小説 『人災派遣のフレイムアップ』Ex 
『星を見る犬』
(from リプレイ:人材派遣のCCC)


 

<<back          next>>

 
 

◆◇◆ 4 ◇◆◇

  
 
  結論から言えば、乾史が空きっ腹であるという条件を除外しても、朝飯は十二分に美味かった。ジャンクフードで食いつないできた乾史にとって、まっとうなメシなど食べるのは果たして何日ぶりだっただろうか。炊きたての湯気立つご飯に存分に海苔の佃煮をのせ、一気にかき込む。熱いご飯とやや冷たい佃煮の甘みが絶妙な調和を引き出し、脳にダイレクトに旨味成分を叩き込んでくれる。
「たしかに、うん、これはウマい、んだが、それは、それとしてだな、聞きてえことがある、と、おかわりいいか?」
「どうぞ、アニキ」
  乾史の突き出した茶碗に、サブロウが炊飯器から飯を盛って返す。
「そうだ、それ。何だそのアニキってのは」
  そこでようやく乾史は、昨夜来の根本的な疑問を投げつけることが出来た。
「つうかだな。なんでお前はオレをわざわざねぐらに案内して、泊めたうえに飯まで食わせてくれるんだ?そりゃ確かに昨日はヤベェところを助けてやったがよ。その分はきちんとあのサルみてぇなチンピラから取り返した分で払ってもらったじゃねぇか」
「何って。アニキはアニキですよ。『狂犬』乾史っていやあ、今やこの街の人間で知らないヤツは居ませんや。本物に会えるなんて、それこそ夢みてぇな話でさあ」
  ぞぞぞ、と味噌汁をすする乾史の手が止まった。サブロウは目を輝かせて、目の前の乾史に向かって、彼自身の情報をとうとうと並べ立てた。
 
  『狂犬』乾史。
  それが目下の犬神乾史の通り名だった。数ヶ月前に、ふらりとこの街にやって来た素性の知れない少年。外見はどう見てもみすぼらしい浮浪児のそれ。まだ高校生とも思えないこの少年は、だが、喧嘩においては無類の強さを誇った。確かにこの街のヤクザ者にも喧嘩ゴロマキ自慢の者は数多い。ドス一本で五人相手に斬り込んでいった、なんて武勇伝はそこら中に転がっている。がしかし、乾史の強さは明らかに次元が違った。特に大柄でもない十五の少年が拳を振るえば、プロレスラーのような大男が宙に舞い壁に叩きつけられる。ドスを握った本職のヤクザ十人を相手に互角以上に立ち回った事もあった。当初は、生意気なガキをシメようとやってくる不良やヤクザ者達を返り討ちにしていただけだったが、そのうちに乾史は自分の腕で食い扶持を稼ぐようになった。
  用心棒稼業……と言って良いものだろうか。夜の街を徘徊し、カツアゲにあったり因縁をつけられている人を見つけては、「助けてやるから金だしな」と半ば一方的に助っ人に入り、用心棒代を巻き上げる、という商売を行っていたのだ。もちろん、こんな事をしていればあっという間に裏社会の人間の恨みを買う。有形無形の妨害があった。だが、乾史はそのいずれも腕力ではね除けてきた。どこにも属さず、どんな相手にもかまわず噛みつく『狂犬』。普通の人間とは思えない強さを備えた、異能・・の少年の名前は、暴力を糧に栄えるこの街の裏社会に突如として現れた彗星のようなものだった。そして昨夜、乾史はいつものように街をさまよい……たまたまタチの悪いチンピラ二人に絡まれていたガキを助けに入ったのだった。
 
「―――あっしはこのとおり、チビで女みたいなツラしてるから、誰からもナメられるんでさあ」
  サブロウは自嘲気味に言った。たしかにそうだろう、と乾史も思う。こうして明るいところで面と向かい合って男言葉で話されていても、新たなおかわりを盛りつけているその姿は、一向に男とは思えない。面立ちといいバンダナでまとめた髪といい体格といい声といい、どう見ても少女のそれだった。前に一度だけ、新宿の裏通りでストリートファイトの王者を張っているとか言う女子高生を見かけたことがあるが、あれなぞより数万倍はこちらの方が女性らしい。実際、乾史ではなく他の男がこの状況にあれば、美少女にお膳を世話してもらって至福の刻に浸るか、あるいはその正体が少年と知って深く煩悶するかのいずれかだったろう。幸か不幸か、少年犬神乾史は、まだ女には興味がなかった。
「昨日みたいなこともしょっちゅうでしてね。だから上手く立ち回ろうと、小賢しいことばっかり憶えたんですが。しょせん小手先ですよ」
  料理の腕や家電製品をどこからともなく集めてくる才覚も、この街で憶えたのだろうか。
「そんな時にね。一人でヤクザをぶちのめしちまうとんでもなく強ぇヤツが現れたって噂を聞いたんです。しかもあっしと大して歳が変わんねぇって言うじゃないすか。ぜひ一度お会いしてぇ、と思っていたら、まさか助けてもらえるなんて。昨日はさんざんでしたが、最後はマジでツイてやした」
「あー、なるほど。そーいうことね」
  乾史は最後のご飯をかきこんで納得した。となれば、これ以上ここにいる理由もない。
「メシを食わせてもらったことは感謝してるぜ。んじゃあ、またどこかで、」
「あの!実はアニキにお願いがあるんすが」
  せっぱ詰まった大声に、飛び上がる。
「な、なんだよ」
  サブロウは言い出すべきか否か、しばし口ごもっていたが、やがて意を決して言った。
「あっしに男を教えてもらえやせんか?」
「―――は?」
「あっしも、いつまでも女のカッコして金巻き上げる商売続けてるわけにはいかねえんでさあ。だからあっしも、アニキみてぇに誰にもナメられないようになりてぇんです!」
「―――あ、ああ。いやそう言われてもな。そんなもん教えるモンでもねえだろ」
「もちろんタダとは言いません。もっと金払うから、しばらくあっしの用心棒をしてもらえやせんか?アニキの傍で自分で見て勉強しますから」
  ああ、つまりはこのガキは、これを頼みたいがためにオレをここまで連れてきてメシを食わせた、ということか。サブロウの言いたいことはわかったが、乾史としては一つ確認をしておかなければならなかった。
「……おめぇ、こう言っちゃなんだがよ。オレのことそんなに信用していいのか?」
  上手く立ち回ってきた、とはサブロウ自身も言っていたことだ。その本人が、易々と自分を信じるというのは、どうも腑に落ちなかった。
「正直、この街ではどいつもこいつも信用できねぇッス。でも、誰も信じなきゃやってけねぇ、ってチュウの姐さんに教わったモンで。それに、アニキは昨日の夜、取れる金がまだあってもあっしから奪わなかった」
「……そりゃ最初に一回五千円って言っちまったからな」
「だからあっしは、アニキならいいと思ったんス」
  サブロウは屈託のない笑みを浮かべる。乾史は柄にもなく考え込んでしまった。男を教えるだのなんだのは悪い冗談として、ただ用心棒を数日続けるというのであれば、今までもなかったわけでもない。
「メシはつくのかよ?」
「へい!さっきのくらいでしたら何とか三食」
  悪くない条件だ。それどころか、昨日までの乾史の食生活ときたら、あと少しで生ゴミを漁らなければならないレベルに達しつつあった。断る理由は、否、断れる理由がなかった。
「ま、一週間くらいなら別にかまわねーけどよ」
  そっぽを向いて答える乾史、満面に喜色を浮かべて飛び上がるサブロウ。
「商談成立っすね!じゃあ、早速ですいませんがアニキ、これから昼の仕事があるんです。一緒に来てくれますか?」
「ああ。メシも食ったし腹ごなしをしねえとな」
  もともと二人とも準備をするほどモノを持っているわけでもない。倉庫の外の水道から引いたホースで顔を洗い口をゆすぐと、それで準備完了だった。
  出がけに乾史は、入り口を振り返り、残っていた最後の疑問を口にした。
「そういやこのたくさんの本よお。えらく小難しいけど、誰が置いていったんだ?」
  改めてみると、化学や政治経済、ダイスウキカとやらの参考書もあった。サブロウは赤面すると、
「あっしです。学校行ってねえモンで。時々、余ったカネで買って読んでるんでさあ」
  乾史は今朝何度目かわからない驚きに言葉を失った。
 
 
 
  二人が倉庫から出て行く。だが、その様子をじっと見ていた人間がいたことに、サブロウも、そして乾史も気づくことはなかった。
「おやおや。これは些か、奇妙な事態になっているようだな」
  倉庫の近くの通りの影で、その男は誰にともなく呟いた。困っている口調とは裏腹に、その表情はどこか楽しげだった。歳の頃は二十そこそこか。陽に良く焼けた肌に、鉛色の瞳。短めに刈ったやはり鉛色の髪の毛を、整髪料で刺々しく逆立たせている。
  異様な体型の男だった。百八十五センチの身長は、高いとはいえさほど珍しくはない。だが、問題はその脚と腕の長さだった。いずれも異様に長い。同じ身長の平均的日本人の、腹の位置に腰がある。そしてその膝に届きそうな、長い腕。対照的に頭は小さく、九頭身に達しているのではなかろうか。そのため実際の身長以上に背が高く見える。
「巣穴を嗅ぎつけてみれば時わずかに遅し……か。いやいや、焦りは禁物」
  細長い身体に、ウィングカラーのシャツ、地味だが明らかに上質とわかる黒のベストとパンツを纏っている。履いている革靴は丁寧に磨き込まれているのか、遠目にも艶が見て取れるほど。その格好はまさしく十九世紀の執事さながらだった。だがしかし、その胸元は大きくはだけられ、鎖と錠を模した銀色の首飾りがかけられている。よく見れば、袖のまくり上げられたその腕、耳にも、鎖や拘束具、銀で作った髑髏の小物が光っており、ストリートのパンクファッションさながらだった。執事とパンク、体制と反体制という相反した要素を無理矢理一つにまとめたような、なんとも統一性のない姿だった。
「巣穴で見つけた邪魔者は、果たしてただの子犬かどうか……?と」
  眉をしかめて携帯を取り出す。マナーモードに設定した携帯が震えていた。舌打ちしたげな表情をこらえて、電話に出る。
「もしもし。……ええ。ちょうど見つけたところです」
  たちまちスピーカーから漏れる大声。どうやら電話をかけてきた男は相当に怒っているらしい。男は眼を閉じて、受話器を離した。
「しかしですね旦那様。追跡中の連絡はご勘弁頂きたいと申し上げました。もしも携帯の音で気づかれたりでもしたら厄介です」
  またもスピーカーから流れる大声。耳を離したまま男は回答する。
「ええ。今居場所の側に居るのですが。どうも面白いことが起こったようでしてね。どうも用心棒を雇ったらしい。中々に先見の明がおありなさる」
  そう言ったときだけ、男の声にかすかに賞賛と皮肉の念が混じった。黙り込む電話の向こう。一転して何かを確認するように、低く押し殺した声が流れる。
「いえいえ。そんな大層なものではございません。ほんの子供なんですがね。子供だからと油断してかかれないのがこの業界の怖いところでございまして」
  電話口の声が二言三言述べる。それに頷いて男は言った。
「いずれにせよ一週間もあれば果たせるかと。……はい。かしこまりました旦那様」
  通話を切り、ポケットにしまう。その時、倉庫の方向から風が吹いた。まだわずかに残った桜を散らし、通りを抜けてゆく。風が運んできた桜の薫りを、男は鼻をひくつかせて、丹念に吸い込んだ。
「―――臭いは憶えた。もはや地の果てまで行っても逃げ切ることは出来ん」
  男は、乾史とサブロウの消えていった通りの奥へと視線を転ずる。身につけた鎖のアクセサリーが、じゃらじゃらと音を立てた。その目線の先を、どこからか漂ってきた桜の花びらがかすめる。男はそれを愛でるようにしばし眺めると――――唐突に、その右の拳を振り抜いた。
「……はたしてどこまで頑張れるか。見せてもらおう、用心棒くん」
  花びらが地面に落ちる。羽毛より軽いはずのそれは、真っ二つに切り裂かれていた。
 
 
 
 

  ◆◇◆ 5 ◇◆◇

  
 
  この歓楽街には、仕事を求めて、あるいは野望を抱えて様々な国から人が流れ込んでくる。国際都市ならばどこでもそうだが、異国で裏社会に片足を突っ込んで暮らす彼らは、自然と互いに助け合うようになる。彼らは出身地ごとに縄張りを作り、困ったときには言葉のわかる先達が面倒を見、あるいはその恩返しにと協力する。良く言えば地域社会に根ざすということだし、悪く言えば、徒党を組むということだ。二人がたどり着いたのは、この街の裏通りの一つ、台湾系の人々が多く住む通りだった。一階にはいくつもの中華料理屋が店を出し、上の階には漢方医や鍼灸医が入っているらしく、繁体字の看板が頭上を埋め尽くしている。日本語を探す方がむしろ難しいくらいで、少し気を抜くとここが日本だということを忘れてしまいそうだった。その一角、小さなあまり綺麗とは言えない中華料理屋に、サブロウは迷わず入っていく。
チュウ姐さん、おはようございます!」
  中華料理と看板を出していても、書いてあるメニューは乾史には読めない。ラーメンもギョーザもねえのかよ、などと呟いていると、カウンターの奥から返事があった。
「おーサブくん、毎日ご苦労!!」
  現れたのは、二十代後半とおぼしき、中華系の女性だった。ボリュームの多い髪を、いわゆるお団子状にまとめている。大きいが吊り気味の目と、一本通った鼻筋が、気の強さを象徴しているかのようだ。烏龍茶の宣伝に出てきそうな、細い腰と滑らかな肌。今は味気のないブルゾンを羽織っているが、チャイナドレスがさぞ似合うことだろう。
「ウチの連中も君くらい早起きだと助かんだけどね!昨日の夜のお仕事はどうだった?またオヤジをカモったワケ?あれ、その後ろの目つきの悪い子は?」
  一気にまくし立てて、乾史の方を見つめる。いきなり自分に話を振られた乾史の眉が急角度に跳ね上がった。と、慌ててサブロウが割って入る。
「こちら犬神乾史さん。今日からあっしのボディーガードをしてもらうことになりました。アニキ、こちらがあっしが働かせてもらってるこの店の主人、朱姐さんでさあ」
「犬神?まさか、『狂犬』乾史?」
  乾史に向ける朱の視線に、単一でないものが混じる。
「……ンだよ、何か文句あんのかよ」
  飛ばされたガンつけにはとりあえず応じるのが乾史の流儀である。にらみ返すと、朱はすいと視線を外した。
「あ、うん、別にね。有名人がいきなり現れたんで少し驚いただけよ。アタシは淑娟スーチェンチュウ淑娟。ここで弁当屋と、あとは医者みたいな事もやってるわ。よろしくね」
  一転して、気さくに手を差し出す朱。そうなると別に喧嘩を売る理由もない。
「あー。ええと。犬神乾史だ。よろしく」
  握手を交わすと、朱はサブロウに訪ねた。
「で、何?この乾史君も配達手伝ってくれるわけ?」
「配達?配達ってなんだよ」
「あ、いえ。アニキはあっしの用心棒なんでさあ。仕事はいつも通りあっしがやりやす」
「そうなの?そりゃ助かるわ〜。二人分のバイト代出せるほど、今ウチ余裕ないのよね」
  からからと朱は笑うと、カウンターの奥からなにやら巨大なプラスチックの箱を三つほど引っ張り出してきた。
「そんじゃさっそく今日のノルマいってみようか!!ハイこれね」
  ずん、とカウンターに置かれたそれに、乾史は見覚えがあった。
「もしかしてコレ…給食を運ぶときのあの箱か?」
  それは小学校や中学校などで、大量の弁当を運ぶためのバットに、太いベルトがくくりつけられているものだった。それを見て、ようやく乾史にも、サブロウがやろうとしている仕事が何かわかった。
「弁当配達ってわけか」
「ええ。この街のあちこちで働いてる台湾系の人にお弁当を届けるんです。コンビニの飯は高ぇし、やっぱり中華料理を食わねぇとリキが入んねえって人も多くて」
  そういう人に出来たての弁当を配って歩くのがサブロウの今の仕事なのだそうだ。皆、この通りからそう遠くない街のどこかで働いている。店の裏口やビルの三階などから弁当を手渡すには、原チャリや自転車よりも歩いて配ってしまう方が早いのだとか。
「離れたところにはちゃんと原チャリの人が向かってますけどね。朱姐さんの店はこの仕事始めてから随分繁盛したそうですよ」
  乾史に説明する間にも、要領よくバットを固定し、ベルトを背中に回す。ちょうど駅弁を売る人の格好だったが、いかにもその姿は重そうである。
「お、おいおい。さすがにそりゃムチャなんじゃねえのか?」
「いえ…平気ッス…!毎日やってますから…!それじゃ行きましょうか、アニキ…!!」
「お、おう」
  危なっかしげな、だが意外とバットを揺らさないように店の外に出て行くサブロウを追う乾史。
「十二時半までには帰ってきてね〜」
  その二人を、朱は店の出口で見送った。遠ざかる二人のうち、乾史の方を見ながら、朱はしばらく腕組みをしてなにやら考え込んでいた。
 
 
 
「やっぱりオレが少し持ってやるよ」
  ようやく正午が近づく頃。三つあった重いバットも、どうにか一つが片付いている。ただ単に近い人から配ればいいというものでもなく、それぞれの職場の昼飯の時間に合わせて配らなければならないため、同じ場所を行ったり来たりという事もままあるのだ。正午を過ぎれば皆が一斉に食事を取り始める。ここからの三十分が勝負所だった。
「いえいえ、いいんです。アニキは楽にしててくだせえ」
「そうは言ってもよお」
  これほど重いバットを背負って歩き、あるいは階段を上り下りしながら、サブロウは一度も乾史に持ってくれとは言わなかった。しかし乾史としてみれば、自分より年下の相手が重い荷物を運んでいる横に、手ぶらでついて回るというのもどうにも居心地が悪い。
「平気っすから。おかまいなく」
「いや、けどよ……」
  そんな押し問答が何度か続いたあと。
「アニキ。これはあっしの仕事でさあ。あっしにやらせて下せえ」
  サブロウが物腰こそ柔らかだが、きっぱりと断った。
「助けてくれるのはホントうれしいんですが、あっしはこれで金をもらってやすから…手を抜くわけにはいかねえんでさ」
「……そうかよ」
  今しがた弁当を配り終えた雑居ビルの階段を降りていくサブロウ。会話が途切れてしまったので、乾史は手持ちぶさたにポケットから百円を取り出すと、昨夜のように手のひらの上で弄び始めた。親指と人差し指でくるくると回してみたり、時には弾いてみたり。
「次はどこだっけか?」
「三軒先のクリーニング屋さんでさあ」
  そう言って、ビルから出たとき。
  乾史の頭上に、わずかに陽がかげった。
「アニキ、アブねえ!」
「あん?」
  見上げて―――硬直する。古びた雑居ビルにぶら下がった、やはり古びた中国語の看板。春風に煽られて錆ついた金具が折れたのか、乾史に向けて、今まさに真っ直ぐに落下してくる最中だった。バットを抱えて動けないサブロウ。咄嗟、乾史はコインを握りしめ、猛然とジャンプ。
「うらぁぁぁあああ!!」
  渾身の右ストレート。空中で放たれた拳に叩き飛ばされ、看板が垂直から水平へと軌道を変えて吹き飛ぶ。まるで一昔前のアクションゲームのような光景だった。通路向かいの電柱に看板が激突し、けたたましい金属音をまき散らす。
「ったく、いったい何だってんだ」
  何事もなかったかのように手を払う乾史。派手な物音を聞いた住人達が顔を出すが、まさか彼らも、向かいの通路にいるこの少年が下手人とは思わなかったらしい。乾史はサブロウを促し、悠々と三軒先の目的地へと向かう。
「ツイてないっすね、アニキ」
  それを聞いた乾史が横目で睨む。
「てえか、お前、昨日オレが助けに入る前にもからまれてたんだろ?ひょっとしてツイてないのはお前のせーじゃねーのか?」
「面目次第もありやせん……」
  自覚するところがあったのだろうか、人差し指で頬をかきながらサブロウが苦笑した。と、改めて吹き飛んだ看板を見る。
「それにしても、改めて見るととんでもねえパンチですねぇ…。これが噂の、『コインで殴る』ってヤツですか?」
  まあな、と乾史は気のない返事をした。
 
 
  犬神乾史の強さはこの街で幅広く知られることになったが、それとともに一つの特徴も知られることになった。それは、彼が喧嘩の際に、必ずポケットからコインを取り出し、それを握りこむ、という事だった。
「百円玉をこう、ぐっと握ってな。思いっきりパンチをぶちかますんだ。拳が重くなるから威力も増えるってわけよ」
  もっとも単純な物理で考えれば、打撃の威力は質量×速度ということになる。となれば、小銭を握りこんで拳の重さを増してやれば、それだけ単純にパンチの威力が増加するのは道理だ。乾史に限らず、街の不良がよく使う、お手軽な喧嘩テクニックの一つだった。
  だが、もちろん小銭を握った程度で少年がプロレスラーを殴り飛ばせるようになるわけもない。どう理屈をこじつけたところで、乾史の力は、拳が重くなる云々で片付けられる話ではなかった。そして何より、説明できない事がある。握りこんだ硬貨は、手を開くと消えている・・・・・のだ。どこに行ってしまうのかは、乾史にもわからない。
 
 
「そんな…。そりゃ普通の人間に出来るこっちゃねえですよ」
  乾史の歩が止まった。
「もしかしてアニキ、超能力者かなんかじゃないですか?こう、この街でも結構噂聞くんですよ。ヤバイことが起きると出張ってくる、企業に雇われた凄腕の連中がいるって」
「さあな。んなヤツらのことは知らねぇよ」
「でもアニキ、百円玉を握ってそんだけスゲェ力が出せるんなら、五百円玉だとどうなるんですか?」
  光を反射して鈍く輝く、銀色の硬貨。
「……この街でためしたことはねぇな」
  ひしゃげた看板に背を向けてまた歩き出す乾史。その背中に、興奮した様子のサブロウが話しかけてくる。
「やっぱしコインが重い分割り増しになるんすかね。それとも単純に値段の分五倍のパワーとかだったりして。それなら気にいらねえ連中は百人いたってボコボコに、」
「うっせえ!!」
  看板の落下音に匹敵するほどの怒声。サブロウがびっくりしたように立ち止まる。
 
  拳に埋まった歯の欠片。朱い視界。銀色の月。
  脅えきった羊たちの眼。そう、自分は最初からこの群れのイキモノではなかった。
 
「あ……すいません……」
「―――オレの力の理由は、別にどうでもいいだろ。それよりホレ、早く次に行かねぇと弁当がさめちまうぜ」
「あ、ヤベェ!もう時間がねえ」
  慌てて早足で次の建物へと向かうサブロウ。犬神乾史は自分の掌をじっと見つめ……やがて、その後をついて歩き出した。暖かな正午。穏やかな春の風は街の様々な生活臭を乗せて、通りを吹き抜けてゆく。
 
 
「―――ふうん。よもやと思ったが…同族とはな」
  もちろん乾史達は、その風の届かぬ場所、先ほど看板が落下してきたビルの上で、二人の様子を興味深げに見下ろす男のことなど、知る由もなかった。
 
 
 
 

◆◇◆ 6 ◇◆◇

 
 
  結局、昼の配達が終わった後、ランチタイム後の皿洗い、夕方の仕込みまでサブロウは手伝っていた。乾史はと言えば、やることもないので近くのゲームセンターで古くさいシューティングゲームや、対戦格闘ゲームをやって時間を潰していた。ゲームをしている時は、乾史も年相応の中学生に見える。適当なところで切り上げた後、朱の店の裏口近くの地面に座り込んで、漠然と空を見ていた。建物で矩形に切り取られた、少しくすんだ青色の空。
  ……もともと、行く学校もなければ帰る家もない。
「男を教えてくれ、かよ」
  乾史は己の右掌を見る。先ほど握りこんだ百円玉は、いつもの通り跡形も無く消えて無くなっていた。乾史も、これがただの喧嘩テクニックなどで無いだろう事は、とうに気づいていた。だが。
 
”じゃあ、なんなのか”
 
  そこで思考を止める。それ以上先には踏み込んではいけない気がした。ポケットをまさぐる。そこから出てきたのは、いつもの百円玉ではなかった。もう一回り大きい金色。五百円玉だった。右手にとると、またもてあそび始める。 掌の上で踊る金色。あの時のはたしか、同じ五百円でも銀色のだったっけな……。握りしめようとする。
 
  チカヨルナ、バケモノ
  コナイデクレ、タノムカラ
 
  ……掌が固まる。五百円玉は乾史に握られるのを拒絶するかのように、鎮座していた。
「何が男らしいか。オレなんかにわかるわけねえじゃねぇか……」
 
 
 
「はいおつかれさん!これ今日の日当」
  陽も大分傾いたところで、朱が茶封筒を持ってやってきた。サブが礼を言い、丁寧に押し頂く。と、朱がなにやらサブロウと乾史を睨んでいる。
「な、なんすか?朱姐さん」
「サブぅ。アンタ最近、ちゃんと風呂入ってる?」
  顔を近づけ、くんかくんかと匂いを嗅いだ。サブロウは思わず後ずさり、明後日の方向を向きながら答えた。
「いやその。最近は忙しかったんで、公園の水で洗ってるだけです」
「それで髪と肌にそんだけ艶があるんだから、アタシ以外の女が聞いたら嫉妬で発狂しそうね。若いってのはこれだから」
  深々とため息をつく朱。そのうちいくら手を入れても追いつかなくなるのよ、などと些か不吉な発言をしつつ、朱は胸のポケットからチケットを二枚取り出した。
「うちの知り合いが経営してる、カプセルホテルのサウナのタダ券よ。どうせアタシは行く暇ないから、アンタと、そこの小汚いのと一緒にいっといで」
  誰が小汚いだ、と激怒する乾史をスルーして、朱はサブロウの手元にチケットを押しつける。
「あんまし汚いヤツにうちの店に出入りされると困るしね」
  ぱちりと片目を閉じて、サブロウの額を指で弾く。ありがとうございます、と丁重に礼を述べつつ、サブロウはぽそりと漏らした。
「でも、どうせなら現金で渡してくれた方が…」
  風呂はその、あんまり好きじゃねえんで、などと口ごもる。じろりとひと睨み。
「カネで渡したらアンタ絶対ため込むだろ」
  サブロウは反論出来なかった。
「とにかく風呂に行ってきなさい。でないと明日から出入り禁止だかんね」
 
 
 
「っは――――!やっぱ風呂は命の洗濯だねえ!」
「コラ坊主!風呂に飛び込むんじゃねぇ!」
「あっ、スイマセン…」
  先に入っていたご老人に一喝されて、乾史は頭を下げた。手ぬぐいを畳んで頭に乗せて肩までつかる。そして、湯船の中で手足を思いっきり伸ばした。
「あ゛〜〜〜〜〜〜〜〜〜……」
  後頭部あたりでどくどくと脈打つ己の血管を感じながら、乾史はとろんとした眼で天井を見上げた。駅の裏側、様々なホテルが建ち並ぶ一角。サウナ、大浴場を備えたカプセルホテルの中に、乾史達は居た。ちなみにこの下の階にはマッサージチェアとテレビ。さらに下がカプセルホテルとなっており、終電を逃したサラリーマンや、夜のお仕事に従事する人々の骨休めの場になっている。朱にもらったタダ券だと、この浴場とマッサージチェアだけが使える。ねぐらで飯を摂った二人はここで数日間の、文字通り垢を落としに来たのだった。
「んあぁおぁあ」
  聞き取り不能のおめき声を発しながら、首をごきごきと鳴らす乾史。押しかけ用心棒の際にシャワーを使ったりしたこともあったが、風呂となると実に数ヶ月ぶりだった。ほどよく体が温まったところで一旦湯船から出る。入る前に一度体を流してはいたが、その程度では路地裏生活でこびりついた垢は落としきれるものではない。備え付けのタオルとボディソープを風呂桶に放り込み、垢の殲滅に向けて決然と洗い場に向かう。途中、打たせ湯に寄り道し、首筋と肩を打たせることしばし。胡座を組んで目を閉じるその様は、どう見ても人生に疲れた中年のオヤジさながらの仕草だった。
「って。お前何やってんだよそんな端っこで」
「あ、アニキ……」
  見れば、洗い場の一番端の隅っこで、まだ湯船にも入らず体を洗っているサブロウが居た。妙にこそこそと人目を避けている風である。
「せっかく銭湯に来たんだからこう、でけぇ風呂でぐあーっと手足を伸ばすのがスジってもんだろおい」
  打たせ湯から出て、のしのしと近づく乾史。
「あ、いえ。あっしは別に体さえ洗えればそれで」
  なぜか後ずさる。濡れそぼった髪を振り乱しながら、とっさにタオルと両腕で体を隠す姿は何というかこう、第三者の視点では教育上大層よろしくない気がした。
「かー、まったく肝っ玉のちいせえヤツだな。小学生じゃあるめえし、今さら生えてるの生えてねえのでからかうような事するかい」
「いや、そういうんではなくってですね…!」
  頭に血が昇っているせいか、普段よりなおテンション高く、乾史が絡む。一方必死に胸元と腹の下にタオルを巻き付けてもがくサブロウの姿は、ここが男湯でなければ通報ものの光景だった。
「ええーい、風呂場で前を隠すようなヤツに男が語れるか!ほれ脱げ、ぬーげ!」
「や、やめてくださいって…!」
  完全に修学旅行中の中学生の悪ノリだった。ささやかな抵抗もむなしく、タオルは乾史の手にはぎ取られてしまった。
「かっかっか、じゃあ背中でも流してやろう……って、おい」
  その手が急停止する。その視線が、ある一点に釘付けになっていた。
「何だよ、それ」
「あははは……。見られちまいやしたね……」
  力なく笑うサブロウ。その白い背中には、いくつものミミズが這ったような疵痕が浮かび上がっていた。
 
 
 
  この雑居ビルに入っているカプセルホテルのささやかなメリットは、最上階に位置しているということだった。浴場のおよそ四分の一、湯船の真上がガラス張りになっており、昼であれば空を見ながら湯につかることが出来る。しかしすでに陽が落ちた今は、ガラスは浴場が光を反射し、浴室から外を見ることは出来ない。体を洗い終えた乾史は、サブロウと並んで湯につかりながらぼんやりとガラスを見上げていた。天井に映った自分の間抜け面と眼が合って、なんとなく中指を立てて突きつけてやる。
「たいして珍しい話じゃあありやせん」
  そう前置きして、サブロウはぽつぽつと口を開いた。
「あっしの両親は、あっしがまだガキの頃に死んじまったんでさ」
  東京にほど近いとあるアパートで、父と母と、幼いサブロウは暮らしていたのだという。父はなかなか定職に就けず、不安定な日雇いの肉体労働の仕事で食いつないでいた。母親もパートで昼夜働いており、お世辞にも暮らしは裕福とは言えなかった。だが、それでも当時のサブロウは自分が生活に不自由していると感じたことはなかった。ごく普通に小学校に通い、近所の子供達とも仲が良く、物覚えの良いサブロウは両親の自慢だったという。だが、その幸せな生活は、ごく危ういバランスの上に積み上げられたものだった。ある日、父が仕事中に事故に遭い、亡くなった。まともに睡眠を取らずにきつい肉体労働をし続けた疲れによる、高所からの落下事故だった。そして、父が亡くなると、生活の負担は母に全てのしかかった。通常、こうした事態に備えてたとえば生命保険や公的な扶助という制度がある。だが、サブロウの両親は、なぜかそれらに加入したり、頼るということがなかった。以前にも増しての重労働に、母親が病気になり急逝するまで九ヶ月。今にして思えばずいぶんあっけないものでしたね、とサブロウは抑揚をつけずに言った。
「ちょっと待てよ。フツー、そこまでキツけりゃ誰かを頼るくらいはしてもいいんじゃねえのか。親戚とかいなかったのかよ」
「―――親戚、ね」
  はは、とサブロウが乾いた笑みを漏らした。その口調と、いつもとは違う大人びた表情に、熱い湯船の中にもかかわらず、乾史の背中に冷たいものが走った。
「どうもね、ウチのお袋と、お袋の実家の仲があんまり良くなかったみたいでさあ。親父は親父で早いうちに親兄弟と死に別れてたみたいで。詳しくはわかりませんが、頼れる伝手はどうもなかったみたいですね」
  両手を組んで湯船に沈め、握りこんで水鉄砲を飛ばす。
「あとはまあ、この街のガキには良く聞く話でさ。金無し、身よりも無し。これできちんとした施設に引き取られればまた違ってたんでしょうがね。あっしが入ったところが、これまたヒドイところで」
「ヒドイって……どんなだよ」
「昔はきちんとしたトコだったらしいんですが。ああ言うところは完全に閉鎖された世界なものでね。所長が代わったとたんに地獄になった、って施設の先輩は言ってましたよ。体罰だの説教だのっつう名目のストレス解消があちこちでされてまして。あっしなんかは集中的にヤラれたほうじゃねえですかねえ」
  見ず知らずの他人の情報のようにサブロウは語った。
「じゃあ、背中のキズは、そん時に……」
「……施設の保育士に何人か変態ヤロウがいましてね。こっちが泣きわめくとよろこんでますます殴りつけてくるって手合いでさあ。悔しいから途中から意地でも声をあげないでやりましたけど」
  ざまあみやがれっすよね、とサブロウが笑う。
「で、ある日とうとうあっしも忍耐の限界にキやしてね。保育士の股間を思いっきりけっ飛ばして、そのまま着の身着のままで脱走したんでさあ。いやあ、あれは気持ちのいいもんですねえ、自由を手に入れるってのは。そんでこの街に流れて来て、どうにかこうにかメシを食いつないでるってわけです」
  良くある話でしょ、とサブロウは締めくくった。気安く相づちを打つことは乾史には出来なかった。二人とも無言のまま、蛇口からどばどばと流れ落ちるお湯を、たっぷり二分は眺めていただろうか。乾史はふと、自覚せぬままに口を開いていた。
「……でもよ、それじゃ」
  きつくねえのかよ。金は足りるのかよ。この暮らしをいつまで続けるんだよ。接ぐべき言葉はいくらでも思いついていたのに。
「さみしくねえのかよ?」
  気がつけば、そんなことを、聞いていた。サブロウは虚を突かれたように、二三度睫毛をしばたかせた。
「さみしくは、ありません」
  呟く。その声は、小石のように小さく、頑なだった。
「アニキだって、そうやって一匹狼で生きてきたんでしょう?」
「それは、」
  オレには力があったから。力があったから、一人で生きられた。力があったから、一人でしか。
「……それに、さみしさなんて感じてるヒマはありゃしません。こう見えても食い扶持稼ぐのに忙しいですしね。金が余ったら本を買いたいですし」
「本?」
  乾史は今朝、サブロウのねぐらに積み上げられていた種々雑多な本を思い出した。
「もしかしてお前、アレ全部読んでるのか!?」
「はい。まあ、読んで何がどう、ってわけじゃないんですが……。でも、きちんと勉強して。高校は、今からじゃ無理かも知れませんが。大検をとって大学に行けたらって思ってやす」
  サブロウは湯船につかったまま、上を見上げた。
「この街は、光が強すぎて。こうして野良犬みてえに地面を這いずっていると、何がキレイなものか、何があったけえもんかがわかんなくなっちまうんでさ。あっしもここに来てそんなに長えわけじゃありませんが。そういう、ちょっとキレイな光とか、見せかけの暖かさに飛びついて、ヒドイめにあった人を、随分見てきました」
  愛してくれる人を求めてやってきた三つ年上の少女は、優しくしてくれた男にドラッグを教え込まれ、この街から姿を消した。一旗揚げようと海外からやってきた気のいい外国人の兄貴分が、ある日警察に連行されているのも見たのだ。
「星みてぇなもんでさ」
  サブロウは天井を指さした。
「いまはガラスに光が反射して見えやしません。ここを出ても、今夜は曇りですから、多分見えないでしょう。でもだからと言って、星が消えてなくなっちまったわけじゃありやせん」
  見上げたまま。その視線の先は、乾史の想像もつかないほど先を捉えているのだろうか。
「アニキ。たしかにあっしは、アニキみてえな強い力は持ってやしませんし、学校も小学校までしか行けやせんでした。でも、あっしはこの街で、なんとか自分だけの星をつかみてぇんです」
  だから、今は自分の出来るところまで、昇ってみようと思っています。そうサブロウは言った。
「もう、あっしはオトナを頼るのはやめたんでさあ。アニキみたいな一匹狼にはなれねぇかも知れません。でも、ゴミを漁る野良犬だっていい。地べたをはいずり回っても辛くねえです。いつか、光を手に入れるまでは」
  その言葉は、遠くを目指し、かつ、周りに何も近づけない。
「犬が星を見上げるのは、悪いことなんでしょうか」
  乾史には、それに応える言葉がなかった。
 
 
  ―――オレは。
  何のためにこの地べたをはいずり回っているんだろう?
 
 
 

<<back          next>>