃねえか。  あいつと同じ動きでも出来ねえ限り。    浴びせられるボスの弾幕。 「あっ……!」  ほんのささいなミス。かわし損ねた弾に当たって、自機はあっさりと爆発する。まだボムを一回も使っていなかったのに。残機から補充され続いて出撃する自機。だが、もう集中力が切れていた。あっさりとまた撃墜される。一回、二回。気がつけば画面にはこんな文字がでかでかと躍っていた。    『コンティニューしますか?』    乾史は、ポケットをまさぐった。だが、あの『魔犬』との戦いで、ちょうど百円玉を使い切っていたらしい。さっきのが最後の一枚。手元に残ったのは十円玉、五十円玉、一円玉。 「コンティニュー出来ねぇってか……」  自分の台詞に、乾史は笑った。十五年生きてきて初めて知った。怒るにも、泣くことにすら値しない状況では、人間は笑うしかないのだと言うことを。 「あーあ、ざまあねえ」  笑いはとまらない。たまらず、店の外に出た。そのうちにだんだん押さえが効かなくなって、腹を抱えて笑い始めた。げひゃひゃひゃひゃひゃひゃと人目をはばからず声まで上げて、裏通りを転げ回る。ノーコイン。ノーコンティニュー。ヤリナオシハ、デキマセン。ゲーム機までが自分にゲームオーバーだと言っている。ああおかしい。笑いすぎて涙が出てきた。本当に笑えすぎて、涙が止まらない。あまりの大笑いに通りを覗き込んだ通行人が、そそくさと立ち去る。腹が枯れるほど笑い声を放って、犬神乾史はぼろぼろと涙をこぼした。      ……実際には五分くらいの時間だったのかも知れない。笑い疲れた乾史は、そのまま薄汚れた壁に身を預け座り込んだ。このまま干涸らびてしまえばいいのに。そう思った時。  ちん、と澄んだ音を立てて、視界の隅に何かが転がった。思わず眼で追う。それは、今ではもう作られていない、銀色の五百円玉。いつぞや宇都木や蟹江からサブロウを助けた際に借りた五百円玉だった。いつか百円玉に両替しようと思っていたのに、いつの間にか忘れていたもの。さっきポケットの中には無かったはずなのに。勘違いだろうか。  五百円玉はゆっくりと孤を描き、乾史の目の前でぱたりと倒れた。引き寄せられるかのように拾い上げる。  穴が空くほどに見つめる。五百円玉。銀色。圧倒的な己の力。血まみれの教室。まるでお月様。拳に食い込む歯。考えたくもない過去の象徴にして。 『よろしくお願いします、アニキ』―――寄せられた信頼の証。    考えろ。足りないアタマを使って。  ―――アンタはどうしたいの?  オレは。何のためにこの地べたをはいずり回っているんだろう?  思い出せ。足りないアタマを使って。  ―――あっしはこの街で、なんとか自分だけの星をつかみてぇんです。  誰もが幸せになれる世界?一番の当事者の望みを踏みにじって何を言う。  思い起こせ。その足りないアタマの奥から。  ―――そう。ここでなら。オレも新しい何かを、つかめるのかも知れねえ。  したいことなど。とっくに見つけていたじゃないか。    ……掌が固まる。五百円玉は乾史に一つの問いかけを以て鎮座していた。   『コンティニューしますか?』        ランチタイムの地獄を乗り切った朱は、どうにか掃除食器洗いまで完全に済ませ、夕食時の仕込みまでのささやかな自由時間に浸っていた。のんびりと茶菓子をつまみながら、店のテレビで刑事ドラマの再放送を見るのである。この時間は彼女にとって絶対であり、なんぴとたりとも侵してはならない。だから。 「朱姐さん!!」  ガラス戸をぶち割らんばかりに飛び込んできた少年にも目を向けることなく、朱は茶菓子を頬張る。ううん、やっぱり刑事は水谷豊だと思うのよね。 「なあ、朱の姐さんよお!」 「あによ」  お茶をすする。視線はテレビ。最初からわかっていた選択結果などより、先の展開がわからない刑事ドラマが優先なのは自明の理だ。うんうん、この頃の若い寺脇康文もいいのよねえ。 「この家にでけえ鏡があったら貸してくんねえか?」  妙な依頼に、朱の眉が動いた。視線はテレビ。口だけがにやり、と太い笑みを浮かべる。 「あるわよ。そうね。アンタがこれから四日間、血反吐を吐く覚悟があるなら貸したげる」         ●11      この一週間の天候を総括するなら、崩れていく一方だったと言えよう。  穏やかな花風はいつしか湿った風となり、北からの低気圧を導き入れてしまった。ここ数日曇りがちな日々が続いていたが、その日の東京の空は特に厚い黒雲に覆われていた。ビルの隙間をいくつもの強風が束となり、唸りを上げながら走り抜けてゆく。    ホテル・グラジオラスは、この巨大な歓楽街の中央に位置する駅と半ば融合するように建てられていた。下層の階には駅の利用者をターゲットにしたデパートや専門店。中層には、交通の便を生かしてさまざまな企業のオフィス。そして上層には、この大都市を一望することが出来るスイートルーム。ご大層にも、部屋が一階上になるごとに料金が増えるシステムになっている。その最上階、周囲のビルすら見下ろせる一室で、サブロウはぼんやりと窓に手を当て外を眺めていた。馬鹿馬鹿しい程の広さ。部屋の中で自転車だって乗り回せそうだった。料金相応に防音が施されているこの部屋も、今日のこの風の唸りを完全に遮断することは出来ないようで、轟々と低い音がかすかに部屋に響いている。  今のサブロウの服装は、この豪奢な部屋の内装にも、自身の容姿にも相応しいものだった。ただ一点、彼の性別さえ除けば。  胸元に華をあしらった、艶やかな玉虫色の光沢を放つ絹のドレス。構造自体はむしろシンプルだが、その生地に流れる艶と、偏執的なまでの丁寧な縫製が、途方もない高級品であることを匂わせている。普通の少年がこんなものを纏えば良くてキワモノ、悪ければ気色悪いだけの格好のはずだが、サブロウの場合には異様なほど似合っていた。もしこの場に、夜の街に出没していた妖艶な少女サラを知るものがいれば、美しいものを正しく磨き上げることによって、さらに美しくする事が出来るという事実に嘆息したことだろう。もちろんこのような格好は、本人の意志によるものではない。 「この街にお別れを告げられておられるのですかな?」  傍らに控える『魔犬』。慇懃で、慇懃なだけの執事。この数日で恐らくは一番多く会話を交わした相手のはずだが、会話で互いの心がうち解けることなど、当然のようになかった。サブロウは返事をする。ごく平坦な声で。 「……いえ。ただ、ここはずいぶん遠いな、と思っただけです」  つい一週間近く前に居た場所から、地理的には歩いて十分と離れていない。そのはずなのに、この塔の上には風の音さえも届かない。 「そうですか。しかし今日中にお別れは告げておいた方が良いかと思いますがね」 「というと、もう?」 「はい。私が済ませました。本日―――」 「パスポートが取れたよ沙良(さら)!!」  扉が開くと同時に、男が一人躍り込んできた。長身の、まるでファッション誌のクイズ問題のような男だった。バガットの靴、グッチの時計、ラファエロのタイピン、モンアートのカフス、アルマーニの背広。そしてその上に、歳の頃四十ほどの男の顔があった。かなり端正な顔だちのはずなのだが、何故かまず服装に目がいってしまう。妙に印象の薄い男だった。男は菊の紋が入った旅券をふりまわし、パスポートほらパスポートだよ沙良と言った。 「貴俊伯父様……」  声をかけると、その男―――血縁上の伯父、曾我部貴俊は駆け寄ってくる。サブロウの手を取ると、掌にパスポートを乗せた。 「これで準備完了だ!待ってて、チケットなんてすぐ手配するからね!今日中にはこの街からサヨナラ出来るから!」  実に嬉しそうに、屈託のない笑みを浮かべる。その無邪気な顔を見て言葉を継ぐことが出来ず、サブロウは黙々とパスポートを受け取った。この六日間で、サブロウは『魔犬』から事のあらましを聞かされていた。伯父である曾我部貴俊の日本嫌いはその筋では有名で、もう十年以上前にアメリカに生活基盤を移しているのだそうだ。その彼がわざわざ六日も東京のホテルに滞在しているのはひとえに、サブロウをアメリカに連れ出すための手続きを取るためだった。いかに金持ちで親族とは言え、パスポートも無い子供を密出国させるわけにはいかない。実態と遠くかけはなれていたサブロウの住民票の訂正、親権者の認定手続き、パスポートの申請と発行。通常ならどれだけ早くても二週間はかかるはずのところを、貴俊伯父、というより実際にはその下で動く『魔犬』は、どこにどう手を回したものか、六日でやってのけたのだった。パスポートさえ手に入れば、航空機のチケットなど空港で当日に購入できる。ただ料金が高いだけの事だ。  本当に、今日でこの街を去るのか。  窓の外を見る。風は強く、黒雲はいっそう分厚く。今にも大雨に変わりそうだった。 「沙良のためにもう部屋を用意してあるんだ。素敵なところだぞう。丘の上にあってね。窓からは森と湖が一望できるんだ。ベッドはもちろん天蓋付きだし、クローゼットは何百着だって大丈夫さ。それに―――」  僕は沙良ではありません。佐武朗です。すでに何度も挙げた抗議の声を飲み込む。言うだけ無駄だ、ということはこの六日で充分に思い知らされていた。サラ……沙良とは、サブロウが美人局の真似事に使った名前であり、彼の母の本名でもある。曾我部(そかべ)沙良(さら)。そしてそれは、曾我部貴俊が崇拝する女神の名前でもあった。初めてここに連れてこられた日。サブロウを一目見た貴俊はこう述べたものだった。 「ああ沙良、僕だけの沙良。沙良が家から姿を消したとき。僕の胸は哀しみで張り裂けそうだったよ。あんなどこの誰ともわからない男に連れ去られたのが口惜しくて……。でもお父様が駄目だって言うから、ずっと探しに行けなかったんだ」  ようするに父親に制止されたくらいで諦めることだったわけか。サブロウは口の中で呟いた。 「沙良が無くなったと報告を受けたときは本当に―――本当に辛かった。食べ物も喉を通らなくて。三日間、部屋の中で泣いて過ごしたんだよ」  当時三十近い男が、三日間部屋に籠もって泣いているのが許されるとはまた随分気楽なことだ。自分があの街で知り合った多くの人達。彼らとの別れの多くは、悲しむ時間すらろくに与えられなかったのに。 「でも。送られてきた写真を見て僕の心の黒雲は吹き払われたんだ。沙良が残した子。その顔はまさしく沙良に生き写しだったのだから。神様は可哀想な僕に救いを与えてくださった。沙良は生まれ変わったんだ。僕の元に帰ってくるために」  ……二の句が継げない、という言葉をこれほど実感することがあるとは思わなかった。貴俊がこの台詞をあの『魔犬』のように皮肉めいた口調で述べたのならば、サブロウとしても反抗のしようもあった。だがその口調はあくまで誠実かつ悲哀に満ちている。つまるところ、彼は本当に、サブロウの事を最愛の妹の生まれ変わりと思い、自分に与えられた救済だと考えているのだった。サブロウが自分の名前を名乗ったとき、貴俊は迷子の犬を保護するときの表情で、こう告げたものだった。 「いいんだよそんな名前はもう使わなくても。君は今日から沙良なんだから」  優しさに満ちた、人格の否定。……結局のところ、サブロウは曾我部佐武朗として求められたわけではなかったのだ。曾我部沙良としてでさえない。サラという名前の等身大の着せ替え人形。それも十五年前に紛失したものの代わりということか。父と母が駆け落ちに至った経緯も、何となく想像がつくというものだった。 「別にどうでもいいさ」  平坦な声で呟いて、サブロウはこの六日間と、彼が着せようとする悪趣味なドレスをを受け入れたのだった。どのみちこの部屋には貴俊のボディーガードが詰めていて、護衛と同時に監視を担っている。それだけなら出し抜く自信がなくもなかったが、この執事、『魔犬』の追跡から逃れられるとは思えない。  視線が窓の外から離すことが出来ない。あの街へ、あの倉庫にまでたどり着くことが出来れば……。そこまで考えて、頭を振る。あれほどの負傷を、自分のせいで負わせたのだ。その上で自分から用心棒契約を打ち切った。もう彼に、自分を助ける義務も理由もない。揺れてはならない。声と心を、平坦に保つ。 「向こうに着いたらまず服を作ろう。そんなお仕着せじゃなくて。君のためならどのシャンブル・サンディカのデザイナーだって呼ぶさ。そうだね、とにかく最初はゴシック―――」  伯父の声が耳に障る。誰も明言はしなかったが、『魔犬』の口調やボディーガード達のかわす少ない私語から、サブロウは貴俊伯父の置かれている状況を把握していた。厳格かつ、辣腕極まりない父、つまりはサブロウにとっての祖父は、とうに貴俊に見切りをつけていたらしい。捨て扶持(と言っても充分すぎる額だが)を与え、態良く島流しにしてしまった。  ところが当の貴俊はと言えば、追放されて落ち込むどころか、これ幸いと日本を捨ててアメリカで自分の好きなことだけをして暮らしているという状態のようだった。そして当主として現役を張るつもりだった祖父が急病で逝去してからは、誰にはばかることなく、行方不明になった最愛の妹を捜し始めたというわけだ。無邪気で、無邪気なだけの男。自分の行動がどういう結果を招くかを想像すら出来ない人間。このタイプに人が付き従うとすれば、それこそ金づるにするくらいしかあり得ない。現地で人を雇ってサブロウを探させたのも、結局のところ、腹心の部下や信頼できる友人というものがいない貴俊なりの、苦肉の策だったらしい。もっともそれが『魔犬』という最悪のカードを引き当てる結果となったのだから、皮肉なものだった。 「もう君は二度と、こんな汚らしい街に戻る必要はないんだからね」  伯父の声を背にしつつ、窓に歩み寄る。汚らしい街、か。伯父にしてみれば、拾った犬がかつてどういう暮らしを送っていたかなど考える事もないのだろう。自分の提供する環境こそが最適だという独善。もう言葉を返す気力もなく、サブロウは伯父の言うところの”汚い街”を見下ろした。『魔犬』が言っていた。この地に別れを告げるのなら今のうちだと。  いったい何を言えというのか。  口を開く。無理矢理にでも何か言葉を紡ごうとしたとき。 「…………え?」  ふとそこに、何か不思議なものを見た気がした。  気のせいか。  眼下に広がる、ビルの海。その隙間に、何か絶対にあり得ないものを見たような。目を凝らす。  気のせいだろう。  ビルの上。何か小さなもの、そう人間くらいの大きさの何かが、屋上から屋上へと飛び移る光景など、あり得るはずがない。なのに目が離せない。  気のせいに違いない。  低い屋上から高い屋上へ。徐々にここへと近づいてくる。確かに自分は一人だけ、それを可能にする事が出来る人間を知っている。だが彼は。彼だけはここに来るわけが、   ”―――ちょっとそこどいてろサブ!!”    ないはずなのに。  横に思いっきり飛ぶ。澄んだ硬質の音。この塔と外界を隔てる分厚いガラス、通常の数倍の強度を持つはずのそれが、粉々に割れて吹き飛んだ。盛大な破砕音と、粒状になって降り注ぐ無数の強化ガラス片のシャワー。高さ二百メートル以上を誇るこの部屋に、外側から飛び込んできた人間型の爆弾は、 「ああくそ!なんだよビルのてっぺんはムッチャさみぃじゃねえかよ!」  あの姐ちゃんタンクトップで充分なんて言いやがって、と悪態をついた。スイートルームに敷かれた、カーペットの中央。目映く輝くガラス片を踏みしめて。  犬神乾史が、そこにいた。      はるか天空に位置する、孤高にして豪奢な檻。  だが今、外界を隔てていたガラスは粉々に砕かれていた。内外の気圧差によってたちまち部屋の空気は吸い出され、かわりに今まさにこの街を吹き抜けている猛々しい風の束が躍り込んでくる。 「……!」  行き場を無くした風は渦を巻き、贅を尽くしたロイヤルスイートをたちまち膨大な風速と轟音の元に包み込んだ。メモ帳や絵画のみならず、備え付けの電気スタンド、カーテンが何かの冗談のように千切れて吹き飛ぶ。無駄に布地の多いドレスが風にとらえられ、身体を持って行かれそうになった。びょうびょうと円を描いて疾る巨大な風の塊に遮られ、声はおろか、息をすることさえまともに出来ない。なのに。その声は、しっかりと聞こえた。 「よお」 「ど、」  どうして、の言葉が風に遮られて口から出ない。そこでようやく気圧差がなくなり、風がわずかに弱まった。 「だ、だ、だ、誰だ君は!?何が目的だ!?」  下から聞こえる声。見れば突風に飛ばされ、ペルシャ絨毯の上に転がっていた貴俊伯父が必死に声を張り上げていた。彼からしてみれば当然の質問だが、それを聞いた乾史は、拳を握り強く唇を噛みしめ。貴俊にではなく、別の何かに宣言するかのように明瞭と言い放った。 「犬神乾史。―――オレの舎弟を返してもらいに来たぜ」 「でも……用心棒の契約は、」  サブロウの声が揺れる。だめだ、平坦に保たなければ。彼がここに居るべき理由はもうないのだから。今度崩れれば、もう立ち直れない。 「ああ。終わったな」  あっさりと乾史は肯定した。そう。そのとおりなのだ。だから、 「……でもよ。男を教えるって方はまだだったよな」 「あ、」  思い出す。最初にとりかわした約束。そんなことはもう忘れたとばかり。  ひとつ覚えときな、と乾史は言った。少し……サブロウは気づかなかったが、実は凄まじく緊張した表情で。 「男ってのはな。テメェの舎弟をぜってぇ見捨てたりしねぇんだよ!」 「アニキ!!」  駆け寄るサブロウ。乾史がその肩に拳を乗せ、そのまま己の背後へまわるようにと促す。サブロウを貴俊達から背中にかばう形になった。貴俊はと言えば、状況はまったく飲み込めていないが、本能的に察するところがあったらしい。 「沙良を、沙良を渡すなああっ」  命令と言うには迫力が足りなさすぎたが、不測すぎる事態に戸惑っていた男達を、本来のボディーガードに引き戻す効果はあったようだ。たちまち不埒な侵入者を取り押さえるべく、その体格で押しつぶすように殺到する。  乾史が動いた。  いつかのチンピラ相手の立ち回りが一方的な殴打ならば、これはほとんど殺陣じみた光景だった。五人の屈強なボディーガードがつかみかかってくるのを、鮮やかにかわすその時には、すでに腹に拳をめり込ませている。一撃で戦闘能力を奪われたボディーガードがくずおれる時にはすでに次の一人と拳を交え、沈めている。いつかのような派手さはなく、だがより素早く確実に獲物を仕留める動き。勝敗はわずか八秒で決した。高価な絨毯の上に転がる五人の男達と、ぽかんと口を開ける貴俊。 「あ……?……わああ……」 「てめーらなんぞ五十円で充分だぜ」  乾史は手をはたいた。と、その表情が帯電したように引き締まる。部屋の奥からこちらに歩み寄ってくる一つの影。この吹き荒れる風の中、まったく動じず、冷静に乾史と貴俊の間に割ってはいる。執事姿に不釣り合いな銀の鎖や髑髏を身につけた、人狼の力とボクシングの技を兼ね備えた男。『魔犬(バスカヴィル)』―――今この場でもっとも警戒せねばならぬ敵手。 「いやはや。粗野にして見事だ。ホテルの警備も、屋上ならまだしもいきなり最上階を突破されるなどとは考えてなかっただろうよ」  この分では警備員が駆けつけてくるまでには大分かかってしまうな、などとぼやくが、その表情は楽しげだ。細い唇を引く。露わになる牙のごとき犬歯。 「しかし疑問だな。そもそもどうやってここを見つけたのかね?」  乾史は行儀悪く自分の鼻をこすった。 「くっせぇ香水だな、一キロ先からも臭ったぜ」  『魔犬』がにやりと笑う。己の長い腕を掲げた。その手首から幽かに漂うラスト・ノートは、この血なまぐさい男には不釣り合いな花の香り。その拳は下がることなく、再びファイティングポーズへと移行する。 「成る程な。では私も自分の務めを果たすとしよう」 「アニキ!あっしの事はいいですから!!逃げて下せえ!!」  サブロウは叫んだ。乾史がここに来てくれたこと。それだけでも充分過ぎるほどだった。だがしかし、この『魔犬』の力が圧倒的という事実は何も変わってはいない。六日前の惨劇がまた繰り返されるというのであれば、そんなものを認めるわけにはいかなかった。逃げて下せえ、ともう一度叫ぼうとして、だがサブロウは息を呑んだ。  サブロウに向けて伸ばされた乾史の右手に、何かが掲げられていた。銀色に光る、小さなもの。見覚えがある。日本国の硬貨。だが、百円玉ではない。一回りだけ大きいそれが、何かに思い至ったとき。乾史がひとつ、サブロウに向かって頷いた。そして、それを己の掌に乗せ、しかと握りこむ。掌が、拳になった。静かに両の拳を掲げ、『魔犬』に向き直る。 「だがこれはまた、無惨な姿ではないかね。四日では傷もろくに治るまい」  確かに、乾史の身体は無惨なものだった。顔には幾つものかさぶた。服に隠れてはいるが、恐らくは胸や腹にもまだ無数の痣が残っているだろう。 「あれほど躾(しつけ)をしてやっても懲りんのかね、捨て犬野郎」  刻まれはじめる、機械仕掛けじみたステップ。 「大人しく