小説 『人災派遣のフレイムアップ』Ex 
『星を見る犬』
(from リプレイ:人材派遣のCCC)


 

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犬(いぬ)
 
 
【名詞】

 
1.食肉目イヌ科の哺乳類。オオカミを家畜化した動物と考えられている。
   よく人になれ、番用・愛玩用・狩猟用・警察用・労役用などとして広く飼育される。
   品種が多く、大きさ・色・形などもさまざまである。
 
2.(比喩的に)まわし者。スパイ。
   「警察の―」
 
 
【接頭】名詞に付く。
 
1.卑しめ軽んじて、価値の劣る意を表す。
   「―侍」
 
2.似て非なるものの意を表す。
   「―山椒」「―蓼(たで)」
 
3.役に立たないもの、むだであることを表す。
   「―死に」
 
                      三省堂「大辞林 第二版」より
 
 
 
 
【諺】「犬が星見る」

 犬が星を見上げたところで何も出来はしない。
  転じて、己の分際を越えること。卑しい者の分不相応な高望み。

 
 
 
 

 
 

 

  ◆◇◆ 1 ◇◆◇

  
 
「―――イイコトしない?」
 
  その声音にたっぷり含まれる色気に、ぞくりとした。
  分厚い背広の服地に潜り込み背筋を舐め上げるかのような、甘く澄んだ毒。
 
 
  東京でも屈指の繁華街にして色街であるこの通りも、通りを数本隔てれば随分と喧噪は遠くなる。まばゆいネオンの厚化粧も、年代物の雑居ビル自身に遮られ届かない。雑木林のように無秩序に建つビルの合間にぽっかりと浮かぶ、一つの小さな公園を通りがかったときのことだった。
  時刻は午後六時半。夏ならいざ知らず、四月下旬の現在、すでに太陽はそのほとんどを地平の彼方に沈めている。空は九割方夜の領域下にあったが、西だけはまだ朱い。それは夜に追い立てられた昼の残党が抵抗して流す血とも思えた。
  この色街を男が通るのは、ほとんど習慣めいた行動だった。普段は自宅と職場を往復するだけの毎日だが、たまにこうして都内に出てくる用事がある。わざわざ遠回りをして、駅沿いに広がるこの色街を迂回して帰る理由など男にはなかった。そして通る以上はそれなりの物色をしていくのは当然だ。飲食店街を通れば軽食を、本屋街を通れば立ち読みくらいは済ませるのは義務ですらある。そう理由づけていつものように大通りへ向かう途中、声をかけられたのだった。
「俺に、言ってんのかい?」
  男が振り返ったのは、雄としてのほとんど本能的な行動だった。男と同世代の男性ならまず間違いなく全員が振り返っただろう。公園には小さな祠と、並木と呼ぶにはあまりにもささやかな、四本の桜の樹。
  春のぬるい空気に吹かれ、桜の花びらが舞い落ちる。夕焼けの名残を浴びた仄かな紅が桃とも紫とも言えぬ色合いを作り出し、この世のものとも思えぬ光景だった。
  そして、その桜の木の下に幹に背を半ば預け、それ・・はたたずんでいた。
「そ。そこの背広のおじさん。結構イケてるよね」
「君は高校生、か……?」
  男がそう問い返したのも無理はない。
  たしかに女子高のブレザーを身に纏っている。近所の女子中学生が憧れるという名門女子高のものだが、それ自体はさして珍しくはない。問題は、首から上だった。
  年の頃は十六、七とも思える。艶やかなミディアムの髪は、ゆるやかなウェーブを描いて卵形の顔を覆っている。その色合いは墨を流したかのような漆黒。染色していてはこの艶は出せない。となれば地毛なのだろうか。よく見れば、豊かな睫毛に縁取られた、星のように大きな、かすかに紫がかかった黒い瞳。白い肌、すっと通った鼻梁は明らかに日本人離れしており、異国の血が入っていることを確信させられる。それでありながら骨太、肉厚になることもなく、日系の華奢な印象と、きめ細かな肌を備えている。欧亜の交流が生み出した、奇跡のような美貌だった。
「サラって言うんだ」
  簡潔な答えとともに、サラは無邪気な微笑みを浮かべた。弾けるように幹から背を離すと、一歩二歩とステップを踏むように歩を進める。三歩、四歩、そして五歩。
「…………!」
  男は思わず言葉に詰まった。挨拶をするなら三歩でいい。会話をするなら四歩でいい。だが、五歩は。
「イイコト、しない?」
  上目遣いに覗き込む。その妖艶なまでの美しさへの驚愕が過ぎ去ると、男の眼には急速に理解と、もう一つ別の感情が広がっていった。
「いかんな、女子高生がこんなところでこんなことをしていちゃあ」
  至極まっとうな台詞だ、表情と声音さえ排除すれば。どうしてこう男の猫撫で声というのは同性異性、誰が聞いても気持ちが悪いものなのだろうか。
「ああまったくなんて事だ。いつの間に日本の教育はここまで廃れちゃったのかねえ」
  言いつつ顔を寄せる。
「……おじさん、もしかして先生?」
  サラの声にわずかに警戒が混じる。
「そうだよお、先生なんだ。君みたいな悪い子には教育的指導が必要だなあ」
  独創性のカケラもない台詞だったが、本人にとってはお気に入りのフレーズだったらしく、馴れ馴れしくサラの肩に手をまわそうとする。サラの警戒が解ける。教師の相手は手慣れているのか、いかにも明るい女生徒と言った表情を作る。
「じゃあ、今日は優しく指導してほしいなっ」
  その腕からするりと抜けつつ、両の掌を合わせ、サラが飛び跳ねる。
「お腹すいちゃった、なんか食べに行こうよ」
  サラが提案する。これまた常套句だったが、ある種の物事については独創性より形式が重要視されることはままある。とくにこういった、毎日違う相手と顔を合わせる商売・・の場合には。ところが、サラの提案を聞いた男は、一転して顔をしかめた。
「どうしたの?」
  男はぼりぼりと後頭部を掻くと、ぼそりと言った。
「いやあ、俺ね、お金ないんだ」
「はあ?」
「いやーカミさんに小遣い制限されちゃってさー。今月もう苦しいんだよね」
  ナハハハ、と笑って腹を叩く。サラの表情から唐突に蠱惑的な表情が失せた。
「あ、お金持ってないの。じゃあまた今度―――」
  振り返って立ち去ろうとしたサラの腕を、伸びてきた男の手が掴んだ。
「ちょ、ちょっと」
「だからさ、いいじゃん、ここでさあ」
  男の脂ぎった声と顔つきを見て、サラの顔に恐怖と緊張がよぎった。
  こう言ってはなんだが、夜の街にも暗黙のルールというものがある。一応のルールがなければ、カネとサービスの取引は成立しない。というより、少なくとも夕飯くらいは奢るべきだろうし、ましてやホテル代までケチるというのは言語道断である。確かにルールを弁えて遊んでいる連中は、路上で声をかけられた娘について行くことはない。
  ―――自分がルールすれすれで商売をしていることは自覚はあったが、それにしても今日の釣果は最悪と言わざるを得なかった。
「離してってば、ねえ!」
「そんなワガママいう子には指導が必要だなあ?」
  冗談混じりのつかみ合いが、次第に冗談では済まなくなってゆく。捕まえる側と逃れようとする側の、短いが、不毛で深刻な争い。その拍子に、男の手がサラの胸に触れた。
「……あれ?」
  男の声に、かすかに困惑の色が浮かぶ。思わず胸に掌を押しつけてまさぐる。誰がどの方向から見てもエロオヤジそのものの仕草であるが、この時ばかりは彼の脳裏によぎっていたのは下心ばかりではなかった。困惑がいよいよ強まり、疑惑になったその時。
「―――ああもう、しょうがねぇ」
  わずかに低い声。
  その疑問への回答は、ついに与えられることがなかった。
  眼の奥に突如飛び散る火花。反射的に内股になり、すくみ上がる身体。地面にくずおれる間に意識が途切れたのは男にとって不幸中の幸いだった。全力で膝蹴りをたたき込まれた股間から、時間を置いてせり上がってくるあの地獄の悶絶だけはかみしめずにすんだのだから。
 
 
 
「なんでぇ、これっぽっちかよ。本当にカネねえんだなあ」
  先ほどのサラリーマンから抜き取った財布と定期入れの中に指を這わせ、手早く中身を検分しながら、サラは舌打ちした。
「いくら焦ってたからって、客を見る目が曇ってりゃザマあないや」
  頭上を通り抜け、十数秒に渡って続く轟音。山手線沿いに駅と繁華街から少しだけ離れたこの線路脇の公園は、数少ないサラの縄張りだった。手慣れた様子で紙幣とカード類を抜き取り、残ったレシートを地面に丸めて捨てる。次にカードを検分。カネにならない診察券や会員カードを側溝に放り込んでゆく。つづら折りになった飲み屋の割引券と風俗嬢の名刺に舌打ちし、引きちぎってばらまく。
「教師なら図書カードぐらい持ってやがれってんスよ」
  次いで引き当てたのは、クレジットカードとキャッシュカード。それに運転免許証だった。いずれも使いようによっては紙幣より遙かにカネになるカードだ。手早く現金に換えるつてもないではない。と、定期入れに入っている写真に気づいた。それを見つめること三秒。はあ、とため息を一つ。
「スケベオヤジの報いを家族にくらわすことはねえやなあ」
  家族が大事なら女子高生に手ぇ出そうとか考えんじゃねえ、などと呟きながら取り出したのは、可憐な制服には不釣り合いな十徳ナイフだった。ハサミを引き出し、無造作にカードを刻んで側溝へねじ込む。残った財布と定期入れもノーブランド。定期を抜くと、側溝に入らないので公園のクズカゴに捨てた。
「これじゃ二日も食えねぇよ」
  ぶつぶつと文句を言いながら、公衆トイレへ。人目がないことを確認し、素早く入る。海外に比べれば格段に日本の衛生環境は良い方だが、それでも都内の公衆トイレは汚いの一言に尽きる。そんな中でこの公園のトイレは、まだ新設されたばかりという事と、担当の掃除夫がまめな性格なのか、比較的丁寧に掃除が為されている事が相まって、中々の快適さだった。それもサラがここを根城にしている理由の一つだ。個室に入り、扉を閉める。洋式便器のフタを閉め足をかけ、天井近くの貯水タンクの上に手を伸ばす。下からは気づかれない位置から引きずり出したのは、これまた似つかわしくないすり切れたナップザックだった。胸元のリボンを解き、ブラウスのボタンを手早く外してゆく。可憐なチェック柄のスカートも引き下ろし白い両脚を抜く。脱いだ制服を、いずれもしわにならないよう丁寧にたたみ、ナップザックに仕舞い込んだ。入れ違いに取り出したのは、こちらはザックにふさわしい、洗いざらしのTシャツとジーンズ、くたびれたスニーカー。そして青いバンダナだった。ローファーを脱ぎ、ジーンズに足を通す。スニーカーを履いて無造作にTシャツに頭と腕を突っ込み、最後にバンダナを無造作に額に巻き付け、長めの髪を覆う。ナップザックを背負うと、サラは鍵を開け、男子・・便所の個室から出た。と、トイレの入口、洗面所の鏡に映った自身と眼が合う。そこにあったのは、不敵な面立ちに、俊敏さと抜け目の無さを備えた一人の少年の姿だった。
 
  洗面所で手を洗い、口をゆすぐ。今日のオヤジには別にどうのこうのされたと言ったことはなかったのだが、こればかりは気分の問題だった。水を吐き出すと、喉に手をやる。流れるような曲線の首筋。その色は、顔との境界のファンデーションに四苦八苦している女性が見たら、嫉妬に狂いそうな白さだ。咳払いを一つ。やはり少し違和感を感じる。一月前に比べると、かすかに骨張ってきたような気がする。声変わりという奴だろうか。実際のところ、最近は作らないと女の声が出ないようになってきている。
「この商売も年貢の納め時っすかねェ」
  自嘲げに呟く。こんな商売で日銭を稼いでいること自体には罪悪感はない。この街で生きていくのに、腕っ節の強い奴は腕を使う。頭のいい奴は頭を使う。自身の持つものを使うのは至極当たり前だ。早く大人になりたいと思っているのに、成長するほどメシのタネが無くなるという事実に、皮肉な感傷を抱いただけの事だ。
  公園を出て、ザックを担いだまま再び今来た道を戻る。たちまち周囲にネオンが満ち、繁華街が目の前に開けた。路上でたむろする若者達、道に立つ呼び込みの男達の誰一人として、目の前にいる少年が先ほどの妖艶な少女だと気づく者はいなかった。
「八時半じゃ、もうブックバザールは閉まっちまってんな」
  舌打ちを一つ。東京の数少ないところ、それは住人達の生活時間に合わせ、飲み屋以外の店も深夜まで開いている事だった。だがそれにも限度はある。レストランやゲームセンターならともかく、中古書店はさすがにもう閉まっている。今日中に歴史の本を買い込み、ねぐらでゆっくり読みたかったのだが、諦めなければならないようだ。
  と、腹がぐるるる、と抗議の声を上げた。今日はかかり・・・が悪かったので、夕飯を摂る暇がなかった。決断は早かった。いつもの牛丼チェーンでメシを買って今夜は帰ろう。そう思い、通りを一本曲がり、裏道へ入った時だった。
「ようサブロウ、いいとこにいるじゃねぇか、オウ」
  横合いから伸びてきた手に、腕を捕まれたのは。
 
 
 
 

  ◆◇◆ 2 ◇◆◇

 
 
  裏通りに引っ張り込まれる。
  声をかけてきたのは、二人組の少年だった。とは言え、少年と呼ぶのはいささかためらわれる。恐らく歳は十八、九。染めた髪にピアス、派手さを装っているのにだらしなさばかりを印象づけられる衣服、卑屈さと狡猾さとが混じった目線は純真さからはほど遠い。ありていに言えば、繁華街なら世界中のどの街にもいる、路上を縄張りとするチンピラの類だった。
「……ばんわス、宇都木さん、蟹江さん」
  先ほどまで少女の姿でサラと名乗り、今またサブロウと呼びかけられた少年は、ぞんざいな言葉に丁寧な口調で挨拶を返す。相手を持ち上げつつ、かつ、へりくだらない間合いの取り方。そんなものは真っ先にこの街で憶えた技術の一つだ。
「おおっと、それともサラちゃん、の方が良かったか?今日も随分ご活躍だったみたいじゃないの、エェ?」
  宇都木と呼ばれた方のチンピラが揶揄する。それに応じて蟹江と呼ばれた方が下品な笑い声を上げた。
「スンマセン、今は商売中じゃねェんで。如月きさらぎ佐武朗さぶろうの本名でお願いしやす」
  捕まれた腕をさりげなく外しながら、少年……如月佐武朗は静かに、だがはっきりと返答した。と、その言葉にチンピラ二人は過剰に反応した。
「……お、何サブロウ、お前俺達に命令すんの?ンン?」
  語尾にいちいち唸り声をつけるのは、この男なりに迫力をつけようとしているのだろう。成功しているかどうかはさておいて。後ろの蟹江と呼ばれた男がじろりとこちらを睨む。
「いえ、そんな事は決して」
  下手くそめ、と内心でサブロウは自身に向けて舌打ちした。さっきのオヤジの件でヘマを踏んだせいでどうも苛立っているらしい。こんな連中に内心を気取られるとは。この手合いは皮肉や冗談を解する頭はなくても、軽蔑には安いプライドが反応する。気が緩んでる、生き延びたければもっと用心深くなれ。もう何度繰り返したかわからない自戒を心中で呟く。
「だいたいお前よお、最近ちっと稼げてるからってチョーシくれてねえ?あん?」
「そんなことないッスよ。お二人のおかげでいつも商売やらせてもらえてんスから」
  語調に愛想の良さを加えフォローしつつ、サブロウはこの二人が何を言い出すかを正確に推察していた。
「お前、今月のセミナー代まだ払ってねぇだろ、オウ」
  セミナー代、とは奇妙な言葉だが、彼らはあるサークルに所属しており、開催されるセミナーへの参加料金を毎月払う事になっているのである。……が、サブロウも、当のこの二人もセミナーになど参加したことは一度もない。要は古来より延々と続く裏社会の上納金―――ミカジメ、シノギ、上前―――を、現代風にソフトに言い換えたものだ。「シノギをよこせ」と言えば恐喝だが、「セミナー代を払え」ならば建前はビジネスになる。NPO法人に偽装したヤクザがよく使う手口の一つだ。この二人もすでにヤクザの息がかかっており、サブロウのような路上で商売をする人間からシノギを取り立てる仕事を任されている。彼らにとっては将来組に入るための試験でもある。
「やだなあ宇都木さん。こないだいつも通り一万、お渡ししたじゃないッスか」
  一万ンン!?と宇都木がすごむ。典型的な安い脅しの手口。
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。お前がどんくらい稼いでるかってのはわかってんだ、一万ぽっちで済むわけねえだろうがオウ。誰のおかげで商売できると思ってるんじゃコラァ!」
  宇都木が一気にまくし立てる。怒った自分に興奮し、さらに怒れるタイプなのだろう。先ほどより”キレやすく”なっているのがわかる。サブロウからしてみれば、一万は相場として妥当な数字だ。宇都木の台詞は文句ではなくて、明らかに難癖をつけてカネを巻き上げようとするものだった。
「カンベンしてくださいよ。月一万ってのは上の人達も納得してる話じゃないスか」
  この二人が難癖をつけてきている理由もサブロウには推測がつく。この二人はお世辞にも有能とは言えず、集めてくる金が少ないと上のヤクザから脅しをかけられているのだ。他のチンピラ仲間や、上のヤクザからは、”ウッキーとカニで猿蟹コンビ”などと揶揄されている事も知ってはいるが、もちろん口には出さない。
「ウッセエ、だいたいお前には最初見たときからムカツイてたんだよ。いつも済ましたツラぁしやがってよ。一回きちっとヤキ入れてやろうと思ってたんだ、アァ!?」
  歯茎をむき出しにしてすごむ。カテゴリー上は同じ少年、と言っても、相手はほとんど二十歳。片やこちらは本来なら中学に通っていなければならない、貧相な体格のガキ一人。荒事になれば勝てないのは明白だった。
「いや、ホント、そう言われてもどうしたらいいか……」
  何度もそうしてきたように、考え、最適の選択をつかみとる。愛想の良い苦笑いを振りまきながら……一歩、二歩、後退し。
「その話はまた今度に!」
  一転全力で逃走にかかる。だが、その目論見は、
「逃げてんじゃねぇ!」
  表通りへの道を塞ぐ位置に回り込んでいた蟹江に阻まれた。伸びてきた腕を飛び下がって間一髪かわす。一旦逃走を選択した以上、捕まればどうなるかは考えたくもない。避けたものの塞がれた出口。後ろからは迫る宇都木。サブロウはほとんど直感的に行動した。
「ぐげぇ!!」
  飛び下がった勢いを殺さず、むしろ加速をつけて反転し、追いすがる宇都木に体当たりをかます。まさか攻撃されるとは思っていなかったのか、宇都木は綺麗に吹っ飛んだ。それに目もくれず、空いた空間をサブロウは猛然と駆け抜ける。―――裏通りの奥へ奥へと。
「テメェコラ!!」
「待ちやがれクソガキがぁ!」
  すぐに体勢を立て直した二人が追ってくる。ネオンの裏側の夜の中、狭い建物の隙間で作られた迷路を、三人はまるで実験動物のように駆け回った。ともにこの一帯を縄張りとする者同士、地理はわきまえている。料理油の臭いが漂う中華料理屋の裏を、うらぶれた小料理屋の、明滅する看板の置かれた通りを、サブロウは息の続く限り走った。足の速さと体力には結構自信はあるが、相手はタバコまみれの運動不足とは言えほとんど大人、基礎体力が違う。同い年だったら負けねえのによ、と口の中で毒づいてみても、こればかりは仕方がない。それでもどうにか一分、障害物競走のトップを維持し続けた。だが、そこが限界だった。
「あっ……!」
  足がもつれ、アスファルトに勢いよく転倒する。今日はどこまで運が悪いのか。居酒屋の裏口、積み上げられたビールケースの裏から、人間の両脚がごろんと地面に投げ出されていたのだ。ケースに隠れて顔は見えないが、恐らくは用足しにでも出てきてそのまま壁に座り込んでしまった酔っぱらいの類だろう、等という推測をしている暇はサブロウにはなかった。ビールケースをなぎ倒し、派手に転倒。頭を庇った代償として、右の肘の皮膚がアスファルトにそぎ落とされる。
”何でこんなところに……!!”
  その台詞を口に出す事は出来なかった。
「捕まえたぜ?オラ」
  起き上がろうとしたところを、Tシャツの襟首を引っ掴まれ無理矢理に身体を起こされる。嗜虐の笑みを浮かべた宇都木の顔を確認する前に、ボディーブローが一発入る。くの字に身体を追ってたたらを踏んだところで、今度は脇腹に蟹江のフック。もう一度ビールケースを蹴倒し、壁に叩きつけられた。
「あ……かはっ!!」
  体重ウェイトの差は歴然。苦悶に身をよじるサブロウの肩を、宇津木が壁に押しつける。
「ナメた真似しくさりやがってこのガキが!出すもん出せっつってんだろ!アア!?」
  ジーンズの後ろのポケットがまさぐられ、先ほどオヤジから巻き上げた紙幣と定期が抜き取られる。こうなっては半分だけでも返してもらう、などという交渉も通じない。この上はあと二、三発も殴られてやって、今日はとっととねぐらに撤退するしかないか。焦りを浮かべるサブロウの表情をしばらく見つめていた宇都木の唇が、名案が閃いたとばかりに歪む。
「おーいおいおい。これだけじゃ全然足りねえぞ。なあ蟹江?」
「そうだな、全然だな」
「勘弁……してください、これで……全部ですよ」
  言葉を吐き出す度に肋骨のあたりがじくじくと痛む。
「そうだな!それじゃあその分はサラちゃんにサービスしてもらおうぜ」
「ああ、そいつぁいいアイデアだ」
「なっ……!」
  にやにやと笑う二人は、決してサブロウを軽蔑したり、悪罵する意味合いで言っているのではなかった。それならよっぽどマシだ。こいつらは本気だった。自分が何をされようとしているのかに思い至り、背筋が寒くなる。
「離せ!離せよ!!」
  今度ばかりは打算を考える余裕はなかった。全力で抵抗しようとするが、二人がかりで押さえつけられた腕はびくともしない。頭と足を無我夢中で振り回す。その様子に蟹江が舌打ちする。
「うぜぇな。もう二三発入れとこうか」
「腹にしとけよ、痣だらけのツラじゃノれなくなるからよ」
  ぎゃはははは、と顔を見合わせて笑う二人。サブロウの目に不覚にも涙がにじんだ。痛いからでも、恐怖からでもない。そんな事にはもう慣れている。ただ、またこんな奴らの暴力に屈してしまう事が、そう、悔しかったのだ。
「んじゃ、まずは一発―――」
  蟹江が拳を大きく引く。見せつけて脅すためのテイクバック。拳がめり込むその直前、サブロウは反射的に目を閉じた。
 
  ぐしゃり、と。拳が肉にめり込む音。
  はらわたを抉られるような痛みが…………ない?
 
「ったく。誰だオレの足を蹴ったヤツは!?」
 
「え……?」
  目を開く。そこには自分同様に呆けた顔の宇都木と、そして蟹江―――が、いない。
  と、唐突に派手派手しい物音が炸裂した。視線を向けると、八メートルほど離れた隣のカラオケボックス裏のゴミバケツに、ずっぽりと頭を突っ込んだ蟹江が倒れて転がっていた。
「あのよ。ちょっといいか?」
  蟹江が先ほどまで存在していたはずのあたりから、突如声がかけられる。
「良くわかんねぇんだけどよ。とりあえずオメェらがそこのチビを二人がかりでどつき回してるってのはマチガイねえよな?」
  そこに、一人の少年が立っていた。
  年の頃は十四、五か。となればサブロウよりは若干年上ということになる。同世代の平均からすれば少し小柄で痩せているが、ひ弱な印象は微塵も感じない。薄汚れたジーンズにスニーカーというサブロウと似たり寄ったりの格好だが、薄手のタンクトップが浮き上がらせる上半身と、そこから突き出した二本の腕には、無駄のない筋肉が骨をべったりと覆うようについている。見せるための膨れあがった筋肉ではない、一流の男性バレエダンサーのような絞り込まれた身体だった。左手をジーンズのポケットに突っ込んでいるのはいいとして、問題は右手だった。親指でコインを宙に弾いて、落下してきたそれを掌でつかみ、また弾き上げる。無意識でやっているのか、別に格好をつけた様子もない。
  そして、何よりその表情。ぼさぼさの長めの髪の下から覗く吊り上がり気味のその瞳には、ひ弱と呼ぶにはあまりにも強靱な、いや、凶暴とも呼べる光が宿っていた。
「な、何だテメェは?蟹江に何しやがったおい」
  一つ、仮説を建てる事は出来る。この少年が横合いから、蟹江を八メートルも殴り飛ばしたという説だ。もちろん、そんな馬鹿馬鹿しすぎる考えを放棄しているから、宇都木は少年に質問している。その、当然といえば当然の宇都木の問いかけを、
「おい、そこのチビ」
  まるっきり無視して少年が問いかけてきた。宇都木に押さえつけられたまま、サブロウは腹の痛みをこらえて顔を上げる。
「助けてやるから金だしな。五千円でいいぜ」
  ぞんざいな口調。あっけにとられたままのサブロウに、右手でいじくり回していたコインを指に挟み、これだよこれ、と突きつける。それは、白銅で鋳造された銀色の日本硬貨、つまりは百円玉だった。裏通りに漏れたネオンの光を弾いて、わずかに煌めく。
「あ、あんた……何モンだよ」
  サブロウの問いも当然といえば当然だったが、少年が口を開くより早く、
「てめぇ、ツレを呼んでやがったのかよクソが!アア!?」
  自分たちが二人がかりで追いかけ回したことを遠くの棚に放り投げ、宇都木が喚いた。掴んだままの肩を、また壁に叩きつける。息が詰まった。一度ならず何度も。少年が険しい目でこちらを見つめている。
「出すのか出さねえのか、さっさと言いやがれ!」
  そんな事言ったって、もう出す金なんてないんだよ、と心中で毒づいたところで、一つ考えが浮かんだ。
「そ、そいつらに取られた金があるから……それを取り戻したらアンタにやるよ」
「サブロウ、テメェ!?」
  少年の口が両脇につり上げられ、牙を思わせる歯並びが剥き出しになる。
「ショーダンセイリツ、って奴だな」
  親指を強く弾くと、弄んでいたコインが澄んだ音を立て、一際高く夜闇に跳ね上がった。ここでようやく状況を把握したらしい宇都木が、サブロウを突き飛ばし少年に向き直る。
「チョーシくれてんじゃねぇぞこンガキがぁぁ!!」
  助走して加速と体重を乗せてのパンチ。路上の喧嘩ではそれなりに有効な一撃だった。
「じゃあまずは自己ショーカイだ。オレは―――」
  宇津木のパンチが顔面を捉える直前。跳ね上がった百円玉が少年の右の掌に収まった。コインを握りしめ、掌が拳になる。
  その瞬間。サブロウは、自分が手品でも見ているのかと思った。
  顔面に飛んできた宇都木のフック。被弾の直前まで少年は棒立ちだったはずだ。だが。
「え!?」
  打撃の音が鳴り響いた時、当たっていたのは少年の右の拳の方だった。その絞り上げられた細身の身体から猛烈な勢いで撃ち出された右フックが、奥歯全部を粉砕するほど宇都木の頬にめり込んでいる。かわしざまのクロスカウンターとか、そういった技術ではない。ただ単に、棒立ちの状態から、着弾直前の宇都木のフックより早く己のフックを振りかぶって叩き込んだだけ―――理屈ではわかる。だがそんな事が可能なのか?
  またも派手派手しい音。宇津木の身体は実に八メートルの距離を引き飛び、先ほど蟹江が突っ込んだままのゴミバケツに、狙い澄ましたように仲良く頭を突っ込んだ。
「―――乾史。犬神乾史ってんだ」
  両の掌をはたいて埃を払う少年。その様子を見て、さっきのはやっぱり何かの手品に違いない、サブロウは思った。なぜなら、先ほど確かに右手に握りこんだはずの百円玉が、開いた掌のどこにも残っていなかったからだ。二人のチンピラを吹っ飛ばし、乾史と名乗った少年は、サブロウを見やってにやりと笑う。その両眼が、かすかに金色に光っていたように見えたのは、果たして気のせいだったろうか。
「あ、あんたが、あの……『狂犬』犬神乾史!?」
  サブロウの口から、知らず驚嘆の声が上がっていた。
 
 
 
 

 ◆◇◆ 3 ◇◆◇

  
 
  ―――誰かが嗤っている。
  演技や挑発じゃない。それは、ある意味では純粋な、ただの悪意だった。
  四方から嗤いの雨が降り注ぐ中。彼はじっと俯いていた。周りはそれを、彼が屈辱に打ち震えているのだと思っていた。確かにそうでもある。だが、理由はそれだけではなかった。
 
  掌の中には、銀色の金属。
  鈍く輝くそれは、綺麗な円を描いている。
  初めて見るものじゃない。それどころか、しょっちゅうそれを使ってきた。自動販売機でジュースを買うときもそうだし、週に一度、スーパーマーケットの特売に買い出しに行くときも毎日のように使っていた。ごくごくありふれた、それは五百円玉だった。
  なのに。今は吸い込まれるように、目を離すことが出来ない。彼はその硬貨が、どこかで見た別なモノであるような気がしてならなかった。
  心臓の鼓動が、早鐘のように打ち鳴らされる。
  それを見ていると、嘲笑に傷つけられた、いや、傷つけられ続けてきた心の生み出す熱が、どこかへ一点へ収束するような気がした。鼓動の度に肉体が昂ぶっていき、それと裏腹に、気持ちは不思議なほどに落ち着いていく。まるで、遠く離れていた我が家に帰ってきたかのように。熱がどんどん収束していく。何かが弾けそうな、この感覚。危うさを感じる意識と、この先に進みたいという意識が葛藤し合う。
 
  いつのまにか、嗤い声は止まっていた。
  周囲も気付き始めていたのだ―――中学生とはいえ。俯いたままぶるぶると震えだした彼の様子が、尋常ではないと。
  そんな周囲の様子も目に入らず、彼は高まる己の内なる波動を自覚しつつ、ただ掌の上の硬貨を見つめていた。先ほどから考え続けていたひとつの疑問。突如、その時彼の脳裏に答えが閃いた。
 
  ―――ああ。まるでお月様みたい・・・・・・・・・なんだ。
 
  ぶつんと、ドコカでダレカのナニカが切れた音がした。コインを握り込み、ゆっくりと顔を上げる。そこにはまだ嗤いの表情を中途半端に貼り付けた、この羊どもの群れの頭が居た。
  そいつがぱくぱくと上顎と下顎を開閉させる。
  ナンダテメエ、ヤロウッテノカ、オレヲナグッタラドウナルカ、
  ついでに、意味の為さない吠え声まで上げている。馬鹿かこいつは。捕捉されたエモノが何を悠長に吠えている。そんな事をしている間に一歩でも逃げないから―――ほら、こうなった。
  イタイイタイ、ナンダヨマジデナグルナヨ、
  狩られたエモノが、己の状況を理解できず啼いている。ああ、こいつは愚図なのか。彼は理解した。ならば理屈は簡単だ。弱いうえに愚図な生き物は、ただ狩って喰らうだけ。二発、三発と。己のキバを立てて引き裂いてゆく。
  ヤメテ、モウヤメテクレ
  飛び散った歯の欠片が拳に切り傷をつくる。まだ息があるのか。黙らせるべく拳を振り下ろす。
  視界が朱く染まった。
 
 
 
 
  ……目を覚ますと、薄汚れた漆喰の天井が目に入った。
  ひびの入った頭上の窓ガラスから、四月下旬の穏やかな春の朝日が注いでいる。一つ大あくびをすると、犬神乾史はくるまっていた毛布から身を起こした。けばだっていて、少し埃っぽい。隣を見ると、同じような毛布がもう一つあったが、そちらはすでに畳まれていた。寝起きの頭が徐々に覚醒し、今自分が置かれている状況を再構築していく。今自分が居るのは、たしか裏通りにある何かの会社の倉庫だったはずだ。昨日路地裏で寝ていたときにゴタゴタに巻き込まれ、そん途中でいつものように、用心棒代を巻き上げようとして―――。
  そこまで思い出した時、乾史は反射的にあたりを見渡していた。さして広くもない室内、先ほどまで隣の毛布にくるまっていたはずの人物はすぐに見つかった。と、起き上がろうとした拍子に腕が触れたのか、側の棚から何かが落下し、乾史の頭に直撃した。
「ぐあ!?」
  やたらと重量がある。すっかり眠気が覚めた頭で、落下してきたものを確認する。それは分厚い一冊の本だった。タイトルに『世界の歴史IV』などと書いてある。棚を見上げると、そこには無数の本が並べてあった。歴史の本、文学書、英語の教科書、なにやら科学の雑誌と思わしき本、数学の本。それからなぜか料理の本もある。乾史にしてみれば見るだけで頭が痛くなる、およそ廃倉庫には似つかわしくないものだった。いったいどこから集まってきたのだろう、そんなことを考えていると、
「おはようございます、アニキ」
  声をかけようと思っていた相手から、先に声をかけられた。倉庫の片隅のコンセントはどうやら生きているらしい。そこで昨日助けたガキ―――サブロウは、どこかから拾ってきた電気式のポットでお湯を沸かしていた。
「コーヒー、飲みますか?」
「…………あのなおい」
  とりあえずそこまで口に出して、この後どう続けるべきか迷った。てめぇ何コーヒーいれてやがんだよ、というのもどうにも間が抜けている気がするし、飲みたくない、というのも悪い気がする。このようなことを逡巡した結果、出た言葉は次のようなものだった。
「お茶がいい」
  お茶ですか、とサブロウは驚いたが、すぐに、ありますよ、と返すとどこからか急須を取り出し、茶葉を振り出し始めた。
「緑茶はないんすけど。ほうじ茶でいいっすか」
「ああ、オレはそっちの方が好きだし―――って、いやそういう問題じゃねえ!」
  乾史は床を叩いた。不当な扱いに打ちっ放しのコンクリートが抗議の声を上げる。
「もしかしてウーロン茶っすか」
「ちげぇ!問題はなんでオレがお前のねぐらでこうしてノンキに茶なんか飲んでんのかっつーことだ!!」
  言われたサブロウの方はきょとんとした表情。
「なんでって……連中をノしてずらかった後、あっしが泊まるところはあるのかって聞いたら考えてねえっていったのはアニキじゃないですか」
「ぐ」
  そういえばそんな事も言ったような気がしないでもない。その日はあの裏通りのビールケースに埋もれて一晩を過ごすつもりだった。春は唯一、寒さも暑さも気にせず路上で一夜を明かすことが出来る季節なのだ。だがだからといって布団が恋しくないわけはない。こいつの勧めるままにねぐらに上がり込み、色々あって疲れていた乾史はそのまま毛布にくるまって眠り込んでしまったのだった。
「あ―――ああ。そうだったかも知れねえが。だがま、それはそれとして。もう朝になったんでな。オレは行くぜ」
「え、もうお茶入ったっすよ?」
  思わず喉が鳴る。たかがお茶と侮るなかれ。公園の水道水しか飲めない生活を一週間も続ければ、現代人の舌はたちまち、お茶やコーヒー、清涼飲料水の味を求めて止まなくなるのだ。
「世話かけてわりぃな。だがオレは一匹オオカミ。他人の世話になるのはガラじゃねえんだ」
「朝ご飯も用意できてますけど」
「ナヌ?」
  サブロウの指さす方向には、かすかに蒸気を吹き上げる炊飯釜と、カセットコンロにかかった味噌汁が、たしかにあった。
「おめぇこんな炊飯器どこで……」
「こないだ家電リサイクル法が制定されたじゃねえですか。あの時期を見計らって、何かいらない家電があったら回してくれってあちこちに頼んどいたんでさあ」
  中古っつっても全然使えるのばっかりですしね、とサブロウは嬉しそうに笑った。
「かで……なに法だって?」
  乾史はそんな法律が制定されたことなど知らなかった。もっともこれは、十五歳の少年としてはごく当然の反応だっただろう。
「おめえ、歳はいくつだ?」
「あ、もうすぐ十四になります」
「……マジ、かよ」
  目の前の、自分より年下の少年。その顔をまともに見ることは出来ず、乾史は目を反らした。
「で、ご飯炊けたんすけど……食べませんか?アニキ」
  オレは一匹狼だ、他人の世話にはなんねぇ、まして助けたとは言え自分より年下のガキにメシを食わされるなんてプライドが、いや確かにこの味噌汁は男が作ったとはぜってぇ思えねぇほど美味そうないい香りなんだけどそれはそれとしてだな、
「海苔の佃煮もありますし」
「食べる」
  そういうことになった。
 
 
 
 

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